所属する博物館の土器を手にする甲田さん
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同館にある、帝京大学八王子キャンパス(大塚)の下から発掘された遺跡
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 縄文時代(約1万5千年〜2千数百年前)のものとされる、竪穴式住居や野生動物を捕獲するための落し穴などが、多摩ニュータウンでは八王子市街地や近隣の府中市などと比べて数多く発掘されているという。ニュータウンエリアは当時も「集合住宅」地だったのか――。

 同ニュータウンは、稲城や多摩市から町田にまたがる3千ヘクタール近くに及ぶ集合住宅地などを指し、市内では南大沢や堀之内などが含まれる。

 その開発に伴って行われている発掘調査では、縄文時代のものとされる、竪穴式住居やシカやイノシシを捕らえるための落し穴などの遺跡が現在までに960カ所以上発見されているという。

 考古学を研究する、大塚・帝京大学総合博物館の甲田篤郎さんは「その数は周辺に位置する、八王子市街地や府中・調布などよりも多く密集しており、当時たくさんの人が暮らしていたと推測できます」と話す。

■水源が理由

 ではなぜ、多くの人が住んでいたのか――。

 甲田さんによると、その理由の一つに水源に恵まれていたことが挙げられるという。現在のニュータウンがあるエリアには、多摩川や大栗川などの「元流」となる水場が周辺地域よりも数多く点在していたことから、水を求めて動物たちが、そしてそれを捕えようとする人々が暮らすようになったと思われる、と甲田さんは指摘する。

■縄文以降は平地へ

 ただ現在、ニュータウンに多くの人が住むのはその「名残」ではないと甲田さんは笑う。

 生活様式が変化し、食物を得る手段が、狩猟型から農耕を営む形へと変わっていったことから、縄文時代以降は、起伏に富むニュータウンエリアの多摩広陵地よりも、田畑を耕すのに適する、八王子市街地などの平地へと人々が移り住んでいったと考えられるのだという。「平安時代には、現在の府中に今でいう東京都庁のような『役所』があり多く人が住んでいたようです。その頃のニュータウンエリアには遺跡から見る限り、瓦をつくる職人などが多くいたみたいですね」と甲田さん。

■これからの指針に

 多摩ニュータウンが産声を上げたのは1970年代初頭。高度経済成長期を迎え、地方から都心に人が流れてくるようになり多摩地域の居住環境を整える目的などによって開発が進み現在に至るが、甲田さんは「私たちの足元には縄文時代以降の人々の痕跡が埋まっており、それら先人たちの生活を学ぶことはこれから街づくりを進める上での指針の一つになってくれると思います」

タウンニュース八王子版 2019年3月21日号
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