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2021/02/13(土) 19:58:52.24ID:VL1cNK8v9市教委文化課によると、日新館が完成したのは1803年。会津松平家第五代藩主の松平容頌(かたのぶ)の時代に実施された藩政改革の柱に「教育の振興」が掲げられ、建設された。鶴ケ城の西隣の約2万8000平方メートルの敷地には天文台のほか、日本最古のプールとされる水練用の池なども設けられた。上級藩士の子弟は10歳になると入学が義務づけられ、1000〜1300人が学問や武芸の徹底したエリート教育を受けていたという。しかし、戊辰(ぼしん)戦争でほとんどが焼失し、現在は天文台の南半分が残るのみだ。
遺構の上部にほこらがあるが、これは取り壊されるのを防ぐために昭和に入ってから地主が建てたものだと考えられている。江戸当時は石垣もなく、底面が約22メートル四方、上部が約10メートル四方のまさしく「台」だった。
同市出身の渡部潤一・国立天文台副台長(60)によると、太陽の地平線からの高度を知るのに使われた「圭表儀(けいひょうぎ)」が天文台の上に乗っている絵図が残っているという。太陽の高度が高くなれば影が短くなり、低くなれば長くなる原理を応用した当時の一般的な観測機器だ。影が最も長くなる日が冬至で、暦の起点になったという。
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https://mainichi.jp/articles/20210212/k00/00m/040/214000c
2021年2月13日 6時00分