【考古学】弥生時代「すずり」に最古の文字か 松江の田和山遺跡から 「文字使用の起源」数百年さかのぼるか 慎重な意見も
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https://mainichi.jp/articles/20200201/k00/00m/040/113000c
松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、
文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。
石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。
一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。
研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。
中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、
いずれも2〜3世紀だった。
九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に
北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。
久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。
同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。
岡村秀典・京都大教授の話
実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。
国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。
柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話
これまで見つかった3世紀ごろの文字はいずれも1文字で、記号かもしれない。しかし、2文字なら名前やえとなどの意味を持つ。
中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。
武末純一・福岡大教授(考古学)の話
私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。
判断は慎重であるべきだ。
■「文字使用の起源」数百年さかのぼるか
松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。
国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
出土遺物などから文字の本格的使用は3世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。
紀元57年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された
中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。
研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある。
※続きはソースで
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2020/02/01/20200201k0000m040150000p/7.jpg 大化の改新あたりで語られている以上の
何か大きな変化があったのは間違いないんだわ
この頃に日本語出来てないわけないのに
おそらくは焚書で何も文書が残ってない >>98
何を言ってるんだ君は日本書紀は漢文だぞ全て漢字大丈夫か >>1
硯があったんなら文字があるのは当然じゃないの? やっぱ出雲が投馬国か
日本海ルートで丹後から邪馬台国まで陸行一月で辻褄があってしまうな…
やはり畿内説が有利だな ここの田和山遺跡は、ここが遺跡だと分かる前からずっと、
地元の人間の間では、立ち入ってはならないと言う「禁足地」だった。
ちなみに、同じ島根の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡なども、立ち入ってはならないと言う「禁足地」だった。
そして遺跡だと分かった後に、ここをつぶして病院にしようとした市の有力者が、
次々と病死した。
そしてこの遺跡は、弥生時代の高地性集落とも異なる、異様な構造をしている。
たぶん、物凄く強力な呪力をもったシャーマンの住居だったのだろう。
霊感のある人がここに来たら、たぶん一発で、霊的にやられてしまうと思う。 秋葉原昭和口のマクドナルドが閉店、お隣のバーガーキングからもお別れコメントが→感動と思いきや、ド畜生すぎる隠しメッセージ
http://callar5.sfxslibrary.org/8k38dm98/4k0u1iq48zkw30.html 大夫だった。
チャイナの身分を知っていたんだからな。
基本的に、吉野ケ里の銅鐸が出雲にあった事を考えても、
奴国とのつながりは当然だろう。 >>1
硯があった時点でおそらく文字は伝わっていただろうが、これは単なるシミ 田島ミナミ坂にある
青森卑しいババアの孫ミチコウィルステロだった 文明の伝播が有るということは力を持つ者によって広範囲で秩序が保たれた可能性が高い
また王莽銭や五銖銭が日本国内で数多く発見されているので大陸との交易もしていたのだろう 本当に日本人が書いた文字としてはっきり残っているのは
ずっと後だけど、さきたま(埼玉の古称)の稲荷山古墳鉄剣かな?
