【歴史】中臣鎌足の正体、百済の王子か 親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗った
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『日本書紀』推古31年(623)是歳(このとし)条に、象徴的な記事が載る。
新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。ここに、豪族間の意識の差が表れているし、外交の混乱が表出している。またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。ヤマト政権は、狡猾な百済に、何度も煮え湯を飲まされていたようだ。
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百済は、ヤマトの外交方針を変えるために禁じ手を使ったようだ。それが乙巳の変(645)で、百済に冷淡な蘇我入鹿を殺したのだ。
証拠はある。乙巳の変のあと成立した親蘇我派の孝徳政権は、突然同盟国だった百済を「スルー」しはじめる。中国に使者を送るなら百済の西海岸を経由するのがもっとも便利なのだが、新羅から陸路を通り、百済の北側の海岸に出るようになった。これは国交断絶であり、その理由は蘇我入鹿暗殺の黒幕が百済だったから、と推理すれば、辻褄が合ってくる。
『日本書紀』に、怪しい記事がある。蘇我入鹿暗殺を目撃した親蘇我派の古人大兄皇子は自宅に駆け戻り、「韓人(からひと)が入鹿を殺した。胸が張り裂けそうだ」と絶叫している。「韓人」を直訳すると、「外国人」となる。しかも、朝鮮半島の人間をさしている可能性が高い。ただし『日本書紀』は、「韓人」を「韓政(からのまつりごと)のこと」と説明している。
こういうことだろう。「蘇我入鹿は半島人に殺された」と巷間では噂され、『日本書紀』編者はそれを「外交問題が原因で蘇我入鹿は殺された」と説明し、お茶を濁したにちがいない。韓人が入鹿を殺したことは、秘密にしたかったのだろう。『日本書紀』は親百済派の歴史書なのだ。
■百済王子・豊璋
入鹿暗殺の主犯中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇が亡くなり実権を握ると、外交政策を転換し、一度滅亡した百済に救援軍を送りこんでいる。民衆が「負けるに決まっている」と非難を浴びせる中での、遠征強行だった。当然大敗北を喫した。いわゆる白村江の戦い(663)だ。
それにしても、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は百済救援に固執したのだろう。連載中述べてきたように、人質として来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)が親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗ったのだと筆者は考えている。豊璋が衰退していく百済を救うために、邪魔になった蘇我氏を、滅ぼそうと考えたのだろう。
豊璋が中臣鎌足だった証拠は、いくつも掲げることができる。
1.豊璋の来日は舒明3年(631)、かたや中臣鎌足登場は皇極3年(644)のことで、ふたりは同時代人だ。
2.白村江の戦いの間、豊璋は百済にもどっていたが、中臣鎌足は歴史から消えてしまう。中大兄皇子の人生最大のピンチに、中臣鎌足はなにをしていたのだろう。豊璋となって百済に帰っていたのではなかったか。豊璋はこの戦いで行方不明になるが、中臣鎌足はそのあと何食わぬ顔で、『日本書紀』に再登場している。
3.中臣鎌足の墓・阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)から「織冠」が出土したが、歴史上織冠を下賜されたのは、豊璋と中臣鎌足だけだ。問題は、阿武山古墳が百済の王墓と同じ様式だったことで、日本では他に例がない。なぜ日本の神を祀る家に生まれた中臣鎌足が、百済式の墓を選択したのだろう。
中臣鎌足は豊璋と断定してよいと思う。
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それにしてもなぜ、中大兄皇子は中臣鎌足(豊璋)と手を組んだのだろう。蘇我氏が弟の大海人皇子を将来の皇位継承候補と期待していたからだろう。「蘇我入鹿を殺せば即位できます」という中臣鎌足のそそのかしに、中大兄皇子は乗ったのだろう。玉座に目が眩んで、蘇我氏の築き上げた東アジアの絶妙なパワーバランスと精密なネットワークを破壊してしまった。
こうして、ヤマト政権は、7世紀の外交戦も失敗してしまったのだ。原因は、政権内部の主導権争いであり、そこを海外の工作員たちに、つけ込まれた形になった。これは、古代だけの話ではない。現代でもわれわれの知らない間に、さまざまな国のロビー活動や「工作」が行われているはずだ。日本人は島国のお人好し(世間知らず)だから、用心に越したことはない。(関裕二)
8/8(木) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190808-00545721-fsight-pol ネトウヨクソジャップ、大憤死wwwwwww
祖国の勝利!! ムー三上「もうちょっと詳しくお話しをお伺いしたいのですが」 >>2で落ち禁止はニュー速+のルールにすべきじゃないかと俺は常々思ってる 記事をよく読め
油断すると政権に狡猾な外国人が入り込むぞって話だ 仏教推進派は蘇我氏で部下は渡来人. 東漢氏(やまとのあやうじ)駒
中臣は、神道系の神祇官で、鹿島神宮の神官と言われている。 朝鮮からオンドル抱えて来た朝鮮人が朝廷
武内宿禰が背乗りさせた怪しい真っ黒な豪族ばかり
筆頭が蘇我氏で朝鮮人
朝鮮人同士血で血を洗う政争が奈良の歴史で間違いない
そもそも継体も朝鮮人
親を暗殺された応神も既に怪しい 昔から嘘つきとかDNAすげぇな
教育とか関係ないのか >>1
卑弥呼を見ても中臣鎌足を見てもわかるが、日本の古代の偉人は韓国からの渡来人が多い。日本は韓国との歴史を学び、韓国に敬意を持って対応すべき。 多いというレベルではなく朝廷はほぼ全員朝鮮人だよ
まさか日本人と思ったのか? 因みに
大化の改新前は合議制で
以後は大陸みたいな体制 >百済はよく嘘をつき信用できない
もうDNAに刻み込まれてるだろw >>39
日本人のDNAを解析すると、古代の人々、特に貴族などには韓国人が多かった。
この話も十分にあり得る。 お前ら記事ぐらい読めよ、半島は嘘つきだという内容だぞ? これが通説
東漢 駒(やまとのあや の こま)は、飛鳥時代の人物
大臣・蘇我馬子は大連・物部守屋を攻め滅ぼし朝廷の実権を握って崇峻天皇を
擁立する。
やがて、崇峻天皇と対立関係となった馬子に命ぜられ、崇峻天皇5年(592年)
11月に
駒は崇峻天皇を弑逆する。 関裕二
関 裕二(せき ゆうじ、1959年 - )は、歴史評論家。千葉県柏市生まれ。
仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている。
著書(抜粋)
『聖徳太子は蘇我入鹿である』フットワーク出版 1991 のちワニ文庫、「聖徳太子の謎」学研M文庫
『鬼の王権・聖徳太子の謎 いま明かされる「鬼」の系譜と聖者伝説の秘密』日本文芸社 1998 「聖徳太子の秘密」PHP文庫
『「かごめ歌」に秘められた裏卑弥呼』フットワーク出版 1998
『かごめ歌の暗号 わらべ遊びに隠された古代史の闇』東京書籍 2007
『東大寺の暗号』講談社 2011
だいたい察した 中村真理子が描いてた天智と天武がそんな内容じゃなかったっけ? 百済って日本の支配下の国だろ?
今の朝鮮族に滅されたが。 そもそも日本の血は仲哀で絶えたんじゃねーかな
部下に暗殺され妊娠嫁が朝鮮に行き朝鮮で奮戦
どう見ても日本人ではなく哀れ背乗りされた一家じゃん >>またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。
DNAは変わってないんだな そんなに朝鮮人が優秀なら
どうして半島には偉人が出ないのか
ノーベル賞が取れないのか
アホな指導者ばかりなのか説明してください 中臣鎌足が豊璋とかいうヤツだったとして、豊璋のヤマト語がネイティブ並でなければ怪しまれるだろ。
はい論破 そもそも百済なんて日本人が作った国だろ。
そうじゃなければ言葉だって通じないし助けてくれなんて言ってくるわけがないわ。 本営発表によると、
わが国はWW2に優勢講和するところまで来ていたが、
唐突なテンノーの慈悲により条件付けずに降伏した事になっている つまり朝鮮人のクーデターによって誕生した王朝が今も続いてるわけか
大嫌いな朝鮮系王朝をマンセーしてるネトウヨって… >>65
百済や伽羅あったから
日本語は出来たんじゃね? >>60
半島にいる朝鮮人は大陸の朝鮮族とは違うぞ?
今の半島人はツングース系エベンキ族 >>66
パヨクの大本営 韓国の発表を信じます!
パヨクです! >>72
そのとおり
朝鮮に土下座してるのと全く同じ >>69
支那・朝鮮を捨てられたのだから問題なしww >>34
そりゃ、古代朝鮮半島のことで、ツングースのエヴェンキとはちゃうから 蘇我韓子とかいるからな。蘇我氏にも
新羅系が入り込んでるんだろうよ。 寧ろ古墳時代の倭の方が百済に乗っ取られた国w
当然支配層は思考言語まで百済語と考えた方が良いw 男系男子以外認めない伝統が、天皇がチョンでない証拠。
百済とか新羅のお仲間ならとっくに女系認めてる。
といっても天皇は神ではなくただの呉王室の子孫。 >蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。
ここだけ読んだ(´・ω・`) こういうの見るたび思うんだけどさー
時には「孔子のルーツは韓国人だった」とか
「始皇帝の母親は韓国人だった」とか
そういう説も一発ぶち上げてみようとはしないんだろうか >>1
関さんじゃない人が乗ったのかと思ったら関さんだった・・・・
発想とか考え方とか証拠の少ない古代史の解明へのアプローチとしては嫌いではない >>80
別の見方をすれば、半島にはゴミしか残ってないってことになるなww 隋に比べて唐が好戦的で排他的だったから、ヤマト王権とその属国群は朝鮮半島から出ていくしかなかったんだよな。 中臣鎌足は、日本の八百万の神々の系統の鹿島神宮を出自とする
神祇官。儀典係だから、陰に隠れて斬りつけることが出来た。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています