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 近年では、宗主国の権威の象徴として植民地支配に利用され、それに対抗する動きにも使われた。モザンビークの国旗には自動小銃カラシニコフが描かれている。独立闘争をたたえ、「あらゆる手段で国を守る」との決意の表れだという。

 集団の歴史が込められた旗は団結のパワーとなり、その掲揚が巨大な興奮を与えてきた。

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 一方で、見る人が代われば、それは激しい憎悪の対象にもなりうる。例えば2001年の米同時多発テロの直後、自由の象徴として米国各地にあふれた星条旗。その同じ旗が、米軍の攻撃で多くの市民が死傷したアフガニスタンなどでは暴力と理不尽さのシンボルとされた。

 特定の集団への憎しみが高まれば、旗は集団の代わりに辱められ、燃やされる。

 米国では1980年代、星条旗を焼いた男性が逮捕されたが、最高裁で無罪になった。判決は、この男性の行動も、憲法が定める「言論の自由」にあたるとした。


 「私は自由を大切に思う。旗を燃やす自由でさえ、その権利を誇りに思う」。いまは亡き米歌手のジョニー・キャッシュは、ヒット曲「みすぼらしい星条旗」を歌う際、そう観客に語りかけたそうだ。

 「日の丸」に対しても、複雑な感情を抱く人々がいる。

 戦後75年が過ぎても、そうした人々から見れば、日の丸を掲げる行為そのものが、侵略戦争の暗い記憶を呼び起こすものにほかならない。

 東京五輪で旭日(きょくじつ)旗を振るのを禁止すべきだ――。最近、韓国の人々からは、そんな声も伝えられる。旭日旗は旧日本陸海軍の旗であり、いまも海上自衛隊の自衛艦旗である。

 日本政府は「(旭日旗が)政治的主張だとか軍国主義の象徴だという指摘は全く当たらない」と反発している。

 そう簡単に言い切れるものだろうか。

 昨年のラグビーW杯の観客席でも一部で旭日旗が振られた。わざわざ国際競技の場に持ち込む人の目的は何だろう。快く思わない人たちがいることがわかっている旗を意図的に振る行為に、「政治的主張」はないといえるのだろうか。

 旗がまとう背景や、使う人の意図によって旗は色々な意味を映す。受け止める人次第で見え方が正反対になることもある。

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 ニューヨークの国連本部に行くと、ずらりと並んだ国旗の列に圧倒される。地球上には何と多くの国家があるのかということを旗の存在が教えてくれる。

 国だけではない。多様な枠組みでの組織や集団、もっと言えば、様々な主張や考え方も旗は代表している。

 例えばレインボーフラッグに込められた意味は、平和や愛、性的少数者の権利保護など。英諜報(ちょうほう)機関MI6は近年、この旗を本部に掲げた。あらゆる人材を歓迎するとのメッセージと受け止められたそうだ。

 五輪で旗を掲揚するのも、分断や対立をあおる目的ではないはずだ。東京五輪での行動計画には「共生社会の実現をめざす」とある。国別対抗が注目されがちな五輪だが、他者を認める機会としても意識したい。

 なぜ、旗を掲げるのか。五輪を前に一人ひとりが立ち止まり、自由に考えてみるのはどうだろう。歴史を学ぶ、他者を尊重する、平和の尊さを発信する。旗の数だけ、それぞれの思いがあっていい。

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14322936.html

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