「ワーキングプア」「子どもの貧困」……。格差や貧困が社会に広がっている。
今回の新型コロナウイルス感染拡大による広範な自粛と経済活動の落ち込みで、貧富の差が一段と広がるのは間違いない。

いまからちょうど90年前の東京は現在以上に貧しい人が多かったが、違うのは「貧民窟」あるいはスラムと呼ばれる地域がいくつも存在したことだ。

その一つ、板橋区の「岩の坂」で発覚した事件は世間の度肝を抜いた。
もらった子どもを殺す犯罪が地域ぐるみで行われ、当時の報道では被害者は40人以上ともいわれた。
しかし、そのほとんどはうやむやになり、地域の存在もいつか忘れられた。そこにはメディアの責任を筆頭に、さまざまな理由があった。

今回一つお断りしておかなければならないのは、文中にいわゆる「差別語」や「使用禁止語」が登場する。
聞き慣れない職業名もある。言い換えはできるが、それでは当時の社会の雰囲気や報道の問題点が分かりづらくなる
そのため、あえて当時の用語をそのまま使おうと考えた。ご了解いただきたい。

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「聞くも身の毛よだつ 府下板橋の殺人鬼村 」
「貧民窟」という言葉を聞かなくなって久しい。「貧民(貧しい人々)の多く集まり住む所。
大都会の恥部」と「新明解国語辞典」にはある。幕末、幕府軍と官軍との戦争を避けて江戸を逃げ出した町民が明治維新で首都となった東京に逆流。
住み着いて集まった街などが貧民窟になったといわれる。
その中でも「4大スラム」と呼ばれたのが(1)四谷鮫ケ橋(2)芝新網町(3)下谷万年町(4)新宿南町(ただ「日本残酷物語5近代の暗黒」中の「東京の奈落」では新宿南町の代わりに「神田橋本町」が入っている)――。
塩見鮮一郎「貧民の帝都」に基づけば、(1)は現在のJR信濃町駅の東側に広がる一帯。
(2)は現JR浜松町駅から南西の一角。(3)は現JR上野駅の東側。
(4)は現JR新宿駅南口から甲州街道を隔てた地区。「
神田橋本町」は現在のJR馬喰町駅の北西の一角とされる。

しかし、それらは1923年の関東大震災でほぼ消滅。
「その代わり、三河島、日暮里、南千住、西新井、吾嬬、板橋などに貧しい者が集まった」(「東京の奈落」)。

その板橋の岩の坂と呼ばれた貧民窟で事件が起きたのは1930年4月。
「聞くも身の毛よだつ 府下板橋の殺人鬼村 こじきや人夫等共謀して もらひ子殺し常習」
「一年間に三十名の変死 全村民の検挙を断行」。こんなおどろおどろしい見出しで報じたのは4月14日付東京朝日朝刊。

もらい子周旋人が世話した11人のうち生きている者はわずか2人
「13日午後6時ごろ、市外板橋町下板橋にある細民村、俗称岩ノ坂2番地、人夫小倉幸次郎の内縁の妻、念仏行者の尼小川きく(34)が、
もらい子である菊次郎(生後1カ月)を乳房で誤って窒息死させたとて、付近の永井医院に手当を受けにきたが、死因に疑いがあるので、
医師は板橋署に届け出たので、原田署長、岡村司法主任及び東京地方裁判所から柴田予審判事、戸沢検事らが出張して検視のすえ、同夫婦を引致、
取り調べの結果、同細民村の恐るべきもらい子殺しの事件が判明するに至った」。これが記事のリード(前書き)だ。

「きくはさる3月12日にも同じくもらい子勇蔵(1歳)を風呂場で取り落としたとて殺害したほか、一昨年以来、女1人、男4人のもらい子を同様過失致死の形で殺していることが分かった」。
記事は以下、多摩川村の無職男性の妻村井こう(32)が板橋町の産院で菊次郎を出産したが、同じく妊娠して入院していた煉瓦商の内妻出谷こよの(37)が
「大家に世話するから」と言い、夫も失職していることから渡りに船と、養育費など18円にたくさんの着物を付けて子どもをやった。
ところが、こよのは細民村のもらい子周旋人の「よいとまけ人夫」福田はつ(40)に子どもを渡し、はつからきくに10円をつけて渡し、残りの金で女ばかり数人集まって酒を飲んで騒いでしまった、という。

「はつは付近でも有名なもらい子周旋人で、大正15年以来11人の子どもを世話しているが、そのうち現在生きている者はわずか2人で、
それも乞食の手引きをしているが、あとはいずれも無残な手にかかったらしいことが分かった」。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200419-00037270-bunshun-soci
4/19(日) 17:00配信

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岩の坂(板橋本町

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