【元寇】モンゴル軍が用いた「てつはう」に殺傷能力はあったのか
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
■たった一つの武器の誕生が、日本の歴史を大きく変えた!
※省略
今回は、蒙古襲来の折、モンゴル軍が鎌倉武士を苦しめた「てつはう」をご紹介します。
■「てつはう」に殺傷能力はあったのか
「てつはう」を、漢字で書けば「鉄炮」となる。だが、モンゴル軍が使ったのは火縄銃などの弾丸を発射する火器ではない。現在でいうところの、手榴弾に近い武器だ。
文永の役の戦いの様子を写した『蒙古襲来絵詞』という絵巻物には、肥後(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が単騎でモンゴル軍に突撃するそばで、「てつはう」がさく裂している光景が描かれている。
また、鎌倉時代後期から末期にかけて成立したとされる、八幡神の霊験を説いた寺社縁起『八幡愚童訓』にも、「てつはう」についての短い記述がある。
ただ、「てつはう」に関する記録は、このふたつ以外にほとんど残されていない。
形状としては、鉄製または陶器製の丸い容器に火薬をつめ、導火線に火をつけて使用したと考えられていた。
しかし、中国にも実物がひとつも残っていなかったため、実際に殺傷力があったのか、それとも爆発する音と煙や光で周囲の敵を脅すだけの武器だったのかは長らく謎とされてきた。
ところが21世紀になって、長崎県の鷹島海底遺跡から元の軍船が見つかり、「てつはう」の実物が3つ発見された。
この「てつはう」は陶器製であり、鉄サビの痕跡もあった。
容器の中に鉄片を入れ、爆発する際に鉄片が飛び散るしかけになっていたためと考えられる。
もしそうだとすれば、それなりの殺傷力はあったと推測される。
■長弓 vs. てつはう
実物の「てつはう」が見つかっても、まだこの武器に関する謎は残されている。その謎のなかでも最大のものは、どのようにして投擲(投げること)をしたのかということだ。
鷹島海底から引き上げられた「てつはう」は4キログラムほどの重量であった。これを手で投げる場合、どんなに腕力に自信がある者でも20メートルほどしか飛ばすことができない。この程度の射程では、鎌倉武士たちが主力武器とする長弓に対抗できるはずもない。そもそも、日本の兵にまったく近づくことができないからだ。
攻城兵器としてモンゴル軍が使った投石機などで発射した可能性もある。
だが、巨大な投石器を船で輸送するのはかなり困難であるし、蒙古襲来でモンゴル軍が投石器を使用した記録も残されていない。このように、「てつはう」の実態については、まだわかっていないことのほうが多いのだ。
10/11(金) 12:18配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191011-00010000-php_r-pol
https://amd.c.yimg.jp/amd/20191011-00010000-php_r-000-3-view.jpg 鎌倉武士が化け物じみた豪傑揃いだった、みたいなネットの誰かが作ったコピペは真に受けるくせに、じゃあモンゴル人にも室伏を超強くしたみたいな奴がいたんじゃね?という発想に至らないあたりがお前らの限界 >>385 >>416
日本が使者の首はねたのは文永の役の後の2回だけで(7回目と8回目の使者)
元寇が起きるまでは日本が使者の首刎ねたことなんかないよ
それをいうなら文永の役の後の日本は侵略&対馬壱岐虐殺許せねぇってなったんじゃ?
(元寇前の使節が日本偵察してたから情報漏れを防ぐためや徹底抗戦で国内をまとめるためなど諸説あるが)
何故か戦争にもなってないのにいきなり使者切ってたとか
それが元を怒らせて元寇の原因になったみたいな話をネット上で散見されるけど、
元の史書の記録にも元寇の前に使者が切られたなんて書いてないんだからデマだよ >>751
宮脇淳子が蒼き狼は誤訳だったのでは?と語ってる
蒼き狼はアオくない!世界史のなかの蒙古襲来 宮脇淳子 倉山満【チャンネルくらら】
https://youtu.be/9v8YBpfsSHg >>756
まあ、種子島に鉄砲が伝来して、
30年後くらいには世界最大の銃保有国に日本はなってしまってたし 攻めてきたモンゴル軍人にも超人みたいな人がいたかもね、って
言われたら思うで。あと鎌倉武士団は化け物じみた豪傑揃いって
認識はないよ。頭おかしい連中が多かったとは思うが。 >>764
昔は「白い動物」を「あおい動物」と表現していたんだよ
「白系の馬」は「青馬」っていうふうに >>763
それは申し訳ないが、なんで元の使者が来たら=首を撥ねるって
話がオレの目に入ったんだろうか。
あと、べつだんだからその当時の日本の対応が間違ってるって
認識は無いけど。来たら撥ねよでなんで悪いかて認識。 カタパルトも当然持ち込んだだろうが
行軍中の野戦で組み立てる状況にあったかどうか疑問 >>739
攻城兵器みたいな大型のやつばかりじゃないからね
工業高校の生徒が実験でカタパルトの想定サイズの2/3サイズで作ってみたところ、
こんな小さく軽量の投石器でも20cmの石弾を44m飛ばしたとのこと
実物大の大きなカタパルトで、14cm程度の陶器製てつはうならもっと遠くに飛ばせるだろう
県立長崎工業高校の学生さんたちが復元した投石器なんです。
今から約700年前の鎌倉時代に、日本に攻め入った元(モンゴル帝国)軍が石弾やてつはうを飛ばすために使用した武器を復元したものです。
先日石弾を飛ばす実験が行われ、直径20cmもの石弾をおよそ40m飛ばすことができたそうです。
http://rekibun.blogspot.com/2012/11/blog-post.html >>762
単純に説明すれば、
日本のサムライが重装弓騎兵だったからだよ。
モンゴル兵は軽装弓騎兵で、防御に弱い。
あと、日本刀が大陸の刀に負けるわけがない。
日本軍の武装が圧倒的だったということ。 つーか元寇の頃の武士は財布がカツカツ
久々の戦で武功立てないとお先真っ暗
方や蒙古の方は島国ごときがとハナから舐めプ
士気の差は当然あったんだろうな 日本のウンコ爆弾の方が威力あったと知ったときの衝撃ときたら 何で、てつはうは竹崎季長が攻めている方向に飛んでるの?
蒙古が使ってたなら、飛来する方向が逆じゃね? 単に馬や人を驚かすことしかできなかった。
花火より弱いものだ 太刀が一番切れた時代
鎌倉武士は革服のモンゴル兵(高麗兵)を叩ききった 蒙古襲来絵詞とか見れば、武士が馬に乗って戦ってるのが普通にわかる >>752
永楽帝の後継者だった洪熙帝と宣徳帝の時代に故意に造船技術は低下させられた
「大型船が建造できたから、鄭和艦隊のような究極の無駄遣いが起きた」という理由で大型船建造は禁止され
海外貿易も厳しく制限されたから、中国の船の多くは沿岸専用の船になってしまった
だから朝鮮征伐の頃の万暦帝時代の明軍の軍船は大したものじゃない >>768
単にネット上ではよく見かけるからじゃないかな
あくまでもネット上では、でちゃんとした元寇関連の本で見たことないけどね
当時の北条氏の外交には批判的な傾向の本ですらそんなこと書いてないのに、
なんでそんな話が広がったのかわからないけど 超 音がして相当うるさくて馬がびっくりしたと思う
馬が混乱しまくったらヤバいから効果はあったろ
犬も花火にすげーびびるのがいるし モンゴル軍は総員を兵力で記録してるけど日本は職業軍人の御家人以外は下郎で兵力や損害から除外されてるんだよな
動員数で見ると意外と兵力は拮抗してたんだと思うわ 地震国だったから、大きい音とかには慣れてたのかもね。物が割れたりする音に(´・ω・`) 馬がびっりこいてヒヒーーンと立ち上がり、
それで落ちた兵隊を、集団でなぶり殺したのだ 2キロくらいじゃねーの?2キロって結構重いぞ?
デカいペットボトルの水満タンだからな >>770
確かにこんくらいなら運べそう
>今から約700年前の鎌倉時代に、日本に攻め入った元(モンゴル帝国)軍が石弾やてつはうを飛ばすために使用した武器を復元したものです。
ていうかこれ断定してんじゃねえかw
このサイトで出典出すべきw 馬は繊細な生き物だから、慣れてないと
火縄銃の音とかでもパニックになるらしいね。
長篠の戦いもその辺の混乱もあるんじゃないかって説も
あるそうな。あと伊達の騎馬鉄砲隊もそう簡単にやれないとか >>782
そこらへんが不思議だわな。元の使者が来たら有無を言わさず
首を撥ねたって情報がネット上にあって、アホなオレは信じてたわ。
それが嘘だとして、なんでそういう情報を拡散してるのか。 >>779
ちゃんと人はすでにその頃から文化を壊す習慣みたいなのがあったんだね 文永の役:朝鮮にそそのかされて仕方なく出征したため兵力は4万にも満たず。しかも主力が朝鮮兵というお粗末さ
弘安の役:約15万の兵力のうち10万が南宋兵という構成。ただ南宋兵はモンゴルより海戦が得意でも
モンゴルに降伏したばかりで士気も忠誠心も低い 江戸に攻め込めないように帆を一つだけとか制限して
造船の発達がいまいちになったり、難破とか相次いだのに似てるな。 これずーっと疑問だったな
あの絵を見てもまるで、てつはうが機動戦士ガンダムの08MS小隊に出て来た対人兵器ばりに馬や兵を殺傷してるかの如く描かれてるが
あんな超兵器持ってたら日本兵全員死んでるだろと、今頃、日本人全員エラ張りチョン顔だわ 日本は済州島まで逃げて元と戦ってた三別抄の情報があったから、
元軍が攻撃的な組織であることを予め知ってた >>762
そりゃいただろ
けど志賀島で海に追い落とされたのが史実なんでな
せっかくの橋頭堡を奪われまいと元軍は弩まで持ち込んで奮戦したらしいが駄目だった 元の使者として派遣された僧侶の一山一寧は高僧として遇されて、
日本に寺まで開山した 詳しい人が多いスレで面白いな。反省する事が多いわ。 >>770
そう言う目玉があれば必ず絵に残ってると思うんだけど
結構詳細に記録している >>400
良く見るとモンゴル兵も結構やられてるな >>370
世界中どこでも遠隔で人をぶっ殺せる超未来兵器だよ >>800
南宋が滅ぼされたのは文永の役の後
けどそれ以前から長く戦争してるし、南宋人とは日宋交易もあるし
文永の役の前から既に情報は入ってただろうね >>792
大陸は征服してほかの民族の王朝潰すのが普通だったからねえ 蒙古襲来絵詞は後世にいろいろ書き加えてあるので
てつはうの炸裂シーンも、後世の書き加えという説がある この時代の鍛造技術でつくられた日本刀はロストテクノロジーなんだよな >>741
ハハハハハ、偉大なる大韓が敗北? 面白いことを言うねチミはwww
半万年前に建国以来、地上最強の戦闘民族である偉大なる大韓が
ただの一度も敗北したことがあるのかねwww
壬申丁酉倭乱は偉大なる大韓の完全勝利に決まってるだろwww
徳川幕府が鎖国政策の例外として偉大なる大韓とは国交を結び
朝鮮通信使から将軍宣下の勅令を受けたのは偶然ではないwww
あと独ソ戦? プラd曰く「死者だけが戦争のおわりを見た」のであれば
その膨大な死者にとって大祖国戦争こと独ソ戦はあくまでソ連の敗北なんだよwww 分析めんどくさいから台風にしとけみたいな(´・ω・`) 南宋から亡命してきた禅僧が鎌倉幕府の外交顧問的立場に収まっていた
当然ながら対モンゴル外交ではガチガチの最強硬派 >>802
普通にこう言うのも有るよ
あの教科書で切り出してるシーンが有名なだけで
>>750
そんなー
信長の3間ヤリとか有ったじゃございませんか
とw >>791
日本人は昔から残虐だったから第二次世界大戦でもそうだろうと洗脳してんだよ
全ては謝罪と賠償につながるテント戦とのミステリー 考えてみると元軍は兵站どうするつもり
だったんだろ
現地調達なら日本側に水際防御された時点で
詰んでるね
元軍は敵がいない地点に上陸出来ない限り
勝ち目が薄い 元寇の前の戦って霜月騒動だっけ?
日本側もそこまで戦経験があるワケじゃなかったんだよね
少弐さんはよくまとめれたな >>247
改竄はアカじゃなくてアベw
わざと間違えたの? >>819
台から風のような攻撃だったかもしれんし、文献読めないだけで(´・ω・`) >>816
残虐とは思わん、戦う時に徹底的に潰すのは当然だと思う、が、今はそういう時代なんかな。 バイオのデコイボトルみたいなもんだよ。あれ?ナニこれ?って近づいたらドーン。 >>817
だから文永はさっさと逃げ帰ったんだろ
上陸できたのに弓の応酬で競り負けて現地調達どころじゃなくなったと
弘安は上陸させてもらえなくても長期間海上を漂ってたから長期戦に備えてたんじゃね? 「てつはう」って旧仮名で
発音はてっぽうじゃないのか 絵巻加筆ってカキコが散見されるけど
いつの時代に誰がどのような意図で加筆したんやろな >>761
ヨーロッパではモンゴル軍も馬だよ。
士官連中は、日本と同様にラメラーアーマー着けてた。
個人戦闘主義のドイツ騎士団では、武装や戦法共にまるで歯が立たない。 >>809
半島の最大の戦果は隋の撃退かなと個人的には思ってるよ 元軍を撃退したのは、
日本の北条時宗、ベトナムの陳興道、マジャパヒト王国のラデンウィジャヤだけか
ビルマのパガン朝も占領されちゃってるし これ、忍者の撒き菱みたいに、逃げる時に地面に置き去りにする兵器じゃないのか? 社会への不満から小学校を襲おうとする人は警官を標的にしましょう !
警官は あらゆる事態に対処できるよう税金を貰って訓練しています
狙うなら警官です 絶対に子供を狙ってはいけません!警官を襲いましょう。 >>817
旧南宋水軍の兵士は日本を征服したらそのまま入植することになっていたが
別に全滅してもいいので、補給体制なんかどうでもよかったらしい
「神風」の後、生き残って捕虜になった南宋人たちは命は助けられたが
奴婢に落とされ恩賞として分配されて結局日本で生活することになった
ちなみにモンゴル人、漢人、高麗人の捕虜は全員斬首、至極当然な処置だわな >>761
モンゴル軍といっても実態は朝鮮軍だぞ
韓国人だから糞弱い
二度目は中国人も多かったけど合流が遅れた >>827
こんな絵じゃ、客来ねぇよ。もっと迫力がないと。とか(´・ω・`) >>836
勝ってるときは勢いに乗って虐殺・略奪の限りを尽くすけど、
形勢が悪くなると「アイゴー」と叫んで武器を捨てて逃げだすので
数ほどの戦力に計算できないんだよね 秀吉の目標は中国なのか?
朝鮮にも負けてるからのに
補給経路が伸び過ぎた >>813
そりゃ河野氏の奇襲の図だ。
船1隻で悠々とモンゴル軍の船団の中に入っていくもんだから、モンゴル軍が「何かの使者か?」と勘違いして攻撃しなかったんだよ。
で、突然、モンゴル軍の大船に帆柱を倒してそこから登っていって暴れまわった時の図だwww
鎌倉時代の武士はクレイジー過ぎるだろ? >>817
数万の大軍を見ただけで島国部族は降伏するはず
もし抵抗してきても容易に勝利してそのまま入植する算段だったのでは あんまり史実としては紹介されないけど
弘安の役で最終的に嵐で船がやられた元軍が立て籠もった(というか逃げこんだ)鷹島で、
十数万人ほぼ皆殺しという壮絶な掃蕩戦やってるんだよな
川が血で染まったとか、首で山が出来たとか壮絶な言い伝えがある
で、それを知って興味を持って鷹島にドライブ旅行に行ったら
「楽しいモンゴル村」みたいなテーマパークが有った
なんか違う… 秀吉は台湾を拠点にして東南アジア
に進出してれはよかったのに
朝鮮攻めは無謀な戦だった >>840
そりゃモンゴル人に無理やり連れてて来られて殺し合いさせられるんだもの
日本に、モンゴル人は指揮官しか来てない
実態は1回目は朝鮮軍、2回目は朝鮮と中国の連合軍
モンゴル人は指揮官としてふんぞり返っているだけつーね 軍の運用は現実だとめちゃくちゃ難しいって話だからなぁ。
例えば我が薩摩必殺の釣り野伏は「理論上は非常に効率が良い」
が、実際運用するとなると引く正面軍は初め相当被害が出るので
そうすると「オマエラ結構死ぬ部隊だから」ってのを当然と
覚悟させなければならない。そんなことは普通出来ないわけだな。 >>845
現地の風土病がひどくて面じゃなくて、点でしか占領できないけどね 教科書でさらっと触れられる程度なのに
今日まで「てつはう」って忘れられないぐらいの
謎のインパクトがあるよな >>27
「防御側有利の法則」で日本側が圧倒的有利(開戦自体が致命的ミス)
攻者3倍の法則、上陸作戦5倍則、
・まず、まともな地図・海図・無線・GPSなし、確立した海路辿るのがやっと、離れて迷ったら孤立
使者の調査も九州以東は詳細不明
さらに、越える海は嵐で有名な難所、渡る季節も限定、迎撃側は襲撃時期もルートも読める
・そもそも、当時の航海技術では深入りすると大陸への帰路が困難
(いちおう、当時の国際港の敦賀も防衛 >東北・北陸の兵は越前の敦賀津をぞ固めける。)
せめて地元の松浦水軍を懐柔して道案内頼むどころか、
(高麗と対立してたからか)まず松浦の勢力圏を攻め、後々まで松浦党に恨まれた
※なお、文永では松浦党が潰れ役になって態勢整える時間稼ぎができた
・政治や言語文化など島国で団結し、得意の政治的圧力や切り崩しが使えない
・元軍が渡海作戦で制圧成功したのは
樺太アイヌの賊に攻められた防衛出動、あと三別抄、と??シンガサリ朝??
以上どれもはるか格下で、鎌倉軍事政権相手は無謀過ぎ
・遊牧民の交易の情報力も
調査した使者が、せっかく、「日本攻めは被害大きい」「止めろ」と進言してるのに
半島の大きな声が通り、痛恨の判断ミス
>>761
大陸から騎馬も連れて来たがボロ負け (三井資長、蒙古兵を撃退する)
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.htm
なお、南宋相手には騎馬で苦戦し、歩兵主体に切り替えてやっとこさ制圧した 矢は盾で防げる
ジリジリと近づいて投擲
手榴弾だな まあ朝鮮軍だから
本部から支給された武器もあんま使いこなせてなかったんだろ
「本部 てつはう重くて投げれません」
「バカてつはうを投げるだと!」 >>840
モンゴル人に首に縄付けてやってきたのが中国人
中国人を残しておくと色々厄介だから農機具とか持たせて
一方通行。中国人もやる気がなく日本もそれを知って無抵抗な中国人は
殺さずに見逃してやったりした >>836
元は、その気が無かったが、なぜか、ノリノリの朝鮮人が口説いたって話を聞いたな。 一説には朝鮮人を海に捨てるための
出兵だったとか。 >>827
確実に加筆だろうといわれているのがモンゴル人兵士
数を水増しした
スペクタクルを!もっとスペクタクルを!!って理由らしい
神社に奉納されたので、神職の依頼で書き加えたとも
所有者になった大名が書き加えさせたともいわれている >>792
>すでにその頃から文化を壊す習慣みたいなのがあったんだね
鄭和の航海そのものの細かいデータや航海日誌まで、明の官僚が金の無駄になる計画そのものを
計画されないようにと燃やしてしまった、なんて鄭和のwikiに書いてあった
中朝韓露はずーっと昔からデータ改ざん捏造消去何でもありなんだよな
そしてそういう奴にサーバーの管理とか任せたらどうなるかって話
そこのwebサービスをどこまで信頼していいんかな〜って話にまで繋がるね 結局、神風と九州御家人の奮戦で勝っちゃったんで間に合わなかったけど、
六波羅探題が掻き集めた6万騎含む援軍10万が下関くらいまでは来てたし、
更に鎌倉も東日本の兵力結集して派遣軍の編成始めてたんで、
どのみち負けはしなかっただろうけど
それにしてもあの時代によくこんだけ兵力動員できたなぁと てつはう+回回砲は文永の役の前年、1973年の南宋の襄陽の戦いなどで元軍が使って絶大な威力を発揮したそうで
そんな有力な兵器を持ってこないというのは考えにくい
ただし回回砲は連射ができない
動くことのない城相手の攻城戦ならともかく、鎌倉武士相手の騎馬戦では有効ではないというか、使おうにも使いどころが見出せなくなった
初見では鎌倉武士を大いに驚かせるのに成功しただろうけど、それ以降は使われなくなったんじゃないか、
そのため、実態があまり分かってないのではないかと
「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。
しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。
例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。
したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている[424]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#%E3%81%A6%E3%81%A4%E3%81%AF%E3%81%86 >>838
難しいらしいですね。かなり修練が必要とか。モンゴル軍は馬上でも弓とたまに槍。馬上戦闘では、アジア人には勝てんですよ。
ちなみにヨーロッパで鐙使い出したのが10世紀、日本含めてアジアでは5世紀から。500年の差はでかいですよ。 >>856
なるほどな
>>839の直感と近くて説得力あるw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています