勝林寺にある田沼意次の墓を掃除する静岡県牧之原市の人たち=豊島区で
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 江戸時代中期の老中・田沼意次(おきつぐ)の名誉挽回の動きが盛り上がっている。菩提(ぼだい)寺である豊島区の勝林寺で5月24日に営まれた法要には、意次の領地だった静岡県牧之原市の関係者が初めて参列し「意次の真の姿を知って」と訴えた。意次生誕300年の今年は11月に同市で大名行列など大規模な「生誕祭」を開催。都内でもPRを行い、全国的な“意次再興”につなげようと意気込んでいる。 (宮崎美紀子)

 田沼意次は十代将軍・家治に重用され、わずか六百石の旗本から最盛期五万七千石の大名に出世した。商人からの税金の徴収、蝦夷地の開拓、貿易振興など経済に力を入れ、幕府の財政改革に取り組んだが、松平定信ら政敵も多く、失脚。長年、わいろ政治家の代名詞のように言われてきたが、近年の研究では幕府の財政を立て直した手腕が再評価されている。

 勝林寺の法要では、本尊の両脇に寺と牧之原市それぞれが所有する肖像画掛け軸が掛けられた。初めてのツーショットだ。窪田充栄住職(42)の読経に続き、牧之原市史料館の学芸員・長谷川倫和さん(34)が「意次侯といえば『おぬしも悪よのう』というイメージがあるが、実際は礼儀正しく、人の懐に入るのが上手な人。英明で教養豊かだった」と講演。田沼家の先祖を供養する同市・平田(へいでん)寺の竹中智厚(ちこう)住職(41)も法話を行った。

 地元では昔から意次は評価されていたそうだが、横山裕之副市長(62)は「教科書に悪く書かれ、大々的に宣伝しにくかった」と明かす。生誕三百年記念事業実行委員会の河野研司委員長(61)は二十数年前から名誉回復に取り組み、ゆかりの地の散歩ツアーや大名行列を行ってきた。「最初は地元の年寄りに『恥ずかしいからやめろ』と言われ、悔しい思いをしましたよ」と振り返る。

 勝林寺では九月二十三日に市所有の肖像画や歴代藩主の書画・書状、田沼家の家紋が入った什器(じゅうき)類などが公開される。十一月十六、十七日の生誕祭の前には東京スカイツリー(墨田区)のソラマチひろばで意次を紹介するイベントを開き、東京の人を呼び込みたいという。

 法要の後、市関係者は勝林寺の境内で意次の墓を掃除し、墓石に刻まれた家紋「七曜(しちよう)紋」を前に、「東京の人にも意次侯の功績を伝えたい」と決意を新たにした。

東京新聞 2019年6月2日
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