はっきり年月(辛亥年七月、西暦だと471年)まで判明している物凄いやつ。 そもそも弥生人が呉越の人間なら漢字を使って当たり前なんだよな 弥生時代と縄文時代って何が違うのか
分ける意味があるのか
大人になってからわからくなった >>104
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味であり、両方を行うわけではない
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
出雲から水行10日じゃ畿内には辿り着かない
畿内説終了 >>115
縄文時代はしめ縄を結縄として文字としていた
弥生時代はヘブライ語を文字にしていた 升:新の嘉量の測定により、当時の 1 升は約 200 cm3 であったと推定されている。
隋・唐になると旧来とほぼ同じ 200 cm3 程度の小升と、その3倍の大升が定義された。
唐以降は小量升は使われなくなった。
唐以降も1升あたりの体積は増大し、明・清には1Lあまりになっていた。
1929年に制定された市制では、1升は正確に1Lに等しいと定義され、この値が現在も使われている。 >>117
それって単に地域せいかもしれんし
そもそも土器の形なんて時代と定義するほど重要なことと思えんのよ 文字が見つかっただけで邪馬台国が九州説確定ってアホかと 日本人なんて中国の四川省人そっくりなんだから、中国から来たのが確定だろ >>123
邪馬台国は阿蘇山がある島って書いてあるだろ
漢文も読めないのか? 単に紀元前後の土器はこういうデザインが流行り
3世紀あたりにはこういう土器へとデザインが移行したでいいんでなかろうか
時代とか大げさすぎる 確かにな香港クローズアップされてて観るが顔日本人だもんな >>124
正確には、日本の原住民は琉球人と同じだったが、その後
大規模な呉越周辺の古代中国人技術者の受け入れがあった
だな >>128
顔だちで言えば日本人に最も近いのはキルギス人だけどな ぶっちゃけ弥生渡来人は江南から来たで正解なんだけどチョンがうるさいんだよ
高麗チョンは12世紀頃からなのに >>131
まったくだ。そもそもあいつらモンゴル人の子孫のくせに。 形としてはローマに似てるんだよな
ギリシャ人技術者を大量に受け入れたからローマが発展した 弥生時代の知識層は漢文でやりとりしてたのだろうか? >>79
陳勝の乱なんかめちゃくちゃ内陸じゃん
そこから朝鮮半島に行くとは思えないわ。 倭人は長江周辺からきたと自ら名乗っているのは無視なんですね
邪馬台国とか言ってる連中はぶっちゃけ
漢文も読めない中学生ばかりだな >>4
だが近畿に住む人間の方が立体的な顔をしているという複数の研究結果が… 土器の形の違いを時代変化の重要な転換点として教えてる国って
日本以外にあるんかな 対馬に伝わる阿比留文字-
やはり九州人は朝鮮人だったか! 絵も記号もあるから起源を言い出すとどこまでも遡れる >>140
ベトナムのミーソン遺跡は土器展示してた
ミャンマーのバカンも同じく
ケニアのモンバサにもあった
どこの世界も同じだよ どこまで行っても何も無いからって古代人移動しすぎなんだよ
あいつら趣味が移動だからな >>145
いや展示じゃなくてそれが時代変換の潮目として
教えている国と言ってるわけで 82うまれ で 美智子 って なまえ 。。。。。。。。。。。。。。古くさいの ? >>138
立体的なのは韓国起源の証拠だろ?
土着ジャップの血の濃いやつが平面 まあ中国と交易してて相手が文字を使ってれば自分も使いたくなるわな。
記録が残せたり通信文を読み書きできれば商売の役に立つわけで、強い動機になる。 >>125
魏志倭人伝の頃(3世紀)にはすでに大和に政権の中心が移ってるよ
それまで中心だった伊都国は一大卒(後に内陸側に移動して大宰府になる)っていう
役所が置かれてたけど、既に権力の中心ではない 人間は液体なんだよ
地球にぶちまけた液体
水たまりに名前つけてもわかったことにはならない 硯があったなら既に字を書いてるんだからそうなるわな。
ただ竹簡は当時どうなんだ。 >>153
そういう妄想はもう十分です
畿内には中国の歴史書にすら現れない未開人しかいませんでした >>136
それは大きな誤りだよ。
陳勝の乱の原因は、農民の反乱に端を発する。
陳勝だけを見れば、内陸のように見えるが、農民の反乱そのものは現在の河北一帯で発生していた。 それ以前に、越の遺民とかが日本へ避難してきてるんだし
その後にも、呉や越、諸々中国南部から何度も渡ってきてるんだし
そういうご先祖様たちの上層は、普通に文字を使ってただろうが
銅鐸文化は、越文化と共通だしね 世界のインテリジェンスの常識では現生人類における世界最古の文明は日本の縄文文明
敗戦国が功を奏して公式の歴史からは隠されてるけどね
お陰で天皇も影の支配者として地位を確立出来た訳だ こりゃ「弥生時代」なんて故障を放棄して
「松江時代」もしくは「松江文明」で古代史再構築したほうがいいんじゃねえか?? 文字なのか傷なのかわからねえのが数点だけで
間違いいなく世界水準と比して後れを取らない文化を保有していたにもかかわらず
8世紀になるまでオフィシャル文書が存在してない不思議な国と
堂々と教えればいいのにね
嫌みでなくそれが教育だと思う、そこから子供たちはなぜなんだろうと考える力をめぐらす >>162
たまにこういう本物が湧くからプラスはやめられない >>154
伊都国は現在の福岡県糸島市だよ
大和(邪馬台国)が権力を握るまでは倭国の中心だった・・・
1世紀後半の倭国大乱(記録に残る国内最古の内戦)で権力が移行したと考えられており、
瀬戸内海沿岸からは当時、戦闘が発生していた事を示す遺跡や
九州北部からは戦後に粛清をしたのか大量虐○を示す大量の人骨が発見されている >>164
「天皇家以前の歴史」を伝えることは、反社会的とされることが多かった
らしい >>165
文系のアホが歴史書だけで歴史を議論してると笑いがこみ上げてくる 船で運んだら1つずつ物々交換なんて出来ないんだから文字記号は要るんだよ >>158
陳勝が破れたからって河北の民が半島に行く理由が分からない
しかも半島に行くには北東に行ってから南進だぞ
陳勝の乱は失敗したが項羽劉邦で秦潰したんだし逃げる必要ないし >>164
金石文は幾つか発見されているけどね
>>113の稲荷山古墳鉄剣銘文とかね 7世紀まで文字が数点みつかっているだけなのに
8世紀いきなり高尚な文書が現れる
こんな国はほかにはない
なぜなんでしょう、と考えさせるのが教育と思う
もっといえば8世紀まで文書がないのに
なぜ聖徳太子やそれ以前のことを私は事細かに教えることが出来ているのでしょうと考えさせるべき 焚書やろ記紀以前の書物全て燃やしたんだよ天皇家に都合悪いから ネトウヨと韓国人は認めないけど、当時北九州から朝鮮半島南部にかけて同じ文化圏を形成してたのは事実としてある とんがり帽子をかぶった埴輪も見つかっているからな
結構おしゃれだったんだろう 文字を知らずに洛陽までたどり着けるとか有り得ない。
須玖岡本遺跡とか、必ず文字の記録があるはずだ。 >>185
俺はネトウヨだけど九州と朝鮮半島南部は一緒倭人だ
知識があればそんなの知ってるから三韓征伐で出てくるし >>179
倭の五王の上表文
倭王武(雄略天皇)は、宋の昇明2(478年)年5月、宋の皇帝順帝に上表文を奉っている。
「封国は偏遠(へんえん)にして藩(はん)を外に作(な)す。昔から祖彌(そでい)
躬(みずか)ら甲冑を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、
寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。
東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。
渡りて海北を平らぐること、九十五国。
王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。
累葉朝宗(るいようちょうそう)して歳(としごと)に愆(あやま)らず。」
(『宋書』倭国伝)
倭王武は、祖先の功業の成果として、東国の毛人の国々のみならず、
対馬海峡を渡って南朝鮮の国々まで、大和朝廷の威力が行き渡っていることを
誇らしげにうたいあげている。この第1段とも謂うべきところが特に有名である。
この上表文には、『春秋左氏伝』『毛詩』『荘子』『周礼』『尚書』等から
引かれているものが見受けられるという。
例えば、「躬ら甲冑を環き、山川を跋渉す」などは『春秋左氏伝』にも見られる字句である。
この上表文を書いた雄略朝官人の漢文の教養の深さが窺われる。
「倭の五王」のうちの倭王武は、雄略天皇に比定されている。 >>179
稲荷山古墳出土鉄剣銘文(471年)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、名はタカリのスクネ。
其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカハシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」 少なくとも古墳時代の鉄剣にはワカタケルの名前と年号が書いてあるんだからかなり早い時期から漢字は使ってたんだろう 弥生人は、中国南部から何度にも時期をまたいで黒潮に乗って渡ってきた人達と
在来縄文人とが、少しづつ交流しつつ作られていった俺たちのご先祖
オオクニヌシ系 が越系遺民の銅鐸文化でつながる集団
アマテラス系 は、その後に渡って来た呉や楚の民の中から生まれた集団 紀元前から大陸が乱世になるたびに歯医者が日本列島にきてるんだろ
すずりくらいあらーな 後漢の時代には漢字入りの銅鏡とか入ってきてるんだからそりゃ読めるやつはいただろうし使ってもいただろうと 神道は多文化融合の象徴で神仏習合は更に進んだ進化形
日本列島で仲良くしていく努力の賜物やね 日本人の地域差について
核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。
もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。
本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。
日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。
今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。
◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。
◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。
◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。 >>1
>石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。
「すずり」があるということは文字を書いていたってことと同義だろう。
すずりの表面から墨の残留物を得られれば、炭素年代法で正確な使用年代を得られるんじゃないかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています