町から届いた冷酷な順序 ALS患者でさえ家族介護を求める行政の“誤解”
毎日新聞 2021年1月25日 07時00分(最終更新 1月25日 07時00分)

<福祉の考え方の基本は、「自助」→「共助」→「公助」です>。山里の最低気温がマイナス7・7度まで冷え込んだ2017年2月24日に長野県信濃町の住民福祉課から発せられた一通の文書が、町内に住む小林さゆりさん(56)の元に届いた。全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を患っていた。年老いた母親(当時78歳)による介護が難しくなり、法的に保障された長時間介護の実施を信濃町に求めたが、事実上拒否されたのだ。「自助」が限界を迎える中で、小林さんは尊厳を持って生きるために、「公助」を求める闘いを始めた。【塩田彩/統合デジタル取材センター】

ALS介護を担うのは78歳の母

 小林さんは長野市内で1人暮らしし、化粧品の開発などの仕事をしていたが、07年にALSと診断された。最初は左手の親指が動かしにくいのが気になる程度だったが、次第に腕を上げるのもつらくなった。17年には、ほとんど自分で体を動かすことができなくなっており、母親を頼って信濃町の実家に身を寄せていた。当時受けていた訪問介護などの公的支援は1日平均2時間程度。残りの時間の介護は、78歳の母が一人で担っていた。

 母は小さな体で娘の体を車椅子から持ち上げ、便座に座らせて排せつの介助をしていた。小林さんがトイレに行けるのは、訪問看護などを利用した午前10時と午後4時、それに母が一人で介助する午後10時の3回のみだった。

 小林さんに話を聞くと、視線を動かしてパソコンに一文字ずつ入力するソフトを使い、当時をこう振り返った。「家族にもそれぞれ人生があり、お互いが犠牲や負担を感じ合うことはとても過酷でつらいことです」

 小林さんは、自分で寝返りをうつことができなくなっていた。それでも夜間は母を休ませるため、夜は別の部屋で寝てもらっていた。午後11時、枕と頭の位置が決まり、ガラス格子の引き戸が閉められると、長い夜が始まる。枕の位置がずれて首が痛くなっても、鼻水が詰まっても、何もできないのだ。夏には、動かせない顔に蚊が止まった。冬には、拭き取ることのできない唾液が寝間着やベッドシーツをぐっしょりとぬらし、体が芯まで凍えた。

気管切開で「生きられる」「生きたい」

 ALS患者は、徐々に筋力が低下し自発呼吸が難しくなった時、気管切開して人工呼吸器を装着するかどうかを選択する。気管切開すれば、夜間も含めて頻繁なたんの吸引が必要になり、24時間介護なしには生活が難しい。小林さんには、気管切開する前からたんの吸引が必要だったが、カテーテルを鼻の奥まで差し込む吸引を母は怖がり、週3日の訪問看護に頼っていた。訪問看護がない日には、母に昇降椅子やトイレの便座に座らせてもらい、首を左前に傾けて頭を下に向け続けることにより、約30分かけて、胸元に置かれたタオルに自力でたんを出していた。

 小林さんは当初、自発呼吸ができなくなったら「死」を選ぼうと考えていた。けれど、14〜15年ごろ、気管切開し1日24時間の重度訪問介護制度を利用して暮らしているALS患者がいることをインターネットで知った。気管切開して母に負担をかけることはできない。でも、もしも、24時間支援の「公助」が実現すれば――。その可能性に気がついたとき、小林さんは「生きられる」「生きたい」と思った。

 16年8月ごろから、かすかに動く左の手のひらの圧力を感知するマウスを使い、視線入力で一文字一文字、パソコンで文字を打ち込んだ。町に重度訪問介護の申請をしたいとメールを何度か送ってみた。連絡を受けた町が申請書の提出を求めてきたため、何時間もかけて母と二人で申請書を書き上げた。

全文
https://mainichi.jp/articles/20210123/k00/00m/040/138000c