東京駅周辺再開発バトル
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戦前の財閥時代から続く三菱グループと三井グループの競争が、今活性化している──。1870年、土佐藩が開いた九十九商会の監督に任命された岩崎彌太郎は、その翌年に廃藩置県を受けて同商会を自らの個人事業とした。土佐藩が所有する3隻の船を買い受けた彌太郎は、海運と商事を中心とした事業を展開して、1873年に九十九商会を三菱商会と改称した気鋭選──これが、「三菱グループ」の起源である。
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 2020年、三菱は創業150年を迎える。記念事業として三菱グループの主要27企業は計100億円を出資して、子供や若者の教育を助成する「三菱みらい育成財団」を設立し、その他にも美術館での記念展覧会や東京・丸の内での記念式典などを予定する。
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 その三菱と鎬を削り合ってきたのが、双璧をなす「三井」である。1673年、三井高利が越後屋三井呉服店を創業したことをルーツとする三井は、三菱をはるかに上回る300年以上の歴史を持つ。戦前は歴史と伝統のある三井が三菱をリードしていたが、戦後の財閥解体の後、時代の風を先につかんだ三菱が三井を逆転して、頂点に君臨し続けた。
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 だが三菱が記念すべき創業150周年を迎えるこの時期、三井が反転攻勢に出た。両雄が激突する「主戦場」のひとつが、首都東京の玄関口である東京駅周辺だ。
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 そもそもこの地域は、戦後の焼け野原から三菱が一大発展を遂げる際の足掛かりとしたエリアだった。埼玉学園大学経営学部教授の相澤幸悦氏が指摘する。
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「戦前は三菱より三井のほうが国家とのつながりが強く、政府と連携してビジネスを行なっていましたが、戦後にGHQ(連合国総司令部)が財閥を解体すると、国家を頼れなくなった三井の力が弱まりました。朝鮮戦争を経て財閥が復活する際、東京駅周辺の土地に象徴される資産を潤沢に持っていた三菱は、抜群の安定感を持つ企業として成長できました。戦後の再スタート時から、三菱は三井より有利であり、このエリアはその象徴だったんです」


三菱は、東京駅の西側に広がる丸の内エリアを拠点とする。元々は三菱財閥の2代目である岩崎彌之助が明治政府から買い取った広大な野原を、戦後に三菱が屈指のビジネス街に育て上げ、現在は三菱商事や三菱UFJ銀行、日本郵船など多くのグループ企業が本社を置く。今では丸の内エリアの3分の1を三菱が所有すると言われ、「三菱村」とも呼ばれる。
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 対する三井は、山手線を挟んで東京駅の北東に広がる日本橋エリアを「発祥の地」としており、そびえ立つ三井不動産の本社や三越本店、コレド日本橋などが重厚な存在感を漂わせる。
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 その三井が、ついに山手線の内側に本格進出したのが、「日比谷殴り込み」である。2018年3月、三菱の牙城である丸の内の目と鼻の先にある日比谷に、三井不動産が「東京ミッドタウン日比谷」を開業した。
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 もともと日比谷三井ビルディング(旧三井銀行本店)と三信ビルディング(旧三井信託ビル)の跡地を三井不動産が再開発したもので、三井グループが総力を結集したかたちとなった。
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 ミッドタウン日比谷は地上35階、192メートルの高さを誇りながら、曲線を活かしたデザインが優美で、都心最大級のシネコンや緑豊かな空中庭園を備える。縄張りに出現した瀟洒なビルに、三菱グループ関係者は鋭い眼差しを向ける。
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「ミッドタウンの開業によって、丸の内の人の流れが日比谷に向かうようになった。三菱としては、土足で家に入られたような苦々しい気分です。しかも三菱地所が建てた日比谷国際ビルヂングのテナントだった国際会計事務所のアーンスト・アンド・ヤングの日本法人をミッドタウン日比谷に引き抜かれて、忸怩たる思いです」
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 三菱地所も負けじと2018年11月、丸の内と日比谷の境目にあたる丸の内三丁目に「二重橋スクエア」をオープンし、グループの中核企業である三菱重工が入居した。あたかも三井の“本丸侵攻”を阻止するかのような立地である。さらに日本橋にほど近い常盤橋の再開発にも着手し、反攻に出ている。

12/24(火) 7:00配信
マネーポストウェブ
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