【三重】熊野灘とヤマト王権つなぐ資料…1950年代に見つかった土器、邪馬台国の有力候補地「纒向遺跡」出土の土器と同じ材質
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三重県大紀町で1950年代に発見された土器の破片。いずれも奈良県など畿央から運ばれた可能性があるという=三重県大紀町錦
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190531002332_comm.jpg
三重県大紀町で昭和前期に出土した土器の破片の中に、奈良県の纒向遺跡で出土した土器と同じ材質のものが含まれていたことが専門家の調査で分かりました。
熊野灘沿いの地域とヤマト王権とのつながりをうかがわせる貴重な資料として注目されています。
熊野灘に面した大紀町の錦地区には、昭和30年ごろに地元の畑などで中学生たちによって採集された土器の破片が数千点、保管されています。
この破片について奈良県桜井市にある纒向遺跡の研究をしている桜井市纒向学研究センターの橋本輝彦統括研究員が調べたところ、このうち20点は纒向遺跡で出土した土器と同じ粘土を使って作られたものだったことが新たにわかりました。
また、土器の口の「へり」とみられる破片には近畿地方で出土している3世紀から4世紀にかけての土器と同じ特徴も見つかったということです。
纒向遺跡は、3世紀から4世紀にかけての大規模集落の跡で、ヤマト王権の中心地とされ邪馬台国の有力な候補地のひとつともされています。
纒向遺跡の周辺で作られたとみられる土器が熊野灘沿岸で見つかるのは今回が初めてで、今回の調査結果は熊野灘沿いの地域とヤマト王権とのつながりをうかがわせる貴重な資料として注目されています。
NHKニュース 05月31日 20時01分
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20190531/0004968.html
三重県大紀町教育委員会は31日、熊野灘に面した同町錦地区で1950年代に見つかった土器の破片約20点が、卑弥呼が治めた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め〜4世紀初め)から出土した土器と同じ土質とわかったと発表した。ヤマト王権の東西交易を裏付ける貴重な資料だという。
約20点は甕(かめ)や高坏(たかつき)などの破片で、海岸部に位置する名古遺跡(約4千年前〜江戸中期)などで地元の中学生らが収集した。いずれも近畿中央部に起源がある「庄内式・布留式(ふるしき)」系の土器片とされ、同町教委が保管。存在を昨年知った桜井市纒向学研究センターの橋本輝彦統括研究員が今年2〜3月に調べていた。
調査の結果、橋本さんは「ヤマト王権の伸長が著しい時期の土器が畿央から持ち込まれた」と判断。「錦地区で発見されたことで、周辺は有力者がいた東西交易の拠点港だった可能性がある」と指摘し、「土器が持ち込まれるくらい畿央と密接な関係性があったと思われ、相当数の人々が行き来していたのではないか」と述べた。
大紀町錦と桜井市は直線距離で約60キロ。土器片は同町錦支所で一般公開されている。問い合わせは町教委へ。(安田琢典)
朝日新聞デジタル 2019年6月1日03時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM504HFYM50ONFB00V.html 場所が特定されると京都より京都っぽい町が増えんのかな 肝心の九州との繋がりはどうなん?
伊都国とかの土器は見つかったの? >>7
やっぱり当時の人も卑弥呼は九州の人だと考えてたんだなぁ 俺はずーっと言ってるけど、
邪馬台国は九州の1国で、近畿にはすでにヤマト王権が幅をきかせてた。
邪馬台国はヤマト王権に対抗するために、魏へ使節を送ったんだと >>2
半島の古墳も土器も日本のより新しく数が圧倒的に少ない。 倭国田大乱後の3世紀に
鳥羽あたりから渥美半島への航路があったと思うな 日ユ同祖論
徐福、神武天皇説
君が代、かごめ歌、ソーラン節はヘブライ語説
日本にもキリストが来ていた説
日本に失われたアークがある説 大阪〜奈良桜井市〜伊勢の街道がすでにあったと思うわ
纏向は交通の要所であり各地から女王への貢物が集まった たぢから「へへ〜ヤマト国の姫巫女様の使いで来ましたたぢからでごぜーますだ」
魏の官吏1「なんて書くんだ?」
魏の官吏2「こいつら蛮族だから文字なんてねーよテキトーでいだろ」
魏の官吏1「じゃ蛮族らしく侮蔑表現を入れて邪馬台国、卑弥呼、都市牛利と」
マジでこんな感じだったと思う、 倭国は海洋民族のイワシを追う船上生活。
沖縄〜千葉
九州〜新潟あたりの海岸が拠点。
なんの驚きもない。 邪馬台国がどこかは知らんが
奈良に最大の中央集権国家があったのは確か >>1 が邪馬台国論争にふたたび纒向遺跡を浮上させたいのは分かったが、
自 分 の 言 い た い こ と に 持 っ て い く た め に 朝日 と NHK の複 数 を ソ ー ス に 使 う と か !
完璧なルール違反だろ? オマエさっさと記者ヤメロ! 記者やめろ! 海渡って中国まで行き来したり朝鮮とも頻繁に交流してるのに日本列島の距離で交易してないわけないと思うんだけどそんなスゴい発見なん? 大阪まで30キロ
伊勢、大紀60キロ
桜井から海までの距離
海まで行くのに二番目に近い
大紀の海から和歌山南部に航路があったんじやないの >>4
済州島虐殺事件や保導連盟事件の後の
密入国の事ですか
分かります >>20
畿内説に歯向かう地域は無いと思ってたら
九州が煩いから封じ込めに来てるだけ 新札の渋沢栄一は、統一協会の文鮮明にそっくり。
https://i.imgur.cOm/rQj5D3O.jpg
新札に文鮮明とかジャップの終わり方、半端ないわw
p 徐福なんてたんなる詐欺師だと思うけど
何故そんなにロマンを感じてんだ?
巨大な何かに抵抗する憧れか。サヨク臭い 纏向遺跡は卑弥呼とは一切関係なし。大体が、日本の国史である日本書紀にも古事記にもないのはおかしい。 邪馬台国があったとされる時代と
記紀が編纂された時代だと400年の開きがあるからな
今で言えば関が原の頃の話だ
しかも、邪馬台国には文字が無いとされる ヤマト王権
いつからこんなインチキ臭い表記になったんだ?
変な学者がしらないうちにどんどん記述を変えてないか? 土器に関しては5000年前の
縄文土器のほうが明らかに技術が高いけど
https://youtu.be/3rNm4bUvxII?t=948 2重構造を調べていくと、地域によっていろいろ意外な特徴があることがわかる。
北海道・東北・沖縄の人達は当然、縄文人の特色が出ます。
また西日本の人達は渡来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。
100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
そして関東地方にゆくと縄文系の特徴が入ってきます
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html 誰か、邪馬台国なるものは存在しなかったことを証明しろよ またゴミ拾って邪馬台言ってんのか。
相変わらず馬鹿だな近畿は 錦〜宇陀は神武の東征コースじゃん
当然行き来してたと思うよ ヤマト王権なんてねえから
九州太宰府が倭国の首都でそっから出向してただけだよ 毎回邪馬台国の有力候補地ってw定型文になってるやんw どうやって運んだんだろうなぁ・・・・たぶん海でしょうね
この時代、牛や馬による陸上輸送は無いに等しい(道路整備が必要)
しかし、瀬戸内海は群雄割拠していて、海上輸送も安全じゃなかったのです
大和王権の成立は、瀬戸内海の平定(神武東征)と軌を一にしており、
逆に言えば、こんな物資を運んでいたことこそが、大和王権の成立を物語るのです なんかもう皆好き勝手に言ってどうでもよくなってきた そこら辺で大和王権にとって重要な土が取れるんだよ。
平瓦を焼く土だよ。
これを運んでたんだと思う。 >>28
蓬莱(ホラ)国の扶桑(ウソ)を求めて東へ旅立った >>4
大阪(だいはん)
大韓民国(だいハンみんこく) >>48 死んだら黄泉(ヨタ)の国へ行くのですねw >>19
奈良県ヤマト朝廷はあんな奥地に突然3世紀後半頃から人が住み出す
それ以前は国家のかけらも無い
そしてオンドルが発掘された
そのオンドルも中国由来のもののようだが
俄然、ある民族が奈良県から日本の歴史は始まったと勢いづいている
オンドルと言えばそう朝鮮民族だ
何度否定されても朝鮮人が騎馬と共に襲来
騎馬民族ヤマト朝廷日本統一説をわめき散らす
日本は大陸では無い
馬がいようと騎馬戦術なんて使えないんだよ 大隅半島から潮岬へ
熊野から奈良へ
ヤマト政権は太平洋航路を抑えていたみたいやね
近畿→九州は
紀ノ川→淡路島→徳島→高知→
のルートがあったようだ >>16
津市から和歌山市に行くには奈良県を横断するのが近いと言う事実
>>23
奈良県真ん中から新宮あたりまでだと川下る方が早いと思うぞ >>45
中国にはあったので渡来人が漢字で何か書いた可能性はある
弥生時代に漢字はなかったのでヤヨイ時代と書くべきだなんて話は知らんし A 三重県大紀町
B 奈良県の纒向遺跡
土器に同じ粘土が使われたものがあった
ニュースはこれだけ。
珍しくもなんともない。「俺は今日ちょっと寝不足」だと言えばNHKが報道すんの?
わけわからん ・魏志倭人伝にしか記載がない
・日本側には史跡も民間伝承も卑弥呼や邪馬台国を示すものがない
・万葉集にも風土記にも一切なし
・仮に女王がいたなら何かかの形で祀られるはずなのに何もない。
・滅ぼされた場合でも呪いを回避するためにやはり祀られるはず。それもない。
・邪馬台国より古い時代の「徐福」を祀る神社は実在している。でも卑弥呼を祀っていた神社は存在していない。
最初から存在していなかった可能性が高いだろなあ・・・ 畿内説の連中はせめて狗奴国の位置を全員一致で確定してから議論に参加しろよな
だがこれで熊野は無くなった
敵対国家と交易があるわけないもんな? >>55
ほんこれ。
いい加減「邪馬台国の有力な候補地」って抜けばいいのに。 記紀の記述から類推するに
丹後〜近江〜尾張勢力があった。饒速日
もうひとつ
九州〜吉備があった。 神武
これらは同族だった。
それとはちょっと違う 出雲〜畿内勢力があった。
丹後勢力と九州勢力が出雲から畿内を譲り受けたかあるいは奪って統一王朝を作った
と言う話だと思うが いつまで寝ぼけとんねん
いまでも歴史修正主義者である中国人漢民族の行動を鑑て
魏志倭人伝に本当のことがそのまま書かれてると考える方が可笑しいことに気付け 熊野と大和のつながりと言ったら、熊野から大和に攻め入った神武天皇でしょ >>62
大和から僻地にわざわざ移住してくる理由は何なのかって話でしょ 確かにあの辺河内の凄い古墳でしか発掘されないような子持ち勾玉が発掘されてる。
しかも地名が東宮という。 元伊勢はヤマト征伐の兵站の跡
東海から山陰から吉備から攻め込まれたんだな この頃って丁度、天照大御神を伊勢神宮に移した時期じゃないの?
その周辺で大和と同じ土器が見つかっても何ら不思議じゃないだろう ヤマトは早くても3世紀以降の発祥
歴史に出て来る国が全てヤマトじゃないと気が済まない連中のメンタルは韓国半万年の歴史と一緒 >>68
倭姫がそんなところまで行ってたかだなあ
途中の瀧原宮までは来てたみたいだが まだ九州説信じてる朝鮮人の末裔いるのか・・・
学習しないねぇ。。。 >>62
だからこそ細道ではあっても大和と熊野灘との交通路は古代からあったと推測するな。 関東の土器が纏向の土器と同じ成分なら驚くが、奈良の隣県の三重県で出土した
土器だから同じ所で作られていても何も不思議とは思わない、逆に当然だろうな
と思うだけ。 こりゃ決まったわ。邪馬台国は畿内にあった。
そもそもが何で神武がわざわざ朝鮮半島から九州にやってきて
さらにそこから畿内にまで行こうとする?って話でよ。
それ以前からずっと続く、この国の首都がそこにあったのよ
それを倭国の住民は邪馬台国と呼んだ。 >>73
険しい山谷の連続で、しかも多雨地帯で地形の変化も激しい場所、熊などの危険動物も多かった
仏教が入ってきて、修験者たちが道を切り開いてからようやく熊野詣が生じた
んじゃないかなと思う(当然、神武の熊野から侵攻は作り話でしかない)
ゆえに、弥生時代〜古墳時代は和歌山市もしくは伊勢市周りだと思うけどな >>81
錦〜宇陀はだらだらしたなだらかな道だよ
途中に村も転々とあるので休息や食料も調達できる
最後に高見山を超えるのが大変なだけで >>82
村があるって、それはいまの話だろ(苦笑)
何故、当時も村があったと言える?
それはともかく、カシミール3Dなどで地形図を見てみればよい
大宇陀-大紀ルートでもR168やR169に比べるとやや低いとは言え
数百メートル級の山と谷の連続であることには変わりないよ >>83
伝承が残ってんだよ村々に
この村でで神武軍と何とか軍が合流したとか
この村で3か月休息したとか >>83
全然ちがうよ、車で走ったら分かるよ高見山まではほぼなだらかの道だよ。 熊野のコースはいったん踏み入ったらまず生きて帰れないなしか思わないけど、錦のコースは古き良き日本の里みたいな風景だよ。 神武はあの伊勢の荒磯にへばりついた貝を忘れるなと部下を叱咤激励してるんだよ。
遭難してあの貝みたいに岩にへばりついて生き延びたあの苦しみに比べたらなんぼのもんじゃいと
熊野を伊勢とは言わないし >>85
そりゃ車だからだろw
登山したことないのなら、一度山に登って降りてみればよい >>84
あと、伝承というが、そりゃ日本書紀を読める人がいればいくらでも伝承は作れるわな
平家伝説と同じ
そもそも大軍を道のない山越え谷越えなどさせるわけがない
それだけで疲れ果ててしまう
所詮、荒唐無稽な神話 まだ畿内説信じてる朝鮮人の末裔いるのか・・・
学習しないねぇ。。。 倭人伝は現代の出張報告書のようなものなので方角はあてになるが日数や里程は
数字を盛った可能性が高い。数字を大きくした理由は自分は非常に遠い異国に
行って来たんだぞと自慢したい気持ちと認めて貰いたい気持ちがあった訳だ。
従って信用出来るのは方角のみで里程や日数は無視しても良い。 >>1
土器片に書かれた文字は日付?
出土品に直接書いていいんだね。 >>89
斎王の行列でさえ伊賀越えしてるのに、軍隊なら余裕だよ。
熊野からだとどんな軍隊でも死ぬと思うけど 群雄割拠の瀬戸内海を、ハッタリと戦略で突破したジンムだったが、
紀伊半島の山に囲まれたヤマトは、なかなか攻略できなかったんだね
そりゃそうだよ 大和は穀倉地帯で、しかもホーム
九州勢はたった二年で瀬戸内海を横断したけど、アウェーで補給線が伸びきっている
これじゃ勝負にならん
どういう政治取引で、ヤマトがジンムたちを受け入れたのか、それが謎 >>95
はなっから計画されてただけだよ
海部氏の一族が熊野で待ち構えてるんだから 椎根津彦も瀬戸内海で待ち構えているし
ぜんぶおぜん立ての上に行われた事だ。 >>80
そこなんだよな。近畿説取ると
記紀を否定することになる。
卑弥呼は、九州四国一帯のどこかだろう近畿の一大勢力が複数の倭国を統治、大倭が大和になったと思う。 邪馬台国とヤマト政権は同じ時代?
天皇家もいたよね? >>77
そりゃそうだよ
東征とか統一の物語にすぎない
馬鹿九州は妄想で語るが >>99
大和政権は魏志倭人伝の時代よりずっとに後の話
記録に残る九州の地名がまるで合ってない。
そもそも魏は三国志ではあれだけ強かったけど50年にも満たない短期政権で
九州では、畿内と違って魏の前から交流してきた遺跡物がたくさん出てる。
魏は中国大陸の覇権争いに忙しく、日本中ををくまなく交流する暇はない。
昔から中国との交流があった倭種が、敵にならないよう交流しただけで
畿内説論者はいちいち気にしすぎなんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています