>>229

士・農工商・穢多非人(読み)しのうこうしょうえたひにん
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/士・農工商・穢多非人-1542795
賤民

 このような封建的身分は明治維新の改革で廃止された(四民平等)。しかしあらたに華族・士族・(卒族)・平民
という身分関係がつくられ、その根本的廃止は第二次世界大戦後を待たなければならなかった。とりわけ旧賤民身分、
とくに旧穢多身分であった人々に対する差別は、その後も厳しく存在した。身分制度が再編成されたのは1869年(明治2)
であるが、旧賤民身分の人々が「平民」に編入されたのは「賤民解放令」が布告された1871年であった。彼らは従来の
平民と区別され「新平民」という呼称が用いられることが多かった。旧賤民身分の人々は法的には平民となり、自由民権運動
が発展する折から、彼らのなかから「解放令」を根拠として平等を要求する動きが現れた。大審院判決も彼らの祭礼行事
への参加などの要求を支持する判決を出した。しかし、明治政府は自由民権運動を弾圧し、大日本帝国憲法を中心に、
絶対主義的天皇制を確立させた。政府がいったん切り崩そうとした大地主を頂点とする半封建的な農村の構造を温存したの
で、小作人の地主に対する経済外的強制などの隷属性は維持された。また、家父長的「家」制度が確立されたことによって
女性差別が法的に存続することとなり、これらが絶対主義的天皇制の有力な支柱となった。こうした反動化は封建的身分に
起因する社会的身分差別の撤廃をすこぶる困難にした。旧賤民身分の人々への差別も存続し、大審院判決も彼らの要求を
退けることが多くなり、民衆の間でも「新平民」という呼称がいっそう差別的に用いられるようになった。こうして
大日本帝国憲法の制定前後に部落問題は社会問題化した。1907年(明治40)前後から(明治末以降、官庁を中心に「細民部落」
が用いられた一時期を除き)「新平民」にかわって「特殊部落」の呼称が主流となった。この呼称も侮蔑(ぶべつ)的に使わ
れることが多く、差別と偏見の残存の厳しさを示した。[成澤榮壽]