【歴史】指揮官自決、戦病死扱い ノモンハン敗戦・関東軍熊本編成部隊 遺族「隠蔽 責任を転嫁」 [しじみ★]
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1939年、旧日本軍が旧ソ連・モンゴル軍と戦って敗れた国境紛争「ノモンハン事件」で、戦地を無断撤退した責任を問われ自決に追い込まれた旧陸軍の指揮官が、「戦病死」として処理されていたことが、遺族が開示請求した公文書で分かった。軍上層部が虚偽の報告をしたとみられ、遺族は「敗戦の責任を押しつけた上に事実を隠蔽[いんぺい]した」と疑念を深めている。
指揮官は兵庫県出身の井置栄一騎兵中佐(享年45)。熊本で編成された第23師団の捜索隊長として、激戦地の一つ「フイ高地」の現地部隊を指揮した。旧防衛庁が編さんした公刊戦史「戦史叢[そう]書 関東軍1」(69年)は、敵軍の猛攻により壊滅的な状況に陥る中で「独断守地を撤した」責任を取り、「自決の道を選んだ」と記述。自決は日ソが停戦協定を結んだ39年9月15日の2日後とされる。中佐は上層部から自決を勧告されたともいわれる。
遺族には翌月、陸軍から中佐の死を知らせる電報が届いたが、死因は書かれていなかった。孫に当たる高木佐織さん(53)=横浜市=が昨年秋、国立公文書館に恩給関連の資料開示を求めたところ、戦病死となっていた。
開示資料によると、中佐の死因欄には「戦地において流行病にかかる」との記載があり、「脚気[かっけ]のため死亡」と診断した軍医部長の証書が添付されていた。高木さんが兵庫県から取り寄せた中佐の軍歴証明書には、「脳溢血[いっけつ]のため死亡」と記されていた。
井置中佐の自決を巡っては、自決勧告の中心人物とされる小松原道太郎・第23師団長が「戦病死(進級せしめず)として関東軍経由陸軍大臣に報告す」と日記に書き残していたことがこれまでの研究で明らかになっており、日記の内容が裏付けられた。
ノモンハン事件に詳しい防衛省戦史研究センター所員の齋藤達志さん(56)は「小松原師団長は敗因が井置中佐の無断撤退にあると思い込み、自決に追い込んだ。自らの責任を回避しつつ、井置家の名誉も保とうとした結果が『戦病死』だったのだろう」と推察する。記録によって病名が異なる理由は分からないという。
■「戦争の実際 伝える必要」ノモンハン指揮官、強要℃ゥ決前に手紙 にじむ悔しさ
「祖父に責任を押し付け、死因まで偽って終わりというのは、やはり納得がいかない」。ノモンハン事件で自決した旧陸軍の井置栄一中佐。孫の高木佐織さん(53)=横浜市=は、事件から80年以上もの間、真相を追求してきた父や祖母の思いを代弁する。
生存兵の証言などによると、第23師団所属の井置部隊は旧ソ連軍に包囲されて食糧や水、弾薬が尽き、師団との通信も途絶えて孤立無援状態に。中佐は苦悩の末、「無為に全滅するより再起を」と戦線離脱に踏み切ったが、これが「無断撤退」の罪に問われた。
井置家と交流があり、事件の調査を続ける宇城市の元高校教諭上村真理子さん(67)の手元には、中佐が自決する直前に妻に送った手紙がある。
<軍人として少しも卑怯[ひきょう]なことはしていないからご安心を乞う。(中略)今となっては長生きして、戦争の実際を世間に伝える必要がある。然[しか]らざれば失った多くの部下が成仏できないだろう>
妻子を安心させようと気丈に振る舞いつつ、激しい戦闘の一端と悔しさがにじむ文面。生きて帰ると信じた家族にすれば、戦いが終わったのに突然「死亡した」と知らされても不可解だったろう。
「上層部には敗北の責任を誰かに負わせる必要があった。自ら自決したのではないと妻も思ったはずだ」と上村さん。井置中佐と共に戦った元連隊長が戦後、23師団長ら2人を名指しし「責任転嫁の意図でご主人らに自決を強いた」と告発した妻宛ての手紙も上村さんの手元にある。
高木さんの父で中佐の次男井置正道さん(89)=神戸市=は、「戦病死」の処理に「やはり軍は自決の強要を隠すつもりだったのか」と憤っているという。
ノモンハン事件は、最高統帥機関・大本営の戦線不拡大方針を関東軍の参謀らが無視して大規模な武力衝突に発展。甘い見通しで立てた作戦で日本兵1万8千〜2万人の死傷者を出したが、責任を取らされたのは井置中佐ら前線の指揮官たちだった。
続きはソースで
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200814-00000013-kumanichi-002-2-view.jpg
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200814-00000013-kumanichi-000-2-view.jpg
https://this.kiji.is/666831468636161121 無敵皇軍の百発百中の猛射を受けた露助どもは恐怖に怯えて死体の山を残し、泣き叫びながら逃走。
遁走した奴らは全員得戦隊に射殺されて全滅した。
世界で唯一の神の軍である皇軍兵士は一歩たりとも引くことは無く、従容として靖国に赴いた。 >>273
息子はアカのスパイ、孫はアカの大将という某中将殿は靖国で二等兵にも土下座する毎日だろうな 「陸軍中将・花谷正の苛烈なる生活」
https://i.imgur.com/LG6ugSY.jpg
マンガ化できそうなタイトルになったな。
次男三男は出世してるから是非読ませて
帯の推薦文を書いてもらいたい >>275
空将補で終わった東条英機の三男より出世してんのな>次男 >>270
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な 汝ら臣民に はっきりと示す。
私はここに、米国 及び 英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海郡将兵は、全力を奪っ交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本文をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に 寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びを ともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。
中華民国政府は、以前より 我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に 重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが米英は少しも 互いに譲り合う精神がなく、
むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水泡に帰り、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。
ことここに至っては我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
御名御璽
昭和16年12月8日
アメリカイギリスは日本敵視政策を撤回、通商は回復、東アジア諸国は独立、各々豊かになって日本も豊かになって人種差別も減った。
日本は太平洋戦争の戦争目的を達成してので勝利したと考えて良いのかな? >>247
>ノモンハン事件は、最高統帥機関・大本営の戦線不拡大方針を関東軍の参謀らが無視して大規模な武力衝突に発展。
これを処罰させなかったことを昭和天皇は悔いてるけどな(´・ω・`) >>12
九四式37mm速射砲で340両撃破してんだよ
ソ連の攻勢のとき左岸で一日一戦場で180両撃破
むしろ戦訓から戦車視界悪いし速射砲あればいいじゃんとなった
さらに何より数ってものここの戦訓 しかし陸軍の将官には現地で酒と女であげく逃げ帰るような人格が破綻したとんでもないのがいるからな
海軍はまだその点はましな方だな 辻か下に人気があったのは、そんな将官に面と向かって非難したからだわ
苦々しく思ってた将官もそんな辻には好意的になる
結果、作戦参謀としてのさばることになるが、辻は辻でその本業がまたどうしようもなくて悲劇を生んでしまう 病死になったおかげで名誉が守られたんじゃないの?
個人もその上司も 戦訓で機関銃を増やそうとなったのが面白い
対戦車より歩兵対決での火力不足を痛感して沖縄戦で結果を出してるのがまた 辻は敗戦後に逃げ延びて行方不明とか見た気がしたけど
本当は辻の晩年はどうだったの? >>278
ぽっぽの祖父のせいw
>>286
御年117歳存命で
東南アジアの某所で老後を過ごしている可能性が微レ存
辻さん(痴呆)「米英がわしの命を狙っとるんじゃ〜」
介護職員(現地人)「ツジサン!ココワ ダイトーアキョーエーケンデアンゼンデス!」 敗戦になると戦犯逃れのため軍を抜けて外国に潜伏。
こっちの方が敵前逃亡じゃないの。 >>288
軍が敗れた後ならむしろ気合の入った徹底抗戦の構えとも取れるw
終戦の時にも継戦クーデターしようとした骨のある人たちがいたよね
>「戦犯」
これは米国様が米国様の都合でやるものだから
米国様が「もういい」と言えばそれ以上言い続ける事は米国様への不敬になる 現代のキャリアとノンキャリみたいなもんで陸軍大学卒かどうかで昇進がほぼ決まるし陸軍大学卒だったら不問にされて予備役から再召集で復帰だったろうね >>292
日本が過去から学んで改善すべきは本当はそういう部分のはずなのに
霞が関のシステムは戦前の日本の悪しき部分を継承してしまっているね
キャリアだと〇歳で海外留学して〇歳で課長級に昇進
みたいなテンプレ人事が続いているのが現代の日本
ノンキャリアだと長い年月を経て何とか係長になって定年までに(以下略) 旧帝国海軍では海大を出ないで少将以上の「提督」になったものが半数近く居る
海の上ということで学問以上の経験や資質が問われるのだろう
帝国陸軍はその点では陸大を出ないと少将以上にはなれないという厳然とした
ルールがあって例外は無いようだ。それだけ硬直化していて、実戦の資質よりも
机上での記憶力と美文がスラスラ書けるかどうかが将来を分けていたようだ >>293
キャリアの出世競争に敗れた者はやめて別組織に
移動するってのもメンツを重んじる身勝手な悪習 >>294
海軍はハンモックナンバーが全てだから陸士でいまいちでも陸大出て逆転の目がある陸軍がマシ >>292
キャリアとノンキャリってのは士官学校出か鉄砲担ぎかって違いなんだから、
昔も今もどこの軍隊組織だって一緒だろ。フラットに採用してるとこなんか聞いたことねえよ
知らねえくせに偉そうにものを論じようとするのはやめろ。 >>297
陸軍はまず幼年学校出てないと将官になれません あ、幼年学校って士官学校とは違うからな
士官学校の前段階みたいな学校 戦病死なら色々もらえるからいいじゃん
無断撤退は敵前逃亡の罪に問われる可能性があるし、軍法会議で死刑がでる可能性も高い
そうしないと日本みたいなろくに救援もされないような軍の規律は守れない
自決をうながすってのは要するに温情だよ
死刑にされる前に自分で死ね、そうすりゃ名誉と実益は保たれるからってこと
今で言う「自分から辞めるというなら懲戒免職にはしないで停職処分にしといてあげる」っていう温情 吉田参謀が書いた本によれば海大(甲種)はめちゃくちゃ難関だったらしい
彼は乙種しか出てない
海大に受かったある士官が航海中浅瀬に船を乗り上げ合格が取り消しになったなど色々とあるみたい >>299
宇垣とかいわゆる「長州閥」とされた奴らは幼年学校出てない組なんだよな >>20
こういう戦争を点取りゲームと勘違いしてるバカが負ける戦争を好んで起こす >>299
こういう平気で嘘つく神経ってどうなってんだろ
今村均や本間雅晴なんて有名人で中学出身なんてすぐ出てくるのに 中野学校ですら軍人か応召組かの区別どころか本校か分校かの学閥があったとか。 >>305
栗林大将もそうだけど中学出身だと前線ばかりだな >>302
芸者を殴って海大受験取り消しになったのもいたなw >>305
少なくとも陸大は幼年学校卒か士官学校成績上位組しか受験できないよ
まず受験に所属連隊長の推薦が必要だから >>309
幼年学校卒でないと将官になれないというウソを指摘してるだけ
少なくとももクソもない 西浦氏(自衛隊戦史室長)によれば
陸大の卒業席次だけじゃなく陸士や陸幼の卒業席次も出世するには大事だったとのこと
彼は陸大首席のほか陸士優等
瀬島参謀の回想によれば参本の優秀な人達は軍政タイプが多かったらしい
服部課長や辻班長も軍政タイプの理や数字に強いタイプ
軍令タイプは井本参謀とか自分のことらしい 花谷正中将「陸大卒でもない専科の将校は 二等兵のゴミと同じだ」 >>24
いやあ、勝ち目は十分にあったはずなんだよ「彼らの知ってる軍事常識では」ね
当時の陸上作戦の基本は鉄道
最寄駅から戦場までの距離で、投入可能な兵力と補給物資の量がほぼ決まっていた
そしてその常識の下にノモンハンを戦場として選んだ場合、ソ連側の兵站線は約700kmで、
我が方は約200km!つまり我敵より3倍以上も有利な状況にある!と判断したワケさ
投入兵力で日本が負けるわけがなかった「当時の常識では」
その常識を覆したのがソ連前線集団司令官グリゴリー・シュテルンという将軍だった
彼は日本軍よりも多数の輸送トラックを搔き集めるだけでなく、効率的な運行体制を整備して
兵站距離三倍の差を覆し、日本軍よりも多数の兵力と物資をノモンハンに送り続けた
ソ連時代まではノモンハン戦の英雄といえばジューコフというのが相場だったが、
研究が進んだ結果、スペイン内戦で軍事顧問も務めたシュテルンの優れた後方支援体制の構築が
ソ連側勝利の原動力となったとして、その功績ジューコフに並ぶものとして認められつつある >>315
ソ連は生産しつつ戦車工場なんかを丸ごとウラル山脈の
向こう側に移転すると言う荒技を成功させてるから
大したもんだ。 陸大を出た参謀はお咎めなしかあっても軽いもので
現場の連隊長クラスは現地で大半が戦死、自決だから悲惨だ
生きて帰って来れても黙って拳銃を渡されての自決強要だろ
自決しないで生き延びられた連隊長はわずか3人という
その一人、旭川第七師団第26連隊長の須見新一郎大佐は
ノモンハンでは火炎瓶でソ連戦車83両を撃破する武勲を挙げ
生還後も自決強要を断固拒否した
小松原、辻らを批判する言動もあり、事件後に待命、予備役。
戦後は信濃の旅館の主人となっている >>322
同じことだろうよ
港湾に山積みになった物資を戦場まで運ぶ能力が不足(鉄道がないため自動車に全面依存)していたが故に
ロンメルとドイツアフリカ軍団は前に進めなくなって最終的に敗北した ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています