※週末の政治

インタビューに答える古賀誠・自民党元幹事長=東京都千代田区で2019年6月24日、滝川大貴撮影
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 政治家の資質が問われている。相次ぐ失言や失態、権力者に物言わぬ空気。「志が希薄すぎる」とおかんむりなのは、自民党元幹事長で、歴代首相4人を輩出した名門派閥「宏池会」(岸田派)名誉会長の古賀誠さん(78)だ。緊張感が緩みきった今の政治に苦言を呈す。【中澤雄大】

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 政治生活40年。衆院議員に初当選(旧福岡3区)したのは1980年6月22日、初の衆参同日選だ。2回目の挑戦だった。苦労を重ねた母親の背中を見て育った戦争遺児は「日本を二度と戦争のない平和な国にする」と誓った。もとより「地盤・看板・かばん」(組織・知名度・資金)を持たないため、当初は泡沫(ほうまつ)候補扱いだったという。

 時は中選挙区制度下、派閥全盛の時代である。「三角大福中」の各派がしのぎを削った。立候補する前、政治の師と仰いだ田中六助官房長官(当時)を通じて面会した大平正芳首相(同)から「君は母子家庭育ちで、おやじの顔も知らないのか。そんな政治家が必要なんだ。貧苦の経験は何よりも政治家にとって大切な財産だ。宝だと思えよ」と激励された。

 穏健保守・ハト派の宏池会入りは自然の成り行きだった。そんな息子に対し、「一筋に思いを貫きなさい」と背中を押してくれた母は25年前に逝った。「あすは命日ですね」と水を向けると、長老は「言われるまで気づかなかったよ。僕も80の峠に足がかかってきた。いずれ土に返る時に、お袋が褒めてくれるか怒るのか楽しみなんだけど、もう少し待ってほしいな」。

 国会会期末2週間前の12日、古賀さんは後輩の衆院議員5人を連れて、多磨霊園(東京都府中市など)を訪ねた。大平元首相の命日である。墓前に「三つのお願い」をした。そのうちの一つが「宏池会出身政権の一日でも早い実現」。しかし4月以降、「ポスト安倍」を巡る古賀さんの発言は派内に動揺を与えた。「現会長である岸田文雄政調会長ではなく、菅義偉官房長官が適任である」−−。

 真意を尋ねた。「別に岸田さんが悪い、という意味ではないんです。僕が会長を岸田さんにバトンタッチしたのは間違いない。ただ、今の時代に総理・総裁を目指す以上、やっぱり何をやりたいか、何ができるのか、常に志を持って事に臨まないと。大事なのは決断力です。決断ができないと運もつかめない」

 昨年9月の党総裁選で岸田氏は出馬を見送り、次の機会を目指す考えを示した。ただ戦後政治史を振り返れば、禅譲するとの「密約」が守られたためしはない。「これまでは世襲でなるべくしてなった総理・総裁が続いた。少しは毛色が違う、僕と同じように泥水をすすって、自分の力ではい上がり、庶民の中で育った人が、緩みがちな自民党に緊張感を持たせて前進させることが必要では。宏池会にもいた菅さんなんか一番の適任じゃないか。岸田会長は61歳と年齢的にも余力がある。信頼回復、党の足腰を強くするためには菅さんのようなタイプの指導者がやって、それから人徳のある岸田会長のような人がやる。そういう交代はあってもいい」と言い切った。

 55年の自民党結党以来、吉田茂元首相の「吉田学校」の流れをくむ「保守本流」宏池会系と、鳩山一郎、岸信介両元首相の系譜につながる清和会系の二つの太い流れが政権運営を担ってきた。「疑似政権交代」である。いわゆる「加藤の乱」(2000年)以降、清和会1強の政権が現在まで続く。古賀さんは「少し長いんじゃないの。安倍晋三首相の指導力で政治は安定したけれど、国民の信頼をこれ以上失うと取り戻すのが大変。新時代に入ったことだし、清和会とは異なる指導者を求めるのも必要では」と言う。

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 いまや現職国会議員の大半が戦後生まれだ。6年前、古賀さんは思想信条が全く異なる共産党の機関紙「赤旗」で「憲法96条改正反対」を訴え、自民党内外では驚きを持って受け止められた。それは戦争を知らない世代が国民の8割を超す中、政治を志した人間として言うべき責務があると考えたからだったという。そうした危機感は今も変わっていないようだ。(続きはソース)

毎日新聞 2019年6月28日
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