【軍事】刀?鉄砲?意外に知らない、戦国合戦の主力兵器 戦国合戦と城攻めのリアル(8)★2 [人気者★]
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刀?鉄砲?意外に知らない、戦国合戦の主力兵器
戦国合戦と城攻めのリアル(8)
2020.11.6(金) 西股 総生 生活・趣味 歴史
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62740
・『長篠合戦図屏風』(部分)(Wikipediaより(ママ))
https://jbpress.ismcdn.jp/mwimgs/e/f/600m/img_ef1078c39867e3ec407fa5e9273793571261327.jpg
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
JBpressでの連載をまとめた『1からわかる日本の城』を発刊した西股総生先生が、知っているようで知らない、戦国武将の真相や、戦国合戦のリアルな様相を解説するシリーズ。
今回紹介するのは戦国時代の主戦力。織田信長の桶狭間や長篠の合戦に見られるように鉄砲と思われがちだが・・・武将たちは何を持ち、戦場へ出たのか?(JBpress)
〓数が揃わなかった鉄砲
前回、織田軍の鉄砲隊は長篠合戦の主役ではなかった、という話を書いた。信頼できる史料から分析すると、戦国大名の主力軍でも、鉄砲の装備率は全体の2割に満たないことがわかる。
鉄砲は、戦場の主役になるほど数が揃わなかったのだ。
では、戦国時代の主力兵器は何だったのだろうか?
もともと、武士が持つ武器の代表は弓矢であった。源平合戦の頃には、武士としての生き方を「弓馬(きゅうば)の道」などと呼んだし、
戦国武将たちが書いた手紙でも、戦争のことを「弓矢」と言ったり、武将のことを「弓取り」と呼んだりしている。
けれども、その一方で戦国時代には、戦場での活躍のことを「鑓働き」、敵陣に真っ先に乗り込む手柄を「一番槍」などと呼んでいる。
戦国時代には、武器の中で槍の存在感が高まっていたようだ。では、槍はどのくらいのウェイトを占めていたのだろう。
実は、軍勢の動員システムにかけては、織田信長よりも北条氏や武田氏といった東国大名の方が、格段に先進的であった。
北条氏や武田氏は、家臣たちの知行高を台帳によって正確に集計し、これを元にして動員すべき兵の数、持参する武器の種類と数量を、家臣の一人一人に対して割り当てる体制を整えていたのだ。
対する信長は、そのような「数字による管理」を行った形跡が、まるでない。どんぶり勘定でやっていたとしか思えない。
たとえて言うなら、北条産業や武田興産は会計システムを導入しているけど、織田商店は、まだ店先に吊したザルから現金を出し入れしている、みたいな話なのだ。
さて、先進的だった東国大名たちが残した史料を見ると、槍の装備率はおおむね4割〜5割くらいに達する。
この場合の槍は「長柄(ながえ)」と呼ばれる、5〜6mもあるもので、足軽や雑兵といった身分の低い兵たちが装備したものだ。
・月岡芳年画「芳年武者无類 山中鹿之助幸盛」(Wikipediaより)【略】
ドラマなどでは、そんな長い物を撮影現場で振り回すわけにはいかないから、野外ロケでも2mくらいの槍で済ませている。
しかし、陣笠&腹当てスタイルという、ドラマでよく見る足軽たちが持っていた槍は、本当ははるかに長かったのだ。
一方で、史料には「馬上(ばじょう)」と表される兵たちがいる。「馬上」というと、騎兵をイメージする人も多いと思うが、戦国時代の場合は「馬に乗って従軍する武士身分の兵」という意味で、騎兵ではない。
戦国時代には陣地戦や城の攻防戦が多かったので、「馬上」の者も歩兵として戦う場合がほとんどだったからだ。この、武士身分の兵たちは、もう少し短い4mくらいの槍を装備していた。
「馬上」は軍勢全体の2〜3割くらいを占めるのが普通だから、長柄部隊とをあわせると、戦国時代の軍隊の過半数は槍を装備していたことになる。
戦国時代の主力兵器は、間違いなく槍だったと言ってよい。
槍が戦場で使われるようになったのは南北朝時代の頃からであるが、鎧に対する貫通力がすぐれていたため(ママ)、戦国時代には急速に普及して、主力兵器の座を占めるようになったのである。
●西股総生『1からわかる日本の城』好評発売中!【略】
もっと知りたい!続けてお読みください
長篠合戦の主役は織田軍の鉄砲隊ではなかった?【リンク略】
1 2020/11/06(金) 13:02:13.36 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1604635333/ 戦国時代の合戦はニンジャで決まってたからな
ニンジャの全身に焙烙玉をくくりつけて特攻させたり
フランキーと呼ばれる大砲でニンジャを撃ちこんだり
大力の兵がニンジャを振り回したり 鉄砲など恐れてはならぬ。われらには亡きお屋形さまが、信玄公がついておる。押し出せぇ! なんで日本では投石機が発達しなかったのだろう
そもそも大砲が出てくるまで
破壊するほどの城郭が無かったからか? 数が少ないから主力じゃないという論法なら、戦闘機で制空権握るのも意味ないってことになるんだが、この人大丈夫か? 意外にも、アニメ映画のクレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦の合戦描写が一番正確だ 賤ケ岳の合戦とか面白いんだよな
7本槍!!とか宣伝するけど実際は両軍が稜線に砦と柵を築いて鉄砲の撃ち合いしてたり
佐久間勢が弾薬切れで崩れて勝負が決まったところとか
戦国の後半はもう鉄砲と火力と野戦築城の時代だった 互いが槍を持って戦った事からヤリマンと名付けられ、現代ではそれが性欲が盛んな女性を指す事になった
民明書房刊 「現代語の語源 ‐性風俗編‐」 良く、騎乗している鎧武者を落馬させるために、フックのような武具を使ったと
聞いた事があるね。鎧兜を装着していると数十キロになるので落馬したら立ち上げれない。
そこを襲って首をかき切ったという。 >>6
城壁でガチガチに守る城郭は西洋とか大陸にしかないから
日本の戦国の城って近代要塞みたいに柵や土塁造ってそこに人間が詰めて守る防御施設だからね >>6
路が悪路で乾いた地中海世界と違って
雨が多く、草が直ぐにはえ、石畳街道など無く、
牛馬は不足がちで、河川沼沢が多く、
山陵は入り組み、山岳が多く、科学の知見に乏しく、西洋地中海的世界の知見とはリンクが無かったからかなあ?
運用しにくく、経済圏が未発達で、防禦施設は簡易ゆえにそんなに破壊力は必要なかった
火矢で大抵なんとかなったのでは? 砲列に槍で突っ込むジャップ
日帝ジャップは戦国時代から何も進化してなかったんだな 平安時代の甲冑は騎射を考慮に入れたもので、地面に降りての戦闘にはあまり向いては居なかった
鎌倉後期から室町時代の兵乱の連続で兵卒の不足から、臨時の兵員としての足軽などが出て来て、とにかく便利で汎用性が重んじられ
動きやすく、なんでもやれる装いに変化していき、武装もそのようになり、フォーメーションもそのように変化していった
平安時代の武士団の戦闘は、官軍が動員体制を廃した以降は私的武装集団同士の血縁地縁中心の小数者同士の戦闘が多く、騎射中心でも良かったが
生産性の向上と平安末期の人口減からの回復が銭経済の導入と連動してからは、物資の流通が活発に成り、戦闘は地元の増えた人口を加味した動員による戦争に変移していった >>6
そこそこ広くて頑丈な道路がないと運べないからでは? >>15
メフメト2世のコンスタンティノープル攻囲戦スケールデカすぎだし 友達のおばあちゃんの家で槍を見せてもらった。
あんなので殺し合うなんて、怖すぎて無理だと思った。 死亡率だと普通に射程が短い武器持ってるやつほど死亡率が高い
刀より集団で投石した方が強いレベル >>6 正解は>>15だな
悪路云々は×
西洋でも分解して運んでたし
あとの疑問は 弩 と 投槍器、なぜ使われなかったのか、だな >>23
ところがどっこい投石の技術をあげる
ような投石道みたいなもんがないし
南米のスリングのような投石機がまっ
たくない。
戦国最強兵器にも関わらず。
戦国絵巻にも全く出て来ない。 >>14
騎乗兵を引っ掻けて落とす武器というのは西洋にも多い。
そもそも落馬しただけでもかなりのダメージになる。
ただ、西洋の騎士にせよ日本の甲冑武士にせよ、彼等は騎乗してなくても恐るべき重装歩兵だったし、概して組み打ちにも長けていたので、落とした武者を襲う側も命懸けな事には変わりなかった。 >>6
戦国時代に火薬が来て「遠距離攻撃」が「輸入」された。
さかのぼって鎌倉のころまで天然要害の城、城とはいうが大きな館が主。
攻略するのが館では投石機はまあイラナイし、天然要害は基本山の上
とかなので大型投石機を配置することじたいが大変。
そこから火薬兵器にまで飛んでしまったので真ん中がない。
あと、木造なんで火計でもよかったわけだし。 ちょっと前にNHKで長槍の実験やってたな
刺すことはほぼできずにムチみたいに使ってた >>21
実は大砲の方が銃より火薬の燃焼の管理が簡単だから
銃よりはるかに早くから使われてるんだよな
レコンキスタでのグラナダ王国の城もスペイン軍の大砲で次々落ちていった
日本でも大坂城で大砲が天守に命中したりしているが
だから日本の戦国時代の頃には西洋の城はもう高い城壁なんか造らない >>14
>鎧兜を装着していると数十キロになるので落馬したら立ち上げれない。
これは誤解。60キロの人が太って100キロになったら立てなくなるかっていったらそんなことない訳で。 >>27
絵巻は今の映画だからさw
映画はフィクション 山岳付近に造る砦なんて大半が落とされてもしゃーない、時間さえ稼げれば…
という程度の防御施設だからクソ苦労して投石機を運搬したり組上げたりしたら
凄く非効率になるから攻城兵器が発達しなかったのだと思う。 >>27
スリングって元は遊牧民が使う道具なんだよね
だからロードス島の遊牧民が投石兵の傭兵になった
遊牧民がいない日本は家畜の筋やらニカワが必要な合成弓などもない
ベネチアの石弓兵も船に乗る仕事が無い時に傭兵になったのが始まりだな
技術があるから兵士を支えられる 主力は槍と弓?
現代の忍者を受け継いでる人が鎖鎌は忍者武器じゃなく侍の武器とか言ってたのは見た >>27
印地打 絵巻 で検索したら
なんぼでも出てくるやん低能 戦場予定地の石ころも排除しないと怖くて戦ができない うちの実家に戦国時代のものっぽい火縄銃があった
ボロボロだけど >>26
まず金属加工歴史の浅さ、鉄砲が入ってくる頃には当然高水準になってるけど
逆にいえば大型の鋳造設備がそろってなかった。
あと、弓や投槍だけど和弓をみればわかるのだが湿気がある。
和弓は竹だが日本の湿気では木製の弓を作るとダメになる。合成弓をつくるにしても
強力な接着材がなく、動物性の素材を使えるほど大型の動物がいない。
木製で高い強度を誇る武器は総じて作りにくい環境だった。 日本の攻城戦にトレビュシェット(投石器)が無いのは謎だな
石はもちろん火も飛ばせるし 必要なら死体も投げ込める >>27
当時の投石は印地打ちと呼ばれていて、京都白川に居た白川印地はわりと有名。
ただ、印地打ちという行為自体が呪術的な意味も持つ行為で、白川印地も賤民的な扱いをされていたらしい。
当時の投石はそういう扱いなので、高尚な道になるような文化的下地が無かったのではないかと思われ。 当時の内部忠実に再現した城に行ってみてえなぁ
安土城とかVRで再現したのないのかね >>45
ペスト患者の遺体放り込む
人類最初の生物兵器 >>27
一応各剣術流派に手裏剣術が含まれてる
使われたのかわ知らない >>37
柵とか土塁は人間自体が防御施設の一部なんだよ
これは鉄条網と塹壕とトーチカを組み合わせた近代要塞と一緒
戦記で「逆襲して防御に成功した」とあったら、それは人間が戦って追い返したってこと
「旅順攻防戦の真実―乃木司令部は無能ではなかった」って本が面白いぞ >>47
大阪名古屋安土クラスじゃながそのまま残ってる城は結構あるよ。
流石に江戸時代前の質実剛健な感じだが。
まあ安土は別格だっただろうというイメージはあるけど 投石に用いた石とか残してる武家はねえだろうし
あっても資料としてあまり意味がないような 分解で運ぶにしても日本の路は木の根が張るような路がうねうね蛇行してるのだから
馬車みたいなものに載せて運ぶことも出来ないし、
た鷹るみですべるよ >>31
ナポレオンが騎兵隊対策で作った方陣だな
チクチク刺して(牽制して)鉄砲隊がしとめる >>49
毒矢や毒もみの類はもっと古くからあったと思う >>54
武将のサイン入り石とかあったら現代でめっちゃプレミアついてたろうに 世界的に戦場で名を上げた武人は大抵槍使いだよな
なんで創作の世界ではこれを無視するんだろう クレシーの戦いの事や山城がなぜ多いのか、なぜ馬謖が山に布陣したのか
高所に上れば弓と投石の威力が格段に増し、敵からの弓と投石の射程と威力が減る
まあ飛び道具が主力なのは昔から共通やね 朝鮮出兵でも、日本方式の城を朝鮮のあちこちに築いたけど、中国軍ですら日本方式の城を攻めるのに手こずったらしいから、かなり防衛力は強かったみたい。 攻城兵器とか基本は現地生産じゃねえの
古代ローマ軍は街に立てこもる敵から見えるところで作ってびびらせたし
コンスタンティノープル陥落の時だったかはオスマン帝国の大砲は現地で生産してた
言うまでもなく大砲はその後作り置きしといて移動可能にはなったけども
日本では攻城兵器を作れるやつがいなかったのと
活躍しても誰の手柄になるかもわからん武器に
武将たちが興味を示さなかったか
……いや
それでも納得いかんね
なんでだろほんと >>10
ヤリは1の隠語
マンは万
要は1万円でヤラせる女のこと
いつのまにかマンコばっかしてる女の意味になってしまった 戦国時代の戦いの作法
名乗りを上げる
次に双方罵倒合戦からの投石 >>56
その前にテルシオという鉄砲と槍で擬似的な要塞を作る西洋を席巻した編成があった。
当時の最強国家スペインの陸戦を支え続けた戦術。
まあ、あまりに金が掛かりすぎてスペインが財政破綻したが・・・ 前期と後期では違うと聞いたけど
前期は槍、後期は銃
戦国末期の銃の保有量は、日本だけで、当時のヨーロッパ全土をはるかに上回ったとか >>27
竹千代(家康)の石合戦の話とか穴山の投石隊とか
いくらでも投石に関する話は在る、多分ココは
浅学非才な27を晒すアンカーで埋まる。 >>64
上の方に書いてあるので大体あってると思うけどね。
あと、日本の戦争って思いのほか短期のものが多く
現地で木材切り出して作ってるうちに終わってしまう。
さらにいえば国土が狭いので補給路の選択肢が多く
「攻略しないで次に行く」ことが結構可能。
兵糧攻めでいいわけで。 >>45
石弓が発達しなかったから
これ巨大にしたらすげーんじゃね
みたいな発想が生まれなかった >>10
>互いが槍を持って戦った事からヤリマンと名付けられ、
ここと、
現代ではそれが性欲が盛んな女性を指す事になった
ここを繋げる文章もうちょい頑張れよ 長槍隊が槍衾だけの防御的運用となると
弓矢に対する防御で手盾を装備しない理由が
わからんなあ
陣笠だけで矢が防げたんかね >>70
当時のヨーロッパの最強兵科は騎兵だからな
鉄砲はオマケ >>71
むっちゃ長いから上から叩き落とすんだよね。 >>50
旅行中にウサギなどをとって食べるためのサバイバル技術 >>50
回国修行してる時に手裏剣が上手じゃないと
食料を確保できなくて無理だったらしいぞ
武田惣角がそんなことを言ってたらしい まあ、日本はその代わりに火縄銃が大量に生産された。
種子島にポルトガル人が火縄銃をもたらしたが、日本は
銃の秘密「銃底」の仕組みを習得する。確か、見よう見真似で
銃を作ったが,底が抜けて制作者は片目を失ったという。
その後、輸入に頼っていた火縄銃を国産化して大量に製造。
戦国末期には50万丁に達したという。
しかも精度もよく「鳥撃ち銃」と呼ばれる。変わり種の銃も作られ
3連、4連式のもあったという。
秀吉が朝鮮に出兵した際、朝鮮には火縄銃もなく遁走し捲ったと言うね。
その後、加藤清正の配下で雑賀衆のひとりが裏切る。沙也加と呼ばれる男で
火縄銃の製法を朝鮮に教えるが、朝鮮側にはそれを作る技術も職人もいなかったと
言う。結果、秀吉の死去で秀吉軍は明と和睦を結び撤収するが、それを追撃したのが
李舜臣w
島津軍の鉄砲の一斉射撃で頓死したと言う。 >>33
お前が雑兵やってた頃、長槍は突くな、叩けってあれほど教えたのにもう忘れたかw? >>64
籠城側…高所から投石すれば普通に威力出る。投石器使うと命中率悪い上に石の無駄使い(籠城側は使える石に限りがある)
攻城側…投石器使っても敵城の城郭を破壊できるわけじゃない(幕末の大砲でも城郭を破壊できなかった)
結論、無駄だった >>65
デブかヒョロガリか知らんが匿名で書き込んでるナードの先祖が落武者狩ってるヒャッハーって色々考えさせられるな… こういう馬鹿が書いた記事見て間抜けがレスしてるのってまさに阿鼻叫喚だわ
書いた馬鹿もレスしてる馬鹿も「絶望的な白痴」という… >>76
日本の弓道の距離は28mとかだけどそれって殺傷能力のある距離で
当時の間合いから来てる。的の大きさは胴の大きさ。
水平射撃でその程度なので山なり射撃で60m(遠的という競技が残ってる)。
状況によるけどフレンドリーファイアの確立結構高いと思うのよね。 >>81
弩が大きくなったのはバリスタだけど
とにかく弾性を使ったメカニカルな機構によって何かを遠くに飛ばすって発想が出てこず
一石飛びに火縄銃・火薬文化になっちゃったのだろうってこと >>86
朝鮮も鉄砲を大量生産して、対ヌルハチ戦に投入してるぞ >>76
だから軍注状では弓による負傷が一番多かった 長篠の戦いでは鉄砲3000丁使われてたんだよな。
大阪の陣と比べると微々たるものだが、世界一の保有数なんだよな。 継国縁壱なら単独で『日の呼吸』を使って、騎馬隊でも鉄砲隊でも殲滅してるわ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています