光秀は四国の長宗我部元親と親戚ぐるみの親交を持ち、信長もそれを認めていたと記録が複数ある。

そして本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとりした記録がある。

明智の仲介もあり長曽我部は信長の意向に従う決断をしたのに、信長が一方的に破棄。それに怒りを表している。

また明智なぜ長曽我部と親しかったかというとこれは単純で、同じ四国の出身で土佐一族であったからである。