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 祇園祭こそ“純粋の京都文化”、との思い込みや思い入れが広範に拡散していますが、果たしてそのようなことが言えるのか、そもそも純粋型の京都文化などというものがありうるのか、等々の疑問を解く刺激的な書物がこの6月に刊行されました。(後略)

 仲尾さんは著書のまえがきの中で、祇園祭を初めて見た他府県の若い女性の「山鉾(やまほこ)のタペストリーに西洋のデザインが使われているなんて、全然京都らしくない」という言葉を紹介しています。なるほど、“はんなり”とか“わび・さび”などの概念に京都文化を象徴させたがる通俗的な美意識からすると、「動く美術館」と称される鉾や山の四面を飾る前掛、胴掛、見送り、水引は、むしろ“ド派手”で“バター”臭く“ケバい”ものに見えましょう。仲尾さんによれば、この豪華絢爛(けんらん)は鉾や山の主題およびタペストリーの生産地を反映しているとのこと。実際、34基の山鉾の約3分の1が中国の伝承・説話を受けており、またタペストリー・飾り物も中国製が18基、中近東製7基、ヨーロッパ製が4基、朝鮮等製が7基と非常に国際色豊か、その意味でも仲尾さんは祇園祭を「インターナショナルな祝祭」と定義づけます。

 八坂神社の社伝によると、626年、高麗(こうらい)からの渡日使節・伊利之(いりし)が新羅(しらぎ)の牛頭(ごず)山に降りた素盞鳴尊(すさのおのみこと)を八坂の地に祀(まつ)ったのが創祀(そうし)とされ、後に神仏混交思想の下で素盞鳴尊はインド・祇園精舎(しょうじゃ)の守護神である牛頭天王と一体視されたようです。伊利之の子孫、つまり渡来系の人々が「八坂造(やさかのみやつこ)」としてこの地に集住したとも考えられます。仲尾さんは「このように八坂のカミは古代に朝鮮半島から渡来してきた人々のカミでした。面白いのは、後白河院が編纂(へんさん)した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に<祇園精舎の後には、よもゝ知られぬ杉立てり(略)神の標(しるし)とみせんとて>とあるように、八坂のカミもこの国古来のシャーマニズム的なものであったこと、さらに一旦は朝鮮半島の新羅に降りた素盞鳴尊とインドの牛頭天王とが結びつけられていることです。実に、カミに国籍はなく、八坂のカミも日本、朝鮮、インドをつなぐインターナショナルなものと観念されていたはずです」と。

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 祇園祭は、昔、祇園御霊会と呼ばれ、869(貞観11)年に疫病が流行した時に、八坂のカミを祀って悪疫退散を祈祷(きとう)したところから始まりましたが、現在の山鉾に八坂信仰と結びつく伝承はなく、疫病退散をテーマとするものもありません。八坂信仰と祇園祭との分離について、仲尾さんは「中世以降、衛生思想の一定の普及などで以前ほどの御霊信仰が保たれなくなったこと、室町期には現世享楽思想にあふれた法華宗が盛んになり、その宗徒と富裕な町衆が中心になって祇園祭を楽しんだこと」を理由にあげ、「彼らにとってはカミもホトケもなく自分たちの存在自体を祝う。祇園さんはその祝日を仮託するものにすぎなくなった」と。

 仲尾さんの著書は、古代から近世にいたるこの国、とりわけ京都の文化が朝鮮半島や中国大陸など東アジアの文明や文化と濃密に結合していること、そして、それらの地域から渡来してきた人々やその縁に連なる人々に大幅に負っていることを詳細に明らかにした労作です。ここでは、もう一つ、千年の都とか1300年の古都といわれる京都の始まり、すなわち平安京建都の話題を取り上げます。平安京はまさに“渡来人による都”でありました。

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 桓武が長岡京、そして平安京を目指したのは、桓武の母・高野新笠(たかののにいがさ)が山背国乙訓郡に生まれた百済王家につながる存在だったからでしょう。また、山背国にはそれ以前から新羅系の渡来人・秦(はた)氏や高句麗(こうくり)系の狛(こま)(高麗)氏など有力豪族が存在し、そうした渡来系の人々が桓武政権を支えたはずです。

 仲尾さんは、「特に秦氏の財力は織物や灌漑(かんがい)技術を中心に農耕技術に支えられた膨大なもので、桓武はこれらによって政権基盤を安定させました。また、桓武が行なった人事を見ても、ほとんど“依怙贔屓(えこひいき)”とみえるほどに渡来系の人々を重視しました。たとえば、文官では百済(くだら)系渡来人の菅野真道(すがのまみち)が『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編纂して従三位に昇進しましたし、武官では征夷大将軍にまで上り詰めた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)も渡来系の人物です」と。つまり、平安京をつくった人々の大半は、朝鮮半島から渡来した有力者だったことになります。(続きはソース)

毎日新聞 2019年7月20日
https://mainichi.jp/articles/20190720/ddl/k26/070/372000c?inb=ra