『シッタン河畔で全滅した従軍看護婦・日赤新和歌山班の悲劇』(ねずきち氏)

日華事変から大東亜戦争にかけて
日本赤十字社から戦地に派遣された従軍看護婦の数は、約千班、3万人にのぼります。
このうち戦死者は、日赤発行の「遺芳録」によると1085人です。
戦争の初期には肺結核に侵されて倒れ
Chinaでは伝染病に罹患して戦地で没し、後期には銃弾や爆弾による戦傷死で散華されました。

日赤の「新和歌山班」は、昭和18(1943)年11月5日に、日赤和歌山支部で編成されました。
班長1,婦長以下看護婦21、使丁1、計23名の構成です。
彼女たちは、ビルマ(現ミャンマー)の病院に配属となり
病院長の笠原六郎軍医中佐のもと、高卒のビルマ人女性たち80人を補助看護婦として養成していました。

ところがこの時期から戦況が日に日に悪化していき、ビルマ人の補助看護婦たちは、全員、それぞれの故郷に帰らせています。
日本人はシッタン河畔で全滅という悲劇を向かえた。