東京と横浜を結ぶ有料道路「第三京浜道路」(玉川IC〜保土ヶ谷IC、16.4km)は、首都圏から放射状に延びるほかの高速道路や首都高各線と比べて、片側3車線と道幅が広く、それでいて料金は、ほかの高速道路より安く設定されています。

 2020年3月には、途中の港北ICに接続して東名高速までをつなぐ首都高K7横浜北西線(横浜港北JCT〜横浜青葉JCT)も開通し、第三京浜の活用の幅も広がりました。新型コロナウイルス流行下で高速道路全般の交通量が減少していることもあり、横浜北西線の開通による影響を一概に言うことはできませんが、道路情報などを確認する限り、第三京浜の本線上に大きな混雑も起きていないようです。

 その大きな理由のひとつは、東京側の起点である玉川ICが、首都高につながっておらず、横浜側で接続する横浜新道も横浜市内で完結しているため、東京と神奈川以西を行き来する物流の幹線としての役割を担っていないことも挙げられるでしょう。にもかかわらず道幅は広く、料金は安く、走りやすい――3拍子揃った第三京浜は、なぜ誕生したのでしょうか。

 第三京浜が全線開通したのは、1965(昭和40)年12月のことです(玉川IC〜京浜川崎IC間のみ前年に先行開通)。この5か月前に名神高速が全線開通していますが、東名高速はまだできておらず、首都高も東京都心部と羽田線などの一部区間があるのみ、といった頃でした。

 日本道路公団の『第三京浜道路工事報告』(以下『工事報告』)によると、第三京浜は名神に次ぐ「日本で2番目の本格的高速道路」であり、かつ「6車線の高速道路としては日本で最初のもの」だとしています。

 第三京浜はその名の通り、第一京浜(現在の国道15号)、第二京浜(同1号)に次ぐ、京浜間の交通量増加に対応するための「第三の京浜道路」として建設されましたが、それにあたって、名神の規格を取り入れ、さらに当時計画されていた東名への指針を得るよう各種のテストが実施されたと、『工事報告』には記されています。

 なお、起点の玉川ICは、将来的に延びてくる予定だった首都高「五反田線(2号目黒線のこと)」あるいは3号渋谷線への接続を考慮して、差しあたって都道放射3号線(目黒通り)と同4号線(玉川通り)のあいだに設定されたものでした(日本道路公団東京調査事務所『第三京浜道路調査報告書』)。

 前出の『工事報告』は、着工までの経緯を記した年表で、第三京浜の調査が行われていた1960(昭和35)年8月のできごととして、次のように記しています。


「建設省より東名高速道路は第三京浜道路を延長せず厚木経由の山手案でゆくつもりである旨の言明あり」

『工事報告』では、これに先立つ1958(昭和33)年には小田原まで航空写真を撮影し、一部の図面を書き起こしたとあり、かつ『第三京浜道路調査報告書』には、東海道の京都方面までの交通量調査資料も付属しています。国道研究家の松波成行さんは、「第三京浜は当初、東名高速の一部として考えられていました」としています(「NIKKEI STYLE」2013年2月1日)。

 その後、放射3号線(玉川通り)沿いに延びてきた首都高3号渋谷線が東名と接続し、2号目黒線は戸越から延びずじまい。暫定的な位置付けだった玉川ICはそのままで、第三京浜は、京浜間のバイパス道路として現在に至ります。

 なお、国土交通省が毎年取りまとめている全国の「渋滞ワーストランキング」2019年度版では、上り線の京浜川崎IC〜玉川IC間のみ、平日の午前時間帯の混雑度ランキングにその名が見られます。しかし全体で見れば、東京に接続する放射道路のなかでは、混雑度はかなり低いといえるでしょう。

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6/26(金) 18:12配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a4409172238be64ce0b19a0ae705dec26a55477
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