6月2日は「本能寺の変」 明智光秀の進軍ルートをたどる 記者3人で夜通し25キロ [蚤の市★]
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戦国武将・明智光秀が1582年(天正10)年6月2日、主君の織田信長を討った「本能寺の変」。教科書にも載る歴史上の出来事だが、光秀が前夜に京都市に隣接する京都府亀岡市の亀山城から出陣したことは意外に知られていない。謀反を起こす前の光秀はどんな思いを抱いていたのだろうか。今年の大河ドラマの主役になり例年になく脚光を浴びるなか、438年前に光秀の軍勢が夜通し京の本能寺へ向かったルートを記者3人がたどってみた。
■亀山城跡の隣接地から出発
《亀岡は明治維新まで「亀山」と呼ばれていた。明智光秀は1577(天正5)年、丹波攻略の拠点として亀山城を築城した》
午後10時 JR亀岡駅正面、南郷公園(亀岡市古世町)に、昨年5月にお目見えした「明智光秀公像」。亀山城の跡に隣接したこの場所を出発点とした。満月がこうこうと夜道を照らす。気分が高揚し、馬のいななきや軍勢のたけだけしい声が聞こえた気がした。
<1582年(天正10年)5月26日、信長から西国出陣を命じられた光秀は丹波の亀山城に入り、翌日に戦勝祈願のため愛宕山頂にある愛宕神社(京都市右京区)に向かった。その後、6月1日午後10時ごろ、約1万3千の軍勢を率いて亀山をたったとされる>
光秀は愛宕神社で戦勝祈願のために何度もおみくじを引いたという。亀山城を出発する時には決意が固まっていたのだろうか。
■静まり返った旧山陰街道を東へ
午後10時半 国道9号ではなく、静まりかえった旧山陰街道を東へ進む。昔ながらの立派な虫籠[むしこ]窓の家が散見され、城下町の面影を感じる。光秀たちはたいまつに明かりをともして進んだのだろう。
午後11時 光秀の軍勢が集結したとされる篠村八幡宮(亀岡市篠町)に到着。思いの外、境内が広い。大勢で士気を高めるにはうってつけの場所だと感じた。室町幕府の初代将軍足利尊氏が鎌倉幕府を倒幕する際に挙兵した場所ともされ、光秀はそれにあやかったのか。
午後11時半 街道沿いの王子神社(同町)で、高さ約28メートル、幹回りが約5メートルもある巨大なツブラジイに圧倒された。そこから府道を離れ、旧街道の細い農道に入る。前方に山容のシルエットが立ちはだかる。勾配がきつくなっていき、うっそうとした竹やぶを通り抜けた。振り返れば、市街地の明かりがはるか遠くに望めた。もう後戻りはできない。車が行き交う国道9号に合流し、車道脇を進む。暗がりから「ピィーッ」とシカらしき鳴き声が響いた。
■京へ向け一気に坂道を下る
午前0時 峠道を登り切り、老ノ坂トンネル前に到着。出発から2時間。ここで休憩する。日付が変わり、いよいよ京に向けて一気に坂道を下ることになる。明け方までに本能寺跡に着かなくてはならない。
午前0時半 老ノ坂トンネル(全長225メートル)を抜けると、間もなく「京都市」の案内標識が見えた。旧国名の「丹波」から「山城」へ。山間部の暗闇の中、国道9号を1列になって一気に下る。路側帯は細くて危険なため、大型トラックに蛍光反射たすきや懐中電灯でアピールした。
午前1時 老ノ坂を下り、再び分岐している山陰街道を進む。この辺りにも、亀岡市内で散見されたような、虫籠[むしこ]窓が特徴的な町家が多い。昔の人々も丹波との往来にこうして街道を歩いたのだろう。国道9号樫原秤谷交差点をわたると、洛中の明かりが見えてきた。
(以下はソース参照)
■「明智川」の駒札発見
■「敵は本能寺にあり」号令
■「本能寺跡」に到着、攻め入る体力はもう残っていない
京都新聞 2020/6/1 10:30 (JST)6/1 13:01 (JST)updated
https://this.kiji.is/639999859437470817?c=395467418394624012020/6/1 10:30 (JST)6/1 13:01 (JST)updated やっぱり黒幕って足利義昭なんかね
明智が決起した後室町幕府の再興を目論んでいたと言う文書が発見されたらしいし 「本能寺跡」に到着、攻め入る体力はもう残っていない
⬆草 そんなこたあいいから帰り道の落ち武者狩りでブザマに百姓にブチ殺されるルートを辿れよ そのとき京都・本能寺に宿泊していた信長がそう言った。
見るとなんだか傾いているようないないような。
調査を命じられた明智光秀は、その原因がシロアリ被害によることをつきとめた。
「敵は本能寺のアリ」
光秀はそう言うとさっそく駆除に取りかかった。
当時、シロアリ駆除の薬なんて便利なものはないもんだから、
被害にあった柱を片っ端から松明であぶって
シロアリを追い出すという地道な作業を行った。
ところがそのうち柱に火がついて燃えだしてしまった。
「やべっ、信長様ぁ〜!」
本能寺は信長ごと燃えてしまった。
事情を知らない豊臣秀吉が信長様の仇と明智光秀を討ち、
天下を取るきっかけとなったのは言うまでもない。 信長「アーチーチーwwアーチーww燃えてるんだwww廊下www」 >>2
いや、全然連絡を取ってなくて、
本能寺の変以降に情勢が悪化してから、連絡取ろうかな〜〜と思ったレベル。 信長の遺体は余所の坊主が持って行って供養した
って説にはびっくりした 昔、京都の桃山城の1階に本能寺の変の
場面のセットがあった
ひらかたパークの菊人形展でもあったかも 昔のひとは超人やな
徹夜で25キロ歩かされてから戦えるんやから わたくしは餌探しの途中たまたま明智軍を見てしまい口封じのために斬られた猪の子孫です >>18
25kmなんて普通に歩けば4時間程度だけど
まあ鎧着て槍持ってはちょっとキツいな 俺は関ケ原前夜の大垣城から南宮山左回りで三成陣地まで歩いたけどしんどかった
直ぐに戦なんて無理レベル >>7
そんなマヌケな部下は処分されて当然だなw
秀吉はよくやった! >>27
アップダウンのある登山道みたいな昔の道を25キロ
4時間で歩くのは絶対に無理やん
それだけで死ねる 源氏物語とか読んでたのかなー?
平将門?も兵を帰して手薄のとこやられたし
書物や文献読んでて思いついたんやろ >>15
信長の愛した“あつ森”ですね
分かります >>30
自衛隊がまたまたタイムスリップするか、
転生したら明智光秀だったんだろうなあ 京都で本能寺を見て「ううぉおおおお、これが本能寺か!!」と感激した
東京に戻って会社の同僚に自慢げに話したら、「それ、信長が殺された本能寺とちゃうで」と言われた
好きだった実家京都の女の子も大爆笑
本能寺なんか大嫌いだ!京都人なんて大大大嫌いだ!! >>22
当時の軍隊は農民との兼業兵が大半だと思うんだけど、
そういう兵があの距離を一気に走れるもんかね。
仮に体力はあっても、そこまでする義理がないというか、
途中で逃げ出して、軍が崩壊しないのかとは思うんだけど。 >>33
宮廷恋愛ロマンで謀反を決心する光秀であったw 敗走ルートもやるなら落ち武者狩りの土民のコスプレして待ってるわ >>2
黒幕はいろんな説があるが、
信長と光秀死んで一番得したのは
間違いなく豊臣秀吉
秀吉が、信長への恩で光秀に復讐するようなタマじゃないってのは、
秀吉が九戸政実をどうだまして殺したかを調べればわかる
秀吉「命は助けてやるから降伏しろ」
九戸「OK]
秀吉「ばーかお前ら全員ぶち殺す」
九戸「」 古戦場や城跡巡りしてみると分かるけど
昔の武将や足軽は体力あったなと痛感させられる
山崎の合戦の天王山に登ったけど
20代の頃でも辛かった記憶 この頃の人の25kmなんて 現代人で言えば東京駅の京葉線ホームまでと同じくらい >>37
秀吉の大返しは、脱落したものは後から来いですましてる。
主要メンバーに四国遠征勢や、畿内勢力の兵を加えて、
秀吉軍になっている 7時間もかけて歩兵の速度で行軍してよく奇襲に成功したな
途中で一度でも発見されたら早馬で知らされてしまっただろう >>44
本能寺の隣には当時、バテレンがいた南蛮寺があって、
信長はどうもキリスト教からイスラム教へ回収して中国大陸へ
攻め入ろうと計画していたって説がある
これはバテレン達のアジア侵略計画をぶち壊す最悪のシナリオなので、
バテレンは信長を抹殺する必要があった
信長は爆薬で爆殺されたって説もあるが、
そりゃ隣が南蛮寺なんだから、爆弾なんてすぐ仕掛けられるわな 計画的謀反なら根回しとかもっと計画してやってるだろ
黒幕存在説は説得力が無い ★本能寺に「裏切りマン参上」のメール
・6月1日午前9時すぎ、京都所司代から「『京都四条の本能寺に
裏切りマン参上』と書かれたメールが届いた」と織田家に通報があった。
馬廻衆が周辺を警戒するとともに脅迫容疑などで調べている。
本能寺ではこの日茶会で、信長公は接待していた公卿・茶人約80人に
ついては正午ごろまでに帰宅させるなどの対応をした。
調べなどでは、メールは1日、本能寺に届き「明日惨事に
本能寺に参上します」などと書かれていた。送信者を特定できるような
記述はなかったという。 (安土通信) 昔のガテン系の体力は今のアスリートでも舌を巻くレベルっていうからな
記者の体力で検証になるのか >>53
普通に信長と合流して羽柴軍の援軍に向かうんだろ
と思われたんじゃないかね
まさか光秀ほどの重臣が謀反起こすなんて完全に意識の外でしょう 南の方へ尾根縦走して桂川から行くルートと二手に分かれたんじゃなかった? >>50
松尾芭蕉もあまりの健脚ぶりに忍者だったと言われているんだっけ >>53
全部真実をごまかすための創作
信長が言うこと聞かなくなったというか、邪魔になった勢力が、
信長潰しに動いただけ
信長のデスマスクまで取った黒人のヤスケとか、
完全にバテレン側のスパイやで
バテレンという日本に鉄砲と火薬持ち込んだ勢力のことを
抜きにして戦国時代語っても無意味 >>46
秀吉は上司として仰ぐ関係性以外めちゃ怖い印象しかないわ
部下には優しい 写真のない昔の話なんか8割は創作だと思っている
そもそも将軍とかいたのかも疑問 >>62
長宗我部はあのままだと信長に滅ぼされたからね >>9
アーチーチーwwアーチーww
感じたんだwww放火www 軍勢は最後の山越えして、大枝沓掛の辺りから一気に山陰道を下ったわけやな >>32
長野民だけど、峠越えでも平地でも実はあんま変わらんよ。
俺実績では小さな峠3個越えて25kmで4時間くらい。もちろん軽装で >>52
へー、そうなんだ
ありがとう。無知ですまんかった 戦国時代は徳川政権が都合よく書き換えてたり地域お越しで強引に逸話作ったりドラマや小説で脚色しまくりだから何が真実かわからん 当時としてはキツイ道の方ではない、なだらかだし、山城国はあまり有力な国人領主の城塞が林立せず
平安京の跡としての都はなだらかで平らだ、ノンストップで侵入できるし、町屋が林立して防衛に向かない
足利高氏も六波羅探題を急襲したが、不意に謀反されやすい脆い環境にあるのが当時の都付近
足利義輝もそうだけど、足利義教とかとにかく謀反して弑逆しやすいのよ 峠から右に下れば摂津、左にいけば洛中に入る。怪しんで通報するやつが出たらまずいので、右府様が閲兵をやると しかも武具や糧食持っての移動だからなぁ
マラソンとは全然違う >>84
そういう意味では昔の人って凄いよね
草履で移動して合戦場も運動場でも何でもないから
草が足の裏をついて血みどろになって戦ってた記録とかあるし
そんで勝って追撃、負けても逃げなきゃならんとか
しかもご指摘のごとく甲冑とか付けて
棄てても良いけど、次に動員された時に命が軽くなるし どうして〜?どうして〜? どうして織田は斬られたん?
変じゃない〜?変じゃない〜? 亀岡、樫原とか桂って平安から戦国までの結構歴史物あるのに
嵐山が強すぎるせいで全然注目されないよな >>53
光秀はそもそも親衛隊長的なポジションにいたから京に軍勢入れても不審には思われないし、まして西に進んで毛利攻めに加わるように出陣命令出てるわけだからなおさら こいつはキリシタンの手先として、日本を別の国に献上しようとしたやつでしょ。
だから、信長が死んでから秀吉、家康と強烈なほどに
キリシタン弾圧をおこなった。
これが真相 本能寺の変はよく成功したよな。
密告者、裏切り者がいてもおかしくないような気がするが。 中国大返しとか、マジでできたん?
あれだけの軍勢引き連れて無理やろ >>87
多分創作じゃね?
桶狭間前にも踊ったから、本能寺でも躍らせちゃえみたいな。
ちょうど49歳くらいだったしw >>1
それを言ったら秀吉大返しの方が厳しいのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています