福島県会津若松市のシンボル、鶴ケ城から西に5分ほど住宅街を歩くと、石垣に覆われた高さ数メートルの構造物がひっそりと建っているのが見える。江戸時代、会津藩の藩校「日新館」にあった天文台の一部である。水戸や薩摩などいくつかの雄藩が天文台を持っていたが、当時の遺構が現存しているのは会津だけで、日本天文学会は2019年、オーロラなどが記述された藤原定家の「明月記」とともに日本天文遺産の第1号に認定した。江戸時代の天文台とはどんなものだったのか。

 市教委文化課によると、日新館が完成したのは1803年。会津松平家第五代藩主の松平容頌(かたのぶ)の時代に実施された藩政改革の柱に「教育の振興」が掲げられ、建設された。鶴ケ城の西隣の約2万8000平方メートルの敷地には天文台のほか、日本最古のプールとされる水練用の池なども設けられた。上級藩士の子弟は10歳になると入学が義務づけられ、1000〜1300人が学問や武芸の徹底したエリート教育を受けていたという。しかし、戊辰(ぼしん)戦争でほとんどが焼失し、現在は天文台の南半分が残るのみだ。

 遺構の上部にほこらがあるが、これは取り壊されるのを防ぐために昭和に入ってから地主が建てたものだと考えられている。江戸当時は石垣もなく、底面が約22メートル四方、上部が約10メートル四方のまさしく「台」だった。

 同市出身の渡部潤一・国立天文台副台長(60)によると、太陽の地平線からの高度を知るのに使われた「圭表儀(けいひょうぎ)」が天文台の上に乗っている絵図が残っているという。太陽の高度が高くなれば影が短くなり、低くなれば長くなる原理を応用した当時の一般的な観測機器だ。影が最も長くなる日が冬至で、暦の起点になったという。

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2021年2月13日 6時00分