【福岡】伊都国と奴国テーマに論議、邪馬台国の謎に迫る 飯塚で古代史講座 「伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないか」★2
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伊都国や奴国がどんな国だったか討論する高島忠平氏(左から2人目)ら
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考古学者の高島忠平氏が監修する古代史連続講座「古代から未来のトビラを拓(ひら)く〜遠賀川の古代文化と邪馬台国」の第2回講演会が3日、飯塚市のイイヅカコミュニティセンターであった。中国の史書「魏志倭人伝」に記述がある北部九州のクニ「伊都国」と「奴国」に関する近年の研究について2人の研究者が講演し、邪馬台国の謎に迫るヒントを探った。
伊都国について糸島市教育委員会文化課の岡部裕俊課長は、北部九州の軍事掌握や、中国に発送する文書検閲などを担った「一大率」が所在していたという説を紹介。遺跡から中国製の土器や貨幣が出てきたことから、大陸と直接交易をしていた可能性があり「政治的な重要地点だった」と指摘した。
福岡市埋蔵文化財課の常松幹雄主任文化財主事が、福岡平野を中心とした奴国について紹介。「漢委奴国王」と刻まれた金印が作られたのは57年で、魏志倭人伝に登場する奴国は3世紀ごろだとみられる。2世紀ほどの隔たりがあることから、魏志倭人伝に記された奴国の首長が金印を下賜されたとする解釈は「ふに落ちない」と強調した。
講演後、2人と高島氏が公開討論。伊都国の平原遺跡の被葬者が卑弥呼ではないかとする高島氏の説に対し、岡部氏は「祭祀(さいし)に関わった特殊な力を持った女性を想定する」、常松氏は「被葬者が男性とする根拠はなく、女性と考える」と応じた。
西日本新聞 2019/8/4 6:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/532555/
★1:2019/08/05(月) 23:30:20.66
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1565015420/ 昔の国って、今で言う市区町村サイズだからな
30ヶ国連合と言っても列記されてる国は小さい 倭の国とは九州のことだったのか
じゃ本州は大和の国か 九州で可能性があるのは宇佐神宮じゃないの
今は畿内説の方が有力のようだけど、状況証拠だけじゃなー 採れる作物の記述を研究すればだれでもどこに邪馬台国があったかわかる件について まだやんの?
邪馬台国がどこにあろうが結局越前のヲホドが皇室の基礎なんだから 「漢委奴国王」が神武天皇である。
証拠
・日本で編纂された『新撰姓氏録』には神武天皇の兄は、新羅王の祖であると書かれている。
・西暦57年、『新羅本記』によると倭人の脱解尼師今が新羅王の祖になった。
・西暦57年、倭奴国王が金印を授かった。
※西暦57年、神武が初代天皇になり、神武の兄が新羅王の祖になったと考えられる。
『新羅本紀』によれば、
新羅には朴氏・昔氏・金氏の3姓の王系がある。
昔氏の始祖が、西暦57年に新羅の王になった倭人の脱解尼師今である。
。 「漢委奴国王」が神武天皇だとすると
「カミ」の語源は「漢委」である可能性が高い。
アイヌ語では神を「カムイ」と発音するが、「漢委」なら「カミ」とも「カムイ」とも読める >>1
伊都国の平原遺跡はすでに発掘調査されていて
邪馬台国よりも前の時代の遺跡であることが鏡などの物的証拠から判明してるから
「町おこし」のために平原遺跡の被葬者は卑弥呼であると言ってるだけだろうな おまいらも上級のために古墳造りに駆り出されるからな
今のうちに世を謳歌しとけよwww カゴメのヘンテコポットベトルトマ汁より多いから
伊藤園の買ってる >>8
一般的に神武は架空で崇神が初代。応神が第2王朝。継体が現天皇家に繋がる第3王朝だよね。
継体は応神の遠縁とも地方豪族とも言われるけど崇神や応神の出自は本当に謎だらけ。 >>6
畿内は書物を思いっきり
ロマン砲でわざと読み間違えというか
意図的に畿内にしてる
畿内の豪族は卑弥呼じゃなくしっかり生き残ってる
卑弥呼は九州の久留米か伊都あたりで
滅んでる >>9
日本神話の神代パートは金印奴国や倭王帥升など現実の北九州を反映している説有力だよね。
卑弥呼がアマテラスのモデルとか。
だとしたらなぜ大和朝廷が北九州のこと知ってる? 大和朝廷は九州併呑してるんだから、そりゃ九州の歴史は知ってるだろ。
それ以外の地域も風土記の記載レベルからすればそれぞれの国の歴史まで踏み込んでるし。 人は記憶型と思考型に大別できる
九州のアイドル卑弥呼ちゃん
大手プロダクションが出てきて関西でメジャーデビューを企んでる
四国勢もあわよくばと卑弥呼ちゃんを狙ってる 朝鮮と福岡のことわざ「叫び続ければ真実になる」
なんで辻褄が合って無い支那のラノベポエムが根拠になるのか?
まぁ職業考古学者として、食っていく為にアホなネタ振り撒いてるんだろーけど 九州八女の山奥に卑弥呼は生まれ生活し、大宰府近辺の集落を治め、お墓は平原と推測してる。大宰府は、博多湾と有明海に通じる地の利。隣は吉野ヶ里。呉の民族は西の有明海の港から入ってきていた山門だな。呉とは安曇族だな。その後日本中に痕跡を残してるよ。 祇園山古墳は殉死も確認さてているだけで66人、
朱で塗られた槨なし棺墓、
高良山の麓という、
筑後平野の戦略上の要害、
径100歩の丸い墳丘、
全てが卑弥呼の墓である事を訴えかけて来る。
高良大社の豊比盗_社は文字通り、
トヨを祀る神社だ。 伊都の高祖神社は天日槍だし、住吉大社は元々那の津の阿曇系の神。
半島南部から阿曇が渡来系氏族を手引きして瀬戸内海方面へ送り込んだんだろ 平原古墳か祇園山古墳かどちらも怪しい。筑後付近はどこも怪しい。卑弥呼の痕跡と磐井の痕跡がごちゃごちゃあって境目も筑後近辺。 わざわざ日向の浜から瀬戸内海通って紀伊半島迂回して東遷しましたって書いてある本があるのに、
オマエラ何をいつまでグダグダやってんの?ヤマト国は九州から畿内に東遷して大和朝廷になりました、おわり。 >>29
まあ祇園山古墳かその周辺でほぼ確定だろうね
なぜなら日本の他地域ではほとんど殉葬の風習が見られないから
仮に祇園山古墳が伝えられるとおり武内宿禰の墓で卑弥呼の墓はまだ未発見だとしても、権力者の死に際して大規模な殉葬を行うという風習が
日本中でここにしかないから、卑弥呼の墓が見つかるとしたら結局この近くだろう 武内すくねの墓が御井とは知らなんだ。てっきり香椎宮と思ってた。 邪馬台国は狗奴国との戦争によって壊滅したのですよ。
ヤマタ(邪馬台)ノオロチはスサノオ(モデルのひとりは狗古智卑狗)によって退治されたわけです。
決戦の場もしくは和平交渉の場あるいはその両方が天の安河(夜須川)付近だったのでしょう。
邪馬台の指導層たちの生き残りの逃亡先が宇佐。後に半島南部からタラシ系の倭人たちが九州島に侵入してきたとき
彼らは邪馬台の末裔(神夏磯姫)と婚姻関係を結び、ハクを付けたうえで吉備、河内へ向けて瀬戸内海を東進しました。
宇佐神宮そのものが大きな古墳の上に有るという説もあるそうですが、もしもそうであるのなら
その被葬者はおそらく台与でしょう。 台与につづき五王が、まだ朝貢しているときに書かれている
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里−
対馬國
− 海を渡る1000余里−
一大国(隠岐)
− 海を渡る1000余里−
末廬国(松江)− 伊都国(出雲)− 奴国(因幡)− 不弥国(摂津住吉)− 投馬国(近江)を経て邪馬壱國(奈良) 邪馬台国が出雲から隠岐を使うルートで大陸と行き来していた同時期に九州は、大陸との行き来をしていなかったのか・・と言えばそうではなく
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨し、大陸との交易を続けてきた
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里−
対馬國
− 海を渡る1000余里−
一支国(壱岐)
− 海を渡る1000余里−
竹斯国(筑紫)
のルートで大陸と行き来していた
対馬から壱岐→筑紫を使うルートは
後漢(25年 - 220年)から57年に任じられた「漢委奴国王」【九州の既得権益】だったのだ そして
後漢(25年 - 220年)から57年に任じられた「漢委奴国王」の【第4皇子(漢委奴国王では無い)】の神武が奈良を制圧し、自分の国「大和」となり
その父の第32代目「漢委奴国王」の「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)」から
対馬のかわりに一支国(壱岐)を使うことを許されて、一大国(隠岐)の使用をやめて
唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された『梁書』倭人伝(629年完成)
帯方郡−一支国(壱岐)−末廬国(松江)−伊都国(出雲)−奴国(因幡)−不弥国(摂津住吉)−投馬国(近江)を経て邪馬臺国 >>38
狗邪韓国〜対馬間と対馬〜隠岐間では距離が違いすぎて同じ渡海千里にはなりようがない
畿内説が無理すぎることを浮き彫りにしただけだったな
ボツ >>38
いやいや、そんなに難しく考える必要はないんだよ。
末廬国は松浦だし、伊都国は糸島だし、奴国は福岡市なんだよ。
なぜ、それ以降は不明なのかは、邪馬台国がわざと正しい邪馬台国の位置を魏の使者に教えなかっただけさ。
邪馬台国が魏に朝貢したとはいえ、完全に臣従していたわけじゃないんだからさ。
この時代、本拠地の位置を知られることほど防衛上の危機は無かったんだろう。 そして第12代景行天皇皇子のヤマトタケルが
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられてから代々続いてきた「漢委奴国王(熊襲建)」と
大国主が国譲りをしてから代々続いた「出雲主王(出雲建)」を討伐して
唐(618年 - 907年)の時代、太宗の命で編纂された
『隋書』倭国伝(636年完成)
百済−竹嶋−耽羅国−都斯麻国−一支国(壱岐)−竹斯国(筑紫)−秦王国−十余国を経て難波津−奈良 文字が無い時代で中国の書物頼りなんだから専門家も中国で研究すればいいのに
文化大革命で破棄されてのかね >>46
邪馬台国が大和国だってことは正しいよ。
ただ、魏志倭人伝の距離を推察の元にするのは無駄だってこと。
最初から間違っているんだからさ。
邪馬台国側は、正しい本拠地の位置を教えたくない。
魏の使者は、自分はこれだけの遠距離を頑張って往復してきましたアピールをしたい。
その両者の思惑で、距離が滅茶苦茶な記述になったのさ。 対馬〜隠岐間は、対馬海流にのって
狗邪韓国〜対馬間と
おなじ時間で着く
一支国(壱岐)は近すぎて
狗邪韓国〜対馬間の半分の時間で着いちゃう 結局のところ、兄国韓国から文明を恵んでもらっていたという、大筋のところは変わらないのだ。
韓国コンプレックスをこじらせるあまり、古代史の話が出るたびに発狂する哀れなクソジャップ。 >>45
いや狗邪韓国〜対馬間とそんなに変わらん
隠岐ははるかに遠すぎ、何倍も距離が違う >>48
邪馬台国側は、正しい本拠地の位置を教えたくない。
渡来人がすみずみまで知ってる九州じゃ無理
つまり邪馬台国は九州には無い >>49
>一支国(壱岐)は近すぎて狗邪韓国〜対馬間の半分の時間で着いちゃう
着かねーよ
距離的に狗邪韓国〜対馬と大して変わらん
やっぱりウソツ畿内と言われるだけのことはあるな >>52
そのとおり。
自然と読めば良いんだよ。
邪馬台国は大和国。
天照大御神は卑弥呼。
むしろ九州説は、なぜこれをまったく無関係と無視できるのかが理解できないね。 大和朝廷と邪馬台国を関連づけようとするから無理が出る
邪馬台国は九州で大和朝廷とは何の関係もない 邪馬台国論争は畿内説の関西人と九州説の九州人を排除して行うべき
贔屓の引き倒しウザい 倭王帥升は倭王金
倭王帥升等で皇家女王等
倭王朕とか言うのは天皇のことだから
金印は漢のハンコ、漢倭奴国王は、漢の奴隷王という意味
一大率は割合のこと、そこに諸国の王がたくさん居たという意味に
伊都国は我、藤(フジ)国という意味に
藤は日本の花、そこに藤原氏みたいな官吏がいたということ
奴国というのは漢の直属の奴隷王がいたと考えられるから
奴国に当時の倭の王がいたということが考えられる 卑弥呼の墓は奴国にあると考えられるけど
発掘した跡も盗掘された跡もあるから >>53
台与につづき五王が、まだ朝貢しているときに書かれている
西晋(265年 - 316年)の時代、280年から297年の間に成立した『魏志』倭人伝
帯方郡ー韓国
− 海を渡る1000余里−
対馬國
− 海を渡る1000余里−
一大国(隠岐)
− 海を渡る1000余里− ← 一支国(壱岐)じゃ近すぎる
末廬国(松江) >>54
そもそも
一大国 と 末廬国 の間も
海を渡る1000余里
と書かれているのもわかんねーやつらだからね九州説は(笑) あの時代は現代とは時空間の位相にかなりのズレが発生していたからね
邪馬台国の正確な位置が収束しないのはそれが原因
時間を固定すれば空間が発散するし、空間を固定すれば時間が発散する
場所を特定するのは原理的に不可能であることを21世紀の人間はまだ知らない >>62
いんや、あの時代でも
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、渡来人が闊歩した九州
ならば
現代とほぼおなじ時空間の位相になっている
中国本土並みにな
そうなっておらず、かなりのズレが発生しているということは
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、渡来人が闊歩した九州
では無いという証明だ >>29名無しさん@1周年2019/08/10(土) 01:14:47.69ID:qxLm95UR0>>35
祇園山古墳は殉死も確認されているだけで66人、
朱で塗られた槨なし棺墓、
九州最古級祇園山古墳の頂に存在する棺墓は、
高良玉垂宮神秘書に見られる大祝の祖 日往子の命の墓の公算が高いと思われます。
ただ、その時代既に祇園山古墳は存在していたと考えられます。
>>高良山の麓という、
筑後平野の戦略上の要害、
径100歩の丸い墳丘、
祇園山古墳は三段の敷石にて構築された方墳。発掘時の坊津街道方面から撮られた写真を見ると
あたかも三段のピラミッドのような存在感を放っています。
>>全てが卑弥呼の墓である事を訴えかけて来る。
高良大社の豊比盗_社は文字通り、
トヨを祀る神社だ。
高良玉垂宮最高祀官 大祝屋敷内に鏡山神社と豊比盗_社は存在していた。
現在は九州自動車道の直下。久留米市大城町赤司八幡宮の旧名こそが豊比搭{。
祭神は神功皇后の宗女豊比当ス。 九州に邪馬台国が存在したとすると、そのパターンは、大きく分けて3っつ
パターン1
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国が、ひきつづき「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人は、当然、どこが邪馬台国なのか、方位も里数も行程時間も知っている、倭王としての名前が変わっただけ、間違わない
パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国とは別の九州の国が「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこが「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない
パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた九州に、
邪馬台国という国が新しく出来て、「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこに邪馬台国ができて「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない 邪馬台国が何処でも構わないんだが、どう考えても13才の台与で話が纏まるというのは、半島伝説を考慮としか考えられない。奈良だと遠すぎるかもうこのとき半島に侵されかかってるかになってくる、共立はあくまで半島諸国と九州位と考えるのが自然じゃないのかねぇ 奈良の邪馬台国なんて、クソ田舎の、内陸の、
渡来人も大陸の役人も、今まで誰も行ったことがなかった小国が
出雲を植民地にして、一大卒を派遣して統治して、
急に大陸に行けるようになっちゃって、「親魏倭王」になっちゃった >>59
お前がな
やはり畿内説はウソしか言わないクズの集まりだった この頃は半島も日本列島も日本と朝鮮では無いわけでごった煮なんだから、ただ日本人の俺としては列島に先住卑弥呼女王国があって微力ながら頑張ってたとしてほしいんだが、その後を考えると百済、新羅が押し寄せ、万世一系なんてものが支配し脇を渡来が固めてる。 しかし
夷人不知里數但計以日『隋書』
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
ので
『魏志』倭人伝に書かれている方位も里数も行程時間も
すべて渡来人のヤマカン (^_^; >>69
>>54
そもそも
一大国 と 末廬国 の間も
海を渡る1000余里
と書かれているのもわかんねーやつらだからね九州説は(笑) 奈良の邪馬台国なんて、クソ田舎の、内陸の、
渡来人も大陸の役人も、今まで誰も行ったことがなかった小国が
出雲を植民地にして、一大卒を派遣して統治して、
急に大陸に行けるようになっちゃって、「親魏倭王」になっちゃった
しかし
夷人不知里數但計以日『隋書』
倭人は里数を知らない、ただ日を以って計算している
ので
『魏志』倭人伝に書かれている方位も里数も行程時間も
すべて渡来人のヤマカン (^_^; >>72
ますます隠岐はないじゃん
畿内派って頭おかしいんだね 頭がマトモな人間が畿内説なんて恥ずかしいことを言えるかよw 地図みたら普通に半島と対馬、対馬と壱岐はまあ同じような距離にあると思うけどなあ。
もっとも壱岐から松浦半島はちょっと短いとは思うんで、壱岐からは東に進んで宗像に上陸した
説を取りたい。 こ れ は ニ ュ ー ス 速 報 で す か ?
、 >>1
平原遺跡から出土した超大型内行花文鏡は皇室の三種の神器のひとつ、八咫鏡の同型鏡だからな〜
しかもそれが5枚も
どれほどの権力者だったか、ってことだよな〜 >>64
>高良玉垂宮神秘書に見られる大祝の祖 日往子の命の墓の公算が高いと思われます。
日往子(ヒユキコ)って狗奴国の王・卑弥弓呼(ヒミクコ)じゃないの?
と新説を述べてみる 神武の存在を前提にして畿内って言うなら、なんで神武記の記述は
無視するの?
あっちいって数年こっちによって数年のルンペン旅の末に河内に
たどり着いて、勝手に生駒を超えようとして返り討ちに遭い惨敗、
ほうほうの体で住吉周りで逃亡旅、兄二人死んで今も命がけの熊野
の道からようやくだまし討ちで根拠を得、その後も崇神が出現する
までは物部=ニギハヤヒに降妃を受けて権威を維持、外部から来た
崇神に明け渡すという、そんなんが大中国に国の代表ですなんて
言うわけない。
あ、あと神武は男だからな。
熊野は日本最古の仏教の聖地、国東の古修験道から名付けられた。
また、神武記長脛彦関連で出現する地名以外で固有の古地名が希
なのも、大規模な弥生渡来系の東進前は地名も僅少だったことの
証明。 10月の令和新天皇即位の儀式で使われる麻布の衣と、絹布の衣は代々四国徳島に有る
日本最古最上位の神社で作られる
神社は山の上に有って、水が汚されることがない、これが邪馬台国だ
俺の父方の先祖は700年前、四国から奈良県吉野に移住して、そのご後醍醐天皇天皇にお仕えした
という伝承が有る 卑弥呼の時代は既に西から呉の民族が入っていて共に倭を建国してた。呉は航海得意だからな。当然、魏国に正しい場所は知られたくない。壱岐辺りから、船で西に回って有明海から内海通って筑後平野まで水先案内したんだろ。 九州には筑紫、肥、豊、熊襲の
4つの国に分かれていた。
そのうちの漢倭奴国王が筑紫。
親魏倭王が肥。
筑紫と肥の国境付近には
鉄の武器の痕跡や戦死遺体が残り
戦争状態であったことが伺える。
しかし卑弥呼が魏に支援を求めたのは
熊襲対策であって筑紫対策ではないことから
筑紫と肥は休戦状態だったと思われる。 筑後川より北が筑紫、
筑後川より南で有明海沿岸が肥だったが
4世紀ころには筑後川下流部の
低湿地地域が開発できるようになり
筑紫と肥で激しい争いが始まった。
ポイントは久留米で、筑紫平野を一望できる
久留米高良山の奪い合いになる。
このときの砦となったのが久留米高良大社だ。
筑紫は周到に筑後川から広川に入り
大善寺玉垂宮に橋頭堡を築く。
このあたりまでは満潮時には逆流する川なので
輸送もしやすい。
ここをそれなりの兵力で押さえたあと
上津高良台の上津天満宮に侵攻。
ここに拠点を築く。
その後、高良山を奪取し
筑後の覇権は筑紫のものとなる。
位置的には肥中となっても良いような
位置関係だが、筑後となったのは
筑紫がここを獲ったことを表している。 >>74
隠岐 ー 松江 は距離的にも航海時間的にも全く問題なし
壱岐 ー 筑紫 は距離的にも航海時間的にも近ずぎる >>87
九州に邪馬台国が存在したとすると、そのパターンは、大きく分けて3っつ
パターン1
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国が、ひきつづき「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人は、当然、どこが邪馬台国なのか、方位も里数も行程時間も知っている、倭王としての名前が変わっただけ、間違わない
パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた国とは別の九州の国が「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこが「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない
パターン2
後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」に任じられそれから150年間以上、倭の国王として君臨してきた九州に、
邪馬台国という国が新しく出来て、「親魏倭王」となった
↑ 九州にいる渡来人、大陸側の役人にとってビックニュース、当然、どこに邪馬台国ができて「親魏倭王」となったのか話題となり、方位も里数も行程時間も知れ渡る、間違わない 現代でもそうだけど博多湾は東の奥に船を止める
神功皇后が半島を攻めるのに置いた香椎宮もその近く
2回目の魏の使者張政は博多湾から上陸して
伊都国へ向かう途中に奴国を見て
高いところから遠くの不弥国が見えたんじゃないか 虚実入り混じる魏志倭人伝は都合よく解釈できるので
日本全域で邪馬台国である可能性が生じるが
対海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国は
邪馬台国ではないと言える アトランティスから逃げ延びてきた人たちが住み着いたのが邪馬台国 ダイワとしか読めない「大倭」をヤマトと読ませるのは
魏志倭人伝の「大倭」に由来するとしか考えられない
・魏志倭人伝では邪馬台国を「大倭」と表現した
・倭国ではヤマト(奈良)に「大倭」の漢字を当て字した
邪馬台国が奈良ではないとしたら
この2つが偶然の一致ということになってしまう。
奈良が邪馬台国だからヤマトに魏志倭人伝の「大倭」の文字を採用したとしか考えられない >>83
神武は実在だと思うけど、神武東征はウソだと思うよ。
『日本書紀』は九州からクーデターを起こした天武天皇が書かせたものだから
天武天皇の自己正当化が目的でもある。
神武は九州から侵略、天武も九州から侵略、
これで天武のクーデターは神聖なものになる 弥生渡来系が阿曇の手引きで九州に定住
でも農地が少ないので徐々に瀬戸内海を東進
これが当事者にとっては神武東征だし、土着勢力にとっては畿内にいきなり現れた天日槍
どちらの神話も軍事侵攻というよりは住むところを分けて最終的には手打ちした話になってる >>88
たしかにあの地域は筑紫と肥のあいだでの係争の地だったでしょうね。
筑紫の盟主、伊都国が肥を敗北させこの地を配下に置いたのはあるいは平原に眠る偉大な女王の時代だったかもしれません。
半島と交易していた伊都国は肥よりも進んだ技術、武器を持っていたのでしょう。
当時は博多湾と有明海が水路でつながっていたという話もありますね。
この敗北した肥の盟主は鬼奴国(熊本県玉名:玉杵名郡)ではなかったでしょうか。
後の時代の火の君の拠点もこの玉名ではなかったか(あるいは宇土郡)と。
邪馬台国の時代が終わった後、九州島でもっとも大きな力を持つ勢力にのし上がっていったのが
倭人条の邪馬国(福岡県八女郡)の末裔ではなかったでしょうか。タブラツ姫、筑紫の君イワイ。
豊かな生産力、人口の増加を背景に筑後どころか筑紫の中心となりました。 卑弥呼が伊都国から奈良へ引越ししてた場合しっくりくるところ
>丗有王
(伊都国には)代々王がいる
>乃共立一女子為王
一女子を共に立てて王と為した
(銅鐸に共立の跡がみられる)
>倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼と素より不和
(卑弥呼が伊都国にいたときから熊本市の狗奴国の卑弥弓呼と不和) >>95
天武天皇が九州勢力をバックに持ってたっていう根拠は何なの?
吉野に逃げ込んだことがあったように思うから、
紀伊半島勢力をバックに持ってたんじゃないかなと思ってたけど。 天皇より上の卑弥呼の存在は隠されたが引越しはしたので
架空の人物神武を作って神武が引越ししたことにした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています