【歴史】「徳川家康は辛抱強い性格だった」は後世の創作の可能性 ★2 [ボラえもん★]
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先日、映画『ブレイブ ―群青戦記―』のヒット祈願イベントが行われ、出演する渡邊圭祐さんが自身の性格をじっくり待つ徳川家康タイプと分析していた。
実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
■天下人の性格
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句がある。次に示しておこう。
織田信長「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
豊臣秀吉「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
徳川家康「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」
信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。
家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。それぞれの性格をあらわしていて興味深い。
この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に書かれたものである。
『甲子夜話』は文政4年(1821)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841)に完成した。正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。
この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。
3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。
では、なぜ家康は辛抱強い性格になってしまったのだろうか。もう少し考えてみよう。
■苦労人だった家康
天文11年(1542)、徳川家康は松平広忠の嫡男として誕生した。
松平氏は三河を領していたが、その威勢は弱体化しており、駿河今川氏に従属していた。幼かった家康は、今川氏の人質になっていたほどだ。
永禄3年(1560)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、家康は信長の配下に加わった。
天正10年(1582)に信長が本能寺の変で横死すると、家康は羽柴(豊臣)秀吉に従った。
慶長3年(1598)に秀吉が病没し、その2年後の関ヶ原合戦で家康は西軍に勝利したが、
家康の完全な天下取りは慶長20年(1615)の大坂夏の陣における豊臣氏の滅亡を待たねばならなかった。
つまり、家康は信長と秀吉という2人の天下人に仕え、なかなかチャンスに恵まれず、辛抱強く待たねばならなかったということになろう。
その事実が先の狂句に反映されたようだ。
また、江戸時代には「織田が搗き 羽柴が捏ねし天下餅 座りしままに食うは徳川」なる狂歌も広まった。
これは家康が辛抱強いというよりも、棚からぼた餅で天下を取ったことを揶揄したものである。
■有名な家康の遺訓
ほかにも、家康が辛抱強いとされた根拠としては、以下に示す家康の有名な遺訓がある。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。
しかし、この家康の遺訓とされるものは、後世の偽作であると指摘されている。
明治になって、幕臣の池田松之介が『人のいましめ』(伝徳川光圀作)をもとにして、創作したものにすぎない。家康の花押まで似せていたのだから、手の込んだ偽造である。
この偽作を「幕末の三舟」の1人である高橋泥舟(ほかは勝海舟、山岡鉄舟)らが日光東照宮(栃木県日光市)をはじめ、各地の東照宮に奉納した。
これにより爆発的に世間に広まったのだ。
つまり、家康が辛抱強かったというのは、江戸時代に広まった伝承や偽作のようなものが根拠にすぎず、実際はどうだったのかよくわからないのである。
家康が辛抱強い性格だったというのは、今後の検討を要しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210216-00222815/
★1が立った時間:2021/02/16(火) 15:22:15.79
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1613456535/ 短気なところもあるが
辛抱強くなかったともいえない うんこ漏らすまで耐えたんだ、辛抱強いだろ
並みの武将なら漏らす前にトイレ行くぞ しかみ像を描かせたと伝わるくらいには、特筆されるほど己を律することに意識を払ってたのでは? >>1
性格も糞も、やってきた事実だけを見れば
我慢して我慢して最後に勝利を掴んだのは明らか 秀吉が死んだら家康包囲網できちゃったから対抗する過程で天下を取っちゃったらしい 家長とかなると我儘三昧だろう
家長を相対的に比べるとおとなしく見えるかも?しれぬ? >>7
徳川は創作あり過ぎて近年判明することが多過ぎる
豊臣家を陥れようと創作した秀頼ひ弱話とか
実際は2mに達する巨漢で文武両道のカリスマだったとか >>14
性格も糞というか性格が糞というか単なる糞たれというか 秀吉と家康は小牧・長久手で戦ったが痛み分け
秀吉は、このことで家康と融和する方向へいったと一般に思われている
だが実際は真逆
これで秀吉は本格的に討伐することを決意し大規模な軍勢を準備
兵力差は圧倒的なため、このままいけば家康は滅亡するか屈辱的に軍門に下るしかなかった
ところが攻撃開始2ヶ月前、1586年1月に天正大地震
家康側の被害は少なかったが
富山の木舟城は崩壊して城主だった前田利家の弟・前田秀継は家族や家臣らと共に圧死、
岐阜の帰雲城は城下町もろとも土石流に飲まれ全滅(生存4名)
長浜城も全壊し城主・山内一豊の娘らが死亡など、秀吉側に大打撃
これで秀吉は家康を倒すことをあきらめ、4月に妹を嫁にやる実質的な人質を出して
家康懐柔策に転じた
まさに日本の歴史を変えた地震だった 関ケ原の戦いは、単なる秀吉の部下の派閥争いでしかない
小牧・長久手の戦いなんて双方野戦が下手くそだから小競り合いしかしてないし 芸人の飲み会である先輩芸人が、俺は三英傑のどれにも当てはまらねぇ
俺を例えたなら
「鳴いたならぁ〜」って言って若手に全力で突っ込まれた芸人がいた よく言われる三方ヶ原の脱糞逸話は同時代史料で確認できないので後世の創作でほぼ確定、
「しかみ像」の敗走後に自分への戒めとして描かせたという逸話も絵自体は江戸時代中期のもので、逸話も尾張徳川家19代目が戦前に新聞の取材でリップサービスとして話したもので史実の証拠がない
戦国大名や武将の名言や逸話はこういう後世の創作がほとんど 信長時代はバンバン領地切り取りに行ってたし秀吉時代は他武将と外戚関係作って根回しに余念が無いしあんまり待ってない印象 辛坊強いヤツが糞漏らしたり空腹に耐えかねて食い逃げしたりしないもんな 安らいだ元妻→やすらいだもとつま→まつだいらもとやす→松平元康 >>1
本当は封じ込め大失敗だった
日本の新型コロナウイルスの死者数は7038人で中国の死者数4636人を大きく抜いた
韓国の死者数は1527人 台湾9人ベトナム35人でタイは80人で東アジアの中では多い
例外はバリ島やジャワ島のインドネシアで33183人で世界のGOTO版だろうか?
感染者累計は中国8万9千人で日本は41.7万人で封じ込めは失敗している
そもそも
日本では2020年1月末に春節ウエルカムで中国が武漢閉鎖をする中で安倍晋三が武漢の人間にコロナウイルスをバラまかせた
そしてオリンピックのためだろうか?1-3月はほとんどPCR検査を行わないでいた
オリンピックが中止になると途端に検査数を増やしたのは記憶に新しい
そしていきなりの緊急事態宣言そして布マスクにGOTOだった
どうも自民はオリンピック開催に熱心で100億円中抜き電通放映権のために開催したいらしい
また検査数を減らすことも辞さない構えだ
肝心のワクチン配布もギリギリな感じで世界の中でも日本は出遅れている
COCOAも何億円もかけて9月からアンドロイド版は機能しておらずに実機テストもしていなかったらしい
いろいろな不祥事と事件の中で混乱しているのが日本国のように見える 三河の家臣団が土豪連合政権を成し神輿として家康を担いでいた
この家臣団がそのまんま幕閣となり仕組みを作った
徳川宗家の当主は連合の象徴にすぎない
誰も過半数を抑える権能を持たない事で江戸幕府はミラクルピースを作ったのだ >>4
信玄に突撃だもんな
俺なら城にこもって脱糞する 糞漏らしは史実ってことにしておけよ
漏らした時に天下人のフラグが立ったと慰めになるだろ 今川、信長、秀吉の力が強すぎて動きたくても動けなかっただけ。 松浦静山といえば妻はくノ一の続きはドラマにならんのかのう 長期戦略に長けてたってことなんかな
徳川幕府250年 ほんまこの国の歴史書の信用できなさは終わってんなあ・・・・・・・w
むしろ中国の方が信頼できるくらいとかどうなってんの?ww 徳川様の世に戻してほしい
明治以降の日本ははほんと糞 鳴かぬなら 私が鳴こう ホトトギス
こんな人だった。 >>14
違う
徳川家康は、三河政権たる室町幕府のラスボスであり、家康を倒して初めて室町幕府は崩壊した事になる
つまり、家康は倒されるのを待ち受けているんだが、それを我慢強いと勘違いしていわけだ
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 >>34
ブチ切れて城を開門したままにしたら深読みした敵が警戒して攻めなかったってのは創作なんかな? また三河馬鹿きたのかよ
いい加減死ねばいいのにこいつ 偉いやつは本物がたいしたことなくても持ち上げられるからな >>32
徳川家臣団は、元を正せば足利将軍家家臣団
土豪じゃねーつーの
室町幕府 三河国の日本支配構造
【奉公衆】
・奉公衆は、室町幕府に整備された幕府官職の1つ
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数
・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏
三河国の奉公衆一覧(全52家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)
【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
伊勢、饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、丸山、三浦、大和 だいたいこの手の歴史資料関連は勝った方が良く脚色され、負けた方が悪く描かれるのは世界共通だろうよ 長寿、あの時代では超重要
これ一本で天下取ったというか、転がり込んできた そりゃ神格化とかさせてんだから人格者として伝えるわな、歴史は勝者に創られるってやつだろ >>18
197センチ161キロて筋肉ついてたとしてもかなりデブよな 結城秀康が若い頃の家康に一番似てたって言われるくらいだから、そりゃ短気だったんだろ。少なくとも若い頃は。 ジョージワシントンもかなりのドくずだったのに大統領なってるし
家康も成功したから人望あったとも限らん >>52
そうかな?
判官贔屓の方が多いと思う
幕府とか陛下に許可なく、不平等条約締結したり、
外国軍駐留させたり領事裁判権もなかったり、
ひたすら、植民地の道を突き進んでたのに、
何故か「徳川幕府のままだったら…」みたいに言ってるし
最近では会津とかだろ
いっときは、幕府への恭順とかで持ち上げられてたな、
あいつらに何の正義があったんだ?
負けたら街に火を付けるようなカス連中
蝦夷地を外国へ売り飛ばす約束をしていた連中>奥羽越列藩同盟 >>44
三国志にそっくりな話がある
家康ボロ負けじゃかっこ悪いので付け加えたんだろう
そもそも空城の計は、孔明の智謀が知れ渡ってるから「何か策略があるかも」と警戒するんで
当時の家康が城開けてたからって信玄がビビるわけがない まあ、秀吉に江戸という沼地のど田舎に追放されて
干拓事業したからな、忍耐力がないと無理 家康は辛抱強いのではなく、辛抱させられてただけだろ
秀吉が死んだ後に短気の本性現した
あと、信長は短気なのではなく判断が早いだけ >>1
懐かしいなぁ
700年ぶりだねぇ
家ちゃんは、そうなに辛抱強くなかったよ 三国志の劉備ももっと長生きしてたら天下取ってたのかな なかなか普通の人には信じて貰えないけど俺は霊感があり日光東照宮の家康の墓に行ったときに徳川家康の霊と出会ったことがある。
その時に会話したんだけど豊臣秀吉が嫌いだった。だから明智光秀を天海として保護した!と言ってた。
けど夢!幻の如くなり!と言って炎の中に消えてしまった…聞きたいことは沢山あったのに 箱根の山で立小便をしながら
秀吉「お前に関東をやるぞ」
家康「え、せっかく駿府城を作ったのに」 秀吉も「サル」などではなく立派な武家だったのではないか。と想像する。 イライラすると
馬上で鞍をゴンゴン拳で叩いてたもんで
老いたころには
指が伸びないようになってたとか
なんかで読んだな >>62
それ島ごと割譲じゃなくて農地開拓の話だろ >>72
猿吉は物を知らない間抜け田舎者だな、だろう
関東は三河の植民地だったのを知らないんだからよ
有史以来、武蔵国にあった御所号は全3ヶ所
■平安時代
・吉見御所(埼玉県吉見町)
源範頼(三河守)の息子、源範円(正法寺(三河国宝飯郡、三河県豊川市)僧侶)が移り住む
範円の息子(為頼)から吉見氏と名乗る
現在も、吉見姓は三河県蒲郡市(源範頼の本拠)が日本一多い
■室町時代
・世田谷御所(東京都世田谷区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖する奥州吉良氏、三河国生まれ吉良治家(初代奥州管領、吉良貞家の息)が移り住む
■戦国時代
・蒔田御所(横浜市南区)
長瀬四郎(三河国碧海郡長瀬、三河県岡崎市)を祖とする奥州吉良氏、吉良頼康が移り住む
家康入城前の江戸城主は富永直勝
三河国設楽郡富永保を本貫とする三河富永氏
家紋は木瓜に足利二つ引両(太平記、多々良浜の戦いの功労により、家紋に足利二つ引両を与えられる)
先祖は源頼義の家来、鶴岡八幡宮社職家の三河伴氏の平松氏、源義家の郎党No.2 三河伴氏の伴助兼 松平氏は織田と今川に挟まれてどうしようもなかった。
義元死んで、氏真にやる気ないので織田と同盟。
織田は西に領地を展開するが、家康は武田に抑えられて三河、遠江領有がやっと。
信長死んだどさくさで甲斐信濃を占領して大大名になるけど、すぐに秀吉と対峙。
大大名になったとはいえ、占領すぐの甲斐信濃、駿河からは動員しにくいし北条上杉
に兵を残さねばならなかった。
それで従来の三河遠江からしか動員できなかった。 このスレの7割は自己顕示欲の強い愛知県民の書き込みだろうな やけに家康は美化されているなと思ってたんだよ
やっぱ幕臣の仕業か 関が原でもなかなか呼応しない小早川秀秋に爪噛みながらイライラしてたよね でも、石田三成の息子を出家することで助命したり、戦国時代の価値観でいえば明らかに温厚じゃね? >>70
敵が曹丕だから無理だな。
曹操に劣る扱いされがちだが、彼も一流だからな。まだボケておらず油断ならん孫権もいるし。
まあ劉備は長生き以前に夷陵の戦いであれだけやらかした時点で無理だった。 >>44
浜松に行けば分かるが、平坦な土地ではなくて、突然5m位のガケが現れる。
照明なんてない時代、土地勘もないやつが夜に歩いたらガケに落ちて大怪我をする。 キレたりイライラして爪噛んだりみたいなイメージはあるよね。そういう癖もあったようだ
ただそれする時は周囲をちゃんと確認して、信頼できる家臣しかいないときな気がするw >>26
武田が攻めてきたから金払わずに逃げたんだよ
まあ追っかけて来たババアに払ったらしいが
嘘くさいなw >>6
その時代にはとっくに秀吉は乱心していたからな。
豊臣の滅亡は避けられんよ。 短気で気性が荒く気分屋でも、運が良ければ天下を取れる、ってことかもな。 >>23
いちばん有名なの嘘の逸話は三矢の教え。
戦前は教科書にも載ったのに大嘘だったという。
本当は、息子3人に対しこう言っただけ。
「3人とも仲良くしろよ。さもくば、うちはやり過ぎて周りの全て家から恨まれているから、3人とも滅亡するで」
美談も何もあったもんじゃない。 短期的には短気だが、中長期的には気長。
俯瞰というかできる人。 遺髪とかから血液型が判明した武将も多いそうだが
家康はわかってないらしいな。
O型と判明してたら、やっぱりねってとこだったんだけど。 マリーアントワネットもかなり歪められて後世に伝わってたよね 自分の周りの人見れば分かるが、どだい人間の性格なんて一言で言い表せるわけがないよw
辛抱強い人だって機嫌悪けりゃキレる事だってあるんだよ。色んな要素があるのは当たり前 現代にも居るよな
短気な経営者だけどセミナーとかのときだけ温和なイメージでいい人気取るやつ 徳川家康が尊敬していたのは、源頼朝と足利尊氏なんだろうが
自分が生まれた場所から約1'5キロしか離れていない場所で生まれた足利尊氏が作った室町幕府を崩壊させるとは微塵も思っていない
だから、江戸幕府を作ったのではない、江戸に室町幕府を再興したのだ
足利尊氏は、足利氏の大門屋敷の南方すぐ近くにあった上杉氏の日名屋敷で生まれた
■上杉氏
太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷
■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)
鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 本陣をすぐに押し上げる家康さんだぞw
何度、死にかけてるかw
もっとも総大将が前線にいれば
当然、家康に見られてる三河武士が強いのも納得w 厭離穢土欣求浄土を馬印にしてるあたり、結構宗教的な人間じゃないかとも思う。 そりゃそうだろ
自分の目の前の素通りしていく信玄にあったまきて殴りかかってんだからさ
気性は荒そう
まあウンコ漏らして逃げかえってきたわけだがw 秀吉はなんで家康を潰さなかったのかね
豊家安泰のためには謀反の疑いでも何でもかけて潰さなきゃならなかったろうに
その辺の詰めの甘さが朱元璋の冷徹さと比べると小物なんだよな 手を出さなきゃいいものを信玄に食ってかかるくらいには短期だったのは間違いない
それ以降は我慢してたんだろうけど >>89
織田家みたいに臣従すればよかったのにね、空気を読んで >>103
当時宗教的でない人間なんていないだろう。
あの信長でさえ敵対する坊主に厳しいだけでわりと信仰心はあった。 >>107
言うてあそこで出なければ、離反者が出まくるから仕方ない。
三河武士なんて裏切りが特技みたいなものだから。 >>102
つーか三河武士っていうワケワカラン連中に神輿扱いされて身動き取れずに祖父と父親が受難したようなもんだから、その三河武士に引かれるアクションし続けてないとまた良いように振り回されるからそういう動きになった気がする >>23
200〜300年後には
池田大作も麻原彰晃もめちゃくちゃ美化された後光の差したような大聖人になってると思う >>103
三河には一向宗徒が多いんだからさ。当然家臣にも多いんだからさw >>106
家康と決戦するには諸大名の動きが不安だったんだろ
長期化すると秀吉の時代に関ヶ原になってたようなもんだろうし 三河武士って松平ならとりあえずオッケー的なとこがあるから下手するとすげ変えられる >>110
俺らが
「今月の目標売上〇〇万円達成!」
とか日常的に言ってるのと変わりないくらいのフレーズなのかもな >>106
明朝鮮をとれば関東ごとき大した勢力じゃないよ 秀吉からしたら大概家康は信頼できる人物だったんやろ。
他の大名のがよほど信用できんって感じで。 >>38
人質として育ち、親の愛情に恵まれず
若い頃はすぐに自殺しようとしたことから
家康は若い頃は境界性人格障害の傾向があったとかないかな?とか勝手に思っている
乗り越えた境界性人格障害は結構強いみたいで
弁証法的な考え方ができるとか
清濁併せ呑むとか統合するとかそういう
逆に自己愛性人格障害は挫折すると脆かったり
まあ和尚とかには恵まれたのかな
育ての親代わりというか
短気なのもその傾向の現れだったり? どこまーでもー美しいーシズオーカー♪
県民の心さえも美しい「ふじのくに静岡県」
【静岡県への移住相談件数、過去最高】
アフターコロナで、名実ともに清潔感溢れる静岡県の人気急上昇。
東京から近過ぎず遠過ぎない絶妙な距離感。かつて徳川宗家にも愛され、まかり間違えば江戸になっていたかもしれない拠点性、温暖で穏やかな気候、肥沃で災害にも強い土地、振り返ればそびえ立つ富士山という抜群のロケーションで治安も良好。
日本3大美港である清水港、屈指の温泉観光地、伊豆、熱海を有し富士山至近、中部横断道開通でスキーリゾートも身近になり、外国人受けもいい。
静岡県の医薬品・医療機器生産額は全国の都道府県でトップ。富士山や南アルプスを源流とする純度の高い水と首都圏や他地域へのアクセスの良さが強み。県は東部地域を「ファルマバレー」と名付け医療関連産業の誘致や振興に力を入れている。
また駿河湾の恵まれた海洋資源を背景に微生物や魚類など未知の部分が多い海洋生物が持っている働きを産業や環境など人々の暮らしに役立てる技術、マリンバイオテクノロジーを「水産」、「食品」、「創薬」、「環境・エネルギー」など様々な産業に応用していくためのプロジェクト「マリンオープンイノベーション(MaOI)プロジェクト」も始まっている。
圧倒的な清潔感と良好な治安、暮らしやすさから、今後もコロナ禍によるテレワークの普及を追い風に移住が増えそう。
静岡市内の不動産会社にも東京、名古屋辺りから物件の照会増加中。
静岡県がこのほど発表した2019年度の県外からの移住者数で、富士市が102人(前年度比7人増)と自治体別移住者数で2年連続のトップになった。
県外から県内への移住者は19年度は1283人(同8人減)で、3年連続千人以上を維持した。世帯主の年代は20〜40代の子育て世代が8割超を占めた。移住相談件数は1万85件(同104件増)と過去最多だった。
富士を除く上位の自治体は、沼津市が94人(同8人増)、藤枝市が86人(同11人増)、三島市が79人(同12人減)、湖西市が77人(同42人増)。いずれも住宅助成を実施している自治体だった。
富士市は最大200万円の住宅助成制度に加え、18年度に市が創設した「移住定住促進室」の相談者からの移住が24人(同19人増)と急増したことが要因とみる。新型コロナウイルス感染拡大を受け、今後はオンライン移住相談を進める方針。 >>106
朝鮮出兵で豊臣方に力をつけさせるつもりだったはずが、アテが外れたんじゃない?
あの戦争で石田三成vs福島・加藤の豊臣内部抗争になって、それを仲裁する家康って構図になったし >>18
家康は息子信康を、信長に命令されたから殺した事になってたが
実は対立して自ら殺した
江戸時代の人は家康を英雄化させるため、周りをキチガイやバカ扱いにし過ぎ 三河人とつきあったことがあるやつは分かるはず
コイツの陰惨な性格を >>130
勝者が歴史を書き換えるなんていつの時代もやってることだぞ
明治新政府だって・・・ 「徳川慶喜展」2月開幕 久能山東照宮博物館(静岡市)
徳川歴代将軍関連の品々を多数所蔵する久能山東照宮博物館(静岡市)で、2月11日(木・祝)から、江戸幕府最後の将軍にスポットを当てた「徳川慶喜展」が開催される。
https://artexhibition.jp/topics/news/20210120-AEJ355060/amp/?__twitter_impression=true 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし
とかって遺訓を残しているんだから少なくとも晩年は忍耐強かったのではないかな 半つき米の麦ご飯
48 回も噛んでた人だぞ
のんびりした気性だろ?
更に麦飯は栄養価が高くて
精神を安定させる効果もある いや辛抱強いだろ
最後の敵の豊臣家を滅ぼしたのは死ぬ1年前なんだからな 葵徳川三代で津川雅彦が名演したように、歳を経るたびに短気になっていったのが現実だろう。 実際に言ったかどうか、なんてことより
実際に「生き様」としてまっとうしてるんだから 豊臣滅ぼした英雄だからな徳川は
大阪土人どもざまあ 忍耐強さ、辛抱強さのパラメータを歳を追うごとに増していったタイプ。
かもしれんな。 マジで北の将軍様と変わらないプロパガンダっぷりだかんな当時の日本は
美化に次ぐ美化で真実なんてカケラも残って無い 鐘に刻まれた文言でブチ切れるんだから
きっと短気だったんだろう 秀吉は豊臣家を皇室のような地位にして家としては絶対残る仕組みを作ったのよね
大坂の陣が無ければ存続できたでしょうね >>63
仮にそうだとしたら
信玄はなんで浜松城に攻め込まなかったんだ?
ということになる
織田軍の援軍来る前に城に攻め入るのが定石だろ この人が平均的な寿命で60そこそこ
つまり関ヶ原終わって幕府開いたくらいで死んでたら
まだ豊臣にワンチャンあったか? >>106
小牧長久手の戦いが終結し、その後家康に味方した越中の佐々や紀州を倒し
四国の長宗我部を攻めた後だったと思うが
本格的な三河侵略計画を立て、もうすぐ実行する時に大地震
これで中止になり、立て直して再び出兵したら長引き、島津攻めがさらに遅くなるので
母を人質にするなど平和的な解決に方向転換
家康は運の良い人間だと思う事が多々あるが、この大地震がなかったら
その後の運命は大きく変わってたと思う
北条みたいに滅びるまで戦うのではなく、長宗我部や島津のような
一部の領土返上し降参したと思うが 観光でも移住でも人気の静岡シティ♪
https://i.imgur.com/zrD7H9V.jpg
人気はやっぱり山と海!秋の国内人気旅行先TOP3、3位静岡市、2位茂原市、1位は?
https://dime.jp/genre/995122/ >>106
そういや日本には中国みたいな功臣の大粛清大会ってないなw >>106
尾張の田舎者が三河に喧嘩売って来た事がない
初めて喧嘩を売った小牧・長久手の戦いの敗北がトラウマになって、避ける事にしたんだろう
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 300年近くも太平の世を紡いだんだから大した人物なのは確か
外交も鎖国とはいえ交易はしていたし東アジア諸国とも付かず離れずで上手く付き合っていた 誰一人その時代知らんし
記録した奴の私情や好き嫌いで善人が冷酷非道な者になってたり、極悪人が美化されてるとかいくらでもありそうだわ 江戸時代批判してるのは大体は大阪土人ども
歴史は繰り返すからまた幕藩体制になるだけだから日本は
そうなったら悔しいだろうなあ大阪土人どもw >>154
日本は世襲が物凄く大事で上級が死なない国なんだよね
天皇はもちろん鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も最後の将軍が天寿を全うしてるからね 徳川家康は、天皇の先祖は中国の呉から来たと思っていた。
そしてそれが事実 秀頼が時世読めないバカだったんやろ。
デカくて体力的な強さがあったから勘違いした。 エベンキメンタル大阪人
見た目もエベンキだし穢多としてもう一度封印しちまおうぜこいつら
元寇の時の侵略者の末裔が大阪土人だしなw 下剋上したけりゃ、長年頭を抑え続けてきた三河を真っ先に攻めれば終わりの話
ビビって三河との対決から逃げ、勝ったつもりでいたのが、尾張の田舎者らしいと言えばらしい
■那古野荘(名古屋)
・開発者:小野法印顕恵(東大寺別当)
藤原顕隆→顕頼→小野法印別当
藤原顕隆→顕頼→女→平滋子(建春門院)
■平安時代
・小野法印顕恵が開発
・小野法印顕恵は姪の平滋子に領家職を譲る
■鎌倉時代初期〜中期
・領家職は、小野法印顕恵の兄、惟方の孫である経長に移り、女系が伝領する
■鎌倉時代末期〜南北朝
・足助氏(三河国賀茂郡足助、三河県豊田市)が領家職となる
■室町時代
・今川那古野氏が領家職となる
初代は、名越高家と今川国氏(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)の娘の子である名越高範か?
・1522年頃、今川氏親(三河国碧海郡今川、三河県西尾市)が那古野城築城
■江戸時代
・徳川家康(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)が那古野の呼び名を名古屋に固定、名古屋城築城
■現代
・豊田佐吉(三河吉田藩山口村)がトヨタグループを発祥させる 江戸幕府の公式な
日本の歴史は
天皇姫氏説=太伯末裔説 徳川家康は山岡荘八、坂本竜馬は司馬遼太郎、平清盛と宮本武蔵は吉川英治 愛知県民が味噌好きなのってうんこ好きってことだよね >>169
味噌とうんこは違うぞ
茶色いを見るとウンコを連想してる時点で朝鮮人だわな
トンスル飲んで落ち着けよw 後陽成天皇を北京に移し秀次をその関白として付ける
内裏御料所や公家領として中国の都回りの一〇カ国を進上し、大唐関白秀次に一〇〇カ国を渡す
日本の帝位は皇太子良仁親王か皇弟智仁親王に継がせ、日本の関白職には豊臣秀保か宇喜田秀家を当てる。
さて実現したらどうなったかな 家康も最初から天下を取る気があったかどうかってのもあるな
でも信長と一緒にやってたしかなりの健康オタクでもあったから野心は多少はあったのかな
まぁ素性の知れない秀吉ですら天下取れるんだから
家康も自称源氏とはいえ天下取ってもいいんじゃないかなって感じになったのかな >>161
戊辰戦争で朝廷に敵対した会津や桑名や東北諸藩の大名は、誰一人処刑されなかった
家老は何人か切腹した、会津藩は八重の桜で柳沢慎吾が演じてた家老が1人
北条高時と豊臣秀頼は自ら死んだが、平宗盛は捕縛され後に処刑された
実権が全然ない最後の鎌倉将軍の生涯は知らんが、皇族だったので殺されはしなかっただろうな 魔王が引っ掻き回してハゲが英雄ごっごに興じ猿が横取りしクソ漏らしが泰平した 健康オタクだったことに親近感を覚える
正直、当時の家康の健康茶とか売れば大ヒットするんじゃね? そも老年時「ダメ出しする部下がいて最高やw」って言ってたからな家康。
色々な変化が人生であったんやろ。 大河ドラマ「独眼竜政宗」の、津川雅彦演じた徳川家康は、まんまイメージする狸オヤジで、すごく良かった。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡すると、秀吉の命令で徳川家康が関東に移封された 穢多のエベンキ大阪土人は滅ぼしとくべきだったな
家康、優しすぎだろ
大阪都構想とか秀吉復権の再現しようとしてたじぇど間抜けすぎて失敗するというね爆笑 >>176
桑名や会津は尾張と兄弟だったから手をだせないんだ >>181
それが晩年には天ぷら大好きお爺ちゃんになって御破産したのが悔やまれる つっても幕府開いたし 肩の根が降りたんだろうな >>149
武田軍の欠点だが、物資補給が下手くそだったらしい。
徳川のゲリラ部隊が、武田軍の食糧輸送部隊を襲ってる。 天下取りの成果なら、家康が圧倒的に有能なのはそうなんだろうけどね
何しろ、自身がいなくなっても先まで徳川の天下が続くような礎を築いた
が、1を読んでも、庶民から見てもぱっとしなかったんだろ
じゃなきゃ、棚ぼたなんて歌が流行った理由がない
能ある鷹は、なのか 調べてみると
信長 優しい
秀吉 有能
光秀 おしゃれ泥棒
家康 頭おかしい
て感じになるな >>1
辛抱強い 否
気がとても小さい
家臣の記したものに面と向かっては何も言えず石に向かってブツブツ言ったり八つ当たりしてたそう 信長こそ気が長いというか人を許しすぎだよな
あんなに謀反されてその後許すのはなかなか出来ない 竹中半兵衛の末裔の竹中平蔵の大阪都構想
大阪維新イソジンイソムラさんのイソジンっぷり最高に面白かったですよ
お間抜けすぎて腹筋崩壊しかけたわ
これが豊臣軍クオリティ
滅ぼされるにふさわしいお間抜けっぷりですよね爆笑 >>174
中国だけでなく、天竺と呼ばれたインドまで日本陸軍で制圧する予定でしたし、
フィリピンに朝貢を促し、東南アジアには日本人町が多数存在したので、
そうなればモンゴル帝国のように、ヨーロッパ征服、アフリカ征服、
南北アメリカ征服でしたでしょうね。 家康は橋本が無理やり舌を入れてきたらどんな反応するやろか >>192
天下泰平の礎を築いたのは間違いなく秀吉だぞ?
太閤検地、刀狩り、朝鮮成敗による戦国武将の弱体化
家康が出来たのはもう少し身近な宮廷内の持続の部分だけだよ >>175
三河の先輩、源頼朝と同じポジションの自覚はあっただろ
大坂征伐は承久の乱と考えれば、流れは同じ
まずは東国の王として君臨し、その後西国に攻め上がり、西国も影響下においた
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 弟も一度は許してたし、柴田勝家も許してたし、勝家と喧嘩し戦ボイコットした秀吉も
許してたで信長。許しすぎや。 >>195
信長の場合は、てめーなんぞに何ができるwって自信もあって許してるからな >>20
小牧長久手は秀吉の二世の戦未経験の奴の希望で家康本陣と戦って死傷者を出した
↓
それでもまだやらせてくれと言って更に死傷者を出す
↓
遂に秀吉が出陣
↓
家康は最速で逃亡し籠城
↓
いくら出てこいと言っても出て来ず
これが現実に起こった事
家康は強い奴を徹底的に避ける >>191
補給の大切さに気付いてないとか信玄割と無能? >>175
本能寺の変時点では間違いなくないだろうね
明智討伐軍起こして鳴海まで出馬したけど秀吉からもう終わったから三河に戻ってと言われてそれに従い
その後は甲信に目を向けたのも秀吉から「信州・甲州・上州を治めている味方は混乱の最中に退却してしまった。
これらの国々を敵方へ渡すべきではないので、兵を出され貴方のお手に入れられるように」(天正10年7月7日付家康宛秀吉書状)
と言われて織田(と言うか秀吉)の許可を取った上での軍事行動だし >>34
ウンコはやっぱりトイレでしないとダメだよな
城に帰るまでウンコガマンできなかったのに
辛抱強いわけがない >>199
同母弟の信行(信勝)、妹婿の浅井長政は一回は許されて二回目でアウト
だから信行に一回ついた柴田勝家とか異母兄の織田信広とか
一回だけで二回目やらかさなかったからそのままセーフだった人もいる >>30
念のため、一次史料には存在しない
まあ極度の緊張や恐怖は漏らす原因になるからあってもおかしくはないけど >>196
竹中平蔵は竹中半兵衛の子孫なのか?
半兵衛の子孫といえば鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍の司令官だった竹中重固がいる
敵の攻撃で真っ先に逃げたり、アホな命令をし負けたり >>205
いや信長の場合はたぶんマジで優しい
二回目は許すと国が滅ぶから許したくても許せないだけ
計算高く優しいのが信長 徳川家康以上に、歴史をよく知っていた怪物は家光で
家光が関わった事績には、全て意味がある
何故日光なのかは、三河の歴史に精通していないと分からない
三河の源頼朝(征夷大将軍)=三河の徳川家康(征夷大将軍)
寛伝(三河の藤姓熱田大宮司家)=天海(明智光秀(進士氏(三河の藤姓熱田大宮司家)))
三河の源頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ
■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた
源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→女(由良御前)→源頼朝
寛伝(母方従兄弟、三河国滝山寺僧)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝 >>89
秀吉がそのまま死んで秀次が継げばなんとかなったのでは?
あ、でも誰かが秀頼担ぐか >>214
その場合、甥で養子の秀次が粛清されず、成人して妻子多数いる後継者を持つ豊臣が
史実より強敵になった可能性もあったかも >>106
家康のほうは難癖つけて豊臣家を滅ぼしたもんな 大阪都構想で豊臣復権の再現をしようとしたらイソジン崇拝しちゃって大敗北
これが豊臣軍の末裔のクオリティなんですよ爆笑
エベンキみたいに知的障害はいってますよねkぴつら豊臣って爆笑 >>222
織田秀信だって空気読んで秀吉に臣従したから滅ぼされなかっただけで、現に信孝は滅ぼしたやん >>145
日本とか抜きに中世はだいたいどこの国も国外からの視点以外はそうだろ・・・
現代それをやってるのがやべーやつ >>185
津川は葵徳川三代じゃなかったっけ?
独眼竜は勝新太郎の凄みのある太閤殿下しか覚えてない >>227
秀信は気づいたら家臣になってた感じでは? >>220
どうだろ
太閤になってからも淀以外も流産の例はあるし 辛抱強いってのは結果論じゃん
信長秀吉が死んでなんか天下とれそうな感じになったから手を出しただけ
ただのタナボタ、まさに座ってたら天下餅が転がってきただけのジジイだ >>232
秀の字を前につけて元服した時点で自然とそうなってた感じだろうな 恩賞出し過ぎて外征せざる負えなかった時点で豊臣は詰んでた >>199
荒木村重の謀反の時は荒木村重の部将の
高山右近と中川清秀は信長に降伏して許されたな
荒木村重は逃げ切ったけどその家族は信長にほとんど皆殺しにされたようだな >>185
津川雅彦の家康はよかったな
秀吉が勝新太郎でなんか違うなと思った 三方ヶ原の戦いで我がまま通して武田軍に挑んで
家臣を戦死させてクソ漏らして退却しているくらいだからな。
しかもクソをもらしたことを本多作左衛門に指摘されて
「たわけ焼き味噌じゃ!」とごまかす見栄っ張り。 >>216
子孫の可能性大だよ
平蔵がやってるのは豊臣がやろうとしてた事の再現だからね
平蔵の父親は部落だし徳川がやってきた政策を全否定で恨んでるしね >>232
秀頼だって少なくとも冬の陣負けた時点でもう諦めろよw >>243
糞に関しては史実という根拠はないんだってばよ >>241
そのレベルでいいなら、家康だって関ヶ原で西軍についた家を許しまくっとるやん >>241
荒木村重はさっさとごめんなさいしてたら許されてた >>246
大和に移転しようとしたが
浪人が暴走してそれも無理だったんだよ 豊臣秀長は空気読み過ぎて男子を残さなかったからね。
当時の判断としては正しいんだけど。 家康は、豊臣家の家臣な。
つまり徳川は謀叛人
謀叛人を養護するやつはキチガイ >>252
その浪人を切れって言われても切らなかったからでしょ 辛抱強くてもたまたま運悪く絶好のチャンスに恵まれてしまうと天下人になれないものよ >>250
戦の敵と家臣の裏切りは同列に語るもんじゃないよ 駿府城堀遊覧船3月運航へ。
静岡市が計画している駿府城公園の堀での遊覧船の運航が新型コロナウイルスの影響で当初の予定より半年遅れて今年3月から始まることになりました。
静岡市は中心部の観光振興を目的に、松江市から譲り受けた、エンジンや屋根がある定員11人の遊覧船を、去年の秋から葵区の駿府城公園を取り囲む、1周1600メートルほどの堀で運航する計画でしたが、新型コロナウイルスの影響で見合わせていました。
この計画ついて市はことし3月20日から始めることを決め、土日祝日やイベント開催時を中心に年間120日間以上運航することになりました。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/shizuoka/20210102/3030009872.html >>229
秀吉発給文書で追っていくと小田原征伐終わって奥州仕置、文禄の役序盤くらいまではキッレキレ
それ以降は誰彼構わず諸将宛の書状にワシが朝鮮に渡海して一騎駆けすれば朝鮮も明も即座に頭を垂れて降伏するって書きまくってる
こんなの受け取った朝鮮在陣中の諸将はまた渡海するする詐欺かよと思ってたんじゃないかと容易に想像できるくらいには酷い >>229
秀次一族虐殺事件からかなぁ
秀次と親交があっただけの大名や公家まで罰せられて、諸大名も朝廷もドン引き
豊臣家の凋落早めた >>252
徳川慶喜みたいにそっと大阪城を抜け出すとかw コンパクトシティ、静岡市が人気♪気候温暖、穏やかで人にも自転車にも優しい隠れサイクリスト天国☆
静岡市の自転車生活情報サイト
「しずおかサイクルシティ」
https://www.shizuoka-cyclecity.jp/
利用数、11月は9千回突破 静岡市のシェアサイクル「パルクル」好調 台数、ステーション拡充へ SNSなど情報発信にも力
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e3cc27945dcae7ff2d30ef8b1d99ed52bac447a エベンキ大阪維新豊臣軍「大阪都構想は不滅ニダ!絶対に諦めないニダ!何度でも再挑戦するニダ!」
普通の日本人「いやいや…お前ら豊臣は黙ってイソジンでも飲んどけや^_^」 信長は人の気持ちがわからない性格をしていた
光秀を日常的に激励(ハゲしいハゲまし)した上に(毛を利する)毛利を滅ぼせと命じた
それで絶モウ的になった光秀は本能寺の変を起こした
信長はハゲの気持ちがわからないが故に滅んだ >>254
秀吉は織田家の家臣な
つまり豊臣を謀反人
謀反人を養護する奴はきちがい 大坂といえど60万石ぽっちなんだから転封してもしなくても大してかわらんだろうに 信長との同盟時に信長の指示で正室殺害、嫡男自害
秀吉の下に付いたときには関東への移封受入れ(家康旧領移封を拒否した織田信雄は改易流罪)
まあ、辛抱強くなきゃ天下取ってないでしょ >>237
タナボタどころか、三河以外に日本を統治出来るのか、とすら考えていたよ
尾張の田舎者のおままごと政治をニヤニヤ嘲笑しながら
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 初めて静岡に自転車を紹介したのは最後の将軍「慶喜公」
徳川慶喜公は新しい時代の波を察知して、討幕派の先手を打って大政奉還をし、鎌倉幕府以来続いてきた武家政治に自ら幕を下ろした人物。わずか32歳という壮年で隠居生活を強いられるのだが、その後は趣味の世界に生きたといわれている。 その慶喜公、静岡のまちを自転車で走る姿は多くの人たちに見られている。1887(明治20)年2月5日の静岡大務新聞に「徳川慶喜公が東京に自転車を注文し、その後乗り回している」という一節がある。慶喜公が自転車を入手したのは、明治10年前後、静岡市中を乗り回しはじめたのが明治15年から16年頃だろう。
https://www.shizuoka-cyclecity.jp/history/ そういや豊臣の由来である豊聡耳、すなわち聖徳太子も
その子供の代で滅んでいるんだよな >>191
ロジが上手い軍なんて、羽柴軍がまともになってからしかないぞ。
徳川なんて、行軍序列すらまともに作れず、主力が木曽路で資金ショート。
あの時代は、どうやろうと駄馬に荷駄を引かせ、人足を荷駄一台に二人つけて行くしかない。 >>269
裏切っても許してくれそうだったのかもな
実際一回目はほとんど許してるしね 関ヶ原の戦いも豊臣政権の中での石田方と徳川方の派閥構想で
大坂の陣までは家康は表面的には豊臣に敵対していないんだよな
豊臣政権での大老でありつつ朝廷から征夷大将軍に任じられて江戸に幕府開いて
なんかよくわからんうちに天下の実権が豊臣から徳川に移っていた感じ >>272
伊達政宗というやっかいのがいてだな
婿の忠輝や豊臣やイスパニア利用して天下狙ってたのだよ 慶喜の身の振り方は絶妙やわ。
未来の自身がどうなるかを考えて
それで決断しとる気がする。
頭が良いんやろな。本家は途絶えたが。 >>280
家康を裏切った家臣って三河一向一揆除けば石川数正ぐらいじゃない? >>280
秀吉が、俺は信長みたいに甘くないって言ってたみたいだしね >>201
朝鮮出兵で戦国武将は弱体化なんかしてない
大名が弱体化したのは徳川幕府が参勤交代や天下普請で大名に金を遣わせたことと大名所有の鉄砲や船に規制かけたことと難癖つけてたくさんの外様大名を個別にとり潰したことなどが理由 >>277
ロジスティックスが上手かったのは
関ヶ原で負けた石田三成なんだよなあ >>281
豊臣家は豊臣家という公家になったので武士の棟梁は徳川家がなりましょう
と言いながら朝廷内でひたすら徳川家の官位を上げていった
一見秩序は守ってるんだよね >>63
そもそも空城の計自体が演義の創作じゃないのん? 兵站で無双した(内の一人な)のが石田三成やろ。
そら秀吉は重用するし、前線の将たちは「あのやろう
後方で偉そうにしすぎや」って言うわ。 江戸時代まで、日本人は、天皇が中国から来たと
習っていたからな。
江戸幕府は、天皇は周の末裔だということを教えてくれる。 三方ヶ原で獅子奮迅の闘いをしている勝頼を信玄と見間違えた時からうんこ垂れとったんやろw 信玄に殺されかけてウンコ漏らす
天ぷらに当たって死ぬ
松潤がどう演じるのか興味深い 豊臣の血脈朝鮮部落の薩長軍「韓国併合したらぼくたちの正体うやむやにできるよね」
これが空前絶後のクソ迷惑でクソ間抜けな豊臣軍の日本開国クオリティ >>287
秀吉は天下惣無事令を作ってそれを破ったらダメってことにしたからな
伊達政宗は疑惑があっても許されたりしたけど 家康は信長秀吉に比べてカリスマ性を感じない
長生きして最後に勝っただけの単なるラキ珍という印象 >>288
それは戦国武将じゃなくて外様大名の弱体化な?
もう戦なんてする気更々ない時代の政略だよ
イケイケのバーバリアンどもはだいたい朝鮮出兵でもう戦はこりごりだよ化してる 武田に責められて脱糞した図を描かせたのは本当かね?
恥ずかし過ぎるし、天下人になったのに
それを後世に残し公開してるのも凄いわな めっちゃ短気やったと記録されてるやろ
そして人生の反省から
「怒ったらアカンで」と遺言を残している >>286
本多正信とか水野勝成とか、出奔してから帰参したのはそれなりにいる 可能性というか完全な創作でしょ
徳川政権は常に財政赤字による一我慢倹約が歴代共通の政策
初代はこんなに我慢強いんだぞーというエピソード捏造しないと
下々が付いてこない もし家康公が馬上で漏らしたウンコを家臣が拝領して焼き固めてその子孫が現代まで伝えていたら
博物館でケースに入れられて「神君の馬上糞」として神々しく飾られてそう。 >>294
大坂を出て公家として生きればよかったんだよな秀頼
若くして右大臣にしてもらったんだし >>302
死んでも盤石な体制を作った時点で前者の2人とは決定的に違う >>277
小田原征伐の時の豊臣軍も兵站が上手く行ってない記述があるね
北条方の山中城主松田康長の書状に「豊臣勢は兵糧が欠乏しているようだ。野老(芋)を掘って食べている」
北条氏政の書状にも「豊臣の先陣(秀次軍)は2,3日三島に駐屯して芋を掘るようだ」
との記述があるね
それ以降は兵糧不足が解消されたのか分からんけど、史料からは兵糧不足っていう記述はなくなってるから秀次率いる先方衆に限った話かもしれないけど >>281
秀吉と同じ事やってるだけなんだよな
秀吉も織田家の宿老として振る舞いながら朝廷工作を続けて最終的に織田家を官位で上回って臣従させたから >>312
織田も本当はそうなってた
信忠が囲まれてないのに光秀相手だから逃げれないって勝手に思い込んで自害したから
崩壊したけど >>288
参勤交代は徳川が始めたのではなく、
豊臣がすでにやっている
臣従した島津が「伏見の屋敷は金かかってしょーがない」
とぼやいている 書物は必ず脚色されている
誰が書こうが正史だろうが客観的だろうが信用性が高いだろうが
「お前、直に見てきたのかよ」の一言で終わり
好きに像を描いて言えばいい 本能寺で信長死亡の報せを受け、パニクって、京都に乗り組んで切腹するって騒ぎ散らかしたという話を聞いて、イメージ変わったわ 統一とか日本会議とか変な連中の分断工作じゃないの?
秀吉アゲから家康落としはさ >>285
松平容保他会津の人達を酷い目に遭わせたよね >>1
頼朝 義経がいなけりゃ平家打倒は無理だった
家康 信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をつまみ食い
征夷大将軍の称号が相応しいのはやはり尊氏かね 織田信長が今川義元を破ると、すぐさま織田との同盟に鞍替え
武田信玄との戦いに惨敗した時は糞尿まき散らしながら逃げる
秀吉に勝てないと思えばすぐさま屈服して従うが
秀吉が病で亡くなると豊臣家一族を蹂躙
一向一揆に対しては話し合いで解決したのち、油断したところをすぐさま武力で蹂躙
この時代に生きた武将の中では最強のクズ 負けた相手の武田がいかに強かったのか持ち上げる為と言っても
ウンコ漏らしたとか作り話として残す訳が無いからな
本当に漏らしたと考えるのが妥当 豊臣軍大阪土人は維新を隠れ蓑にして東京こと江戸に復讐を果たす気なんだけど間違ってイソジン崇拝しちゃって日本乗っ取り計画が全てパー トップなんでそんなもんや。エグいのがいて当然。
だから民主主義が良いって実感するわけやで。
アンカーつけて批判したいのか知らんが、
オレはかくありたいってレスしてるわけちゃうで。 秀吉の正妻と側室はピル飲んでた
淀嬢だけは飲まなかった >>324
政治家として無能すぎて日本の秩序というかモラルというか、崩壊しちゃったからなあ 家康は農業重視で米本位制の経済をつくったせいで、
江戸時代の武士は貧乏だった >>321
日本に限らず歴史は物語として残ってる部分が多いから本当のところは解らない
でも家康が信玄に追いかけられてウンコ漏らしたのは事実だろう 神武天皇は古代イスラエル王国の末裔でしょう
その前に四つくらい先行王朝が日本にあったらしいけど だって女にはめちゃ手が早かったからな。
それなのに他については辛抱強いとは考えにくい。 ネオリベ連中の秀吉はグローバルだから偉い
徳川は鎖国したからダメ
これがまず先にあって東西分断工作も兼ねてやってんじゃないかな >>296
尾張人の北政所率いる尾張閥(加藤、福島などの武断派)と、
近江人の淀殿率いる近江閥(石田、長束などの文治派)の対立があったらしい、豊臣家 >>315
信忠は有能だったみたいね
流石に秀吉も派手な動きはできないだろうし >>1
詠み人知らず?
昔、名前あった気がするけどな (-_-;)y-~
秀頼殺しとか見ると、辛抱強いとは思えんけどな。 >>96
軽率な性格なのはガチやろ
ルイ17が父方のDNA検査を強固にしない点も含めて半分は事実だと思うわ >>286
裏切りではないが、家康の御落胤と言われてる小笠原権之丞
この人はキリシタンになってしまい、それで放逐されてしまい
大坂の陣では豊臣方に参戦し戦死した
以前徳川の家来だった人で、大坂の陣で豊臣に参戦したのは石川数正の子
姉川の戦いまで家康の家来だった青木一重、その後は丹羽長秀や秀吉の家来となり
大坂の陣では七手組の1人、夏の陣前に徳川に使者として赴いたが
そこで捕縛され大阪城には帰らず、その後大名に取り立てられた
豊臣の家来として振舞ってたが、密かに徳川に通じてたと思う >>320
家康は経産婦しか妾にしなかったと本で読みましたが。
確実に子供が産める女だと判断できないと採用しない。
別の意図があったかもしれませんが。 >>337
そういう話はありますね。ただそれを踏まえたうえで、
当時は色々な人間関係が絡み合っていたのではとも思います。
この手の話をつまみ食いしてる身なので、専門家からは
腹が立つ立場だということも自覚はしていますが。 麒麟が来る、では単に気の弱い人として扱われていたよね。 >>4
だよね。
辛抱強いのは性格じゃなくて処世術 豊臣崇拝を匂わせてたらイソジン崇拝者だったイソジン吉村のおかげで大阪都構想大失敗
実はイソジン吉村って徳川のスパイだろ爆笑 性格はわからんけど、弱小勢力は辛抱するしか選択肢ないんだよ 北政所を慕ってたのは秀忠らしいな
人質だったけど実質は育ての親みたいだったらしく
いろいろ守ってたようだ >>325
関が原は秀忠に逃走路を確保させて置き、勝ったら遅延にして激怒
晩年は側室が段々と低年齢化していき少女と性行為して子供を作ろうとした
豊臣の小田原攻めでは同盟&婚姻関係の北条を見捨てる 幕府を開いた家康は、伊達政宗を抑えて
体制固めをする必要があった
日光にはいろいろ説明はあるが、そもそも
幕府の防衛意識が北側に向いていた
伊達から見ると、家康が江戸の入り口で
守っていることになる >>221
可能性っていうか普通にそうなってるだろ
秀次暗愚説も秀吉が粛清正当化するために作り上げた捏造だからな >>344
ガキのころからの人質生活でママンに甘えられなかったので母親を思わせる熟女フェチだった
へうげものでもそういう家康像に描かれてるよね
シャアが天下取ったら家康みたいになっとったかもね >>352
子どもを産める女ということで後家を最初は好んだが
性病をおそれて処女を側室にしたというわけだね >>286
武田に通じたとして妻子もろとも惨殺された大賀弥四郎が有名 まあ、結果的に最後の最後で徳川が天下とっただけで織田政権の時代から雌伏していた
ってわけでもないだろうしな 脱糞したことにかん口令を敷かない家康は立派だ
秀吉は指が6本あったことを記録に残させなかった 本能寺の変の黒幕というのが今年一番の驚き
伊賀越えの話も大袈裟で逃走を強調
何か隠したいことがある時によくとられる手法 >>321
現代だって捏造だらけだし
勝者に都合の悪い事象が歪んで伝えられないはずがない ここまで金ヶ崎撤退戦の記述無し。
信長が秀吉に殿軍を命じる(必死確定)<家康が助ける。 >>13
あれは信長に対する反省してま〜す、ってパフォ節もある というか、戦国大名って江戸期の大名に比べて子沢山だよな織田にしても徳川に
しても。政略結婚の道具としても必要だし、跡継ぎいないと滅ぶしで子供作らないと
行けないプレッシャーかなりあったんだろうな (-_-;)y-~
戦国安土桃山を終わらせるために、
関ケ原以降、西日本で大坂の陣、島原の乱やろ、
それでも島津は戦国体制のまま270年とかw
家康一人でどうにかなるようなもんではないなぁ。 徳川家康は豊臣秀吉から羽柴の名字を下賜されていますが、
羽柴家康と名乗ったり署名した事はあったのでしょうか?
もちろんです。
征夷大将軍になるまで、公式の文書には羽柴家康と記載しています。 麟祥院殿仁淵了義尼大姉 春日局の辞世の句
西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな ネトサポ「歴史は勝者による捏造!トランプが本当の大統領!」 >>342
ナポレオンは国際会議の場で、フェルセンを名指しで「奴は王妃と寝たのだぞ」と言ったらしいね すぐに切腹する、討死すると激昂するもんだから
家臣達は大変だったらしいな
まぁ、その家臣達もめんどくささに定評がある逸話が吐いて捨てるほどあるから
割れ鍋に綴じ蓋というかw 「男子三日会わざれば刮目して見ろ。」だな。
若い頃はナイフの様な人でも、社会へ出た後は丁寧&低姿勢だったりする。
男子に限った事でもないがな。 家康はクソ中のクソ
徳川家康が、豊臣秀吉の臣下として羽柴授姓されて、羽柴家康を名乗っていたことがあり、本姓も豊臣に改姓して、豊臣家康としていたというのです。豊臣一族の一員として秀吉に仕えていたのでした。 >>373
本能寺なんて馬鹿げた事やらないで普通に織田家で頑張れば良かったんだよw
出世競争で秀吉に遅れ取り始めてたとはいえ、まだ天下統一されてないから
九州とか手柄立てるチャンスあったのに。 小心者なだけという
信長や秀吉と比べて特に凄い事は何もやってないし知恵者でもないし戦もダメ
しかも狸親父だとか狡猾だとかそういったイメージしかない人
「織田がつき 羽柴が捏ねし天下餅 座して食うのは徳の川」
と言われてるほど何もしてない 開国して朝鮮人と支那人を日本に入れて自分たちの正体をうやむやにした豊臣の末裔こと穢多朝鮮の薩長軍
豊臣の権力を自由移民党に引き継いで日本分断のために大阪都構想を目論むがイソジン吉村のおかげで日本は救われる
ありがとうイソジン >>384
じゃあどう言う意味だ?
書いてから草つけろや >>313
羽柴軍は実戦先手の行軍速度が異様に速い。
その軍勢は腰兵糧で、スピードを以て有利な地を制圧するんだろうが、兵站は後から荷駄や船の到着を待つか、現地で金ばらまいて買い上げるしかないだろうね。
当然ながら、それまでは時間がかかり、芋でも何でも食ってつながなきゃならない。 >>339
とんでもない吝嗇家だよ
その方面の逸話なら事欠かないw
自身のふんどしを黄色く染めさせたり
天下人になってからも、風で飛ばされた懐紙(現代のティッシュ)を追いかけたりと イラつくと爪かじるくせがあって関ヶ原の時はそれはもうって話もあるから
性格的にはいらちだったかもね、環境が感情に赴くままに動くこと許さなかっただけかもな 逆に面白ければいいとか
そういう朝鮮気質みたいなのは庶民には迷惑だな
コロナとオリンピックでよくわかった 進物のパイナップル食ってスジで血だらけになったから相手を斬首する程度のやつ ナイフに書き直したのまでバレたのか
「男子三日会わざれば刮目して見よ。」
人は成長するもんだろ?
まあ、決め付けんなって事だ。 >>364
ナニソレ
信長死んで、自分はもうおしまいだ、腹切る!って騒いでたのを部下に諫められて伊賀越えに、って話らしいぞ
信長討伐に踏み切ったくらいだから光秀が自分の知らないところで周辺地域の根回し済ませていると勘違いしていた節がある 子供の頃からさんざんあっちこっちで人質になってたから
武家同士のやり取りとか、どうやって人心をつかむかとか学んでたんだろうね
秀吉も人たらしだけど、家康もうまく取り入って勝利したって感じ >>287
神子田正治について述べてる脇坂安治宛の書状だな
信長のように甘くないっていう直接的な表現ではないがまあ同じような意味だな
「主君に口答えをし、その上臆病風に吹かれ法度に背く奴の事を思い出せば非常に腹が立つから、高野山からも追い払うことにした。
もし脇坂の領内に神子田が居るのを見つけたら妻子に至るまですぐ追い払うように。
秀吉の御意に背く輩は、信長の時代の如く少々親交があるが故に、少しくらいは大目に見ようと許容することは言語道断だ。
下々の者にもそれを徹底させ、堅く申し聞かせるように」 まあ忍耐強いタヌキは得だろな
ワシもそうだからそろそろビッグウエーブが来てもいいと思うんだけど >>395
いや、「鍛えたり修行してる奴は短期間でも成長してる事があるからみくびるな」
って言う意味
お前はその言事の意味を履き違えてる >>351
大坂の陣後も秀忠は、北政所がいる高台院に行き面会したはず
秀忠の秀は秀吉から貰ったが、大坂の陣後改名するのが当たり前だったと思う
家康が今川から独立し、義元から貰った元康を改名したし
それをしなかったのは、豊臣を弔う北政所に遠慮したのかもしれない つうかさ頭丸めて謝り来ても家族一同殺すとか
秀吉は最初からキチガイだよな 武田絡みの話は徳川が武田家臣取り込んだからそいつらが旧主のために盛ってるだけ
滅ぼした勝頼ディスってるのも旧武田家臣 >>143
たしかに徳川方の黒田家が描かせた「大坂夏の陣図屏風」には
大坂の街で徳川軍が実行した蛮行が余すところなく描かれてるね
明治維新の時に「江戸っ子大虐殺」なんて起きなかったが
徳川軍は大坂の街で「大坂大虐殺」を実行してるんだよね
ほんと徳川ってクソだわ >>404
そのままではないぞ?
社会に出る=鍛錬なんて思ってるアホなんか存在しない
とりあえず頭が悪すぎる 嫌だからナイフと内府に引っ掛けたってのが言いたいってレスやろ。
それに付随した刮目せよに引っ張られ過ぎってやつ。
違うんかな。 >>391
褌は浅黄色に限る、といって家臣にも推奨したところ
「殿の仰せとはいえ、いつ死んで敵に身体を晒されるかもしれない身としては
せめて褌くらいは白を締めさせて欲しい」と不評だったとかw >>408
絡むなよ
精神薬飲んどけよ
ウザメンヘラ >>395
大抵は、もともと低姿勢な人だが合わない人がいて距離を取っていて、
その人から見て、愛想なく見えているだけではないですか。 「人の一生は重き荷を背負いて遠き道を行くがごとし」なんてカッコいいこというから、
家康は辛抱強い説が残るんだな
何かというと切腹したがる奴なんだから、短気っていうか感情の起伏が激しい奴だと思う >>402
信康に関しては親父無視して重臣はべらせて調子に乗ってたから自業自得 >>231
独眼竜はクールさがある
葵徳川は津川がやりたいように
かなりやんちゃ だいたい1人の人間が一貫して同じ性格な訳ないだろ。 まず、鳴くまで待とうが性格の話をしているということを今知った
俺はてっきり信長秀吉家康のやり方を表してるのかと思っていたんだが >>407
新政府軍が江戸で強姦や略奪さんざん働いたので、後から公務員を法律上無答責にしたのは有名な話だが >>408
> 社会に出る=鍛錬なんて思ってるアホなんか存在しない
成る程!理解した無職か。
すまん悪かった。 織田信長=橋下徹
豊臣秀吉=松井一郎
徳川家康=吉村洋文 (-_-;)y-~
人生の基礎が武将やからな。
それも、近代国家の軍人じゃなく、武士やからなぁ。
江戸時代の教養有り武士像の方が特殊やで。 そりゃ家康はさ、祖父父親ともに家臣に暗殺されてんだよ
三河武士ウンタラいうわりには実態はこれなんだから
家臣にいいようにされてる信康は警戒されるだろ
つうか信康が家康暗殺する謀は嘘じゃなかったんじゃないの? >>398
神子田や尾藤など、少し前まで重臣だった人に厳しい態度をとったな
中小企業だった羽柴軍が、一気に大企業となり
各地から優秀な家来が増え、以前の人達のレベルが色褪せた
中小企業時代は部長だったが、大企業となり組織が複雑になり自然と課長に降格
それでも石高が増えたりした人も大勢いたが
彼らは大社長となった秀吉への態度を、あまり変えなかったから処罰されたのかな? >>416
会津藩は山川健次郎が東京大学の総長にまで出世したのがデカいよ
山川は板垣退助や渋沢栄一あたりと一緒になって
徳川age長州sageのステマ出版をし過ぎだわな
現代の学校教科書でも健次郎の「山川史観」とも言える「会津史観」の影響が大きい
教科書では会津征伐や仙台征伐はいつの間にか「戊辰戦争」に統一されたのに
長州征伐は未だに「長州征討」に言い換えられた程度で長州蔑視の会津史観が根深い 新政府軍の悪行がどうの以前にわれら薩摩が幕府側との戦いに持ち込むために
仕組んだ作戦は吐き気って形容が甘いくらいの悪行だけどな。
だが、それすら認めるんだよ身内だから。極端にエグいんだよ現実は。 家康を神君家康にしたのは三河以来の譜代家臣たちと言われている
家光の代になって3代も経ると家康を支えた譜代家臣の貢献が色褪せてきて家光は新参者(春日局の息子の稲葉家とか)を重用し始めた
家光が譜代家臣の功績を忘れさせないように家康の歴史と家臣の功績を残すようになった
実際、姉川の戦いはかなり脚色されていると言われている
家康の評価は勝者の歴史&徳川家臣団の主導権争いの結果 後世になり勝者も落ちぶれ敗者だった側も捏造するだろ
江戸しぐさとか会津観光史学とか
判官贔屓も手伝って勝者の歴史より受け入れられやすいし 今の徳川宗家は会津藩の松平容保の子孫
これクリトリスな >>420
鳴かずんば〜の句がそもそも後のものだからな。
実家に江戸時代の人が書いた掛け軸あったけど、家壊す頃には消えてたわ。
鑑定で価値は無かったが勿体なかったな (-_-;)y-~
何年前か忘れたけど、
競馬スレで石橋脩騎手ほめたら、あんまり信用するなってレスがきた。
信用はしてないけど、騎手に好き嫌いは作らんようにしてる。
周囲に簡単に動かされる人たちやしなぁ…そういう職業やから仕方がない。
家康が家臣を見る目って、
競馬を見るようなもんやと思うで。 わりと短気やったやろ
短気なのを自覚してるから自分を戒めて慎重になったんやぞ
実社会でもそういう人多いぞ
自分の欠点わかってるから仕事中はそれを気を付けて仕事してる
けど飲みに行ったりするとプライベートは仕事中と全然違う性格やな
って人いない? 小渕元首相はネチネチした性格だったらしい
平成パネル掲げてる絵図からは想像できないがな >>431
暴言多いですね。お昼はお子様ランチ食べた?
もう遅いから寝ましょうね。 >>389
正に豊臣軍が現地調達で兵糧に苦労している記述が芋の他にもあって興味深い
「兵糧一升びた銭で百文だがこれも最早尽きてしまい買えなくなっている」
「雑炊は一杯十銭で売られていて兵がこれに群がっている。
この調子では豊臣方が長期に渡り陣を敷くのは難しいだろう」
北条征伐はどうしても物見遊山で勝ったってイメージがあるけど大軍故の問題も少なからず存在してたと言うことが分かるね >>428
徳川は長州征伐と偉そうな態度で攻めて来たが、見事返り討ちにあった
幕長戦争とか、四境戦争などの名より
長州の人らの心象を考えると、長州征伐の方が嬉しい気分もあり
それで名前を変える事に尽力しなかったのかも? 会津が負けて被害者ヅラしてるけど幕末の徳川方最強の軍勢を持っていてスパルタみたいな軍事教育してた藩だったことを忘れてる
そういう藩だから京都防衛を任されてたわけだし、京都でたくさん殺してるんで薩長に恨まれるわけだな
ちなみに戊辰戦争で会津の山に迷い込んだ長州兵を捕らえて鍋にして食べたという記録もあるんでどっちもどっちだな 歴史は浪漫だからな
実際の目で見れないから面白いもんなんだよな。 >>438
小渕さんか
毎年沖縄に行って戦没者の遺骨集めしているという話を聞いてからイメージ変わったわ 結局、百姓からのしあがった秀吉が一番優秀なのは間違いない
信長、家康は運がいいだけ 薩摩がルーツだから一番好きな偉人は大久保利通公やわ。 秀吉は、信長の息子を養子にしたから出世しただけ。
ゆとり世代はアホだからそれがわからんとです。 >>150
幕府開いた後じゃムリじゃね?関ヶ原直後に後継者を明言しないままに急死、ならまだなんとかなるかも >>453
翔ぶが如くの鹿賀丈史のイメージで
おれもすき 長州の嫌われ方が異常だろ
確かに安倍とか見ても嫌われる理由がわかったわ 家康がケチとは知らなかったわ
なんかすごい頑丈な城とか作るイメージだった 辛抱できない奴は大成しない。みんな辛抱してるんだよ 性格はわからんけど、辛抱できない奴は大成しない。一流はみんな辛抱しているんだよ >>458
そういう武将の方が好きだけどなw 必要な所に思いっきり投入すればいいんだよ
官兵衛なんかも普段はケチだったろ。貯めといて関ヶ原おこったら、傭兵と武器でありったけ使うみたいな >>411
それ汚れが目立たないからっていうジョークのやつじゃ >>452
けっこう早い段階で信長の重臣格になっていること、
京都の政務を任されるなど一定以上の教養を身に着けていたことから
下級かもだが武士階級だったのではと見られている、少なくとも伝記のような呑百姓ではないだろう 軍事支援と引き換えに北海道の割譲をプロイセンに持ちかけた会津と庄内がいちばんの国賊
断ってくれたビスマルクに日本人は感謝すべき 大阪維新エベンキ薩長豊臣軍「大阪都構想は不滅ニダ!絶対に諦めないニダ!何度でも挑戦するニダ!」
普通の日本人「いやいや…お前ら豊臣は黙ってイソジンでも飲んどけや^_^」
豊臣馬鹿丸出しでワロタ >>427
尾藤や神子田についての史料は後世に編纂されたものがほとんどで
この書状のように具体的に秀吉が怒りをあらわにした内容のものってこれくらいしかないと思う
この書状の日付は8月13日で秀吉の関白就任は一ヶ月前の7月11日
信頼できる史料が少ないから断言はできないけどあなたの仰る通り
この書状を見る限りでは神子田は天下人秀吉に対して本能寺の変の前の秀吉の様に接していた節はあるね >>458
天下人になってから徳川領の各地に頑丈な城をつくらせたのは事実だよ
でも外様大名にも多大な出費を強いて手伝わせるあたり
家康の吝嗇は戦略レベルに昇華されていたのかもしれないw >>452
家康は徳川家に忠義を尽くす家臣団が優秀だった
信長、秀吉は本人のカリスマ性だけ >>467
普仏戦争前でしょ
遠方の土地なんかで
下手に刺激しないように >>472
野◯さんが言った話だろ?
当時のゴシップネタやんか イギリスは、薩英戦争の恨みを今もずっと忘れてないぞ
薩摩覚えてろ >>448
江戸初期まで会津は、加藤嘉明など外様が何度か入れ替わり治めてたが
保科正之から親藩に
江戸幕府が長く続いたのも、この人の功績だと言う人もいるぐらい優秀で
家臣も名門やレベルの高い人を集めたみたいやな
幕末で名が出て知ってる人だけでも
西郷頼母は秀忠の母西郷の局の一族の子孫、南北朝で活躍した菊池氏の一族
主戦派でよく名が出る梶原は、源平時代の梶原景時の子孫
足利三代の木像を切った事件があったが、その時に会津藩なのに参加した大庭も
源平時代によく名が出てくる大庭氏
保科正之時代はレベルの高い家臣だったと思うが、幕末時代の会津は
江戸期後半何度も襲った東北の飢饉で疲弊してたのもあるが
欧米の新兵器導入に遅れ、蛤御門では役に立たず、鳥羽伏見では一方的に負け >>478
お前がそんな事言うから、今日初めて鹿児島でイギリスの変異種が確認されたんや。 >>1
まあ、この時代だし家康だけがアレってわけでもないが、
人格変容しててもおかしくないくらい不幸続きの人。
そういうイメージがないのは最後には覇者になったからだろうね。
子を殺され、母を殺され、彼の人生を真似たいとは全くおもわん。 >>458
家臣にあまり領土を与えなかったから、さすがに秀吉が心配して、井伊本多酒井榊原くらいはせめて加増してやれって助言したエピソードがある 秀吉と家康は個人間なら仲良かったやろ。
なんとなくだけどそう思う。 >>92
昔の人の心には響いたろうけど
今は3人兄弟より一人っ子のが多いし
ヒキや無職の兄弟リスクの方が大きいから
現代人にはあまり響かない教訓だ >>481
長子を殺したのは信長のせいみたいになってるが、どうなのかね。 誰にも逆らえずにいたらいつのまにか自分以外死んでいた人 (-_-;)y-~
戦争行った奴、してきた奴の本性なんて、平時しか知らん人間にはわからんって。
予科練ジジイとか、わけわからんとこあったからな。
夜中にでかい声の寝言で、逃げろおおおおおおおおおおおおお!って叫ぶんやでw 織田豊臣徳川による天下統一への流れは、高天原の意志 関東や畿内に親藩、譜代大名を置いて外様大名を西国に追いやったおかげで政権は安定したが、幕末にはそれが皮肉にも外国といち早く接触した外様大名が力をつけることになってしまった >>1
流行った文章が贋作でも、歴史からみる人物像から答えを見る人物像は本物。徳川家康は辛抱強く、信念を持った人だ。
自分の脳でその結論が出せず、流行り言葉が嘘だから人物像まで嘘だというのは自分で考える知能がない猿だ。 (-_-;)y-~
走れえええええええええ!ってのもあったなw 氷河期ニートの中は家康クラスの人材がウジャウジャいる。
彼らは「待つ」という事を知っている。人生急ぐべからずだ。 >>448
長州の被害者面の方が酷い。
そもそも輝元がやらかしたのが全ての始まり。
安易に西軍総大将受けて、安易に大阪城から撤退。
なにがしたかったのかと・・・・・・ 吉良上野介 ・・・ 先生
浅野長矩 ・・・ 生徒
生徒が先生を暴行して、ケンカ?
頭おかしなるでしかし >>491
そうそう
家の爺は戦後定期的に寝こんだらしいが、他人様は、普段の愛想良い顔からは想像出来なかったらしいわ。 確かに家康が幼少期の人質生活で肩身の狭い思いをして辛抱強くなったってのは大きな誤解だな
母親と幼い頃に別れたせいで寂しい思いはずっとしていただろうが
そのせいでいつまでも爪を噛む癖が抜けなかったり後家好きになってしまった
人質生活自体は別に監禁されていたわけでもなく、
将来氏真を支える今川家重臣となる事を期待され高度な教育を受け、
家臣と安倍川周辺を出歩いたり寺で鷹狩りやって和尚に怒られたりと
比較的自由にのびのびとした幼少期を過ごした
結果、辛抱強いどころかむしろ自由闊達ですぐカッとなりやすくイケイケどんどんな性格に育った
でなければ岡崎周辺だけという三河の一角に過ぎない領地から
短期間に三河遠江を支配するまで勢力を拡大出来るわけがない
まあその短絡的な性格が災いして三方ヶ原の敗戦に繋がったわけだが
それ以降反省してようやく我慢を学び、慎重さも出てきたって感じ >>494
家康の西国大名防衛策が全然機能していない案件。
大体、紀州のせい。 「元親百カ条」「信玄家法」「今川仮名目録」「蜂須賀氏掟書」その他の規程を読んでいただけたら一目瞭然なのですが、
「両成敗」の前提となるのはあくまで対等の「喧嘩」のケース、
一方的な「狼藉」はきちんと区別されています。
両成敗ではないからおかしい、
と主張したのは武家のルールをあまり知らないゆとり世代たちではないでしょうか。 そもそもホトトギスの話はそれぞれが政策として行った対応の比喩なのに、
何で個人的性格の話と思ってしまったのか。 親子下克上が当たり前の時代に
二代続けて家臣に暗殺されてる家康がさ
信康と家臣の不穏な動きに警戒するのは当たり前のような
むしろよくぞ知らせてくれたと思ったんじゃないの? >>464
なんと明治以降三分の一の約50年を長州人が総理大臣やってる
実質長州幕府 >>505
ドラマのイメージとか大きいよな。事実上それを性格としてキャラ付けされちゃってるw
信長はキレそうだし、秀吉は明るい知恵者だし、家康jは穏やかで我慢強い感じ >>502
うーん・・・だいぶ俺が見聞きした幼少時代と異なるな。
もっともファクトを云々できる知識は持ち合わせてないが。 家康が豊臣家にとっては謀叛人の逆臣で有ることは間違いない 長州は命かけて突っ張って賭けに勝ったんだから
トップの立場にい続けるのは当然だとも思うがな。
無論そういうのが大嫌いな人もいるのもわかるが。 >>507
佐藤と安部が8年、伊藤博文は4回ぐらい就任
この3人が長く総理になったな
あとは佐藤の兄の岸、山県有朋、日露戦争前後に西園寺と交代を繰り返した桂太郎 >>494
本多とか榊原とか大藩で残しておけばよかったのにな
警戒したのかな
幕末まで大藩で残ったの井伊だけ
戦ったの酒井だけだもんな 現代日本語の「です・ます」調ももとをただすと長州弁 本多正信「一向宗なんで一向一揆に加担するんでお暇ください」
家康「はい?」
本多正信「一向一揆負けたんで、またこっちでよろしくお願いしますね」
家康「好きにしたらええ」
信長と秀吉だったら即刻打ち首だろw >>511
大概の歴史物は楽しめるんだが、小栗旬が信長やってたドラマだけはうけつけなかったわ。
天下大嚞役の小栗旬は好きだったんだけどな >>482
3度も信長包囲網を仕掛けられても粘り強く突破して天下統一
明智みたいな子者にヤられて惜しい 家康は今川義元が信長に討たれ信玄は陣中で病死
秀吉は晩年になってとち狂いだし、弟の秀長病死、秀次粛清で政権中枢を弱体化
家康の力削ぐことなく後を託して病死、最後の目の上のタンコブだった前田利家も病死だからな >>518
関ケ原後に石田三成に旧領を継いだ井伊20万石が、譜代で最も多かった
その後彦根藩は35万石まで増えたが、桜田門外の変後に25万石に
譜代で最も多いのが最初から最後まで彦根藩
幕末の桑名藩が15万石ぐらい、10万石以上の譜代は他にも一杯いた
譜代は数は多いが小さいのを分散させていた
飛び地が結構多かったみたいで、鳥羽伏見後の桑名藩は官軍に降参したが
当主は越後の飛び地に逃げ戦った
彦根藩が増えた15万石も飛び地が多かったんじゃないかな?
やたら移封が多く、飛び地が多かったのが幕末の譜代が弱かった理由だと思う >>525
晩年ロリに走ったというがせっせと子孫を増やすため。 家臣に殺された清康「孫は辛抱強いと思う」
家臣に殺された広忠「息子は辛抱強いと思う」
僧侶をぶち殺した信康「父は辛抱強いと思います」
遺伝で短気だと思うわ 今川で人質になっていた時に騒いで隣の家のおっさんに怒鳴られたことをずっと覚えていて、数十年後にそのおっさんを見つけるなり殺した度量のなさよ 信長を人格者って言うけど信長公記にも
茶坊主に切れて手討ちにしたり、短気な
面が多いからなぁ まあよくわからないから
歴史作家が好き勝手に創作できるんだしな
坂本龍馬の人物像のイメージなんかほぼ司馬遼太郎だし >>1
日本を400年間堕落させた糞
徳川家が天下を取らなかったら第二次世界大戦もなかった 日本史の中でもほんとに悔やまれる時代
東日本は鎌倉幕府で打ち止めのしとけばね
今の東京見ていればわかるだろ
東日本に首都機能があるのはホント糞 開国して朝鮮人と支那人を日本に入れて自分たちの正体をうやむやにした豊臣の末裔こと穢多朝鮮の薩長軍
豊臣の権力を自由移民党に引き継いで日本分断のために大阪都構想を目論むがイソジン吉村のおかげで日本は救われる
ありがとうイソジン
クソワロタイソジン オレらの感覚の人格者の偉人ってなら池田光政とか上杉鷹山とかやろ。
ただそういう人以外でも時代時代で必要だったってのはあるやろって
のを考えて偉人だなんだって評価するわけや。 >>499
最近の学説では輝元は東軍西軍の争いに積極的に介入して、その間に中国地方から四国、九州にかけて領土拡大してたと言われてるね
黒田官兵衛みたいなことしてたけど家康にごめんなさいして領土を1/3に削られた確信犯
被害者面というより無期懲役状態の受刑者面だろ まあ、歴史は楽しむものだな。
新聞社の思惑は知らんがね。
特定のメディアは三浦春馬を悪くしようとしていたみたいなだから、普通の宣伝で良かったわ。 そもそも性格がどうであろうと殿様なんだからある程度取り繕うだろう
のちの成功を考えればいくらでも言論弾圧で捏造もできるしな
400年前の戦国時代の人間の心の動きを今健康保険があってエアコンがあってナマポもある
安全な立場で考えるのもナンセンスだしな >>526
そもそも彦根は井伊が暗殺されたことへの処分が激烈で寝返らせちゃったからな そりゃ江戸時代にいくらでも神格化しただろうしなぁ。
戦場でビビってクソ漏らした人だとは覚えているが。 事あるごとにぶっ殺してやる!って騒ぐチンピラが果たして我慢強くない人間かといえばそういうパフォーマンスかもしれない >>533
秀吉にはそんな逸話が多いわ
子供の頃にイジメられてた〇〇がいて、秀吉が天下取ったら〇〇は周りの百姓に
「俺は子供の頃に天下人をイジメたぞ!」と吹聴してた
その後秀吉が故郷中村に来て〇〇はいるか?と聞いた
百姓達は〇〇が処罰されると思い、死んだと報告した
そして秀吉は中村の百姓は無税にしてやると宣言したが
〇〇だけは死んだ事になったので、無税は免除されず仕返しをした
秀吉が天下取ってから、弟と名乗る男が大名行列で秀吉の元へ
母大政所に聞くと、実はもう一人弟がいたと告白
秀吉は面会もせず、あっさりと処刑してしまう
これらの逸話は江戸時代に書かれた、偽逸話かもしれんが >>547
無税免除程度をなしにしたくらいならぜんぜん良いじゃん
税金は払うべきだろ >>541
火事場泥棒しようとしてごめんなさいして「徳川に騙されたー、この恨みは・・・・・」という逆恨みっぷり。
まあ火事場泥棒は黒田も伊達も狙ってたが黒田はちゃっかり「九州は徳川の為に抑えきときましたよ」という言いぐさ。 >>1の作文の> 実際に、家康は辛抱強い性格だったのか、考えることにしよう。
↑この行から要らんわな >1の記事を見て思ったが、あの有名な東照公御遺訓が載ってますな。
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」ってやつ。
あれのまあ真偽はともかくとして、ここでは家康公の遺訓としようよ
そう仮定した場合、どうですか? これをソクラテス風に解釈すれば?
うん、この御遺訓、煎じ詰めれば「忍」、忍耐であり堪忍であり
まさにタエシノブことを教えているわけだね。
ソクラテス風に言えば「人はないものを求める」わけで
逆説的にいえばさ、こういう遺訓は家康が自分に欠けているものを
生涯をかけて求めてきた。それを披歴しているんだよ、子孫に。
人生に、成長に、必要な要素っていくつもあるけれど
初手からもってるものってあんまり印象に残らないんですよwww
必要だと思って刻苦勉励してやっとの思いで手に入れたもの。
或いは手に入れられなかったもの、後世に伝えるべきものとして
書き残すべきことって、それじゃないの?www
家康公、意想外に短気だったと思うよwww
ってか現代でもあまりいないよねw 気の長い創業者ってwww >>538
堕落?
殆どの家がお家取り潰しに対抗するのに試行錯誤していたって話なのに? >>549
みんな払ってそいつも払うよりも、みんな非課税でそいつだけ払うでは、
同じ金額でも精神的ダメージが違うよ >>499
あの関ケ原は旧来勢力と新興勢力の戦い
西軍が勝っていれば薩長の時代が260年早く来たということ
石田治部は毛利宇喜多島津長曾我部上杉による支配体制を考えていた
ここに豊臣は入っていない >>541
よく中央で家康と三成らがやり合ってる間に九州で第三の勢力になってあわよくば天下をみたいなこと言われるけど
黒田如水は家康から九州切り取り勝手の許可を得てるよ(慶長5年8月25日付黒田長政宛井伊直政書状)
結果的には切り取り勝手にならなかったものの如水は関ヶ原の直前から直後まで一貫して家康の意向で動いてる >>552
重荷って面倒臭い普代の三河侍のことだったり 家臣に裏切られて織田家の人質になる
父親すぐ死んで今川家の人質になる
一向宗の家臣が内乱
三方ヶ原の戦いで惨敗
金ヶ崎の退き口でしんがり
信長の命令で息子切腹
神君伊賀越え
関東転封
関ヶ原の戦いで島津突入
大阪夏の陣で真田突入
家康は何回も死にかけてるからな
もとは短気だったのが辛抱できる性格に成長したんだろな
でも晩年は若い妻を作って天ぷらにあたって死んでるから
それは我慢できなかったんだな そもそも、深謀遠慮な性格では天下人どころか、戦国大名として生き残ることはできないだろ 納豆走法でしぶとく走ってたら
前が全員リタイヤで優勝 どうでもいいよ
アジアを諦めてユグノーオランダロックフェラーと取引して引き籠ったのが徳川幕府 >>521
信長は松永久秀とか本願寺とか許しまくってる 家康の側室は20人以上
正室一人だけの現代人の方がよほど辛抱強い あの時代とはいえ
お袋殺されて耐えるのだから相当に辛抱強いでしょ。 >>571
嫁さん20人とか勘弁してくれ、身体がもたない >>502
物を知らない田舎者だな
岡崎は足利将軍家本拠
まさに日本の名門氏族の故地
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 >>571
でも確実に子供を産める身体である子持ちの未亡人ばかりで計算高いよ
そして子供を沢山作った後は若い女性を側室に… >>502
高度な教育ってw
三河にいた方が教育環境はいいに決まってんだろ、駿河の田舎に比べて
誰が洛中で、北山文化東山文化をクリエイトしたと思ってんだよ
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 乳母をつけたのは乳を出している間は妊娠しないかららしい
正室も側室も産む機械 偉人なんて
全部、フィクション山盛りなんだろうなあ >>513
今川家の人質生活時代に今川家家臣から侮辱を受けてそれをずっと覚えてて
駿河を手中にした時に腹を切らせたとも言われてるから、割と執念深い性格ではあったかもな
でもその駿河に一番長く住み続け、死んだのも元今川館と言われる駿府城だったという事からも、
人質時代の家康の思い出は案外悪く無かったのかも知れない
戦国真っ只中にもかかわらず、義元のお膝元で命の危険を直接感じる事もなく、
飢えも貧乏も味わわず、楽しく平穏な日常を過ごせたのだからな
その人質生活が、家康がのちに太平の世を築くモチベーションとなったのは十分想像出来る
だいたい人質ったって織田から幼い家康を取り戻せた時点で家康の父親は既に殺されており、
家康自体が松平家の主なんだから誰に対する人質なのかって話
そりゃ三河の家臣に対してとも言えるが、
じゃあ幼い家康をポンと岡崎城に置いといて何になるというのか
仮に三河の家臣が裏切ったところで、義元が松平家主の家康を殺せたとも思えない
三河の家臣たちは今川家の走狗となって織田との戦の度にかり出され苦労したが、
その辺は岡崎城が尾張の勢力圏との前線に最も近いのだからある意味仕方が無い
朝鮮出兵の戦力がほとんど西日本の大名だったのと同じ
逆に三河の家臣が安穏と過ごして駿河の戦力だけで織田と戦ってたら、
むしろそっちの方がおかしい
松平家が織田と敵対し今川に付くと決めた時点で、岡崎城は両勢力の対峙する最前線
岡崎城は織田との勢力圏からは10キロ程度しかなかったはず
もし岡崎城が織田に攻められたら、義元に連絡が行き援軍を送るまでかなりの時間がかかる
その間に城が落ちて万が一家康が討たれでもしたら、その時点で松平家はおしまい
人質生活とは言うが、実際は今川に付く事を選んだ松平家に対する庇護とも言える
実際義元は幼少期の家康に古典や軍略を学ばせ名前の一字を与えるなど、
幼い家康に相当期待して大事に育てている
それを松平家を永続的に今川家の家臣とするためなどと非難する奴もいるが、
それは義元が討たれて家康が独立し、ずっと後に天下を取ったという結果論から言える事 力がなくて、辛抱せざるを得なかった時期が長いからそういうイメージだけど・・
その状況から脱してからは、辛抱強い、忍耐強いってイメージはあまりないかも。 苦労人であることには間違いない
あれだけ人質生活が長いのは可哀想
まぁ一般農民が一番の苦労人であることは確かだが >>559
いや第三勢力まで言ってないけど官兵衛が野望を持っていたと言われるのは黒田長政遺言状の記述からなんで根拠がないとも言えない
あと官兵衛は吉川広家に輝元の大坂城入城をめでたいという書状(「吉川広家文書」)も送ってるんで、どっちに転んでもいいように振る舞ってる
官兵衛が東軍として旗幟を鮮明にしてるのは輝元が派遣した大友義統の豊後上陸以後
豊前豊後の元領主を送り込んでしまった輝元がしくじった結果とも言える >>585
群馬県やろ、新田氏から分かれた得川氏の子孫を名乗ってるので 家康は駿府の人質時代に僧侶軍師の雪斎から教育を受けている
人質とはいえ文武両道で出来が良かったので雪斎からかわいがられて義元も切り込み隊長的なのを期待してた
子供時代人質でいつも命の危険を感じて精神が強くなったのと運良く英才教育を受けれた
まさに戦国覇者となる天命だったかもな 九州の官兵衛や加藤清正、東北の伊達政宗なんかが、
この機に領地を切り取りまくってやるぜとイケイケ状態だったのは確かだろうな 三方ヶ原で特攻するような馬鹿が辛抱強いわけがないだろw
情勢がキツすぎて辛抱するしかなかっただけの話
そして運良く順番が回ってきた 少なくとも秀吉が死ぬまでは耐えに耐えた
それまで家康が冒険したのは桶狭間で今川義元が倒れた時と三方ヶ原で信玄と対決した時ぐらいじゃね? >>580
難しく考えるな
家康は初代今川氏、今川国氏の血を引く
親戚扱いでもおかしくないだろう
■今川記(1553年成立)より
松平信光(第3代目当主)
正室:一色氏の娘
一色満範の娘の仮定する
源義家→義国→義康→足利義兼(初代源姓足利氏)→義氏→泰氏→一色公深(初代一色氏)→範氏(母親は今川国氏(初代今川氏)の娘)→範光→詮範→満範→娘→松平親忠→長親→信忠→清康→広忠→徳川家康
■熊野国造家 和田家系図より
松平親忠(第4代目当主)
正室:鈴木重勝の娘
・加茂(足助)重長→足助重秀(母親は源為朝の娘)→重朝(母親は安達盛長の娘)→重方→親方→貞親→重範→鈴木重員(母親は楠木正成の娘)→重勝→娘→松平長親→信忠→清康→広忠→徳川家康 イケイケ状態になってた秀吉と戦って負けなかった時点で、
無茶苦茶ヤバい存在なわけで、
棚から牡丹餅で回ってきた天下ではなく、明らかに実力で勝ち取った天下だわな
しかし、潜在的な敵である外様大名側からの歴史資料も沢山あるんだろうし、
家康にとって都合の良い情報のみを現代に残せているとは思えんな >>594
小牧長久手は冒険だろうし
関ヶ原だって冒険だよ
いくら根回ししたって、直接の決戦をやれば負ける可能性はある
信長や秀吉なら決戦回避して調略をさらに進めた >>586
黒田官兵衛が天下取るには、かなり難易度が高いと思うが
あわよくばと思う気持ちはあったろうな
まず家康が関ケ原で討ち死に、徳川には秀忠軍が残っており関東へ逃げ帰る
西軍は追討するが徳川の反撃で、なかなか勝負がつかない
西軍内で仲間割れが生じ、徳川追討軍は崩壊してしまう
ここから秀忠の反撃があるか?と思われたが、戦下手の秀忠を頼りなく思う家臣が
秀康や忠吉を主君とする派閥争いが生じてしまう
東北では上杉と伊達が泥沼の戦いが続く
畿内西国では一揆が続発、長宗我部が父の四国制覇の夢を継ぐため立ち上がる
九州では島津と黒田加藤の講和が実現、混乱する本州へ
九州連合軍の司令官となった黒田官兵衛が攻め入る >>597
そうなん?
好き嫌い激しくて自分の子供でも(結城秀康)気に入らなければ
物凄く酷薄な人間のイメージあるが ごますりで臆病な男だったから、生き延びて
国王になれたのだ >>580
駿河に愛着とか、女みたいな事言ってんなよ
三河がやる事には、全て意味がある
源頼朝、関東御分国(1184年臨時除目)
三河
武蔵
駿河
徳川家康
三河 生誕の地
武蔵 幕府開府の地
駿河 隠居の地
難しく考えるな
三河の先輩たる源頼朝を尊敬する家康は、吾妻鏡を愛読していた
源頼朝が選んだ分国になぞらえただけ >>596
もし和睦に乗らなければ、北条氏の前には明らかに滅ぼされていたはずだが、うまいことやった。 >>586
8月1日付の吉川広家宛如水書状のこの部分のこと言ってると思うが全文読んだか?
「大坂城御うつりなされ候事、目出度存候」
この後「内府公上国は必定あるへきと存候、左様時は、又貴所様御きもいりにて、てるもとさま御事相澄可申候、とかく此節御分別専用候」
と続く
つまり内府が近いうちに上洛(出馬)なさることは必定。
その時は貴殿(広家)がご奔走されて輝元様の事は良きように取り計らうことが肝要だ
と述べてる
このことから冒頭の大坂城に輝元が移ったことはめでたいってのは単なる挨拶みたいなもんで、
後半部分の内府が上洛するまでに輝元が家康と入魂の間柄になるよう広家に頼んでることがこの書状の主旨
つまりこの書状では輝元を調略してるんだよ >>597
徳川家広公みたいな感じかな。
ネトウヨにはパヨクとか叩かれてるけど。 >>604
先祖の得川氏は上野国新田郡得川郷
家康も徳川氏を名乗っている以上、坂東武者の末裔の自覚はあったろ >>600
そりゃあんな良くも悪くもドラマチックな風雲児じゃないからな
はっきり言えば信長と同盟関係続けられたのが全てでそのおこぼれで成り上がっただけだし
でも信長みたいな難しい相手とずっと上手くやっていけたのは、それはそれで才能かもな 徳川家康は足利宗家の血を引くだけでなく、安達盛長の血を引く
安達盛長の息子は安達景盛
大坂征伐は承久の乱と同じと言ったが、足利宗家、安達氏の血を引く徳川がまた西国を征伐したわけだな
承久の乱の時に政子の檄文を読み上げたのは三河武士の安達景盛
三河縁故の武士が、裏でガッチリタッグを組んでいた
北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった >>609
それをまともに信じてる歴史学者は一人もいないだろうなあw >>613
続き
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>614
いや、実際得川氏の末裔じゃなくても、本人はそのつもりで名乗ってたんだろ >>580
大昔に通っていた幼稚園(寺院)に家康の祖母の墓がある
家康が人質になった時には祖母が同伴してこの寺院の近くに住んでいた
城から程近い祖母の元へ通っては辺りで遊んだりこの寺院の住職に学問を教わったり割と子供らしく伸び伸び過ごしていたようだ >>600
良くも悪くも今の東京集中の礎を築いた人だからな
下克上から上級国民支配の階級社会も徳川から始まる
故に家康の評価には賛否両論がある >>599
天下を治めるなんて崇高な目標持った大名なんてそれこそ三英傑ぐらいでは?
大半が自分の領土を増やしたいという発想ぐらいでは? >>1
家康だけで619エピあるな
http://iiwarui.blog90.fc
2.com/blog-category-54.html 家康の遺訓はあまりにも有名だか創作か。でも素晴らしい名文だと思う。「遠き道」ではなく「坂道を上るがごとし」で覚えてた。いろんな創作バージョンがあったりしてな そら人質なのだから耐えずに逆らったら殺されてしまうだろ。 >>586
長政の遺言だと関係ありそうなのはこの部分かな
如水が大坂方に通じれば、清正は喜んで一味するであろう。その他の九州大名は島津・鍋島・立花等に至るまで、
皆大坂方であるので、西国が一同して如水・清正と共に押し上れば、中国所々の軍勢も相加わり、およそ十万騎に及ぶであろう。
上方の大勢にこの大軍が一つになり、家康公一人と戦う事は、例えるならば、玉子の中に大石を投げ込むようなものである。
(中略)
このようであれば、家康公の御浮沈は危うき所ではないか。これらは全て(実際にはそう)ならなかった事であるけれども、
万一この通りに私が二心を起こした時は、このような次第となっていた事を、各々にも語り聞かせて、
さては如水・長政の忠義大功によるものよ、と納得させておきたいと思う故に、このように語り聞かせるのである。
長政遺言ってめちゃくちゃ長いけど、長政が言いたいことは要するに後半の関ヶ原の時黒田がいたから今の徳川があるんだ。黒田を疎略には扱うといかんよ
ってことを伝えるためで、如水の野望云々って話ではない まあ実際天下取った家康に憧れないやつは、実社会でも天下取る気がないヘタレだろ
そんなんが信長とかに憧れてんの笑える >>589
雪斎は当時不在だったのでその話しは眉唾
弟子が代わりに教育係をした説が有力 >>609
三河武士にそんなもんないだろう
三河に執着したが
江戸期も三河が関東を支配する構図
日本の全てを決めてきた田舎者憧れ山手線内、江戸城中の人
■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中
【三河県幸田町】三河深溝藩
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)
【三河県田原市】三河田原藩
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)
【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)
【三河県岡崎市】岡崎藩
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)
【三河県刈谷市】三河刈谷藩
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)
【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年) 家康の脱糞の画を見るためだけに徳川美術館行ったら
いま他に行ってますの一言で終わったのはいい思い出
調べずに行った俺がいけないのだけど >>618
徳川は政治は江戸、経済は大坂と分散させたんだよ
大阪が有無を言わせないレベルの第二の都市になれたのも徳川のおかげ
豊臣の天下が続いたら完全に京阪一極集中の酷い事になってただろうよ >>1
創作じゃない歴史(笑)なんて存在するわけねえだろドアホ
そんな総フィクションをあたかも実際にあったかのように義務教育に入れたり
戦勝国語まで受験に必須とかやってるからアプリのひとつも作れないガイジ大国になんだろ
何ひとつ価値生産もせずに他人の権利を侵害して環境破壊して不当な利益を貪る害虫とか
薄汚い腹かっ捌いて死ねよ
税金で一等地に城建てるとか笑わせんなバカ 家康サイドから見た家康の最大功績は
長生きした、でしょ 大坂もパゴヤも自力では発展出来んかっただろうな
東京 徳川家康
大阪 松平忠明(徳川家康の孫、三河県新城市) 大阪都市計画の父、道頓堀の名付け親
横浜 岩瀬忠震(三河県新城市)
パゴヤ村 徳川家康
どいつもこいつも、他力本願の田舎者 近代、現代の人物については知らないのに
なんでそんなむかしの人には詳しいの?
すべて創作? 長らく徳川の世だったから、創作、改変激しくても驚かないわな。
歴史家もいたけど、どの程度客観性あったかなんてわからないし、中華帝国では、後世の王朝による歴史改変は日常茶飯事だったから、
倣っていても驚かない。 >>598
小牧長久手は秀吉側も冒険だったろ
織田政権の後継としてまだ盤石な体制は出来上がってない時期
だから無理強いの攻勢は仕掛けなかった
関が原は俺の言う「秀吉が死ぬまでは耐えに耐えた」以後の話
それでも自分が圧倒的に有利な状況まで準備(裏工作)してから天下決戦を仕掛けた >>630
>創作じゃない歴史(笑)なんて存在するわけねえだろドアホ
何言ってんだ?
このウルトラ知障
チョンの「歴史は新たにいくらでも自分らに都合よく作られる」歴史教科書じゃあるまいしww >>633
300年経つと偉い人。
人口が少ない時代に偉いといっても
3000万人分の1
現代の偉い人は高学歴で1300万分の1。
一流大学教授や、一流企業の社長や、
総理大臣に直接聞けよ。
300年前の人物について推理するより。
嘘の推理で現代の人物を引き立てる職業を
作っては
大学の意味がない。中身のない学士を育てる
お受験大学はもうやめてください。 なんぼ短気やからってそうなんでも簡単にやらかす奴はおまへん 死後は三河じゃなくて駿河に埋葬するよう遺言した
それは駿河が江戸の出城と考えていたから
そして西に睨みを利かす為に西向きの座棺を命じた
死後の事もアレコレ考えていた家康であった この遺訓昨日の大河に出てたけど後の世に創作されたものだったんかー
子役ちゃんが見事に諳じてたけど、そのうち吉沢くんも呟くことになるのかな
吉沢くんはあの背丈なのがいいんだと思う
もてあますことなく指先まで完璧にコントロールしてる感じがする
そして本人は結構なぼけキャラだけど演技中はそこはかとない魔性を帯びるのが面白い
もっと若い時なら魔性の子を演じられたわ、少年期なら泰麒も(小さい頃から美形だったし) 学者、スポーツ、音楽、数学、国文学、ITの偉人がいるじゃん。
高学歴で70億分の1の偉人が。
いくらでも。
今、聞けよ。
500年経つと偉い人?スキャンダルまみれだっただろ。パワハラの。
今の人物が偉いと思い込ませるような
出世頭が偉いと思い込ませるだけの
歴史学者や歴史作家は嘘を書くのか?
どこの大学を出て創作作家になったのか?
教育機関として意味がないだろ。 >>635
>小牧長久手は秀吉側も冒険だったろ
つーか、秀吉は養子の秀次に手柄を立てさせようと先にだしたのが大失敗
敗走して逃げかえってきた 秀吉がもっと長生きしてたら日本は今よりも大きく、日本人は喧嘩が強く気も強い人種になってただろうな
今は何されても怯えて「遺憾です」しか言えない負け犬に成り下がってしまって悔やまれる どいつもこいつもキリスト教の
「子」程は詳しくないな。
子供時代から青年期にかけて。 21くらいで三河一向一揆を鎮圧してからその後は武田の圧力を受け続けて若年代は事実上の防衛戦みたいなの強いられたからな
忍耐強い面はあるかもw
ただ、三方ヶ原で信長の城から出るなよの言い付け守らずに突っ込んだりしてるし、そこまで辛抱強くはないw
本当は結構短気かもしれんw キリスト教では誰も内輪では争っていないが
歴史上の人物は覇権争いでおっちんでばかりの愚か者。
今でも大臣を暗殺してるじゃん。 家康チキン説もあるからな
武田に攻められてウンコを漏らすとかw 徳川慶喜「鳴かぬなら そういう種類の ホトトギス」 家康が実力者つっても家康じゃ北条家は滅ぼせないだろ
秀吉のカリスマ性のもとに関東大連合が成立したわけだし
天下統一は秀吉の人望ありきで成し遂げられたようなもの
信長亡き後に秀吉ではなく家康が主導権握ったとしても家康じゃ天下統一していたとは思えない
秀吉が天下統一を成し遂げた後のボーナスステージで最長老として最後に生き残った家康が棚ぼたで長期政権を築けただけ >>646
蛇にかかとを噛まれた逸話がある。
将軍だとただの怪我。w >>1
辛抱強かったら、武田との時に城から出でやられてないだろう >>596
いや負けも何も放棄してトンズラしたからな秀吉を前にしてwwww 家康の遺体はてっきり日光に移されたのかと思ってたが、
移したのは魂だけで遺体は久能山のままとの話もあるみたいだな
結局どっちにあるのかは掘り起こす以外分からないのか 鷹が近所に糞しまくっていて
それに文句言われたら相手を殺した鬼畜 >>596
天正大地震が絶妙のタイミングで起こらなかったら滅ぼされてたよ 歴史は資本主義礼賛の創作。
将軍=権力者は偉いと思い込ませる為の
物語。
おとぎ話では鬼。
聖書では竜、大淫婦、律法学者。
やたらと並び、襲撃し、自分が作った法を守らせる。
そして姦淫させる。 日本の戦いって全部逆ギレから始まってるw
第二次世界大戦もしかり 関ヶ原で小早川煽ったのも、辛抱強さというイメージからはやや外れるよな
まあそれだけ小早川が優柔不断すぎた上にギリギリの状況で我慢の限界を超えたからとは言えるけど
それでも鳴くまで待ってないしな 小田原征伐のあと、関東行けって言われてよく我慢したわ >>660
666は人を意味する。
人が列になると獣と化す。
ドラゴンとなる。蛇となる。
それが都を跋扈している。 家康は劉備とかも尊敬してたし、最初から一発逆転的な可能性を期待して時期を待ってたと思う >>646
いや、キリスト教は内部で思いっきり抗争してるだろw >>665
蛇がキリストの踵を噛む。
都で。
踵は時代の始まり。
キリストの時代にまで
蛇は威力を持っている。
が、塩の柱となる。
その塩が人間を清める。
苦難が。 小早川が裏切らなくても石田三成が勝てたとは思えないな
島津や左近がいたとは言え、徳川には秀吉のところの猛者の福島とかがいただろ
島津も左近も地方で強いだけで秀吉軍のように連戦連勝の猛者ではない
勝つのは厳しい >>667
人を食った話。
奈良時代でもクリスチャンはクリスチャン。
分からないですか? 待たざるを得ない状態で待てたのだからそこそこは辛抱強かったんでしょ 400年も圧政して、今もその名残を日本に残してるあたり暗君だろうよ。
切腹が消えた分辞職や辞任で責任放棄する奴増えたじゃん。そもそも切腹なんざ、責任取ってる行為な訳ねえだろ。 秀吉以上に城落としたやついんの?
家康なんて全部火事場泥棒やで
義元死んだ→火事場
信玄死んだ→火事場
信長死んだ→火事場
北条死んだ→火事場
秀吉死んだ→火事場 >>672
何言ってんだこのバカ
不祥事起こしたり失敗した責任として死んで詫びるってのが切腹だぞ
これ以上の責任の履行は無い
命を賭けるとはこの事
それくらいの気概をもって物事に取り組むことにもなる >>636
ウルトラ知障はバカチョンのお前だドアホ
ちょこまか教科書に書かれてることすら修正されてることも知らないとかどんだけ頭悪いねんお前 >>665
マルチプルストーカー=組織ストーカー=
集団ストーカー
都に現われ、二人の証人を殺すが
復活する。
キリストの時代の始まりを
噛むが蛇は頭を踏みつぶされる。 辛抱強いかは分からんが
「極めて短期」とされる信長
「狡猾」とされる秀吉に
比べると大人しい印象はある >>677
大阪で幸村にちょっと攻め込まれたら切腹しようとしたりな
結構喜怒哀楽出やすい人だったのかもな >>672
切腹なんか鎌倉時代からの武士の慣習なんだから、家康のせいにするのはおかしいわ
元凶を言うなら、飛鳥時代せっかく日本が中央集権国家として統合されたのに、
上に媚び下々の苦難を考えもせず末法思想に傾倒し来世の幸福しか頭になく政を疎かにし、
法が行き届かなくなり治安は乱れに乱れ、その結果地方は自衛を強いられて
武家の台頭と日本の連合国家的性質を招くに至った平安貴族どもの無能と腐敗が悪い
アホな貴族のせいで日本が再び明治で統合されるまで
どれだけ回り道し不毛な戦を重ね無用な血が流れた事か
現代日本のエリート官僚たちが再び平安時代の貴族化しつつあるのではないかと
近年実に危惧している >>673
>秀吉死んだ→火事場
こんときに火事場泥棒できる能力、それを許される環境があるかどうかが重要だべよ。 >>556
命取られてもおかしくないところ普通に税金払うだけで済んだならめっけもんだろう >>680
まあ武家政権ってのは893が実権握ったようなもんだからな
頼朝組長が全国制覇したがあとが続かず、義時若頭が鎌倉組をまとめていったって感じ。 >>521
今もそうだけど当時も宗教の扱いは難しかった
宗教家は現世の主には逆らうなと言う二枚舌を使っていたが >>678
狡猾は家康だよ
捏造しなくていいよ在日くん >>1
家康のはおかしい評だな
確かに待つが
鳴くまでではない
他の鳴くウグイスが手に入るまでだ
その場合は鳴かないのは不要物として殺される
自分に従わない人間には苛烈だぞ
家康は >>654
家康の死の3日後(元和2年4月20日)に駿府まで見舞いに来てた
伊達政宗が伊達成実に家康の死を報告した書状だと
「相国様(家康)は今月17日午の刻(正午)にご他界された。明神になられるそうで、これはご遺言の通りだ。
ご遺体は先ず駿河のくの(久能)と言う所に安置され、日光山にお寺が建立されれば、そちらにお移しなるそうだ。」
と通説の遺言通りの記述だな
政宗や秀忠みたいに戦災で破壊されたものを修復したり、老朽化に伴う改葬の時に発掘調査しない限り分からんよな >>687
まあ長生きしたということが勝因といえなくはない
辛抱強いのはむしろ信長じゃないかなあと思うけどな
確かにスピード感は半端なかったろうけど 三人とも情け深いエピソードはあるしその逆残忍な処断も多々ある
過去の文献からしか分からない人物を一概にこういう人と断じるのは愚かしいわ >>692
秀吉が1番残虐なことしたんじゃないか?
信長虐殺と言えることしたけど一様大義はある
秀次事件はあれはだめだろ 死んだ人間なんてどうでもいいんやろ
歴史に残る人間はセコい生き方してる証明だからな
鼻で笑ってやればいいよ 戦さ場、ましてや大軍団に追われる退き口なんていちいち屈んでひり出してる暇なんてなく誰でも垂れ流す
ドンマイ竹千代 >>13
みっともなく糞をタレたのを
隠すためだろw >>673
面白い見方。 まぁ>>681さんも考えにも同意。
家康公は戦闘センスよりも政策・治世の具体論の方が傑出しとるわ。 >>483
あれはなかなか高度な戦略で、徳川四天王みたいな
幕府で権力持ちそうな大名に大領を与えると
権力闘争するときに武力に訴えるようになる
足利幕府の細川、畠山、山名、斯波のように
だから大老、老中クラスには大領を与えず、
逆に前田、島津、伊達の類いの大大名はいつまでも外様扱いで
幕閣には絶対に入れなかった >>698
世渡り上手だったんやろな
それと人望があったんやろね
戦は弱いけど >>699
> 逆に前田、島津、伊達の類いの大大名はいつまでも外様扱いで
> 幕閣には絶対に入れなかった
それで上手くいった面もあるんだろうが
最終的には薩長に倒幕されることにも… >>443
織田軍より前の時代は「乱取り」と言う名の現地略奪調達だったのが、この時代だとちゃんと買うってことは
やはり行儀良くなったのな。 本当なら三浦春馬が映画の番宣するはずだったのに
真犯人を許さない
あと自殺扱いにした奴も >>701
紀州が将軍家本流になった時点で本気で幕藩体制の見直ししていればな。
黒船がくる50年以上前から海防問題はすでにあったのに幕府がなんにもしないどころが海防問題を訴える奴を弾圧したからね。 >>645
三方ヶ原だよな。まかり間違えば徳川はそこで滅亡している >>489
武田と同じで母親と長男が実家のほうに
靡いたから始末しただけ >>669
裏切ったのは小早川だけじゃなく、吉川も動かなかったからな。
吉川が動いて背後から家康の陣襲ったら楽勝だったろ。
ドイツの軍人の予測通りに。 >>596
秀吉本体が動いたら即和睦だぞ
家康は先鋒の雑魚を倒しただけに過ぎない 小牧長久手以降、秀吉死去時の立ち回りや大阪の陣で豊臣滅ぼすまで膨大な時間を使い老獪で気が長そうな人間のイメージやけどな
ただ、社長とか偉い人間は短気な人が多いから家康がそうでも不思議ではない マジレスすると長期政権の礎作れたんだから
有能に違いないが、仮に成功者でも一般人気とイコールじゃないからな。
頼朝より義経、尊氏より楠木正成、家康より信長秀吉幸村、大久保より西郷、
むしろ負けた側の方が人気あって英雄扱い。老獪とか狡猾なイメージだとネガティブ。
政治家や官僚として有能より武人的なキャラの方がやっぱ好きなんだろうね。 >>18
でも秀頼にカリスマ性がなかったのは明らかやろ
大坂の陣で秀頼に味方する大名はいなかったと言われている 猜疑心の塊の源頼朝
優柔不断で鬱気質の足利尊氏
恨みをいつまでも忘れない徳川家康
天下人は付き合いづらい方々だと思う 家康が最終的に家中を掌握したのが小牧・長久手の戦いで優勢に近い引き分けになって
戦後処理で秀吉の母妹を人質に貰って
名誉ある投降ができたあたりだろ
その頃にはだいぶクレバーになっているはずだよな >>712
秀吉だって「織田恩顧大名」だったのに非情だったじゃないw 戦国時代は力の世界。仕方ないさ >>40
大陸の歴史書は滅ぼした側が編纂するから一切盛らないって聞いたことがある 大坂城を明け渡していれば秀頼は助命されたのだろうか?
それとも他に難癖をつけてやはり殺したのだろうか? おそらくこの3人がファミレスにいったら
こないなら殴ってしまえ店員を
こないならもう一度呼ぼう店員を
こないならくるまでまとう >>707
日本の戦国時代の戦(いくさ)は、基本的に勝ち馬に乗ること。
どちらが勝ちそうかを常に意識していて、忠誠心は表向きの話なだけ。
いくらでも裏切るし、戦場でも裏切る。その事は領主も知っていて、戦の際に、
一番早く参上した家臣を「太郎冠者」と熱烈歓迎する。このように領主の立場は、
あまり強くなかった。西軍が総崩れになったのは石田三成に人望がないのではなく、
もともと日本武士は日和見主義だから。 本能寺の変は家康が黒幕説もあるくらい家康はどんな策を使ってるかわからない人間だった
信玄、信長、秀吉、利家、清正と家康に都合よく死んでるやつも多い 関ヶ原の布陣見るとかなり危ない橋を渡ってるよ。調略失敗してたら逆に包囲されるリスクが高い。 >>719
やってみる価値はあったね。移封減封を繰り返した可能性はあるがw 命や家を残してくれた可能性はあるよ
要するに反徳川勢力が、豊臣を担ぐ夢見ない程度の身代になるほど安全になる
太閤秀吉が築いた壮麗な大坂城にこだわったのは、いかにも政治的にまずい そもそも徳川家康自体がフィクションだからな
江戸時代あたりの吉川英治の創作だろ
歴史伝統文化芸術スポーツってのは税金泥棒の常套文句だっていい加減気付け盆暗
言い換えれば国家的特殊詐欺な 神君家康として江戸時代数百年祭り上げられてたのに今さら後生の創作云々行っても事実なんか検証しようがないだろ
幕府を舐めたら駄目です
家康に都合悪い史料が今さら出てくるわけもないのに最近こういうトンでもで実は○○だった系おおすぎ >>702
略奪したら農民が北条方に寝返るからな
そうすると戦争が長引く
むしろバラマキで仕事を与えたほうが長く腰を落ち着けてずっとここにいるつもりだと伝わって籠城する意欲がなくなる >>719
高家として残る可能性はあったが、浪人集めた時点で詰んでいる。
みんなヒャッハー出来る世の中を取り戻すのが目的だから。 >>684
なんか戦国時代という名称のせいで、戦国時代やその発端となった応仁の乱以前は
永らく戦のない平和な時代だったみたいな印象もあったりするが、
実際は源平の台頭以降一貫して何かあれば戦で解決、命令に背けば切腹や斬首、
気に入らない奴は隙あらばぶっ殺すという修羅の時代の連続だったからな
室町時代も幕府の抑えが効かず、あちこちで領主同士の戦が繰り返されていたし、
その武士の何事も武力で決着をつけようという気風が戦国時代の礎となった事は間違いない
何だかんだ言っても、戦のように大規模な人員を動員して白黒つけるという
その永らく繰り返されてきた時代を終わらせ武士の慣習に足枷を付けた事は、家康の大きな功績 >>736
なんでIDコロコロしてんの?
家康の存在そのものをフィクションとか言って信じる奴なんてお前くらいだぞ 大坂冬の陣以前の豊臣家に、先の見えるキレ者の参謀がいればなあ。淀殿とそれについてる近江閥の
取り巻きも問題なんだろうけど。大野治長や片桐且元じゃ荷が重いわw 武士の世は結局お山の大将が政権たらい回し
王政復古になってやっと真の統一と平和が訪れた >>735
秀吉の惣無事令も大きい。
これで勝手な武力による領土拡大が御法度となった。
まあ鎌倉以来、土地争いはずっと争いの種だったからね。 >>737
なんでお前いつもフルボッコにされてアウアウ悔しがってんの?
フィクションじゃないと言うなら証拠出してみろや知的障害者 >>738
秀吉が種なし時点で詰んでいる。
やっぱ子孫を沢山残すことは大事。 家康によって民百姓の自由が奪われたけどね
自由都市も惣村も無くなった >>741
歴史系スレの書き込みは初めてなんだがだれと勘違いしてんの?なんか糖質っぽいな
家康の存在がフィクションとか言い出す無教養の奴とレスバするつもりないからここまでね >>712
え?
>がぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことには
>なんら構わぬのみか、為し得ること万事において
>信長を凌ぎ、彼より秀でた人物になろうと
>不断の努力をした。
>彼は安土山にいた信長の孫にあたる少年(三法師)を
>同地から追い出し、地位も名誉もない一私人として
>ある田舎に留めしめるように命じ、彼が後に天下の主に
>取り立てられる希望をまったく断たしめた
(フロイス日本史) >>742
戦えって言ってないの。家康や高台院とも相談して、大坂城から移るほうね
秀頼は種なしではないしw >>12
お前なら有能な家臣を使うことも信頼を得ることもできないだろ? >>744
証拠出せない妄想ガイジジィ発見!!!
そんなことだからお前は四六時中バカだハゲだガイジだって痛いとこ突かれて悔しがってばかりなんだろwww >>719
少なくとも助けの来ない籠城戦よりは
助かる可能性はあったと思うな
いくら凄い城でも守ってるだけでは負ける >>640
あの御遺訓が、元になるものがあったとしても、明治になってから創作されたとすると、
江戸時代の子供が学んでいるってどうなのってなるわな。
時代考証の先生、動画で説明しないのか? イカぬなら イカせてしまえ いい女
イカぬなら イカせてみせよう いい女
イカぬなら イクまで突こう いい女
これが俺のせクロスだ! >>689
日光は流石に無理そうだから、久能山の廟だけでも一度調査して貰いたいわな
それでどっちにあるかはっきりする >>742
秀次を跡継ぎにすれば、豊臣家は詰まない
秀吉が「自らの直系子孫の世襲」に固執したのが詰みの原因 >>219
朝鮮出兵で豊臣家の求心力が落ちてたし
奉行衆と武断派の溝はかなり深くなってたからかじ取りはかなり難しいと思うよ
かなりうまくやらないと関ケ原が起きる
関ケ原は豊臣vs徳川じゃなくて豊臣(奉行派)vs豊臣(徳川派)の構図だから
豊臣家のTOPが秀頼だろうが秀次だろうが関係ない
んで徳川が勝利すれば一気に流れが徳川に行く
秀次が三成以下奉行派の反徳川の暴走を止めて家康の死を待てばあるいは
15年くらい待たないと死なないけどね家康 >>740
朝鮮出兵して西国大名の力を削がなければ豊臣政権が続いてたろうになあ
戦の時代を日本国外にまで拡げてまだまだ続けようとした秀吉の失敗 ただのオナニー披露してるだけで歴史学者なんてものは存在しないからな
全員小保方晴子みたいなものでクソの役にも立たない税金泥棒な
そんな気がするものをまるで真実かのように主張する頭の悪さには反吐が出るわ
万歩譲って仮にそれが当たるも八卦で当たってたとしてそれが何だってんだよw >>146
最近の有力な説だと
あれはガチで呪詛扱い、キレられてもしょうがないらしいぞ
わざとか軽率かは知らんが普通はあんなことしないんだと >>759
しかし、その鐘が現存してるんだぜ。
呪詛とかマジで思っていたら、残ってるわけ無いだろ。 >>743
家康は旧領の三河遠江駿河の住民の一部を呼び寄せて江戸の町を作り上げたのだし、
所謂鎖国体制も敷いてなかったから、家康自身はそんなに民の自由を制限してなかったんじゃないか
過度な移動の制限とか関所の整備とか交易港の制限とか参勤交代とか、
色々規制が厳しくなり息苦しくなっていったのは秀忠や家光以降だろう >>739
せっかく武士階級を無くしたのに華族制度を設けた時点で台無しになったけどな
その挙げ句、軍功を挙げて華族になろうとする軍人が対外戦争を繰り返し、
薩長は日本史上最も戦争で人命が失われる地獄の時代を招いた 家康は信長の姪(淀)ですら殺したから秀頼は殺されてたな 現在起こってることすら正確に把握されてないことが多いのに
過去のことなんてわかるわけないのになw >>707
吉川は当初「毛利を潰して吉川を中国に据える」という話になったくらい厚遇されたからな
吉川が固辞したからそうならなかったが、
現場で裏切ったのではなく、最初から気脈を通じてたのだろう >>762
華族ってそんな大層なモノか?
空気じゃないの
近代日本史でも普通有名人に○○伯とか表記せんし日本史知ってる奴でもそいつの爵位なんて知らないだろ >>739
身分制を再構築が明治維新だよ
貴族政治で敗戦した >>766
最初は、士族と同じく空気だった。
しかし、名前だけ残った華族に、新しい貴族制としての意味をもたせようとの方向転換で、
社会的経済的にかなり優遇されることになる。貴族院ってのがあったのでもわかるだろう。 >>580
義元の姪と結婚させて一門衆にしてるしな
おそらく次代(氏真)の重臣候補の中でも相当な有望株
仮に今川があのまま信長倒して天下を取っても家康はかなりの位置にいたと思われる
器の劣る氏真廃して徳川幕府がってのはさすがに妄想の域だけど
今川、織田、豊臣、徳川どれが天下を取っても家康はいい位置にいるってのは面白い >>760
ホントだななぜ残ってるんだろ
国家あんこうに切れたのも俗説か >>219
秀次が後を継いでも、あまり変わらないんじゃないかな…
戦国大名の権力は結局は「軍事手腕」にかかっている
信長や秀吉のように軍事手腕で人望があっても
次代に軍事手腕がないと求心力がなくなってしまう
秀次にその手腕はないだろう >>768
昔「華族誕生 名誉と体面の明治」って本を読んだ事があって
世の中薩摩閥だ長州閥だ軍閥だ○○家だで流れてて華族総体で何かって無いんだなと思ったよ >>754
秀吉死後に秀次が毛利や徳川に対抗できるかというと
難しいだろうな
家康や輝元には秀吉も恐れたものだ
秀次では無理だろう 天下を統一したあとは軍人の仕事が無くなるからね
軍隊が今度は邪魔になる
結局秀吉も家康以降の徳川家も同じことをした 結局英雄が死ぬ前にいかに安定した世襲制度を築くかなんだよなあ。秀忠に別に軍事的才能はないものw 江戸時代末期にはもう定着していたって江戸時代の終わりなんてもう限りなく近代じゃねぇか 辛抱強くないと粛清されてたろ。
もちろん運もあるけど。 >>771
キレたのはガチ、かなり追及してる
当時の資料だと
徳川の学者→呪詛だろこれ
作った人→隠し字入れました、徳川家康を讃えるため
僧侶側の有識者→これやっちゃダメなやつ
呪詛ととられてもおかしくないぐらいのやらかしだったけど
悪意はないと言ってるし呪詛の意図は証明できないといったところ
結果鐘は残されたけど徳川方の心証は大幅に悪化した 明智光秀
浅井長政
朝倉義景
斎藤道三
松永久秀
筒井順慶
三好長慶
武田信玄
足利義昭
今川義元 家康と輝元って対照的だよな
人質先でしか学べない家康、逆に人質先の人間関係の方を信用してる節さえある
輝元は祖父と父親から愛され全てを託される
そこから来る余裕みたいのがあるつうか >>754
朝鮮出兵で求心力が落ちたなんてソースあるの? >>783
七将襲撃事件
豊臣政権の中枢に大名が襲撃とか秀吉存命だったら絶対に起きてない
政権の抑えが効かなくなってる証左
その原因の一端が朝鮮出兵による奉行衆と武断派の対立 直轄領の安定さで徳川は織田や豊臣よりハイレベル
それは織田や豊臣は成り上がりで
家臣の忠誠心が低いのに対し
徳川は室町時代前半ぐらいから仕えている忠臣がいる
秀次だろうとその弱点はカバーできないだろうな >>783
朝鮮出兵前から元々落ちてるソースなら
「完訳フロイス日本史5」(2000)
>この朝鮮の戦いに関する関白の意向として
>感じられることは…
>日本で己れに叛旗を翻す可能性がある者を
>すべてかの地に送り出すことであった。
『明史』日本伝(「倭国伝」(2010)より)
>諸大名は秀吉の暴虐ぶりを怨んで、口ぐちにこう言った。
>「秀吉の今回の計画は、大唐国を襲うためのものではなく、
>われわれの力を弱めようとするものにほかならぬ」 朝鮮出兵は仕方なかったと思うよ
天下を統一して平和な時代が到来しました。これからはゼロサムですっか無理だよ
対外戦争でもやらなきゃ兵隊抱えた大名たちは内戦をまた始めたくなる
豊臣政権はあっという間に崩壊する
結局「関ヶ原」でそうなった
朝鮮出兵は失敗した。領土は増えない、問題は未解決
国内で「天下分け目の戦い」をやって、大名と兵隊の数を一気に半分にして、そのあとで「ハイ、これで打ち止め今までの豊臣政権の拡大路線全部チャラ!」っていう手のひら返しが言えるそんな新しいリーダーが必要になった
秀吉時代に「党内野党」のような立場にあった徳川家康
家康でなくては「これからは戦争せずに農業で生きていこう!」なんて秀吉政治の裏返しは無理だった >>760
高須クリニックは署名を溶かそうとしてた
家康は証拠を残そうとしてた
これを見るにやっぱり言いがかりじゃなくて本当ひどいやり方だったんじゃないの?当時としては 信長は敵を攻め滅ぼしたから勢いは凄かったけど敵を作りすぎて自滅
秀吉は気前よく領土を与えすぎて短命政権
徳川は改易取り潰しどんどんやって幕末までは安定してた >>790
しまった!こんなのでフフッなった、もう寝よ 信康って家康が16才の時の子だよな
当時はそんなもんだろうけど、ヤンキー並だな >>701
徳川幕府は崩壊していない
むしろ公武合体して、天皇、公家と一体化し現代日本に君臨している
山口県萩市は三河の萩に由来する
三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた
明治維新とは江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲りである
徳川と毛利は裏で繋がっていた
源頼朝の側近が大江広元だったように、徳川の側近の酒井は大江広元の五男の家系、萩氏庶流ではないか
家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だった
実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、徳川幕府は崩壊していない いい加減、センゴク(笑)を語るなら、平安期まで遡れ
不可思議に思える毛利の動向も、平安期まで遡れば見えてくる
三河の王とは喧嘩したくないんだよ
三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)
大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司
藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司)) 家康は74歳まで生きた、信長も秀吉も早死に
その時点で勝負はあった 占い
Qおじいさま、鳴かぬなら?
「自らの呼吸を調節することによって」「形づくる」「創造」「職人」「吹き込んで」
→鳴かぬなら 自分が鳴こう ほととぎす これを言ってしまうと歴史は後世に作られたと思われてしまう 飽きもせず妄想たれ流して暇だなお前ら
まだ家康も信長も秀吉もかわぃぃ女の子だって言うほうが説得力あるぞw 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 ← SM
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」 ← テクニシャン
「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」 ← 焦らしプレイ つうか家康がそうなのか徳川家がそうなのか家臣がアレなのか
徳川家マンセーの徳川書物はみんな盛り盛りすぎってのはここにいる皆ならよう知ってるだろ
淀殿や家康に見殺しにされた最初の正妻の築山殿が悪女だったからとか
「俺が悪いんじゃないアイツが悪かったんや」って相手を貶めて
自分アゲアゲするような狡さが子々孫々にもにじみ出てる
ベトナム嫁とって一族に認められてないのに勝手に十九代当主を名乗って
民主党から出馬しておっこちた家廣とか >>388
なんだこいつw
本当のバカなのか
男子三日会わざれば刮目して見よ、ってのは男子の成長を表す言葉であってただの変節や変貌には使わん
お前の使い方だとただ社会に出て丸くなったの意味しかない
言葉のニュアンスを知ってればそんな使い方はしない >>785
家康は祖父親父共に家臣に殺されてるからどこが忠心ばかりなのかと 単なる
日本の歴史上最大の謀反人
それが徳川家康
あまりにも徳川家にまつわることが脚色されすぎ
実際は
徳川家が戦ではあまりにも弱く
三河の侍には魂がまったく無いように
弱いから
三河魂 と揶揄されてたし >>806
理不尽に殺されたりとかしょっちゅうあるけど >>792
人間五十年の時代だからな。
単純に年齢を五割増しと考えれば当時の16歳は今の24歳。
別におかしくない。
関ケ原58歳、征夷大将軍61歳、大坂の陣72歳。五割増しだと、
関ケ原87歳、将軍92歳、大坂の陣108歳。
もちろん、平均寿命は乳児死亡率が高い事で低くなり、
当時の人間は激しい自然の淘汰選別を潜り抜けて来た「生命力のエリート」ばかりなので
実際は意外と長生きだったらしい。
しかし、家康が当時の常識を超えて高齢で活躍したのは間違いなく、
直ぐに凡将の秀忠の代に成るはずと思っていた豊臣家にとっては大誤算だった。 >>807
初期に辻斬りとかは確かに有ったが、中期以降は安定してるでしょ
むしろ明治維新以降の戦争続きの歴史の方が戦国時代より酷い 違反スレ
歴史改ざん
ヤフーコラム
【歴史】「徳川家康は辛抱強い性格だった」は後世の創作の可能性 ★2 [ボラえもん★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1613469061/ >>795
秀吉は61歳で亡くなってるから昔の人にしてはまあまあ長生きなんちゃう
病死やし エンタテインメント小説と史実が、ごっちゃになっている人が少なからず居るよね。 >>538
じゃあ元の場所に戻すか
京都じゃねーぞ、奈良でもなく明日香村にで戻すかw >>772
秀次がいかに凡庸でも、すでに定まった天下を覆す力を家康は持ってなかったよ。 >>814
江戸城と徳川幕府が復活したら割りとマジで嬉しい >>1 じゃぁ、五輪組織委員会会長は徳川家康で良いです。 >>753
秀頼が旧主の姪に産ませた子であることも大きかった罠。 >>682
頭が良くて決断が早い。で、相手にも同等のものを求める
だから信長より鈍い人間からは気の短い人間に見える あとは北政所にもうすこし分別があればな。結局夫の家を滅ぼしたおんな太閤。 秀次が継いでいても覆されてただろうよ
室町ほど酷くはならない短い鎌倉コースをたどり結局江戸になる >>810
原爆落とされればどんな地獄も極楽に見えるはずなのに
そう見えないのはGHQインフォメーションプログラムがそれだけ脳味噌を破壊したということなんだな >>823
豊臣は100年もたない短命政権かもしれないが、家康の代でひっくり返すのは無理。 >>826
明治維新〜敗戦の歴史迄で一区切りでしょ
それより前が良かったな >>828
秀忠は聡明な人間だよ。カリスマ性が無いだけの話で。
秀次も凡庸で小牧長久手では大壊乱を起こしたとはいえ、一軍を率いた経験があり
齢重ねるにしたがってそれなりに落ち着きも見せ始めていた。 信長 武力92 政治85
秀吉 武力90 政治83
家康 武力55 政治97 唐入りに関しては、秀吉がスペインのフェリペ二世に対して事実上の宣戦布告を行っていたこととも関係しているから
軽々には言えない。 >>113
イエスキリストも当時どんなだったかさげー興味ある
神殿でブチキレるし >>828
家康が大阪の陣で掃除してくれたからな
世界最高の2代目オクタヴィアヌスもアグリッパいなきゃ
戦下手の病弱 まあ秀吉が元気なうちに言いがかりをつけて徳川の力を削っておけばねえ >>836
バカが付くほどの律義者と思われ続けてきたんだから擬態能力は大したもんだよ。そりゃあ辛抱強いだろう。 辛抱強いかどうかは知らんけど1615年まで我慢したってのはないわ
先にぽっくり行く可能性のほうが高い >>823
秀次存命ならその勢力100万石が残っているわけだから秀吉の200万石と合わせれば300万石になり家康も簡単に手が出せない
さらに一門衆の宇喜多小早川加えれば400万石近くなり江戸幕府の幕府直轄領なみになる
それを豊臣家みずから減らすようなこと続けたわけだからそりゃ滅亡するよ >>838
大坂の陣起こさないまま家康が死んでたら、豊臣と徳川の内戦がスペインとオランダの代理戦争になっていた可能性もあるわな。 関ヶ原の戦いも結局は石田三成という存在のせいで豊臣恩顧大名内での内部分裂なければあったのかも疑問だからな
秀吉の晩年の行ないが豊臣政権の自滅に繋がったといっても過言ではないと思う。 秀次が関白のままだったら、家康が朝敵になっちゃうし、大人しくしてるだろう。秀次は朝鮮戦争にも参加して、実戦経験も豊富 豊臣家は秀長に代わる人材がいなかったのが痛いわ
石田光成が対人関係に難のある人じゃなければなあ >>842
伊達政宗が秀次に媚びてたからね。イタチさんはいい指標になる >>836
事実は逆で、秀吉は、秀次殺したんで、秀頼成人までの執政を家康に頼まざるを得なくなった。秀次事件後に家康を大納言から内大臣に昇進させてる。
秀次事件後の朝廷での席次は、太政大臣秀吉、(左右大臣欠員)、内大臣家康で、秀吉が死んだら家康が朝廷でもトップになってしまった。 基本的に
デブは短気になるよ。
ホルモン分泌の関係で。 >>844
三成は小泉郵政選挙のときの亀井静香と同じ、「抵抗勢力」を浮き彫りにさせるためにわざと泳がされた あーっ、はっはっはっはっ。呆れ果てた御方じゃ殿は。馬の鞍壺に、 昌幸に勝てず信繁に殺されそうになり泣きながら切腹しようとした小者だから本来天下を取る器じゃないんだよな家康って
本当耐えに耐えて最大のおこぼれを貰ったインチキタヌキじじいでしか無いんだよなぁ 源頼朝以来、東国、しかも関東の支配者が日本の支配者になるが武家の伝統 日本人には全く人気ないからな家康は
気が小さく狡猾で武力も弱いとか戦国大名として何の魅力もない
こんなのに憧れる要素が無い >>851
戊辰戦争で真っ先に徳川を裏切ってくれた藤堂隊には感謝している >>765
吉川広家はずっと黒田父子を介して家康と連絡取ってたよ
関ヶ原前後の期間黒田父子⇔吉川広家の書状はかなり残ってる
例えば関ヶ原合戦の一ヶ月前の8月17日付の吉川広家宛黒田長政書状では
「この度の騒乱は内府も安国寺一人によるものだと考えておられる。
なので今後は内府とより一層昵懇の間柄となる様に働きかけることが肝要だ」
と長政は輝元や広家に害が及ばないよう気配りを見せたりもしてる
実際書面で正式に密約が成立したのは関ヶ原合戦前日の9月14日
軍監の井伊・本多が吉川広家らに血判起請文を出してるが知っての通り戦後毛利の領土は削られてる
9月14日付井伊直政・本多忠勝連署血判起請文 吉川広家・福原広俊宛
・輝元に対していささかも疎略に扱うことはしない
・吉川福原のご両人は特に内府に対して忠節を尽くされているので、内府も今後両人を疎略に扱うことはしない
・ここに毛利がお味方することが決まった上は、内府直筆の墨付(公文書)を輝元に遣わす
この三ヶ条にもし偽りがあれば、梵天・帝釈・四大天王、日本国中全ての大小神々、
特に八幡大菩薩・熊野三所権現・加茂・春日・北野天満大自在天神・愛宕大権現の天罰を被るものとする >>1
短期で果断な人物が
秀吉の下で野心を疑われず
我慢してたから
スゴいんやで >>850
当時は、戦の最中は垂れ流しだよ。
今でも戦闘機パイロットは、オムツをはいてるよ。 家康って十代の小娘から40過ぎのババアまで側室にしたロリコン絶倫家だから嫌いだわ ウンコ垂れ流し当たり前なら伝記として残ってないわw
部下「なんか臭い!それなに?」
家康「み、味噌が落ちたでだもん💦」 >>71
家康の遺骨は久能山東照宮な
日光なんて番ねほとんど訪れてないぞ 江戸時代だろ
家康を褒めたたえるモチベーションしか働かないわな 鯛の天麩羅が好物だったっていうのは事実なの?一次資料にある?
戦国時代に油で揚げる事なんてないだろ
天麩羅って江戸からだろ 東照宮に行ってみろ、いかに家康公が偉大であり、また東照宮を建立し結界を作り江戸を安寧させているのを知るが良い。 自分の妻と長男を頃すように言われて頃して、
それでも信長さんと同盟結んでたんだから我慢強いと思うけど 信長・秀吉:戦国時代を終わらせた人
家康:軍事クーデターで政権奪った人 >>828
胆力はあるんだよな。
てかよくあれだけ大名改易して離反劇が起きなかったと思う。
身内にも厳しかったから諦めムードもあったと思うが >>866
自分の妻を頃すなんて戦国時代でも異例だな。家康は相当残虐だね >>870
軍事クーデター起こしたのは三成と言うか西軍陣営、大阪の陣にしても豊家の側から仕掛けてる >>874
あのタヌキが約束事守らず陰湿な真似ばかりするのが事の発端やろがい それを直江にこき下ろされて発狂して越後に乗り込むバカw >>873
家康にとっては重臣の妻子殺すよりも自分の妻子殺した方が気が楽なんだよね。
そこにこの男の人間的卑屈さ陰湿さが凝縮されている。 >>875
大前提として秀吉の遺言を守ってるから家康の専制状態になってる
西軍陣営はそれが気に食わないから蜂起した賊軍だよ、だからこそいわゆる豊臣恩顧は大体家康についてる >>865
鯛の天ぷら云々は徳川実紀にある話だな
徳川家にとっては正史に当たるんだけど19世紀前半に編纂されたもので
所謂先祖の顕彰を目的に書かれる家譜みたいな扱いだな
当然一次史料ではない
あと徳川実紀には鯛の天ぷらが家康の好物だとは書いてないよ
天ぷら自体の史料の初出が家康死後50年くらい後なんだよな
衣を付けてあげない素揚げみたいなもんはあったって人もいるしその辺はよく分からんね >>868
ありゃあ話が逆で家康自身が信康嫌いだったのとお家騒動がゴタゴタしたんで仕方なく粛清したのを
息子を殺したとあっちゃあ聞こえが悪いんで死んでいなくなった「信長に命令されたんで仕方なく。。。」
って言い訳を後の歴史家たちに書かせたって説が最近の研究者たちのトレンドなんだとよ
徳川家系の資料ってそういうの多い「殿は嫌がったんだけど〇〇がそういうからー」みたいな 武家や公家に法度を守らせたし徳川家にも守らせたというのが一番の功績だろうな
武力による支配から法度による支配に切り替えたのは徳川家を長期間存続させた家康の功績
あとは家康じゃないけど参勤交代かな
大藩に無駄金を使わせて疲弊させるヒントは家康の天下普請にあるが 天下布武より天下安寧の方が外様大名にも受けが良いでしょ >>875
シンプルに胃潰瘍のいきすぎで胃に穴空いたりもう胃がん末期だったところに
天ぷら?たまたま消化の悪いもん食ったとかそういう話じゃないのか
今は胃潰瘍なんてガスター10飲んでりゃ死なないけど
家康没が400年前でそれから300年も経ったほんの100年前でも治療薬すらなくて
夏目漱石も胃潰瘍で胃に穴あいて死んじゃったんだしな >>881
大変そうだけど朝鮮出兵とか明に戦争に行かされるよりはマシかもね >>879
これは素晴らしい
博識だな
信憑性の高い情報をありがとう >>878
豊臣方の決め事を破りまくってたのは家康でしょ
すっとぼけたフリとかまでしてさ >>879
やっぱり天ぷらも創作だったかー!徳川は嘘ばっかり!戦の話も盛りまくってるだろうな!
徳川四天王なんて女より弱いんだろ本当は 直江状で怒り狂って出兵した話って
前から違和感を感じてたんだけど
アレって家康に都合良すぎない? 元々明は弱体化していて各地で反乱が起こったが
朝鮮出兵のためそちらにも兵力を割かなければならなくなり清が建国された
清の創始者と言われるヌルハチは徳川家康と同じ頃を生きた人、強い
末期はともかく清の前半の為政者は優秀だったみたい
女真族とか満州とか
満州といえば第二次世界大戦あたりでもカギとなる地域
うろ覚え >>892
ドルゴンも早死に順治帝も優秀だし
極め付けが聖祖康熙帝だからな >>888
秀吉死後真っ先に輝元と浅野長政を除いた4奉行が家康を孤立させましょうって手紙のやり取りしてる(掟違反)
こんな奴らが豊家のために〜なんて言って信用なんてあるわけないじゃん 辛抱強くて短気は両立するよ
排他的なものではない
魚釣りはそうだ >>893
康熙帝の読み方が分からんぐらい詳しくはないのだけど(こうきてい、で変換されるのすごいな)
それだけの強者が中華帝国にはいたのだから
あのまま朝鮮出兵だか侵略を続けても悲惨なことになっただけだろうな 戦がなくなりゆとりも出来たよ
読み書きソロバンおぼえたいな
こどもは寺子屋おとなは塾
みんなで学ぶでやんす江戸時代 織田シナモン信長を見てると色々と大変だったんだろうなと感じる 辛抱強いてマヌケて意味だろ
機を逃す奴が天下取れるわけないだろ 江戸時代の庶民からしたら、織田信長、豊臣秀吉を反面教師にした良い治世だったろうな 色々研究結果が挙がってるのに
未だに小説の内容を頑なに信じてるやつはなんなのだろうな
小説ってのが理解出来ないのか? >>905
でも武田滅亡後は武田旧家臣を召し抱えて、上手く使ってるんだよな 普通に辛抱強かっただろ
少なくとも信長、秀吉と比べれば 上手くの定義がよくわらかんな
誰か活躍したっけ?
そもそも、徳川の家臣で戦で活躍したとかあったけか?
幕府成立の最大の功労者は、三成と秀吉だろ アンガーマネジメントが出来た人だよ。短気な部分があっても、人間は努力で感情を操れる
哀しいかな家康は、望まない幼少期の人質時代で培われた >>906
井伊直政の元に多く集められ故に赤備えとなった。
三河者は身内意識が強く排他的で他所者を受け入れづらかったが、直政は重役でありながら途中入社組だったからw >>907
天下を取った時期が遅かったというだけで家康の性格とは関係ない
常にイライラして爪を噛む癖があったというし
父も祖父も短気のため20代で家臣に殺されるといういわくつきの家系
正室を殺し継室は1年半で実家逃げ帰り
すでに亡くなっている世話になった秀吉の墓まで暴いてぶち壊すという狂暴ぶり >>902
信長 漏らすなら 漏らさぬように 立ち回る
秀吉 漏らすなら 漏らす以前に 片付ける
家康 漏らすなら 味噌にみせかけ 嘘つこう >>880
もちろん現実にはそういうこともあり得るとは思うけどね
ただ確実な資料が出て来ない限り、それも陰謀論に近い気もする
他にも秀吉さんから無理矢理妹押しつけられても受け入れて正室にしたり
まぁそれは戦国時代では珍しくもないか・・・
織田さんと秀吉さんがついてこねた餅を家康さんは棚ぼた的に食べただけって話もあるけど、
別な見方をすれば3番手でも我慢してたとも言えるだろうし
徳川幕府が260年の平和な時代を築いたことからしても、
開祖である家康さんが忍辱行でかなりの徳を積んでたんじゃないかと >>910
その徳川に帰化した武田旧臣と
最後まで徳川に抗った
真田幸村(信繁)はさぞや輝いて見えただろうか
それとも
信濃10万石で妥協しろよと思ったのか 厭離穢土 欣求浄土
厭世的で地味な旗印
信長、秀吉ほど華々しさのない家康らしいスローガン 家康は確か
寅年の虎の日に生まれたんだったかな
昔の人は、陰暦を使ってたし
今の人と違って目に見えないものに対して畏敬の念を持っている
陰暦のほうが自然の摂理にあってるんやけどね
そういう感性が今の人とは違うんよ
虎の性格と思ってたかもな
ジックリきて、チャンスがきたらガー!っと行くタイプ
我慢強いだろうな >>917
全然虎じゃねーよwww
小心者で戦闘も弱く消極的で狡猾な狸のどこをどう見たら虎なんだよ笑わせんなバカwww 家康は基本的に有力者が事故死、病死するのを待っただけ >>918
知らないのなら書き込まなければいいのに。
本当に小心者で戦闘弱かったら秀吉が人質なんかだすかよ。 >>915
人によるんでないかい。勝頼が岩櫃入りを選択しなかった時点で、真田はもう独立戦国大名だからな
元々先祖代々の武田大名でもないし、兄貴は徳川方大名の道を選択しとるしな。 >>876
直江状も捏造創作の可能性が高い
いい加減小説講談知識で物を語るのはバカを晒すだけと気づけ >>911
秀吉に世話になんてなってねーよ
むしろ秀吉に頭下げられて天下統一と維持に協力したのが実態で
秀吉のほうがよっぽど世話になってる
だから秀吉も最期は家康を頼らざるを得なかった
その後豊臣が滅んだのは時勢を読めなかった秀頼の無能に尽きる
ほんと古くさい小説講談知識で語るのばっかだな >>921
秀吉は家康が好きすぎたんだよ
小牧長久手で家康を滅ぼすことなど簡単だったのに
わざと秀吉本隊が到着する前に奇襲攻撃で局地的に勝った家康を立てて
お前を殺したくないから家臣になれと母親を差し出した
家康のほうが強かったらそのときに家康は秀吉を殺して天下人になってたよ
家康の軍事力は弱く到底それは不可能だったから家康は秀吉の家臣になった
まあ家康は秀吉が大嫌いで常々殺したかっただろうけどね
大坂の役の後、わずか8歳の秀頼の遺児国松を捕まえて市中引き回しの上六条河原で処刑したが
「父、祖父の代わりに罰を受けるのである」として家康は積年の恨みから
こうして秀吉を市中引き回しして処刑したのだと公言したし
秀吉の墓もぶち壊した >>919
待つこと出来るのは辛抱強いな
信長なら有力者に戦を起こし、秀吉なら有力者を籠絡してた >>921
いや事実ベースで弱くて気小さいからなぁ >>924
お前が古くさい小説講談知識で書いてるんだろ
江戸幕府開いた男は信長や秀吉よりも偉大に決まっているという脚色付き小説をもとにした
ドラマの見すぎだ
家康を過大評価しすぎの馬鹿 >>828
秀忠に軍事手腕はそれほどなかったと思うけど
ライバルがな…
下記のように輝元や家康は秀吉も恐れたライバルだったが
秀忠治世にそれほど強いライバルはいなかった
「完訳フロイス日本史5」(2000)
>関白は、朝鮮の半国に…毛利を…かの地に留めしめ、
>その跡には、自らの家臣を配するつもりでいた。
>関白の意向として感じられることは、
>朝鮮を占領し…日本で己れに叛旗を翻す可能性がある者を
>すべてかの地に送り出すことであった
>太閤様は…家康だけが日本の政権を簒奪しようと思えば
>できる人物であることに思いを致し… >>18
カリスマ性あったらもっと大阪の陣でましな戦い方しているだろう
何にもしてないじゃん。 因みに本多や井伊の逸話も徳川を凄く見せるための創作だと思ってる 秀吉亡き後の豊臣方に出来た事は、高台院を頼って大坂城を出て一大名の位に甘んじる事だけだったろうな
信長亡き後の織田方だって、秀吉の風下に立つしかなかったじゃん。時勢には逆らえないんだよ 戦に負けて逃げるときうんこを漏らしたとか
逃げるとちゅうモチを食い逃げしたら店のババアに追いかけられたとか
そういう心暖まるエピソードもある >>935
五万人の浪人はどうしようもないからあそこで滅びるのは仕方ない。 >>808
秀吉最後の出陣はおそらく52歳(小田原征伐)なのに
家康最後は72歳(大坂夏の陣)なんだよな
家康が元気過ぎる
小田原後から秀吉は秀次に戦を任せるようになり、
そして同時期から秀次・家康・輝元を恐れるようになってる
やはり自分の求心力は軍事手腕にあり、
それが老齢で衰えてきたら、
秀次・家康・輝元に反乱を起こされる
恐怖があったんだろう
その恐れている秀次・輝元が同盟を
結んだとあっては、秀次を殺す以外なかったのだろうな >>922
真田は武田には義理は通したな
甲府城も作ったのは真田昌幸なんだよな
未完成だったがあそこで信長を迎え討つことは厳しいだろう
俺は幸村は武田だと思っているので
徳川家康は死ぬまで武田に震撼させられたと思う。 >>816
>>929参照
秀吉は晩年、家康の反乱を恐れていた 戦国系は知識のある人が多いから面白くて見てしまう
特に>>1この手の話題はニワカホイホイにも程がある >>816
晩年の秀吉が乱心していたから
結果的に天下は覆され豊臣は滅んでいったんだが 家康も自分の死期を悟って秀頼を始末しにかかったんだと思うわ
家康、秀忠らが死後の時代に秀頼はまだ現役バリバリの年齢
生かしていたら徳川の将来が心配になる この道を行けばどうなるものか
危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし
踏み出せばその一足が道となり
その一足が道となる
迷わず行けよ 行けば分かるさ >>945
信長は本能寺の変の直前まで
毛利攻めに自ら出陣するつもりだったとされているので
信長は47歳の死ぬまで現役 >>946
だから秀次の切腹さえなければ、家康は何もできずに死んでるって >>880
三河兵が尾張兵の3倍強いとか犬の忠誠心とか全部徳川が天下取った後に盛っただけだからな
親父も爺さんも家臣に殺されてるし家康自身も三河一向一揆で重臣に裏切られてるし 秀吉が恐れた輝元・家康は
秀吉死後、天下の覇権をかけて戦った
秀吉の恐れは当たっていたのだ
輝元が勝っても豊臣家は傀儡か滅亡だろうな >>949
あそこで信玄相手に負けておくことも、何らかの政治的打算があったのだろう。 >>883
当時の天下とは京都中心にした畿内のことを指していた(山城、河内、摂津、大和、和泉)
信長の天下布武とは将軍足利義昭に供奉して天下五畿内を取り鎮め、静謐にすることの決意表明だったっていうのが昨今の主流だね 本来の性格はよく知らないけど、
レスにある通りで旗印の厭離穢土欣求浄土を実現する為に、
どんな状況でも諦めなかった人って感じがする
織田さんと秀吉さんが上にいて、その人達が天下を取れば
自分の身や将来がどうなるかも分からないのに、
それでも待てたってのはなかなか出来ることじゃない気もする
秀頼さんや豊臣家をなりふり構わず潰したのも、
豊臣家を残しておけばまた豊臣家と徳川家の争いが始まるだろうから
現実に家康さんの考えた通り平和な世の中が続いたわけで >>956
天下とは普通に日本国のことだよ
完訳フロイス日本史3(2000)
>信長は、都と、日本人が日本王国をさした言葉である
>天下の主であった
ただ「日本の中央政権の統治範囲=天下」という意味合いで
使われていたらしく、日本の中央政権=室町幕府が
畿内しか統治できてないから天下の範囲が小さかっただけ >>955
信長の同盟者として素通りさせるわけにはいかなかったんじゃないかと言われてる
後は家中に向けての面子の問題とか。あの時代領内の国人たちに見限られるとあっという間に終わるから >>958
別に最終ゴール地点を最初から天下獲りに定めていたわけではないしね。
天下を取るために待っていたわけではないんだよ。
豊家を滅亡させたのも、徳川を末永く繁栄させるためであって
べつに下々のためにやったわけではない。 >>951
無理でしょ
秀吉が乱心していたから
どうやっても秀次は生き残れない
そして秀次にしても長久手の戦いで兵力で圧倒的に少なかった家康軍にチンチンにされるレベル
決して有能ではない >>960
やはりぱパフォーマンスありきだよねえ。家康は内的要因が原動力となるような人ではないわ 学者という名の金儲けww
あーでも無いこーでも無い言っとけばいい >>953
江戸時代初期の70代は現代の90代に相当するだろ
年寄りだからしょうがない
そもそも、当時の日本人は油濃いもの食べ慣れてない
胃腸が受け付けなかった >>962
さすがに秀次も凡庸とはいえ小牧長久手からなにも成長していないわけではない。
関白という地位もあれば百万石の封土もあり、豊家のプリンスとして多くの大名と普通に付き合いを重ねてきていた。 >>959
いくつかの使われ方をしているが信長が天下布武と表明した天下は畿内だけでしょって話でしょ
信玄や謙信や元就にも天下布武で手紙送ってるんだぜ まぁ多かれ少なかれ歴史は時の権力者によって作られるものだからな >>953
元々、胃ガンだった説があるから、天ぷらが昇天の引き金になったかもしれんね。 >>925 秀頼は殺されずに九州かどこかへ流されてそこで一生終えた説があったような >>973
さすがに秀頼は生かしてもらえないわ。
それなら遺児国松が社会的に葬られたうえで旗本寄合席の当主となった伝説のがまだ信用できる 昔は何食ったら体に良い悪いわからんかったからなあ
暴飲暴食に白米ばっか食う奴はいるわで >>961
もちろんそうだろうけどね
ただ何もしなくても、逆に自分達が天下人から敵として攻撃される可能性もあるわけで、
実際に家康さんも豊臣家を潰したわけだし
どっちにしても自分から何も仕掛けずひたすら待つってのは、
簡単なようで難しい感じもする
家康さんなら戦争しようと思えば出来たんじゃないかと 高台院を納得させる程度のことは、家康も聞き入れてる可能性があるからね。
>>975
当たり前じゃん。ただ家を保って明治までつないだ朽木元網ですらすごい人物だわ 実際に関ヶ原とか
徳川の家臣の暴走で
始まって1時間足らずで早くも東軍敗走のところを
小早川秀秋の謀反でなんとか勝利
大阪でも
完全方位のはずなのに
家康本陣は壊滅
だからね >>977
小牧長久手の時点では秀吉はまだ織田軍団の盟主として同僚を束ねている状態に過ぎなかったから
信雄を担いだ家康もちょっかいを出せたんだよ。
>>976
細川藤孝が忠興に「毎日同じものばかり食わず、いろいろな種類のものを満遍なく取れ」って手紙で書き送ってるよ。
当時からその程度の知識を持っている人は居たようだ。 >>981
そういや戦でも先に動いたり余計な動きをしてかえって負けたりすることもあるよね
その逆もあるだろうけど・・・
だから厭離穢土欣求浄土っていう信念が、
家康さんを良い方向に導いた気がしてならない
苦しい時に信じる理想や理念があるってのはやっぱり強いと思う >>982
>厭離穢土欣求浄土
家康自身も一揆に悩まされた念仏宗徒のスローガンじゃん。
それを上手く自分の旗印に転用したって話。 >>952
三河に歯向かう事なく、一方的に搾取されてきたのは、何で?
何故、名古屋人は田舎臭く、頭が悪い猿なのか?
「先祖代々骨の髄まで百姓、万年パシリの田吾作だからでつ(笑)」
尾張の歴史
◆平安時代◆
・藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)が尾張目代(遙任国司の代わりに地方官吏を監督)としてにらみを利かせる。
・熱田大宮司職を藤姓熱田大宮司一族(本貫地:三河国額田郡)に乗っ取られる。
・以後、荒廃していた熱田神宮は、藤姓熱田大宮司一族の血縁である源氏(鎌倉将軍家、足利将軍家)と結びつき発展する。
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子→源頼朝
藤原季兼(別称:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤季李範(額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→足利義兼
◆鎌倉時代◆
・三河国高橋庄の地頭職が支配する。尾張守護職を兼務。
・鎌倉幕府の尾張国の守護所が不明なのは、守護が尾張に住んでいなかった為。
◆室町時代◆
・斯波氏(本貫地:三河国碧海郡矢作、尾張守、尾張守護)、今川氏(本貫地:三河国碧海郡今川、尾張守護)、一色氏(本貫地:三河国碧海郡一色、尾張分郡守護、地頭職)が支配する。
◆江戸時代◆
・尾張の支配層は追放され、尾張徳川家が支配する。
・附家老は成瀬家(三河国加茂郡)、その他平岩家(三河国額田郡)、渡辺家(三河国額田郡)、中根家(三河国額田郡)、鈴木家(三河国加茂郡)。
◆現代◆
・トヨタグループのパシリとなる。 小牧長久手で秀吉に逆らった時点で、家康は本当は終わってた
>>20 >>983
そういう打算的なところもあったかもしれないけど、
家康さんが自害を決意したところをお坊さんに止められて、
厭離穢土欣求浄土と諭されたそうだし、
打算的なところだけではこれだけ人が付いてこないと思う
人を動かすのは結局は誠意や真心のような気がする
何度も言って申し訳ないけど、
実際に家康さんが作った幕府が260年続く平和な世の中を作ったわけだし
鎌倉幕府作った源氏は3代で将軍が途絶えてる >>986
家康は鎌倉幕府をひらいた源頼朝をとても尊敬していたんですがね。 >>835
家康を朝鮮出兵させれば削げただろうけど歴史の結果を知ってる者の後から言えることだから無理だった そこまでの野心家じゃなかっただけ
家と領地を守ることに必死だった期間の方が長い >>988
文禄慶長の役の軍勢をそのまま関東に差し向けていれば、簡単にひねり潰せたでしょ。
口実は石川数正あたりと相談してこしらえますかねえw >>987
家康さんに限らず、戦国武将は頼朝さんを尊敬してる人多いんじゃなかったけ・・・
武士として男として頼朝さんを尊敬して憧れるのは、俺も分かる気はする
ただ尊敬してるだけに色々と勉強して良いところも悪いところも分かった上で、
それを参考にしたから太平の世を作れたんだと思う
尊敬してるからといって盲目的に全部を真似するのは、
それは何か違うんじゃないかと ダメになったのは明治維新からだよ。民主主義で日本は腐敗したよね >>991
でも関ヶ原も無くなるわけだから有力大名は減らずにいずれ戦国時代に逆戻り >>992
血統のいいプリンスが盟主となって、各地に勃興した土豪たちの所領を安堵するっていうのが
中世のロールモデルなんだわ
中世的色合いの強い家康三河軍団もそれに倣ってるんだけど
射幸心で釣り上げた優秀な流浪人たちを使って拡大してきた尾張や畿内の連中はちょっと色合いが違ってた。 ライアーゲームの人の現代信長公記みたいなのどうなったっけ… >>786
いや、だからそんな漫画の引用ではなくて
家臣の心が離れてるのがわかる事変はないのか? >>995
色んな武将に仕えてきただろう優秀な流浪人が家康さんのところに集まってきたのは、
それだけ惹きつけるものがあったり将来性を感じたからなんじゃないかと
三国志の劉備さんの人徳に通じるような気もする このスレッドは1000を超えました。
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