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【奈良】邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」を考えるセミナー 「神社のはじまりと纒向の王宮・王権」テーマに神戸大教授講演
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0001樽悶 ★
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2019/06/27(木) 22:47:10.95ID:QhyRUmgS9
http://www.makimukugaku.jp/hp/411.jpg

 邪馬台国の最有力候補地とされる桜井市の纒向(まきむく)遺跡を考える「第13回纒向学セミナー」(市纒向学研究センター主催)が7月13日午後1時半から、同市河西の市立図書館で開かれる。「神社のはじまりと纒向の王宮・王権」をテーマに、神戸大大学院教授の黒田龍二さんの講演などがある。

 同市辻地区では2009年、女王・卑弥呼(ひみこ)と同時代の大型建物跡が見つかり、黒田さんは建物の復元図を作成した。セミナーでは、黒田さんと同センターの寺澤薫所長との対談もある。

 入場無料だが、事前申し込みが必要。定員270人で先着順。問い合わせは、同センター。【藤原弘】

毎日新聞 2019年6月25日
https://mainichi.jp/articles/20190625/ddl/k29/040/512000c?inb=ra
0002名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:47:29.05ID:o7b3VCWB0
安倍友 上級絡み
犯罪揉み消し指示経路(殺人ドライバー 飯塚幸三&レイプ 山口敬之&あっせん利得処罰法違反罪 甘利明&世田谷一家案件)

安倍 → 北村滋 → 中村格 → 所轄警察(いたってシンプルw)

元官僚上級国民による轢き逃げ殺人事件、捜査現場にもやっぱり居ました
何故こんな一般的な現場検証に、警察官僚で安倍内閣情報官と
レイプ山口不起訴揉み消しでお馴染みの警視庁官房長が来ているんでしょうか?
異例中の異例捜査現場です
https://pbs.twimg.com/media/D6NmGHPUYAAS25K.jpg


毎日の様に高齢者が起こす交通事故は起きていますが、通常は即逮捕されています
未だに逮捕も無ければ捜査の進展も無く、人の噂も七十五日、ほとぼりが冷めるのを待っている状況です


因みに飯塚幸三氏のWikipediaは現在編集機能が保護ロックされており、
事故に関する事は一切掲載されていません
0006名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:52:30.88ID:ag7QT95R0
祀られてる神社がないのだから
実在せんのよ
中国の役人の誇張記録

刺青するのが使者の正装なんて
日本の何処にもないんだぜ?
0008名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:09.84ID:ZoXG1W3o0
>>6

原・縄文人と言われるアイヌは、普通に刺青をするな。
0009名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:17.25ID:j3QrVjOG0
俺の仮説



カササギは外来種として九州の北部の地域に留鳥として居る

カササギは地域に留まり繁殖する習性がある

魏志倭人伝には「其の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲 無し。」とある

なぜ、「鳥」ではなく「鵲」(カササギ)が倭国には居ないとあえて記したのか

魏が後に、倭国へ「鵲」を贈っていたと仮説するならば

生物学的なDNAの解析によって、鵲のルーツを特定できるのではないか

銅鏡などの錆びついた物証だけではなく

鵲が現在まで生き継いだ魏の使者ならば

邪馬台国の生きた物証としてロマンがある
0010名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:56:48.26ID:/BTjJ18/0
どこにあっても良いけどさ
なんか醜い鍔迫り合いになって来たな
0012名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:57:04.27ID:SqazxoKA0
刺青するのは漁労民じゃね
0013名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:57:46.11ID:91RjrROe0
神社

卑弥呼

天皇家

邪馬台国
0016名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:59:11.31ID:S7Asy6ur0
当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう

獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する

殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった

桃の種は大量の酒を作った跡だろう

卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線

纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう
0017名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 22:59:36.02ID:AuF7E2rY0
九州ってここって場所がないからな。
でもって卑弥呼の墓じゃねって騒がれた所がどう見ても自然の地形だったりw
0018名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:00:45.46ID:ReVCa6Hd0
>>16
そもそも殷はハプロタイプQで日本にはいない
0019名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:00:49.20ID:qfGI226n0
樽悶は邪馬台国スレ立て続けるのは止めれって何度言われたら分かるんだ?
0020名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:03:12.32ID:S7Asy6ur0
鳥居を潜り、井戸の水で身体を清め、鈴(鐸)を鳴らし神に祈る

神主は烏帽子を被り、神楽鈴を鳴らしお祓いをする

鳥居、井戸、水、清め、鈴、烏帽子
0021名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:03:56.54ID:JLJtYZQt0
人は記憶型と思考型に大別できる

魏志倭人伝にはこうも書かれてる
女王国から船で東南に1年行った処に黒歯国があるとね
黒歯国が近畿の大和政権だよ

だとするなら魏志倭人伝の日数距離は案外いい加減となる
0022名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:04:00.31ID:S7Asy6ur0
>>18
Qは日本人に1%くらいいるよ
0023名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:07:56.41ID:SqazxoKA0
多数決で奈良に決定
0024名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:08:25.47ID:tQ5j7czK0
邪馬台国なんて有るわけ無いと思うんだが
神武天皇がおられたのは2679年前だぞ
皇室が存在してるのに女王が存在するわけが無い
0025名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:08:37.06ID:K1qxYYdF0
邪馬台国なんて出典が魏志なのに、魏志の行路を無視して奈良だの近畿だの馬鹿じゃねえのw
0026名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:15:37.71ID:Ybg2cmdb0
>>当時の倭(後の日本)に、女王の都する邪馬台国(邪馬壹国[8])を中心とした国が存在

これだけ考えれば良いだけよ

神社仏閣の建立の歴史なんてみんなあやふやだぞ
0028名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:20:53.69ID:nbYeC9uS0
奈良って馬の産地なの
0030名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:22:19.98ID:S7Asy6ur0
四天王寺は創建当時から木造の鳥居があったらしい
鳥居は永仁2年に忍性によって従来の木造から石に作り替えられたという文献の記述が残っている

最古級の寺に鳥居
中々興味深い
0031名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:23:56.94ID:AuF7E2rY0
九州説ってどっちかというと北九州説(熊本辺りまで含む)が多い感じだけど、
それはそれで魏志の記述から考えるとすげー不自然。
宮崎鹿児島辺りならありうるかなとは思えるんだが、余り宮崎説の奴見ないのよね。
0032名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:43:39.50ID:9CbC5TJ0O
日向が無いことないのよ、名前がもろだし、薩摩が投馬で日向が卑弥呼の都、出身地ってのも。金印が見つかったのが福岡だから、帥升或いは前がここらのドンだから、落ち着けばやっぱ北九州でしょ、半島に近いってのは重要なのよ、大分にも国があっただろうし、近畿は遠すぎ。
0033名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:44:39.43ID:JLJtYZQt0
>>21 の続き
話の流れからすると邪馬台国はお歯黒をしてなかったことになる
ハイ、畿内説おわった
0034名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:48:00.32ID:9CbC5TJ0O
一年もかかるとこパプアニューギニアだろ、裸だろうし。
0035名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:48:26.17ID:7RHW7JpP0
>>6
宇佐のやつじゃないのん?
0036名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:53:49.51ID:7RHW7JpP0
>>32
北九州ならもうちょい行程簡単で往来多いと思うんで
中部九州説だな 熊本宮崎
0037名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:55:35.99ID:ru3P91xc0
刺青するのは海の民であって
陸の内側の人たちはしてなかった
0038名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:55:54.63ID:2xcEKYWq0
確かにさ。
神社をお参りするときのにれい二礼二拍手一礼って完全に誰かを呼ぶような動作だもんな。
高床式の建物の前に立って卑弥呼に何かお願い事をするときに、聞こえるようにそうしたことから神社は始まったのかもしれない。
0039名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:56:40.33ID:ru3P91xc0
実際、機内の人たちは刺青してなかったでしょ
なのになんでヤマタイコクが畿内になるのよ?
0040名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:58:14.39ID:7RHW7JpP0
畿内はただの荒しだし、相手しても面白い事も
ないと思うぞ
0042名無しさん@1周年
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2019/06/27(木) 23:59:20.26ID:JojI+BQC0
まあ行程的に九州だろうなあ
ただ魏史倭人伝の後編は適当な創作だと思う
0043名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:04.52ID:aZS5aVDI0
学会ではほぼ畿内説で固まっているのですが、
民間議論の盛り上がりの為に5%の変わり者の学者があえて九州説に付いています
0044名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:31.88ID:piWxzJMP0
邪馬台国に認定されてなにかいい事でもあるんかなあ
観光客が増えるんかなあ
0045名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:43.53ID:qojRXB6fO
祀られてるよ神社に、ニキギって後のヤマトの名前とか言葉に繋がらないだろ?変えられてんだよ。何々の命に。
0046名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:00:44.64ID:eXSLx7HL0
纒向遺跡から東海と吉備の土器が大量に見つかっている
どちらも黥面文化

黥面文化ではない畿内に黥面文化の邪馬台国、ヤマト政権ができた
侵略によってできた国ということ
0047名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:01:33.80ID:piWxzJMP0
奪い合いののしり合うくらいだから相当いい事があると考えていいのかな?
0048名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:02:30.31ID:VoYE5UAL0
>>39
時代によるよ。
2世紀ころはむしろ九州に刺青の風習はなく、吉備や東海地方に刺青の風習があったらしい。
蝦夷やアイヌなんてずっと刺青の風習を守ってたしね。
0049名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:04:40.21ID:7em7IBqX0
ヤマト第一王朝をむりやり邪馬台国にこじつけている感じが強すぎ
日本の考古学者の邪馬台国&卑弥呼愛は異常
0050名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:04:42.82ID:VoYE5UAL0
>>46
それも邪馬台国畿内説の否定にはならないよね。
だって、魏志倭人伝にはちゃんと倭国大乱が書かれているし、卑弥呼が各豪族の連合体の象徴的存在だって書かれている。
つまり、畿内が最大勢力だったわけではなく、政治的力学の理由でたまたま畿内に中心を置いたって説明ができてしまう。
0051名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:06:01.42ID:VoYE5UAL0
>>49
いやいや、むしろ邪馬台国=大和国を否定する方が無理があるでしょ。
卑弥呼と天照大神というどちらも女性の始祖を持つという偶然がありえるか?って話だよ。
0052名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:09:48.86ID:qojRXB6fO
奈良の山奥に都があって卑弥呼がいてね、それを、これぞ会稽東治の東なり!なんて表現しないのよ、陳寿の感性を疑うよ。目の前の海の向こう西が長安だからよ。近畿の感性はよっぽどだよ、方向間違えてるだから
0053名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:10:51.41ID:IZ5NS9Yr0
唐書に倭と日本は別の国って書いてるし何より邪馬台国=大和朝廷なら親魏倭王の印エピソードが全く伝わってないのおかしい
0054名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:00.47ID:JZlWfJKL0
>>47
世界遺産wとか考えてる地元民もいるだろうけど
戦前の天皇万世一系の基地外さんじゃないかなあ
0055名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:39.15ID:LsW4+6G+0
魏志倭人伝で邪馬台国そのものに対する記述は少ない
比定するのに使える情報は
・ヤマトという地名
・7万戸が可能な広さ
・卑弥呼の居住していた大型建造物
・昼は人が造り、夜は神が造ったといわれる径100歩(150メートル)の墓
・九州北部から2ヶ月の距離
これに合う場所を探せばいいんだよ
0056名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:13:45.44ID:7em7IBqX0
発掘された纏向遺跡は全体の1割にも満たない、今後の発掘に期待
くれぐれもゴッドハンド事件の二の舞や某国のように気にくわない遺跡をブルドーザーで破壊したしないように願う
0057名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:17:06.68ID:JZlWfJKL0
「神社のはじまり」

について意見ほしかったんだがなw
0058名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:17:43.32ID:VoYE5UAL0
>>52
九州説は当時の日本を過小評価しすぎなんだよね。
我々が想像する以上に邪馬台国の文明は発達していたんだよ。
記録に残っていないが、倭国は公孫氏の遼東半島と交流を持っていたはずだ。
公孫氏が魏に滅ぼされてやっと魏への道筋がつながったので、朝貢に出向いたことが魏志倭人伝に記載されるわけだ。
だから、邪馬台国はかなり大陸の情勢に詳しかったと思われる。
警戒もしていた。
だから、魏の使者である張政は邪馬台国の本当の首都まで行くことはできなかったんだよ。
当然、首都の場所も張政には嘘の場所を説明したはず。
その結果が、方角も距離も滅茶苦茶な魏志倭人伝の邪馬台国の場所の記述になったんだよ。
あれを真に受けてはいけない。
0060名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:18:56.13ID:qojRXB6fO
五王がやらせた遺跡だよ、半島支配の協力業者達への利益配分だろ。
0061名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:21:52.31ID:eXSLx7HL0
池上曽根遺跡には弥生時代最大級の神殿跡が見つかっているな
鳥トーテムもあるし、神社のルーツに近そう
0062名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 00:23:25.91ID:yKq1wOTP0
町おこしにはいいよね。
0063名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:24:26.33ID:eXSLx7HL0
池上曽根遺跡
高床式神殿、鳥トーテム、巨大井戸、銅鐸(鈴)
今の神社のアイテムが揃っている
0064名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:29:49.76ID:0mHWy1QV0
>>32
三輪山の山頂に祀られている日向御子が卑弥呼で初代皇后だよ
0065名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 00:31:44.74ID:qojRXB6fO
周り海の九州、本州、神社の始まりなんて海からに決まってんじゃないかよ。まず人が着くのは海岸だよ。で海岸に家建てんだよ、で漁の安全祈願が最初だろ
0066名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:35:36.82ID:IlDEWDYB0
大神神社の主祭神の大物主はニギハヤヒ

大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い


ニギハヤヒの天孫降臨時期
2世紀後半(倭国大乱)

ニギハヤヒの天孫降臨経路
三河→伊勢→熊野→河内(天孫降臨)→大和(纒向)



三河県豊橋市の石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある

大神神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている

実は三輪山の奥の院、三河県豊橋市の石巻山(神山(ミワヤマ))に向いているわけだな
0069名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:45:31.60ID:JZlWfJKL0
>>63
翡翠勾玉と朱もあるのか

高床って宗教的理由だよねえ
0070名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:45:58.10ID:LsW4+6G+0
>>68
下戸遺伝子は日本と中国南部(呉)に多く見られる遺伝子で
中国北部や半島にはほぼいない
倭人は呉の太白の後という記述にぴったり合うね
0071名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:48:35.56ID:HOFp+1uk0
>>55
そんなことより後の歴史だと思う
近畿に巨大古墳群が存在する事実だよ

都はここしかないだろ

そんな細かい木(記述)を見る必要ない
森を見れば簡単に分かること
0072名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:49:22.14ID:piWxzJMP0
>>70
日本は殷の風習を継承してたり、呉の太伯の子孫と言ったり、ユダヤの神殿を真似したり一体どこの末裔と思われたいんだ?
0073名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 00:50:30.97ID:qojRXB6fO
大体海の民が上陸して奈良を選ばないだろ、和歌山とか白浜とか、山奥行って生活する術を知らないだろ、追い払われでもしない限り。
0075名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:05:40.23ID:qb1IWXPY0
>>72
色んな民族が日本列島に渡って来てますから
0078名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:15:32.96ID:qb1IWXPY0
>>77
別々に国を作り、それが統合されて行ったんですよ
0080名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:20:38.74ID:JZlWfJKL0
>>79
その後九州土人に滅ぼされたけどw
0082名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:23:36.13ID:qb1IWXPY0
>>79
きっとそういうことでしょうね
遺伝子から見ても我々は色んな民族の末裔なんですからね
0083名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:26:08.76ID:tA/1Cz0i0
もう、病気やね。纏向が邪馬台国とかw
0084名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:32:16.02ID:Ft73GZhY0
>>63
高床式神殿らしきものは唐古・鍵遺跡にもある。
高床式には階段、梯子が必須だが
唐古・鍵遺跡から階段の一部が出土
0085名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:39:19.39ID:61lqtStI0
宇佐神宮を創建したのは纏向にある大神神社社家の一族
その大神神社の御神体である三輪山には日向御子が祀られている

大神氏にもっと注目するべきだと思う
0086名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:44:09.30ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(1)若狭地方の森羅神社

若狭地方は北九州・山陰・北陸などの地域と同様に日本海沿岸の古代日本の先進的地域であった。
若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれている。
弥生時代の水稲は朝鮮半島から直接に伝来したものであろう。
若狭地方は敦賀市から小浜市に渡る若狭湾に面した地方である。
湾内には敦賀半島、中外海半島、大島半島をはじめ数多くの入江や島が存在し、西隣は丹後国である。

当地方も新羅・加耶系氏族に係る伝承や伝説が多く、神社の祭祀氏族としては、
秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)が圧倒的に多い。
秦氏については古代中国の秦氏の移民説や加羅氏族説など、異説が多い。
当地の神社で新羅神社と標記される神社は現存しないが、 標記の方法を変えて新羅(しらぎ)信仰を
今に伝えている神社がいくつか残っている。
敦賀市の「白城(しらぎ)神社」(所在地・白木)、 「信露貴彦(しろきひこ)神社」(沓見(くつみ))、
小浜市の「白石(しらいし)神社」(下根来(しもねごり))などである。
これらに 加え「気比(けひ)神社」「角鹿神社」「須可麻(すがま)神社」なども 新羅・加羅系の氏族が祖神を祭ったといわれている。
当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、 いわゆる古代三王朝の内、二王朝、
即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、 越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。
この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。


http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/117_2.htm
http://miidera1200.jp/
0087名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:44:56.81ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社(2)若狭地方の新羅神社

社伝によれば、朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、
『神社誌』及び『遠敷郡誌』は「天日矛命の後裔が此国に留まり、其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。
地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。
『新撰姓氏録』は新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。
『記紀』によれば、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、 稲飯命は神武天皇の兄に当る。
従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

『福井県神社誌』には、「創立年代不詳。境内より縄文式土器の破片が発見されているから、 弥生後期(一、二世期頃)には祭祀が行われていたであろう」とある。
当社は式内社に比定され、 『越前国内神名帳』には「従五位白城神」と記載されている。
更に、橋本昭三『白木の星』によれば「白城神社は延喜式にその名を記しており、 昔、朝鮮半島に栄えた新羅の人達が、
はるばる日本海を渡ってこの白木の浜に上陸して住んだといわれる」と述べている。
この伝説は、一種の天孫降臨を示すものであろう。

『南条郡誌』によれば「古名考」に「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅明神あり是なるべし。 今庄も古く今城と書けり。
此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云。 此即古の叔羅(しらき)川なり。叔羅は即ちしらきなるべし」。
また『神明帳考証』には「吉従按白城宿禰を祭るなるべし。武内宿禰の孫也」と記載されている。

白城神社前の白城神社橋を渡ると大きな石の稲荷鳥居があり、白城神社の額が掲げてある。 鳥居の柱には「文政十三年庚寅歳四月上旬」と刻んである。
その左手には樹高33mの黒松の巨木がある。 境内の広さはおよそ一千坪。鳥居の下を過ぎ、二十段程石段を登った台地状の場所の西側に拝殿があり、
たくさんの扁額が掲げられている。台地状の場所の右手奥に二の鳥居(石の稲荷鳥居)があり、 鳥居の下から十段程石段を登ると本殿がある。
本殿は大社造のりっぱな建物。南向きである。 本殿の西側に末社等が祭られている。境内は白砂が敷かれ、清潔な感じがする。

神紋は菊。境内社は岩清水神社・春日神社・稲荷神社・蛭子神社・龍神社・日吉神社・伏見神社。

例祭は七月十五日。白木祭(新羅祭であろう)という。

新年祭・新嘗祭。

特殊神事として陰暦十一月上ノ卯日の前宵から餅を搗き、 これを薄い楕円形の小判形のものにして(古代神餅牛舌餅か)祭の当日暁方に神社へ参拝して撒く。
現今の新嘗祭に相当する。更には、能楽は白木祭の御能と称し有名である。能師は小浜方面より来る。

「当区において祭礼情景を観る時、往昔の自己の氏神祭礼に 官人・傭人等が賜暇を得て郷土に気休する時の事を想像される」(『敦賀郡神社誌』)
0088名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:46:19.94ID:7iRugczU0
三井寺 新羅神社考「新羅神社」への旅


福井県の新羅神社 (3) 信露貴彦(しろきひこ)神社(敦賀市沓見(くつみ)に鎮座)

沓見には久豆弥(くつみ)神社がある。地名の沓見は古くは久豆弥であったのであろう。
沓見は敦賀半島の付根の中心部にある集落である。円塚古墳・横穴式墳墓が数個所発見されている。
敦賀駅からは車で二十分位の場所にある。沓見のバス停の前を左折し100m程進む。
道路の突き当たりが信露貴彦神社である。神社のある場所は山裾で標高が高くなっている。
東北部には農耕地が続き、そのはるか遠くに山並が連なっているのが見える。
神社の左隣(南側)には前宮司の龍頭(りゅうとう)家の屋敷があり、 「龍頭一夫」なる標札が掲げてあった。
夫人に話を聞いたが、大変親切に説明をいただき、帰る時には柿などを土産に頂戴した。
龍頭家の座敷には信露貴彦大神・久豆禰大神・八幡大神の三神の掛軸と供物や狛犬などが飾られていた。
今の宮司は前宮司の弟さんとのことであった。宮司の龍頭家は新羅系の家系であることから、 信露貴彦神社は新羅系の神社である証拠とされている。
「宮司の龍頭家は系譜に新羅国王族の末裔ということになっておる」(『今庄町誌』)

神社は三百坪位の境内であるが、境内地の境を区切る玉垣などはないので、 林の中に鳥居や神殿が立っているような印象を受ける。
神社の入口には信露貴彦神社と刻まれた背丈の高い石柱や二基の石灯籠・石の台輪のある大きな明神鳥居が立っている。

祭神は瓊瓊杵(ににぎ)尊と日本武尊。 社伝によれば推古天皇十年(602)の創建とされる。古代の新羅系渡来人とのつながりが深く、
敦賀半島の北端にある白城神社とも同系の氏族が祭ったものである。

「当神社は、同村の久豆弥(くつみ)神社の姫宮に対し男の宮と呼ばれ、 共に『白木大明神』といわれた」(『敦賀神社考』)

『敦賀神社誌』によれば、「按ずるに当社は往昔より白木大明神と尊称し、 推古天皇十年に創立し延喜式神名帳には越前国敦賀郡信露貴彦神社とあり。
元は当区南方字神所(かんどころ)・下の森地籍に鎮座したというが、 現地に奉遷の年代は不詳」という。

『福井県神社誌・遠敷郡誌・南条郡誌』には、「或いは今庄堺村荒井の新羅神社ならん乎」。
『古名考』「一説日野川の源である夜叉ケ池に古へ新露貴神社あり。
故に此河の渡所を白鬼女村と云は信露貴彦の訛なりと云へ共然らじ」。
『古名考書入』「合波堺村山上の社なり按に合波のは白鬚神社なるに 荒井は地名も古文書に見え社名も同じなれば寧ろ之を採る可き乎」としている。
0089名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:50:03.32ID:KS/ur1ys0
普通の邪馬台国奈良説の本を読んだが
邪馬台国と大和朝廷の間には文化的、制度的な相違が大きいのは誰もが認めるところだが
どう繋がってるかの根拠がアヤフヤな印象を受けた。
0090名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:51:25.09ID:oGLskF9E0
『今庄町誌』では「敦賀郡松原村沓見にある信露貴彦(しろきひこ)神社は、 南条郡今庄町今庄の新羅神社・白鬚神社、堺村荒井に鎮座する新羅神社と同じである」と記載している。
従って、祭神も新羅明神(素盞鳴尊)であったであろう。神社は拝殿と本殿からなる。 拝殿及び弊殿は妻入り神殿、木造瓦葺、白壁造りで庇がつけられているが、建物は相当古い。
拝殿の奥に七.八段の石段があり、その上の台地状の場所に本殿がある。 本殿のある台地は、石垣が積まれている。
石段を登った所に四脚門(これも妻入り、左右に木造の透塀がある)があり、 その数メートル奥に本殿がある。
簡素ではあるが千鳥破風造の屋根をもつ木造建築である。 瓦屋根。境内社に神明社・猿田彦神社・金比羅神社・山神社がある。

例祭は五月四日。祈年祭三月二十一日。新嘗祭十一月二十三日。 五月六日の例祭日に行われる「王の舞」は天孫降臨の様子を表現したものともいわれている。
沓見祭といわれ、古代そのままの神事が行われるという。

金達寿は『日本の中の朝鮮文化』の中で「信露貴とはもちろん新羅(しらぎ)ということで、 彦とはその男ということであろう。
新羅を白木(しらき) ・白城(しらぎ)としたのはいゝほうで、 信露貴とはずいぶんめんどうな字をあてたものである」と記述している。

当神社も、明らかに渡来系の新羅神社であるにもかかわらず、祭神が天孫邇々芸命(高天原に天降った神)である。
邇々芸命は大山津見神の娘・木花開耶姫(神吾田津姫)と出会い、 海幸彦・山幸彦(天津日高日子穂手見命)など三柱の子神を産むのであるが、山幸彦の子が鵜茅葺不合尊であり、
孫が稲飯命である。天日槍の後裔が新羅国王の祖として祭ったということを示したものであろうか。
0091名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:51:54.16ID:KS/ur1ys0
まさかと思うが唐古・鍵遺跡が邪馬台国で纏向遺跡が狗奴国ってことはないんだろうか?
0092名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:52:53.76ID:oGLskF9E0
梅原猛

「中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。 私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、
出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。 『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。
これは新しい考えだ。 弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。
したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を
越の国の支配から独立させた。 出雲王朝の創立者は韓国系と考える。 その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。 (神話に出てくる)スサノオが
韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。 新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。
古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。」
0093名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:55:12.85ID:bxEqiMj70
俺が学生の頃はほぼ畿内で確定だったが、
今学会はどうなってんの?
また九州が盛り返してきてんの?
0094名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 01:57:20.29ID:KwvmNmgo0
神社の始まりは縄文時代の海や巨石、大木などの自然崇拝から弥生時代には実在の人物や
架空の人物などを崇拝するようになり、社を作って崇拝しだしたのが始まりだろうがどこの
神社が最初かは突き止められんだろうが北部九州発祥の海神社、綿津見神社、住吉神社
宗像神社、八幡神社、大神神社などは全国に存在している。大神神社の発祥地は関西人には
異論があるだろうが福岡県発祥とするのが正解。
0095名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:00:06.92ID:oGLskF9E0
朝鮮半島の新羅からスサノオが渡来し、大国主から国譲りさせ出雲を征した(ヤマタノオロチ伝説)
そして吉備を経て物部政権を樹立した(奈良の纒向)
物部政権は初代神武から16代仁徳までであって
この初代から16代あたりまでの天皇(大王)は架空の存在であったが、実在のモデルは存在する
神武・応神なんかはスサノオであり、スサノオは新羅の王子であった天日槍であり
八坂神社でお馴染みの牛頭大王であり、敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)であり、蘇民将来伝説の武塔神であり
ヤマトタケルでありと、挙げていったらキリがないからこの辺にするが、とにかく記紀等
日本の正史として捉えられている日本国の始まりとしては、この古代朝鮮人であったスサノオがパイオニア
実際日本が独立国家らしい姿を見せてくるのは継体・欽明のヤマト政権辺りからで
現代日本の礎を築いたのは天武天皇
実際「天皇」という称号を使い出したのも天武天皇と言われてて、それまでは小国の王を纏める
ヤマト政権の首長という意味で大王(オオキミ)と呼ばれていた
天武天皇は伊勢神宮の式年遷宮を制定し、崇拝を広めた人物であるが
本人は道教にも傾倒していて、天皇という称号を使用しだした理由も
唐の高宗が674年に自らの称号を皇帝から「天皇」に変えたから
この情報が遣唐使を通じて天武朝に伝えられ、689年に編纂された日本史上初の
体系的な法典といわれる飛鳥浄御原令に於いて「天皇」の称号が日本で初めて使われるようになった
この天武天皇は、高句麗末期の宰相であった淵蓋蘇文だという説も歴史ファンの間で支持されている


まず伊勢神宮は純日本様式であるとされてきたけど、
実は伊勢神宮正殿の手摺には、火焔文様のついた珠玉の色彩配置があり、
道教由来のモノだということが最近判明したばかり

日本書紀によると、伊勢神宮祭神である天照大神は高御産巣日神と婚姻関係にあり、
天照大神は高御産巣日神の並列神であり、高御産巣日神こそが主神とされている
そしてこの高御産巣日神は朝鮮から来た神だということ
元は地方豪族から生まれ出た天皇は、土着系と渡来系の混血であり、
「神武天皇以来、万世一系 125代(令和で127代目)」とされてきた天皇家を否定する事実なので、
意図的に、巧みに隠蔽改竄され続けてきたというわけだ

高皇産霊神の正体
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-09-9takamimusubi.html


敦賀の地名の由来にもなって敦賀駅前に銅像もある
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト・ツノガアルヒト)
これも古代朝鮮の王子であったスサノオ本人である
http://pandapanda6289.up.n.seesaa.net/pandapanda6289/tsuruga/a0728005.jpg
0096名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:01:48.66ID:JZlWfJKL0
神社の分布は九州が日本全土を侵略した
証拠であるが九州の神社が日本最古とはいえないな
0097名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:02:13.43ID:oGLskF9E0
安羅神社 滋賀県草津市

「日本医術の祖神、地方開発の大神を奉祀する」とあり、祭神は天日槍命(新羅の王子)とする。
「近江国の吾名邑」は、ここ「穴村」に比定する。天日槍が巡歴した各地にはそれぞれ彼の族人や党類を留め
後それらの人々が彼を祖神として、その恩徳を慕うて神として社を創建した。
「安羅」という社名は、韓国慶尚南道の地名に同種の安羅・阿羅があり、天日槍を尊崇するとともに
故郷の地名に執着して社名にしたものと思われる。社宝として古来神殿に蔵されている数十個の小判型黒色の小石は
従前その由来が判明しなかったが、近年有識者によると、この小石は野洲川源流地帯に多い玄武岩と同質とされ
その黒色をなしているのは火にあぶって温め(温石として)患部に当て治療に使用したものと解かった。
このことは今日の鍼灸の原型をなす医術であるとされる。




古墳時代の古墳としては、滋賀県高島町の鴨稲荷古墳がある。
金製の耳飾りや金製の冠、金でつくった沓など朝鮮的な遺物が
沢山まとまって出土したことで、全国的にも有名な古墳である。
単に朝鮮的な服装品が埋葬していたというだけでなく、これらを
セットとして揃え、新羅の支配者たちの政治的な儀式のスタイル
をそのまま踏襲して埋葬されている点で注目すべき古墳とされている。
滋賀県の西部から越前にかけての地域を政治的な根拠として新しく現れる、
継体天皇を生み出した勢力で、天皇より1代ぐらい前の可能性がある。



奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半)が、石を階段状に積み上げて
墳丘を築いたピラミッド形の大型方墳であることが分かり、
村教委と関西大考古学研究室が13日発表した。
現在の中国と北朝鮮の国境付近に残る古墳に形状が似ており、
渡来人と関係の深い大和朝廷の実力者、蘇我稲目(?〜570年)が埋葬されたとする説もある。
村教委などによると、墳丘とその周囲を発掘調査したところ、階段状の遺構が3カ所で見つかった。
これらの遺構は石室と方向を合わせ、いずれも数多くの石で造られていた。3カ所のうち1カ所は4段、
より低い位置の2カ所で1段ずつが確認され、全体としては7、8段のピラミッド形をしていたと推定できるという。
墳丘は裾の部分が東西41メートル、南北42メートルの大規模なもので、高さも東側4.5メートル以上、
西側7メートル以上あったとみられる。
ピラミッドのような形の古墳は、現在の中朝国境地域に高句麗時代に築かれた「将軍塚」の形状によく似ているといい、
村教委などは都塚古墳もこの影響を受けて築かれた可能性があるとみている。
0098名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:07.32ID:Ft73GZhY0
>>90
信露貴
「信シン」を「シ」と読んで「ン」を無視するのは
飛鳥奈良時代〜平安時代末期まで日本語に「ン」という発音が無かったから。
「安倍アンベ」と書いて「あべ」と読むのも同じ理由。
0099名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:11.95ID:KwvmNmgo0
西南戦争の責任者西郷隆盛も戦争中は熊本や延岡などの最前線に同行している
戦争責任者が最前線に同行するというのは日本古来のしきたりで神功皇后も朝鮮征伐で
率先して兵を率いた事になっているから、狗奴国と戦争していた邪馬台国の卑弥呼も
兵は率いなかったかも知れんが最前線の近くで戦勝祈願をしていた事は間違いない。
0100名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:06:49.50ID:oGLskF9E0
日本神話において、神武東征の際に高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への
道案内をしたとされるカラスとして有名な八咫烏、日本では和歌山県の熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)
をはじめ全国2000余の熊野(高麗野)神社の共通の紋章であるが、奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天井壁画
太陽図にも日輪の中に三足烏が書かれている
高句麗の古墳壁画によく見られるこの三足烏は、太陽の中で生きる、三本足を持った想像上のカラス
中国・集安の「五カイ墓4号墓壁画には、円(太陽)の中で翼を半円形に広げて立つ三足烏が描かれている
あと、北朝鮮の平壌・徳興里古墳や江西中墓には、太陽の中の玄鳥が翼を広げて飛び立つ様子が描かれている
4世紀の高句麗の古墳壁画に初めて登場する「太陽の中の三足烏」がこのような図像の枠組みを持つに至った背景には
古来から伝承されてきた太陽崇拝やソッテ(信仰の対象、または何かのお祝いのために立てる長い竿)信仰・卵生説話
などの「鳥トーテム」が緊密に関係しているとされている
太陽とカラスとの関連については、高麗の文臣・李奎報の詩文集『東国李相国集』の「東明王篇」で
太陽の化身である解慕漱(かいぼそ=高句麗の建国神話では天帝の子で、東明王〈朱蒙〉の父とされる)が頭にカラス
の羽で作った「烏羽冠」をかぶっているところに淵源を求めることができるとされている
三足烏は高句麗建国のシンボルであり、三足烏と云えば高句麗の始祖、朱蒙(チュモン)であり朱蒙が率いた軍旗でもあった
三足烏の形象とは古朝鮮以来のシンボルであり、漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいたが、三足烏の形象は東夷族のものであり
高句麗は中国中原にあって、朝鮮族がもともと居住していたと云われている
三足烏(Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様



高句麗のシンボル三足烏は、日本では八咫烏と称されている

・奈良県橿原市五條野町に八咫鳥を祀った八咫鳥神社
・奈良県明日香村のキトラ古墳で石室の天井にある星宿図の日輪の中に三本足のカラス(日象)
・八咫烏は加茂建角身が化身した姿だと云われていて建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社の祭神であり
 賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神
・建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して年を占う烏相撲を執行していて、八咫烏は熊野の
 夫須美神の使いでもあり、熊野の火祭では烏帽をかぶり八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって烏と化した神官が
 空中に扇で呪文を書き、それは烏文字で護符や熊野誓紙の文字ともなった
・美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏と兎もそれぞれ日神と月神を象徴している
・穏地郡武良郷の中村の御客祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭であり、ここに古式の的射神事が残されていて
 その的となるのは遠来の神は日神たる「烏」の図像であり武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)
 もまた日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を祭りの旗印(御神体)」としている
・三島と云う名前が付く神社は全国に1万社以上あり、その総本山は静岡にある三島大社であり延喜式によると
 三島大社は伊豆国賀茂郡にり伊豆はかなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であって、伊豆諸島の神社は
 ほぼ事代主命を祀っている
0101名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:11:46.72ID:KwvmNmgo0
>>99に続いて、従って戦乱の痕跡が全く無い奈良は邪馬台国では無いし
纏向遺跡は卑弥呼の宮殿跡では無いのは明らか。
0102名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:12:00.35ID:W7DBG9gD0
もう騙される人が居ない落ち目になってしまった畿内説。ネットのせい。
それにスレタイの「邪馬台国の最有力地」をつける記者は残酷すぎ
0103名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:19:32.62ID:KwvmNmgo0
日本を最初に統治したのは大国主命に間違いないと思うが、おなじ出身地の北部九州
から反乱が起きて大国主命は奈良を追われて出雲に逃げ落ち、そこで追い詰められ自殺した
自殺する時に大社を作って自分をそこで弔って欲しいと頼んだので出雲大社が出来た
と言う事になっているがこれは事実だと思う。
0105名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:34:20.66ID:abSLMZiR0
>>85
先日のNHKのファミリーヒストリーの賀来千賀子の賀来家は大神氏の末裔の一つ
0106名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:35:19.71ID:zdEYNWe90
纏向は邪馬台国関係ないだろ
真面目に研究しろ穀潰しども
お前らは知に関わる人間じゃねえ金とメンツの化け物どもめ
0107名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:35:20.21ID:JZlWfJKL0
伊勢にあんだけ祀ってる奴も酷い殺され方したんだろなあ
0108名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:38:46.83ID:IUiJc5ty0
>>93
ますます畿内説が強くなってるよ
従来は中立の立場だった教科書もついに書き換わってきたし
0109名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:40:18.14ID:KwvmNmgo0
>>104
真実は不明だが大国主命は殺されてはいない、自殺した事になっている。
0110名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:46:54.95ID:W7DBG9gD0
>>108
教科書とかテレビで頑張ってね。隣の国みたいに捏造が通じればいいねぇ
0112名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:53:06.98ID:KwvmNmgo0
神武東征で功績のあった武将は鹿島神宮と香取神宮の祭神として
祀られている、鹿島と香取は伊勢神宮に次いで位の高い神社だな。
鹿島神宮・・常陸国一之宮 祭神は武甕槌(タケミカヅチ)
香取神宮・・下総国一之宮 祭神は経津主神(フツヌシノカミ)
0113名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 02:55:38.33ID:KwvmNmgo0
関西人は神武東征を否定する者が多いようだが、それは鹿島神宮と香取神宮の存在を
否定しているのと同じ事なのでそいつらは関東人の敵と言う事になる。
0114名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 03:28:47.10ID:Ft73GZhY0
>>110
教科書から見捨てられた北九州
もっとゴッドハンドしてコピペ貼りまくってアピールしないとな
0115名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:04:01.34ID:7EPEtQnu0
朝鮮人が支配した証拠が神社だろ
0116名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:25:25.33ID:Hcazr1wu0
流石に無いわ
神社様式つうかスタイルは変わるが、祭る行為自体はもっと古いだろ
磐座とか

こんなとんでもまでろくに自己検証しないから畿内説とか学会とかが馬鹿と言われちゃう
のがわからないのかな

たいがいの神社に中心に鎮座してる鏡は、畿内で出るのは三角縁という粗末なのだけ。
福岡の王墓から出てくる豪華な漢鏡や魏鏡、その他副葬品とは次元が違いすぎる。
勾玉も畿内ではなく、剣のような鉄器も皆無。これだけでもどうしようもないのに、予算
乞食税金乞食がすぐに邪馬台国と結びつけて捏造に次ぐ捏造の結果学会全部が税金泥棒に
堕したのが考古学会とか古代史学会という名の宗教法人w
0117名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:30:23.23ID:69m030Ks0
このスレとかでもそうだけど
邪馬台国論争で断言する奴ほど怪しい
断言する奴は都合のいい証拠しかみてないし
断言できるならそもそも学会で論争なんてならない
0118名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:32:26.55ID:qfPVfIae0
どっちでもいいが九州説にはキチガイがいるからなぁ
0119名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:33:55.47ID:XBDtDDOW0
邪馬台国は九州じゃボケ
0120名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:36:06.68ID:XBDtDDOW0
>>80
昔から近畿王朝と九州皇統がやりあってたんだよ

最終的に近畿王朝が勝って670年に日本という国号の名の下に統合したってわけ
0121名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:40:05.12ID:uBlBCfHE0
やっぱ畿内だよな
0122名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 06:43:49.01ID:XBDtDDOW0
>>117
だから学者の間では九州で決着ついてんだって

じゃなんで畿内説が出てくるかってそれは大和王権の万世一系の建前を維持したいからだって

日本は中国同様易姓革命はしょっちゅうあったんだよ

でもそれは万世一系の建前に反するから畿内に邪馬台国があったってことにしときたいだけ
0125名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:01:40.04ID:RLbYje6r0
学会は畿内説を諦めたからな。
もう、纒向学という地元考古学に
転向している。

さすがに200回以上掘って
邪馬台国から離れる遺物ばかりなので
心が折れたらしい。
0126名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:04:54.94ID:qojRXB6fO
そこでいよいよ大友能直のウガヤフキアエズ天皇ですか、日向族ですね。
0127名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:05:38.50ID:RLbYje6r0
最後の方は、モモの種や魚の粉状の骨
五世紀以降の紅花花粉を成果とするしかなかった。

畿内説で予算を貰ってる以上
何かしらこじつけて成果発表しなきゃならんが
これでは心が折れる。
0128名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:14:03.98ID:e3yFDkRM0
>>122
>だから学者の間では九州で決着ついてんだって

こういう根も葉もない捏造を平気でやるのが九州説だよなww
0129名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:16:44.16ID:e3yFDkRM0
>>125
>纒向学という地元考古学に
>転向している。

これは町おこし用の商業展開を目的とした商標だよ

あえて言えば「纒向学」という学問領域がある訳ではない
0130名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:17:57.97ID:e3yFDkRM0
>>122>>125みたいなお菓子なのが湧くから樽悶はもう邪馬台国スレを立て続けるのは止めれって!
0131名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:27:30.82ID:qojRXB6fO
豊国文字で書かれた倭書紀があったかもしれません。久住山に降臨のニニギ、片仮名ですよね、ニニギ。 豊国、台与が定めたかもしれません
0132名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:28:15.23ID:XBDtDDOW0
>>124
古事記日本書紀でも九州に関する記述が一切スルーされてるのは

大和王権から続く日本という建前を維持したいから

邪馬台国が九州に存在すれば、万世一系の建前は崩れるし

もっと言えば、大和王権が九州皇統を滅ぼすためにやってきた様々な謀略が明るみになってしまうから

磐井の反乱ってあるだろ?磐井って実は邪馬台国から続く倭国の王なんだよ

それが大和王権と唐にはめられて滅ぼされたってのが真実なんだよ

あそこから徹底的に九州を無視ないし軽視する歴史観が生み出された
0133名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:29:34.41ID:oiBydKeZ0
必ず邪馬台国と纏向をセットにしてるのは荒らすのが目的だろうか
0134名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:33:42.21ID:XBDtDDOW0
>>128
本当だって

関西は銅鐸文化にもかかわらず奈良だけ銅剣文化これはなぜ?
ちなみに九州も銅剣文化
つまり九州勢力が東遷して奈良に居座ったんだよ
藤原京なんかまさにそれ

ところが近畿と九州で指導権争いが繰り広げられた
最終的に近畿が勝ち近畿に有利な歴史認識が定着していっただけ
0135名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:35:24.65ID:HXfWyZWc0
魏志倭人伝に書かれていることは
卑弥呼は伊都国に居た
女王国とは伊都国と奴国のこと
邪馬台国は女王卑弥呼を共立した北部九州地域の国邑の連合体

こんな単純な事を理解出来ない奴は学者じゃないな。
0136名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:40:44.86ID:OD0HinJe0
普通に東国が高天原だと思うぞ
弥生時代直前までほとんど関東にしか人いなかったんだから、そこから来た人が九州や大和に降臨しただけと思うぞ。
それが証拠に神代時代の神はすべて東国に神社がある。
0138名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:42:46.68ID:XBDtDDOW0
磐井の反乱(実際は大和王権と唐の謀略)以降、邪馬台国を継承する九州の倭国は衰退した

しかし天武の登場で一時九州も息を吹き返した

天智は兄で天武は弟ということだが、実は天武のほうが年上となっている
これは天智天武は異父兄弟だった

天智の父は近畿
天武の父は九州

天武は天智を暗殺しその息子の大友を壬申の乱で滅ぼし
九州が息を吹き返したが、周囲が近畿だらけで結局天武系の血統は滅ぼされてしまった

今の皇室は大和王権の後継ということにしたいから九州起源は一切スルーされてる
0139名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:45:23.34ID:yKq1wOTP0
天皇歴史、記紀を根底から、ひっくり返そうとしていた織田信長、天皇から暦も奪っている。
0140名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:45:58.42ID:HXfWyZWc0
>>94
伊勢神社、天満宮も九州発祥だな。
0141名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:46:06.37ID:XBDtDDOW0
>>136
いや高天原は福岡県京都(みやこ)郡だからw
そっから高千穂神武東征と話が進んでいく

東戎は論外w
0142名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:49:52.82ID:HXfWyZWc0
>>138
長門岩と呼ばれる場所が久留米にある
磐井の反乱は九州内の内輪揉めだな
壬申の乱も九州内の内輪揉め。
0143名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:51:41.66ID:9uWV6Yww0
>>5
ゲコゲコタピタピ神社
0144名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:53:11.42ID:XqyXiAiT0
>>6
土蜘蛛なんじゃね
ヤマト王権に滅ぼされた
0145名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:53:29.48ID:1ZuD+sAG0
>>14

それ書いた奴は、捏造学者。

まず、日本へ朝鮮半島から来たとあるけど、少ないから。
大陸からは、直接、海を渡ってきたが正しい。

実際、縄文時代にきたのは、中国南部から海を渡ってきた。

ま、正確には、その当時、中国南部で大きな争いがあり、負けた方が海を渡り、日本列島へ逃げ込んだが、正解だが。
0146名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 07:53:59.53ID:OD0HinJe0
神社もいろいろあるよね
神宝を管理する神社とか偉人を祀る神社とか怨霊を鎮める神社とか
偉人を祀る神社はあまり恐くないのでしょぼいよね。
0147名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 07:57:28.87ID:XBDtDDOW0
九州って古代中国の尊称なんだよ
大宰府も古代中国の政治機関を意味する

つまり九州こそ正統な中国王朝の末裔ってことで
環濠を意味する和とか名乗って同じサークルを印象づけたの

しかし中国は隋唐という北方異民族が支配するようになり
中国の正統後継者を自称する九州人がタリシホコという皇帝を設けて
聖徳太子の「日出る天使」手紙しかり隋唐と対抗しだしたわけ
ちなみに聖徳太子はタリシホコの弟

敵の敵は味方というように近畿は唐と結託して九州を滅ぼした

結果九州の歴史は都合が悪いので抹殺されたという流れなのだよ
0148名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 07:58:29.50ID:9uWV6Yww0
昔の言語は 『ん』が無かったのかぁ

あ、だから
『いろはにほへと』 は、最後あたりに 『ん』を付けたのかな

民俗学の言語の分野だね
0149名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 07:59:17.86ID:FrBO5FGs0
人類滅亡までずっと最有力のままだと思うわ 確定しない
0150名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:59:48.48ID:HXfWyZWc0
>>127
畿内説を主張してる学者も内心は間違ってたと分かってるんだろう
過去の経緯で今更変更が難しんだろうな。
0151名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 07:59:58.85ID:MA6fD4kB0
> 纒向
て、纒向…

直感的に読めないのが致命的だろ
0152名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:03:02.60ID:XqyXiAiT0
>>55
距離も方向も嘘だけど7万戸だけは真実みたいな
都合の良すぎる取捨選択するのはゴッドハンダー
0153名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 08:04:18.32ID:9uWV6Yww0
>>144
日本のも、権力争いによる、中国系役人らの 『過剰な誇大』史書になってる可能性大だから

そのあたりを、注意しながら 解読したほうがいい
ニュートラルに見ないと 権威・権力思考で検証はしてはいけない
外国人の研究者にも手伝ってもらったほうが 健全なことも多いかと思う



検証は、日本人らに欠けてる視点を、補ったほうがいいよ
0154名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:04:47.69ID:XBDtDDOW0
>>142
磐井の「反乱」ってことにされてるだけで、あれは大和王権と唐のだまし打ちなんだよ

つまり大和王権が倭国王の磐井の命令で朝鮮半島に出兵するはずだったが
裏切って磐井を襲った
反乱なんてとんでもない
これは完全な大和王権によるクーデターだったのだよ

壬申の乱は九州の末裔である天武の逆襲だったわけ
これによって天智大友の大和系を滅ぼしたが、すでに倭国は弱体化しており
倭国を盛り返すだけの力がなく結局大和系に乗っ取られた

結局、磐井の反乱で邪馬台国の歴史は永遠に忘れ去られたのだよ
0155名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 08:11:40.69ID:KNxlsc9/0
高天原、海に面した高台
上町台地だろう。上様、うえさま、かみさまのいるところ

天安河原は滋賀の野洲川
辺りに伊勢遺跡がある

天の八衢は堺である
仁徳天皇陵のあるところ
八衢は道が幾つにも分かれるところ、方違
辺りに崇神の代に建てられた方違神社がある
0157名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 08:13:42.84ID:RHEsffZZ0
四国全体が邪馬台国だった説はどうなった?卑弥呼が住んでいたのは剣山周辺の高地だったという。
0158名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:16:27.73ID:RHEsffZZ0
魏志倭人伝を信用するなら四国以外考えられない。
0159名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 08:26:14.43ID:XqyXiAiT0
>>153
土蜘蛛は女王を戴く風習があったというし
神功皇后、景行天皇のあたりに九州の掃討作戦でもやったんじゃね
0160名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:26:38.81ID:XBDtDDOW0
>>157
それはユダヤ
邪馬台国は北九州そっから高千穂そっから四国越えて近畿って流れ
0161名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:30:06.49ID:p1z5bLUx0
神社とは「神霊が鎮まる神域」

古くは社殿がなくとも「神社」とした。神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、
俗(生活に活かす)の山、滝、岩、森、巨木と区別したのである。現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる。

祭祀対象
神道の神々は人と同じような姿や人格を有する記紀神話に見られるような「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」
日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物・伝説上の人物や、陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれる。

神社の名称
●最も一般的なのは地名によるものである(鹿島神宮・八坂神社・春日神社・宗像神社・日枝神社など。)
●祭神名を冠するもの(稲荷神社・住吉神社・八幡神社・天満宮・丹生都比売神社など)
●奉斎する氏族の名前を冠するもの(倭文神社など。)
●祭神に関連する語句を冠するもの(平安神宮・八重垣神社など。)
●神社の種別を表すもの(招魂社・祖霊社など。)
●祭神の座数によるもの(六所宮・四柱神社など)
●由来が不詳である神社名も少なくない(浅間神社など。)
●稲荷神社や八幡宮など全国に広く分布するものは、それらの社名にさらに地名を冠することが多い( 伏見稲荷大社・函館八幡宮など。)
0162名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:32:59.71ID:p1z5bLUx0
金達寿「神社や神宮は古代朝鮮から渡ってきた。」

「広辞苑」をみますと、ただし、第一版です。第二版ではどう いうわけか、それを消しているんです。
ぼくなんかがそれを引用したりするからということもあったかと思いますが、一版を見ますと、「韓神の祭り」というのがありまして、
そこに上代において二月十一日に行われた 宮内省の内にまつられてある韓神社の祭と書いてあります。
二月十一日がどういう日かご存知ですね。今は建国の日と言いますが、昔の紀元節です。
つまり上代の二月十 一日には、宮中で韓神の祭りが行われた。
そればかり神楽というものがあります。宮中神楽です。宮中神楽でない神楽は里神楽と言います。
宮中の神楽はどういう神事かといいますと、韓神を招く神事です。
「三島木綿肩(みしまゆう)にとりかけ、われ韓神の韓招(からお)ぎせむや、韓招ぎせむや」という韓神を 祭る神事です。
何がゆえに宮中で朝鮮の神様を祭るのですか。
「延喜式」を見ますと、園韓神の社というのは 三社あるんです。宮内省坐園韓神三座(くないしょうにますそのからかみさんざ)というのがそれですが、
韓神は百済の神で、宮内省に二社あります。
・・・文字から見ると、園というから公園の神様か、花壇の神様か、 今の感覚では思っちゃいます。これは一語ではなくて「ソの」という二語です。
つまり新羅を昔はソラボル、ソヤブル、ソナブルと言ったし、ソブルとも言った。
・・・ソウルは都という意味です。京都です。・・・・・ソというのは新羅の元号です。
このように新羅系の神であり、百済系の神が二座、宮中に祭られている。このことによって王朝の交代がわかります。
中国や朝鮮では、こういう場合は消してしまうんです。
日本は実に面白いです。神社もよく残っている。日本人はものの考え方が調和的ですから、捨てないのです。
ぼくは神社というものが嫌いだったんです。戦時中に強制参拝させられましたから。・・・・・ところが戦後 になって日本の歴史をだんだん調べているうちに、
なんとこの神社が朝鮮から来たものなんです。しかも新羅から来た。これにはまた驚きました。
「三国志」にはっきりと出ていますが、新羅の初代王を赫居世(ヒョクコセ)といい、赫は名で、居世は様というほどの尊称です。
この王が亡くなって祖神廟ができたのが西暦紀元五年で、これが 487 年に「神宮」に なります。
前川明久氏の「伊勢神宮の祭祀制」をみると、「神宮の称号の起源は新羅の神宮に由来している」 というその神宮です。

では、神社の社はどうかと言うと、これは「居世」という尊称からきたコソだったものです。
先ほど、比売許曽(ひめこそ)神社のことを言いましたが、そのコソです。つまり神社は社(こそ)です。
伴 信友がはっきり書いているように「神社とは古曽のこと」つまり社(やしろ)のことです。
・・・・「社」は「こ そ」です。社というのは名前ではなくて、尊称です。
そういうことで神社は朝鮮で始まったわけですが、仏教が入ってきます。日本人は物事の考え方が非常に調和的ですが、
われわれ朝鮮人は悪く言うとあれかこれか主義で、対決的です。よく言えば論理的です。
0163名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:34:37.80ID:p1z5bLUx0
日本の八百万の神々の大部分は、朝鮮半島から渡来した人々の氏族的な先祖信仰の象徴であり、石器時代から日本列島に存在したものではない。
例えば、スサノオ(素戔鳴尊)、オオクニヌシ(大国主命)、ハチマン(八幡)なども大陸からの渡来神である。
朝鮮半島からの渡来者が増加した4世紀以後(日本の古墳時代)に、朝鮮半島から来た人々は、
家と個人の信仰である仏教と、先祖・氏族の信仰である神と、二つを抱いて日本列島に渡ってきたのであった。
そして日本の居住地域に、寺と神社を建てたのである。

新羅人は、太陽神を祭った。太陽神と同時に祖先神を祭った。そこから神社が発生することになるという。
例えば伊勢神宮、これは皇祖神になっている。
伊勢神宮に行くと韓神山という山がある。その中に韓神社があります。伊勢には韓鋏という地名があります。
韓の発祥の地は丹後で、そこには天の橋立、一宮の籠神社があります。籠神社は元伊勢と知られています。
この籠神社を祭ったのが、天日槍の人たち。
「天日槍」については、新羅の王子という個人ではなく、新羅、加耶系渡来集団の象徴、新羅から渡来した矛や剣で神を祭る集団の象徴のようなもの、
新羅人は太陽神あるいは祖先神を祭り、いわば天日槍(矛)とはその為の道具だといいます。
日本書紀や風土記で記されてある「赤留比売」は天日槍の嫡妻ではなく、神を祭る巫女だといいます。
この巫女が後に大阪市東成区にある比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)に祭られる。
祭っていたものが後に神様として祭られる例は、天照大神があり、天照大神は大日孁貴(おおひるめのむち)というシャーマンだったものという。
0164名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:36:05.46ID:p1z5bLUx0
神社の起源と古代朝鮮〜岡谷公二によると

神社信仰の成り立ちについて、近江の渡来人が祀った神社、渡来人とかかわりのある神社について、新羅=伽耶系が圧倒的に多い。
近江では、式内社142社 その約2割が渡来系で、そのうちの8割が新羅系だという。

では、琵琶湖に住んだ渡来人は、新羅人だったのか?
むしろ反対の見方が多く先日訪れた湖東三山の百済寺をはじめ石塔寺など百済系のものの方が多い。
近江のみならず日本のほぼ全土についても、弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から渡来してきた人々の多くは、
後に百済が立国する半島の西部より、新羅・伽耶の国々が立国した東南部、現在の慶尚南・北道の人々であった事は間違いないため、
百済より新羅・伽耶と倭の関係がより古いという。

近江系の神社は、どこの例外もなく古く。年代は多くは不明で確認する方法もないが、
ほとんどの神社の社域に一基以上の古墳がある事が証拠立てる理由だと言う。
この古さは、神社の成り立ちに朝鮮半島、特に新羅・伽耶が戒る役割を果たしていることを暗示する。
弥生時代から古墳時代にかけて朝鮮半島から渡来してきた人々が、稲作をはじめとする様々な文化技術を現地の人に教える一方で、
祭祀だけを現地のものに倣うとは考えられない。
日本で最も数の多い神社である八幡神社、稲荷神社が元来は新羅系の秦氏が祀った神社である。

このように新羅は、日本の神社信仰に大きな影響を与えているのである。
また、「天日槍」について、神社と古代朝鮮との関係を考える場合極めて重要だと述べている。
0165名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:39:21.66ID:HXfWyZWc0
>>157
>>158
魏志倭人伝では四国は侏儒國か裸國、黒齒國として出てくる。
0166名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 08:48:41.58ID:KNxlsc9/0
有名な龍トーテムと鳳凰、鳥トーテム
中国において龍は北方系、鳥は南方系のトーテムらしい
高床式建物も南方系
長江流域で銅鐸とそっくりな陶製の鐸も見つかっている
国生み島生み神話のモチーフも中国南部に多く見られるもの
0167名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:06:23.55ID:8STkO6Xw0
天智天皇は九州に長く滞在して
白村江はじめ多くの政務を取っている
太宰府の王。

白村江で大敗し、派遣軍総司令官の
筑紫野君サツヤマが捕らえられ
天智天皇は近江大津京を建て疎開する。
そこへすでに畿内で力をつけていた
天武天皇がクーデターで政権を取り
大和朝廷を設立。

しかし、白村江で、失われた九州勢力も
力を取り戻し、再び天智系が政権を握る
0168名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:15:49.57ID:gTBfcrEU0
畿内説とは、商業目的のため遺跡年代を捏造してつくられた想像説です。
考古学会の体質は過去に起きた石器時代捏造事件からまるで変わっていません。
  
史書には博多湾から南の方角と記されています。
また翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」には、邪馬臺国の場所が記されています。
 
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
 
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。
又南、至る邪馬嘉(臺)国。
 
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区
0169名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:26:43.87ID:KwvmNmgo0
宗像は地名では無い、海人族の長だった宗像氏から付けられた、胸肩と書く時もある。
宗像氏のお墓は福津市の宮地嶽神社の境内にあるがここから素晴らしい副葬品が
出土している、古墳時代末期の古墳だから九州はその頃までは栄えていたと言う事だ。
0170名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:27:20.47ID:KIt5dNLQ0
旧石器時代捏造事件なあw
一人の研究者がやった事件だけど考古学会はメシウマのために黙認してたんだよな。
歴史教科書の半分以上がデタラメだろうよw
0171名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:44:53.73ID:m0Csj7jW0
二礼二拍手一礼の意味
大和の神と出雲の神にそれぞれ一礼ずつで二礼、同様に二拍、最後に一礼
鳥居は縦に二本の柱、横に2本、つまり二本、本家が2つあるという意味、出雲の国譲りのモニュメント
0172名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 09:48:58.49ID:XDyD1Hjq0
女王がいたとされる女王山は八女市にあるのになぜ畿内?
0173名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:54:53.90ID:XDyD1Hjq0
>>134
神籠石とか瀬戸内海の海路を見張る形で九州を中心に関西近くまで建設されてるしな
0174名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:56:14.84ID:HXfWyZWc0
>>167
天智、天武とか6世紀の記事は改竄が激しく元の歴史が分からないな
701年には大和朝廷が成立してるな。
0176名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 09:57:16.27ID:Ft73GZhY0
>>134
イマドキ銅鐸文化圏、銅剣文化圏などと色分けする奴は時代遅れw
これを見ろhttps://kotobank.jp/word/ 銅矛銅剣文化圏-1377284
九州脳は自分たちが中高時代の教科書に書いてあった内容をアップデートしてない
CPUは16ビットでWindows2.11を使ってる時代遅れ野郎供www
唐古・鍵からは土製や石製の(青)銅鐸鋳型など鋳造関連遺物が出土してるし
(青)銅矛も出てる。
0177名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:04:19.85ID:TYDTfdc10
銅鐸、銅矛銅剣銅戈の大まかな分布は従来と変わらんだろうに、いくらか例外的な出土があったからって無かったことにするのは恣意的な印象を受けるね
そこから歴史を汲み取るのが考古学の仕事だろうに
0178名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:04:57.68ID:HXfWyZWc0
>>174
訂正
>>167
天智、天武とか7世紀の記事は改竄が激しく元の歴史が分からないな
701年には大和朝廷が成立してるな。
0179名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:13:17.94ID:gTBfcrEU0
3世紀のヤマトは「山門」であり、「大和」はダーワと発音します。
「大和」と書いてヤマトと読むようになったのは中世以降の事です。

奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、邪馬台国は本来
「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だと
する説を紹介し「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」
との見解を示した。
0180名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:15:58.05ID:KwvmNmgo0
宮地嶽古墳の埋葬者は宗像徳善だが娘は天智天皇?に嫁いでいる。
それだけ勢力があったと言う事だ。
0181名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:18:01.21ID:KwvmNmgo0
>>180
天智天皇では無くて天武天皇の誤りだった。
0182名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:18:52.12ID:XqyXiAiT0
元明天皇のころ(713年)好字二字令が出されて
それまで倭国だったものが大倭国(大和国)と改名された
つまりそれまで倭国と書いてヤマトと読ませていた

倭国はどう逆立ちしてもヤマトなんぞとは読まないし
邪馬台と倭国は明らかに別のものを指した呼称であるにも関わらず

つまり倭国を乗っ取りヤマトと自称した背乗り勢力がいたということ
0183名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:20:54.34ID:v8BA6BDQ0
神武東遷の伝説は九州勢力の東への拡大移動を露骨に元にしてるだろ。
岡山に邪馬台国があっただの四国にあっただのの説が生まれるのも痕跡として説明できる。
東遷の理由は中国大陸への恐怖。
畿内で、騎馬で鉄文化で巨大前方後円墳を作る大和政権として成立してからが日本の有史となる。
その直前の渡来人の軍団を引き連れた蘇我氏の興亡が日本の歴史のプロローグ。
纏向は東遷の分派かもな。
鉄文化を持っていたかもまだ不明とかじゃ何とも判断できない。
少なくとも大和政権直系ではないと思う。
0184名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:21:06.79ID:KwvmNmgo0
古代の漢字の読みは単純だからヤマトは山、門の事とすぐ判る
要するに山門郡のあった付近が邪馬台国と言う事だ
0185名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:23:27.96ID:Ft73GZhY0
>>173
>神籠石・・・関西近くまで建設
関西と云っても兵庫県の西の端に近いヒガシマル醤油本社がある
本竜野だな。関西なんていうと大坂にも在ったのかと誤解させる九州歴史詐欺師の
印象操作プロパガンダは悪質。
「関西近く」を使って良いのなら関が原も「関西近く」
伊勢も「関西近く」、尾張名古屋も「関西近く」
ラジオ関西=AM神戸の放送が聞こえる範囲が「関西近く」なら
静岡遠州浜松も「関西近く」だwwwww
0186名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:27:48.02ID:HXfWyZWc0
>>184
北部九州全体が邪馬台国
北部九州各地に残る地名はその名残り
0187オレンジ・エア
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2019/06/28(金) 10:32:00.00ID:r4arscVH0
>>164
水田稲作は徐福集団が広めた

なんでも半島由来にするな、ぼけ
0188名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:32:28.29ID:qojRXB6fO
168、その通りだと思います、そしてそれは多利思比孤に対して台与の流れと確認してます。
0189オレンジ・エア
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2019/06/28(金) 10:34:32.84ID:r4arscVH0
邪馬台国は関係ない、いいな畿内厨

倭国とは九州北部、女王国は吉野ヶ里、邪馬台国の所都は八女
0190名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:35:28.06ID:P6o1ZfRh0
奈良に美味いものなし
0191名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:47:13.72ID:NLDM0BXi0
●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。


 このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。

 マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。


 日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。


 なぜか?


 明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。


 例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」


 とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」


 とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。
0192名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:47:40.13ID:NLDM0BXi0
●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?

ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。


 日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。


 Wikipedia によると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。


 どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。
0193名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:48:04.45ID:NLDM0BXi0
◎日ユ同祖論の年代矛盾。

ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。

◎日ユ同祖論の方位矛盾。

メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。

イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant

◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。

公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。

◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。

本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。

◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。

神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。
0194名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:48:24.97ID:NLDM0BXi0
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。

RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。

RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです。

RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。

RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。

RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?

ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm

ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php
0195名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 10:55:46.08ID:E3WBs8l60
神武東征の神武の感想
九州とか超余裕。筑紫一か国ボコって後ろの安全確保
瀬戸内は多少時間かかったが、二か国平定して道案内させたぜ
浪速やべえ…こいつら割りと強いから熊野から廻って大和に入ろう
熊野も強い。こうなったら宮家伝統酒を飲ませて寝込みを襲うぜ

九州に邪馬台国=王国連合あったら筑紫一個潰せば後方の安全確保にならないよね
後、邪馬台国潰せるそこそこでかい国があったのなら、何であっさり筑紫一か国ボコって九州終わってんだよw
0196名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:11:13.84ID:tpOfrtcq0
最近、畿内説派は勢いあるね。
九州説派はニュースにも取り上げられなくなったのか?
もうちょっとがんばれ。
0197名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:11:27.44ID:MXjeB1YH0
倭人伝の行程だと佐賀経由熊本行きになる。
佐賀といえば肥前
熊本といえば肥後
つまり両方共、肥の国なのだ。

肥後国は倭人伝の7万戸でも
収められるくらいの莫大な生産量を誇る。
(生産量の資料は平安時代のもの)

ただし北は筑紫国、南は熊襲国があり
戦が絶えなかったことも推測できる。

卑弥呼が支援を求めたのは
クナ国相手の戦のようだから
おそらくは熊襲国のことであり
筑紫国とは何らかの不戦協定を結んでいたのだろう。
0198名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:14:05.91ID:XqyXiAiT0
神武東征とかでっち上げもいいとこ
九州で大乱があって権力争いに負けたかどうにかして逃げ出したのが神武の一族

魏志倭人伝 ← 九州倭国のことが書いてある
隋書倭国伝 ← 近畿ヤマトのことが書いてある
旧唐書    ← 魏志の記述と隋書の記述がごっちゃになって書かれている

日本国は倭国の別種である ←九州倭国と近畿ヤマト
その国は日の昇る方にあるので「日本」という ←東のほうに引っ越した
倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって改めて日本とつけた ←九州倭国から近畿ヤマトへの再編が行われた
日本は古くは小国だったが倭国の地を併合した ← 九州倭国を吸収合併して近畿ヤマト連合が生まれた

倭国連盟の再編で近畿ヤマト連合に吸収合併されたのは九州北部の国々
九州倭国内部の大国であった伊都国や奴国を中心として、近畿ヤマト連合に参加した国々は筑紫国となった
最期まで抵抗をつづけた勢力は土蜘蛛として討伐された
0199名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:17:11.32ID:UsmItBiy0
>>4

3世紀の奈良の勢力は、纏向に祭祀用の都市を持つ恐らく国内最大の勢力だった事は遺跡から確認されてる。

卑弥呼は鬼道で国を治めてたそうだから纏向にいたんじゃないかと推測されるのは当然の流れ。
0200名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:18:59.54ID:CdUMxaoh0
こいつらの言うこと信じると西暦200年前半に近畿に統一政権があったことになる
九州〜朝鮮南部を支配してる倭人とは別のな
その近畿の統一政権が九州勢とは何の諍いもなく公孫氏や魏に朝貢するという

できるわけないだろアホかと
しかもその時期の九州〜朝鮮南部の倭人勢力のことは記述すらされないなんて不自然すぎるわアホか
近畿には王朝などなくて九州〜朝鮮南部を支配してる倭人の勢力が朝貢していたという他に事実なんてない
0201名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:23:55.85ID:ighlsTRO0
九州説は何の根拠もなく嘘ニダ、捏造ニダしか言えなくなってて草w
まあ、大宰府出来るまで基本無視されてて、中国、朝鮮ヤバいから基地作ろうって大宰府始まった訳だが
大勢力の名残があったら大宰府はもっと早く出来てるだろうにw

ムー大陸ですかねw
0202名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:26:39.07ID:MXjeB1YH0
倭人伝の行程を肥前と肥後と考えると
各国の比定は

マツラ国=松浦郡(唐津)
イト国=小城郡
ナ国=佐賀郡
フミ国=神崎郡

ツマ国=久留米南部、八女

の可能性が高い。
0203名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:27:58.68ID:KIt5dNLQ0
>>199
様々な規模の祭祀遺跡は全国何処にでもあるもので珍しくはない。
女王制度になったのは倭国大乱の後で170年頃の事。
それであれは滋賀の伊勢遺跡なども該当する。
纒向遺跡は記録の記述とかけ離れた様相なので最有力とする根拠自体が想像に過ぎない。
だから纒向ゴリ押し説は常に疑問視され続けてるんですよ。
0204名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:29:55.26ID:MXjeB1YH0
太宰府は筑紫国の首都
肥前国小城は統一途中で
一大卒の押さえた拠点。
熊本市が肥後国中心部で邪馬台国
0205名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:34:45.80ID:ighlsTRO0
九州に各地から朝貢があったという話はない。大和は遺跡にある
九州は15世紀ですら琉球にビビって朝貢してたレベルなんである訳ねえかw
邪馬台国w大和に朝貢という九州珍説w
0206名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:39:31.17ID:ighlsTRO0
神武が出て行った後、神武の故郷日向が落ちたという話がない
九州の大勢力、何故か神武を追い出したが追撃せず、筑紫潰してる間日向も神武も放置
九州説は面白いなw
0207名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:41:17.68ID:MXjeB1YH0
北部九州には各地から土器で何かが送られて来ていたようで、
博多湾周辺には各地の土器が見られる。
大陸からの輸入の中心でもあり
一大交易地だったのだろう。

一方、畿内では東北部の土器の集まりは
見て取れるが、九州のものはほとんど無い。
一つの土器のかけらが九州様式のものらしく
それが唯一のものである。
0208名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:43:22.17ID:XqyXiAiT0
>>206
代々筑紫城に住んでた神武の一族が九州から居なくなったのは後の世の倭人にバラされた

統治者一族が居なくなったから後継者争いで倭国に大乱が起こったのか
倭国に大乱が起こった結果敗北して統治者一族が逃げ出したのか
どっちかはわからん
0209名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:45:52.87ID:KIt5dNLQ0
>>205
倭奴国時代の九州からは畿内の土器が出土するが、奈良で九州の土器は出土しない。
倭国大乱が落ち着き卑弥呼の時代になると鉄を活用する時代だが、九州で潤っていた鉄が奈良では出土しない。
そして纒向遺跡で出土する土器は東海伊勢が大半を占め、九州の土器はほぼゼロ。
つまり奈良は倭国大乱で北部九州を中心とした倭奴国から分裂し、東海政権と交易していたとも考えられる。
0210名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:46:37.55ID:MXjeB1YH0
北部九州遺跡の多さから推測すれば
すでに飽和状態に近かったと考えられる。
そうなると、非主流派や新興豪族は
外に出ていかざるを得ない。

中心の有力豪族は北部九州の良い場所を
占拠していて、彼らが外に出ていくのは
それこそ白村江クラスの壊滅でもしなければ
ありえない。

出ていくのは政争などで負けた一族や
新たに集団を作り始めた若いグループだろう。
0211名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:47:32.35ID:o5oFjO+i0
どうせ九州説の奴が暴れてると思ったらやっぱりそうだった

そもそも邪馬台国が九州にあるなら九州に大倭なんて必要ないです
0212名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:51:12.20ID:aPgdpoxw0
>>164

支石墓とは

中国、朝鮮半島、日本に広く分布する巨石墳墓の一形態。北朝鮮で板石を3〜4枚立てて方形石室をつくり、
平たい大石をかぶせた卓子形のものを支石と称するのに由来する。
わが国には縄文時代晩期に農耕技術とともに西北九州地域に伝来した蓋石式、碁盤式があり、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島県に分布している。
西暦1世紀後半ごろまでにはほぼ姿を消してしまった。
「日本大百科全書(ニッポニカ)」より

新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種であるドルメンの一種とする説もある
西ヨーロッパが起源とされてるが、そこから伝播したというより、各地で独自に発祥したという説が有力
ただ、このような特異な形のものが、世界の各地で偶発的に発生するものなのか?という疑問は残る

東アジアでは、中国の遼東半島、浙江省(石棚墓)、山東省、朝鮮半島西北部、日本の九州などの地区で発見されている
遼東半島及び山東省では、並べられた支石の上に天井石が乗せられテーブルの形をした、いわゆる「北方式」のものが多く見られ、
浙江省及び九州では碁盤形で、いわゆる「南方式」のものが見られる
天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていたと考えられており、また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた
0213名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:52:18.12ID:o9Rox0rH0
>>195
キャラ違うけど奥山
0214名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:52:54.85ID:aPgdpoxw0
朝鮮半島では紀元前500年頃(無文土器時代)に見られ、遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、
世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれており、北方式と南方式のおおよその境界は全羅北道付近とされる
また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である
紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった
0215名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:53:29.81ID:aPgdpoxw0
朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である
同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している
支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された
朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している
0216名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 11:53:50.31ID:aPgdpoxw0
日本では中国浙江省の石棚墓群によく似た南方式の支石墓が、縄文時代晩期の長崎県に出現しており(原山支石墓群や大野台支石墓群など)、
朝鮮半島南西部の強い影響があったと想定されているが、日本の支石墓は朝鮮半島のものより小型化が著しく、また、
屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる
日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている

朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代(紀元前1500年から300年頃)に支石墓が現れることなどから、支石墓の担い手は、
中国江南から山東半島、朝鮮半島、日本列島へ水稲栽培をもたらした(ハプログループO1b2 (Y染色体)弥生系)と推定される
0217名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 11:54:10.06ID:aPgdpoxw0
「支石墓伝播のプロセス 韓半島南端部・九州北部を中心として(2003.7 端野晋平、九州大学大学院比較社会文化学府)」

【日本の支石墓の韓国での起源地】
”UA1類とUA2類の共存が認められる南江流域以西地域が起源地として推定される。
これまでの見解では単純に支石墓の密集度から全羅南道を範囲とする西南部が注目されてきた(西谷1980;本間1991)が,
支石墓型式からみると慶尚南道南江流域もその候補地として挙げることが可能であろう。”
日本で主としてみられる,柱穴を中央土壙の外側にもつ松菊里式住居址(検丹里型),外湾刃半月形(短舟形)石庖丁、
愛媛県大渕遺跡,岡山県南溝手遺跡,兵庫県口酒井遺跡,大阪府船橋遺跡等で出土しているナスビ紋土器の分布を重ね合わせ、
”日本支石墓の祖型は、韓半島南端部の南江流域に起源する可能性が最も高い。”

支石墓源流地
https://blog-imgs-114.fc2.com/a/o/m/aomatsu123/20170917132132dd0.jpg
0218名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 11:59:33.98ID:Cnv7FgzX0
>>122
専門家に「九州説」なんかいないよw
民間古代史家とかならいるけどね
0219名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 12:01:12.52ID:EqRxdG/O0
【日本への伝播ルート】

学会的には、「済州島ルート」と、「対馬・壱岐ルート」に分かれてるようだが、この論文では、「対馬・壱岐ルート」としている
さらに、九州北部内での到達地について、「五島列島を含む長崎県の西北九州」と「玄界灘沿岸」の2説について検討し、「玄界灘沿岸」と結論づけている
ここで「玄界灘沿岸」とは、佐賀県唐津市・東松浦郡、福岡県糸島市近辺を指していると思われる
以上より、”韓半島南端部から玄界灘沿岸に到達し、そこから西北九州・佐賀平野へと拡散した”としている

韓半島南端部から、対馬・壱岐を経由して、佐賀県唐津市・福岡県糸島市などの玄界灘沿岸に到達し、
そこから九州西北部や佐賀平野へと伝播した
その伝播は、渡来人が継続的にやってきたことによって齎された


朝鮮半島の支石墓(ドルメン、磐座)一部

https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/28/88/80/src_28888028.jpg
https://farm4.staticflickr.com/3307/3638773696_0874dae995.jpg
0220名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:01:12.70ID:gTBfcrEU0
3世紀の鉄はまさに政権の財力を示す指標です。
 
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
 
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用していた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。

https://i.imgur.com/eRF3Zza.png

■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・伊都国に置かれた一大率は畿内とは無関係
 
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は倭国の一部ではなかった。
 
■関連
 纏向では九州産、半島産の土器が出土していない。
 もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
0222名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:06:32.70ID:ighlsTRO0
>>208
残念だが、残ってるの神武の感想だけだからねえw
0223名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:07:49.82ID:XqyXiAiT0
>>222
記紀なんて基本的になろう小説みたいなもんだから
中国の史書よりもあてにできないわな
0224名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:14:54.29ID:HXfWyZWc0
>>218
専門家?
そいつ等は詐欺師だろw
0225名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:15:33.83ID:ighlsTRO0
>>223
と言わないと成り立たないのが九州説ねw

残ってる唯一の記録は神武の感想だけ
そしてそれには、日向出身で弟で兄がいる
大和がお前に相応しい土地だとお告げ受けて物部の祖先を視察させてる
物部の報告から神武さん家の家族会議で大和を制圧すると決定
九州の足場固めに筑紫を潰して、瀬戸内に行った
苦戦した記述は畿内に入ってから

これ以上の当時の人の話は何も無いわけでな
0226名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:17:32.16ID:dR7GaWGy0
ヤマタイコク
0227名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:17:45.50ID:SLWMJTLF0
女王国の東の海を渡り千余里先にある国は「倭種の国」と史書には記述されています。
記録に反し、東海土器が大量出土する纒向遺跡を邪馬台国とする理由は何なのですか?
0228名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:20:54.52ID:HXfWyZWc0
核DNAの研究で現代の日本人が日本列島全体に広がったのが古墳時代だと判明したから
弥生時代の纒向遺跡を残した人達と、8世紀の大和朝廷との間は完全に断絶していて関係がない
当然、邪馬台国も纒向遺跡とは関係ない。
0230名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:25:58.53ID:Pnt8StAl0
>>228
断絶してるのなら縄文人と漢人の線上に現代人は来ないよね
どっか違う方向に現代人がプロットされないけないけど
0232名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:30:11.27ID:w9eAdKVY0
邪馬台国の位置は 不 詳 だ 
という事にしておかなければ困る!!
0233名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:31:51.76ID:ighlsTRO0
>231
根拠も無い妄想よりはまとも。史書に土器の判別があった訳でもなし
ついでに言うと、九州に大勢力があったなら、東北みたいに征夷大将軍派遣もされず
いきなり大宰府作られてあっさり大和朝廷が前線基地築いた理由は何だろうねえw
0234名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:34:58.50ID:XqyXiAiT0
>>233
九州倭国連盟の盟主の卑弥呼が死んで再編がおこり、列島規模の新連合に参加したからだな
0235名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:37:42.49ID:ighlsTRO0
>>234
あれれ?別の勢力に滅ぼされた事になってるよね?おっかしいーぞw
0236名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:38:03.83ID:SLWMJTLF0
纒向遺跡の最盛期は3世紀後半から4世紀初頭とのこと。
これは卑弥呼が死んだ後の時代なんだけど。。。
0237名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:38:33.23ID:qojRXB6fO
東征はあったよ、2回。ひとつは安東大将軍として、もひとつは、そうなるための論功行賞としての東日本(北九州から見て東)制圧。で天地開闢をぱくってるやつは、そのへんも引用してる
0238名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:38:46.04ID:Ft73GZhY0
>>198
神武は朝鮮に恵んでもらった鋳鉄を溶かすのに
そこらじゅうの森や山の樹木を伐りまくって
メシ炊く薪まで無くなったので領民の顰蹙を買って
新天地を求めて西日本各地を「侵略戦争」に巻き込んで
ついに大和(於保夜麻騰オホヤマト)を領有していた
饒速日、長髄彦、物部氏を破って大和(於保夜麻騰オホヤマト)に定住し
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし
と緑豊かな大和を手に入れたことを喜んだ。
0239名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:38:59.81ID:FrBO5FGs0
日本書紀
戊午年
2月、難波の碕に至る
3月、孔舎衛坂で長髄彦に敗北
5月、兄の五瀬命が矢傷の悪化で死亡、稲飯命と三毛入野命が熊野灘で入水



11月、磯城(現在の磯城郡と桜井市、天理市の一部)平定
12月、長髄彦との決戦に勝利。饒速日尊の恭順

己未年
3月、畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)を開く

辛酉年(神武天皇元年)
1月1日、即位(初代天皇)

神武天皇4年
2月23日、鳥見山中に皇祖天神を祀る

卑弥呼の大型建物が鳥見山に向いて

ないな

大神神社-三輪山-鳥見山が一直線に並んで

ないな
0240名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:41:02.63ID:o9Rox0rH0
>>233
時代が全然違うぞ奥山
たまには働け奥山
0241名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:42:26.29ID:XqyXiAiT0
>>235
新連合に参加しなかった勢力は風土記などに土蜘蛛と書かれたりしてるが
九州にいた土蜘蛛は女王を戴く風習持ってたとかなんとか
0242名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:43:23.92ID:FrBO5FGs0
登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)、登美毘古(トミビコ)と
呼ばれていたことからナガスネヒコは桜井市の山奥の鳥見山の
豪族なんじゃないかって説があってそこを神武が奪ったとしたら
いろいろ繋がる
0243名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:43:52.58ID:LsW4+6G+0
>>235
九州説って、その場しのぎの嘘ばっかりだからすぐ破綻するよね
0244名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:44:33.51ID:ighlsTRO0
>>240
九州説は邪馬台国があった話から九州は隋の時代でもまだ一定の力があったを否定するんだね
じゃあ、それ以前の大勢力の片鱗は一体何処へ行ったのか?
東北みたいに制圧に苦労した話もなくw
0245名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:44:35.39ID:KS/ur1ys0
>>227
普通に考えたら邪馬台国は大分で東の海を渡ること和種の国は四国西岸。

纏向は完全に邪馬台国ではない。
纏向は東の勢力の立てた初期大和朝廷で後に東進した九州勢力が乗っ取ったんだと思う。
0247名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:46:02.55ID:FrBO5FGs0
ナガスネヒコから桜井市を奪った神武は
鳥見山に祖先を祀った 日本書紀
住み着いた橿原市じゃなくて桜井市に祀ったのはなぜなんだぜ神武
0248名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:47:36.92ID:ighlsTRO0
>>246
いきなり大宰府置かれちゃう大勢力w
0249名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:47:53.02ID:Oen5zaWq0
スレタイは巻向と歴史の起源を絡めすぎ
どっかの国みたい
0250名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:49:15.80ID:XqyXiAiT0
>>248
そら連合に参加してんだから自分たちの組織の外交本部くらい玄関口に置くわ
0251名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:49:26.33ID:FrBO5FGs0
桜井市の長谷寺のあじさいきれいだぞ 行ったことないけど
0253名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:50:42.81ID:FrBO5FGs0
橿原神宮は明治23年にこの辺りだろうて勝手に建てたけど
神武の畝傍橿原宮の正確な位置はわかってない
0254名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:51:37.09ID:ighlsTRO0
>>250
大和朝廷の対中国前線基地兼外務省窓口なw
九州はどこ?何に関わってるの?w
0255名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:52:30.83ID:LsW4+6G+0
防人に行かされるの皆嫌がってたよね
あんな辺鄙な田舎行きたくないって
0256名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:54:33.18ID:Ra5y59UG0
>>198
邪馬台国や奴国を含む倭国の人々が少しずつ奈良盆地まで
移動したんだろうね。大きな移動としては多分三回あって、

ニギハヤヒ
崇神
応神

の時だと思う。

あと日本が九州の倭国から見て「日ノ本」にあるからと
言うのは正しいかもしれない。
0257名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:54:51.07ID:gTBfcrEU0
>>252
まさにゴッドハンド
卑弥呼時代に合わせるべく、編年基準を変更した理由

<石野さんの説明>
布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように
350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満た
ない短い期間になってしまう。これはおかしいと思う
ので、布留式は290年頃から始まったと考える。
そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ
山古墳の年代は250年ごろと考えている。

<理由は畿内的都合です>
「布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間に
なってしまう。これはおかしいと思う」
0260名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:57:13.43ID:yKq1wOTP0
纒向遺跡は、邪馬台国と関係ない。
なんでも、結びつける、町おこしだな。
0261名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 12:57:37.27ID:CdUMxaoh0
王朝なんてのは早いと3代で衰退、数百年続くのは稀で
魏の後の時代に九州が地方豪族が割拠してるだけの地域になってたのは
それこそ邪馬台国は一瞬の輝きこそあったが長期的に国家運営できるような統治機構ではなかった事実を裏付けてる
0262名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:01:03.76ID:gTBfcrEU0
つまりこういう事。
4世紀に渡来した豪族がヤマト政権を構築し、倭国と偽り、日本国統一を図った。

<畿内の歴史>
〜2世紀末 唐古・鍵遺跡
--- 3世紀末 邪馬臺国消滅時期 ----
3〜4世紀半ば 纏向遺跡
4世紀末〜ヤマトの天孫降臨↓

産経新聞(2018.11.28)

最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅)
0263名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:02:28.77ID:qojRXB6fO
記紀は政権の正統性を語るために書かれたもので内容は、初っぱなから天地開闢の引用だから皆引用だよ、当然焚書からの引用もある、まともには繋げられない、あくまで参考
0264名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:03:36.75ID:ighlsTRO0
>>258
あれ?九州の本家は無抵抗で分家に吸収されたのw
邪馬台国は狗奴国あたりにやられてるのに、倭国の連合残ってるんだw
0265名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:07:13.03ID:LsW4+6G+0
邪馬台国が滅んだのなら福岡に100万人いた和民や魚民はどこに行ったの?
半島にわたってシラキ屋になったの?
0267名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:08:40.83ID:kEV+ej9S0
>>257
そのデタラメのやりとり、日本史板で九州説側の捏造が暴かれてるだろ
何で捏造がバレてるコピペをしつこく貼るんだ?
嘘で騙そうという意図が明らか


337 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/06/22(土) 16:47:42.95
>>335
>卑弥呼時代に合わせるべく、編年基準を変更した理由
・・・
>おかしいと思ったら基準の側を変更するおかしな畿内説w

ばかではないの?
編年記述を変更なんて、誰もしていない

基準でも何でもない
素人の安物が突然おかしな年代を言い出したから
考古学者である石野が、その素人考えをおかしいと
指摘しただけだが
0269名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:11:33.35ID:XqyXiAiT0
>>264
九州倭国連盟は卑弥呼の死後に揉めて発展的解消した
その後組織の再編成が行われて列島規模の大連合が近畿に発足した

それこそ狗奴国も近畿ヤマト連合には参加してるかもしらんぞ?
神武が身元不明のどこぞの女児連れてきて「こいつ卑弥呼の親戚だから俺が王様な!」って言った可能性すらあるw
0270名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:14:44.30ID:Ft73GZhY0
>>239
孔舎「衛」は孔舎「衙」の写し間違いwww
邪馬「臺」國を邪馬「壹」國と間違えたのと同じケアレスミス
間寛平「ちょっとしたミスさ」
0271名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:15:45.50ID:HXfWyZWc0
>>265
7万戸だから1戸5人として35万人だろ
そのままだな。
0272名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:17:28.06ID:DF9HyAf90
神社の始まりは文鮮明が作らせたことだろう?
日本神道は統一教会の下部組織なんだから。
0273名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:20:57.01ID:XBDtDDOW0
>>232
そうしていおかないと万世一系の建前と整合性が取れないから
0274名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:21:01.02ID:gTBfcrEU0
井の中の蛙は奈良に七万戸あったと妄想している。

可住地面積
奈良県 853(km2)
福岡県 2773(km2)
佐賀県 1332(km2)
熊本県 2732(km2)

弥生時代に耕作可能だった土地の面積
[畿内]
奈良盆地:450km2
河内平野:200km2

[九州]
福岡平野:250km2
筑紫平野:950km2
中津平野:180km2
宮崎平野:800km2

30万人が生活すると仮定すれば
最低でも700km2は必要。
0276名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:27:08.97ID:FrBO5FGs0
祟神天皇には12人の皇子皇女がいて
豊鍬入姫命の兄の豊城入彦命が群馬に飛ばされた
豊鍬入姫命も結婚できない巫女
トヨ兄妹の母親はあまり権力はなかったと思われ
0277名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:27:20.24ID:HdHP2y3s0
まあ箸墓掘ってみよん
0278名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:28:01.56ID:E3WBs8l60
>>266
お、僕は自閉症って言われるとムカつく宣言ですかw
悪口って鏡だからねえw
0279名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:30:53.25ID:FrBO5FGs0
つまり台与は王族ではあったけど継承権はなくお飾り
先代卑弥呼も似たようなものだった可能性がある
裏から男王が支配
0280名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:32:42.86ID:E3WBs8l60
>>274
先生、飛鳥時代ぐらいまでは庶民は粟やきび違いましたっけ?
0281名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:33:03.15ID:XBDtDDOW0
>>167
天智は畿内系
天武は九州系

九州のサチヤマは白村江の戦いのために出兵したが敗北した
サチヤマはとらえられ九州は中国版GHQに監視されていた

近畿勢は唐と関係をよくして九州勢を滅ぼし日本の主導権を握り
以降、日本の歴史は近畿を中心に作りかえられていった

歴史は勝者によって書かれるものだから
0282名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:35:12.93ID:gTBfcrEU0
下記はとある人の見解ですが、100人中100人がこのように疑問を感じる
「畿内説独自の編年基準のズレ」
発表されている年代の多くが整合が取れず、妥当とは言い難いです。

新羅の建国は356年ですから、古式新羅伽耶陶質土器は、その名前からして4世紀半ば頃と考えられます。
布留0式と古式新羅伽耶陶質土器は、九州などでは並行するとされますから、これからすると布留0もその頃になります。
しかし、布留式の開始を3世紀終わり頃とし、こちらの年代を優先すると古式新羅伽耶陶質時もその年代になるというわけです。
庄内期をどうしても卑弥呼時代に持っていかなくては成立しない邪馬台国畿内説の年代観だと思います。
箸墓古墳は、4世紀後半でしょう。
0283名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:35:11.66ID:MgNjjN0V0
>>275
記紀から考えると九州説が有力になって
事実(発掘されたものとか)を考えると畿内説が有力なんだよな

ただ、どっちも決め手に欠けるから、未だに決着つかず
案外どっちにもなくて、全然違う場所にあったりするんかもしれんけど
0285名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:39:32.27ID:+2H7D+P90
九州説の人って捏造やめたら死んじゃう病気なの?
捏造は悪いことだと分かってるけど、捏造やめたら死んじゃうから
やむを得ずやってるんだよね?
0286名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:40:08.90ID:KwvmNmgo0
北部九州の支石墓の下には甕棺墓がある事が多いが、甕棺墓の中の人骨は
縄文人も多いと書いていたな。縄文人と江南人が仲良く共存していたんだろう。
0287名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:40:38.95ID:XBDtDDOW0
邪馬台国は九州に絶対あった確実にあった何が何でもあった

これを明らかにできないのは、天皇家の万世一系の原則が崩れるから

何度も言うが、磐井の反乱(実際は大和王権によるクーデター)によって

邪馬台国の後継国である倭国の王磐井は殺され九州の歴史は抹殺されたのだよ

つまりなかったことにされた

これが事実
0288名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:41:05.27ID:LsW4+6G+0
>>283
記紀の編纂者は邪馬台国は大和という認識だぞ
隋書の「大和が邪馬台国」という記述も見てるし
0289名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:42:36.35ID:XBDtDDOW0
>>283
記紀では九州は意図的に無視されてるから
0290名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:42:41.23ID:HdHP2y3s0
邪馬台国が他国を監視する為に一大率を置いていたとされる伊都国は
大体、糸島半島の南の平原にあったとされるけど
畿内勢力の浸透の度合いを示すとされる、庄内式が一点しか出てない
前方後円墳も、どんなに早くても三世紀末のものから
中国の刺史の如し、とまで言われた一大率が居たにしては余りに畿内の色が薄い
まあまだ出てないだけかもだが
0291名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 13:43:19.79ID:WUtsaUn30
>>281
逆だろ
壬申の乱で兵力の動員を筑紫にかけたのは天智天皇側の大友軍
天武天皇である大海人軍は飛鳥に兵を集め動員要請したのは伊賀や東海の豪族
0292名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 13:45:15.88ID:XBDtDDOW0
>>288
隋書には、近畿からの使者と九州からの使者が中国皇帝の前で
どっちが日本の使者かで喧嘩したとある
0293名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 13:47:53.77ID:gTBfcrEU0
>>290
そういう矛盾点を指摘しても畿内説はろくな返答をしない。
もう完全に歴史捏造モードに入ってるんだよ。
0294名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 13:52:48.69ID:gTBfcrEU0
旧唐書より
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。

■倭國条 〜631年
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
 倭奴国とは、漢委奴国王の金印を貰った国。
 
「去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。」
(新羅の東南一万四千里)
 郡(京)の位置が変わったので表現が変わった。
 
■日本条 701年〜 ヤマト政権の時代
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国の別種である)
 日本は倭国とは別物と言い切っている。
 
 以下、日本人使者の言い訳が続く。

「以其國在日邊,故以日本爲名。」
(日出る国だから改名した)
「或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。」
(字が嫌いだから改名した)
「或云:日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
 
「其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
0295名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 13:55:02.85ID:XBDtDDOW0
>>291
天智と天武の関係を知らんようだな
天智は兄、天武は弟ということになっているが、年齢は天武の方が上

母は同じだが、父が違う異父兄弟だった
天智は畿内の父を持ち、天武は九州の父を持った

天武は天智を暗殺しその息子の大友を滅ぼし磐井の反乱以降弱体化した九州を復権しようとした
天武は槍の名人で畿内で槍をするものなど当時いなかった

天智とは殷の紂王のつけていた宝石
天武とは周の武王

これを意識して天智天武と名づけられた
すなわちこれは易姓革命だったのだよ
0296名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 13:56:49.20ID:WUtsaUn30
>>290
前方後円墳が近畿に出現するのが3世紀中頃だからな
九州で三世紀末なら妥当だろ
0297名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:01:48.16ID:WUtsaUn30
>>295
だから?
天武天皇は忍術使いだけどなw
天武天皇が九州系はないよ
天智天皇の大友軍も筑紫に動員要請したが多くに断られるわけだけど
天智天皇は無茶ばかりしてたからなw
0298名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:01:51.50ID:gTBfcrEU0
史書によると、後漢時代に100か国あった倭奴国が卑弥呼の時代には30か国に減っている。
これはつまり、倭国大乱以降は北部九州(卑弥呼政権)、出雲・吉備政権、畿内・東海政権、、、
などに分裂した状態だったと考えられる。
実際に纏向遺跡の出土品が、北部九州とは疎遠だったことを示している。
0299名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:05:10.72ID:XBDtDDOW0
>>294
唐は北方異民族が建てた国

九州は自分たちこそ周王朝の末裔であり中国文化の継承者と信じていたから
唐と激しく対立した
そのためタリシヒコという名の皇帝(天皇じゃない)を擁立し我こそ真の皇帝とした

唐は九州と対立する近畿と協力して九州を滅ぼした

670年近畿は九州を吸収し統一国家日本を生み出した

また唐は則天武后が一時的に周を作り、元明天皇と同じ女性で気があったため
国名変更に大きな障害がなかった

日本が唐にカブれたのはそういう政治的事情があったのだよ
0300名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:06:03.14ID:HdHP2y3s0
>>296
今は石塚古墳あたりは三世紀前半辺りまで繰り上がってなかったか
福岡市の那珂八幡古墳なんて、三世紀中に繰り上がってる
邪馬台国の時期は二世紀末〜三世紀中だから、畿内勢力の九州浸透って意味では
それ以前から入ってないとおかしい
ただ、伊都国のあった場所に限っては、今のところ、畿内勢力が顕著に入ってきた積極的な証拠はない
一大率という重要な官を置いていたなら、そしてそれが畿内勢力なら
奴国の那珂八幡よりもっと重要な何かが出て来てもいいはずだが
0301名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:07:41.43ID:WUtsaUn30
>>294
倭国の使者が「俺たちは日本だ」と言ってこれまでへりくだってのに
対等外交を求めてきたから唐側が「倭国どうしちゃったの?」てなってる様がよくわかるな
0302名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:14:24.49ID:SLWMJTLF0
>>300
弥生遺跡の出土品を見ると九州が圧倒的に豪華だよ。
品種も量も多いし、平原は女性が手厚く葬られた墓だとわかるし。
0303名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:16:15.41ID:XBDtDDOW0
>>297
だから?
天武は九州系
そのため万世一系にこだわる記紀では出自は徹底的に隠されている
いつ生まれたかのも白紙だし
天智は天武によって京都小倉山で暗殺された
むろん「御隠れになった」だけで真実は語られていない
天武は謎多き人物
0304名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:28:35.07ID:HXfWyZWc0
>>300
古墳の年代が未だに変更されて確定してないのに前方後円墳は畿内を中心に広まったとか捏造だよな。
0305名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:31:25.80ID:KH+MV70t0
>>303
謎が多いのは天智天皇だよ
クーデター起こしたり大和を離れて難波宮を作ったが自分はいつまでも即位せず叔父を天皇にしたが天皇を難波宮に残して勝手に兵を大和に引き上げたり母親を2回の天皇にしたり
百済に肩入れし唐に戦争を仕掛けたり
負けると近江に移ったり、国内を唐と同じ仕組みにしようとしたり、最後は謎の死を遂げる
たぶん暗殺されたんだろうね
それで天武天皇側に多くの勢力が付いて壬申の乱になった
0306名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:32:26.91ID:Ft73GZhY0
>>274
平安中期の水田面積(和名抄より)
大和国 田万七千九百五町九段百八十歩=212km2
河内国 田万千三百三十八町四段百六十歩=134km2
筑前国 田万八千五百余町=220km2
筑後国 田万二千八百余町=152km2
福岡が人口百万なら奈良は90万前後
0307名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:42:33.73ID:HdHP2y3s0
>>304
そっちの方は、前方後円墳の前身と成りうる
陸橋付円形周溝墓(橋付の円形の墓で、橋の部分がいずれ方の部分になる感じ)が関西から出て来た(瀬田遺跡なと)、ていうのがあり
前方後円墳に先立つ巨大双円丘墳が岡山にあったりするので
備前あたりから発生したものが、畿内で大きな前方後円墳として結実した、と考えられなくはないかも
(九州には陸橋付円形周溝墓はほぼ出ず、いきなり前方後円墳、しかも三世紀末あたりから四世紀頃、多数地域に同時なので
畿内勢力に呑まれ、その証として前方後円墳を強要されたのでは、と思える)
0308名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:44:35.25ID:Fe1y+q6k0
>>14
その人曰く
近畿で鉄が出土しないのは溶けて残らないからだそうだ
そんなに特殊な土壌なのかね?
0309名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:51:29.81ID:Fe1y+q6k0
>>47
傍で見てるとホント醜い
真実は脇に置いといて利権の奪い合いしてるだけやわ
0310名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:53:29.24ID:SLWMJTLF0
>>307
九州で発見された半島からの渡航者を葬った支石墓の例からすると
墓の形式は被葬者の出身国や宗派に応じて作られていたとも考えられる。
前方後円墳の時代には、前方後円墳しか作られていなかったという訳でもないので。
角張った前方後方墳も作られていたし、前方後方墳の上段が前方後円墳
になった複合型もある。
だから前方後円墳で統一されていたというのは、学者の偏見によるものだと思う。
0311名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:55:45.54ID:XBDtDDOW0
>>305
何度も言うが、天智とは殷王朝最後の悪王紂王の宝石のこと
天武は周王朝の武王のこと

つまり天智を悪王としそれを成敗した天武は周の武王のように偉大だとしたかったのだろう

記紀の天武の年代を見ればわかるようになんと白紙なんだよ
つじつま合わせに苦労したのだろう

これ以後、天智系と天武系で骨肉の争いが起こる
最終的に天智系の天皇が残るわけだが、天武系の天皇は見事に位牌など同じ場所に置かれていない
いかに天武系を冷遇したかわかるだろう

万世一系なんてとんでもない
天智天武は日本版易姓革命なのだよ
0312名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:57:36.98ID:Fe1y+q6k0
>>51
天照大御神の別称が大日女
同じヒメの呼称を用いるのに関連性がないと考える方が不自然だね
ただ普通に背乗りした線が濃厚な気がするけど
0313名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 14:58:06.93ID:qojRXB6fO
いやいや日本国と名を変えた時点で乗っ取り完了だよ、後は半島、百済、新羅、高句麗の主導権争い。倭五王が半島制圧辺りからじっくり忍びこんでやがてひっくり返されたんだよ。
0314名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:01:39.12ID:Fe1y+q6k0
>>58
倭人ってのは中国沿岸からベトナム辺りまで住んでたらしいし、周の時代から朝貢を行っていた記録がある
詳しいなんてもんじゃないよ
0315名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:04:38.36ID:HdHP2y3s0
>>310
少なくとも支配者階級には前方後円墳を強要していたのでは、と思えるな
全方後方墳は九州にもあるが、えらい辺鄙なとこだしな
当時の前方後円墳は目立つ場所に、それなりの大きさで作られてるので
部下の宗教は知らず、少なくとも支配者階級には強要したのでは
0316名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:08:23.31ID:yGxWf1Km0
>>310
学者もそのことぐらいは当然わかっているよw
前方後円墳体制というのは、そういう中央集権的な主体による古墳の序列化があって、地方もそれに従ったという意味
なので、前方後円墳だけを指しているわけではない
あと、2世紀までの北部九州は確かに豪華なんだけど、3世紀になると並みになって、遺跡数も格段に減るんだよなあ
なにより王墓としても使われた甕棺墓がなくなるのに合わせて、前方後円墳や、畿内的な円形や方形墳丘(周溝)墓に置き換わっていく
0317名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:14:29.50ID:SLWMJTLF0
>>316
そういう屁理屈って学術的回答とは言えないでしょ。
いわゆる根拠は想像ですというやつ。

全うな回答例とか探してきてよ。
0318名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:26:05.49ID:KH+MV70t0
>>311
結局なんで天武天皇が九州系なのかさっぱりわからんw

天智天皇は暗殺されて壬申の乱で皇子も殺られてしまうわけだからな
天武天皇が即位して大倭ではなく日本を作った
遣唐使を止めて日本風にこだわり、今の日本文化の原点を作った
万世一系のルールを完成させたのも天武天皇だろ
0319名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:28:20.65ID:HXfWyZWc0
前方後円墳体制とか妄想だな。
その前に古墳に埋葬されてた人の人骨の年代決定とDNA分析をしてデータを蓄えないとな。
0320名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:28:59.60ID:gTBfcrEU0
よほど資金調達が困難だと見えるw
根拠不明でも有力候補だと言い張るしかないんだなw
 
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会

奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
0321名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:32:29.77ID:SLWMJTLF0
>>319
そういうの理系だと普通の事なのにね。
想像で結論を出してる考古学者って学者として扱えないと思う。
0322名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 15:35:16.89ID:E3WBs8l60
天智を天武が憎んでた。額田王の件で
普通はこう考えるが、九州説は自説に絡めるため影の陰謀とこう考えられるでMMR状態w
0324名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:36:50.99ID:N9n92Wlw0
本当は九州だけど奈良にしといてやってるみたいな流れなに?
0325名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:40:47.29ID:HXfWyZWc0
>>323
外見だけで判断してると大間違いしてる可能性が高いよ。
0326名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:43:21.00ID:HdHP2y3s0
前方後円墳が三世紀末から四世紀以降なら、記紀の九州征伐にも被る
北九州の墓遺跡が二世紀から三世紀にショボくなるのは(平原をどの時期に置くかにもよるが)
倭人伝をみる限り、邪馬台国が各国に官を送って支配してる以上当たり前では
(記述を見る限り、王が居るのは伊都国、邪馬台国のみ。奴国にも居ない)
前方後円墳はその邪馬台国体制を砕いた後の
畿内による支配のやり方の跡、と見る事は出来るかも
0327名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 15:49:13.26ID:gTBfcrEU0
箸墓が卑弥呼の墓だという話は学者も研究所も否定しているな。
「箸墓古墳=卑弥呼の墓」というのはいったい誰が言ってるんだろう?

以下、参考記事
白石太一郎は「箸墓古墳が卑弥呼の墓であることの
可能性は低い、というよりは証明しがたい。」と述べる

石野博信は3世紀後半とすれば台与の墓、

箸墓を寿陵と考える寺沢薫は壹与の墓説やミマキイリヒコ
(崇神)などの男王の墓説も浮上してこようと評価している。

奈良県立橿原考古学研究所自体は築造時期を
280〜300年(±10〜20年)と推定しており、
卑弥呼の没年とは年代的に矛盾する。
またC14炭素年代測定法による推定は100年程度古く
出ることがわかっており、この墓が卑弥呼の墓で
ある可能性は低くなっている。
0328名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 15:50:17.66ID:HXfWyZWc0
畿内説のアホな奴が3世紀後半に北部九州は衰退したとか言ってたが
調べたら彼の考えでは3世紀後半の北部九州の古墳が無い事になってたw
卑弥呼の墓の候補を無くす為に北部九州の3世紀後半古墳は全て年代を繰り上げるか繰り下げるかされてたんだ
それで空白の3世紀後半が生まれ、一旦北部九州は衰退したとのトンデモ論が生まれてたwww
0329名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:50:47.18ID:KS/ur1ys0
>>253
簡単な話で神武は架空だと大和朝廷が知ってたから。
実在してたら遅くとも奈良平安にそれを祭る神社を創建しているさ。
0330名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:50:56.18ID:KwvmNmgo0
関西人は神武東征を否定する者が多いようだが、関東の古社である鹿島神宮と香取神宮には
神武東征に貢献した神様を祀っているからそれはとりもなおさず鹿島神宮と香取神宮の
存在を否定しているのと同じ事なので関西人は九州人と関東人の敵と言う事になる。
0331名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:51:18.03ID:XBDtDDOW0
>>318
天皇家内で天武系(九州)と天智系(近畿)で指導権争いが続いた
これは事実

天武の父は東漢駒で九州の王だった

天武は九州再興を願ったが、磐井の反乱以降弱体化した九州にそれだけの力はなかった
周囲が近畿だらけで天武は従わざるを得なかった
天武は天智のすべての娘と結婚し天武系を増やしたが、
それもかなわず天智系になびくことになった

世界史的にみても女系が乗っ取ったのは興味深い事例だよ

天武は九州再興を目指したがあまりに多勢に無勢で結局、天智系になびかざるを得なかった

日本は女のほうが強いのだよ
0332名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:55:22.09ID:XBDtDDOW0
>>330
なぜ平安時代に征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷のアテルイの反乱を鎮圧したか?

それは日本全国、九州の倭国こそ日本列島を統括するリーダーだったから

それを裏切った近畿を許せなかったため

東国が反旗をふるったのは、近畿が九州を裏切り滅ぼし日本国のボス面しだしたため
0333名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:56:27.80ID:gTBfcrEU0
>>328
おかげで全国の古墳年代がずれ込んでしまって、どれが誰の墓なのかよく分からなくなってきた宮内庁w
0334名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:57:48.17ID:XBDtDDOW0
>>324
奈良こそ今の皇室のルーツということにしたいから
0335名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 15:59:25.87ID:SLWMJTLF0
>>330
神武東征が成功したのは日を背に戦ったから。
俺はこれを、東日本の協力のもとに戦ったから、と解釈してる。
0336名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:03:59.47ID:XBDtDDOW0
>>327
卑弥呼の墓は宇佐神宮に存在する

比女売大神がまさにそれ

称徳女帝が道鏡を天皇にさせようと神託をうかがいに和気清麻呂を送ったのは

伊勢でも奈良でも京都でもなく宇佐に行かせたのは

そこが先祖代々の地であったから

お前らもご先祖様にお伺い立てるときは先祖の墓に行くだろ
だから邪馬台国も宇佐にあった
0337名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:06:16.30ID:KwvmNmgo0
鹿島神宮の御由緒から抜粋
鹿島神宮のご祭神武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)は神代の昔、天照大神の
命を受けて香取神宮のご祭神である経津主大神(フツヌシノオオカミ)と共に
出雲国に天降り大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し日本国建国に挺身
されました。
0338名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:10:26.05ID:MXjeB1YH0
北部九州で畿内式の完形前方後円墳が
作られ始めるのは4世紀後半からだね。

それまでは円墳や方墳、古い纒向型
前方後円墳だね。

各地にバリエーションが多い
纒向型前方後円墳は日本中に作られて
畿内発の完形前方後円墳が
4世紀後半くらいに広まって来るようだ。
0339名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:11:30.45ID:XBDtDDOW0
>>335

神武はヤタガラスの誘導の元、太陽に向かって東征した

その行き着いた場所が、生駒山の下の日下(くさか)
この日下こそ日の本つまり日本の起源なのだよ

そのほか大阪には古代の地名がたくさん残ってる
羽曳野も大和武尊発祥地とされる
日本国第一の忠臣楠木正成も大阪出身

大阪は扶桑国とも呼ばれその由来はやはり太陽
つまり太陽の下、まさに日本そのものなのだよ

神武は橿原で天皇に就任し、太陽を背にして東国を治めに行ったわけ
0340名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:16:46.63ID:CsYeJNFX0
古事記だかではヒミコは暗に神功皇后みたいなことになってるけど、
当時くらいだと真実はわかっていたのだろうか。。
0341名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:19:02.14ID:yGxWf1Km0
>>317
なにがどう屁理屈なのかはしらないが、学術的な回答が欲しいのなら他人に任せにせずに自分で捜せば?
世の中にはいくらでも発掘調査報告書、論文、学術雑誌類があるのだから

また、こういうすぐに消えてしまう一般向けの掲示板において、他人に学術的回答を求めるのであれば、そして、
都出比呂志先生などの学者研究者によって提唱された前方後円墳体制系の論文を否定したいのであれば、
君も学術的な反論を要求されるんだよ? わかってる?
つまり論文を書いて、学術の世界で戦うことになるな

口を開けて、受け身で、俺様を納得させるために学術的な回答くれくれと言ってるだけでは、学者の論文は
否定できないということだ
是非、頑張ってくれ
0342名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:19:05.50ID:XqyXiAiT0
>>340
ほんとにそうならきちんとそう書く
そうではないのに権威だけ背乗りしたかったから仄めかして書いてある
むしろ神功皇后が攻め滅ぼした方がヒミコまである
0343名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:21:46.81ID:K06ItUtA0
★日本の八百万の神々 1

日本の八百万の神々の大部分は、朝鮮半島とは
何の関係もない。

古墳中期以降に、鴨緑江や豆満江を越えて古代
韓半島を侵入した鮮卑や扶余や濊貊といった北方
系系族による侵略蹂躙が常態化した古代韓半島。

3世紀中頃は百済は馬韓諸国の中の小邦で、現在の
ソウル付近の小領主。
新羅は辰韓諸国の中の小邦で現在の慶州付近の
小領主。
(魏志韓伝)

4世紀後半から5世紀には海や半島南端の倭国領域
からの倭国軍による侵攻が百済の国境まで常に迫って
おり、また新羅の首都には倭国軍が攻め込んでいました。
(広開土王碑参照)

北方と海や南からの外的勢力からの物理的脅威と
韓半島内の同族・近親族からの相互侵攻の不信感
や挑発の続く中、いわゆる古代半島難民が渡来。

その各難民集落は朝廷が管理し、その集落ごとに
半島難民の先祖信仰の祠ができた。
それらは旧石器時代や縄文時代や弥生時代の古く
から日本列島に存在したものではない。
0344名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:24:27.05ID:SLWMJTLF0
>>341
考古学論文なんて常にその時代における一見解に過ぎない。
汎用性、再現性の高い科学的証明によって導かれた結果であれば、「結論」と言えるが。
0345名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:24:37.70ID:K06ItUtA0
★日本の八百万の神々 2

例えば、スサノオ(素戔鳴尊)、オオナムチ(大国主命)、
オオモノヌシなどは、縄文や弥生時代から日本列島の
それぞれの地方で信仰された土着神である。
朝鮮半島とは何の関係もない。
その代表的例に挙げられるのは、出雲の荒神谷出土
の三五人本の銅剣である。


出雲の三五八本の銅剣の鉛の同位体比からは、
卑弥呼と同時代のものとみられる。
もちろん、オオモノヌシやオオナムチ信仰圏に重なる
各種銅鐸の広がり、足守銅鐸や熊野神社蔵銅鐸なども
同位体比から卑弥呼の時代のものである可能性が
ある。
卑弥呼の時代には、華北の銅がかなり輸入された。

ハチマン(八幡)なども、そもそもの由来は、太陽の
出る地点や地域を信仰の対象にした、列島先住の海人系の
信仰である。辛島氏の大陸巫術のなど後世の内部の諸
事情を抱えながら紆余曲折を経て、現在の民間信仰の形
となっっている。
伊勢が太陽の出る地方であり、土着の磯部氏の信仰対象で
ある太陽神である天照大神として祀られたものであるが、元々
は対馬での太陽神が海人によって勧請された形になっている
ので日本の信仰観の中では理解しやすい。
0346名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 16:25:07.37ID:9O97ShIL0
どう見ても連合政権の痕跡がある巻向が倭国大乱のあった邪馬台国ておかしくね
0347名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:27:35.04ID:K06ItUtA0
★日本の八百万の神々 3

日本では海の入り江や重要な津の地点には、土着海人による
海神の社が建つ。大社が海と深くつながるのは、その海や海流の
向うに、常世、ニライカナイの常世の国や竜宮をみるからである。

出雲大社も神門水海の入口、物部系の鹿島・香取の両社も
霞が浦。八幡宮の総本社宇佐八幡も周防灘に面し、航海の
神の金刀比羅宮も現在ではかなり奥に入っているが、大物主
が祀られ、そもそもは海神との結びつきの強い神社。
インド由来のナーガ竜神系信仰が海神として土着の列島
海人によって持ち込まれ、その竜神である海神が航海安全
や雨乞いの神として民間信仰され宇佐の場合とは違い元型
が保たれているものとなっている。

天日矛についてであるが、垂仁紀初期に、天日矛が播磨国に
来て大友主と外務官が査問しているが、その後も新羅の王族
に対しても、殆んどの申し出を撥ねつけているが、これは同時
代の出雲祖的存在と言える野見宿禰と奈良盆地南西部で勢力
を強めつつあった半島渡来の当麻蹴速の天覧相撲にも当時の
外来者に対する朝廷の態度がうかがえる。

これは第七代孝霊天皇皇子の吉備津彦による百済人鬼の征伐と
同じ構図といえ、天日矛の場合は出石の民に迎えられることに
なったが、百済鬼の方は征伐されたが、妻の阿曽がその窯茹で
祭祀を引き継いだが、本来の日本の神とは関係はない。

その妻、赤留姫については、天日矛の家庭内暴力とモラルハラス
メントからの日本への帰郷であるが、古代では新羅の王族に嫁いだ
倭国の姫もいたということだが、御付きの倭人が得意の船で赤留姫
を逃がし、そういう事例が少しはあったというころであろう。
場合によっては、半島の姫が日本に逃げ込んでくる事実かなりの
件数あったのかもしれない。
0348名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:28:18.51ID:KwvmNmgo0
橿原神宮のHPに記載されている御由緒の抜粋・・・・奈良県橿原市久米町
天照大神の血を引く神倭伊波禮毘古命(後の神武天皇)が豊かで平和な国づくりを
めざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、
畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を創建されました

八咫烏神社のHPに記載されている御由緒の抜粋・・・・奈良県宇陀市榛原高塚
御祭神の八咫烏大神は建角身命(たけつぬみのみこと)と御名を称えられています
伝承によると神武天皇が大和に東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと
道案内し、天皇の勝利に貢献した八咫烏の化身として伝えられています。

多家神社・埃宮・・・・ 広島県安芸郡府中町 宮ノ町
この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた
所と伝わる。
『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かんやまといわれびとのみこと)が七年坐すとあり。
『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。
この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。

岡田宮のHPに記載されている御由緒の抜粋・・・・北九州市八幡西区岡田町
神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、
この地に留まり給う由「古事記」にあり。
0349名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:32:54.77ID:XBDtDDOW0
>>346
おかしいよ

倭国は九州のこと

畿内は扶桑国と中国から呼ばれていた
0350名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:34:15.57ID:KwvmNmgo0
勘違いをしている者がいるようだが、ここのスレは神社のスレであり、古墳のスレでは無い。
0351名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:34:36.35ID:uBlBCfHE0
九州説ってファンタジー小説だからなぁ
0353名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:42:08.84ID:gTBfcrEU0
土器様式によって勢力圏を判断する畿内説によると、
東海政権がTOP政権となってしまう件w

■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。

■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。

■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土するので
纏向は東海政権の傘下にあったと考えられる。
0354名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:49:33.94ID:HdHP2y3s0
トウカイテイオー
いやなんとなく
0355名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 16:57:03.00ID:f4SAuKSw0
九州説の書き込みの9割以上は、嘘や捏造、研究者に対する誹謗中傷、
根拠のないラノベ、文献曲解のトンデモ説
0356名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:02:30.55ID:KNxlsc9/0
ヤマト政権が始まる前の八十神がいた芦原中津國は何処だろうか?

芦が散るはなにわの枕詞
聖武天皇の難波行幸に従駕したの笠朝臣金村詠んだ一首にも
押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし郷と‥
と歌われている

芦原中津國はなにわを中心とした近畿地方なんじゃないか?
芦原醜男は大国主の別名
大国主とスクナヒコナが国作りをしたクニはなにわを中心とした芦原中津國では?

芦原はアイヌ語で【サル】
サルで思い出すのがサルタヒコ

そしてサルタヒコは出雲の姫神である幸神とクナトの神の子

芦原中津國とクナトが結びついたな
芦原中津國はクニ、狗奴国のことかもしれないね

皇御孫之命は、高天原で事を始めた八衢彦、八衢姫、クナトである。

さて、どういうことなんだろうか?
0357名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 17:03:57.60ID:KNxlsc9/0
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、巨大銅鐸のあった守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い

万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?

信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
0358名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:04:37.83ID:Ft73GZhY0
>>314
ソースは?
0360名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:17:08.03ID:yKq1wOTP0
どこかにあるけど、奈良ではない。
0361名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:17:47.75ID:SLWMJTLF0
>>357
それら各地の遺跡の最盛期が、
北部九州→出雲・吉備→滋賀→奈良のように並ぶと、
東征説や東遷説の可能性は大きい。
実際に記紀は東征説で、中国の新唐書は東遷説。
0362名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:20:31.51ID:+EjcC3R90
日御子さまの占いが2度も1年の間に皆既日食によって外れた
ことにより殺されたか呪術師としてのカリスマ性を失って失脚した
ことについての問題はどうかんがえるのだろうかね?
地面を穿り返すだけじゃなくて気象科学方面からの視点で
日食により最も太陽の影が強く現れた地点とかで
卑弥呼の当時の居場所などがある程度決まると思うんだよね。
0363名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:25:19.70ID:+EjcC3R90
考古学の方々は自分達の営利となるために地面を穿り返す事での
視点でしか考えないよなw
純粋に卑弥呼のいた場所を絞るにはやはり皆既日食を1年に
2度みる結果となった当時の場所を気象データから
コンピュータ解析調査してゆくべきだと思うんだよ。
0364名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:26:20.80ID:Ft73GZhY0
>>329
神武即位が社会的変革が起こるとする辛酉革命説に従って
作為的にキリスト教起源前660年の辛酉の太陰太陽暦元旦と決められた。
0365名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:32:09.76ID:+EjcC3R90
太陽信仰の衰退は日食が原因なのだよ。
呪術から律令制に変わるのは卑弥呼の太陽信仰の衰退だろうからね。
邪馬台国とは卑弥呼の太陽信仰の権力だが
漢字の邪馬台国(やまたいこく)は当て字であり
「やまと」と呼んでも別におかしくは無いし
日本全体の地域を魏国がそう呼んでいただけで正式な大和という名は
もっと後からつけられたものですからね。
0367名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:34:48.23ID:XqyXiAiT0
>>355
「桃の種は卑弥呼の鬼道の可能性がある」←これこのスレの書き込みと同レベルだぞ
0368名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:36:02.32ID:IZ5NS9Yr0
>>198
この説が一番しっくりきた
神話や地名に九州リスペクトがちらほらあるの望郷の念に駆られたからなのかも
0369名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 17:37:38.85ID:+EjcC3R90
纒向遺跡を調査する費用ほしさに安易に卑弥呼の名を
利用するような者は信用できない。
0370名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:40:56.82ID:f4SAuKSw0
>>367
こうやって自分の知識不足が原因で畿内説の説明を曲解しておいて、
難癖つけてくるんだよな
0371名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 17:42:53.22ID:+EjcC3R90
王墓、陵墓というのは中国の影響が色濃いよね。
そう考えると律令制を導入した時期の物だと思うわ。
太陽信仰の呪術師である卑弥呼の物じゃないと思うよ。
0372名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 17:49:02.93ID:hCLf4fFB0
>>362
どこに記述があるんのか?
死後で又内乱、一族の台与で治まる。
暦を持たない文化。
種植時期、収穫等を決定していたのだろう。
0373名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:00:50.86ID:LsW4+6G+0
>>371
卑弥呼が太陽信仰なんてどこに書いてあるんだ?
百襲姫は太陽信仰だけど
0374名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:01:22.67ID:Ft73GZhY0
>>365
邪馬台国(やまたいこく)という読みは
呉音=五胡十六国時代以降の北朝系漢字音な。
元北朝系で現在は江南に難民となって移住した広東人が「臺」をトーイと発音してるので
邪馬臺はヤマトと読むのが妥当。
ちなみに広東語と日本語は朝鮮語と違って母音の長短で意味を区別する。
ラテン語も母音の長短で意味を区別する。
朝鮮半島からの帰化人、渡来人は日本語の音韻には何等影響を与えなかった。
0375名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 18:03:54.35ID:gTBfcrEU0
>>370
奥山くん、自閉症と躁鬱病と被害妄想と幻覚症が出てますよw
まず畿内説=奥山説でない事を自覚しましょうね。
そして奥山君=学者ではない事も理解しましょうね。

そろそろ病院池w
0376名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:10:00.70ID:f4SAuKSw0
>>375
畿内説の書き込みがすべて奥山って人のものだと思い込んでるのか?
それこそ病気だ
0377名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:10:18.05ID:XBDtDDOW0
>>366
日本中すべて九州の倭国王にしたがっていた

しかし畿内が唐と結託して倭国を裏切り滅ぼし統一国家日本を創った

それを受け入れられない東国や蝦夷が反乱したというわけ
0380名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:13:35.26ID:XBDtDDOW0
>>352
扶桑国とは太陽が昇る東を指すから中国から見て東をすべてそう呼んでいても不思議じゃない

畿内も明らかに扶桑国と呼ばれていた
0381名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:15:51.98ID:Ft73GZhY0
>>339
楠木正成は河内国出身
楠木正成を祭った楠公神社(さん)は神戸市生田区(現中央区)にある。
水戸黄門が参拝して「嗚呼忠臣楠子墓」と揮毫した。
浪速、摂津出身ではないから念の為件の如し。
0387名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:25:50.16ID:yMRYyDrX0
好き勝手に名乗ればいいと思うよ
地域活性頑張ってくれw
0388名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:27:36.00ID:83nJPRVy0
>>382
毎日引きこもってネトウヨやって畿内妄想説に浸って宣伝してって大変だなw
ほんで時給0円だっけ?
よくやるよw
0390名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:30:07.52ID:tpOfrtcq0
>>376
別スレで俺も奥山君扱いされた。
明らかに病気だよな。
0393名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:34:13.22ID:LsW4+6G+0
>>390
俺はまだ奥山君扱いされてない
彼の心を揺さぶるようなレスしてないんだろうな
0397名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 18:42:21.78ID:DSXNxsx+0
日本人は古代中国人と古代朝鮮人のハイブリッド
0398名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:02:54.41ID:HXfWyZWc0
>>396
日本史版では畿内説は少しお頭の足らない人扱いされてるなw
0399名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:10:08.16ID:AavrlwQK0
奥山って三角縁神獣鏡が魏鏡とかいってるガイジだよ。
纏向も箸墓も卑弥呼の記述に合わないから
似非科学まで振りかざして必死。
0400名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:18:10.14ID:Us4sdxHx0
>>162

韓神

『古事記』や『延喜式』神名帳などにみえる神。「韓」は朝鮮の意。よって,神名は朝鮮国の神の意。
朝鮮半島からの渡来人およびその系統の人々によって祭られた神。
『古事記』には,須佐之男の子である大年神と伊怒比売との間に生まれた第2子としてその名が挙げられており,
新羅国の都である徐伐(現在のソウル)をそのまま名とした第3子の曾富理神と共に,古代朝鮮との密接な関係を反映する。
『延喜式』神名帳には,宮内省にいます神として園神社,韓神社の名が挙げられているが,韓神が宮内省に祭られるように
なった由来は大江匡房の『江家次第』にみえる。それによれば,この神は延喜(901〜923)以前から宮内省に鎮座していたが,
遷都の際に他所へ遷そうとしたところ,自分はずっとここで帝王を護りたいというこの神の託宣があったので,宮内省に祭ることになったという。

朝日日本歴史人物事典


韓神

「古事記」にみえる神。
大歳神(おおとしのかみ)と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた5神のうち,第2神とされる。
朝鮮から渡来した人々にまつられた。「延喜(えんぎ)式」神名帳には,韓神社が,宮内省にまつられる神としてあげられている。

講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus


韓神

御神楽(みかぐら)に歌う神楽歌の曲名。現行の歌詞は,本歌〈三嶋木綿(みしまゆう) 肩に取り掛け 我れ韓神の 韓招?(からおぎ) せんや 韓招ぎ〉,
末歌〈八葉盤(やひらで)を 手に取り持ちて 我れ韓神の 韓招? せんや 韓招ぎ〉を2回くり返し,2回目は本歌,末歌とも初めの1句を省く。
1回目を《閑(しず)韓神》,2回目を《早(はや)韓神》といい,後者には人長(にんぢよう)の舞がある。韓神は平安遷都以前から皇居の地にあって,
遷都後もとどまってここに祭られた神であり,この歌はそれを招く意の歌である。

世界大百科事典 第2版
0401名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:19:05.13ID:Us4sdxHx0
韓神

古代、園神そののかみとともに宮内省にまつられた神。
古事記神話では大年神おおとしのかみと伊怒比売いのひめとの間の子。
大己貴命おおなむちのみこと・少彦名命すくなびこなのみことの二神とする考えもある。からのかみ。

大辞林 第三版


韓神

(朝鮮から渡来した神の意) 昔、守護神として宮内省の中にまつられていた神。
「古事記」には大年神(おおとしのかみ)と伊怒比売(いぬひめ)との間の子とし、
「大倭神社註進状所引旧記」には大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名神(すくなひこなのかみ)の両神とする。
平安時代には、園神(そのかみ)とともにまつり、韓神祭(からかみのまつり)が盛大に行なわれた。からのかみ。

※神楽歌(9C後)韓神「〈本〉三島木綿(ゆふ) 肩に取り掛け われ可良可見(カラカみ)の 韓招(からを)ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎせむや」
※散木奇歌集(1128頃)冬「百首歌の中に神楽をよめる からかみに袖ふるほどは殿守のともの宮つこみひしろくたけ」

精選版 日本国語大辞典
0402名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:19:24.60ID:Us4sdxHx0
世界大百科事典内の韓神の言及

【園韓神祭】より

…平安京宮内省内にまつられていた園神と韓神との祭り。園・韓神は平安京造営以前よりこの地にあり,帝王を守らんとの神託により他所に移さずにまつられた。…


【御神楽】より

…現行御神楽の原形である〈内侍所(ないしどころ)の御神楽〉は,《江家次第》《公事根源》等によれば,一条天皇の時代(986‐1011)に始まり,最初は隔年,
白河天皇の承保年間(1074‐77)からは毎年行われるようになったという。
これより古くから宮中で行われていた鎮魂祭,大嘗祭(だいじようさい)の清暑堂神宴,賀茂臨時祭の還立(かえりだち)の御神楽,平安遷都以前から
皇居の地にあった神を祭る園韓神祭(そのからかみさい)等の先行儀礼が融合・整理されて,採物(とりもの),韓神,前張(さいばり),朝倉,其駒(そのこま)
という〈内侍所の御神楽〉の基本形式が定まり,以来人長(にんぢよう)作法,神楽歌の曲目の増減等,時代による変遷はあったものの,皇室祭儀の最も重要なものとして,
よく古式を伝えて今日にいたっている。 御神楽は夕刻から深夜にかけて,神前の庭に幕を張って楽人の座を設け,庭火を焚いて座を清め,これを明りとして行われる。…
0403名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:19:34.05ID:Ra5y59UG0
まあ畿内説はみんな根拠を示さない人格攻撃ばかりしてるから同一人物だと思われても仕方がない

畿内説の人もも内心ではヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼なんて思ってないだろ?
0404名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:21:42.00ID:VwP6rmAJ0
いまさら畿内説を主張してもタンつぼ大阪が滅茶苦茶してるからメリットがない。
九州説で博多九州とともに神戸兵庫、奈良京都堺はようやく発展可能。
0405名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:22:01.53ID:Us4sdxHx0
これは古代中国に朝貢に訪れた各国(左から倭国、新羅、百済、高句麗)を
中国の絵師が書き留めていた資料(唐閻立本王会図 6世紀中国の使臣図)
http://kstatic.inven.co.kr/upload/2017/02/06/bbs/i14310178719.jpg


高句麗、百済、新羅は靴を履いて綺麗な布を身に纏っているが
倭国だけは裸足でオムツみたいなのを巻いてるだけ
新羅に至っては花郎という実際に存在した美少年組織そのまま表されてる

花郎 (つい最近BSフジで再放送やってた)
http://knda.tv/datvspecial/faran/img/main.jpg


注目すべきは百済  安倍そっくり
0406名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:22:07.08ID:IIOqhY8v0
>>24
>皇室が存在してるのに女王が存在するわけが無い

その時代に日本の端から端まで情報が行き届いていなかった可能性も考えられるからな
皇室の存在を知らず独自に国を形成していた地域があっても不思議ではないだろう
0408名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:29:38.94ID:Us4sdxHx0
>>162

赫居世居西干

(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年 )は、
斯蘆国(新羅国)の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を赫居世とする。

名の由来

赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、
「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある。
『三国遺事』の指定する訓によれば「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という

姓氏の由来

『三国遺事』によれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。
そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある。
また赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるためそのまま「朴」になったとも考えられている。

現代で朴姓を持つ一族のうち最大の規模をもつ密陽朴氏は赫居世の子孫を名乗っている。
朴一族は創氏改名の時代に日本名を名乗ることになった当時、赫居世が新羅国を建国した事と
蘿井という井戸に近い場所で生まれたという故事から新井姓を通名として使用する事を好んだ。
他に朴の字を分解した「木下」姓を名乗ることも多い。
そのため苗字が新井または木下という人は韓国・朝鮮籍の人間であるという話が広まったが、
新井や木下という苗字自体は日本に古くから存在しているため新井姓や木下姓がイコール通名というわけではない。
ただ通名である場合本姓は朴であることが多い。
0409名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:32:16.61ID:KwvmNmgo0
邪馬台国奈良説を書き込む者にはバックに相当な資金を都合出来るシステムが存在している
と考えるのが正しい。そうでなければあんなザルのような屁理屈を書ける訳が無い。
0410名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:36:29.53ID:Us4sdxHx0
武王=舒明天皇、義慈王=孝徳天皇、翹岐=天智天皇、淵蓋蘇文=天武天皇、
武王の妃=皇極天皇、斉明天皇であり、智積=鎌足となり、金ユ信は淵蓋蘇文の義父となっている
さらに、文武天皇は淵蓋蘇文の子であり、新羅の文武王であったが、681年に死んだことにして
日本に亡命し、軽皇子として吉野で蟄居していた
そして文武天皇となったという話

日本正史では以下のようになっている

推古(592-628)→舒明(629-641)→皇極(642-645)→孝徳(645-654)
→斉明(655-661)→中大兄称制(661-668)→天智(668-671)→弘文(671-672)
→天武(673-686)→持統称制(686-690)→持統(690-697)→文武(697-707)
0411名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:36:35.82ID:dblYPxB/0
>>409
学歴社会を恨むしかないよな

わめきさわいでも論文として認めてもらえなくて辛いよな
0413名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:40:03.62ID:Us4sdxHx0
八坂神社 創祀

当社は慶応4年(1868)5月30日付の神?官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀に
ついては諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を
山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。

また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東の麓、
祇園林に垂跡したことに始まるともいう。

伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日
本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、そ
の祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一
人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)
・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などと
して近畿地方に繁栄した。

天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まり
ともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円
(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
0414名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:47:34.06ID:Us4sdxHx0
八坂郷鎮座大神之記
齊明天皇即位二年丙辰八月韓國之調進副使伊利之使主
再來之時新羅國牛頭山座須佐之雄尊之神御魂齋祭來而
皇國祭始依之愛宕郡賜八坂郷並造之姓十二年後
天地天皇御宇六年丁 社號為威神院宮殿全造營而牛頭
山坐之大神乎牛頭天王奉称祭祀畢
淳和天皇御宇天長六年右衞門督紀朝臣百繼尓感神院祀
官並八坂造之業賜為受續  奉齋御神名記
神速須佐乃男尊    中央座
『八坂社舊記集録』上
0415名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:48:07.85ID:Us4sdxHx0
「ソシモリというのは、地名ではない「ソシ」は「高い柱」、
「モリ」は「頂上・てっぺん」の意味
したがって、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意味だ」
「牛頭天王の「牛」は「ソ(シ)」という音にあたる漢字の牛を当てはめただけ」という

韓国慶尚北道高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実在していたという
その山は高霊の現加耶山である
加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名で、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたそうだ
「牛の頭」は韓国語のよみで「ソシモリ」
その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、
山全体が大きな牛が座っているように見えるからだという
さらに白雲里には「高天原」という地名まである

鳥トーテム(ソッテ)
http://inoues.net/korea/zenra0031.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/201108/20/75/c0139575_1516539.jpg
0416名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:48:30.54ID:Us4sdxHx0
秦氏に混じって穢族(わいぞく)が伝えた

前田速夫は狛犬の狛(高麗=高句麗)は貊族の「貊」が起源で、鳥居も「鳥竿」「ソッテ」の変形である。
新羅神社 百済神社 高麗神社など国名がそのまま名称に移行した神社は言うまでもない。
神社や社殿に付属する鳥居、狛犬が備わる以前は、対馬の卒土のような、あるいは沖縄の御嶽(うたき)のような、聖なる森だったに違いない。
と穢族(わいぞく)が秦氏と混ざり、南下して日本に伝わったと述べている。

魔除けの役割を担う狛犬は、平安時代末期、それまでは天皇の御座の左右におかれていた獅子、狛犬が神社の境内に進出したものであるという。
仁和寺の仁王門裏には、立派な角のある一角獣がいる


鳥居の原型
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/17/01/91/500_17019166.jpg
http://stat.ameba.jp/user_images/20100207/09/2626150/d0/00/j/t02200293_0240032010404207233.jpg
0417名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 19:58:45.56ID:Eeklstx50
タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
研究員:ID:dblYPxB/0

1 名前:1 ◆UiepmfCeDJqf [sage] 投稿日:2019/06/28(金) 11:22:31.49
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
0418名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:06:46.98ID:HXfWyZWc0
>>403
畿内説は魏志倭人伝の内容を滅茶苦茶に解説して
魏志倭人伝は頭の可笑しい陳寿が書いた意味不明な書物にしたいんだ
邪馬台国は永遠の謎として残したい
でないと記紀が偽書だとバレてしまう。
0419名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:12:26.80ID:Eeklstx50
注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。

タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

※思考回路:WEB閲覧→妄想→派生した妄想→史実挿入→幻覚見ながら結論。


 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

※思考回路:史料曲解→事実歪曲→妄想→妄想に関する結論
0420名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:26:15.37ID:KwvmNmgo0
関西人に下戸が多いのは中国南部からの渡来人の遺伝子が強いとか大嘘で
実際は他の地域の日本人よりも縄文遺伝子が非常に少ないのが原因と思う
中国南方遺伝子は殆ど無くて中国東北部の遺伝子が強いんだな
要するに一重瞼で吊り目の民族だ。
0421名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:32:46.88ID:Eeklstx50
注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。

タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま

>>419のつづき
 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 
※思考回路:WEB検索→電波受信→事実誤認→妄想ジャンプして結論


 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
 
※思考回路:飛蚊症による視力低下→妄想→妄想分裂→大きな方の妄想についての結論
0422名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:49:26.17ID:owSlqvhC0
>>420
関西は首都だったから大陸の文化を吸収するために大量に中国人を移住させてたってことだろ
0423名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:52:31.87ID:Eeklstx50
注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。

タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。

※思考回路:史実+捏造史→誤字発生(流入→納入)→誤字発生(人口流入→難民流入)


 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。

※思考回路:薬服用→受け売り→コピペ
0424名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:53:19.60ID:Eeklstx50
注意)読み方が難しいので思考回路を参考にしてください。

タイトル:やまたいこくのなぞ@
所 属:5チャンネル日本史板
著 者:おくやま

 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

※思考回路:うわごと

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 
※思考回路:VRゴーグル着用→Loading now.....
 
 それは桜井市纒向以外にありえない。
 
※思考回路:5chゲーム開始
0425名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 20:54:46.00ID:Ft73GZhY0
>>371
芸術とか政治形態とかは文化水準の高い処から低い処へ伝搬するから
朝鮮は日本と中国の真似ばかりしてる
0426名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 21:20:22.94ID:Ft73GZhY0
>>390
俺もまだ奥山君扱いされてないwwwww
ま奥山君と教養レベルが違うけどwww
0428名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 21:29:45.04ID:kEV+ej9S0
畿内説論者を全員まとめて奥山君と決めつけてるやつのIDを辿れば明らかだけど、
捏造常習犯だから倫理観がズレてるのがわかる
思考回路もズレてるとみなしていいだろう
0429名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 21:32:30.00ID:Ft73GZhY0
>>397
古代朝鮮人の素性は不明
古代アジア人のルーツは縄文人と北京原人と明石原人
0431名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 21:45:48.87ID:Eeklstx50
土器様式によって勢力圏を判断する畿内式脳回路を使うと、
東海政権がTOP政権となってしまう件w

■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。

■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。

■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土する。
これは纏向が東海政権の傘下にあった事を意味する。

よーく読んで考えてみてくださいw
0435名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 22:26:15.04ID:Eeklstx50
>>434
東海〜北部九州の納入ルートがよく分かるねw

東海
↓海運
伊勢センター
↓納品
纏向倉庫
↓出荷
瀬戸内運輸
↓納品
北部九州
0436名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 22:32:07.95ID:Us4sdxHx0
「卑弥呼」 は古代朝鮮の 「シャーマン」 か

「邪馬台国」

100年以上の論争が続いても「邪馬台国」はどこにあったか未だ決着がついていない。
この論争の元になる「魏志倭人伝 (AD280〜297年)」は漢字で書かれているので、
漢字独特の非合理性(原始性)による不確定要素が、錯綜しやすい筋書きを生みやすくしている。
従って、日本の研究者が漢字による表記を勝手な判断によって解釈するため、様々な筋書きが公開され
読者を困惑させている。倭人伝に関する不確定な研究公開が続くため、史料価値がないという研究者もいる。

「魏志倭人伝」が書かれたのは3世紀後半であるから、日本では弥生時代末期になる。
「魏志倭人伝」と言えばすごい歴史書だと思うかもしれないが、中国の歴史書「三国史」の中にある一部の記事に過ぎない。
わずか「2000文字」の短い記事であるために資料が欠落し、総合的な判断(結論)を下す資料としては不完備なものである。
おまけに、全て漢字で表記されているので、漢字の非合理性・多面性などにより読解を困難にしている。

当時、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」「伽耶諸国」は中国との「上層階級の婚姻」「交易関係」などがあり、
相当に深い交流が行われていた。従って、中国が日本の情報を得るのは、主として朝鮮半島の諸国を媒介としていた。
交通手段(交通路)に欠けるため、中国から日本へ来ることは極めて困難で、渡航・陸路いずれにしろ危険を犯して
渡来する理由は希薄である。従って、当時の中国人がどれだけ日本について知っていたか疑問である。
「魏志倭人伝」なるものを基にして当時の倭国を推測して見ても、所詮、断片的な結論を張り合わせたものになる。
断片的な結論が、研究者によって定まるところがない現今では、「魏志倭人伝」を基に当時の倭国の様子を知ろうとすれば、
断片的な情報しか得られないのではなかろうか。 
0437名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 22:32:35.77ID:Us4sdxHx0
3世紀ごろ、倭人によるまとまった文献はなく、当時のものとされる文言(漢字・数語)が見つけられると、
当時から日本は漢字を使っていたと言う人がいる。
朝鮮では、紀元前後頃の上層階級の人たちは、漢字を使って手紙の交換をしていたけれど、倭国においては
文字文化(漢字使用による記録・文献)はなかった。にもかかわらず、日本は「邪馬台国」に始まると述べる者がいる。
この推測は、縄文時代の子孫によって形成された弥生時代のエリートが、「邪馬台国」を維持経営し、諸々の衆人は
その傘下にあって生活していたということになる。

朝鮮人が倭国へ渡来する場合、倭国が森林と雑草に覆われた不毛の土地であろうとも、生活手段の基盤となる稲作が、
倭国渡来の明白な目的・理由であった。広大な土地に恵まれた中国人の場合、生活維持のため殊更に倭国へ渡来する理由は希薄である。
渡来した者があるとすれば、好奇心の強い数えるほどの人々であっただろう。まして、中国の上層階級の人が渡来したなどとは想像すらできない。
朝鮮からでさえ、王朝などの上層階級が渡来したのは七世紀になってからである。
三世紀ごろの「卑弥呼の時代」に文字を書ける者はいず、同時代に書かれた中国の歴史書「三国史」と倭国で初めて文字で書かれた文献「記紀」
までの間にはあまりにも遠い時が流れている。

弥生末期 朝鮮からの渡来人が増えたので、日本の原住民(縄文人の子孫)は10人の内1人もいなかったという。
『消えた縄文人』なる書籍まで目にするが、そのような裏付けに基づいて書かれたものだろう。
縄文晩期の人口が十万人にもならなかったということは、日本全土の各集落にはスズメの涙ほどしか人が住んでいなかったことになる。
弥生時代における縄文人の子孫は10人に1人もいなかったという埴原・小原氏らの説に従えば、当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる
「○○国(日本国の元祖・邪馬台国)」があったという考えは、当時の倭国の住民のほとんどは朝鮮渡来人によって占められていたということと矛盾する。
すなはち、奈良時代の朝鮮渡来人の上層階級によって形成された「大和朝廷」の傘下の基に日本人しての生活が始まるのである。
0438名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 22:33:02.17ID:Us4sdxHx0
「邪馬台国」と「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」

「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は、部下をたずさえて渡来した高名な「シャーマン(巫女)」であった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というような大それたものではなく、当時としては他地域に見られない大集落で、朝鮮半島(母国)からの継続性もあって、
中国と交友を計ろうとする人(朝鮮王朝の一関係者)が含まれていたかもしれない。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたとは思われない。

「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものであり、「魏志倭人伝<3世紀末>」が書かれてから
「記紀<8世紀>」「万葉<7〜8世紀>」が書かれるまでの約400年の間に、九州・近畿いずれにもまとまった記録文献がない。このことは、
「邪馬台国」は現在の日本人が想像しているような国ではなく、文字を書けない者からなる大集落のようなものではなかったと思われる。
アメリカのアパッチ族を高度化したたぐいのものであったかもしれない。

「卑弥呼<ヒミコ/ヒメコ>」は「邪馬台国」の女王であったということになっている。
しかし、このことについては不明なところが多く、諸説紛々、正確な史料に欠けていると言われている。
従って、彼女については、AD3世紀の史料として扱えないという研究者もいる。

「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、政治は男子がとっていたと言われている。
これは、古代朝鮮の各国の王の筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいたことと似ている。
シャーマンは預言者(祈祷師)として、古代朝鮮の各国の政治の中心人物に含まれ極めて重要なポストにあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ「北方民族(騎馬民族)」の覇権争いによって形成されているので、シャーマンが政治の場に重く位置していた。

朱蒙王の高句麗建国の際にも、女性シャーマンが王によりそい、政治の予言(占い)を行って王へのアドバイスをしていた。
わからぬことがあると、王はシャーマンを呼び相談していたのである。従って、古代朝鮮のシャーマンは相当な勢力をもち、
配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。
0440名無しさん@1周年
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2019/06/28(金) 22:38:47.96ID:cfeHuA5K0
* 話を別にして、朝鮮では現代に至っても祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく祈祷が盛んであった。
小さな田舎の村には決まったように祈祷をする老婆がいた。40〜50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、困ったことがあると霊媒師を尋ねる者がいた。
また、現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。
このような祈祷による暮らしが生活に密着している国(先進国)は、恐らく韓国・日本において最も顕著だろう。※山口県田布施 天照皇大神宮教北村サヨ(病身舞教)等

シャーマニズムをもつ北方種族(騎馬民族)によって形成された朝鮮文化を、渡来人が倭国へ持ち込んだのは自然な流れだろう。
「卑弥呼」は邪馬台国に居住し、鬼道で民衆をまどわしていたという話もあるが、彼女を見た者は少なく、一人の男が飲食を給仕、彼女のもとに出入りしていたという話もある。
医者がいず、薬もなかった時代、病を恐れて祈祷にたよる生活が続けられていた時代、祈祷師は医者の役割を担っていたに違いない。
特に、上層階級の人は高名な祈祷師を重く崇め、丁重に処遇したと思われる。そのような社会風潮の中で「祈祷師<占い師>」の地位は高く、
「卑弥呼」のような女性(祈祷師は常に女性)が「国の預言者」として政治にかかわり、表に出ずとも聡明なる知的存在者として囲われ、
名目を王と称しながら有力な男性政治家と共にあったと推測される。残念ながら、「卑弥呼」が記した文献はなく、「邪馬台国」で「卑弥呼」の傘下にいた高位政治家の文献もない。

要するに、弥生時代 「邪馬台国」なる「国?」を作り、「卑弥呼」なる女王をもうけたのは、朝鮮からの渡来人たちであったと推測される。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって消滅に等しくなり、奈良時代に、新天地として倭国へ渡来した人々は、倭国を「日本」として独立・建国させたのである。
好むと好まずとにかかわらず、現日本人の祖先のほとんどが朝鮮半島からの渡来人である。
「魏志倭人伝」に記録されている「邪馬台国」「卑弥呼」なるものの軌跡は、日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書のようなものであろう。

倭国の「原住民」から「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が生まれたとすれば説明がつかない。
「彼女を取り巻き支える倭人は全て「渡来人(朝鮮人)」であった」ということを信じられない人は、縄文がなぜ弥生にかわったのか、
「須恵器」がなぜ弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ弥生時代に盛んになったのか、古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳と「うり二つ」であるかを知るべきである。

また、「高松塚古墳」の彩色壁画の婦人像の着衣が古代朝鮮の服装そのままであり、高句麗に「高松塚古墳」とそっくりな古墳があるのはなぜか、
「荒神谷の銅剣」はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか・・あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れを見ることができる。

縷々申しあげた歴史を認識しなければ、「邪馬台国」があったのは「九州」だ「近畿」だといつまでも論争し、「邪馬台国」がどのような国であったかの解明をおろそかにするだろう。
まして、「卑弥呼」なる女王について、古代のわけのわからぬ人物として朦朧たる想像の世界に追いやり、結局、日本の古代史はわけのわからぬ神々の斟酌にとらわれることで終わる。
そして、「卑弥呼とは何者?」などと問う人が多いのである。
0441名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 22:43:01.74ID:e3yFDkRM0
>>432
それネット投票だろ?
タイム誌の年末恒例のMan of the Yearの投票で誰も知らないのに上位に入る人物を
輩出する国があるよねww
0444名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:28:07.42ID:dXmCCeWj0
>>400
それは日本国家が成立して200年経った頃でしょうか
その時代から日本の朝廷は「おもてなし」の心に満ち溢れていたのです

平安京に遷都時に、周辺の地域の一部を扶余族の百済人の渡航者が
生活地としていたのです。
そこで彼らの韓神を祀っていたのです、土地収用もすることなく
かれらの祀っていた神を合祀してあげたのが発端です
その後宮内省内でしばらくまつられました
0445名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:35:35.09ID:cfeHuA5K0
だから何?
0446名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:39:14.04ID:tu2EMQ8A0
北部九州の大量の鏡を副葬する文化が
畿内で始まった頃に畿内は北部九州の支配下に入ったのだろう。
0447名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:41:11.55ID:raHcIThp0
>>44
御所の近傍の渡来人の邑が祀る祠の神を
御所内の一角に入れてやった話のことか

桂川の工事などに功労のあった秦氏関係は
朝廷に協力的であったから当時の懐柔政策の一つ
0448名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:48:02.38ID:PpsoxeHm0
>>95
> 高御産巣日神は朝鮮から来た神だということ

コピペ元に嘘を付けたしてというのが在日韓国人の民族病なのかね

そのムスヒの最上位と考えられる高木の神は
神木信仰の具現だが、その神の後裔の葛城族が
麓に水田の広がる葛城山腹に高天彦神社等の
建立し、雄略帝に押し込められるまでの全盛を誇ったのだよ

そしてその高木の神の神木についての記紀の描写は
池上曽根遺跡の北側にも残るが
そもそもは縄文時代から顕著な巨木高木信仰なんだがね

諏訪の御柱は言うまでもなく三内丸山や出雲の金輪図にのる
心御柱、貴柱もその流れの中の一つなのだよ
0449名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:48:34.93ID:cfeHuA5K0
その当時の日本列島なんて、馬も居なけりゃ鉄やらも産出しない不毛の地
ジメジメした湿地帯ばかりで人間の住めるような土地じゃなかったの
そんな中、所々に土穴掘って生活を営んでいた小集団が点在してただけ
土木灌漑工事や機織り鉄器生産、弓馬術等の高度な技術はどこから齎されたのよ
噴火やらなんやらあったけど、土着の土人がそんな高度な技術持ってたら世話なかったわけですよ 
この日本列島
0450名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:50:56.80ID:cfeHuA5K0
>>448
自分達の意に反する意見はチョンだの在日だのパヨクだの認定して思考放棄する
だから妄想が増幅しまくって、まともな者が見たら目を背けたくなる程の気持ちの悪い
寒気のする様な書き込みばかりになってしまってるんだよな
長年篭もってネット漬けの毎日で形成してきた偏った思考回路だから、
ネットで見た自分に都合の良いネタだけを真実なんだと信じ込み、自分の見たいものしか見れず、
信じたいものしか信じられなくなっちゃってる
そんで都合の悪いことは自分に都合のいいように脳内変換し解釈するってのが当たり前で、
何事も願望に基づくご都合解釈だから常に的外れ

自分がうまく行っていないとか認められていないという鬱屈、オフラインでうまくいかない人生をオンラインで埋め合わせ
「そんな浅ましいアピールをするとこんなふうに思われちゃうぞ」と忠言してくれる友達もいない
だから馬鹿だと思われていることに気付かない
気付いたとしても、欠落を埋め合わせたいという気持ちが強すぎて我慢できないんだろうな
馬鹿なくせにプライドだけは人一倍高いという、本当に面倒臭くタチの悪い困ったちゃんばかりで困りますよw
0451名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/28(金) 23:58:24.95ID:YMZ8TV3A0
>>440
日本の古代のシャーマニズムは吉野裕子氏の名を出すまでもなく
蛇神巫女の土偶など縄文時代や、三輪山の弥生から古墳初期に
かけての記紀に詳細に記される三輪の大物主神の蛇神説話

その後の古墳時代に、雄略天皇が三輪の蛇神の前で怖くて目が
開けられず奥に逃げ込んだという説話を例に挙げるまでもなく
国家レベルや地方の《クニ》レベルの巫女は南方由来の蛇神
シャーマニズムである
0452名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:00:14.45ID:5UGbL24b0
★ ★在日韓国人の無茶苦茶を瞬殺する日本人の解説★★

609名無しさん@1周年 2019/05/01(水) 05:47:44.39ID:6XSsaE4p0

>>1
桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫 についてだけど、
皇統が125代続く中で、百済系がたったの1人で高野新笠が
武寧王から200年後の人物で、限りなく血は薄いよ

>>600
この出鱈目ぶりは日本人じゃない気がする
やっぱり在日コリアンなのかな

まず、高校生でも知っている坂上氏は後漢霊帝の末裔で
坂上氏自体が朝鮮族ではないよ
坂上大忌苅田麻呂も、後漢霊帝の孫の阿智王にもかかわらず
姓が低いと不満を申して宿禰をもらったことで有名
この>>600は日本史の知識ゼロなのが丸わかりなんだけど
なにかの文字起こしして嘘を付け足している感じかな
在日の人ってみんなこんな感じの捏造するのんだったら
怖いね
日本の渡来系氏族の中では後漢霊帝の後裔たちが優秀で
活躍してる
それを在日の人がすべて朝鮮系と勝手にしてるだけかもしれない
だから注意だね
みんな徴用工になっちゃう感じだよね
田辺史広足は「姓氏録」では崇神帝の後裔、だけど「諸蕃雑記」で
百済系とされてて、その背景は天皇がその出自を憐れんで豊城入彦の
後裔に入れたのね
ただし当時の朝鮮系の諸蕃の蕃族は出自を偽ることが多かったけど、
この一族は東大寺建立にあたり一千貫を寄付しているまともな一族

百済王俊哲は、蝦夷との北上川の大会戦で、夏草が茂って戦えない、
馬の餌がないと臆して戦わずで、桓武天皇の逆鱗に触れたバカ者
強い蝦夷の伊治 呰麻呂と戦うのが嫌で、周辺の神社の格上をして神仏
の力だけで勝とうとしたバカ者
この生母が高野新笠なんだけど、百済渡来は歌と舞の才能がある者が
少々のみ
もちろん、舒明帝の時に義慈王は豊璋を日本の人質として義慈王は
唐に拉致され、豊璋は帰国し663年に唐新羅と戦って敗走し、そして
百済滅亡させた
最初から日本に依存してばかりで、最後には日本を泥沼に引きずり
込んだから、もう最低の民族
本当に百済は、日本の疫病神の働きでよく貢献してくれていたよ

山口忌沙弥麻呂も、また>>600の大嘘
事実は坂上氏と同じ後漢霊帝の後裔で 中国系の漢人系で遠い親戚
ただ、本拠は奈良と大阪の県境の大和川の荷物積み替え地の付近
だから、山口氏の2つしかない2系統目で、大和の大豪族の武内宿禰
の末裔かもしれない
いずれにしても山口忌沙弥麻呂が朝鮮系というのは大嘘です
0453名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:01:02.44ID:5UGbL24b0
★★ 瞬殺される在日韓国人のデタラメ無茶苦茶解説w★★

600 名無しさん@1周年 2019/05/01(水) 00:42:51.62ID:tE8rei4P0

下野守 栃木県
秦大魚(746年〈天平18年〉9月) 従五位下 〔続日本紀〕
百済王俊哲(再任:791年〈延暦10年〉9月22日〜795年〈延暦14年〉8月7日卒去) 正五位上、後に従四位上、陸奥鎮守将軍〔続日本紀〕
百済王教俊(809年〈大同4年〉1月16日) 従五位下 〔日本後紀〕

甲斐国 山梨県
田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)渡来系
馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』)朝鮮系
山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日)朝鮮系

坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日)朝鮮系
5世紀はヤマト王権による中央集権化に伴い東国の軍事的征服が行われている時期で、この頃には朝鮮半島から乗馬風習が伝来している。
0454名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 00:01:39.12ID:5UGbL24b0
♠ 瞬殺される在日韓国人の無知を超えた願望妄想病w

793名無しさん@1周年2019/06/19(水) 01:17:05.22ID:+vIuqUyH0
ところで仲哀を暗殺したときまだ応神は神功皇后の胎内にいたとされ
朝鮮で一緒に新羅などを征伐したとされる
殺すぐらいだから本当の大王は武内宿禰としか考えられない

新羅国内の権力闘争に負けて
新羅ゆかりの奈良(神武の兄は新羅貴族)に来た先進朝鮮人が武内宿禰であろう

彼は邪魔な仲哀を殺すと、皇后も皇室も意のままにし
憎い新羅への戦争、百済の制圧、先進技術者の招聘に没頭する

これを支えた宿禰の子とされる葛城、蘇我、紀はそもそも朝鮮から呼んだ宿禰の部下や係累であろう
もはや応神朝は朝鮮人そのものだった
0455名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:01:39.38ID:///Npn+Q0
>>14
これにコメントしてるアホはソース先の日本語すら理解できないの?

「強いて私に聞くなら大和説」っていってるだけで当人はどっちともいってない
0456名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:02:14.27ID:5UGbL24b0
♠ 在日韓国人の無茶苦茶な妄想を瞬殺する日本人の解説

807名無しさん@1周年2019/06/19(水) 01:49:12.61ID:1NtQJkQM0

>>793
武内宿禰は第八代孝元天皇皇子比古布都押之信命、
が、紀国造の祖の宇豆比古の妹の山下影日売を
娶って生まれたわけが、紀氏は出雲の千家と同等の古さの古族
で80代を重ねている
そもそも紀氏は紀の国の名草の豪族であり、五瀬命が亡くなった
竈山の東の名草山を本貫とする名草比売の後裔で、土着豪族
中の土着豪族だ
300年は生きたことになってるが、確か現在も73代目武内宿禰の
子孫が生きている
武内宿禰は生粋の日本列島の縄文・弥生人だ
0457名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:10:53.06ID:WO2KbTWQ0
>>450

また出鱈目の薄らバカがバレてしまったチョンが火病wwww
0458名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:12:24.47ID:w31+gWxj0
学界もジャーナリズムもこの70年といったら
朝鮮忖度、在日忖度で金ダルスさんのような作家さん
の一部ホルホルモードの紀行文のようなものにまで
令和のN教授なども40代50代の頃はその話につき
あっていたからねえ

最近はそういう朝鮮忖度、在日忖度は薄くなってきて
客観的に意見が言えるようになりつつはあるから良い傾向
0459名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:17:36.01ID:DTB3MBV50
>>450
意味不明なほどに無知識のくせに本当に面倒臭くタチの悪い困ったちゃんは半島難民の子孫のチョンのお前ww
0460名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:21:56.86ID:ahlvlUzJ0
わかる人にはわかる
歴史修正主義なんてお話にならないのよ
みんな実在する歴史史跡や文献をもとに語っているわけだからさ
ネトウヨによる妄想捏造が通用するのはここぐらいなもんだよ
傷を舐め合うお友達が屯してるからだね
0461名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 00:43:25.38ID:9WVRqkZ30
だから古墳時代の鉄剣持った権力者は
九州から日本海経由で近畿に入植してるんだが
その時点で近畿は後発国だろ。
0463名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 01:02:50.97ID:ubRbKQ2R0
>>422
中国は中国でも中国東北部の事だろうな、大昔はいろんな少数民族がいたところで
当然ツングース系民族もいたから関西人はその系統。中国南部なら江南人ほどでは無いが
目が丸くて二重瞼のはず、関西人は細目で一重瞼が非常に多い。
0464名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 01:22:59.79ID:ubRbKQ2R0
茨城にある鹿島神宮の神様と千葉にある香取神宮の神様が連れ立って出雲に行って
大国主命に国譲りを迫り実現させた功績で鹿島と香取は伊勢神宮に次ぐ高い格式の
神社として認められている。
0466名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 01:30:08.16ID:h2trvsf00
>>463
身長でもはっきり違いが出てる

近畿身長

大阪(5位)
滋賀(7位)
京都(11位)
奈良(13位)
和歌山(22位)
兵庫(29位)

九州身長

長崎(22位)
熊本(22位)
大分(39位)
宮崎(39位)
鹿児島(39位)
福岡(46位)

https://www.suku-noppo.jp/data/average_height_region.html

近畿=扶桑国=大和王権
九州=倭国=邪馬台国

今も身長差こんだけハッキリするんだな
やっぱ遺伝的に違うようだ
0467名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 01:31:53.99ID:h2trvsf00
>>465
鹿がいるじゃまいかw
0468名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 01:33:22.99ID:iilWtXd90
>>460
そうそう、わかる人にはわかる

在日韓国人のような願望妄想ファンタジーを歴史としてしまう病気から縁遠い
日本人やその他の人類にはわかるよ

460が妄想ファンタジーの火病患者の在日韓国人であるということがね
0469名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 01:41:24.92ID:h2trvsf00
>>464
国譲りってそんな気前のいい奴おるかいw
鹿島と香取が遠路はるばる出雲を滅ぼしに参戦しただけやないか
0470名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 01:50:59.74ID:U07FWkUv0
>>469
それは記紀が神宝検校の場面を大げさに書いてるだけですわ
実際に出向いたのは物部の諸隅と十千根だけですな
0471名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 02:07:26.95ID:DlWHDmxs0
>>449
>>450
>長年篭もってネット漬けの毎日で形成してきた
>偏った思考回路

>馬鹿なくせにプライドだけは人一倍高いという、
>本当に面倒臭くタチの悪い困ったちゃん

>妄想が増幅しまくって、まともな者が見たら目を背けたくなる
>程の気持ちの悪い
>寒気のする様な書き込みばかりになってしまってるんだよな



だーかーら、お前の身の上話はもういいから、日本の夜間中学校から入れてもらってまともな勉強しろよ
0472名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 02:21:46.11ID:ubRbKQ2R0
北部九州で始まった水稲稲作が奈良で始まるのは約四百年後と判っているから
北部九州と近畿との関係は弥生時代後半まで無かったと考えるのが正解。
0473名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 02:27:10.85ID:ubRbKQ2R0
水稲稲作は陸稲に比べたら収穫量が格段に多いから北部九州の人口は飛躍的に
増えたと考えられるのでその勢で東征をして日本の国造りを始めたと考える方が
理にかなっている。
0474名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 02:32:44.20ID:ubRbKQ2R0
水稲稲作の開始時期は朝鮮半島よりも日本の方が早いと誤った認識をしている者が
非常に多いから事実を書くと、
大坪里遺跡(韓半島南部)我が国で最初に水稲稲作を始めた 唐津市の菜畑遺跡よりも約200年早く稲作開始
松菊里遺跡(韓半島中西部)菜畑遺跡とほぼ同時期に稲作開始
※但し水田稲作は2種類あり、上記稲作は直まき方式で、田植え方式の稲作は
大陸から九州に直接伝来した。 従って直まき方式の稲作は半島の方が二百年ほど早い。
直まき方式とは種籾を地面に直接まいていく事で米国米などはこの方式。
0475名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 02:40:24.46ID:tF+j72X90
この現実

1995年を100としたGDP推移
http://i.imgur.com/VVt4VL1.png

   1995年 2015年
中国  100  2001.56
韓国  100  322.14
米国  100  301.71
英国  100  298.35
イタリア  100  199.75
ギリシャ   100  180.65
日本  100  99.31

主要国の消費者物価指数比較
https://toukeidata.com/country/img/cpi.jpg
0476名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 02:42:18.88ID:tF+j72X90
昔話してる場合かよw
0477名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 03:54:35.59ID:8GyvcvCc0
>>403
九州説も一撃離脱というか捨て台詞を一言書いて忖度してくれという甘えた根性
0480名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 06:57:37.41ID:MTtiIaw60
魏志倭人伝自体が適当すぎて、ここに邪馬台国があった!なんて断定できんわ。
0481名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 06:59:20.58ID:Fz/2wC9tO
大友能直、25代ウガヤフキアエズ天皇、そこをやいてほれ!豊国文字。奈良のナガスネヒコと衝突し71代がここ奈良に遷都。ナガスネヒコは、新羅にそそのかされて反乱を起こした国賊なので滅ぼした。
0482名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 07:07:04.79ID:lU2D3wlZ0
神武に国譲りニギハヤヒ 王族につぐ地位を確立
出雲国譲り 高さ48メートル古代本殿

ヤマトにつくといいことあるよアピール 信長もやった手法
0483名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 07:56:38.84ID:3VRBCLWB0
>>434
妄想が凄いなw
翡翠、黒曜石やゴホウラ、イモガイだって遠くまで流通してたけど
人の動きが活発だったのではない、隣から隣への繰り返しで全国流通。
0484名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 07:58:58.79ID:3VRBCLWB0
>>441
これ畿内説は善戦してるな
他のアンケートだと畿内説指示はもっと少ない。
0485名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:05:10.93ID:Ub5to5Ri0
巨大な王墓、陵墓がある地域は間違いなく中国の影響を帯びているので
律令制の法体系支配のやり方を中国から伝播されて
同時に死者の埋葬にも権威付けにする手法も学んでいるので
似たような巨大王墓、陵墓をやるわけだよ。
 
卑弥呼は太陽信仰呪術による宗教統治だから
律令制じゃないわけだよ。
卑弥呼のいた地域に後に律令体系が導入され
王墓が増えてしまった可能性はあるが、巨大遺跡が卑弥呼の
いた地域という根拠は充てにならない。
 
それよりも気象学研究からかつての古代の時期に
皆既日食が起きた時期とその地域範囲を確実に割り出して
卑弥呼の太陽信仰の呪術師としての権威が破綻して
律令制に移行する方向を研究すべきだと思うね。
0486名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:16:26.35ID:ubRbKQ2R0
水稲の直まき方式の欠点は稲と雑草が同じ速度で成長するから大量の除草剤が必要になる
除草剤が無かった古代は雑草の除去が大変な作業だったはず。
田植え方式は苗を植え替えるから雑草よりも早く成長するから雑草との見分けが簡単なので
雑草除去の手間も少ない。
0487名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:19:45.91ID:yGIeUqq20
邪馬台国の時代に畿内から吉備、出雲、九州までの広範囲を統一した国があったとは思えないな。
さらには例えば畿内から九州まで(またその逆も)兵を連ねて征伐するなんてことも可能性が低い。
あったのは単なる交易上の緩い連合だけなのではないか。
0488名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:25:05.46ID:yGIeUqq20
>>482
出雲(と熊野)は畿内にいて滅ぼした部族の長を祀ったんだと思うけどな。
0489名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:43:41.98ID:lU2D3wlZ0
>>487 引越し説だと広範囲支配の説明がつく
細かい経緯はわかるはずも無いけど
銅鐸の廃止と銅鏡の普及があったことから状況的にも矛盾しない
0490名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:44:13.69ID:3VRBCLWB0
>>480
魏志倭人伝が適当に書かれてるじゃなくて
読みて側の読解力が無いんだ。
>>487
日本列島でこの後の古墳時代に民族の大移動が西から東へ起きてるからね。
0492名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:49:58.68ID:3VRBCLWB0
まとめ

卑弥呼の住んで居た場所は伊都国
女王国とは伊都国と奴国のこと
邪馬台国は北部九州地域全体

神社の発祥も北部九州地域
0493名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:53:50.11ID:4URSH6qn0
各国の大王がある時期女王を共立してまとまっていたのが卑弥呼の時代の倭国
その範囲と本部が、九州から全国へ、邪馬台から奈良へと移っただけ

国際連盟ジュネーブ → 国際連合ニューヨーク みたいなもん
0494名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 08:53:52.61ID:ubRbKQ2R0
関西人は関西地方に渡来したのは中国南部の漢人と言っているが中国南部の漢人は
顔立ちはベトナム人とそれほど変わらず、目が大きくて分厚い唇だが現在の関西人は
目が細くて一重瞼の者が非常に多い、中国東北部から朝鮮半島を南下して近畿地方に
渡来した民族と考えるのが正解だな、オンドルも出土しているし。
0498名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:00:01.29ID:vYQKS8tT0
>>494
祖のオンドルの出てるのは蘇我氏や許勢氏や葛城氏など多勢の半島諸蕃出自の部民の住居があった場所
まだ土木工事も盛んな時代だから住居の現物支給で労働対価を押さえていたのであろう
0499名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:02:22.75ID:lU2D3wlZ0
そんなわけで纏向の関係者には柱跡と鳥居跡を探して欲しい
0501名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:21:42.89ID:oFz0FMC30
>>37
肌を見せる機会が多い人は、刺青したがる
ということだな。
現代でもタトウの人は露出する格好をしたがるが
0502名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:23:31.89ID:lU2D3wlZ0
すでに衰退が進んでいた九州で
2世紀後期の最後の豪華副葬品の平原遺跡以降更なる衰退

庄内式期 宗教都市纏向の建設 まだ小さい

3世紀中ごろ福岡で前方後円墳出現

布留式期 纏向開発地域広がる

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/awonitan/20171112/20171112194121.jpg
内側の線で庄内式がたくさんでる その周囲に布留式

引越しして直ぐは平原式統治は上手くいかなかったと考えてる
範囲が小さい
朝貢を契機に人身掌握に成功して広がったと考えてる
前方後円墳の拡大も始まる
0503名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:26:10.22ID:lU2D3wlZ0
引越し説を最初に唱えたのは平原を発掘調査した
九州の人だと思うんだよね
でもその内容は九州では都合が悪いものだったので下火に
唱える人がいなくなった
0504名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:35:27.88ID:3VRBCLWB0
>>503
九州の繁栄は紀元前から5〜6世紀まで続いてるから引越し説は指示されないな。
0505名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:36:47.33ID:3AwVtnA10
>>483
それらの一時加工場の後とかも発掘されているのに、製品として取引されてるよ。
0506名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:39:21.38ID:Ub5to5Ri0
律令制統治をしていたはずの奈良平城京
でも都の位置を遷都したのは何故でしょう?
律令制の法治よりも科学技術の未発達な古代は未だに
オカルト呪術による呪いケガレを信仰していた要素があるからですよね。 
 
となればそれより昔の邪馬台国の首都が安易に移転することは
考えられませんかね?
呪術師卑弥呼(日御子)のカリスマ性が失われ失脚暗殺などされていれば
ケガレ、呪いのある地域からの移転は十二分に考えられますよね。
皆既日食などのような怪奇現象が起きる地域からは
皆移転すると思うのですよ。
0507名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:42:39.90ID:lU2D3wlZ0
>>504 庶民は繁栄するけど墓の副葬品の内容や
前方後円墳化で支配層が弱体化したと考えられる
0509名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:47:07.22ID:MTtiIaw60
>>490
無理無理
解読と言葉を飾って歪曲だろ。
0510名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:49:48.85ID:Ub5to5Ri0
>>504
現代においても
引越し引越しサッサと引越しシバクドー
という大阪のおばちゃんさえいるのだからなw
奈良平安時代の都の遷都遍歴から見ても
ケガレの地とみなす所はホイホイ遷都するのが古代為政者の動きなのだよ。
0511名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 09:49:52.65ID:lU2D3wlZ0
>>508
平原遺跡出土品
耳飾り、メノウ製勾玉(青緑)、勾玉、メノウ製管玉(赤)x12、
ガラス製丸玉 約500、ガラス製小玉 約500、ガラス製管玉30以上、
ガラス製連玉(青、他) 886 (首飾り)
大型内行花文鏡、内行花文鏡 、方格規矩鏡 計40
鉄製素環頭大刀、大量の朱 他

平原遺跡と比べると後の時代のものは
やっぱり見劣りすると思うよ
0512名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 09:53:05.23ID:8GyvcvCc0
>>438
大和朝廷が焚書し他の豪族の繁栄した証拠隠滅したことすら想像出来ない貧困な発想w
第二次大戦で敗戦が確定した時も大量の文書が燃やされた。

記紀万葉に頻出する大和に係る枕詞「蘇良美都そらみつ」「虚見津(そらみつ)」は
「なにもない空虚な大和」に神武を始祖とする政権の庇護によって
繁栄をもたらしたことを宣伝するプロパガンダである。
プロパガンダだから選挙カーのように繰り返す。

実際は朝鮮に恵んでもらった鋳鉄を炭で炙って加工してたので
森林や山の樹を伐り尽くしてハゲ山になったのでメシを炊く薪すら不自由したので
新天地を探して東征というか移住侵略の旅に出た。
中国共産党軍も長征という名の逃避行をした。
0513名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 10:01:55.38ID:gcphY9NS0
>>507
威信財の価値基準が鏡から王冠に
変わったんだよ。
0514名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:04:12.42ID:YdoSe9Q90
蛙の骨、桃の種、木製の鞘

これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)

悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´)
0515名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:05:00.67ID:3VRBCLWB0
>>509
魏志倭人伝を理解出来ない頭の悪さを陳寿に転嫁してるだけだよ
最初にゴールを決めて無理にそれに合わせて解釈しようとし、合わないから意味不明とか言ってるだけだな。

>>511
王冠とか幾つも出てるし、見劣りはしないよ。
0516名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:05:24.46ID:hZTCYDsW0
九州の繁栄はずっと続いてたよ。
太宰府は、紀元前から12世紀くらいまで
続く複合遺跡だ。

中の人がどう変わってるかはわからんけどね。

吉野ヶ里遺跡も紀元前から9世紀まで続いてるね。
6世紀頃から神崎櫛田神社周辺に
集落が移って行くのも確認できる。
0517名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:08:39.21ID:lU2D3wlZ0
>>513 あとの時代で金とか高そうなのがでてくるけど
2世後期の段階での内容と考えると
わかりやすく平原はかなりすごいと思うけど
0518名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:13:45.86ID:qxayzojY0
>>515
魏志倭人伝の解釈本やネットの記事だけじゃなく原典を読んでみなよ。
0519名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 10:27:03.45ID:MTtiIaw60
>>515
魏志倭人伝の矛盾を無理やり見て見ぬ振りしてるだけじゃんw
魏志倭人伝に頼る傾向の強い九州説は、突っ込みどころ満載だから直ぐに顔真っ赤になる。
0520名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:31:30.72ID:3VRBCLWB0
>>518
そうですね、原典を読まないと誤訳してた翻訳をそのまま信じてる人もいますね
一大率が伊都国に居たとか、伊都国に代々王が居たとか書いてない事を主張する人が大勢いますから。
0521名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:51:17.07ID:qxayzojY0
解釈本やネット記事では『邪馬台国は〇〇にあった』という
前提に基づいて書かれているから、そのまま受け取ると危険だよ。

原典に記載されていても、著書のカバーストーリーに沿わない部分や
矛盾してしまう点には触れないまま終わってしまうので
読者側に誤った解釈を植え付けてしまう。
0522名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:51:25.04ID:h7Ze9sll0
>>516
同じ時代に色んな地域の特徴をもつ土器が発掘され。当時繁栄していただろうと思われる機内に比べると
九州ではまそういう傾向がみられないんだけど、一体何が根拠なんだろう?
0523名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 10:58:25.78ID:4URSH6qn0
代々筑紫城に住んでたのは倭奴国の大王だと思うんだよな
倭国大乱までの支配者
その次の支配者が邪馬台国の卑弥呼
台与はもう九州ではないかもしれない
0524名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:24:07.82ID:Z2Q1pqq/0
邪馬台国は蛮国博で論じてください。

学問のレベルじゃない。
0525名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:26:14.71ID:hZTCYDsW0
>>522
博多湾岸からは日本各地の土器が出土しますが
畿内では九州の土器がないんですね。
ひとかけらだけ九州様式の破片が見つかって
ニュースになったくらいですから。
0526名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:32:06.02ID:3VRBCLWB0
>>522
当時の北部九州は他の日本地域とは違う文化を持っていたんだ
鉄器が豊富、絹織物を生産、文字を使用と先進的で住んでた人も違う
北部九州には渡来系弥生人、その他の地域には縄文系弥生人。
>>523
世有王だから代々王が居たと訳するよりも、魏の世の時に王が居たって訳す方が適切なんだ。
0527名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:46:18.78ID:8GyvcvCc0
>>474
直まき方式は種蒔きする前に雑草退治を徹底的にしないと
雑草で苦労するぞ。
縄文人や弥生人は雑草なんか気にしないのか
ソースを出せよ
0529名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:51:54.08ID:4URSH6qn0
新唐書
其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以尊為號 居筑紫城

せっかく記紀ですっとぼけたのに、のちの時代の倭人にバラされてる
0530名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 11:56:41.49ID:gcphY9NS0
>>519
邪馬台国は魏志倭人伝にある国なのに、
魏志倭人伝を全く無視して纏向を邪馬台国に
する畿内説もいかがなものかと思うぞ。
0531名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:02:53.82ID:WrVDNrNS0
道鏡はノコノコ宇佐神宮にお参り行ってるしその頃にはもう九州と大和朝廷は友好関係結んでたのかな
0532名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:03:52.51ID:Ub5to5Ri0
卑弥呼,日御子が出雲オオクニヌシ同様に詳細に
記録が出されないのはやはり失脚暗殺だと思うのだよね。
そして律令社会とは反する呪術信仰の文化圏であるからこそ
陵墓、王墓形式の埋葬が近隣に少ないと思われるよ。
太陽信仰の日御子に遠くなる律令社会だからこその
古墳群や墓への莫大な副葬品でしょう。
中国のパクリ文化ですわ。
0533名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:08:35.17ID:bw6EOc/00
邪馬台国は九州でいいと思うけどね
奈良は邪馬台国抜きにしても歴史があるんだし
0534名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:11:29.51ID:MTtiIaw60
>>530
距離をいじる九州説か?方角をいじる畿内説か?
どっちもどっちじゃねーかw
0535名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:13:01.58ID:Ub5to5Ri0
>>533
九州かどうかさえ解りませんが奈良は可能性低いと思いますね。
邪馬台国の後の文化でしょうね。
0536名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:13:06.88ID:Yz6ccP/o0
卑弥呼は太陽信仰じゃない
鬼道で人を惑わすとある
明るい太陽とは真逆の
暗い呪術や怪しげな蛇などを信仰しただろう
0537名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:13:52.74ID:4URSH6qn0
>>534
畿内説は距離もデタラメと言ってる
短里を採用しても長里を採用しても奈良には到着できないから……
0538名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:18:23.75ID:yGIeUqq20
大体さー、いくら河内にいた敵が強かったからって、わざわざ死ぬほど大回りして熊野から上がって
行こうなんて思うもんかね。今でも紀伊山地を抜けて奈良まで行くのって大変なのに。
0539名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:27:47.18ID:qxayzojY0
>>537
短里77mでも、九州上陸が正しいのかどうか微妙なんだけどな。

狗邪韓国から千里で対馬、対馬から南へ千里で壱岐島として
まあここまでは一里77mは破綻していないといってもいいレベルの誤差。

その後さらに千里海を進んで九州上陸となるはずだが
ここでいきなり一里=77mが足かせになる。

壱岐島から77kmも進んだら東は福岡市、西は五島列島
南は半分の五百里で海岸線に到達(最短三百里で九州上陸)
有力上陸地点の唐津でも全然千里のスケールと合わない。

九州上陸を目の前にして、もういきなり魏志倭人伝の距離感が狂いだす。
壱岐島までの距離感の正確性から、海流の影響などとは決して言えない。

まあ魏志倭人伝の記述と一致してる候補地なんてないんだし
楽しくやろうや。
0540名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:28:26.12ID:WrVDNrNS0
九州の神武将軍が近畿まで平定した後都を移したって所か
天照と豊受は卑弥呼と台与だろうし
0541名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:28:32.64ID:4URSH6qn0
代々筑紫城に住んでた支配者一族は漢委奴国王で、倭国大乱をきっかけとして近畿に移動
権力の空白地帯となった九州の地は卑弥呼が共立されて収まった

そのころ近畿に移動した漢委奴国王の一族は山奥のくっそ田舎で地道に勢力を伸ばしたんじゃねーかな
0542539
垢版 |
2019/06/29(土) 12:37:47.69ID:qxayzojY0
補足
上陸地点の末盧国を佐賀県の松浦(末ら国)としても、やはり千里は異常なずれがある。
0543名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:41:19.18ID:gcphY9NS0
>>539
今は陳寿が司馬懿に忖度して1200里を万二千里
で報告したというのが有力。
1200里なら丁度ソウル福岡間の距離。
古代中国には露布の原理といって、戦果報告を
10倍にして報告する習わしがあった。
楽浪郡を落として東夷世界を平定した司馬懿
の功績はいじれなかったのだろう。
0544名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:43:13.09ID:Yz6ccP/o0
卑弥呼と似た名前の男王の卑弥弓呼の狗奴国
軍事力では邪馬壹国を凌駕し度々侵攻してきた
卑弥呼は卑弥弓呼に怯え、大陸に貢ぎ物も送り、同盟と呪術を盾に
なんとか温暖で海と山に近い豊かな邪馬壹国をやりくりしている
卑弥呼と卑弥弓呼名前が似ているな
血縁関係あるんじゃないの?南北で接する隣国で争ってるし
卑弥呼は元々邪馬壹国の人間じゃないんだろ
南の狗奴国から来たんじゃないのか?
ところで、邪馬壹国も謎だが
邪馬壹国を侵攻する軍事強国の狗奴国と卑弥弓呼って
どこにいったんだろうな?
日本の歴史で全く出てこないって、こっちの方が違和が強いんだが
名前を変えて残ってるなら納得する男王だな
0545名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:48:40.94ID:qxayzojY0
>>543
つまり台与は13歳ではなく1歳3ヶ月!ペドを通り越して鬼畜の所業やで。。。

例え縮尺を短里の1/6から1/10にしても、朝鮮半島南端から対馬、対馬から壱岐島までと
壱岐島から九州本島までの距離の比率はかわらんからねぇ

魏志倭人伝に沿ってるのはうちの説だ!なんて不可能なことに拘るより
色々ストーリーを想像して自説を作るための素材程度に思うしかないよ。
0546名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:53:12.71ID:K24Dv2pJ0
女王を立てて収まるくらいだから同族同士の派閥争いだよ
後継争いを一旦止めるために、子をなさない女性を王にするとかありそうだけどな
西日本一帯の国々の再編とか大げさだと思うわ
0547名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 12:57:16.44ID:4URSH6qn0
神功皇后に討たれた九州ヤマトの土蜘蛛は女王を戴く風習があったらしい
その女王の墓は前方後円墳だったとかなんとか
0548名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:11:29.93ID:3VRBCLWB0
>>539
>>542
陸上と違い歩測や紐で実測出来ない
海峡の距離は一律に1000里としてあるだけ
魏使の末盧国への上陸地点は呼子か名護屋浦付近だな
そこから南へ進んで唐津市街地で東へ500里(40km)で伊都国へ
伊都国は糸島市の南東部。
0549名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:20:47.63ID:4URSH6qn0
唐津から糸島まで徒歩で移動って大変だと思うんだけどほんとに踏破したんだろうかこれ
0550名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:29:11.78ID:8GyvcvCc0
>>492
何岡氏なこと書いてるんだ
倭人伝にはちゃんと邪馬臺國が女王の都とする所と書いている。
読み間違いも酷すぎる
0551名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:32:40.03ID:3VRBCLWB0
呼子付近から500里(40km)で伊都国(糸島市の南東部)へ
魏使は倭人が交代で担ぐ輿での移動だろうな
其地無牛馬虎豹羊鵲。
0552名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:33:10.35ID:qxayzojY0
>>548
流石に一律千里とするには、
狗邪韓国から対海国まで、対海国から一大国までの正確性からは解釈に無理を覚える。

呼子や名護屋浦付近に上陸したとしたら、短里でも三百里くらいしかないので
いくらなんでも千里の距離感と違いすぎることくらいは誰でも気が付く。
一大国から末盧国が五百里と書くならまだわからなくもないが。

また魏志倭人伝の記述に従うなら、呼子あたりから南東に五百里の位置は佐賀市近辺になる。

これを無理やり南東の移動と、北東の移動を組み合わせてV字ターンすることで
北東方向に進むのは、やっぱり方角をチョロまかしてるんじゃないかい?
0553名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:36:26.49ID:3VRBCLWB0
>>550
伊都国の説明に「世有王」と書かれている
伊都国に王(倭王卑弥呼)が居たんだ
「邪馬壹國 女王之所都」とはこの伊都国が邪馬壹國の中に在るとの意味だよ
邪馬壹國とは伊都国と奴国が中心となって卑弥呼を共立した北部九州の連合国
0554名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:37:15.83ID:hZTCYDsW0
松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。

5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所

帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km

水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km

侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km

おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国  面積 100,210km^2
0556552
垢版 |
2019/06/29(土) 13:40:00.24ID:qxayzojY0
もうちょい書く。

対馬から朝鮮半島は目視でかすかに見える距離
対馬から壱岐島までも同じようなもの。
これを仮に千里としたとして、明らかにくっきりと見える呼子を
測れないから一律千里というのは、ちょっと暴論が過ぎると思う。
0557名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:41:17.59ID:8GyvcvCc0
>>526
>魏の世の時に王が居たって訳す方が適切なんだ。

この読み方は無理すぎる。捏造度は百万℃w
0558名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:41:49.73ID:3VRBCLWB0
>>552
実測できず感覚で距離を記したんだよ
海峡を3回も渡ったんで疲労が蓄積して最後の海峡も長く感じたんだ。
呼子辺りから南に進むと「草木茂盛 行不見前人」状態でだいたい南に進んでるくらいしか分からない
東南は魏使の感覚だな。
0559名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:42:25.98ID:TBjiv++o0
仏教きてから
ようやく、神社ってフォーマットじゃないの?

土地神を一定の範囲に封じられるとか
そんな不遜なこと考え出したり
人の形をとった表象とか
外部からの刺激がなきゃ無理でしょ
0560名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:43:13.12ID:3VRBCLWB0
>>557
魏書の中では世有の意味は「魏の世の時」が普通だよ
代々と訳す方が異例。
0561名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:46:42.21ID:QGXCSLyF0
まあ、邪馬台国があった、滅ぼせるほどの大勢力があったなら
九州にはその国があったはずなんだが、神武の感想だと九州は筑紫一か国瞬殺だからねえw
瀬戸内より苦戦してないし、はっきり苦戦した浪速や熊野で初めて
皇室伝統の酔わせて寝込みを襲うを始めたと言ってる
九州説取ると神武の祖先が滅ぼしてて、筑紫は残党でも集まってたとかか?
0562名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:52:28.88ID:4URSH6qn0
神武東征なんかなかったからな あれはなろう小説
実際は倭国大乱で逃げ出した漢委奴国王の一族が
逃亡の果てに奈良の山奥まで流れ着いただけとかどうせそんなところ
0563名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:53:02.20ID:3VRBCLWB0
>>556
実際に行って呼子から壱岐が見えても距離は分からんよ
測れないから仕方ないエイヤーで1000里だよw
0564名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 13:53:11.16ID:K24Dv2pJ0
どっかに貼ってあった中国人の論文で、匈奴と対比させながら、倭奴国の奴とはシナで奴婢や罪人が刺青を入れていたこと念頭に倭国を卑下する意味でつけられたものと結論してた
それを参照するなら、狗奴国も本来は狗国だろう
狗古智卑狗の狗と同じ
地名人名の頭文字から国名をつける用法があるのかは分からんけど、そうだとしたらなぜ狗古智卑狗は王じゃないのか
卑弥弓呼と卑弥呼の類似から見ても、狗奴国は倭国に一度服従し、倭国の王族を狗奴国の統治者として受け入れたのだと思う
つまり卑弥弓呼と卑弥呼は同族
となれば倭国にとって単純に征伐すればいいというわけでもない
だから和することが前提で「不和」と書かれた
0565名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 13:54:33.16ID:gcphY9NS0
>>545
倭人は百歳位がザラの長寿とあるけど、
江戸時代の平均寿命が40歳くらいだから
邪馬台国の平均寿命は30歳くらいだろうな。
一歳三カ月を四倍したくらいが台与の年齢だとすると、
可哀想に5歳くらいで神輿に担がれたことになるが、ありえる話だな。
0566名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 13:54:33.19ID:Xu4QKcBV0
>>7
今のところな
0567名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 13:54:50.55ID:3VRBCLWB0
>>561
神武の東征は古墳時代のことだよ
伊都国と奴国の間の日向峠付近から神武の東征は出発している。
0568名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 13:55:56.69ID:qxayzojY0
>>558
壱岐島から最短で安全な陸地に上陸するなら
呼子あたりが一番無難だとは思うけど
疲労とか感覚でとかっでやっつけてしまうと
何でも言えるし、何処でも行けてしまう。

もう少し合理的な説明考えてよ!

呼子に上陸して糸島市に必ず着かないといけない
わけでもないんじゃない?吉野ヶ里方面の可能性ももう少し考えたら
苦しい解釈しなくてもよくなるかもね。
0569名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:11:00.05ID:3VRBCLWB0
>>568
女王国の東海を渡って1000里に倭種の国があるが
吉野ヶ里方面だと陸しかない
女王国とは伊都国と奴国のことだからな。
0570名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:11:24.61ID:qxayzojY0
>>565
本当に百歳がザラだったら、長寿の秘密を解明するために
今頃日本中穴ぼこだらけにされてるよね。
やっぱり魏志倭人伝の記述は至る所に無理があるよね。
0571名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:17:04.16ID:qxayzojY0
>>569
>女王国とは伊都国と奴国のことだからな

女王国が伊都国=糸島市だとすると

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳
につづく20国ほどの糸島市の北にあるとされる国々が玄界灘に沈んでしまうよ?

やっぱ無理に伊都国、糸島市に拘るのはしんどくない?
0572名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:22:14.53ID:qxayzojY0
>>569
そこは水行二十日、水行十日、陸行一月でなんとかならんかな?
0573名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:24:37.79ID:8GyvcvCc0
>>514
九州の古墳にはカエルの壁画があるから
纏向と甲乙付け難い
つまり5月5日のどんぐりの背比べwww
0574名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:36:01.90ID:3VRBCLWB0
>>571
「自女王国以北 其戸数道里可得略載」これは魏使の通過して来た国々

「其余旁国遠絶 不可得詳」これは女王国より先に在り、実際には訪れていない国々
20か国は多分、女王国の南側に在る
>>572
女王国の東海を渡って1000里は
博多湾から1000里(80km)で中国地方
水行二十日、水行十日、陸行一月は
12000里を旅するのに掛かる日数。
0575名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:36:14.18ID:gcphY9NS0
>>570
倭人は暦を知らないとあるよね。実際は30歳くらいってわかってたから穴ボコにならなかったんだよ。
0576名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:53:53.89ID:FLGNdy/U0
ド素人が解けない行程パズルをいくら屁理屈こねても無意味
行程パズルは解けないというのが、300年論争した最終結論

ではなぜ邪馬台国論争が畿内説で決着したかというと、考古学で物証を積み上げたからだ
物証を考慮しない議論は時間の無駄
0577名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 14:55:48.48ID:3VRBCLWB0
>>576
解けない事にしないと畿内説としては困るんだw
既に完全に解けてるけどね。
0578名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:14:07.92ID:K24Dv2pJ0
博多湾岸が倭国の中心としか思えないから、そこを邪馬台国に比定したがる人もいるわな
古田氏もそうだった
倭王武の上表文、のちの天皇たちの遷都癖、都の語源から見ても、卑弥呼の都が本拠地・本籍地から離れていてもなんもおかしくないんだけどね
0579名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:15:19.34ID:ubRbKQ2R0
八幡宮の総本社である宇佐神宮の創建は奈良時代の西暦725年と言われており
神社の創建としてはかなり新しいのだが、祭神の応神天皇(八幡神)と神功皇后が
合祀された年の事だろうと思う。それ以前には比売大神だけが祀られていたはず
そうで無ければ宇佐神宮の本殿は3つに分かれており中央には比売大神の本殿が
あり、左右に八幡神と神功皇后が配置されているから主祭神はあたかも比売大神
のように思える。さて比売大神とは誰の事を指しているんだろうか?
0580名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:15:47.04ID:qxayzojY0
>>574
> 「自女王国以北 其戸数道里可得略載」これは魏使の通過して来た国々

伊都国を女王国とすると、女王国より「以北」という表現が矛盾してるよね?
糸島市の北って玄界灘に落っこちろという事になる。
0581名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:17:14.49ID:Fz/2wC9tO
卑弥呼は占星術である、暦を支配し甲骨文字を仕様する、それは殷からの慣わし、台与は後継者、甲骨文字を進化させる、それがトヨの国の文字。天地開闢は邪馬台の伝説。後にパクられる、九州ロマン派。
0584名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:26:52.84ID:PvIsZ+Xp0
魏志倭人伝の情報でも信用できるものと出来ないものがある
信用できる→実際に見聞きしたり体験したこと
・戸数や日数、風俗や植生、墓の径100歩など
信用しない方がいい→当時では知りようがないこと
・距離や方角
信用できない→伝説や噂話
・黒歯国や東の倭種
0585名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:31:04.91ID:3VRBCLWB0
>>580
伊都国は末盧国の東南だから末盧国は伊都国の北
玄界灘の對馬国、一大国も北の国だね
「以北」を持って含むと解釈すると奴国の東の不彌国まで含むな。
0586名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 15:32:19.17ID:ubRbKQ2R0
宇佐神宮神託事件
西暦766年弓削道鏡は称徳天皇から法王に任ぜられ天皇の次の地位になったが
769年天皇は和気清麻呂を宇佐に派遣して道鏡は天皇には不適格との神託を得たので
道鏡は大隅国に流罪となった。
なぜ天皇は重大事を伊勢神宮に相談せずに地方の宇佐神宮に相談したのか?
0587名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:34:00.80ID:jeaNRIB70
纒向は人の居住の痕跡があまりにも少なすぎるよ。
ここに都市があったとかいうのは、学者というより「信者」。

「纒向」の名称も信者がでっち上げたわけだし、本来なら「田中遺跡」なのにw
0588名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:37:11.49ID:3VRBCLWB0
>>584
それ違うね
信用できる→実際に見聞きしたり体験したこと
距離、方角、日数、(有と書かれた)戸数、風俗や植生、墓の径100歩など
信用しない方がいい→推測、伝聞
(可と書かれた)戸数、里数(可七萬餘戸、周旋可五千餘里など)
0589名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:39:33.63ID:ubRbKQ2R0
宇佐神宮の東には海がある、伊勢神宮の東にも海がある。全く同じ配置になっている
伊勢神宮が皇室の神社であれば奈良に作っても良さそうだがわざわざ伊勢に作ったのは
どうしてなのか?奈良から伊勢まで古代は数日もかかって参拝していたのか
そこまでして伊勢に拘ったのはどうしてなのか?
0590名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:40:24.36ID:qxayzojY0
>>577
まずゴールを糸島市、福岡市前提に置くのを忘れることから始めてみないかい?

・海上の距離は全部千里
・呼子に上陸したら南東五百里のはずが、南東と北東の2段階右折で東の伊都国(糸島市)へ

自覚が無いようだけど、これだけでもずいぶん苦しい言い訳だよ。

このレベルの歪曲が正しい解釈だとするなら
ほぼ日本中どこへでも行けてしまうし畿内にも着ける。

無理やりな歪曲をしなくても済む場所を探す方が精神的に良さそう。


>>575
暦をしらないとか、度量衡がおかしな単位だとか
やっぱり魏志倭人伝は色々おかしいよね。
勿論戸数もどう考えても異常。

最大におかしいのは身長80cmくらいの侏儒国人だけど。
0591名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:43:04.17ID:2RiqPM4+0
畿内説論者は300年前に流行った駄洒落
で戦っている古代からの戦士。

ヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト

が唯一の根拠。
0592名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 15:46:34.00ID:2RiqPM4+0
また奥山が複数回線で頑張っているな
0594名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:48:34.14ID:8kMV7nkW0
九州頑張れ!!邪馬台国を取られるな!
0595名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 15:49:59.64ID:b1se4Mpy0
<<なぜ天皇は重大事を伊勢神宮に相談せずに地方の宇佐神宮に相談したのか?

宇佐神宮が 道鏡の弟が支配していたから 
隠れて使いを送り うまくやろうとしたが
清麻呂がはねつけた
0596名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 15:50:47.46ID:EhFMbI5Y0
東京ディズニーランドじゃねえんだから
邪馬台国(やまたい)、大和(やまと)言ってんのに
九州にあったとか言ってる奴なんなの?
0597名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 15:54:13.40ID:b1se4Mpy0
神功皇后が 筑紫 ヤマト国女王国を 滅ぼしたと書紀に書いてある
邪馬台国の記述が記紀にないというのは違う。ちゃんとある。
@邪馬台国は 近畿ヤマト政権とは つながらない
 もし 継承政権なら 東征段階で ヤマトと名のったろう
 近畿政権が ヤマトを名乗るのは 奈良にいついてから
0598名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:01:36.62ID:ljaSuIxZ0
>>590
当時、ピグミー族より小さい民族がいたかもしれない?。欧州における小人、
アイヌのコロボックル、日本では、一寸法師
0599名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:04:45.03ID:h2trvsf00
>>516
アホか
大宰府に赴任した菅原道真があまりの寂れっぷりに泣いたとあるぞw
0600名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:07:30.66ID:ubRbKQ2R0
>>595
道鏡の弟とは誰の事を指しているのか?道鏡は何人兄弟で何番目だったのか?
お前は道鏡の出自に詳しそうだからその位簡単に答えられるだろう?
0601名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:08:19.14ID:Zo86rZWy0
>>590
伊都国まで距離は里なのに肝心の邪馬台国までが倭人から聞いたらしい日表記。

なのに女王国から海を渡ること東の和種の国、そこから進んで小人の国の侏儒国まではまた里表記。

邪馬台国より先の国に行った中国人がいるんだろうか?
0602名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:10:02.55ID:h2trvsf00
>>580
違う
当時の倭は朝鮮半島南部まで支配していて高句麗と接していた
0603名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:11:26.72ID:qxayzojY0
>>588
>信用しない方がいい→推測、伝聞
>(可と書かれた)戸数、里数(可七萬餘戸、周旋可五千餘里など)

その解釈最近見かけるけど、いつからそうなったん?
これは九州説にとっても問題発言なんだが気づいてないの?

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有
三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

短里の根拠の一つが魏志韓伝のこの一文。

方「可」四千里を信用しない方がいいなら、短里使えんくなるよ?
0604名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:13:05.63ID:ljaSuIxZ0
>>576
決着していないよ。なんでそれが物証になるのか?裏付けがない。
教科書みれば、九州説も近畿説も記述あるだけです。
0605名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:14:26.28ID:3VRBCLWB0
>>590
俺は予めゴールを決めてなんかいないよ
魏志倭人伝の記述に従って進み、矛盾の無いように解釈したら結果的にそうなっただけ
糸島市や福岡市に縁がある訳でもない
魏使の立場に立って考えただけだ
歪曲も無理もしていない。
0606名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:19:16.37ID:EhFMbI5Y0
>>597
継承した政権とか言ってない
所在地がどちらも邪馬台、大和
今の奈良県だと言っている。
大阪がかつて大坂という字だったと同じこと
0607名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:21:52.68ID:qxayzojY0
>>602
韓伝と言うのは馬韓、辰韓、弁韓の三国についてだよ?
当時の高句麗族はまだ朝鮮半島に侵入しておらず、満州東部から朝鮮半島の根元辺りで暮らしてた。

だからわざわざ魏書には「東夷伝 高句麗条」が別に設けられてる。
0608名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:22:48.90ID:ljaSuIxZ0
記紀よりは信頼できる。その程度
金印や銀印等の証拠と
記紀以前の書簡の発見がありゃ、決定する。焚書とかあったしな。
0609名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:24:40.06ID:3VRBCLWB0
大宰小弐小野老朝臣が天平元年(729年)大宰府に着任した時、饗宴で太宰府を讃えて詠った詩
青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有
あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり
(青葉が美しい)寧らかで楽しい都(大宰府)は、梅の花が香るように、今真に繁栄している。
太宰府は繁栄してるね。 
>>603
可は推論を示すから実測値ではないって話
全く検討外れとは言っていないよ
だいたいの数字。
0610名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:26:17.36ID:h2trvsf00
>>607
広開土王碑にある
0611名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:27:00.66ID:COf2qIei0
九州に畿内と同等の古墳群がないと説得力無いよ
1世紀や2世紀で中心地が移るような時代じゃないしな

畿内の古墳群はインパクトあり過ぎる
あれを見て日本の歴史を想像してないから
滑稽なんだよ
0612名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:32:13.62ID:qxayzojY0
>>605
海上の距離は全部一律千里。
南東に五百理を南東、北東に移動して伊都国へシュート。
これを無理のない解釈と?

伊都国の北の何処に魏使の通過した国がある?

九州説でももっと楽な解釈を取れるだろうに。
0613名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:32:25.02ID:h2trvsf00
>>609
あおによしは奈良の枕詞なんだけどw
0614名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:32:49.65ID:3VRBCLWB0
>>599
『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に
「此府人物殷繁。天下之一都會也。この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」
と報告している。
8世紀頃までは繁栄してるね。
0615名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:33:09.26ID:8GyvcvCc0
>>553
“邪馬「壹」國”なんてのは無かった。
これは後漢書が魏書東夷伝を写した時邪馬「臺」國だったのに
(h)ttp://29.pro.tok2.com/~kyokutan/public/next/b06bgokannosyo/photo/big/010.jpg
↑右から4行目下の方「其大倭王居邪馬臺國=その大倭王は邪馬臺國に居る」
と書いてるのに古田武彦が見たのは後漢書東夷伝(5世紀南北朝時代成立)より印刷が新しい
百衲本(宋本) - 紹興年間(1131年-1162年)の魏志倭人伝だ。
百衲本魏志倭人伝の邪馬「壱」国が誤刻であるのは明らかだ。
「邪馬台国はなかった」で邪馬「壱」国をを吹聴した古田武彦の罪は万死に値する。
0616名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:35:01.29ID:qxayzojY0
>>610
広開土王碑は4世紀後半から5世紀の記録でないかな?
しかもあるのは朝鮮半島ではなく、中国国内だよね?
0617名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:35:27.55ID:nkqPELnZ0
ニュー速板でやるな!
巣に帰れ!

邪馬台国がらみは畿内派も九州派も常識の無い人間ばかりだな!
0618名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:36:53.53ID:qxayzojY0
>>609
実測な正確な数字なんて、魏志倭人伝には殆どないよ。
貢物と返礼品の数くらい。

後は、全部だいたいそんなもん。
可を信用ならないと、線引きするのとはわけが違う。
0619名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:39:07.71ID:3VRBCLWB0
>>613
調べたらそれ嘘みたいだな
「あおによしは」は奈良に都が出来る以前から使われ
筑紫でも使われてる、「青葉が美しい」って意味が正しいみたい

久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎尓与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
くやしかも かくしらませば あをによしくぬちことごと みせましものを
(口惜しいなあ、こうなると分かっていたら、(緑豊かな)国中の名所を見せておいたのに) 万5-797
この詩は筑紫で歌われ国中は筑紫のこと。

婀嗚儞與志 乃樂能婆娑摩儞 斯々貳暮能 瀰逗矩陛御暮梨 瀰儺曾々矩 思寐能和倶吾嗚 阿娑理逗那偉能古
あおによし のらのはさまに ししじもの みずつくへごもり みなそそく しびのわかごを あさりづな ゐのこ((緑豊かな)
野の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水そそく鮪の若様を、漁り出さないでおくれよ、猪よ)日本書紀 巻16 武烈天皇紀
この詩は奈良に都が築かれる遥か以前の詩。

あおによしは奈良の枕詞じゃなかったんだ!
0620名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:39:42.51ID:FLGNdy/U0
>>604
古代を専門に研究してる学者で、九州説を唱える学者はほとんどいない
この現実が見事に物語っている
知識のないド素人が学者の論文も読まずに、いまだに九州にあったと夢を見ているだけのこと
0621名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 16:44:14.17ID:3VRBCLWB0
>>620
それは昔の学者が勘違いしたのを世襲しているだけ
化石化した考えだな。
0622名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 16:45:30.98ID:2RiqPM4+0
>>602
高句麗ってw
0623名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 17:34:59.57ID:8GyvcvCc0
>>591
ヤマタイなんてのは無かった
倭人はタイなんていうアとイの母音連続した言葉を持たなかったのは古代日本語の宝庫である万葉集を読めば判る。
君が代の中に「さざれいし」が出てくるが「さざれいし」は平安時代以降の読み方。
万葉集の「信濃なる千曲の川の」で始まる和歌を「歩く万葉学者、歌う万葉学者」異名をとる
犬養孝博士は「さざれし」と朗唱している。
www.youtube.com/watch?v=ua7Wh6psWNM
「令和」という新元号が万葉集第五巻梅花の歌の序から採られたんだから
オマイラも万葉仮名(=漢字による当て字)入りの万葉集買って読め。
1300年前の万葉歌人は「恋」を「孤悲」と万葉仮名で書いた。
細石(さざれし)が千曲の處女(をとめ)にとっては翡翠の勾玉になることを歌っているのだ。
0624名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 17:45:32.27ID:2RiqPM4+0
>>623
邪馬臺はヤマダイとしか読めんだろ
0625名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 17:47:39.27ID:FLGNdy/U0
九州説にはもう研究者が残ってないんだから、学問として存続するのは諦めろ
エンタメ路線で頑張れ
騎馬民族説も、義経ジンギスカン説も、日ユ同祖論もまだまだ歴史マニアには人気あるぞ
0626名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 18:18:20.63ID:8GyvcvCc0
>>609
「青丹」の青は青緑色の顔料、丹は辰砂を用いた朱色の顔料で
https://www.color-sense.com/2017/01/01/ 色を際立せるルール「紺丹緑紫」/
東大寺大仏殿その他神社仏閣に使われている色だ。

青丹吉(あをによし)と云うと宮殿を始めとして神社仏閣が美しく立ち並んだ奈良の都を讃える決まり文句となった。
0627名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 18:22:33.44ID:4URSH6qn0
発音とか読みとかは「説文解字」つかっていっぺん最初からやり直してみたら面白いと思う
0628名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 18:47:46.06ID:YLvmqNbp0
箸墓は卑弥呼の墓ではありません。
桜井市はフェイクニュースを垂れ流しています。

箸墓古墳の木製輪鐙は早くても4世紀後半ないし
5世紀以降とする方が望ましく、その特徴が後世的
であることもこれを裏付けるものとなっている。

研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。
広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としているが、
「魏志倭人伝にしたがうかぎり、箸墓古墳が卑弥呼の
墓であることの可能性は低い、というよりは証明しがたい」
と述べている

白石太一郎は3世紀中葉過ぎとしているが、
「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、
その後継者である台与の時代である。」とも言っている
0629名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 18:50:22.30ID:YLvmqNbp0
纏向遺跡は邪馬台国の条件を全く満たしていません。
桜井市はフェイクニュースを垂れ流しています。

奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝
によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも
使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流して
いたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に
少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や
刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されて
おらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
0630名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 18:51:40.91ID:YLvmqNbp0
そもそも畿内は倭国ではありませんでした。

旧唐書より

■倭國条 〜631年の記事
 倭國者,古倭奴國也。
 (倭国はいにしえの倭奴国である)
 ※倭奴国=漢から金印を貰った国で、
  倭国より古い時代の国名=北部九州
 
 去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
 (新羅の東南海に在り、郡から一万四千里)
 
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
 日本國者,倭國之別種也。
 (日本国は倭国の別種である)
 ※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
 
 以下、日本使者の言い訳が続く
 
 以其國在日邊,故以日本爲名。
 (日出る国だから改名した)
 或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。
 (字が嫌いだから改名した)
 或云:日本舊小國,併倭國之地。
 (小国だった日本が倭を併合した)
 
 其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(日本人は不誠実なので中国はこれを信用しない)
0631名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 18:51:56.44ID:3VRBCLWB0
>>626
それ嘘だったんだよ。
0632名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 18:53:33.38ID:YLvmqNbp0
3世紀時点で鉄が流通していなかった奈良は倭国圏外です。
 
■魏志韓伝より
國出鐵韓穢倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、穢、倭がみな、従って
これを取っている。 諸の市買ではみな、中国が
銭を用いるように、鉄を用いる。 また、楽浪、
帯方の二郡にも供給している。)
 
■重要事項
・3世紀頃は鉄は通貨として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を利用されていた。
・この時代の畿内からは鉄が出土していない。
 ↓分布図
 http://imgur.com/OK8GwzA.jpg

■推測されること
・畿内は取りに行ってない
・畿内は九州に鉄を分けてもらえなかった
・畿内説によると北部九州に一大率を置いて
 収税まで行っていたと言うが、鉄は畿内まで
 流通していなかった。←矛盾
 
■結論
・北部九州と畿内の関係は希薄だった。
・一大率や大倭は畿内政権とは無関係だった。
・畿内は鉄が不足していたので海外と交易できなかった。
 
■関連
 纏向遺跡では九州や半島産の土器が出土していない。
 名言:もと歴博の館長もやった佐原真は、
 「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
  とマジで答え、・・・
0633名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 18:55:45.00ID:YLvmqNbp0
畿内説のような手法で日本人は嘘の歴史を刷り込まれているのです。

山川出版社は「詳説日本史」「新日本史」「高校日本史」で各々、
「数十万人の朝鮮人や占領地域の中国人を日本本土などに強制連行し、
鉱山や土木工事現場などで働かせた」、「多数の朝鮮人や占領地域の中国人を、
日本に強制連行して鉱山などで働かせた」、「朝鮮人や占領下の中国人も
日本に連行されて労働を強制された」としている。
0634名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 19:08:51.18ID:vpJtQtFa0
江戸時代ですら千人塚の慰霊碑とかあるんだぞ
つまり「数え切れないくらいいっぱい」って意味だよ

そしたら宇佐でいい(個人的願望は八女だがw)
0635名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 19:18:26.36ID:hZTCYDsW0
延喜式 出挙稲数

畿内 2,087,126
  山城   424,070
  大和   554,600
  河内   400,954
  和泉   227,500
  摂津   480,000  

西海道 5,990,581
  筑前   790,063
  筑後   623,581
  豊前   609,828
  豊後   743,842
  肥前   692,589
  肥後 1,579,117
  日向   373,101
  大隅   242,040
  薩摩   242,500
  壱岐    90,000
  対馬      3920
0636名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 19:18:46.59ID:YdoSe9Q90
卑弥呼は朝鮮渡来人である

「邪馬台国」は「呪術国家」であり、「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」
であったという。「卑弥呼」は「シャーマン(巫女)」として祭祀を司り、
政治は男子がとっていたと言われている。これは、「古代朝鮮の各国の王の
筆頭ブレインの中に女性のシャーマンがいた」のと似ている。シャーマンは
「預言者(祈祷師)として政治の中心人物に含まれ極めて重要なポスト」にあった。
古代朝鮮の各国は、シャーマニズムをもつ北方民族(騎馬民族)の覇権争いによって形成され、
シャーマンが政治の場に重く位置していた。

朱蒙王の高句麗建国の際にも、「女性シャーマンが王によりそい、政治の
予言(占い)を行って王へのアドバイス」をしていた。「王はわからぬことがあるとシャーマンを呼び相談していた」のである。
従って、古代朝鮮のシャーマンには相当な勢力をもつ者がおり、配下にはかなりの数の人材がいたと推察される。

* 朝鮮では祈祷が盛んで、その影響があってか、日本でも戦後しばらく
祈祷が盛んであった。小さな田舎町(村)には決まったように祈祷をする老婆がいた。
40〜50年前ごろまで、日本でも霊媒師なる者がおり、
困ったことがあると霊媒師をたずねる者がいた。現在でも、神社、お寺での祈祷によって合格祈願、結婚祈願をし、
災難、病などを逃れようとする人の数は恐るべき量に達する。このような祈祷による暮らしが生活に密着している国は、
先進国では、恐らく韓国・日本において最も顕著であるだろう。
北方種族によって形成された朝鮮文化(シャーマニズム)を、弥生時代以降の倭国へ持ち込んだのは渡来人である。
0637名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 19:21:14.61ID:YdoSe9Q90
弥生時代 「邪馬台国」なる「国?」を作り、「卑弥呼」なる女王をもうけたのは、朝鮮からの渡来人であったと推測される。
縄文時代以前から存在した倭人は、弥生時代でもって終焉に等しくなり、奈良時代に新天地として倭国へ渡来した人々は、
倭国を「日本」として独立・建国させたのである。「魏志倭人伝」に記録されている「邪馬台国」の軌跡は、
日本の歴史の流れが朝鮮半島を泉源としていることを明らかにする証明書に等しい。

倭国の原住民から「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が生まれたとすれば、彼女を取り巻き支える倭人は
全て渡来人であったということと矛盾する。
第一、縄文人の90%が東北部に在住し、西部には一万人もいなかったであろうと言われているのに、
弥生時代に「邪馬台国」を支える原住民がいたとは考えられない。「卑弥呼」なる「預言者(祈祷師)」が
縄文人の子孫から生まれたとするだけの素地が無いのである。

なぜ「須恵器」が弥生時代に生産され始めたのか、水稲がなぜ弥生時代に盛んになったのか、
古墳時代の古墳はなぜ朝鮮の古墳と「うり二つ」であるのか、「高松塚古墳」とそっくりな古墳がなぜ朝鮮にあるのか。
「荒神谷の銅剣」はなぜ出雲で発掘されたのか、出雲弁はなぜ韓国語に似ているのか。
あげれば数え切れないほどの古代朝鮮の文化の流れがある。このような時代背景の中で、
「邪馬台国」は何を生み出したのか。「邪馬台国」は3世紀に生まれたとされているが、3世紀と言えば、
弥生時代の末期である。稲作が日本中に広がっている時代に、
わけのわからぬ「邪馬台国」がどのような存在のものであったのか、単なるある規模の大きな集落であったかもしれない。
0638名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 19:51:22.76ID:ubRbKQ2R0
俺も卑弥呼は朝鮮系渡来人の子孫と思う。伊都国の平原遺跡の埋葬者も同じく朝鮮系
だろう。
0640名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 20:18:43.34ID:ubRbKQ2R0
>>639
甕棺内の人骨は縄文人で一般人だが支配者の卑弥呼は朝鮮系の渡来人の子孫だな。
百済の支配者と人民の構図によく似ている。
0641名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 20:44:07.43ID:y9Y2gJfI0
邪馬臺国ではなく、邪馬嘉国=山鹿が邪馬台国だな笑
0643名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:02:18.38ID:8GyvcvCc0
>>619
残念でした。
>[左注](神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上
>久夜斯可母 可久斯良摩世婆・・・
この謌は「久奴知=国元である奈良」に居る妹=妻の訃報を聞いて
筑紫の太宰府から亡き妻を悼んだものだわな
作者:山上憶良,無常,哀悼,亡妻,太宰府,神亀5年7月21日
0644名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:07:52.87ID:ubRbKQ2R0
魏国は邪馬台国が狗奴国との戦いで苦戦しているのを知って檄文を送ったりしているから
魏国と邪馬台国との仲は相当緊密だったようだな
0646名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:11:03.19ID:ubRbKQ2R0
奈良と伊勢神宮の位置関係は○○と宇佐神宮の関係と同じ。
さて○○とはどこの事でしょうか?
0647名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:17:45.21ID:8GyvcvCc0
>>627
説文解字は陳寿の三国志と同様に
鮮卑など北狄と呼ばれた異民族の侵略の影響で
魏志倭人伝執筆当時から変化した漢字音に合わせて改竄されてる。
だから隋より前の西晉時代より古い説文解字を探してこないと話にならない。
言語学、音韻学という科学はそういうものだ。
0648名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:26:05.18ID:MRSjd0ug0
女王の墓である物的証拠が何一つ出てきてないのよねえ。畿内全体に広げてもなお出てこない。その点北部九州っつーのは卑弥呼ではないがシャーマン兼女王の大規模古墳が発掘されとる。これの差はとんでもなくデカいわけ。
0649名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:26:26.52ID:3VRBCLWB0
>>643
山上憶良の妻が奈良に居た?
何処にそんな事が書いてあるの?
0650名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:42:07.99ID:8GyvcvCc0
>>640
卑弥呼は元々支配者階級ではなかった。
若い時から衆を惑わすカリスマ性があったから
伊勢遺跡の豪族長会議で「女王」に選出された。
0651名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:47:14.64ID:CA/Gy4Yf0
>>648
北部九州の大規模古墳って前方後円墳?www
それヤマト王権の傘下に入ってた証だよw
0652名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:50:16.93ID:Fz/2wC9tO
天皇家が存続している以上偽書であるとは、学者は口が裂けても言えないよね。無理に繋げるのが今のお仕事それは仕方ないわ。でも解ってるでしょ辻褄合ってないの。
0653名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 21:52:33.07ID:4URSH6qn0
>>647
ということはそれより新しい時代のモノを参考に当時の文字を調べるなんてことは
甚だお話にならないということだな
0655名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:14:24.20ID:hZTCYDsW0
前方後円墳も
不定形で古い全国的に広まってるタイプと
完形の新しいタイプがある。

箸墓古墳のような完形の前方後円墳は
だいたい4世紀後半以降。

実際、箸墓古墳も主体部をほってないから
結論は出せないが、周溝などから出る
遺物は4世紀後半以降。

九州を含む全国の古いタイプの
前方後円墳は三世紀前半くらいからの
ものがある。
0658名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:24:30.08ID:hZTCYDsW0
九州で完形の前方後円墳は
5世紀後半から6世紀前半くらいだね。
磐井の岩戸山古墳がこれくらいの時代。
父親の墓と言われる石人山古墳が
古いタイプの方だね。

しかもすぐお隣の小国と思われる大善寺の
御塚権現塚古墳は巨大な円墳だ。
(帆立貝型の説もあり)
これも時代は近い時期だから
特に完形前方後円墳が強制されたと
言うわけでもなさそう。
0659名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:26:41.82ID:hZTCYDsW0
>>657
記紀を参考にしたのはわかるけど
筑紫城になってるのはおかしい。
原本は東大寺のものらしいけど
その頃はまだ異説本がたくさんあったのかもね。
0660名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:28:15.53ID:CA/Gy4Yf0
しかし、九州説のやつらのデタラメ知識はどこから拾ってくるんだろうな?
学者や教科書は間違ってると決めつけるくせに、
胡散臭いサイトは信じてるわけだから、理解不能な人たちだわ
0661名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:28:56.10ID:EO3rUhat0
>>539
>九州上陸を目の前にして、もういきなり魏志倭人伝の距離感が狂いだす。

そもそも海上距離の測定方法が3世紀にはないんだから、
距離を測って記録したと考えるのがそもそも間違い

渡海は距離にかかわらず1日で漕ぎ渡ったところを一律で千里としているだけなんだよ
だから島の間の距離から「これは短里だ」と言い出すのは根本的に間違っている
0662名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:33:56.40ID:hZTCYDsW0
クヤ韓国から松浦まで
島2つの渡海三回

総距離が220km程度で三千里。
それぞれの渡海距離に差はあれど
平均すれば千里で70〜80kmってところ。
0663名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:35:47.81ID:EO3rUhat0
>>548
>そこから南へ進んで唐津市街地で東へ500里(40km)で伊都国へ

これが九州説のインチキの中でも稚拙なもののひとつ
唐津から東に行っても背振山脈の南にしか行けない
唐津から北に向かわないと伊都国には着かない
呼子に上陸させてそこが末盧国だとインチキを重ねても、
そこから伊都国は東にしかならないし「東南陸行」の方角が間違っているのは否定できない
http://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg
0664名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 22:38:30.85ID:EO3rUhat0
>>560
>魏書の中では世有の意味は「魏の世の時」が普通だよ

じゃあ、魏書の中で「魏の世の時」と読むべき他の例を示してもらえるかな?
そんなのは一つもないんだが?w
0665名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:40:14.79ID:6BhCMSkP0
だからさー
古代ギリシャの都市国家と同じで
古代日本みんなが日の女神や豊受神を信仰してただけだよ
女王じゃなくて女神
神殿に祀られてる女神を女王として記録したんだよ
0666名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:40:54.10ID:Ub5to5Ri0
>>658
中国からの文化輸入で王族、有力豪族の王墓象徴である
前方後円墳が九州に少ないのは律令文化からの風習が
畿内より遅れていると言う事だよね。
つまり独自の風習が根強いと言う事だよ。
考古学者の研究費アピールの為にやたらと古墳遺跡
の数を主張するけど、日御子(卑弥呼)の文化じゃないねw
畿内にむしろ呪術信仰の発掘品が少ないことは
卑弥呼を遠ざけてると思うよ。
0667名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 22:42:48.77ID:hZTCYDsW0
>>666
中国には前方後円墳形式は無いよ。
念の為。
0668名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:44:27.61ID:hZTCYDsW0
前方後円墳は中国にはないから
悪く言えば中国文化から外れてる。
良く言えば独自発展を遂げていると言えるね。
0669名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:45:32.65ID:EO3rUhat0
>>569
>女王国とは伊都国と奴国のことだからな。

伊都国、奴国からでも東方向には渡海できないだろ?
何を言ってるんだ?
0670名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:46:43.32ID:6BhCMSkP0
前方後円墳は弥生時代の円墳から発達したものです
国内文化です
0671名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:50:20.39ID:Q3lUB8tj0
>>663
うむ、だから自分は佐賀経由熊本行きを推す。
そうすれば肥前肥後しか通らなくなり
邪馬台国本国は熊本
女王従属国は肥前と言える。

そして筑紫とは何らかの休戦状態にあり
日向大隅の熊襲国と、人吉盆地あたりで
戦争中と推測できるのだ。
0672名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 22:50:51.19ID:EO3rUhat0
>>574
萬二千里は当時の中華世界の世界観で、世界の果てまでの距離なんだよ

山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)、
南北は万千五百里(26,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える

また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。

五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
0673名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 22:51:09.49ID:K24Dv2pJ0
>>641
正解だと思う
0674名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 22:56:44.65ID:EO3rUhat0
>>587
九州説の人はすぐに住居が少ないから人がいなかったって言いたがるけれど、
人がいなかったら当時の列島最大の墳丘墓、纒向石塚古墳他は作れないんだよ

それに纒向遺跡で大量に出土する土器は飯炊き甕
その大量の土器で調理した食料を食べる大勢の人を想定するから纒向遺跡は「都市」と表現されている
0675名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:02:24.61ID:EO3rUhat0
>>590
魏志倭人伝の記述が魏使の旅程記事ではなく、倭国の地誌だと理解しないと間違えるんだよ
ただ北部九州より先は魏使の見聞記録しかないから、その部分(水行、陸行)は旅程記事と言える

北部九州の末盧国から不彌國は官名を除き、後漢代の記録による地誌だよ

末盧国から東南陸行は伊都国ではない別の場所への旅程が紛れ込んだもの
0676名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:02:48.63ID:3VRBCLWB0
>>664
三国志内での世有王の用例

@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
「夫人以下の妃については、魏の世では帝毎に増減があった。」の意味。

A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。

B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
「今の貴方たちの先祖は、魏の世で冠をつける役職についている。」
つまりこれも魏の世には冠をつける役職についている、の意味。

C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
「父祖三代に渡って遼東を領有した。」(189〜238)

D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
「当時は名声が高かった。」

C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意味とも取れるが漢の世に対しての話であり、魏の世に限ったことである。Bは今のことを話しているから魏の世に限ったことで、代々の意味ではない。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切。
以上からは、特別な使用でない限り三国志魏書中の世有は、「魏の世」と訳すのが適当である。
0677名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 23:03:52.13ID:3VRBCLWB0
>>676
訂正
三国志内での世有の用例
0678名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 23:06:33.00ID:3VRBCLWB0
>>669
博多湾から船出すれば東方向に渡海して中国地方
1000里(約80km)
0679名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 23:14:29.54ID:3VRBCLWB0
>>663
魏使が太陽の方角で感じた、だいたいの方角なんだよ。
まだ羅針盤ないからな。
0683名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/29(土) 23:30:44.70ID:EO3rUhat0
>>648
>シャーマン兼女王の大規模古墳が発掘されとる

それ、まさかとは思うけど墳丘サイズ12×8メートルの小さな墳丘墓(方形周溝墓)のことじゃないよね?ww
0684名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:34:32.52ID:nYbbyG0Y0
日本会議じゃねーけど、日本て何らかの宗教だよな
もはや天皇がどうとかいうまいw
日本という宗教なんだろう、この神戸大の先生だのがやってるのは
0685名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:35:50.32ID:nYbbyG0Y0
>>681
誤記だとかいってるけど、現実に書いてる字は壱なんだろ?
0686名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:41:04.91ID:EO3rUhat0
>>662
>平均すれば千里で70〜80kmってところ。

計ってもいないものを平均する意味がない
魏志倭人伝の「里」の記述は決め打ちの「設定」なんだよ

まず大前提が
女王國までが萬二千里 (当時の世界観で世界の果てまでの距離)
倭国本土(本州四国九州)上陸までが萬里(秦漢代の中華王朝の版図の大きさ、後漢への朝貢時の決めごと)

次に渡海は一律で千里

陸行は近ければ百里、遠ければ五百里

こんな感じで「決めてある」だけ

韓地方可四千里は、倭国上陸までの一万里から渡海千里三回で三千里を引いた七千里に
合わせて計算したもの
方四千里の韓地の、西岸の南北四千里と南岸の東西四千里のうち東の端まで行かずに三千里で、
循海岸七千里になる
0687名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:46:52.16ID:EO3rUhat0
>>666
>畿内にむしろ呪術信仰の発掘品が少ないことは
>卑弥呼を遠ざけてると思うよ。

弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

また、纒向遺跡では大型の祭祀土坑がいくつも発掘されているが、
九州にはどんな祭祀遺跡があるのかな?
0688名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:48:46.94ID:EO3rUhat0
>>671
その説だと
水行、陸行の十分な説明ができない
投馬国の比定地を置く場所がない
という矛盾が出る
0689名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:52:32.05ID:EO3rUhat0
>>678
>博多湾から船出すれば東方向に渡海して中国地方
>1000里(約80km)

それは「水行」であって、「渡海」ではない

水行は何かあったら陸に上がればいい比較的安全な沿岸航行
渡海は何かあったら遭難して死ぬしかない持衰頼みの危険な外洋航海

これを区別しないのはダメ論
0690名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:57:30.72ID:EO3rUhat0
>>685
12世紀の伝本では「壹」になっているけれど、それ以前に成立した他の史書(複数)で
魏志曰で「邪馬臺國」となっている

多くの史書で共通して「壹→臺」の誤記が生じたとするより、
現存三国志の伝本の3世紀から12世紀までの転写過程で「臺→壹」の誤写が生じたとする方が合理的
0692名無しさん@1周年
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2019/06/29(土) 23:59:29.36ID:EO3rUhat0
>>676
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有?損。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
0693名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 00:03:01.14ID:v32JOhtw0
史書の本場、中国で認識されている邪馬台国は北部九州のみです。

https://youtu.be/6Z0avSjgtHo?t=18

北部九州一帯をひとまとめにして「邪馬台」と呼んでいます。
0694名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 00:03:50.38ID:v32JOhtw0
畿内説による歴史ゴッドハンド炸裂

■ニュース:2001年12月
「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、
木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具
である可能性が高い」 と発表した。
 
■木製輪鐙の出土状況
周濠の底の堆積層に埋もれていました。
 
■畿内説の説明
・箸墓は3世紀の卑弥呼の墓。
・きっと木製の鐙は後世で周濠に流入したものです
 (木製品が沈むのが謎)
 
<参考1>
半島で見つかった最古の鐙が5世紀のもの。
国内各地で出土した鐙も5世紀のもの。
 
<参考2>
鐙のルーツは西晋時代の中国もしくは満州に在り、確認できる最古の物は
各々302年と322年に埋葬された鮮卑と東晋の墳墓から出た陶馬俑であり、
実物として最古の物は北燕貴族の馮素弗の副葬品である。
そのため鐙が発明されたのは西暦290〜300年頃とされる。
5世紀には木製の鐙が普及し朝鮮半島や日本でも使用されていた。
0695名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 00:04:18.59ID:1YNrJ1m90
>>640
違うよ立派な棺に入った支配者が縄文系だったんだよ
立派な副葬品とかアクセサリーをしてた骨だよ
0697名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 00:52:38.49ID:2NFOzNHu0
>>686
>倭国本土(本州四国九州)上陸までが萬里
(秦漢代の中華王朝の版図の大きさ、後漢への朝貢時の決めごと)

壱岐対馬が倭国本土じゃないって無理があるんだよなあ
0698出土したものは
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2019/06/30(日) 00:59:26.02ID:+HK/ftia0
>>632
唐古・鍵から褐鉄鉱容器に入った勾玉が見つかっている。
この褐鉄鉱容器というのは朝鮮渡来の鋳鉄を加工したときに
飛び散った鉄の破片が粘土質の土と混ざって錆びたもので
団塊状で内部に空洞のあるものを鳴石、壷石という。
唐古・鍵から出土したものは壷石とみられる。古くから熊本県の阿蘇で産出している。
すなわち唐古・鍵は肥後熊本と交流があったと言える。
0699名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 01:12:24.80ID:uLsaZtJK0
弥生時代末期 朝鮮からの渡来人が増えたので、日本の原住民(縄文人の子孫)は10人の内1人もいなかったという。
「消えた縄文人」なる書籍まで目にするが、縄文人は弥生時代でもって終焉に近い存在となり、
倭国の住民の90%以上が渡来人によって占められたと言える。従って、「邪馬台国」なるものは、朝鮮渡来人によって作られたとしか考えられない。

「邪馬台国」についてわかりやすく言えば、アメリカの原住民のアパッチ族を拡大・高度化したような集落・集団であったかもしれない。
縄文晩期の人口が十万人にもならなかったということは、その人口を全国に散在させれば、
各集落にはスズメの涙ほどしか人が住んでいなかったことになる。殊に、縄文人は東北部に主として暮らしており、
西部には1万人も居なかったという。従って、当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる「○○国」があったなどと言うのは、
「魏志倭人伝」に書かれているということで「邪馬台国」を過大評価し、真実の姿を誤解しているのである。

「邪馬台国」は「呪術国家」であったと言われている。酋長(王)なる人は部下をたずさえて渡来したシャーマンであった可能性がある。
「邪馬台国」は日本国の出発点というようなものではなく、渡来人による大集落であったと推測される。
倭国に当時の文献が一つもないということは、「邪馬台国」が国家などと言われる様相をなしていたかどうか疑問である。

「魏志倭人伝」が書かれてから「記紀」「万葉」が書かれるまでの約400年の間に、倭国に関するまとまった文献が一つもない。
「日本」という国号が作られたのは、奈良時代に渡来した百済の上層階級によるものである。
このことは、現在の日本人が想像しているような国を「邪馬台国」に期待するのは思い過ごしではないだろうか。
日本国の出発点としてではなく、文字を書けない者からなる大集落であり、しいて言えば、
アメリカのアパッチ族に類するものではなかったかと推測される。
まして、酋長なる「卑弥呼」の存在を考えるとき、彼女が「霊媒師」であったことは、
当時の社会風潮からすれば、当然貴重なる存在者として崇められていたと言える。

「霊媒師」としての能力をどこで覚え、配下に部下をもつほどの指導力を携えるようになったかは、
その文化的素地を養ってくれた朝鮮にしかありえないだろう。「卑弥呼」がどのような人であったかを推測するとき、
弥生時代という時代背景を考えなければ、とんでもない推測をしてしまうことになるだろう。「魏志倭人伝」なる漢字で書かれた文献に惑わされて、
何か偉大なものが倭国にあったかのような錯覚に陥っていると言える。「魏志倭人伝」は漢字で書かれているので、
解釈において多面的な意味が生じるので、一層始末が悪く、あれやこれやと色々な解釈をあげつろって混迷に陥り、
わが説こそ正論であるかのような論文が出回っているのである。
0700名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 01:44:44.48ID:lEo5o9nF0
>>698
奈良と熊本は邪馬台連合国家には属していないから交流があったのかも知れん。
邪馬台国連合国家の三十余国は長崎、佐賀、福岡、大分にあった国々の事。
倭国は百余国からなると言うのは九州全体の事を倭国と呼びその中の北部九州だけが
邪馬台国連合国家として魏と交流を持っていたと言う事になる。
0701名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 01:57:16.89ID:OJuHipo20
負け犬・九州説カルト狂信者の遠吠えが心地よいw
0702名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 01:58:05.57ID:lEo5o9nF0
九州北部発祥の海神社、綿津見神社、住吉神社、宗像神社、八幡神社などは
全国に広がっているこれらの神社は弥生時代〜奈良時代にかけて建立された。
1番遅いのが八幡神社で奈良時代の建立だが日本中に広まり四万社ほどあると
言われている
0703名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 02:16:07.41ID:+CYDUi0R0
>>661
朝鮮半島南端から九州北岸までの渡海は
1.狗邪韓国から対海国の千里
2.対海国から一大国の千里
3.一大国から末盧国の千里

対海国を対馬。一大国を壱岐島、末盧国を呼子とした場合
目視で距離の違いがはっきり分かるくらいにそれぞれの距離感は違う。
距離を実測できないからと言っても、対岸を目視で見れるレベルである以上
明らかに距離感の違いは目で見てもわかるし海上移動時間も違いすぎる。

これを測ってないから一律千里と言い出すと
女王国までの萬二千里の根底も崩れるよ?
0704名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 02:42:58.29ID:pkwOjfJ70
近畿の連中が九州の歴史を根こそぎ叩き壊し抹殺したから証拠が出にくいだけ

邪馬台国は絶対に九州だから
0705名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 02:51:18.40ID:drXct/fn0
>>41
邪馬台国の先に胡散臭い国がたくさん羅列されてるしな。
0706名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 02:57:00.04ID:Ud/Kckbx0
纏向が邪馬台国て日本書記の記実を全く無視した説なんでしょ
0707名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 03:29:42.94ID:w46Kzu960
>>704
筑紫城に代々住んでいた王が大和に遷都したんじゃなかったのか?
0708名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 03:58:52.72ID:YynIgGgV0
昔なんだから邪馬台国ぐらいの国は日本中にいくらかあっただろうにw
たまたま記録としてあるのがそれしかないから、一国に拘るあたりが
信仰なのかと思えてキモイ
0709名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 04:00:31.09ID:+CYDUi0R0
>>702
八幡神社が全国各地に広まったのは武芸の神様と崇拝される八幡神=応神天皇を祀ってるからだよ。

武家が全国各地で信仰したので末社がどんどん増えていった。

八幡神が神仏習合で八幡大菩薩となる。
南無八幡大菩薩とは応神天皇への帰依と加護を求めるセリフ。
比売神=宗像三女神への信仰って訳ではないよ。
0711名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 04:12:54.55ID:+HK/ftia0
>>681
多くの邪馬臺国研究家だ頼りにしている藤堂明保博士の大漢和辞典(学習研究社)の上古音を眺めていると
[əɡ]という上古音を持つ多くの漢字が中古音=中原が北方系異民族に侵略され同化した後の
隋唐音で[əu]へと変化した事が見て取れる。
中国の漢字検索サイトで「臺」の上古音を調べると[dɯ]。
[ɯ]は日本の福島弁を始めとする関東、東北弁の唇を丸くしないウ。
そして「臺」の方言音を調べると広西省で話されている「平話」という方言の内、
壮(チュワン)族自治区の桂林市霊川県三街鎮方言で[tɯ]≒トゥと発音している。
又桂林市の中心から10数キロ北東に位置する朝陽でtuaトゥァと発音している。

中国では唐代中盤から唐末五代にかけて頭子音の濁音b、d、g、zが清音のp、t、k、sに変化した。
一部の方言では現代でも濁子音を残しているものもある。
奈良時代に成立した記紀万葉風土記では清音専用、濁音専用の万葉仮名を使っていたが
平安時代の源氏物語、枕草子などの仮名文学に濁点が付いてないのは
こういう事情を反映したものである。
桓武天皇の時代に遣唐使として派遣された役人たちが
「唐の都長安では従来の呉音は通じない。漢音を学ぶべきだ」と言い始め論争が起きた。
邪馬台国論争と同じで中々結論が出なかったので桓武天皇に裁断を仰ぎ
平安遷都の2年前延暦11(792)年に「明経之徒(=大学寮で儒学を学ぶ学生)、
不事習音(最新の漢字音を習わないから)、発声誦読(=声を出して読む場合)、
既致訛謬(訛ってしまってる)、宜熟習漢音(=しっかり漢音を習うように、そこんとこヨロシク)」という
詔勅が渙発され幕引きとなった。
0712名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 04:13:39.66ID:KbUGUPgv0
どんどん九州説の妄想と虚構が暴かれとるw
0713名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 04:36:40.88ID:+CYDUi0R0
>>712
そもそも魏志倭人伝がいい加減過ぎるから、妄想で補完せざるを得ない

北九州は博多湾一帯の出土物や、金印なんかもあるし、宗像三女神や住吉神社などの古い信仰もあるので
どうしてもそちらに引っ張られやすいし、古田武彦が頑張って書籍も大量に出版されたので感化されやすい。

魏志倭人伝の記述との矛盾がいくつもあるのに、無理に北九州に留めようと足掻くから無駄に軋轢を生む。

古田武彦も月刊ムーやグラハム・ハンコックと同じくビジネス歴史研究家なのに、学問の様に崇められてしまった。
0714名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 05:59:44.28ID:MFAMKyTp0
>>692
1と4目の例文は論破されてるのになんで掲載w
0715名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 06:17:09.38ID:z6TcW7Vc0
>>38
2礼2拍手1礼は明治政府が決めたことだからな
0716名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 06:18:11.45ID:MFAMKyTp0
>>692
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有?損。
これ魏と漢の時代の比較で、魏代に代々増減があったって意味じゃないから
代々の意味ではないよ、世有は魏代の事。

・今汝先人世有冠冕
王家が出世したのは昶の伯父柔、父澤からで漢末から魏代
つまり、自分と父の代で代々ではなく、魏の世を指している。

他は陳寿の文ではないな。
0718名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 06:50:25.52ID:lEo5o9nF0
>>709
その位の事はお前に教えて貰わんでも判っているよ
0719名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 06:57:06.24ID:lEo5o9nF0
朝鮮系関西人は九州の力は古墳初期に出来た伊都国の平原古墳で終わったような
勘違いをしているが、九州は弥生時代よりも古墳時代の方が繁栄している
その証拠に古墳時代からの出土品は弥生時代には無かった金銀製品が多数出土した
その代表格が宮地嶽古墳の埋葬者である宗像徳善の副葬品だ。
現在の所古墳時代の副葬品としては超1級品と言える。
宮地嶽古墳は古墳時代末期だからそれまでは九州の繁栄は続いている。
0720名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 07:17:49.45ID:eDe5Feou0
>>707
神功景行あたり九州の伝承を潰して歩いたんじゃないかと疑うレベル
0721名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 07:34:03.90ID:+WiCvpm30
>>713
わし古田なんか信用してないけど九州説だぞ
0722名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 07:54:35.69ID:+WiCvpm30
>>702
記紀の記述を信じると、神様も古い順から

綿津見 > 住吉 > 宗像 >= 八幡(宇佐)

なんだよな。

んで、八幡神は応神天皇だって言われてるけど、本当は別の神様だった気がするんだよねえ。
もちろん後年八幡大菩薩になって清和源氏の氏神になって全国に広がったのも事実だけど。
0724名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 08:29:10.57ID:rksanDiy0
>>713
陳寿はなぜ地図をつけてくれなかった?

地図があれば有名な倭人伝の行程の解釈を巡って揉めることはなかったのに。
0725名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 08:34:55.85ID:rksanDiy0
まともな邪馬台国奈良説の本を読んでたら
多くの研究者が邪馬台国と大和朝廷の間には文化も制度も明らかな差があると認めているのに
その間をどう繋げるかの根拠が弱い感じがする。
0727名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 08:38:03.09ID:3yhpXssi0
>>725
ヤマト王権は確実にあったわけだからどう繋がるかがテーマとなる。
九州の方は痕跡が消えてなくなってるから、どうなったかも問われるべきなのに議論されない。
0728名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 08:46:19.48ID:XlECQoz4O
魏志倭人伝のおかしな処は、投馬と邪馬台のとこだけ、その後の書にも訂正されるとこもないから、問題なし、500年後の政権の都合のいい記紀を丸事信じるわけにはいかない、引用を自分等の解釈にし過ぎ。
0729名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:06:14.22ID:+WiCvpm30
卑弥呼=豊玉姫
台与=豊入姫=神功皇后

説を唱えたい。つまり邪馬台国系の仁徳天皇をヤマト王権の始祖(神武天皇)になぞらえているわけだ。
もちろん神武天皇(や神功皇后、それに多分応神天皇も)はモデルとなった人物は存在するが、大王(皇后)
としては実在しない。
0730名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:06:48.14ID:XlECQoz4O
そもそも無人島だった所に北から食い物探しに来た者と半島から逃れて来た者か、西から南から流れて来た者しかおらんのよ、で文明から逃れてきたものは、まず海沿いに町をつくり、後から来た者が中に入り出して畑やりだすんだろ、奈良なんて北から食い物探してきた土人だよ。
0731名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:16:28.27ID:lEo5o9nF0
倭人伝が書かれたのは卑弥呼の死後で壹與が女王の時だが卑弥呼は狗奴国との戦争の為に
紛争地に近い久留米市に住居を構えていた訳だ、陳寿はそこを邪馬台国と言っている
狗奴国との戦いの最中に卑弥呼は死んだから卑弥呼は祇園山古墳に埋葬され、壹與の時に
戦争が終わり壹與は伊都国に戻って行った、伊都国の平原遺跡は壹與の墓だな。
その後長く経たないで日本統一を目論んで東征を始めたと言う事になる。
平原古墳や祇園山古墳は北朝鮮で良く見かける古墳に似ているらしいから
卑弥呼は朝鮮半島系の渡来人の子孫であるのは間違いないだろう。
0732名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:18:05.04ID:XlECQoz4O
今の東京ですらこの50年でうんと変わるんだぞ。北九州の倭人が半島を制圧し一挙に馬や車が入り込み、北九州じゃ人が一杯なんで瀬戸内の行き止まりに移民あるいは行かせたんだろ、巨大古墳は、内陸に影響された倭五王の産物だよ。その後簒奪した者は、巨大化廃止にしてるだろ。
0733名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:32:10.19ID:8xwavcAe0
邪馬台国!
この国の先住民族であるアイヌの方々からこの国を侵略して奪ったわたしたちの祖先です!
纏向遺跡は反省と謝罪の地としなければいけません
0734名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:40:36.65ID:Pg9xeZQ/0
アホが集まったか。
0735名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 09:48:13.41ID:+CYDUi0R0
>>724
陳寿はあくまでも、晋の時代に三国志の編纂をしただけで
当時の資料や取材で手に入らなかったならつけようがないでしょ。
まして東夷の事なんて、彼らにしたら資料的価値も大して高くない。

当時陳寿が入手できた資料をつなぎ合わせてまとめただけで
まとめた内容の真偽を確認したわけでもない。

魏志倭人伝の後半部分は、それまでと明らかに文体が変わり
洛陽に残っていた公文書の転記と思われるんだが
信じて問題ないのはそこだけだよ。
0736名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 09:50:05.66ID:lUiGK92j0
九州だと何か都合が悪いのかね?
0737名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:05:10.03ID:jC8JgUSF0
史実を知りたいだけだよ
歴史は線で繋がる
どちらにあったかわかることでさらにわかることがでてくる
0738名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:10:19.18ID:Pe0vQkYt0
>>736

まず、北九州の墓からは後漢の遺物が出てくる。しかし、卑弥呼が使いを贈ったのは後漢の
次の魏の時代。
そして、畿内や北関東、山陰の古墳からは魏の年号の書かれた鏡が出土する。

また、魏志倭人伝には北九州の国々から、船で1月、歩いて1月という隔絶された距離の場所に
邪馬台国はあると書いてある。
0739名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:11:17.39ID:44a4EIYy0
>>707
筑紫城の王の遷都は完全に妄想。
0740名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:13:04.77ID:Pe0vQkYt0
北九州に首都があると、朝鮮半島南部の国にすぐに侵略される。奈良にあると朝鮮半島から
侵略することはほぼ不可能。
瀬戸内海を航海し生駒山脈などの山を越えないといけない。これには、大分あたりを後背地にし、
瀬戸内海沿岸の国々を抑えないといけない。
0743名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:19:39.56ID:a2B1EboC0
>>740
首都ではないよ。
小国の連合帯。
0744名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:22:46.40ID:eDe5Feou0
>>742
59日だっけかな
土佐から和泉の灘(阪南市付近)までで39日間、そこから大阪湾北上して
淀川を遡って山崎までが19日、山崎から車で京都までが1日
0745名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:24:21.90ID:lEo5o9nF0
>>731に続く
魏使が倭国に来た時には卑弥呼は死んでいたから魏使は邪馬台国には行かずに壹與が
いた伊都国に留まった訳だ、倭人伝が伊都国を中心に博多湾沿岸の国情しか
書いていない理由はこう言う事だ。
これで倭人伝の記載のモヤモヤは無くなったと言う事だな
0746名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:27:02.84ID:+CYDUi0R0
>>741
旧唐書「なんだって?」
0747名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 10:58:19.75ID:RHWxB8dc0
>>738
三角縁神獣鏡は中国では一枚も出土していない。それを魏の鏡というのは無理。
倭人が作った偽物だよ。
0748名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:01:08.93ID:U+btThRr0
そもそも神獣鏡系列は呉の鏡で
職人が帰化した証だと言われますね。
0749名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:01:20.19ID:+CYDUi0R0
>>736
九州でも全然いいよ。

ただ北九州北岸伊都国説は魏志倭人伝との矛盾が残ってるから、このままでは無理かな。
吉野ヶ里だったり、大分、熊本の方が、九州説でも魏志倭人伝に添わせやすい。
0750名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:08:19.60ID:CKuSTSep0
なんかもう必死過ぎて、逆説的に自ら邪馬台国じゃない可能性があまりにも高すぎる現実を宣伝してるようなものだわ
0751名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:09:58.32ID:44a4EIYy0
>>741
新唐書は魏志倭人伝やら日本書紀まで取り込んで、カオスに編纂されたアテにならん駄文
0752名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:10:11.12ID:MFAMKyTp0
>>740
朝鮮半島南部も倭の勢力圏だからその心配は無い
朝鮮半島南部の経営の為にも北部九州に首都が必要。
0753名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:11:39.74ID:nlYyvxaS0
>>699
9割置き換わったのはミトコンドリアな
Yハプロは7割 日本固有
核DNAは 縄文5割漢人5割
これが最新の知見
0754名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:12:18.98ID:eDe5Feou0
>>751
まあ当時の知識を詰め込んだんだろうな
その中に 凡三十二世 皆以尊為號 居筑紫城 という情報があった
あってしまった

せっかく記紀ですっとぼけたのに
0755名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:15:03.54ID:CKuSTSep0
奈良人は、大仏や鹿がいても大阪京都に勝てないから、
心が歪んで闇を抱えてるんだろうな・・・
0756名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:15:21.00ID:/USLtnvC0
>>736
九州で都合が悪いわけじゃなく可能性が限りなく低いだけ
北海道やハワイの方が、可能性あるよ
0757名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:16:17.45ID:CKuSTSep0
>>756
おまえやばい奴だなw
0758名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:24:27.64ID:2NFOzNHu0
私は20年間、大和の中央部・桜井市で、「邪馬台国は何処(いずこ)」
とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、
邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、
大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が見られないことに気付いた。
 代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や
田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。
逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
 であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に100メートル以上
もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に
別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。
 では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、
特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、
北部九州のどこかではないかと思われる。

<清水眞一>
前・奈良県教委文化財課長。
邪馬台国畿内説で最重要候補地とされる纏向遺跡の発掘調査を手がけた。
0759名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 11:39:22.16ID:2NFOzNHu0
畿内説の根拠
・江南出身の帰化職人が作った粗悪な国産神獣鏡
・城柵楼閣のない土木作業員の詰め所
・冊封国女王風情が魏王曹操よりもはるかに巨大な墓を
作ったとする箸墓古墳
・ヤマタイ→ヤマトゥ→ヤマト

どれもこれもわらけてくるわ
0760名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 11:41:39.59ID:FdwGHiUL0
佐賀有明方面がやはり邪馬台国じゃないかね?
天文じゃなく現代気象学の能力でおよそ二千年前からの
日食のあった日時場所を少しづつ割り出して
地域をある程度絞って調査するのが邪馬台国の位置を
限定できると思うんだけどね。
0761名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 11:47:01.87ID:G/owFgK60
>>754
筑紫ってのは昔の九州の総称であって、九州の一部地域である筑紫国の意味ではない。
つまりは九州の宮崎県高千穂峰に、代々の王が住んでたんだよ。

ソースは筑前国続風土記
0762名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:00:22.35ID:sfZY3YpP0
邪馬台国が話題になるのは 後の近畿ヤマト政権との関連があるかどうかだから
記紀にある記述では 筑紫ヤマト女王国を征服とあるから 地方政権であって
近畿ヤマトとの直接のつながりはない ということだから
ロマンは終わりだな
東征出発は 宮崎政権 その前 つまり高天原と呼ばれた場所は 
北九州の山中か
0763名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:07:54.82ID:/zN5tic70
神武天皇は九州出身なんだよね
てことは邪馬台国と対立していた狗奴国(男王の国)が天皇家なんじゃね?
なぜクナ国なのにヤマト(ヤマタイ)国と名乗ったかというと、
九州平定して本州進出した時に箔をつけるために
「ヤマタイ国の後継者」と名乗ったんだろう。

で三種の神器の八咫鏡は邪馬台国から奪った戦利品、
元々は卑弥呼が神事に使っていた鏡だろう。
これを宮中においていたわけだが、
崇神天皇の時に災害や動乱が続き、
崇神天皇はこの鏡を「恐れた」

なぜってやっぱ敵国の大将(しかも呪詛の力をもつ強大な巫女)の鏡が
そばにあるってのが気持ち悪かったんだろうな

だからこの鏡を自分とこの巫女に持たせてどっかに祀れ、と追い出した
結局伊勢神宮に落ち着いたわけだが

天照大神=卑弥呼であり、いわゆる怨霊信仰。
0764名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 12:09:09.11ID:G/owFgK60
>>762
>記紀にある記述では 筑紫ヤマト女王国を征服とあるから 地方政権であって

どこに書いてるんだよw
0766名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:11:47.17ID:LJKdAOxJ0
倭人伝だけでであーだ、こーだ、あそこだ、ここだは限界なんだよ
なんせ江戸時代からずっとこれやってるんだから…

とにかく掘って、掘って
結果何かが分かるかもって話し

纏向はどのみち、大和政権に大きく関わる
遺跡だから掘るしかない
0767名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:12:02.05ID:hffGqHv80
元ネタwikiを爆撃して削除に追い込んだら好意的なレスをしてやる
0768名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:13:35.60ID:hffGqHv80
できるわけない → ではゼロベースで議論の俎板に乗せる
0769名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:20:00.27ID:/zN5tic70
>>163
古代(伽耶、新羅前半、百済前半)は朝鮮半島と日本列島が倭の文化圏だったが
半島はやがて倭の文化圏じゃなくなった、ということだろう
新羅の第四代王=脱解尼師今は倭人だし
0770名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:45:36.35ID:oFpMw9dw0
奈良県の背乗りヤマト朝廷ちゃんは九州から地名までパクってるしな
ただ鏡の意味を知らないままなんだよな
だからわざわざ偽物作ってまで割ってばらまいてしまった
背乗りヤマト朝廷ちゃんが御神体と勘違いしたまま社殿に飾ってるから
あまりおかしく言うと神道貶すようで言いたくないけどさ
中国鏡を割ってばらまくことはしないよ
鏡の意味はね
ヒントは古代中国にあるよ
0771名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:47:34.65ID:XlECQoz4O
楽浪東南海中の中、だから 楽浪から接した処から島の中は倭人の国があったんよ。
0772名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:49:40.94ID:Pe0vQkYt0
>>747

出土はしています。また、魏の鏡でなければ誰がなんのために鏡に魏の年号を書き込んだのでしょう?
3世紀4世紀の畿内に漢字を読み書きできる人物がいたのでしょうか?
0773名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 12:52:06.89ID:Pe0vQkYt0
魏という国はわずか30年くらいしかない中国の三つに分かれてた国の一つでしかありません。
そんな国のたった1年や1日しかない年号を魏の時代が終わった時代に書き込む必然性があるのでしょうか?
0775名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:54:15.32ID:Pe0vQkYt0
魏の、それも卑弥呼が朝貢した年の年号が書かれている鏡が出土するということは、レプリカであれ
、その年号にプレミアがついていたことになります。
プレミアがつくということは、それは邪馬台国の傘下にあるということを意味しているのです。
0776名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:55:58.52ID:Pe0vQkYt0
しかし、レプリカをわざわざ巨大で重要な人物の埋葬されているお墓に副葬するでしょうか?
副葬するならレプリカではなく、魏から直接贈られてきた本物を副葬するはずです。
0777名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:56:29.54ID:lEo5o9nF0
祇園山古墳は高良山の麓にある。高良山の中腹には筑後国一之宮の
高良大社があるが祭神では無いが豊比淘蜷_と言う女性も陪神として
いる。この豊比刀iトヨヒメ)が卑弥呼の跡継ぎの壹與の事では無いか
と思っている。高良は高麗に繋がるからやはり北朝鮮と何らかの関係が
あるんだろう。
0778名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 12:58:44.46ID:Pe0vQkYt0
中国の年号を書き込むのなら、呉や蜀あるいは、もっとぶっとんで秦の始皇帝の時代でもよいはずです。
秦の始皇帝の年号ならみんなびっくりすることでしょう。しかしそれは嘘だとみんなわかります。
0779名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:05:00.60ID:Pe0vQkYt0
大事なことは、中国の史書に魏の鏡を邪馬台国に贈ったとの記述があり、畿内や山陰、北関東の
遺跡から卑弥呼が魏に使いを送った年の年号の書かれた鏡が出土したという事実です。

これには偶然の一致は考えられません。必然性しかありません。
0780名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:12:15.83ID:Cu7HFlJA0
>>739
それ単に日本書紀の神武の東遷の意訳
筑紫「城」というのは王は都城にいるという中国の常識を当てはめただけの表記
0781名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:14:28.99ID:Pe0vQkYt0
南宋の曜変天目茶碗は日本で国宝になっていますが世界で日本に三つしか残っていません。
中国本土にはないのです。

三角縁神獣鏡が中国になくてもおかしなことではありません。
0782名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:15:31.25ID:+CYDUi0R0
>>760
どうだろ?
結局、南に水行二十日の投馬国と、そのまた南に水行十日陸行一月で
邪馬台国の場所はよくわからんようになるからねぇ
日数をそのまま受け取るなら、九州を突き抜けて海上を歩いてそうなレベル。
0783名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:17:47.97ID:U+btThRr0
景初4年というありえない年号の
鏡があったから、偽造とすぐわかるんだよ。

魏が与える鏡で年号間違ったってありえないだろ。
魏から離れたところで作られてたから
年号間違ったんだ。
0784名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:23:36.10ID:Pe0vQkYt0
>>783

ありえない年号ではありません。中国では王が亡くなったことをすぐには公表せずに隠していることもあるのです。
混乱が起きるので。
0786名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:29:38.30ID:v32JOhtw0
想像を根拠にさらに想像を重ねるのが畿内説。
こんなものを「説」と呼べるか?
理系の人はどう思う?
0787名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:35:23.03ID:/USLtnvC0
>>786
理系なら九州説の可能性はゼロと言い切るだろうね
0788名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:36:09.67ID:f6jqQOP/0
紀年銘鏡の存在は九州説にとって致命的だから
どんなことがあっても証拠は認めないと言い張るしかないわな
0789名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:36:57.21ID:Pe0vQkYt0
>>785

秦の始皇帝は死後隠されていました。死臭をごまかすために塩漬けの魚でごまかしたそうです。
0790名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:41:34.38ID:f6jqQOP/0
三角縁神獣鏡の製作地は確定できない
もし中国製であるなら、九州説は即死
日本製であっても、畿内と魏の交流を裏付けるものであり、
列島最大勢力が魏と交流していた状況で、九州勢力なんかお呼びでない
0791名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:47:18.89ID:Pe0vQkYt0
また、三角縁神獣鏡がレプリカであるというのなら、北九州の遺跡の後漢鏡も本物であるとの確証はあるのでしょうか?
中国で同じものが出土しているのでしょうか?
0792名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:50:24.83ID:f6jqQOP/0
九州説が成り立つのは、魏が認識していた倭国とは九州だけで、
畿内ヤマトは存在さえも知らなかったという仮定が必要
だから、東の倭種だということにしたり、黒歯国だということにしてたわけだ
紀年銘鏡の存在は、九州説の前提が崩れてしまうから、絶対に認めてはいけない
0793名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:52:47.56ID:swV/2ZYI0
ま、考古学の出土品から見れば弥生草創の遠賀式土器から文明は九州から東進している。
一方南進は沖縄までは行くのだが、その文明の影響力はまるでないと言って構わないだろ。
また王権の伝承性若しくは創作性に置いても九州からの東進を示し、他国と違い絶対王権ではないので諸地域支配者の最低限の合意が出来てる。
倭人伝の南進だけが異常で、これは以前から言われてる事で西日本域の出土土器の年代が考古学でより明確化している現在、一点批判主義ではなく邪馬台国若しくは畿内王朝早々の新しい総合構築をしていくべきだね。
0794名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 13:55:53.44ID:gNSK5D6F0
一大率=後の太宰府
0795名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 14:06:14.36ID:f6jqQOP/0
紀年銘鏡には、方格規矩四神鏡や画文帯神獣鏡もあるから
三角縁神獣鏡だけを否定しても意味ないんだよな
畿内と魏が交流があったことはもう否定できない事実
九州説には、もう物証を無視して開き直ってる信者しか残ってない
0796名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 14:08:16.49ID:eDe5Feou0
景初3年の1月に先帝が死亡して2月から改元され正始元年になるところ
景初2年は13ケ月あったことにされた

景初3年の2月から新元号となるところ、景初2年の13月の次から
つまり景初3年をすっとばして次の正始元年1月とされた・・・らしい

あれ?景初3年どこいったの・・・?景初4年・・・?
0797名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 14:31:11.10ID:+CYDUi0R0
>>783
なんとなく思い浮かんだ景初四年の言い訳を書いてみる。

洛陽で難升米と都市牛利が明帝に拝謁したのが景初二年十二月
ここで下賜された鏡は百枚だが年が明けて景初三年一月に明帝が没。
ここまでは史実通り。

ここから景初四年の言い訳
古代中国では服喪期間は三年あったとされる。
前帝が亡くなった場合、いきなり年号が変わることはなく
服喪期間が明けてから、改元を行うもの。
景初四年というのは服喪期間を見込んだから生まれた。

今の日本のように一世一元制ではない時代の改元が
服喪期間をどう扱ったのか、実際には知らないので空想ではあるけど
年号を遡及してたとしたら、辻褄は合わないこともないかも?

まあ百枚しかもらってないのに、もっといっぱい出てる時点で
コピー品が作られて、それに合わせて年号をいじったとした方が楽そうだけど。
0798名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 14:34:46.30ID:rksanDiy0
ttp://yamatai.cside.com/katudou/image/286-4.gif
中国元号の入った銅鏡は限られてるのに、なんでことごとく邪馬台国時代なんだ?
0799名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 14:51:11.04ID:pKWfJjhV0
そもそも邪馬台国という一つの国じゃなくて
八岐異国、数多異国の間違いでそれぞれ王もいたんだよ
でもそいつらがみんな卑弥呼の穴兄弟だったから卑弥呼が女王とされただけ
0800名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 14:53:11.92ID:eDe5Feou0
>>797
3年間喪に服して、前の元号をそのまま使うのだとしたら
景初3年、4年、5年のものがもっとたくさん出てきても良さそうだな
0801名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 14:58:15.56ID:f6jqQOP/0
>>798
北部九州での楽浪土器と畿内系土器の出土状況を見れば、この偏りの理由は極めて明白
楽浪土器は3世紀中頃までの出土は多いが、3世紀後半以降は激減する
一方、北部九州で畿内系土器の出土が増えてくるのは、3世紀前半からとなる

つまり、楽浪郡や帯方郡から来た人たちと畿内から来た人たちが接触した時期は、
3世紀前半から中頃に集中していたということ

文献と考古資料が見事に一致している
0803名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 15:33:18.10ID:dFmPLXLc0
まあ、年号を入れる習慣が中国にはないから、
年号が入ったものは全部国産だろ。
0804名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 15:35:18.59ID:a2B1EboC0
>>795
略奪、移動もあるわな。
0805名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 15:41:56.97ID:+HK/ftia0
>>771
日本語の「てにをはから」は難しいヨナ、キモヨナ
0806名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 16:14:48.83ID:f6jqQOP/0
紀年銘鏡を認めたら九州説は終わりだから
中国にはないと嘘をつくし、偽物だと決めつけるし、略奪だの移動だの空想話を作るわな
0807名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 16:26:05.86ID:lEo5o9nF0
グーグルマップで纏向遺跡辺りを中心に360度見渡して、次に福岡県朝倉市平原遺跡
辺りから360度見渡せば山並みが東と南は近くに見えて同じような風景に見えるから
東征してきた者が朝倉の地名を付けた訳だな。
0808名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 16:27:05.63ID:v32JOhtw0
>>806
>中国にはないと嘘を
あんのか?w
露天商から買った粗悪コピー品の事か?w
0811名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 16:39:03.55ID:jC8JgUSF0
奈良県桜井市 泊瀬朝倉宮 三輪山の南のふもと
第21代雄略天皇の宮殿があったとされる

福岡県朝倉市 朝倉橘広庭宮
第37代斉明天皇の宮殿があったとされる

普通に考えると奈良にあった地名を筑紫でも採用した
0812名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 16:42:47.62ID:KR4mnkq+0
紀元前1世紀頃の『漢書』
地理志燕地条

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#%E3%80%8E%E6%BC%A2%E6%9B%B8%E3%80%8F


北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/244000c


歴史学的に、紀元前1世紀頃の日本は百余国に分かれており、漢と同じ暦を駆使していた。
考古学的に、紀元前1世紀頃の日本は国産の硯を使っていたので、文字の使用が考えられている。
0813名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 16:43:51.09ID:lEo5o9nF0
古代日本の地名や人名に漢字を当てる時には判りやすい字を使う
ヤマトは山と門であって大和はやまととは読まない、完全に後世の当て字だな
大神神社は別名オオナムチ神社だが筑前町の大神神社は於保奈牟知神社
桜井市の大神神社は大己貴神社と延喜式神名帳に記載がある。
どちらの神社が古いか一目瞭然だろう。
0814名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:04:49.42ID:tMq4/Gjm0
>>806
近畿説の阿保らしさ、権力者に
物が集まる一方、権力者の趣向が地方に広まるのだから、その時期が邪馬台国、卑弥呼の時代とは、限らない。
近畿は後の時代。
0815名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:09:19.90ID:Pe0vQkYt0
>>813

奈良の大神神社は明治維新で作られた当て字。元々は三輪神社とか三輪明神といわれていた。
0816名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:09:39.98ID:v32JOhtw0
古墳のほとんどが盗掘されてるんだから、盗品がどこに流れているか分からない。
欧州のコレクターが卑弥呼の鏡を持っていてもおかしくない。
決定的根拠といえるのは「封泥」のみ。
0817名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:15:20.63ID:tMq4/Gjm0
>>816
出土しても確定できない。
裏付けのある書簡が必要。
0818名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:18:12.16ID:swV/2ZYI0
>>636
鬼道は同じだが、その対象と形態はまったく違う。
半島のシャーマンを写真で見たが男女で服装装飾も同じ様式。
男性祈祷師も戦後と同じような因縁祈祷をしたのであろう。
卑弥呼政権は鬼道のその上で支那文明(神仙、おそらく天文)の導入をしている。
>>637
北九州域の西部(佐賀長崎)は縄文特徴の人骨が弥生期でもよく出て、北九州の古墳からはその支配層人骨は縄文特徴を持っているものが多い。
これは外来系が流動性を持っている事を示しその方向は東へになっている。
ゆえに九州南部も外来系の流入が左程ではなかったイメージがある。ただし南部は外来との交易を示す出土は多い。
0819名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:30:10.68ID:RHWxB8dc0
>>772
してない、嘘つくな。
怪しい骨董市に出回っていただけ。
0820名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:32:50.36ID:PE/qrH180
中国での三角縁神獣鏡は
2015年に洛陽の骨董市で
発見されたのみである。
0821名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:36:05.86ID:RHWxB8dc0
>>787
理系なら畿内説の根拠である炭素14
の測定が無意味だとわかるな?
0822名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:37:20.76ID:+CYDUi0R0
>>800
まあ空想だしねぇw

ただ後漢−魏の時代の服喪期間が3年というのは本当の話しなので
そこから思いついた単なる作り話し。

三角縁神獣鏡が下賜された鏡だとすると、もらった枚数以上に出土しているんだから
日本側でコピー品を作って、魏が改元したことも知らずに改変したというのが一番無難だろうね。

三角縁神獣鏡ではなく内行花文鏡だとしたら
アレはアレでサイズがバラバラで大きいものから小さなものまであるので
魏の詔で鏡百枚とは書かずに、種類ごとに分けて書かれてないと気持ち悪い。
0823名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 17:58:13.20ID:Pe0vQkYt0
>>819

日本の古墳で盗掘されたものは骨董市に出回ってたし骨董市をなめてたらいかんよ。
0824名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:06:25.56ID:8mOOdvLQ0
九州派って日本語不自由なやつ多くね?
ID:tMq4/Gjm0とか、ガラケーで毎日書いてるやつとか
0825名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:14:48.50ID:Cu7HFlJA0
>>783
>景初4年というありえない年号の
>鏡があったから、偽造とすぐわかるんだよ。

晋書
巻十二 天文中
青龍二年十月乙丑,月又犯填星。占同上。戊寅,月犯太白,占曰:「人君死,又為兵。」
景初元年七月,公孫文懿叛。
  二年正月,遣宣帝討之。
  三年正月,天子崩。
  四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。

大陸正史にも景初四年は記録されている
0826名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:16:25.62ID:Cu7HFlJA0
三角縁神獣鏡と呼ばれるものの最初期のものは斜縁神獣鏡

そして大陸でも斜縁神獣鏡は出土している
0827名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:23:32.08ID:OWPA66fv0
>>787
『日本古代史を科学する』
著者は東大医学部卒、カリフォルニア大学脳神経学教授
0828名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:25:11.30ID:RHWxB8dc0
森博達教授は述べる。
そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代と して文学史上高く評価されている。詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。 卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
魏の 詩人がこの三角縁神獣鏡の銘文を見れぱ、押韻の意識すら持たない拙劣さをあざ笑うだろう。「朕はアホなり」と言うに等しい銘文である。親魏倭王のみならず、皇帝自身の権威にも傷がつく。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜わるはずがない。
0829名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:26:18.77ID:Cu7HFlJA0
>>796
「景初3年の1月に先帝が死亡して2月から改元され正始元年になるところ
 景初2年は13ケ月あったことにされた

 景初3年の2月から新元号となるところ、景初2年の13月の次から
 つまり景初3年をすっとばして次の正始元年1月とされた・・・らしい

 あれ?景初3年どこいったの・・・?景初4年・・・?」

添削すると
「景初3年の1月に先帝が死亡して「次の正月一日」に新帝即位
 踰年改元され正始元年になるところ
 それだと先帝の一周忌の忌日と新帝即位の祝賀が同日となるので
 記録では景初三年十二月になって改暦し翌年2月を新年1月とすることにし
 景初三年は13ケ月あったことにされた

 景初四年の2月から新元号となるところ、景初三年の後の十二月(2回目の十二月)の次から
 正始元年1月とされた」

景初三年はそのままあるよ
踰年改元を知らないから訳の分からない想定をしているだけ
0830名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:29:46.95ID:U+btThRr0
占いの話ですね
景初七年まで占っていますね
史実とは外れているようですが。

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7013

魏文帝景初四年三月癸卯,月犯心大星。占曰:「心為天王位,王者惡之。」六月甲申,太白晝見。
案劉向《五紀論》曰:「太白少陰,弱,不得專行,故以己未為界,不得經天而行。經天則晝見,
其占為兵喪,為不臣,為更王;強國弱,小國強。」是時孫權受魏爵號,而稱兵距守。
其十二月丙子,月犯心大星。占同上。

五年十月乙卯,太白晝見。占同上。又?星入太微逆行,積百四十九日乃出。
占曰:「五星入太微,從右入三十日以上,人主有大憂。」一曰:「有赦至。」七年五月,
帝崩,明帝即位,大赦天下。

六年五月壬戌,?惑入太微,至壬申,興?星相及,?犯右執法,至癸酉乃出。
占曰:「從右入三十日以上,人主有大憂。」又曰:「月、五星犯左右執法,大臣有憂。」
一曰:「執法者誅,金、火尤甚。」十一月,皇子東武陽王鑒薨。

七年正月,驃騎將軍曹洪免為庶人。四月,征南大將軍夏侯尚薨。
五月,帝崩。《蜀記》稱明帝問?權曰:「天下鼎立,何地為正?」
對曰:「當驗天文。往者?惑守心而文帝崩,?、蜀無事,此其征也。」
案三國史並無?惑守心之文,疑是入太微。八月,?遂圍江夏,寇襄陽,大將軍宣帝救襄陽,
斬?將張霸等,兵喪更王之應也。
0831名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:30:47.30ID:OWPA66fv0
『理系の視点からみた「考古学」の論争点』
著者は東京工大卒、工学博士

「三角縁神獣鏡の鉛同位体比は真の中国鏡とは全く異なり」、「日本国内で製作された」
0832名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:34:13.73ID:+CYDUi0R0
>>831
Spring8使って一致したとかってのはどうなったの?
0833名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:35:46.02ID:lEo5o9nF0
記紀には九州の事が殆ど書かれていないとか大嘘も甚だしい、記紀に書かれている
のは七割ほどが九州と出雲だぞ。
0834◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 18:35:49.21ID:oQKZBdWH0
>>86
> 秦(はた)氏(朝鮮語のパタは海の意で、渡来海人であろう)

そいやワタツミ神(コノハナサクヤ姫のパパ)の「ワタ」の語源も、
古朝鮮語のパタだよね。いろいろ繋がるもんだ。
0836名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:37:28.43ID:Cu7HFlJA0
三角縁神獣鏡でも銘帯を持たないものもある
文章がおかしいのは倭国で作ったものだろう
そして文章がおかしくない三角縁神獣鏡もあるんだよ

三角縁神獣鏡の編年研究も進んでいるけれど、その新しいものは仿世鏡でありコピー鏡だろう
しかし、コピー鏡が存在することは、すべての三角縁神獣鏡が仿世鏡だということを意味しない
0837名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:40:19.11ID:Zhn822AW0
>>4
そもそも説と呼べるのは畿内だけ
九州は四国や東北と同レベルの地元の愛好家の妄想レベルもしくは金目の町興し運動
0838名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:43:29.43ID:OWPA66fv0
>>832
「そして驚いた。すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論がそこには展開されているではないか。
結論からいえば、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたという前提条件そのものが完全に間違っている。だから当然ながら結論も間違っている。」
0839◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 18:45:05.67ID:oQKZBdWH0
>>832
俺もそれが気になる。
弥生末は輸入した青銅器を鋳潰して再利用してたはずだよね。
0840名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:48:56.82ID:Cu7HFlJA0
>>830
どうしてそういう捏造をするかなぁ
>>825には晋書「巻十二」ってちゃんと書いてあるだろう!

そして>>830の引用は
「魏文帝『景初』四年三月癸卯,月犯心大星。占曰:「心為天王位,王者惡之。」」だが
原文は
「魏文帝『黃初』四年三月癸卯,月犯心大星。占曰:「心為天王位,王者惡之。」」だ

『黃初』を『景初』に書き換えるとか、悪意の捏造以外の何ものでもない
魏文帝は、魏の初代皇帝で黃初はその元号
黃初は文帝の治世の終わるまで、黃初7年まである

景初は2代皇帝、明帝の元号

インチキするなよ!
0841名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:50:49.79ID:+CYDUi0R0
>>833
解説付けてもらわないとよくわからないや。

天地創造から始まり、天津神の高天ヶ原の話しと出雲が主体の国津神の話しがあり
その後は神武から持統天皇までの話し。

神代にも九州の話は出てくるけど、全体で見たらやっぱり大和の比率が一番多い。
そもそも神代でも日本全国いろんな地域が出てくるし。
0842名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 18:57:16.57ID:/USLtnvC0
>>841
九州説の脳内では聖徳太子も九州にいたことになってるから
0843◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 19:01:51.94ID:oQKZBdWH0
>>842
聖徳太子は道後温泉までは行ってるんだよな。
0844名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:09:38.90ID:+CYDUi0R0
>>838
つまりスプリング8での調査結果は間違いと書いてあるん?
0845名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:13:21.57ID:RHWxB8dc0
文章のおかしくない三角縁神獣鏡なんてない。
句末の押韻さえもなってない。
0847◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 19:16:28.71ID:oQKZBdWH0
>>846
そんでもって>>838の「微量成分のアンチモン」の話はどういうことなん?
0848名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:17:20.34ID:+CYDUi0R0
>>846
3000円か、、、
ポチるには勇気がいるお値段
0849名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:24:14.91ID:+CYDUi0R0
>>842
あーそっち系か、、、
0850名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:25:14.01ID:OWPA66fv0
>>847
泉屋博古館のspring8を使った研究の論拠は、アンチモンが錫原料からきた、というが、
実は錫にアンチモンが含まれるのはむしろ稀で、本当は銅原料からきたもの、という
あとは自分で手に入れて読んでくれ
0851◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 19:27:59.27ID:oQKZBdWH0
>>850
おお、ありがとう。
輸入青銅器を鋳潰してた説とは矛盾しないことがわかって良かった。
0852名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:38:19.09ID:+HK/ftia0
>>9
オマエ、アホか、馬鹿か
「鳥」が倭国には居ないと書いたら
全然いないてこった
>生物学的なDNAの解析によって
オマエがスポンサーになるのか
0853名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:40:05.73ID:+CYDUi0R0
>>850
錫にアンチモンが含まれてるのは自然界では当たり前の事のはずなのに
なんでアンチモンを調べるのはおかしいって解釈になってるのか、やっぱり教えてほしいな。
0854名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:55:46.10ID:f6jqQOP/0
>著者は東京工大卒、工学博士
spring8の分析結果に難癖つけてるのは新井宏かよwww
そりゃ名前を出さずに、経歴だけで誤魔化したくなるわな
0856名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 19:59:06.82ID:RL6ufp1S0
>>854
うーむ
確かに鉛同位体の分析を元に、
昔から「日本製だ」と主張されていた方みたいなので
客観的な視点とは言い難いが、

主張としては新井さんの方が説得力はあるな
0858名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 20:16:38.71ID:f6jqQOP/0
>>827
故人だから悪口は書きたくないが、やってることは考古資料を無視した文献の恣意的な解釈と行程パズル
専門分野では素晴らしい功績をあげていても、古代史の分野では素人だし知識も足りない
多くの素人連中が道楽で本を出してるが、それらとまったく一緒
ある程度の詳細はネットで見つかった
https://shuchi.php.co.jp/article/5756
0859名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 20:19:28.73ID:OWPA66fv0
>>858
> >>786
>理系なら九州説の可能性はゼロと言い切るだろうね

という発言がもとにあるので、その反例として挙げた

そりゃ理系なら、古代史の分野で素人なのは当たり前だろうな
0860名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 20:21:00.10ID:+CYDUi0R0
>>855
ありがとう。
リンク先から、さらにリンク先に飛ぶと、結局成分の差から
一部の三角縁神獣鏡は中国の他の青銅器と似通ったプロットになり
日本製と思われるものとはグループが違うんだよなぁ。。。

この調べ方が完璧ではないのかもしれないが
明らかに傾向に差がついてるんだから、いいんじゃないのかなあ
0861名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 20:21:55.94ID:RL6ufp1S0
>>859
んなこたーないでしょ
新井さんみたいに専門分野を持って切り込んできたなら十分プロや

その東大医学部の人は
医学とは無関係に、文献解釈をしてるだけだからド素人なだけ
0862名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 20:22:47.64ID:f6jqQOP/0
>>840
これは酷い
悪質すぎる捏造
まあ、九州説にとって捏造は日常茶飯事だけど
0863名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 20:27:14.61ID:OWPA66fv0
そして一般によくある学者の利用のされ方として、理系に限らないが理系にしばしば見られるあり方として

欲しい結論を書けといって研究費を支給し、研究費くれるならそれに合わせた結論を書いてあげるというやつ

>>861
でも理系は理系だろ
0864名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 20:31:33.33ID:eDe5Feou0
これ?

http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf
泉屋博古館は、ここで述べられている純銅の球状粒子が、銅
原料の残留であると誤解して、アンチモンが銅鉱石に由来しな
いと述べているのであるが、これもおおきな間違いである。ここ
に示された純銅粒子は、実は、銅原料からもたらされたもので
はなく、鏡の表面が腐食して溶け出し、その溶けた銅が鏡表面
に電気化学的に再析出したものであって、銅原料とは無関係な
ものなのである
(略)

なお、再度繰り返しておくが、筆者の前論文も今回の再論も、
「三角縁神獣鏡が魏鏡であるか国産鏡であるか」について論
じたものではなく、泉屋博古館の論文や資料が、「三角縁神
獣鏡が魏鏡であるか国産鏡であるか」の判定には無関係で
あることを指摘したものである。
0865◆HKZsYRUkck
垢版 |
2019/06/30(日) 20:31:43.61ID:oQKZBdWH0
「文」の対義語は「武」であって「理」ではない。
0866名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 20:32:25.02ID:RL6ufp1S0
>>863
それは単に、理系と違って文系のセンセイが何言っても「まめちしき」レベルの話でしかないから
誰も文系の先生にカネを出してまで何か言わせようとしないだけよねw

文系のセンセイにお墨付きをもらうくらいなら
アイドルに「これ美味しい!」って言ってもらった方が効果あるわけで
0867名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 20:43:52.83ID:eDe5Feou0
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/hp-keisho4nennno-kennshou-2yamaguchi-hirase.pdf
2 景初四年は正しいか

@ 倭人伝の記述佩文韻府に倭人伝の記述として景初四年とあるような表現をみて、
即座にこれは怪しいと思った。倭人伝については,及ばずながら何度も原文で読み
返している。景初四年という表現があれば即座に気づいているはずである。原文を
開いてみたが、これは明らかに正始四年の間違いである(左側)。正始元年の文章の
次に「其」四年とあれば、当然正始四年と解釈しなければならない。

A 晋書の記述晋書の方は場合によっては景初四年と読める書き方である。特に右
の百衲本の場合、康煕帝の頃は、このように句読点のない文章が一般的であった。
しかし内容を見ればこれは景初四年ではなく青龍四年である。すなわち、青龍二年に
月が金星を犯した。これを占うと「人君が死に戦と成る」ということであった。その占い
通り、景初元年に公孫懿が反乱を起こし、景初二年に宣帝が征伐したが三年は明帝が
崩御した。だから景初元年二年、三年は占いの内容である。次に来る四年は景初では
なくて青龍四年である。その年の三月に金星が月と共に光を増して日中でも見えたの
で、また占ったわけである。この点中国の学者も同じ見解であり、中央の中華書局版
は句読点をつけ、文章が注書きに該当するものは始まりと終わりに一字空白を設けて
いる。中の文章の中の「占同上。」の下を一字空け、また「天子崩。」の後も一字空けて
いる。
0868名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 21:08:51.80ID:RHWxB8dc0
>>860
完璧でないというより無意味。
ただ日中の鏡の錫の含有量の違いがデータに
でてるだけ。
日本の鏡は中国の三分の一くらいしか錫を混ぜないらしい。
驚いたけど、畿内説にとってこんな論文が重要なの?ていうか考古学会。
よくアクセプトされるよね。
もう学者の殆どが畿内説でぇ〜とか恥ずかしいから言わない方がいいよ。
0870名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 21:13:38.62ID:RHWxB8dc0
>>869
c14で数十年数百年の年代差を調べることは
不可能。
0871名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 21:13:52.77ID:+CYDUi0R0
>>868
無意味なのかな?

>>855のリンク先のさらにその先に↓があるんだけど
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku224.htm#zu

ちゃんと傾向は取れているわけだから
完璧な分析でないにしても、目的からしたら必要十分に思えて腑に落ちない。
0872名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 21:48:41.88ID:OWPA66fv0
>>869
煤の効果も海岸の効果もみんな無視して、好きな年代のお墨付きを得るためだろう

>>871
両方ありうるというのが正確なように見えるね
それを「畿内説で決まり」と言うためには意味がない
0873名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 21:53:52.57ID:OWPA66fv0
あと、元の銅製品に手を加えずに全部鋳つぶして作った鏡なら、成分としては元の製品の数字と同じになるのか、どうか
素人目には、なるような気がするけど
そうだとしたら、その最終製品が中国製だとは言い切れないから、中国製説は無意味になる
0874◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 22:01:57.73ID:oQKZBdWH0
>>873
公式記録では、8世紀初頭の和銅年間に初めて銅鉱石(ニギアカガネ)が
見つかったことになってるからなあ。3世紀なら国産青銅器の材料は
100%鋳潰した輸入青銅器由来じゃなかろうか。
0875名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:05:49.64ID:+CYDUi0R0
>>873
青銅器は銅とスズを溶かして鋳型に流し込んで作るものだから
普通に考えたら鋳つぶしても成分は変わらないんじゃないのかな?

そして銅にしてもスズにしても、鉱石の産地によって
不純物の含有量に違いがあるもの。

というレベルの知識しかない俺だと、871のリンク先の図表で
三国西晋時代神獣鏡と中国前漢時代後期のプロットと
日本古墳時代で傾向が採れているように見えてしまうのよね。
0876名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:17:37.98ID:Oo8WU6e30
九州論者っておもしろいね。
邪馬台国は九州で、ヤマトとの関係は、
・ヤマトはただの田舎の首長
じゃあ、九州にあった邪馬台国はその後どうなった?
・7世紀まで九州にあった
・ヤマトを滅ぼした
中国は九州邪馬台国しか知らなかったのは何故?
・朝貢しなかったから

まあ、人によって所在地が違うし、その後の歴史も違うらしい
九州は「温暖」らしいし、東に海をわたるために空を飛んで行くらしいし、
筑紫平野は昔も今と同じ状態だったらしいし、時空を超えた大変な説だな
0877名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:18:36.90ID:pkwOjfJ70
>>842
そうだよ
聖徳太子は九州皇統が立てた皇帝タリシヒコの弟なんだよ
法隆寺も実は九州で作ったものを斑鳩に移設したんだよ
0878名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:19:27.33ID:3kbsjvo80
0879名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:19:31.43ID:OWPA66fv0
宮崎説に対しては「素人」とか言って、ないことにするんではは世話ないな
0880名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:22:34.60ID:+CYDUi0R0
>>876
それは九州説でも古田史学会に汚染された伊都国信者だよ。
九州北岸ではない九州説論者はそんなに攻撃的じゃない。

伊都国信者が際立って攻撃的なのは、やっぱり洗脳なんじゃないか?と思ってる。
0881名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:25:10.27ID:f6jqQOP/0
>>868
1日中、偽物だー、無意味だーと条件反射してるだけだな
三角縁神獣鏡が仮に国産だったとしても、畿内と魏との交流を否定するのは不可能

・九州説をごり押しするためには、畿内は魏との交流がなかったことにしなければならないが、
神獣鏡のデザインをどうしたら畿内が独自に考案できたのか?

・魏との交流なしで、景初や正始などの魏の年号を畿内はどのようにしたら知りえたか?

・魏との交流なかったら、銅や錫、鉛の比率をどうしたら後漢鏡と同じにできたのか?

魏との交流がなければ、知りえないこと、できないことを畿内はやったけど、
畿内は魏との交流がなかったんだーと言い張ってるようなもの
0883名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:35:27.20ID:pkwOjfJ70
狗邪ー韓国のように
邪馬ー台国じゃねーの実はw
0884名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:38:21.60ID:f6jqQOP/0
>>882
列島ナンバー1が魏と交流してたにもかかわらず、
魏はなぜか九州の小国の王を親魏倭王に認定したってどんな理屈?

九州説を押し通したいなら、国と国で国交を結ぶのに、倭国を代表した勢力ではなく、
魏はわざわざ小国と国交を結んだという合理的な根拠が必要
0885名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:38:33.39ID:zO+noc0b0
>>875
三国西晋時代は銅の算出は呉と蜀の一部地域に限られていることがすでに分かっているので
三角縁神獣鏡がその範囲にあるとすると魏から受け取った鏡ということが明確に否定される
0886名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:50:17.97ID:+CYDUi0R0
>>876
伊都国信者でないけど、九州のどこかにあったと思ってる俺の根拠なんて
1.公孫氏が滅んでから、帯方郡への朝貢があまりに早く畿内だと遠すぎる。
2.邪馬台国のその後が記紀とあまりに一致しない。

の二点だけだけどね。


>・ヤマトはただの田舎の首長

三世紀の日本列島は、九州、畿内、中部、関東満遍なく発展してた。
遺跡の数でも、規模でもこれは否定しようがない。
九州が超発展してたなんてことはあり得ない。
畿内でも普通に米作ってたし。


>じゃあ、九州にあった邪馬台国はその後どうなった?
>・7世紀まで九州にあった

三世紀中に南方の狗奴国に滅ぼされたから痕跡が見つからない。
0887名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:50:29.87ID:eDe5Feou0
日本はもと小国で倭国の地を併せたと後の倭人にバラされた近畿ヤマト王権
0888名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:52:06.60ID:+CYDUi0R0
>>885
ん???
卑弥呼がもらった鏡百枚ってどうやって作ったん?
0889名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:52:59.26ID:pkwOjfJ70
中国にもう邪馬台国について書かれた書物ねーのかよw
0890◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 22:53:10.29ID:oQKZBdWH0
>>884
そういう疑問は、日本列島が(あるいは北海道と東北を除いた列島が)
一つの国を成しているという、暗黙の前提の上に発せられている気がする。
九州の勢力が魏に行って、「うちら以外は野蛮人ばっかりですタイ」と言えば
魏の人も「ほう、そうなのか」と思うんじゃないかと。
0891名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 22:55:07.18ID:pkwOjfJ70
>>887
東北に日本中央なる碑文が発見された
0892名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 23:12:18.55ID:f6jqQOP/0
>>890
>そういう疑問は、日本列島が(あるいは北海道と東北を除いた列島が)
>一つの国を成しているという、暗黙の前提の上に発せられている気がする

そもそも3世紀の前半〜中頃は、統一はされてなかったが、古墳時代が始まる直前なので
列島規模でそれなりの交流・連携はあった時期だよ
日本列島バラバラ説は今の時代にはもう通用しないよ

>九州の勢力が魏に行って、「うちら以外は野蛮人ばっかりですタイ」と言えば
>魏の人も「ほう、そうなのか」と思うんじゃないかと。

畿内が魏と交流してたんだから、そんな嘘は一瞬でバレるでしょw
しかも、伊都国に頻繁に来てた役人が倭国の情勢についてまったく情報収集しなかったはずないし
0893◆HKZsYRUkck
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2019/06/30(日) 23:24:51.52ID:oQKZBdWH0
>>892
「今使譯所通三十國」(今は30箇国が使者を通わせている)

だもんね。
どの国も、日本列島を代表して朝貢している意識はなかったと思うし、
倭人条もそういう書き方はしていないよね。
0894名無しさん@1周年
垢版 |
2019/06/30(日) 23:34:50.28ID:KR4mnkq+0
紀元前1世紀頃の『漢書』
地理志燕地条

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE#%E3%80%8E%E6%BC%A2%E6%9B%B8%E3%80%8F


考古学的成果
北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/244000c


古事記・日本書紀編纂の経緯
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉
帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。


歴史学の見解
日本は弥生時代に成立した百余国が次第に連合を組み、各国の諸王(豪族)を大王(天皇)が束ねる形で大和朝廷が成立した。


記紀はそれ以前に書かれていた書物を再編したものであるとされる。
つまりそれ以前から文字を用いて様々な記録を残していた。


考古学的に、紀元前1世紀頃の日本は国産の硯を使っていたので、文字の使用が考えられている。
歴史学的に、紀元前1世紀頃の日本は百余国に分かれており、漢と同じ暦を駆使していた。
0895名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 23:45:28.79ID:f6jqQOP/0
>>893
邪馬台国の王は親魏倭王だよ?
30ヶ国の連合をつくってたと書かれてるでしょ
倭地を代表してなかったら、漢委奴国王みたいに魏委邪馬台国王とかにならないとおかしい

まあ、でも畿内が魏と交流があったことを認めてくれたのは大きな進歩
九州説の人は今までは、頑なに畿内は東の倭種で、魏にとって未知の地域扱いだったからw
0896名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 23:55:47.23ID:H90wi1cB0
>>876
ロジックが追えないんだよなあ

学歴の重要性

算数数学が積み重ねのように

人文科学もロジックなんだよなあ

科学だから

馬鹿=九州妄想 だと思ってOK
0897名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 23:57:39.77ID:RHWxB8dc0
>>871
中国鏡か日本鏡かの判断を館長の独断で
おこなっている時点で科学じゃないよ。
0898名無しさん@1周年
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2019/06/30(日) 23:58:35.45ID:Cu7HFlJA0
>>867
苦しくないか?
景初四年がないと思い込んでいるから青龍四年と無理に読んでいるように見えるが?

庚申景初四年三月已巳は西暦240年3月6日
青龍四年は閏一月を入れれば三月に已巳の日があるけれど
青龍四年と景初元年の改元改暦の接続の関係ではっきりしない
0899名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 00:01:32.03ID:9AesNxG40
>>886
>三世紀中に南方の狗奴国に滅ぼされたから痕跡が見つからない。

この「滅ぼされた」とする考古学的証拠が一切ないんだよな
つまり「ただの個人的な感想」以上のものにはならない
0900名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 00:06:22.97ID:9AesNxG40
>>890
>魏の人も「ほう、そうなのか」と思うんじゃないかと。

それで騙されたとなると魏の皇帝の権威に傷が付くので、わざわざ除正使・答礼使の
建中校尉梯儁さんを倭国まで派遣して確かに倭国を代表する人物なのか確認してるんだよ
0901名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 00:08:51.13ID:9AesNxG40
>>893
「今使譯所通三十國」(今使譯(使者)を通して情報が得られた国は30国)
0902名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 00:23:44.00ID:qTrGDKyD0
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
0903名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 00:41:15.60ID:j1GnQtZxO
邪馬台国以外に29の倭国と朝貢が行われているなら、方角は、間違えないよ。漢の金印は北九州で見つかってるし、邪馬台も北九州だろう。天地開闢の話は邪馬台倭人の伝説なら整合性があるが近畿じゃダメ。しかも左目〜右目〜なんて全く幼稚な引用。至るところでこんな調子。
0904名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 01:46:45.67ID:QPwtswM50
神武東征が成功裏に終わった大和朝廷は北部九州と比べて遙かに文化レベルの低かった
近畿地方に朝鮮半島からの移民を積極的に行って、優秀な者は優遇した
その証拠が奈良で出土したオンドルだな。半島人が奴隷として連れてこられたら
オンドル付きの家に住める訳が無い。半島移民が重用された証拠だな。
それまで近畿に住んでいた縄文人は古墳作りにこき使われて疲労で大勢の死者を出し
遺体は古墳の中に投げ捨てられたから近畿では縄文人の墓も遺骨も出土が殆ど無い
0905名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 01:52:41.20ID:QPwtswM50
邪馬台国と狗奴国の戦争で邪馬台国が窮地に陥ったが、魏国が卑弥呼に檄文を送った
と倭人伝に記載があるから、卑弥呼は漢字が読めたし魏国と邪馬台国は非常に親密な
関係にあった事が判る。福岡からは硯のかけらが出土したが奈良からの出土は無い
要するに、奈良では漢字が使われてはいなかったと言う事だ。
0906名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 01:56:45.94ID:rllFFdMF0
北九州から近畿に移動した神武一行の文化レベルは低かったのか
0907名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:02:19.46ID:QPwtswM50
神武勢力の文化レベルは当然高かったが、近畿の先住民の文化レベルは
未開の地の土人以下だった訳だな、日本語も喋ってはいなかったはずだ。
0908名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:05:30.98ID:QPwtswM50
神武勢力は奈良に行って住民に日本語教育から始めないといけなかったから
大変な苦労をしたと思うね。
0909名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:09:22.57ID:axd9+tII0
こういうスレばかり立つだろ?

チョンの日本人離間工作って知ってた?
0910名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:09:29.98ID:rllFFdMF0
半島人の力を借りながら未開の地を開発していった訳ね
後に北九州勢力と連合組む程大きく出来たのを考えると神武の血筋は優秀なのかも
0911名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:19:08.72ID:axd9+tII0
>>904
おまエラ在日はエベンキの奴隷だろ

夢見るなよ
0912名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:19:17.06ID:wd3bKuqi0
ID:QPwtswM50
この頭のイカれたやつ、日本人じゃないだろう
日本の教育を受けてないからまともな知識もない
最近のニュースで拾ってきたワードを組み合わせてストーリー作ってるから
日本に移り住んで、まだ数年ってとこだろう
0913名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 02:20:14.53ID:QPwtswM50
東征した神武勢力こそ朝鮮半島が出自の民族だからな、当時の九州の縄文人や
江南人は朝鮮系渡来人に牛耳られていた訳だ。九州支配を終わって近畿に移動して
日本支配に入ったと言う事になる。
0914名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 03:23:40.28ID:bOO1mZMa0
>>758
>考古学の資料からは、
>特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、
>北部九州のどこかではないかと思われる。

九州の町興し、夢、妄想wwwww
0915名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 03:28:13.01ID:bOO1mZMa0
>>866
令和の元号は文系のセンセイにお願いしないと
「令和」の意味すらわからない九州バカwww
0917名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 04:42:13.49ID:Hz+acRHK0
>>899
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

戦争状態なのに、卑弥呼の次の後継者争いで千人もヤッちゃうようなお気楽集団

247年に来日した張政を壱与が送らせたところで魏志倭人伝の記録は終わる。
魏は265年までは存続していたのに約15年分の外交記録がない。
朝貢とは常に一定の期間サイクルで挨拶し続けないと不忠とされるにも関わらずね。
親魏倭王の国が戦争に負けたとすると、任命した魏の権威に泥を塗ることになるため、書くに書けなかったのだろう。

266年の西普への朝貢も、実際にはどこの誰とも記録がない。
旧王朝の外臣が新王朝に朝貢する場合、古い印を返却して新たに外臣に任命してもらうなど
外交儀礼をやらなきゃいけないのに、そんなことが一切記録にないのは異常。

壱与の邪馬台国運営はうまく行かず、狗奴国との戦争に破れたとみるのが無難。
実際、壱与や邪馬台国が中国史で明確に出てくるのは、247年の朝貢だけだしね。
0918名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 04:49:43.99ID:vmYu2MWw0
>>913

それは間違い。
0919名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 05:02:11.97ID:Hz+acRHK0
邪馬台国は卑弥呼の前の男王、壱与の前の男王と、二度続けて内紛を起こしている。

これは三十カ国の連合国の間柄が、決して強固なものではなく、権力闘争で殺し合う程度に不仲だったと言える。
戦時であり連合して事に当たらないといけないにも係わらず
男王が立って実権を握れず、幼い巫女をトップに据えた。
そんな状態の連合国が戦争やって勝てると思う?
南の国から徐々に切り取られ国力を失い続け、最後には消滅するしかない。

リアルに考えれば、誰だってわかるはずの事だよね?
0920名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 05:17:15.24ID:o4MxmkC50
邪馬台国は英字時代に東大の先生方九州と結論を出していたが
京大の内藤が魏国が南と東を間違えたとの説にのかったのが
今の奈良説です
魏国が東と南を間違えるとか何のお笑いでしょうか
0921名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 05:17:35.70ID:BDAT4KcZ0
>>917,919
女王の都は伊都国であり、後に東遷するヤマトの前の古代王朝である。
という宗教の信者には現実は見えない。
先代教祖様(古田武彦)と教団幹部(古田史学会)の教えこそが正しい。
0922名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 05:23:00.66ID:BDAT4KcZ0
>>920
畿内説の方角読み替え誤りで、糸クズの方角月日の読み替えは綺麗な読み替え
0923名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:08:27.43ID:5AV90lX50
>>897
径20cmを超える中国鏡とか殆ど無いのに、
平均20cm超えの三角縁をどんな基準で中国鏡としたのか知りたいな。
0924名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:18:27.06ID:Cybj+y3J0
渡来した朝鮮人は、先住民の縄文人を奴隷にした、それが古墳作りな
0926名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:27:47.25ID:Hz+acRHK0
>>920
九州だとしても南に水行二十日の投馬国と水行十日陸行一月の邪馬台国がどうしてもはみ出てしまうよ?
陸行一月を一日の転記ミスと逃げざるを得なくなる。

それに都合一月も川沿いを歩いたら、下流方向なら河口まで、上流方向なら源流までたどり着いてしまう。
九州最大河川である筑後川でも水源から河口まで150kmもない。
三十日で割ると一日たったの5km弱しか移動していない。
そもそも筑後川は南北方向の河でもないけど。

魏志倭人伝に矛盾してるのはどっちもどっちだよ。
0927名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:29:43.03ID:ixDxPjP10
100国あった倭奴国は倭国大乱の後、北部九州の30か国のみとなりました。
残りの70国はおそらく山陰、四国、畿内、東海の国々でしょう。

(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。

(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国(畿内政権)は倭国の別種である。
0928名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:30:50.45ID:qTrGDKyD0
嘘も百回言えば本当になるという半島人の諺が渡来人によって畿内に伝わり現在の畿内人の精神的支柱となっている
0929名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:36:07.99ID:UclgsRbT0
>>920
間違いじゃなく、意図的なものだろ。
政治では、また忖度する官僚ではよくある話だ。
その必要性は倭を大きく魏に有益だと見せたかった点にある。
必要性が無くなり畿内王朝から使節が来た支那南朝時代に書かれた後漢書ではその辺を考慮している。
0930名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:37:50.90ID:qTrGDKyD0
>>926
魏志倭人伝を書いたのは帯方郡の役人
帯方郡から南に水行20日で九州南端の投馬国=殺馬国=薩摩国。
帯方郡から水行10日で九州北端の末盧国。当時は馬も道も橋もトンネルも無い。九州北端から川沿いを遡って日田を経由して宇佐まで行くと一月掛かる。
帯方郡から一万二千里で東側に海がある宇佐だと魏志倭人伝の邪馬台国の場所に完全に合致する。
0931名無しさん@1周年
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2019/07/01(月) 06:42:45.06ID:Hz+acRHK0
>>930
それは流石に文面の繋がりを全無視してる、、、
0932名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:45:44.37ID:qTrGDKyD0
>>931
継ぎ接ぎだらけの写本に文面の繋がりが有ると思っている大馬鹿が畿内人。
0933名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:48:16.55ID:Hz+acRHK0
>>932
流石にその解釈をやってしまうと、本当にどこでも行けてしまう。
馬鹿だなんだと、逃げを打つのはそろそろやめないか?
0934名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:52:54.48ID:UclgsRbT0
日本独特の前方後円墳はそのスタイルばかりでなく、主に畿内置いて堀を設けているところにもある。
これは環濠集落の空堀から来てるか?
唐子鍵や磯城周辺での水利事業から来てるか?で
他の地域では堀の無い古墳も多いところから、大和盆地湿地帯開発での水利事業と関連してるのが有力だろう。
0935名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:55:06.30ID:4jjvLChV0
樽悶 ★

いつもワンパターンの書き込み
精神病かね
0937名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:57:10.14ID:qTrGDKyD0
大馬鹿は魏志倭人伝を見てから出直して来い。
里で書いてある部分は、そこから何里と書いてあるから、その部分は繋がっている。
段落が変わって日数で書いてある部分は別人が書いたものでそれまでの行程とは全く繋がっていないのに繋げて解釈するのが捏造の畿内人。
倭人は里の概念が無かったから日数で書いてある部分は倭人からの情報を記録した段落で、里で書いてある部分は魏の役人が直接判断して書いた段落。
情報元も書いた人も別人。
0938名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 06:59:18.93ID:o4j+/uCJ0
>>635
九州のほうが国力高いのに
簡単に西の勢力に従ったとは思えないね
九州の勢力の東進と見るのが普通
0939名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:01:28.48ID:qTrGDKyD0
箸墓古墳は槨が有る前方後円墳。
魏志倭人伝には槨が無く、棺のみで土を盛っただけと書いてある。
魏志倭人伝を完全無視するのが畿内説の大前提である。
0940名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:03:48.51ID:Hz+acRHK0
>>937
東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸

魏志倭人伝から二行続けて抜粋
行ったか行ってないかではないかな?
0941名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:05:36.77ID:UclgsRbT0
>>934
もう一つあった。
方形周溝墓の溝。これも有力。
竹柵など簡易な境界線を設けて、塀、壁と同じ効果で
違反を防ごうとするのも日本社会独特なものがある。
0942名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:07:03.08ID:NWgmheQP0
どこにあろうが邪馬台国は邪馬台国だろ
それで九州だの近畿だので喧嘩してる連中はパヨクに利用されてる馬鹿にしか見えんわ
0944名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:09:19.43ID:9AesNxG40
>>937
段落が変わってってw
魏志倭人伝の地誌記事は二国ごとに書き方を変えてるんだよ

始度一海、千餘里至對馬國。(官名)所居絕島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。(官名)方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

又渡一海千餘里、至末盧國。(官名なし)有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國。(官名)有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。

東南至奴國百里。(官名)有二萬餘戶。
東行至不彌國百里。(官名)有千餘家。

南至投馬國、水行二十日。(官名)可五萬餘戶。
南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。(官名)可七萬餘戶。

この書き方の変化を過剰に大きな違いだと誤読しているのが九州説
0945名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:10:22.52ID:qTrGDKyD0
>>940
邪馬台国は魏の役人も実際に行ったことが有るから、別の段落で帯方郡から一万二千里と書いてあるよね。
魏の役人は里で場所を記録する概念がある。
0946名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:10:23.27ID:c9lTVV330
>>837
関西人だが、九州説の方がいろいろ説明しやすいけどな。
畿内の方が、日本が中国王朝への元朝貢国だったとか、
日本の天皇は中国皇帝から指名を受けて土地を治めてたみたいな
先入観を植え付けようとする海外勢力をバックに持つ邪な妄想レベル
もしくは金目の町興し運動。

大昔九州が中国王朝への朝貢国だったとしても、
中華人民共和国とは全く別物の王朝だし、もちろん返さんよ。
0947名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:12:25.89ID:QPwtswM50
卑弥呼は朝鮮系の出身でその後継の壹與、神武も朝鮮系、要するに天皇家は
朝鮮系民族出身で間違いない、但し古代の朝鮮人は現在の朝鮮人とは
中身の成分がだいぶ違っているな現在の朝鮮人はニンニクスパイスが
効き過ぎるwww
0948名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:12:49.46ID:9AesNxG40
>>938
>九州のほうが国力高いのに
>簡単に西の勢力に従ったとは思えないね

現実を見ろよ
弥生終末期の王墓級墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
てなサイズがある

纏向型前方後円墳は、
纒向石塚古墳で全長96メートル、
東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、
どうしても見劣りする

伊都国でも古墳時代に入って三雲遺跡群に作られる端山古墳は全長78.5メートルあるし
三雲南小路遺跡の墳丘サイズが周りの周溝で30メートル四方くらい
須玖岡本遺跡D地点墳丘墓も同程度のサイズ
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓でも南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態

3世紀の北部九州はザコ
他地域の比較で王の地位は回ってこない
0950名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:14:34.79ID:9AesNxG40
ID:QPwtswM50の熱い半島推しを見るに、こいつがコークリ君だな
0953名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:17:42.69ID:qTrGDKyD0
>>948
日本最大の前方後円墳も有る日本最大の古墳群の西都原古墳を完全無視するのが畿内人。
0954名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:18:25.35ID:9AesNxG40
>>939
>箸墓古墳は槨が有る前方後円墳。

箸墓は発掘されていないから、槨があるなんて言えるはずがないんだが?
九州説は願望でデタラメを書くのがデフォ
0956名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:20:26.68ID:qTrGDKyD0
>>954
発掘するもしないも前方後円墳の埋葬スタイルは決まっているのにどんだけバカなの
0957名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:20:38.08ID:9AesNxG40
>>953
>日本最大の前方後円墳も有る日本最大の古墳群の西都原古墳を完全無視するのが畿内人。

日本最大の前方後円墳は西都原古墳群ではなく百舌鳥古墳群の大仙古墳
どうしてこういうデタラメを書くかねぇ?
0958名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:24:58.36ID:MK4B8q/b0
東征で九州北部の進んだ文明が倭国内にひろく伝わったことで
力を付けて三韓征伐に繋がったと思うよ 戦いは数だよあにき
0959名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:27:13.70ID:c9lTVV330
東征は日向からで、崇神じゃなく神武の時代。
0960名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:28:47.93ID:MK4B8q/b0
九州の文明が進んでいなければ
東征してからの共立の安定が無かったと思うよ
0961名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:30:59.57ID:y14N6iJ70
>>933
その投馬国と邪馬台国の水行二十日、水行十日陸行一月をともに帯方郡からの日数と解釈
するのはわりとメジャーな考え方なんだけど。それまでの記述が里程なのに、最後のこの二つ
だけが日程になってるのも根拠の一つね。
0962名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:31:04.33ID:c9lTVV330
水田稲作を除けば、文明が進んでたのはたぶん出雲。
出雲とタッグを組んだ大和が急成長したと考える。
0963名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:33:04.16ID:QPwtswM50
古墳の大きさよりも副葬品の豪華さの方が重要に決まっているだろうがバカじゃネエの?
弥生時代最も豪華な副葬品は伊都国の平原古墳、古墳時代最も豪華な副葬品は
福津市の宮地嶽古墳からの副葬品、宮地嶽古墳は古墳時代終末期の築造。
知識が非常に乏しいノータリンの朝鮮系関西人が書き込むと恥をもっと晒す事になるぞ
0964名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:33:09.41ID:9AesNxG40
>>956
そもそも畿内古墳に多く見られる竪穴式石室は槨ではない
槨は人が入れる空間を作る構造物

西京雜記卷六
魏襄王冢。皆以文石為槨。高八尺許。廣狹容四十人。

魏(戦国の七雄の魏)の襄王の冢は皆文石を以って槨と為す
高さは八尺ばかり、広狭は四十人を容れる

これが晋の時代の槨という言葉の使い方の実例

陳寿が三国志を書いた魏晋代の「槨」の認識なんだから、晋代に書かれた西京雜記の用例は
一番確実な例示だろ

晋代の大陸中華の認識では、二重構造の棺の外側を「槨」とは言わないんだよ

それから、竪穴式石室という言い方をしている埋葬主体の構造を、以前は
竪穴式石槨と呼んでいた
これは「槨」ではない、ので石槨という用語は避けるようになっている
大和の初期古墳の埋葬主体の構造で、「槨」と呼べるものはないよ
0965名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:35:36.99ID:c9lTVV330
>>961
伊都国からじゃないの!?
海流とか考えたら、水行10日で九州はちょっと無理じゃね?
それが可能なら会稽から水行1週間で余裕で着きそう。
0966名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:35:48.82ID:9AesNxG40
ID:QPwtswM50
お前、今回は「駢儷文だから一月は一日の間違いニダー」って言わなくていいのか?ww
0967名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:37:03.83ID:y14N6iJ70
>>962
わし島根出身の関西人(ミヤネよりちょっと大阪生活が長い)だ
けど、出雲はそんなに進んでなかったと思うけどな。

出雲(と熊野?)は畿内の元国主(の霊)の流刑場所だったと思う。
0968名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:39:45.30ID:c9lTVV330
>>967
出雲が非常に発展した国だったていう伝承が太平洋側にもあんだよな。
0969名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:42:20.04ID:MK4B8q/b0
倭国大乱をみたり経験した近畿東海中国の人たちは
戦いを避けることを重視したと思うよ
そこに九州の進んだ文明が入ってきてさらに朝貢でお宝を持ち帰って
実力の差を見せ付ける ええい連邦のモビルスーツは化け物か
0970名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:42:39.49ID:c9lTVV330
>>968 の続き
出雲とか八雲とか富める土地を意味する言葉なんやろ?
0971名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:45:11.08ID:9AesNxG40
>>963
副葬品の豪華さでは平原1号墓は丹波の王墓級墳墓に負けてるよ
鉄剣でもガラス製品でもね

唯一平原1号墓が多いのは銅鏡だが、40枚中38枚が仿世鏡で残り二枚の舶載鏡も
16号鏡 18.8センチ 漢鏡5期 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡
17号鏡 16.5センチ 漢鏡3期 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡
と、卑弥呼の時代の100年、200年前のもの
卑弥呼の鏡の候補となる魏晋鏡が1枚もない

46センチ鏡はおもて面を磨いた跡がなく映らない鏡で割るためだけに作った鏡
青銅器の大量埋納という点では、出雲の荒神谷遺跡より劣る

平原1号墓に頼ってもムダだよ
0972名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:52:11.55ID:9AesNxG40
>>969
>そこに九州の進んだ文明が入ってきてさらに朝貢でお宝を持ち帰って

この思い込みやめようよ
九州が進んでるなんていうのはただの思い込み
列島内の人の移動は現代人が思うより活発
文化はすぐに伝わるし短時間で均質化する

http://i.imgur.com/TRmurSB.jpg
0974名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 07:54:49.30ID:c9lTVV330
>>962 の続き
近年、崇神の時代出雲と大和の関係が深かったことが考古学的にも確かめられてきてるみたいやし、
おそらく九州説も間違いないやろ。
0975名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 08:00:01.02ID:BDAT4KcZ0
>>961
古田尊師の教えこそが全てってかwww
0977名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 08:22:22.73ID:QPwtswM50
>>921
宮地嶽古墳の解説はしないのか?
0978名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 08:30:02.03ID:QPwtswM50
卑弥呼は元々は伊都国の女王だったが狗奴国(熊本県北部)との戦争で紛争地の
近くの久留米市に館を構え兵士を激励し、戦勝祈願をする毎日だったが
そこで亡くなったので祇園山古墳に葬られた、卑弥呼の跡継ぎの壹與の時代に
狗奴国との戦いが終わり壹與は伊都国に戻ってきて伊都国女王となった。
平原古墳は壹與の墓と言う事だ。
0979名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 08:38:30.75ID:QPwtswM50
>>978に続く
魏使が倭国を訪れた時は卑弥呼は亡くなって壹與の時代になっており、
壹與は伊都国女王なので魏使は伊都国に滞在し博多湾周辺諸国を見学しただけで
旧紛争地の邪馬台国には行く必要性が無いから行ってはいない。
従って倭人伝が博多湾岸諸国だけを詳しく記載しているのはその為である。
0980名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 08:39:39.28ID:Hg36uaar0
まあ箸墓掘ろうぜ!
主体部を穴だらけに!
0981名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:04:29.52ID:qTrGDKyD0
邪馬台国が伊都国だったら邪馬台国の位置の説明と矛盾するし、色々と面倒な記述をしない。
最初から伊都国が邪馬台国と書いてあるはず。
0983名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:15:46.84ID:ovsxWu6y0
めんどくさい話やなwww
0984名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:18:58.35ID:QPwtswM50
北部九州で弥生時代に翡翠の勾玉などが出土したのは20箇所だが
古墳時代の遺跡からは47箇所からの出土がある。ようするに弥生時代よりも
古墳時代の方が栄えていたと言う証拠
ちなみに近畿地方からの翡翠製品の出土は聞いた事が無い。よほど文化レベルが低い
地域だったんだろうwww
0985名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:19:44.41ID:y14N6iJ70
>>975
わし古田や安本は読んだこともねーけど。そういう説もあるよって
説明してるだけじゃん?
0986名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:21:34.28ID:QPwtswM50
>>972
唐津市の菜畑遺跡で我が国最初の稲作が始まって奈良が稲作を始めるのは四百年後
だぞ。これでも文化はすぐに伝わった言い張るのか?
0987名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:21:45.89ID:L3Dml9AP0
>>981
最初から伊都国の説明に「世有王」と書かれている。
「邪馬壹國 女王之所都」は邪馬壹国の中に卑弥呼の都の伊都国が在るって意味だよ。
0988名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:24:10.17ID:QPwtswM50
国立歴史民俗博物館のHPより引用
水田稲作は、北部九州で起源前10世紀後半に始まり、起源前9世紀末に高知県へ、
起源前7世紀初〜中には大分県や愛媛県など瀬戸内海西部でも始まりました。
起源前7世紀末〜起源前6世紀初に神戸に、起源前6世紀に大阪で始まりました。
奈良盆地には、起源前5世紀に到達しました、
約400年かかって西日本全体に広がりました。
0989名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:25:04.25ID:L3Dml9AP0
卑弥呼の都は伊都国で決着が付くと邪馬台国で喰ってた人が困るんで
邪馬台国は永遠の謎にしたいんだ。
0990名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:28:55.58ID:QPwtswM50
古墳時代に金冠、銀冠が出土した古墳
宮地嶽古墳・・・福岡県福津市
沖ノ島・・・・・宗像大社
銀冠塚古墳・・・福岡県鞍手郡鞍手町
セスドノ古墳・・福岡県田川市
関行丸古墳・・・佐賀県佐賀市
島田塚古墳・・・佐賀県唐津市
江田舟山古墳・・熊本県玉名郡和水町
産島古墳群2号墳・・熊本県八代市

古墳時代に金環・銀環(耳飾り)などが出土した九州の地域
福岡県・・43箇所 佐賀県・・4箇所 長崎県・・4箇所 熊本県・・22箇所
大分県・・9箇所  宮崎県・・2箇所 鹿児島県・・2箇所 
福岡市西区・・2箇所 春日市・・1箇所 古賀市・・1箇所 福津市・・2箇所
宗像市・・1箇所 宮若市・・1箇所 鞍手町・・14箇所 田川市・・1箇所 
桂川町・・1箇所 飯塚市・・7箇所 苅田町・・2箇所 行橋市・・1箇所
上毛町・・1箇所 朝倉市・・1箇所 久留米市・・3箇所 八女市・・1箇所
うきは市・・3箇所

佐賀県・・佐賀市・・1箇所 武雄市・・1箇所 白石町・・1箇所 唐津市・・1箇所

長崎県・・壱岐市・・3箇所 小値賀町・・1箇所 

熊本県・・山鹿市・・8箇所 玉名市・・4箇所 和水町・・1箇所 荒尾市・・1箇所 
菊池市・・1箇所 熊本市・・3箇所 宇土市・・1箇所 宇城市・・1箇所
あさぎり町・・1箇所 氷川町・・1箇所

大分県・・日田市・・2箇所 玖珠町・・1箇所 杵築市・・3箇所 大分市・・2箇所

宮崎県・・宮崎市・・1箇所 西都市・・1箇所

鹿児島県・・長島町・・2箇所
0991名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:32:36.39ID:QPwtswM50
卑弥呼は元々は伊都国女王だったが狗奴国との戦争に備えて邪馬台国に行っていた訳だ
北部九州の宗主国は邪馬台国では無くて伊都国と言う事だ。
0992名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:35:02.76ID:L3Dml9AP0
>>985
邪馬台国論争を解決させない為に正しい読み方を罵倒してるんですよw
0993名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:39:09.99ID:MK4B8q/b0
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
     新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
     これを追って任那・加羅に迫った。
     ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、
     これを討って大敗させた

4世紀末までには九州は大和政権傘下に入っていたと思われるから
冠がでてきたとしてもそれほどの自治権はなかった可能性がある
0995名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:43:33.17ID:FX4/QCyH0
「ひみこ」っていう読み方で合ってるの?
0996名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:46:17.92ID:iSYl19Cw0
また伊都国は怡土郡ではない
もし怡土郡だったとしたら、「そう書いてないのにお前どうしてわかったんだよ?」という話
0997名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:48:54.48ID:MK4B8q/b0
九州で前方後円墳が出現し始める
古墳時代の埋葬品を並べても
卑弥呼の時代の九州がすごいことにならないし
共立に組してた可能性が高い
0999名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:53:11.84ID:iSYl19Cw0
纏向が弥生に遡るんだったら、全国的に揃って遡るだろう
1000名無しさん@1周年
垢版 |
2019/07/01(月) 09:56:08.24ID:y14N6iJ70
>>998
つまり「微妙」だな
10011001
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