【日本史】『豊臣秀頼の実の父親』という説も…大坂の陣の“A級戦犯”大野治長は無能な家臣だったのか [ボラえもん★]
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コロナ禍において、大阪のあるホテルでは、大阪城が見える部屋をテレワーク用に準備しているという。
大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。
※以下、「大阪」は前近代における表記の「大坂」で統一。
■大野治長などのこと
大野治長は生年が不詳、通称を修理亮といった。
治長の母は大蔵卿局であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母でもあった。慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際には、徳川家康のもとを訪れていた女性でもある。
こうした関係から、治長は秀吉の馬廻として仕えたといわれている。
当時は1万石を領し、従五位下・侍従に叙任されていた。
治房は治長の弟であるが、生年不詳で経歴もあまりわかっていない。
豊臣秀頼に仕えたのはたしかであり、知行として1300石を与えられていたという。なお、治長には治房のほかに、治胤、治純という弟がいた。
秀吉の死後、治長は秀頼に仕えて、警護二番衆の隊長となる。
しかし、慶長4年(1599)9月、大坂城内で浅野長政、土方雄久らと徳川家康暗殺を企て、未遂に終わった。
この容疑で治長は捕らえられ、下野国結城(茨城県結城市)に追放されたのである。
この時点で、治長の将来は断たれたかのように見えた。
翌年、石田三成らが挙兵すると、治長は家康から赦免され、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属して軍功を挙げた。
合戦後は再び豊臣家に仕え、秀頼を補佐するようになり、重臣の1人に数えられた。
慶長19年(1614)に起こった方広寺鐘銘事件によって、片桐且元が大坂城を退去すると、治長は織田有楽長益とともに、
豊臣家の中心的人物として秀頼を支えることになった。相前後して豊臣家を守るべく、治長は難しい政局運営を担うことになる。
■治長にまつわる悪評
ところで、治長には、後世にわたって悪評がつきまとった。
たとえば、大坂の陣に際して、治長は真田信繁ら牢人衆らの意見を取り入れず、徳川方を叩く好機を何度も逃したというものである。
それゆえ牢人衆は徳川家を打ち負かすチャンスを失ったので、何度も地団駄を踏んだという。
こうして治長は、豊臣家が敗北したA級戦犯に仕立て上げられた印象が強い。
それだけではない。治長と淀殿との間には、絶えずスキャンダルが噂された。
たとえば、慶長4年(1599)の段階において、治長は淀殿と密通していることが風聞となっている(『萩藩閥閲録』)。
同趣旨の話は、姜の『看羊録』や『多聞院日記』にも記されており、相当な話題になっていたことがわかる。
また、江戸時代に成立した『明良洪範』には、秀頼が治長と淀殿との間に誕生した子であると書かれている。
それらの記述は治長と淀殿との密通の根拠となり、後世に秀頼が秀吉の実子ではなかったと広まるようになった。
秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も疑問視する向きがある。
■一変した評価
ところが、現在、治長の評価は一変しているのではないだろうか。治長は豊臣家存続のために腐心しており、徳川家との講和にも尽力した。
当時、京都所司代を務めた板倉勝重は、自らの書状の中で、治長が不屈の精神によって事を図り、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している。
悪事と記されているものの、それは徳川方から見たものであり、豊臣方からすれば、そうでないことはたしかである。
(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210501-00235647/ A級戦犯の意味を調べてから出直せ
無学を曝け出してるだけだぞ 指導的地位だったんだから間違いではないだろ
まさかB級か?前線か? 無能とは言わんけど、まあ有能でも無いような
というか、あの状況から豊臣まとめて
何とか生き延びさせるって、大野一人の手じゃなんともならんのでは 浅野長政が家康の暗殺を? ないない (;・∀・)ノシ >>12
大河の淀は時の美人女優が演じるのが通例だもんな 秀吉が父親ではないよな
都合よく淀殿だけ2階懐妊するとか
側室100人くらいいたのに >>7
いや、古い評価だと戦争に導いた戦犯って評価だからあながち間違いじゃないかも 大坂の陣の牢人衆の意見を取り入れず負けたって言うが聞いてもどうにもならんだろ
5人とも実績微妙だったし 治長はなまじっか家康との縁が深かったから大阪方浪人衆に信用されなかったんだろうな
敢えて苦難の道を選択しちゃった人 A級とかB級とかランクがよくわからないよ
参考までにC級戦犯でどの程度なの? >>1
大野治長は淀殿と乳兄弟(同い年)で幼い頃から常に一緒、
2度の落城経験(小谷城、北ノ庄城)も共有してるのだから(コレが大きい)、
小さい頃から手を握ったり、背負ったりしてた可能性が高い
(落城経験が無ければ周囲も気を配ったり、自制も働くが、止めるものがない)
普通の仲ではないよ
しかも同時代人から見ても、2人の関係は
「あの2人に限ってまさかw」ではなく、「あの2人はあやしい…」という評価だった、
複数の人間が、わざわざ書いて記録に残すくらいなのだから、
限りなく黒に近いと言っていいだろう >>26
A級は、戦後に作られた「人道に対する罪」とかいう、訳の分からない犯罪
B級は、捕虜虐待とかの、戦前から規定されていた戦争犯罪 >>12
ああ あの戦国最高の美女お市の方にクリソツだったらしいよね
エロ猿秀吉は子供のころから狙っていたとか でも楽しんだのは大野みたいだね 淀殿はけっこう若いうちに前歯が抜けて歯ぐらだったそうだけどw まあ大野は無能だけどさ、当時の大坂城の状況ではどうせ勝てないだろうw
勝機があったかもしれない関が原とは全然違うからな >>26
程度じゃなくて内容の分類
甲乙丙丁が上下なしの分類に使われることがあるのと同じ 淀君といえば、松たか子がしっくりくるな。
そういえば真田丸は竹内結子だったね・・・ こら記者
スレタイに要らんキャプション付けた上にA級戦犯の誤用まですんな 実際秀吉って種なし臭いからな
色ボケして大量の女を抱いたのに種付けできてねえんだから >>28
唯一、大野治長に有利な材料は、豊臣秀吉が治長をまったく咎めていないこと
何かあやしいところがあれば、何か耳に入っていれば、
絶対権力者の秀吉は治長なんて虫けらで何でもできるわけだから
周囲が敢えて秀吉に「お気の毒」ということで、何も教えなかった可能性もあるがね
淀殿は治長をかばうだろうし、誣告とみなされてトバッチリを受ける可能性もあるから
治長が咎められたのは秀吉死後のこと 治長の母親が淀君に影響力あるんだし
息子にビジョンがあり講和目指すなら
最初から徳川の要求受け入れるなり徹底的にやれよと思うわ
淀君が江戸に人質に行けば良かったわけだろ
それは認めない、でも講和は結べとか母親は足しか引っ張ってないし
息子の治長も中途半端だわ 秀吉の側室で最も美人と言われたのが京極家の松の丸殿、淀殿とはいとこ同士
最もアゲマンといわれたのが宇喜多直家の未亡人のお福殿、この人が亡くなったら豊臣家は衰退へ向かう >>39
本文でも敗戦の最高責任者という酷い誤用してる >>48
まあそうね、最終的に織田氏の面々(信雄、有楽斎)は大阪城を退去してるからね
冬の陣の直前に、織田信包が毒殺されてなければ、また大阪の陣の展開が違った可能性はあった 秀吉は種無しだから秀頼は別の人の子であるのは間違いないだろうな 稀代の女好きの秀吉が子供一人しか作れなかったはずがない
どう考えても種なしだよな >>48
そうだよ。豊臣家の対立は結局、高台院(尾張)閥と、淀(近江)閥の戦いなんだもんw
尾張閥は高台院とともに家康の方に行ったよね 大阪の陣の落ち武者やその子孫って何人くらいいるのだろうか >> コロナ禍において、大阪のあるホテルでは、大阪城が見える部屋をテレワーク用に準備しているという。
>>大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。
なんだこの脈絡の無い書き出しは?
馬鹿の見本か?
よく恥ずかしくないな >>17
他に子がいない時点でもうね
秀吉自身、種無しの自覚があったのかどうか 石田三成が豊臣政権の要石なのに主家が支援しなかったのだから滅亡も当然だろうね
数少ない家臣の値踏みもできないボンクラだもん 身長が146cm指が6本ある禿ネズミ(ブサ面)種無しだけど天下とったのはすごい 松の丸殿とお福殿は経産婦だったが秀吉との子は出来なかった、お福殿は年増過ぎたのかもしれないが
秀吉の寵愛の具合からいって松の丸殿と淀殿は「呼ばれた回数」にはそんなに差が無かったはず
でも淀殿は2度も子を授かっている、怪しい 真田丸で淀殿が真田をベタベタ触ってたけど、
あれは実際はあの調子で大野治長にやってたんだよな >>56
落ち武者なんか農村部に逃げたら刈られるだけだな
太閤検地で全国の土地使用状況リストができてる時代に落人の里が作れるはずもなし
都会に逃げ込めばワンチャンあったかもしれん そもそも誰
本当に関ヶ原以降の流れが大好きだよな西日本って
こうすればこうだったという妄想 身長2mで体重160kmの巨漢だったんでしょ?それだけで秀吉の遺伝子ではない。 >>65
だからみんな九州に逃げた話になってるんじゃね
島左近やら真田大介やら秀頼やら >>55
三成方(近江派)が勝ってたら、清正正則(尾張派)はつぶされてただろうからな >>66
文化不毛の東日本は日本じゃないから口出ししないように >>69
チーム中村なのにいつも忘れ去られる加藤嘉明
涙 >>71
大阪って本当にろくな文化が無いよね
秀吉に長い停滞からすくい上げてもらって
徳川の国策で発展したのに何も生み出せなかった 東はどっちかと言うと関ヶ原以前の戦国で盛り上がる
関ヶ原まで行くともいう興味が失せるのである 治長ってパイプ役の片桐克元や織田有楽ときちんと連携取れてなかったんじゃないか 秀吉も女好きでやりまくってたんだからそれで子供がいなかったのもな
といってもちゃんと外出ししてたのかもしれないがw
関白の甥の豊臣秀次は結構子だくさんだったんだよな
それも一族郎党、秀吉に皆殺しにされたけど
秀次は黒田官兵衛にも将棋が強いって認められてたのにな 豊臣秀頼の身長は、185cmだったらしい。
一説には193cmとも。 >>6
あれがまさにチートだよな。
どういう戦術をすればあれだけ強くなれるんだろ? 秀吉は信長に大恩があるんだから織田家をもうちょっと立ててあげればよかったのに(秀信信雄) 秀吉は淀の前にも羽柴性時代に奉公人の女性に手だして孕ませた話あったような?
それも本当に秀吉の子種か知らんけど 無能っても大坂の陣なんて局地戦で勝てたとしても戦局はひっくり返らんだろ
大坂城退去して公家として生きるぐらいしかない >>78
関東は縄文弥生飛鳥、鎌倉、戦国初期、江戸時代以降は列島内で先進的な地域だぞ >>69
調整役の秀長がやっぱ偉大だったわ。ヤツが死んでから豊臣家中の不和が
どんどん表面化してくるのな >>83
下手したら暗殺されかねない誰も信用できない大阪城の状況じゃ秀頼出陣がなかったのも当然の成り行き 家康の快進撃は単純に考えて武田を取り入れた事がでかい気がするわ
八王子千人同心も武田やん >>88
秀吉は100%種無しだから子供はできないよ
子供がいたらとっくに跡継ぎになってる まあねえ、秀頼公の親父は誰なのかとか
そういうのは本当にロマンあふれる話でね。
結局大野治長は最終的には最後まで大阪城に残り
(片桐且元や織田有楽斎とは違うんだね)
ひょっとしたら密通相手だったかもしれない淀君や
もしかしたら子息かもしれない秀頼公とともに
殉じているわけで、それはそれで一貫とした生き方ではあろうね。
ま、もちろん実態はどうだったのかわからんけどさ。 >>95
織田の武田の旧臣に対する扱い方が悪かったからな
信忠が調子に乗りすぎたというか
本能寺の変の後には武田の旧臣が立ち上がったし >>1
関ヶ原にしろ大坂の陣にしろ秀頼が出陣しなかったのが致命的
秀頼が出陣していれば徳川方について豊臣恩顧の将の槍が鈍ったかもしれないのに そもそも家康と講和をする方針が誤りだった。
家康にその気はないんだから。
断固、戦うべきだった。 >>91
秀長は偉大な弟だね。秀吉も秀長がいたときは暴君じゃなかったと思う
三成は秀吉のイエスマンで、秀吉の悪行を諫めなかったから人望がなかったんだと思う 専攻が日本史で卒論が大坂の陣だけど
おれの研究では国家安康は後世の作り話で
実際は豊臣家が家康人形を大通りに吊るして
棒で叩いたり泥玉を投げつけたりして笑い者に
ちょっとひどいでしょと家康が抗議しても
豊臣家は全く聞く耳持たず尻から槍で突いたりして
しまいに爆薬を口に詰めて家康人形を爆破
いくらなんでもひどすぎると家康が大坂に向かうと
外堀を埋めるから許して下さいと
まあ外堀を埋めるなら許しますが
だが実際は内堀まで埋めてしまい
えっ内堀までは埋めなくて良かったのに
うるせえ
真田幸村が突進してきてわけもわからず家康は応戦
けどこの研究まだ聞きたいか? 日本人は切腹するとき
ロシア語で「おやすみなさい」
って言うの?
「Спокойная ночь」って
😪🦉🌙 >>8
平氏を名乗ってはいた
ただ、織田家って熱田神宮の神主の家系も絡んでるんで源氏なんじゃねーのってきはする >>59
うわあ
すんげえ馬鹿がいた
秀吉には鶴松っていう夭折した嫡男がいたのに
その前に石松丸こと秀勝っていう庶子もいた >>102
家康が死ぬまで待てばなw
大坂の陣が終わった後に家康もホッとしたのかちょうど死ぬからな
まぁ家康は秀吉が死ぬまであんまり動かなかったし
といっても相当徳川幕府も固まってたから崩すのは難しいか >>100
徳川家の中でも新参者の井伊直政に武田家臣預けたのが
外様同士手柄立てなきゃって意識になったクリーンヒット説どこかで聞いたな >>88
浅井の旧領の話だった女の子だったしねねさん激怒案件だったらしくて、連れて行けないからって残したって話は残ってるね
実際に何処まで信憑性があるかはわからないけど >>110
大坂はその気だったんじゃないの。だけど家康が上手で、自分の寿命を悟って因縁つけたんだよw >>96
その子は淀との第一子鶴松と同じように生まれてすぐに亡くなってるんだよな
庶長子で石丸松6歳で亡くなってる説と長女も居て同じように女児で亡くなってる説 >>61
指が6本あるから槍でも刀でも五本指で持つよりもしっかりと持てるから
斬り合いとかでも、
より力技を発揮できて手柄を立ててたんじゃね? >>8
おぢさんが、
今流行りのスマップだよ〜歌って踊れる >>72
豊臣とスペインがもう少しうまくやれば相当に長引いた可能性があった(銀の枯渇も早まっただろうが)
(某記事より)
≫豊臣方の大坂城下では「火縄銃の弾」の生産がおこなわれていたが、それを可能にした
≫原料の鉛を海外から提供したのは、スペインと繋がるキリシタンの商人であった
対して家康側は、イギリス・オランダ(プロテスタント)からカルバリン砲輸入で大坂の陣に勝利、で
やっと国内が治まった
(元HP:)http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/476102544.html
しかし、オランダは家康にスペインの策略の裏側を知らします。
オランダの責任者が、ヤックス・スペックス
スペインは、技師を派遣する代わりに、キリスト教を保護し布教の許可をすることを求めていました。
オランダは、
実はその布教こそ、家康が亡くなった後、キリスト教徒を使ってスペインが日本を征服する目的があるのだ。と進言。
激怒した家康は、スペインを追い出します。
そこで、スペインがとった手が、豊臣秀頼に近づき、秀頼を勝たせること。
〜
秀吉の次の代の代理戦争で、
家康(側のイギリス・オランダ)が秀頼(側のスペイン)に勝ったが、銀が枯渇するほど持ってかれたのが痛い こういう話だと自分ならこうする=自分の説に都合のいいことしか起こらない愚にもつかない意見が散見される >>101
NHKの番組でやってたけど関ヶ原の西軍陣地で大きな山城が見つかってその規模から
石田三成は秀頼を迎えたかったのではないかと推測されると
もし秀頼が来ていれば戦況はガラッと変わっていただろうな 後世の人々は面白おかしく人物像を論じるが、実際の歴史は政治的なもの。
信長vs光秀や、秀吉vs家康や、家康vs三成の対立は、当人たちの野心や人間関係
というより、日本の統治方針について根本的な対立があったため。 秀頼生誕の十月十日前に秀吉は佐賀の名護屋城にいて
淀殿は大阪城にいたことがわかってる フランスのルイ14世とかみたいに
出生の秘密ネタっておもしろいからな >>84
天草四郎は大坂の陣を生き延びた秀頼の実子って説がある 真田の意見を取り入れて出撃していたら豊臣方に勝ち目はあったのかね >>100
あれは家康が信長生前から工作してたんやでw >>8
自分で平信長ってサインしてるくらいだからねえ。 秀頼と淀君って、最期大坂城の天守の下の火薬庫で爆死したんでしょ?
大阪城公園にその墓碑(供養塔)みたいなもんあるよね? >>106
平氏だと主張したって話はあるな
それまで武家政権は平氏と源氏が交代で担当していた
まず天下取ったのは平氏の清盛でそれに代わったのが源氏の頼朝、頼朝が開いた鎌倉幕府
を乗っとったのは平氏の血を引く北条氏、その北条氏に代わったのが源氏の系統の足利尊氏
が開いた室町幕府、その幕府を倒すのは平氏の俺だと >>64
合戦当時の勢力的にそれは無理がありすぎでは そもそも大阪の陣の時点では既に最初から勝ち目がなかったやろ >>121
横だがどこが馬鹿なんだよ
説明できなければあんたの方がバカだわw >>137
西軍の総大将も毛利輝元に譲ったほど格下の大名だからなw 菅よりは大野治長の方が有能
現代にタイスリップして来たら総理になって欲しい ヤリマン淀君が秀吉の財産を狙って男を引き込んだ
悪いのはヨド、淀君!
捨松の父が大野治長で?
拾(秀頼)の父が木村重成? >>110
ホッとして死んだのか大坂の陣で戦死したのか
真田幸村の最後の特攻は僅かに届かず家康の本陣の手前で戦死したって事になってるけど
実際は届いていて家康は打ち取られたって説はある
その後に駿府で病死するまでは影武者がつとめたってな 大野治長は後世の講釈師がつくり上げたような軟弱な武将ではない。
という説もあるなw 西軍の大名は少なからず自分の領地が安泰であれば無理せずに良かったのが本音だろう・・・結果家康に騙され領地没収! 淀君ってさー、今でいう後妻業で、紀州のドンファンの捕まった若嫁とかたかじんの後妻みたいなヤツだったんでしょ、ぶっちゃけw 家康って冬の陣でインフルエンザに罹って、肺炎で死んだらしい。
夏の陣の総大将がいきなり秀忠に変わってるのもそのせい。 じゃあ忠輝面会禁止て感染予防
、、、んなわけあるかい >>133
秀頼は蔵に逃げ込んで徳川方に降伏を申し出たけど、井伊直孝が無視して蔵に放火して焼き殺した 本人もひどかったけど母親と兄弟達が更にひどくてまだまともにみえたくらい
で忘れた頃にあっやっぱりって感じ >>148
正妻のねねがまだ健在なのに後妻業も何もねえだろ
側室はまだまだ他にもいるから中の一人に過ぎないってw 大坂の陣と同時期に、島原の乱とか起きたり、
夏の陣でも、豊臣方の軍勢は10万程度だったら、
勝敗が分かりにくくなったろうになあ (-_-;)y-~
かわいそうやなぁ、
この程度の経歴で、石田三成を殺した家康に立ち向かえってのは。 あれだけ短い豊臣家でもこんなんだから天皇家なんてもっとごちゃごちゃしてる >>108
それは秀吉の実子と確定していない。秀吉は種なしの可能性が高い。 >>113
大きい家ではそこそこ起きる
子供の頃に毒を盛られちゃって
助かりはしたけどホルモン異常起こしちゃってね 信長か秀吉が長生きしてたら、中国が日本領になってたかな >>164
明征服は信長生前からのプランで、
信長なら小西行長を重用するようなことはなかっただろうから
その可能性は高い >>108
鶴松も怪しいだろ。
>>62
淀殿以外の女には肛門を膣と思って突っ込んでたのであろう。 >>40
指六本に加えて、背が低く、顔も小さく色黒で目の飛び出した猿のような顔で、醜悪な顔
子孫を残せない身体の可能性は高い >>153
正室、側室関係なく、世継ぎを生んだ嫁が1番偉いのがこの時代やで >>165
信長が生きてれば、光秀も勝家も健在だからなあ。
家康もこき使えるしw 秀吉が直接海外に行ってればってのはあるなぁ
子供いなかったほうが好きに暴れられただろうな まずは台湾を占拠すれば良かったのに。
あそこなら米もたくさん作れる。 >>172
たぶんノブの頭の中には石油やらゴムやら南方資源の事は入って無かった もともと、両親の敵で
戦利品として秀吉にもらわれたんだから
目的は豊臣家の乗っ取り、復讐
托卵でそれは達成できたが
ねねの反撃で、ねねの子たちに三成を殺されて
そして徳川がそれを利用して滅ぼした 子供の頃は戦国時代は複雑でいまいち興味持てなかったけど
信長秀吉家康の流れを軸に周りの武将覚えていくとわかりやすくて面白いことに気づいた シベリアやオセアニア方面への侵攻の方が
朝鮮半島や中国へ侵攻するよりは楽だったし
人口希薄、部族社会中心だから、人の面では併合も容易 >>175
こじらせると「また三英傑か!」ってなるんだ 全く後ろ盾がない血筋なのになんで秀吉はあそこまで成り上がれたの? >>177
そう言われるとルソンの壷とかもあったかもな 堺商人ともてはやされ?た自体は400年も昔。
東京で大阪と聞いて連想するもの・・・
たこ焼き
お好み焼き
国語の検定教科書を読むと大阪弁になる
大阪弁
漫才
くらいかな? >>179
光秀に信長を殺させて
自分の手で、光秀を殺して証拠隠滅したから 秀頼の種付けの時期には九州に行っててたった一日しか帰ってないとか聞いたよ >>15
今でも普通にいる。
日本では余分な指は赤ちゃんのときに
切っちゃうけどね。
海外ではそのまま残す人もいる。
YouTubeで6本指を披露しているけど、
めちゃ器用だぞ。
おれは奇形ではなく進化形。
あの遺伝子は残したほうがいい。 そりゃさ秀吉の子ではないだろうw
だって秀吉、淀君以外に子供一人とて出来なかったのって不自然過ぎだろう?
それもジジイになってから子供出来るならその前に出来るだろうにね そんなに持ち上げるんならなぜ国替えに反対した?
存続がすべてなら徳川に屈従するしか道はないだろ?
所詮はダメ大名 >>40
側室が多すぎたんじゃないの?
排卵に合わせて中だししないと妊娠しないわけで
二人とか三人で回してればいつかは妊娠するだろうが、
十人とか二十人側室がいるとタイミング合わんだろう
豊臣秀吉の真逆は徳川 家斉だが
家斉は側室は同時に2、3人位だっだったわけで 大阪の冬の陣で和議結んで真田丸解体含め全堀埋めされたのが致命傷
結局、関ヶ原のときも秀頼の出陣を拒んだり大筒弾直撃で恐れをなして和議へ傾いたり
すべて淀の決断が豊臣の滅亡を早めたというね >>149
天下平定しちゃったら秀忠の実績作る機会がなくなる 戦犯は淀だろ?
あるいは秀頼か
いくら何でも家老でもない大野治長に責任押し付けるのは変だわ 大野治長が実は秀吉のご落胤だったので秀頼の父親でも問題なし 大野治長の身長ってどんくらい
秀頼と同じ高身長なら間違いないでしょ 大野治長公が一太刀浴びせたら菅も二階もひとたまりもない
現代に来れば余裕で総理が出来る有能 秀吉が自ら大野や淀に命じた可能性大
普通に考えたら家臣が妾を孕ませたら即処刑で生きて行けないでしょ
書物読むと同時代の人達は知ったと思える記載多数あり >>63
「独眼流政宗」では治長とデキてたって雰囲気出しまくりだったよ
淀が樋口可南子で治長が奥田英二っていかにもだしw 1584 西田敏行、西田敏行に小牧長久手の戦いで敗れる。
1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる
1600 西田敏行、真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける
同年 西田敏行、上記にも関らす石田三成を関ヶ原に破る
1603 西田敏行、幕府を開き初代将軍になる
1605 西田敏行、西田敏行に将軍職を譲り、後に駿府城に移る。
1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける。
1716 西田敏行、八代将軍になる
1745 西田敏行、徳川家重に将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る。
1868 薩摩藩の西田敏行らと長州藩の西田敏行らが協力して幕府を倒す
1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍に西田敏行軍は鎮圧され、城山で自刃。
1860 西田敏行、会津藩の家老となる
1869 西田敏行、五稜郭の戦いで新政府軍に敗れる
1883 西田敏行、共立学校の初代校長となる
1904 西田敏行、日銀副総裁として日露戦争の戦費を調達する サル繋がりでカエサルもクレオパトラとの間にだけ実子が出来たのも怪しい 65万石と子孫に内大臣か右大臣の官位補償してくれるの?ラッキー。仲良くしよーねで話収めちゃったら後世はどうなってたんだろね? 秀吉に子種ないというのは嘘
幼くして亡くなった子がいる >>205
大野治長は榎木孝明な、奥田瑛二は石田三成役 >>208
織田家が細々と残った感じに軟着陸出来た可能性も >>207
ドラマROMEで第13軍団兵のプッロとの子って
オリエピにしてたな なんで官能小説家やエロ漫画家はこんな絶好の素材を放っておくのか?(´・ω・`) 一行目は「大坂城を見ながら記事を書いてます。私の属する会社のテレワーク用の部屋からは何と大坂城が見えるんです」と言う意味だと思うのだが、作家でもないくせにナルシス入ってるなあと。 大野治長(おおの はるなが)
演:榎木孝明
淀殿の乳母・大蔵卿局の子。 関ヶ原の合戦後、淀殿の側近として表舞台に登場。
片桐且元の追放後は真田幸村らと共に徳川と合戦に及ぶ。
今わの際に秀頼が淀殿に「秀頼の父は太閤に相違ござらぬか?」と訊ねた際、
ぎくりとして面を上げるという意味深な仕草を見せた。 淀殿が身長168センチあったと推測されているから、
息子の体格が大きかったのは母親側の遺伝かもしれない
でも実父が秀吉ではないというほうがいかにもありそう
治長は特に小男という話は伝わってないんでしょ 葵徳川三代
小川真由美が保阪尚希を求めてるシーンはホラーw >>215
処女好き秀吉、後家好き家康の方がマニア心をくすぐるのでは?w >>220
官能小説には背徳感が欠かせませぬ(´・ω・`) >>218
治長さん背が高かった伝が残っている模様 >>215
太閤さん人気あるから
成り上がりの象徴が托卵されて
家が滅んだとか言われたら発狂して攻撃される いくらカゴの中の鳥で育てられても長政、信長、秀吉と戦国オールスターの血を受け継いでるにも関わらず、ビビって出陣すらしなかったマザコンとか有り得るの >>208
大和国への国替えに応じていたら、大和右大臣豊臣秀頼と呼ばれて存続出来た >>203
鶴松(棄)が死んでがっかりしたが、淀はまだ若いから子は出きる。子は欲しいが、自分はその気が無くなり可愛がっていた治長なら淀に種を仕込ませても良いと思ったか?
或いは秀吉は両刀使いで3Pで淀が懐妊? >>203 >>227
その仮説だと秀次に家督と関白職を譲ったのがおかしいし、
その時点ですでに秀次を粛清するつもりだったということになるので、ちと苦しい >>226
難攻不落の大坂城から出て行ったら、狸親父はなんやかんや言いがかりをつけてすぐにお取り潰しだよ、 逆算した時に大野治長だけアリバイがなかったんたっけ
身長158センチが男性の平均たったあの時代に197センチだもんなあ
秀吉の子でないことだけは確か >>181
大阪の歴史は1600年、東京の歴史は400年
東京の歴史は大阪の歴史の1/4しかありません。
なのに日本の首都だと威張り腐り、大阪のヒト・モノ・カネを奪い続けてきたのです。やっていることが韓国や中国並みにレベルが低い。
【日本=大阪、大阪=日本】
■日本で初めて首都機能を持った都市大阪
■日本で1000年以上の歴史を持つ大都市は大阪だけ
■1600年の歴史を誇る日本最古の大都市大阪
【大阪の宮都(都城)】
大阪は7回、宮都が置かれている(百済大井宮は場所が曖昧なために省く)。
■難波高津宮(大阪府大阪市)
■樟葉宮(大阪府枚方市)
■百済大井宮(大阪府河内長野市、奈良県広陵町、大阪府富田林市、奈良県桜井市など、諸説あり)
■難波宮(難波長柄豊碕宮)(大阪府大阪市)
■難波京(大阪府大阪市)
■難波京(大阪府大阪市)
■(南朝)天野行宮(大阪府河内長野市)(金剛寺)
■(南朝)住吉行宮(大阪府大阪市)
【大阪の天皇】16人(天皇陵の数)
■仲哀天皇■應神天皇■仁徳天皇
■履中天皇■反正天皇■允恭天皇
■雄略天皇■清寧天皇■仁賢天皇
■繼體天皇■安閑天皇■敏達天皇
■用明天皇■推古天皇■孝徳天皇
■後村上天皇
【東京の天皇】4人(天皇陵の数+上皇+今上天皇)
※明治天皇は京都府に陵墓があるために省く。
■大正天皇■昭和天皇■上皇陛下(平成)
■徳仁天皇(令和)
【1600年の歴史を誇る大阪の世界文化遺産】
百舌鳥・古市古墳群(49基)
【たった61年の歴史しかない東京の世界文化遺産】
国立西洋美術館(1959年(昭和34年)6月10日開館)
【大阪にある世界最古の企業】
株式会社 金剛組
大阪市に本社を置く株式会社金剛組。
日本最古の建設会社である。また、金剛組の創業は578年で、1400年以上の歴史を持つ現存する世界最古の企業でもある。 >>203
ありそう
「自分が生きてる間は騙し通してくれ」って茶々に言ったんだよね >>1
ニュース板にこういうネタ持ってくるやつ何なの
歴史板か雑談板でやれよ >>230
馬場くらいじゃないの
いやもっとか
男性平均158センチの時代の197センチだから >>231
菊亭母子との親子丼は酷すぎる
事実か冤罪か知らんけど 大阪夏の陣の後に秀頼を真田と島津が鹿児島に逃がした説がある
それを暗示したわらべ歌もある
当時、鹿児島に大男が無銭飲食して困ってるという話があった
そのたびに島津家が払っていたそうだ
ちなみに秀頼の墓は鹿児島にある 指6本の子がいるならちんちん2本の子はいなかったのかな? 二条城で秀頼に会った家康は秀頼のあまりの体格と威厳に驚いて
武士の棟梁になられては困ると豊臣家を滅ぼすのを決意したそうだ 半数で篭城、半数は野戦でとか言い出す奴を無能と呼ばずして何だ? 勝った方が歴史を書くからね
この時代はだいたい敵方には悪評、徳川に都合よく書かれる こんなもんまずアンチ豊臣を企図した捏造脚色の類だろ 司馬遼太郎の「城塞」に修理殿の一町筆とかいうエピソードがあるな
>>241
左衛門佐としか書かれてない墓もあったのよね >>243
公家風に育てられて、武家の棟梁として頼りなかった
図体デカイだけ
大和に移って、神社仏閣修復に精出してればよかった 結局現物(秀吉と秀頼の遺骨等)が無ければ、どの説も憶測の域を出ない。真実は闇の中。
秀吉や治長の傍系(父親や弟の子孫)が残ってて、秀頼の遺髪でも見つかれば検証できる可能性はあるけど。
秀吉の墓
https://rekijin.com/?p=16212
明治時代墓改装の為発掘、ミイラ状態の秀吉が発見される。但し遺体は移送途中でボロボロに。この時遺体の調査はされず。(明治政府も余計な事をする)
また秀吉の歯が墓から1キロほど離れた豊国神社に祀られてる。
なお捨松の墓は、京都妙心寺に鶴松霊廟(祥雲院霊廟)としてある。秀頼は難しいから先にこっちを調査してみるのも良いんじゃないか? >>250
ついでに見つけた一歳の時の逸話。短い生涯でこれだけの事を成し遂げたのか。グッジョブ。
秀吉は9月20日に遠征(小田原征伐)より凱旋して聚楽第に戻った。11月7日、朝鮮使節(黄允吉、金誠一ら)との謁見に際して、秀吉は中座して鶴松を伴って現れ、鶴松が使者の前で小便を漏らして秀吉を笑わせ、使節を憤慨させるという出来事があった。
豊臣鶴松wikiより >>232
祖父の浅井長政が長身だったから有り得なくはない 初めから大阪城を明け渡して四国に国替えしていたら江戸幕府は何年持っていたでしょうか >>230>>233
▼甲陽軍鑑(山梨県・17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』
▼慶長見聞集(神奈川県・17世紀)
『武将天下を争ひ関東と関西の合戦聞き伝ひていく度そや。一度も西国衆利を得す。是関東の侍文武弓馬に達しこころ猛きか故也』
▼雑兵物語(東京都・17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』
▼近藤勇(武州多摩出身の剣豪)
『京都周辺の剣術は弱すぎる。兵は東国に限り候』
▼湯川秀樹(京都大学名誉教授、東京生まれ)
『日本では関西が弱くてね。東から北へ行くほど強いんです。わたしたちの住んでいる京都周辺の兵隊が一番弱いんですね(笑)』
▼谷崎潤一郎(東京都出身の文豪)
『大阪の人は電車の中で、平気で子供に小便(糞)をさせる人種である』
▼橋下徹(大阪市長・東京都出身)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』
▼池田次郎(京都大学名誉教授・山梨県出身)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』
▼バルジーニ(横浜市出身の青年実業家)
『たぶんこのPLおやじって人は地獄に堕ちると思うよ。こんな悪い人見たこと無いよ』
▼神聖望(埼玉県出身・投資家)
『インチ近パイアのせいで進学先や就職先に影響でるなんてたまったもんじゃないな』
県民性博士「大阪の人と韓国の人がすごく似ている性格だということは間違いない」
https://i.imgur.com/zGdx9sS.jpg
東大阪在住PLおじさん(74)
https://i.imgur.com/QUF3VjE.png >>16
2000年大河 葵徳川
小川真由美61歳 何百人も妾居て全く子供出来ないとかあり得ないわな
秀吉は種無しだったろう やはり3P説が濃厚だな。
治長は秀吉に掘られている。
淀と3人で楽しみ、淀は治長の子を宿す。それが秀頼。 >>91
武田信繁(信玄の弟)「兄貴のサポートを俺がやらないとうちの家は…」
秀長「ですよね〜」
真田信之「俺が義父に頼んで助命して貰った弟が家康様を殺しかけた…胃に穴が開きそう」 >>55
例外が多過ぎで、
現在その雑多な分類するやつはいない。 あんだけ女囲いまくってやりまくって産まれた唯一の子が早逝だもんな
低身長のヨボヨボ爺は種なしだよ
大野はきっとフサフサでイケメンだったんだろう ドチビハゲネズミ猿の秀吉から
高身長のイケメンが生まれるwww >>259
鶴松も托卵だったんじゃないの
あれだけ側室がいて身籠ったのが茶々だけってあたり >>110
100年単位で待てれば東日本は人口増加が止まってオワコン
西日本は人口が増え続けるイケイケモードになるよ!
その結果が明治維新
>>116
一本当たりがその分弱くなってしまうんや
統括する脳味噌は5本指設計のままやし
>>164
国号「大中華及び周辺諸島連合」
人口が多い所を併合しちゃダメw
タスマニアとかニュージーランドとかオーストラリアに植民して人口を数億人まで増やさないとw >>176
シベリアは自活する事すら困難ではないか? >>5
一度誤って広まると修正は難しい。近年ではセレブが金持ちになっちまったろ。 >>17
一人目はもしかしたらもしかするけど、二回目の秀頼は明らかに怪しいよな
それに大野って淀殿にとって幼馴染で今でいう執事みたいなもんだろ
乳母の子供だから、小さい頃からずっと一緒に育てられてきたしな
ずっと苦労を共にしてきた間柄
そして今でいうお嬢様と執事みたいな関係性だろ
間違いがあってもおかしくなさそう >>223
でも托卵なんだから、どうせ続かないでしょ
どっちにしても養子しかなかったよ >>254
トンキンは感想文だけでファクトに向き合えない >>272
仕方ないだろ
大蔵卿にとって治長は息子だもんな
淀殿の乳母でもあるけど、息子もいたわけでさ
そりゃ両方可愛がるよ
だから幼馴染で仲良かったとみてる
そして二度の落城にも一緒だったんでないか淀殿と治長
しかも死ぬ時は同じ大阪城の中で
なんつーか少女漫画みたいな話の悲恋だよな
妾になったけど、所詮秀吉と結婚した訳でもないしな
正妻はそういう覚悟いるけど、妾は沢山いたから存在が軽いだろ
子供孕んでなければ淀殿だって歴史に名を刻んでないんだよな
そこが運命の皮肉だよな
秀吉の妾いっぱいいたし、その後次の結婚?妾?とかもいたしさ >>262
隔世遺伝
浅井長政は180cmぐらいあった 関ヶ原●
↓
大坂冬の陣●
↓
大坂夏の陣●
↓
大阪都構想1●
↓
大阪都構想2●
↓
大阪コロナの陣●
何連敗すりゃ気が済むんだ? 淀殿も秀頼を孕まなかったら、秀吉死後に誰かと結婚する可能性だってあったんだよな
もしかしたら大野と結婚もあり得たかも
問題は大野がちゃんと戦国を渡っていけるかだけどね
妹にぶら下がればワンチャンあったかもしれないんだよな
でも秀吉存命の時に秀頼身籠って文字通り運命変わったよな
豊臣の名の下継がないといけない立場に変わった
そして正妻は全て捨てて隠居だもんな
人脈は正妻の方があったから、子飼いは家康につかせたけどさ
そう思うと淀殿の違う一面性が垣間見れるよな >>261
遺伝もあるが栄養状態が良かったのもある
同じ大阪出身の大塩平八郎も217cmあった
天下の台所だから >>276
それな
祖父母まで低身長だと低身長しか生まれないけど
秀頼は高身長(180cm)だったと伝わる浅井長政の孫だものね まあ古文書に書かれてる身長、特に尺をcmに換算する時は話半分に聞いとけ
ってばっちゃが言ってた でも美少女お嬢様とイケメン執事とかって恋愛物の王道の一つのジャンルだよな
しかも幼馴染でさ
これを正に当たってたのが淀殿と治長だろ
そこに強欲なジジイの権力者
金と権力を傘に妾になれと迫る訳だ
しかもそのジジイは自分の親父と同じくらいの年齢だし、正妻含め妾沢山いた
そしてそのジジイは父親を滅ぼす時も敵側にいて、兄弟を殺していた
そしてそのジジイは母と再婚相手も滅ぼした
その二度の落城と父親と母親の死に関わったジジイが今度は自分に妾になれって迫るわけだろ?
愛せるかって言われたらやっぱり無理だと思うんだよな
身近に守ってくれてた治長を愛してしまうのも仕方なさそう
でも秀吉主役だとこういう視点の話にはいつもならないんだよな >>272
女に権力を持たせた段階でもう失敗してるだろ >>4
悪妻娶ると録な事にならないw
淀は下げマン 淀殿に秀頼公出陣を許さないように吹き込んだのは、この人だとの説もあるね >>281
城跡に置いてある籠を観ると、子供しか乗れないようなサイズが多い。
忠実に再現なら江戸時代までの日本人の身長はかなり低かったと思われる。
170センチでもデカ目だったろうな。 正妻のネネの立場から考えるとまた違う目線になるけどね
しつこく結婚を迫ってきた男と結婚したけど、なかなか子供が授からず、ある時遊び女に子供が出来たと連れてきた
そしたらその子供と遊び女を連れてきて一緒に暮らすとか旦那が言い出してさ
そしてその子供が早くに亡くなると、旦那の女遊びは酷くなる一方
妾をずらっと並べてさ
でも若くして子供を亡くしてしまった旦那をつい甘やかしてしまうのだろうな
そして若い妾にまた子供が出来たが、その子も早くに亡くなるわけだ
そうなるとその女=淀殿と仲良くなんて無理だしさ
二度目に淀殿が孕ってもほっとく関係性しか築けないのも無理ない
そして旦那が死んだら、子供のいない自分が男社会で従わせるなんて無理なんだから、隠居しようってなるのも無理ないことだよ
この二人は対比としても面白いよね >>81
ナイナイ岡村(秀吉)の子が
大谷翔平(秀頼)くらいデカくなることってありえるのか? >>253
長宗我部じゃ秀頼を守れない
だから西日本最強の鬼島津こと薩摩にかくまわれた伝説まである
家康も関ケ原の因縁があるとはいえ鹿児島まで派兵しなかった >>280
祖母の市や淀も女性としては高身長という話もある 秀吉は正室のねねのほかに15人前後の側室。
ルイス・フロイスによると「側室300人」(フロイスは秀吉に悪感情を持っていたので、そのまま信じるのはどうかな?)。
ねねが信長に秀吉の浮気を相談したり、家臣の嫁にまで手を出してたとの逸話もあるので、多かったことは間違いない。
秀吉の実子とされる数は4人
・長浜城主時代の側室南殿に庶長子石松丸(羽柴秀勝、6歳で夭折)
・淀殿との間に鶴松(2歳で夭折)、秀頼
・長女。記録無し。母親は南殿とも。
確かに人数の割に少ない。 そして秀吉も三姉妹いたとしても、全てを妾にってのは流石にやらなかった訳だ
長女に妾にっていったけど、淀殿が次女と三女は見逃してと言ったのか、許嫁がいるから、早々に嫁にいけと行ったのか
三女は小学生位で一度目の結婚だよな
両親が亡くなって、従兄弟と早めの結婚
後ろ盾がいないから、せめて従兄弟と幸せになれよってのがなんか切ないよな
次女は普通の政略結婚ぽいけどね
だから三女はある時離婚させられて、今度は政略結婚させられるわけだ
多分一度目の結婚は秀吉が仕組んだ訳でなかったから面白くなかったんだろうな 家康は豊臣家を潰そうとしてたんだから無意味なんじゃないかな
生き延びようと思ったら徳川傘下の一大名になるしかないけどそれは望まないだろ 権力者の傾向として自分が仕組んで祝った結婚はそれを守るけど、勝手に結婚した部類は離婚させるってのが戦国時代あるあるだよな
まさに秀吉もそれ
日本がお見合い結婚昔は多いのはもしかしたらそういうのを知ってるからかもね
昨今ではそういうお節介さんが減ったから関係ないけどさ 淀殿の托卵だとしても、表立って、その子供は俺の子ではないなんて秀吉言えんでしょう
沢山の家臣の手前、太閤様は托卵されたんだってププー笑なんていわれると権威が落ちるもんな
誰の子供だろうと懐の大きいのを見せつけるしかないと思ったのかもな
まあ、そこが権力者の悲しい所だよな >>277
大阪 お馬鹿な物部氏 大阪の自称武人(笑)蘇我氏に完敗(笑)一族全員滅亡した最弱豪族(笑)
奈良 お利口な物部氏 石上神宮社家出身の石上氏は巧みな処世術で奈良、平安初頭まで藤原に次ぐ上級貴族として繁栄。
蘇我−物部
実際に戦ったのは蘇我大臣が抱えてた東漢氏(やまとのあやうじ、つまり大和の国の韓氏)という朝鮮人グループと物部大連が抱えてた西漢氏(かわちのあやうじ、つまり河内の国の韓氏)という朝鮮人グループね
それで負けたのはお約束の大阪方 歴史は勝者によって作られるのが常識
真実無能がトップに近い位置にいる訳ない
と思いたいが枝野幸男みたいのが組織のトップにいるから良くわからん >>28
非常に深い仲だけど男女の関係は無いというのも成り立ちそうではあるな 大野さん淀君の乳母子とか割と七光り寄りに得たポジションだしな 家康が馬鹿を優遇しただけだろ
乾坤一擲の勝負に
融和なんてあるわけないのに
うまく家康に騙された
自分を賢いと思ってる馬鹿
戦えない男だね >>262
浅井長政(長身)の孫ということもあるだろうし当時の日本人の身長が現代より低かったことは遺伝というより栄養状態のせいだよ。
昭和初期と比べても今の青年が高身長になっているのも遺伝的変化があったわけではなく栄養状態が良くなったから。
だからおそらく幼少期日本一栄養状態の良かったであろう秀頼が高身長であってもそれほど不思議ではない。 ソースを読んでも戦術家として無能であったことを否定するものは何も書かれてないな。 >>28
同感
美少女お嬢様とイケメン執事って少女漫画のあるあるネタだから有り得そう
それに淀殿には守るものが元々なかったというのもある
大抵の妾になった女性は守るものがあった
まあ姫とかだと実家の両親から一族全てとか
弟がまだ幼くてそれを守る為に秀吉の妾にって人もいたな
そんな中、淀殿は守るものがない
両親は既に死んでるし、一族もバラバラだしね
精々大蔵卿と治長位しか手元にいないんだよな
妹は結婚すればそっちが守ってくれるからな
淀殿の後ろ盾になるものも何もないから、ある意味他の妾と違って自由なんだよ
自由ということは、従う義理がないということ、彼女が裏切っても困る人がいないんだよ
彼女の裏切りをされて頭を下げる人がいない
人質になる人もいない
このフリーな状況で、しかも相手は沢山妾置いてる老人
しかも正妻でなく妾だから責任もない
ここまでフリーだと身近な治長と恋仲になるのも有り得なくもない >>303
そんなことはない
浅野は裏崩れを誘発するし
伊達は味方打ちするし
前田と黒田は真田と毛利の突撃も傍観するし
普通に逆転はあったよ
かなり胡散臭い動きしてる外様は多いし
秀頼がうってでなかった豊臣方の戦略ミス
そこまで絶望的な兵力差でもないし
家康は負けるのも覚悟して藤堂と
最後はお前と一緒に籠城して討ち死に
する予定だったし >>309
論点ズラしてるというか、彼なりに頑張ってたんだよってだけの話だよな >>4
親を殺した相手を滅ぼすためとすると辻褄合うと思う。 >慶長4年(1599)9月、大坂城内で浅野長政、土方雄久らと徳川家康暗殺を企て、未遂に終わった。
おいおい浅野長政って徳川派じゃなかったか >>313
復讐心がなかったかというとあるかもしれないんだよな
両親の敵みたいなもんだし
守るものもないから簡単に裏切れるというのもある
それに他の姉妹は正妻だったから、責任もあった
家を存続させる責任ね
でも妾だと家を存続させる責任はないんだよな
相手が死んだらはいさよならだからね
その家に留まることはない
だから簡単に裏切れるて、好きな人に好きと言えたのだろう
どこぞの正妻として嫁いでたら責任が伴うから淀殿の行動も変わってたと思うんだよな
治長と思ってても恋愛には行かなかったかもしれない
でも相手が両親の敵の老人で責任ない妾だし、守るものもないとなると裏切れる可能性高くなる
ある意味、秀吉に囲われるとなった時、ずっと傍で守るから一緒に生きていこうとか言われてそう
死ぬまで一緒にいるから、この秀吉の館で生きていこうとかさ
二人の妹とは立場が違うからな 秀吉の背が低いのは貧しかったせいで発達障害だっただけで
弥右衛門は兵隊やってたし本来は体格の良い家系かもしれん すべて秀吉が悪い
自分に息子が出来たら
甥や妻妾、子供たちまで処刑する始末
そのむごさが結局家を滅ぼした 会社の部長が、あぁ大野治長ってこんな感じの人だったんだろうな、という感じの人だったな
ぽっちゃりしてて声が馬鹿デカく、性格はこざっぱりしてて、
抜群に人当りは良く、社長とかの信頼は熱く、まめで誠実な一面もあるが、
しょうもない人の意見ばかりをよく聞きすぎで、
結果的に物事をどんどん悪い方に誘導していってしまうタイプの人だった
司馬遼太郎の「城塞」では、
大野治長は庶民的な人で、達筆だったから街を歩いてると、「おい看板の字を書いてくれ」と店の人に頼まれたら、
「はいよー」とササっと書いてあげるようなニコニコおじさんだったらしい 密通なんて、根も葉もない噂であっても秀吉が許すはずがない。
もし大野修理亮が秀頼の父親ならば、それは秀吉の命で、秀吉の目の前で「代理父」として種付けさせられたのだと思う。
修理亮にとっては、お楽しみどころか、生きた心地もしなかっただろうが。 秀吉のおかかはヤリマンだったから、秀吉のオヤジも誰だかわからん。
異父兄弟姉妹が多かったらしいな。
天下取ってから皆殺しにした。
同じおかかから生まれた異父兄弟姉妹はみんな下層民だったから太閤の兄弟姉妹には相応しくない理由で。
良い暮らしをさせると誘いだし殺した妹もいたらしい。
残忍な奴だな。 淀君も権力大好き女だったんだろうね
普通なら自分の家滅ぼした秀吉は憎い敵だろうに >>5
その通り。
近現代史をまともに教えない戦後サヨク教育の悪例がここに。 >>104
そういった史料があるなら聞いてやらんでもない >>324
憎い敵だから裏切ったというのも有り得るんだよ
結局嫌だけど、負けたから、妾になれと言われたら断れないってのは古今東西どこでもある話だぞ
チンギスハーンの母親だってどこぞの妻だったのに、負けて父親に嫁いでたって話だろ
その時に子供が身籠っててそれがチンギスハーンになったとかいう話もあるしな
微妙な時期だったんだろうけどさ
どっちが親かわからないみたいな
本来没落士族の娘なんだから、どこぞに身を寄せてその後結婚という春日局パターンもあり得たんだけどな
その時に大野と結婚もあり得たのだが、何せ落城の時に他に逃げられなかったからこんな事になったわけだが A級戦犯って
意味間違えて使ってない?
本文読んでないけど >>323
大河では秀吉の親父は戦で死んでしまい、他の人と結婚して妹と弟が生まれた設定だったな
おかかは多産だったから子供の育てられないから秀吉は寺に預けられて育ったから、早くから独り立ちしてたしっかりした子供に育ってる A級戦犯に違和感
誤用を意図的に広めてんのかな
怖い >>331
素で誤用してるんだと思うぞ
日本(に限らないのかも知れんが)自称リベラルにかかると片っ端から誤用の山ができる
アダルトチルドレン、モラルハザード、歴史修正主義 話外れるけど、秀吉だと司馬遼太郎が「尻喰らえ孫市」で書いた逸話が好きだな。
★★★
女好きで家臣の嫁にまで手を出す秀吉。ところが当時武家では一般的だった「修道」に全く興味を示さない。ある時いたずら好きの諸侯が集まって「殿は本当にそちらのケは無いのか?試してみよう。」という話になり、絶世の美少年が探し出された。
少年と対峙した秀吉は機嫌良く少年を別室に連れて行った。
事の成り行きに大喜びの諸侯どもは、少年が退出してくると取り囲んで「ご首尾はどうであった?殿はどう申された?」と聞き出そうとした。
美少年は「殿は一言、『そなたに姉は無いか?』と申されました。」と答え、これには皆失笑した。
★★★
調べたらこの話は1565年生まれの儒者が『老人雑話』として、記していたそう。元の話だと「姉か妹」と言ってたらしいが。
秀吉は生まれが貧しい為、上流武家の嗜み(修道)に馴染みがなかった。という説もある。
子どもの出来ない男色には手を出さず、ひたすら女色に励んだ秀吉が種無しだったとしたら…皮肉な話だよなあ。 大坂の陣の状況をひっくり返すなんてどだいムリなんだから。大野を責めてもかわいそうw >>335
真田や後藤などが主張したといわれる内線の利を活用した攻勢防御ならワンチャンあったかもという幻想があるから
現実には大幅に縮小して実行された史実でさえ大失敗してるけどな >>337
豊臣が残る方法はただ一つ。家康に恭順して領地替えに応じることだった。
戦になった時点で終わってるw 後北条とか今川とか何やかんやで生き残ってるし
生き延びるだけならたぶんチャンスは貰えていたな >>338
ただ図らずもそういう道をたどった織田嫡流の空気さをみれば潔いとはいえる 現代人の価値観知識で見ては行けない
大野の子であったとしても一緒なんだよ
何も変わらない 本気で戦ったのって浪人組(大坂城5武将や壇直之等)だよな
大野兄弟や豊臣側近は終始後手後手
豊臣精鋭軍の七手組なんてまともに戦った記録ないんじゃないか? >>343
近年の説では七手組は戦略予備に指定されていて真田らが血路を開いた決定的瞬間に本陣突撃咬ます計画だったのでは?とされる >>243
二条城で秀頼に会った家康は秀頼のあまりの体格と威厳に驚いて
こりゃ絶対太閤殿下の子じゃねーわと思い豊臣家を滅ぼすのを決意したそうだ >>338
やっぱ指導者(トップ)って大事だな。そしてカリスマが居なくなる事を見越して、徳川のように組織を作ってしまうことも大事。 >>345
その会見出るたび若いジャバ・ザ・ハットが目に浮かぶ >>344
まぁ近衛師団的な位置付けみたいなもんだから温存はしとくんだろうけど
もったいないなぁ〜って思ってしまう >>329
むしろお前が思ってる方が間違い
小林よしのりが広めたデマ >>349
ウィキペディアが間違っているならソースくれ >>350
ウィキペディアの書き方も合ってる
お前の解釈が間違ってる >>351
自分の解釈はここに書いてないけど
あなたは超能力つかえるの? 豊臣本家は五万石くらいで妥協して地方大名として残ってほしかったな
幕末にどういう動きしたか楽しみ
木下家は弱者大名として続いたけど >>352
じゃあA級戦犯のお前が思ってる正しい意味とやらをまず言ってみろ 成長した子供の顔見れば誰の子だか一目瞭然だろう。貴乃花と輪島のように >>343
七手組の青木一重と伊東長次の本領安堵の怪
実は家康側のスパイだったとの噂も >>357
あ〜、なんかそんな話あったなぁ
七手組がそれじゃもうダメだこりゃ >>313
淀君て、秀頼と自分のことしか考えてない
豊臣家をなんとしても存続させる気が毛頭ない
豊臣家を存続させるには、自分が人質として江戸に出向くぐらいすべきだった >>1
だからいつのニュース速報だよw
そんな前の出来事忘れてたよw >>353
倒幕の旗手として、薩摩・長州に祭り上げられそう ググればいくらでも出てくるがいわゆる東京裁判で設定されたのは下記の三種
"crimes against peace""war crimes""crimes against humanity"
和訳が「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対する罪」で順にカテゴリーABCと略称される
>>1は
>こうして治長は、豊臣家が敗北したA級戦犯に仕立て上げられた
と敗戦の最高責任者という意味で使用しているので明らかに誤り
なおナチは例のホロコーストによってC級が適用され同様に日本には南京事件を当てる動きがあったが「何らかの事情」により主戦場はA級へと変更された >>362
じゃあこのスレタイと合ってるだろ
何を間違いだと思ったんだよ まあ、戦犯の誤用はスポーツ競技の敗北責任探しとかでマスコミが先頭切って誤用してるしな 豊臣家を残そうとしたのは北政所と秀忠だな
だから娘の千姫を輿入れさせた
千姫との間に子供が入ればワンチャンあったけど
秀頼がそうしなかったのはもう戦うつもりだったろうな >>364
お前のwikiと俺のは違う宇宙らしい
俺のブラウザでは平和に対する罪のページには
>ニュルンベルク裁判や東京裁判では平和に対する罪はa項と規定された。これに問われた戦争犯罪人はA級戦犯と呼ばれている。
とあって>>1やそれを受けたスレタイとは一致しない >>365
本邦での「戦犯」はいわば「日本の歴史に対する罪」を指しているが公に断罪されず私刑状態なのが現実 ◆秀頼の子ども(側室との子)
・男子の国松:処刑
・娘の天秀尼:養母となった千姫の働きかけで仏門に入ることを条件に助命された。37歳で亡くなるが、長命であった千姫が天秀尼の13回忌に香典を送っている。
墓所は神奈川県東慶寺。
また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったという(『浄土本朝高僧伝』)。
◆秀頼の遺体?
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された[12]。骨は昭和58年(1983年)、京都の清凉寺に埋葬された。
秀吉の墓と天秀尼の墓は残ってるから是非とも鑑定して、決着を付けて欲しいなあ。 >>367
だからそれで問題なく合ってるだろ
そのA級戦犯に誰がかかったのかをちゃんと考察できる頭があればわかるはずだが
>>365
マスコミは一流大の文芸部揃いだからな
お前みたいな高卒が正しい言葉使えると思ってるところが危なすぎる
戦犯誤用説をしつこく唱えてるのはもはやこの掲示板くらいだ 久々に異星人に出会った気がする
平和に対する罪というのは侵略的攻撃を跳ね除けた戦勝側が加害者を断罪するものであって
強いて大坂の陣で言うなら幕府方が起訴すべき構図なんだが>>1は「味方」によってレッテルされてると主張してるわけで >>363
戦争指導はA級でなんの問題も無いな
むしろB級C級ではなんら嫌疑が無い 秀頼の身長197pはともかく、体重161キロって、流石にどうなんだろうね。その記述があるのは『明良洪範]』『長澤聞書』なんだけど、両方とも江戸中期のもの。実際に見聞きしたものじゃない。
肖像画はそんなに太ってないけど、ありのままに描かれてないのか。昔から顎が丸いなあとは思ってたが。その頃滞在してた修道士が「物凄いデブだった」とでも書いてればはっきりするんだが。 稚拙な戦争指導が平和に対する罪ねえ
誰にとっての平和なんだか
長年信じきってきた誤用を守ろうと無理スジな主張するのは恥の上塗りにしかならんぞ 日本は昔より柔弱国なり。大は兵戦少く、小は殺伐少きを以て知るべし。
殊に中国最も柔弱と称す。
(『吉田松陰書簡集』)
火器があれば女小供でも人は殺せるからね
牛産地である近畿・瀬戸内の軟弱な男たちが坂東武者や甲州武士のように馬上で長刀、手槍、弓矢を巧みに使いこなすのは到底無理だ
中世以前の中国地方が武芸達者な東男と獰猛な九州男子の草刈り場だったのも仕方がない >>164
徳川と豊臣の和平を乱した罪なら有ってんじゃね >>376
勝者が敗者を裁くロジックっていつもそれやで
帝国もそれで清国から2億両銀塊で巻き上げたろ >>56
浪人衆と異なり、豊臣譜代はほとぼりが冷めた時点で殆ど赦免されてるから、子孫は膨大だよ あと領地に陣屋なくて(当時)住んでた久宝寺町屋敷(ドンキ法円坂店付近)を焼け出されて
家無き子になった北条氏信さんに謝れ
仕方ないから狭山池ほとりに陣屋建てました
1万石しかないのに
10年以上かかったお金無いのに 秀吉は北政所と恋愛結婚していて恋愛に理解のある男だった。お市に惚れたりもしている。
大野が家康の家来で秀吉は家康を買っていた。
淀は北政所と仲が良かったし、淀の親も兄も秀吉が殺したって責があった。
北政所は秀吉を出世させた令嬢で、更に信長にも信頼されていた人であり、秀吉の女遊びを信長に伝えていたし、大政所と血の繋がった親子のように仲が良かった。
こういった関係性の中であり、秀吉の価値観からして、大野と淀が恋愛していたならそれを咎めなかったんじゃないかと思う。 一応は豊臣家の家老格なんだっけ?
無能じゃ大阪城やら豊臣家の領地の差配はできないって
誰か一人をスケープゴートにして責任を押し付けるのは良くない
(´・ω・`) >>361
豊国神社のある近畿地方ならいざ知らず
薩摩長州の田舎侍が豊臣家の末裔を祭り上げようなんて考えるかなあ
先祖が秀吉に負けて一時的に従属させられただけの関係だし キリシタンルートだからな
つうか秀吉のバテレン追放令ってフェイクぽいよな
後々、考えるとバテレンに都合がいいし利害が一致してる >>5
東條英機と昭和天皇のことだろう
アジア3000万人を殺した極悪人 >>386
明治維新の時の薩長の主力首脳陣は、そういう幕藩体制を無視した考えの人が中心だから
豊臣家を反徳川の旗印にすると考えるどころか、その対極の発想しかないだろうね。 >>8
平氏とは名乗ってる
でも元を辿れば越前の神主というのが本当なら、リアルな血統としては古代の在地豪族の末裔かも 夏の陣の最終決戦である天王寺・岡山合戦当日の大野治長の弟・治房の軍令書が残ってるが切迫した様子が伝わってくる
「天下わけめの合戦ニて候」と言ってるのも興味深い
ちなみに秀頼や茶々が自刃したのはこの書状の日付の翌日
(慶長20年)1615年5月7日付大野治房書状
重ねて申し遣わす。敵が押し寄せてきても茶臼山・岡山より私の軍勢を出せば、必ずや一大事になるので、この旨を皆によく言い聞かせるように。
この法度を破るような者があれば、すぐに成敗を申し付ける。
昨日の合戦では余りに軍勢の間隔が間延びしたため不覚を取ったので、今日の合戦は重要なものになるであろう。
いくら私一人が手柄を立てようとも、総軍の負けになればそれも詮無きことなので、軍法を堅く守るよう申し付ける。
追伸
なお真田信繁と毛利勝永とよく相談して、軽率に合戦することを禁ずる。
今日こそ一大事で、天下分け目の合戦なので、抜け駆けなどないよう堅く堅く軍法を守ることが肝要である。
とにかく敵を引き付けてから一戦に及べば、必ずや我等に幸運が訪れるだろう。 後藤又兵衛が早々に川を渡ったのが悪いのか、真田幸村が道に迷ったのが悪いのか
毛利勝永はいまいち何がしたかったのかよーわからんw 少し前に上杉景勝が動けば関ヶ原は西軍が勝ったみたいなスレが立って3スレぐらい行ったけど、
このスレはあまり伸びないな。大野治長なんて話が盛り上がるほどの魅力も無い人物という事か >>393
「日本人の常識」、「日本人の見たい歴史」じゃないんだろうね
豊臣秀頼の実父を特定する作業はごくごく基本的な作業だと思うけどね
他の偶像破壊的な歴史修正主義の雑音よりも、よほど大事なことだよ >>393
大坂の陣は爽快さがない
何か陰惨でパッとしない 秦の始皇帝の実父が呂不韋であるというのと同じくらい基本的な作業 >>393
大坂の陣は有名な武将があんまおらんのと、
もはや敗戦処理というイメージしかねーからな。
開戦前にほぼ詰んでる。 そもそも、家康を打ち取ったからといって、総大将は秀忠だしなあ。
それこそ、影武者で何の問題もない。家康1人死んだくらいで寄せて全軍が崩壊するとかねーわ。 まあでも、家康が討ち取られれば、外様大名が兵を引く大義名分には十分すぎるからね
意味が無いということはないさ 昔の事はわかんねーだろ
あと100年もしたら安倍は日本歴代最高の総理とか言われるぞ (ヾノ・∀・`)ナイナイ 明の万暦帝のような扱いになるよ 猿は史上最悪なレベルで頭が悪い為政者だったから大混乱だよな
大野がアホなのも秀頼が花火みうに爆死したのもすべて猿が撒いた種
武将レベルでいうと小山田信茂とか間抜けな前田ホモ家レベル
猿みたいな雑魚武将は
偉大な家康公や信長公の足下にも及ばない 通説の逆を言わないと銭儲けできんからな
ま、大野治長が根性無しの臆病もだったことには変わりない。 マジレスするが、第一子は大政所がまだ存命。
秀吉に似ても似つかないならそこで気がつく。
自分は淀の方とだけ相性が良くて妊娠したと思っている 秀頼が産まれた時秀吉がおねに宛てた自筆書状にその時の秀吉の心情が
吐露されてるが取りようによっては中々意味深なんだよな
(文禄2年)1593年5月22日付おね宛豊臣秀吉自筆書状
「又にのまるとのミもちのよしうけ給候、めてたく候、われわれハ小ほしく候ハす候まゝ、其心へ候へく候、
大かうこハ、つるまつにて候つるか、よそへこし候まゝ、にのまる殿はかりのこにてよく候ハんや」
二の丸殿(茶々)が懐妊した事を聞いた。めでたい事だ。しかし私は子が欲しいわけではないと言うことを心得ておいて欲しい。
太閤の子は鶴松がいたが、死んでしまった。今回の子は茶々だけの子と言うことでよい。
普通に考えれば子供ができないおねを気遣って子供は要らないと言ったんだろうが、
研究者の中には秀吉自身の子じゃないからこんなことを言ったんだって人もいるな どう考えても淀が一番の害悪だろ
男狂いでヒステリーが実質的なトップとか
秀頼は本当に気の毒、楽しい事なんか何一つない人生だっただろう 戦国時代は家康を見てると子沢山で健康な奴が最強だわ 片桐且元は彼なりに苦労して頑張った感あるけど
この人は母ちゃんのコネで威張ってただけのダメなやつってイメージしか無いからなぁ 秀吉が家康より長生きしてれば豊臣家存続の目はあった感じがする。
徳川秀忠では関ヶ原みたいな采配は厳しそう。 >>400
家康1人死んだくらいでは、外様大名も兵は引かないだろね。
家康と秀忠が死んで、徳川本軍が壊滅したとかなら引き上げるだろうけど。
もしくは家康死んで、どこかの戦線でも同時に寄せ手が大敗北して旗色悪いかなと各大名が思うとかしないと。 >>412
ま、家康死んだ時点で100%改易だろうからな。
徳川家は敵じゃなくなる。 >>391
熱いわぁ、大坂の陣は凄く好きな戦いだから感慨深い
なんこ切なくなるんだよなぁ 秀吉の墓も、鶴松の墓も、秀頼の娘の墓も残ってるんだからDNA鑑定してみて欲しいなあ。
以前見た番組では、ボンペイで発掘された人骨から親子関係を調査出来てた。江戸時代なら余裕だろ。
今の定説とは逆に「秀吉の実子である」と証明される可能性だってある。 >>393 くんのカキコなんだけど
まあねえ、大阪の陣はさ、華がないからねえ。
関ヶ原はまだひょっとしたらひょっとするところがあるけど
大阪の陣は幕末鳥羽伏見と同じであらかじめ勝敗がきまってる
あくまで既定路線の戦国の世の総決算だから。
それに日本人が大好きなホロンびゆくロマンにしても
あの、講談の幸村とかならともかく、あんまりないでしょ。
豊臣方に魅力的なキャラがいないんだよねw 関ヶ原とも違って。
豊臣譜代の家臣も徳川方につくくらいで主家に殉じるってほどの
泣ける物語もそんなにないでしょ?
トップは昨今再評価されているとはいえこれといった事績のない秀頼
そして事実上の総大将は淀君というママンときている。
上の方では片桐且元や織田有楽斎のパージといった仲間割れしているしさ。
城内にいるのはワンチャン狙いの食い詰めた牢人衆ばっかでしょ。
なんつーか、まあ、盛り上がらないよね。それは。 >>412
秀忠は家康のように豊臣家を潰そうとまでは考えていなかったという説もある
だからこそ淀や大野は『家康さえ死んでくれれば』と思っていたし家康はそういう弱さを見ていたので生きているうちに潰そうとしたと いや、鳥羽伏見なんて10回やったら9回は幕府軍側が勝つだろw >>418
秀忠には淀〜のだめラインがあるからな。
家康アボーンすれば交渉で生き残るワンチャンはあるやろな。 >>418
史料からだと秀忠が豊臣潰しに積極的で家康はむしろ消極的
家康は夏の陣も戦にならずに降伏するだろうと見ていたようで、島津なんかにもギリギリまで待機するよう命じる書状が残ってる
実際島津は決戦に間に合わなかったけど、家康の命だったことで当然何のお咎めもないし、
むしろ板倉勝重や本多正信から遠路遥々上洛してきたことで労わりの書状をもらってる 浪人を大阪城に入れたのが誰かは知らんけど、それが豊臣滅亡に繋がってしまったなー
浪人の奴らは豊臣家なんてどーなってもいいと思っているからやりたい放題!疫病神そのもの 豊臣恩顧の大名がみなそっぽを向かなければ、浪人を雇う必要すらなかったけどな。 取り合えず大和国替えに応じるなり、
淀が人質として江戸に出向くなりして、家康が死ぬまで時間稼ぎすればよかった
大坂夏の陣の翌年には家康は死ぬのだから
秀忠には家康ほどの才覚はない
天海、崇伝、本多などの優秀な幕閣は侮れないが、
ひたすら恭順してみるべきだった 裏にキリシタンがいるから秀頼は徹底抗戦なんだろうな
逆に秀忠からキリシタン弾圧になったのはこれが原因だろうな 大和国替えに応じた瞬間に、地方の1外様大名になるけどな。
豊臣家としての求心力は二度となくなる。 西軍が勝っていれば、今頃首都は大阪
関東は農業盛んな田舎って感じだっただろう 無能でしょ。あの時点で徳川家と戦うって考えが無能の極み。 石山合戦での本願寺みたいに朝廷に仲介斡旋してもよかった
大坂城に貯えられた莫大な黄金を朝廷に献金すれば、
公家達は喜んで仲介しただろう
大仏殿建立や浪人雇うよりマシな金の使い方 「センゴク」のこのエピソードだと父親は大野説採ってなくて
市井の民のデカチン男をとっかえひっかえてって事になってたな >>431
朝廷に休戦朝廷はやってる。それを無視した徳川。 >>415
同じ日付の大野治房の軍令書がもう一通ある
内容もほぼ同じだが、こちらでは船場方面に明石全登と弟の大野治胤(道犬)を派兵したことが書いてあり、
真田・毛利とよく相談してから合戦するようしつこく言ってる
(慶長20年)1615年5月7日付大野治房書状
「猶以そつしのかつせん不可然候、真田・毛利相談肝要ニ候、
敵押寄候由、只今注進承候、乍去そつしの合戦不可然候、近邊真田・毛利申合、いかにも敵を引請、急度合戦尤候、
軍法菟角肝要ニ候、船場表へハ、明石・同けん指遣候、其表注進追々待入候、謹言」
敵が押し寄せてきたとの注進を今しがた聞いた。しかし軽率に合戦することは禁ずる。
真田信繁・毛利勝永と申し合わせ、敵をよく引き付けてから合戦に及ぶのが良いだろう。とにかく軍法を遵守することが肝要だ。
船場方面には明石全登と道犬(大野治胤)を遣わした。そちらの状況の注進を待っている。
追伸
なお軽率に合戦することは堅く禁ずる。真田信繁・毛利勝永とよく相談するように。 淀君と秀頼はキリスト教のマリアとキリストに擬せられたんだよ。秀吉は義人ヨゼフにね。
そしてそれらを焼き尽くしたのが、イギリスの大砲とイエズス会の名前を冠した徳川家康の策謀。
カトリックからプロテスタントへの世界のキリスト教会の変化を象徴していた。
大野治長は仏教の実存主義の流れの象徴だね。淀君との極限状態での純愛。 >>359
淀君はあくまで徳川は豊臣の臣下ってスタンスだったから
淀君の頑固さが仇となった >>423 くんの大阪城の牢人論なんだけど
豊臣秀吉の七回忌(1604年)を記念しての街のお祭り騒ぎを描いた
「豊国祭礼図屏風」に傾奇者がね朱鞘にものしたポエムに曰く
「生きすぎたりや二十三」「八幡ひけはとるまい」と
イキったヤンキーポエムを書いているように
このデスペレートな時代意識は象徴的であってね。
当時、関ヶ原も終わった1604年になると
全国津々浦々で合戦ってのはないんだよね。
暴れ者にとっては武勲をあげて成り上がるチャンスがない。
せいぜいお祭りでイキって暴れるくらいしかない。
秀吉の小田原征伐による天下一統から10年たって
天下分け目の関ヶ原も終わっちゃったしさ。
それまでの連綿延々と続いた戦国時代で戦うしか能のなかった
足軽みたいな雑兵はやることがなくなっちゃったんだねえ。
むろん槍一本で下克上できる余地もなく、今更帰農だってできないでしょ。
いわんや募兵がないんだからどこかの武家に仕官のくちがあるわけでもない。
いやはや八方ふさがりのノーフューチャーなんだね。
おまけに徳川の太平秩序は傾奇者ニートを許さないと来ている。
そりゃあねえ、勝敗度外視でゼニと飯と生きがいをくれる
大阪方に乾坤一擲人生オールインかけて募兵に応じちゃうよね。
まさに戦国最後の一大イベントの晴れ舞台なんだからさ。
たまに、まあ根拠レスに想像するんだけど
実際、牢人衆、楽しかったと思うよ。負けるにしても、未来がないにしても。 >>429
信長も秀吉も戦上手だが国作りは下手だった
家康はそこんとこ優れてた
伊達に人質の間吾妻鏡など読んで勉強してない ちなみにヨドって音はユダヤ教の神の一音でもあった。ヨドとイエヤスの戦いってのは、キリスト教とユダヤ教の争いのようでもあった。
イエズス会は日本の歴史に色々刻んだんだね。 寝返り同然の片桐且元に比べたら治長はずっと忠臣
それにしても大坂の陣で籠城戦を主張して譲らなかったのは淀じゃなかったのか
まあそりゃそうだな、いくら淀でも戦いのやり方まで指図はできないだろうし 俗説を排して最新の研究を紹介していたちくまの日本史講義でも
中世は少なかったなあ
俗説だらけだし最新の戦国史取り上げてほしいね >>427 くんのカキコに触発されたが
大阪の陣の猛将ヘタレエピソードといえば
橙武者こと薄田兼相だよなあwww
豊臣方の砦をまかされたコマンダーでありながら
なんと戦時の最中に堂々と遊郭に登楼
懇ろシッポリと遊んでいる間に徳川方に攻められて
砦が失陥w 愚息も昇天www これはないよなあwww
こういう間抜けな敗戦事案は幕末の時にね
近藤勇率いる新選組改め甲陽鎮撫隊の甲府城防衛作戦級のヘタレさですな。
江戸を進発し甲府に向かう道中、毎晩街道沿いの宿場で
軍費を蕩尽して大豪遊してホルホルしている間に、
なんと守るべき甲府城を先にやってきた官軍板垣退助に占拠され、
その後挑むも鎧袖一触とっとと敗走しちゃうというねw
ま、新選組は所詮武士ではなかった典型のようなお話ですな。士道不覚悟w 秀吉の実子だろうよ
秀吉の性格を考えたら淀に手を出すのはなんぼ何でも >>446
本人はやる気があったみたいで出陣しようとしたが淀君が止めた >>441
吾妻鏡もそうだし
唐太宗の貞観政要もだからな
日本で創業と守成成し遂げたの家康ぐらいだし 淀君て、秀頼の生母てだけで大坂城内を支配して偉そうにしてた
朝廷に参向するための官位もない無位の身分で
正室ねねには確か官位あった >>444
寝返りも何も片桐は豊臣の家老とは言え徳川から所領安堵されている徳川大名だよ 秀吉って毎晩町娘とセックスして中出ししまくっても世継ぎ出来なかった種無しだから、秀頼は秀吉の子ではないだろうな 戦国一の兵の真田幸村
戦国最強武将の後藤又兵衛
戦国ナンバーツーの毛利
西日本最強の島津
こんだけおって負けるとか何も言えねえw 関ケ原後の秀頼の最大の後ろ盾だった加藤清正が都合よく亡くなったが痛いな
長生きしてればもううちょっと違った展開もありえたかもしらんし、真田昌幸ももうちょっと長生きしてればね >>429
西軍が勝っても戦国時代が長引くだけだからね
仙台や広島、福岡あたりが都になってたかもしれない
戦争長引けば、イギリスに付け入られて大英帝国の一部になっていた可能性もあるし 秀吉は寧々が妊娠したら逆に怒ったと思うな
多分、種無しなのは自覚してる
母親がヤリマンで異父兄弟揃いぶみで処分してる性格からして寧々を試してた
寧々は秀吉に怒るけど裏切らなかった
秀吉はそれに満足してたろう >>462
西軍が勝っていれば、豊臣政権安泰っしょ 大阪冬の陣、夏の陣ともに秀頼が先頭に立っても勝利は無いわな 遅すぎる
関ケ原を豊臣VS徳川の戦いに持っていって秀頼を立てなかった豊臣方の大きな戦略ミス
なにも幼い秀頼を陣におかなくても豊臣の旗印を全軍に使用許可を出すだけでも戦局は大きく違ってたはず >>457
その可能性もあるけど少なくとも史料ではそういった記述は見たことないな A級がまだ罪のレベルみたいなもんだと思ってる奴がいるのか >>465
指揮系統がボロボロだから
関ケ原だって毛利輝元が総大将だよじーさんの七光りのボンなだけ
秀頼も大差ないでしょ
徳川のような結束力ないから
今だって関西広域「連合」だもん
関東は東京中心にまとまる >>456
具体的な身長を記述した一次史料はない
秀頼所用の具足でも伝来してればそこから大体の身長が分かるかもしれんけどそれもないしな
ただ大坂の陣で後藤又兵衛隊に従軍してた長澤九郎兵衛が後年書き記した『長澤聞書』には、
「豊臣秀頼公は大坂冬の陣の折には御歳23であった。世の中に無い程お太りであった」
とあるからでかかったのは間違いないだろう 宇喜多秀家が裏切らなかったら
西軍の勝ちだったんだろうか 家康のスタッフは隙のない幕藩体制見ても超優秀がズラリなのに
秀吉のスタッフは無能のボンクラばかり
リーダーとして雲泥の資質の差がある
家康と秀吉の差は人間と猿の知能差そのもの 毛利輝元と秀頼では神通力が違い過ぎるだろ
毛利恩顧の大名なんておらんだろ >>6
ホント真田上げだけじゃなくて毛利勝永上げてほしい 大阪冬の陣夏の陣だって議論がまとまらなかったとか言うし
個々に凄い武将いてもチームワークがな >>398
真田昌幸が存命なら、楠木正成の再来だったかも 秀頼は秀吉の子供ではない陰謀論
「実は石田三成の子供にだ!」
→妊娠時は朝鮮出兵時だが石田三成は半島にいた
「秀頼は背が高すぎてイケメンなので秀吉の子供ではない!」
→父親よりも叔父に似ることは現代でもよくある
秀頼の叔父は織田信長だ
他のアホな陰謀論
「朝鮮出兵は酷い所業にだ!」
→海賊倭寇の9割は中韓人と朝鮮王朝の文書に記載
「朝鮮出兵で日本に大勝した!」
→世界で一番鉄砲や船も千艘を日本は出したのに対し
朝鮮は亀甲船で勝ったというが10艘程度
中韓連合は数十万戦死vs日本 飢餓で5万人死亡だけ でも徳川に負けると分かってて豊臣方につくかね?
五分五分くらいだったんじゃないの >>471
それは豊臣の官僚制度を見てたからじゃないか? >>462
いくら長引いてもイギリスがインド支配する時代まで
日本が戦乱してるとは思えん >>1
関ケ原の合戦は両軍数万人もいたのにたったの1日で終わった
この時に大野は若造で徳川に参陣していた
方や弱冠20歳程度の豊臣秀頼と大野などで冬の陣では
かなりの善戦をした
徳川方 日本全国の大名の大半 vs 豊臣方 浪人の寄せ集め
でよくやっただろ
真田幸村を選んだのも秀頼と大野で
おばさん連中が幸村の策に反対したので滅亡 毛利勝永の活躍ってよーわからんのよね。
むしろ勝手に戦端をひらいた最大の敗戦責任者というイメージ。 >>466
当時の片桐のポジションで考えてもらってないはずがない 片桐は裏切り者なのか追い出されたのかどっちなんだ。 自分の子ではないとわかっていたけれども
いざデキてしまったら受け入れてしまう
老いもあるが
憧憬していたお市の娘で特別な女だったから責め詰るという選択肢はなかった 誰が指揮官だろうが
籠城戦に10中89勝ち戦はない よくて和睦
そう都合よく何度も和睦はない 秀頼は神輿にはもってこいだが能力は未知数
多分ダメだろう
三冠王三回の落合博満の息子の落合福嗣も名言を吐いてた
「二世には限界がある」とw >>485
七本槍は裏切ったのかどうか
分からないのが多い
脇坂安治 関ヶ原の合戦で西軍から東軍に寝返り
福島正則 関ヶ原で東軍
加藤清正 関ヶ原で東軍
ついで
織田有楽斎 夏の陣で豊臣から徳川に 秀頼が出陣してればなたとえ負けたとしても
伝説になった >>484
まあそう考えるのは人それぞれだけど一次史料にないものをあるはずだ
と言われても所詮持論や推論の域を出ないしそれで納得しろと言われても無理だわな >>488
そんなのはそれぞれよ
2世のほうが大物な場合もある
ただその場合には同業ながら息子よりショボかった父親の存在が忘れられてしまうだけ >>489
秀吉子飼いの大名はねねが家康側につけと助言してるしな
みんな寧々に世話になってるだけに 戦が優勢だったので秀頼の出陣を促しに大坂城へ帰るときに
千成瓢箪も一緒に持ち帰ったのを、味方の軍勢みて、
戦況は劣勢と受け取られ総崩れしたエピソードって事実なん? >>471
意外と優秀なのは豊臣秀吉の養子だった徳川秀忠
なぜかというと秀吉と違い敵になりそうな大名を潰しまくったから
伊達政宗も戦で負けて政治で勝ち敵の大名を滅亡させてたし 千成瓢箪を(名目上は)家臣同士の戦に持ち出すことが
あり得るかどうか まず無いとみる >>469
>世の中に無い程お太りであった
馬にも乗れないほどの肥満漢だったのかな
相撲取りに転向すれば良かったね、秀頼関 淀殿のイメージが強すぎてこいつが主体的に何かやったのかってレベルだな・・・
関ケ原のときは子供だからしゃーないが大坂の陣のときは20超えてんだろ >>487
あの状況で毛利勝永無敵だったからな
ゲームの世界から出てきたってくらい無双してたw >>491
むしろ仕官してる実態が一次資料に認められるのに、禄をもらってないなんて超イレギュラーパターンは
一次資料として豊臣家が家臣に俸禄を支給してない例が残ってて始めて考えるべきことだよ もう既に徳川の天下なんだと思っておとなしくしてりゃ、
徳川側も何としても滅ぼそうというつもりはなかったような気はするんだがな >>492 >>494
豊臣政権は主に尾張織田派と近江浅井派に分かれた
尾張織田派 秀吉の正室ねね 七本槍 黒田 他
中間派? 徳川 前田は犬死亡で委縮 毛利は当主がお人好しで神輿になっちゃうし
島津に至っては関ヶ原の前哨戦でもめて西軍になっちゃった?
近江浅井派 秀吉の側室・秀頼の実母の淀君は尾張派が父親の浅井を滅亡させたので嫌い
石田 大野 徳川本軍が真田に足止めされて関ヶ原に行けなかったのに負けるとかあり得ないわ >>495
史実とされてるな
戦国研究で有名な黒田基樹氏や平山優氏もこの治長が馬印を持ち帰ったの事が大失態で、ここから本格的に豊臣軍が崩れたと言ってるな
前に自分でも出典が気になって調べたことあるが分からなかったんだよな
武将の書状にはなかったから、日記とか当時の従軍兵の記録とかかなとは思ってる >>504
天下を取らせてくれた東軍の大名も潰しまくってまんがな
加藤は改易・福島は1万石に減俸で実質流罪などなど 隠れてた籾蔵から命乞い
鉄砲打ち掛けられて、
いつの間にやら切腹してた豊臣一族のみっともない終わり方
隠れてた所を赤穂浪士に討たれた吉良みたい
一門入水して果てた平家の方が滅びの美学あった >>508
加藤と福島は明確に法度犯してるからしょうがない >>509
切腹の命令を出したのは徳川秀忠
平家の大将の平宗盛親子は壇ノ浦だけに宗盛は山口県のフグのように
水泳がうまいデブで生き延びたが捕まって護送されて処刑
吉良も処刑みたいなもんだろ >>510
名古屋城とか将軍の子供の城まで諸大名が金を出さないといけないのが不公平 豊臣家も徳川に臣従したら特別な大大名として遇せられるだろうけどな
それも秀頼の代だけだろうね 次代はまず間違いなく隅っこに追いやられるか
改易だろ >>470
そういう世界線もあるのか
お父ちゃんと比べて丸い人間だと思っていたが >>512
それが臣従するということだからしょうがない >>513に追加
次代が千姫の子なら この限りにあらず 薄暗い土蔵で死ぬぐらいなら、戦場で華々しく死ぬべきだった
更に言えば、ひたすら徳川に恭順して豊臣家を存続すべきだった
それらを全部、淀が潰した 徳川の基本戦略は北条
鎌倉時代の北条は他の御家人どころか将軍も潰しまくった
戦国時代の後北条を見習い徳川は関東を支配し江戸時代の中期頃までは
農民の税金を安くした
後北条を秀吉が滅ぼしたが江戸時代には旗本にしている
他にも今川や吉良などは朝廷と仲介する高家
これは名門を使い分ける徳川のうまい戦略だ >>453
官位なんて権力握れば、いくらでも朝廷からもらえるものだから。
古今東西、跡継ぎの生母は権力握りまくりなのは、普通によくあることだし。 >>125
↑なので、秀頼が実子でないのはほぼ確実。秀吉もそれは認識していたと思われる。 >>513
大名として改易されても高家旗本ぐらいには遇されたかも
大坂の陣で完全絶家になってしまった 真田に全部任せておけば家康討ち取れたかも知れんのに 秀頼は2b近くあってしかも力士みたいな肥満の巨体だった
そりゃ家康ビビるわな
祖父の浅井長政が同様の体型だったようだから隔世遺伝だな
ちなみに祖母のお市や母の淀も長身で大柄だった >>524
といっても冬の陣前での信繁はほぼ無名だからな。
昌幸の息子ってだけで。
関ヶ原の時は父親の昌幸が指揮を執っていたので、
信繁が前面で指揮した戦はなく、未知数でしかないねん。
更に兄は徳川だし。 >>503
残念ながら秀頼名義で発給された知行宛行や知行安堵状自体がないんだよ。且元に限らずね
仕官と言っても片桐の立場は徳川から派遣されてきたようなもんだし、禄を受けてた可能性はゼロではないと思うけど、一次史料にない以上自分はその可能性は低いと見てる >>527
以外かもしれないけど、片桐みたいに両家に仕えてるパターンというのは結構あって(一時期の明智光秀や松永久秀なんかそのパターン)
その場合は当然両家から俸禄をもらってるのが一般的だったりする。
明らかに豊臣家からしか俸禄をもらえない家臣も含めて
秀頼名義で発給された知行宛行や知行安堵状自体が一通もないなら
なおさら一次資料が残ってないことで片桐に俸禄が支給されてたことを疑う理由にはならないでしょう。
もしかしたら豊臣家の家臣は全員徳川から禄をもらってたという突飛な可能性もゼロではないけども。 >>522
それなのに何故甥の秀次を廃してまで秀頼に跡を継がせようと思ったのだろうか? >>529
明智や松永とは片桐の立場は違うよ
秀吉の死後徳川から任命された上での豊臣家老だから、どっちつかずではなく完全に徳川派として大坂城にいるわけだ
だからこそ片桐の追放が大坂の陣を引き起こした最大の原因だとどの研究者も口を揃えて言うわけだし
他の豊臣家臣と片桐の立場が違う以上、片桐が豊臣の禄をもらっていなくてもなんらおかしい話ではない
一次史料にないからそれに拠り禄を受けてた可能性は低いと自分見てるが、可能性はゼロではないとさっきから言ってるしね >>512
淀君、秀頼親子は徳川と講和する気はあったんだけどそうすると豊臣に雇われた浪人達は
失職し報酬も貰えないことになる
そんな強硬派に逆らったら何をされるかわからないので渋々従ったって説もある >>532
そりゃ個別の話をするなら明智と松永も違うし、松永と片桐、片桐と明智もそれぞれ事情が違う。
片桐は秀吉の死後、役職として改めて徳川に家老として任命されたけど
それ以前も、(秀吉でなく)徳川に仕えてた訳ではない
徳川からも禄をもらってる以上、大阪の中では徳川派なのは確かだけど
逆に徳川の中では完全に豊臣派
あなたの言い方は印象操作がすぎる。 >>534
その事情を徳川方に伝えればヨロシ。
夜間にこっそり手引きして抜けられるはず。 >>524
幸村の夏の陣の最後の特攻で家康は打ち取られたって説もある
そこから駿府で死ぬまでの家康は影武者だったって 堺を秀頼の命令で焼き討ちしたから
秀頼無罪が無くなったんだよ
あれで堺の連中が秀頼許すまじになっちゃった >>526
信州上田城で徳川秀忠率いる徳川本軍4万を食い止めて関ヶ原への参戦を遅らせたのは
信繫じゃないの? >>209
だからそれは秀吉の実子という確証が持てないんだって >>535
言うほど印象操作してるか?
史料に拠って事実を言ってるまでだけどな
秀吉生前のことを持ち出されてもそれは知らんよ
別に片桐が徳川譜代の臣なんて一言も言ってないし
あと徳川派ではあるけど片桐は別に大坂城での政務を疎かにしてたわけではないし、実際茶々からも片桐を信頼してると記述された書状の写しも残ってる >>219
小川真由美は武田信玄でも飯富兵部を求めてたな。あっちの方が強烈なホラーだったわw >>541
一次資料に沿って考察するというのは、片桐みたいに二重に主家がある人間が片方から禄を貰ってない事例がどれだけあるか、で語ることだよ
少なくとも秀頼みたいに発給文書自体残ってない人間捕まえて
文書が残ってないから禄を貰ってないと主張することではない 秀吉の天領
大坂・京都・神戸・堺
どんだけ関西好きなんだよ >>534
浪人どもは捨て置いて、豊臣一族だけ大坂城退去すれば良かった
残った浪人どもは徳川軍がかたずけてお仕舞い
豊臣家は喜連川公方みたいに幕府に一目置かれつつ、小領主として存続すれば良かった >>549
いやあくまで内通者でしょ
本拠から離れて行動しているわけだし西軍から補給を受けて行動していたと思われる 石田三成にしても加藤清正にしても
よく托卵の子を命がけで守ったなと思う 秀吉も晩年は千姫作戦に全振りしてたな
もう結果は予測がついてたろう
秀頼がパワー系知将に成長してしまい
淀君も手を焼いてたんじゃないだろうか? つくづく幸村の進言通リ秀頼が出陣してればなあ
豊臣恩顧の大名も多かったし
形勢が逆転した可能性は十分あった
やっぱり秀頼はヘタレで母親言いなりのダメな子だったと言わざるをえない 秀頼が出陣してたら、その間に大坂城が燃えた可能性もあるけどな。 聞いたこともない人だな
本当に秀頼の父親なら秀吉に殺されてるだろーに
て事で嘘確定でしょ
秀吉が許すはずがないしもし淀と怪しい関係なら噂くらいにはなるはずでしょ 晩年の秀吉はとち狂ってたからなんとも言いようがない >>556
夏の陣のことを言ってるなら、そうなるのが狙いなので城に寄せ手が来た時点で作戦が成功していると言える
狙いは敵を分断して、手薄になった本陣をボコることだし >>557
噂は当時からあった
複数の人間がわざわざ書き残して
現代の我々が知ることができるくらい広まっていた
「知らぬは秀吉ばかりなり」と考えるのが普通だと思う
(当時の秀吉は「触らぬ神に祟りなし」状態)
少なくとも同時代人たちは「秀吉が何も罰してないからシロ」とは考えてはいなかった >>5
まぁこの場合はあってる気がしないでもない
確かA項目って平和への罪だろ? 家康も信長はそんな好きじゃなかったはずだけど織田家は滅ぼさなかったしな
歯向かうからダメなんだろ >>563
密通してる噂は同時代史料にあるけど秀頼の父とまで書いてるのは江戸時代になってからの史料でしょ >>567
密通してる時点、淀殿が家康との再婚を嫌がって高野山に大野治長と駆け落ちしてる時点で、
秀吉の年齢や子作り実績から考えて、秀頼は治長の子という推定が働くからね >>356
ガチでやり合ってたらいまごろ東北までソ連領
九州と四国の領有権を米中で争ってたかも >>1
↑クズ野郎。A級戦犯という単語の意味知ってるのか?不当な東京裁判を正しい事のように持ち出すクズ野郎。 >>545
二重の主家と言うが黒田基樹氏も家康が知行の仕置をし、家康が知行宛行状を出してるしあくまで片桐は徳川家臣という見方だぞ
関ヶ原以降家康は秀頼の代行として諸将に知行を出していたわけではないし、家康の独断で知行宛行を発給してたわけだからな
立花宗茂の書状にも関ヶ原以後豊臣内で家康の取次ができるのは、片桐且元・小出秀政・寺沢広高だけだと言っていて、
他の豊臣家臣では家康に見向きもされなかったことが分かってる
片桐の立場が他の豊臣家臣と違うことは明らかだし、史料上豊臣の蔵入地から別に知行されていた形跡も見えない
これらを踏まえて豊臣から禄を受けていた可能性は低いと言ってるだけだ
そもそも最初から全否定はしてないし、それでも納得いかないなら一次史料持ってきて片桐は豊臣から禄貰ってたと証明すればいい ねねが子供産んでたら
歴史変わったでしょうか?
教えてエロいひと >>574
秀吉が死ぬ前に、成人した嫡子がいれば、
かなり違ったことは確かだが。
最期は本人の能力次第だな。
織田は、バカ息子ばかり残っていたので、あの始末しだし。 >>545
昨日秀頼発給の知行宛行状はないと書き込んだが、大阪城天守閣の館長北川央氏が講演を行った際に配布された史料に関連する記事があったわ
これに関しては適当なこと言って申し訳なかった
秀頼発給文書は年頭や端午の節句に諸大名から贈られてきた
祝儀に対する返礼の黒印状がほとんどで、てっきりそれしかないと思ってたから驚いた
この史料は写しとあるが、6通ある中でこの一通のみが写しなのか、全て写しなのかは記載がないから分からんな
また翻刻の記載がなく原文が見たいところだ
https://drive.google.com/file/d/1Y-IdqEz110lfcM-RHiGMntZVo4v2m4AH/view?usp=drivesdk
・慶長17年から、秀頼は知行宛行状を発行。家臣の多くは大坂の陣に参戦し、戦死したため現存文書は少ないが、
現在知られているわずか6通からでも、秀頼の所領が摂河泉の他、山城や近江・備中に広がっていたことがわかる(史料35 ・36)。
秀頼直臣団であった「大坂衆」の所領で判明しているものを加えると、
その範囲はさらに大和・伊勢・美濃・丹波・讃岐・伊予にまで広がりをみせる。
(史料35)豊臣秀頼知行宛行状写 慶長十七年九月二十八日付 毛利兵橘宛 家康がいい人的に書かれてる小説だと大坂方の暴発的に書かれてるけど、多分、精神的な外堀も埋められていったんだろうなと そういえば秀吉がオナニーしすぎで膣内射精障害の可能性はないの? >>575
どの家庭も似たようなもんや。
親父が偉大な業績あげても息子が凡庸で没落する家なんていくらでもあるがな。
確かに3代優秀な人間が続けばかなり大きくなれる。 高台院は、誰の子なのか一番疑ってただろうね。
女好きの禿鼠は、いろんな女を側室にして、全く出来なかった種無しだからね。
豊臣家への愛着も無くなって、自分と親しい大名に徳川を倒せと命じなかった。
秀頼は秀吉の子供と言うより、織田家と浅井家の縁者だから、そちらの身内たちでなんとか
せえよという感じで、知らん顔してたっぽい。
家康が積極的に動けたのも、高台院が豊臣家のまとめ役を放棄してたからだろう。 >>562
秀頼が城から出たら
内部の裏切りで燃やされると言ってるんだと思うよ。 >>580
ねねは淀をめっちゃ嫌ってそう
当時としては珍しい恋愛結婚で人生の大半をかけて秀吉を支え、秀吉や自分の親族を養育してきて豊臣家を築き上げてきたのにさ
本当に秀吉の種か怪しい子が豊臣家の後継者って…
そら知らん顔するわ
しかもさ、家康とは仲良しなんじゃね?
高台寺は家康が支援して建ててるでしょ どちらかと言うとその手の下世話な問題よりも
信長までは皆血気盛んな超武闘派で(死んだら戦乱ほぼ収束、息子達はやる気無し)
秀吉になると秀吉のカリスマで戦国時代の矛を収めて1代限り(世継ぎほぼ無し、部下あっさりバラバラ)
家康が政権安定させて終了(家光時点でほぼ長期確定)
空気と言うか時流と言うかそういうのが当時の政権中枢にあったんじゃなかろうかという方が知りたいよね 福島正則、加藤清正、あと何人か秀吉を父と呼び秀吉も息子と呼んでたよね?なんかのドラマで見た記憶がある。
で、問題です。
そうなると秀頼どころか福島、加藤をはじめ実は息子沢山いるんじゃね?なぜ秀頼だけ豊臣を名乗ってるの? >>584
加藤清正は出自はっきりしてるから例に入れたら駄目でしょ >>546
関西は日本文化の中心地やから
哲学がない土地は衰退する 正則、清正は子供のいないおねが可愛がったからだな
しかし、秀吉周りの親類は優秀 >>545
秀頼発給の知行宛行状だけど二通分かったわ
それぞれ摂津と備中で知行を宛てがってて、下にURL貼ったが一通は原本も存在してて画像も見れる
二通とも同じ日に発給されてるが、知行宛行状はまとめて出されることが多い
・(慶長17年)1612年9月28日付豊臣秀頼知行宛行状 堀対馬守宛(金沢市玉川図書館所蔵)
「摂津国兎原郡岡本村三百弐拾九石事、令扶助畢、全可領知者也」
摂津国兎原郡岡本村329石を与える。
これを領有することを命じる。
http://jmapps.ne.jp/amhr/det.html?data_id=24267
・(慶長17年)1612年9月28日付豊臣秀頼知行宛行状写 毛利兵橘宛
「備中国小田郡烏双村弐百廿九石弐斗、同郡大河村六拾五石六斗、同郡小林村内五石二斗、都合三百石之事、令扶助訖、全可領知者也」
備中国小田郡烏双村229石2斗、同郡大河村65石6斗、同郡小林村の内5石2斗、計300石を与える。
これらを領有することを命じる。 >>579
「帝国は3代で滅亡する」説やな
1代目が創業し2代目が跡を継ぐけどあれれ?となって3代目が滅ぼす
ロックフェラー家も創価学会もあれだけデカくなったけど3代目以降あれれ?だもんなあ
どうなるんだろ? 信長は各方面に重臣軍団出して固定しすぎてたから2代目で路線継承させるのそもそもキツそう
むしろ秀吉がやってくれてよかったまである
(まああっさり後追いした長男はともかく
秀吉も種無し説に年齢差に、周囲は1代覇権とか思ってそうでやっぱり2代目には路線継承(と政権安定路線への変更)が重いだろうし
秀忠は武将としては平凡でも家康後の政権安定路線には合ってたから、じゅうぶん立派とも言える マンコが政治に口出すとダメなんだよ。レンポウ、聞いてるか? 今太閤と呼ばれた田名角栄も本物の太閤殿下と同じように二代目が権力を失った
成り上がり者の限界。家康みたいに譜代の家来衆に支えられている奴が強い >>546
いずれも当時の日本の政治経済中心地
関東の田舎を直轄しても仕方あるまい >>1
単に家康暗殺未遂してるから悪評立てられただけだな >>597
ところが関東というのは江戸時代総石高一位の武蔵と上野があり、
清和源氏新田足利とっては鎌倉幕府、室町幕府関東管領とずっと朝廷から賜った正当な支配地域なのだな
確かに上方は経済において東廻りと西廻りの廻船もあって
「流通上は」重要拠点ではあったんだが、
大阪湾の喫水があまりに浅いため、大型船が入れないという致命的な弱点がある
このために戦後、海外輸出が増えるに従って大阪はどんどん衰退してしまった
現に大阪には自動車メーカー工場がない >>595
タレーラン「政治は女です」
※奥方殿が影響力を持つという意 まあママさんグループにはアタマ下げましょう的な(笑)
まあでも「女が決定権を持つ」「調停役を買って出る」ことでいいことはないな(笑)全部感情で決めやがる >>584
まあ現代とは氏名の感覚がちょっと違うと言う事
豊臣ってのがそもそも「そう名乗ってもいいよ」って朝廷から頂く名前
で、秀吉が手を回して子飼いやら血縁やら大阪住まいの人質の子らオキにも贈って貰ってた
んだが、秀吉死んでからはそう名乗る者もおらんくなっていったとかそういう感じ >>599
ホントにあったのかしら
単純に大坂から引き離したかったのを難癖を付けて東に送っただけのような
つまり大野は家康に評価されてたな、なんだってー なんなん
>コロナ禍において、大阪のあるホテルでは、大阪城が見える部屋をテレワーク用に準備しているという。
>大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。 結局秀頼は、生涯一度も出陣しないまま自害したのか?
大名としても秀吉の後継者としても、不本意な結果だったんじゃないかなあ 忠臣蔵の大野九郎兵衛は親族か?
赤穂藩て浅野長政の隠居領が発祥のハズ でも関西って皇族や貴族除いたら歴史的英雄いなくね?
天下取ったのが清盛、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康で
尾張が頼朝、信長、秀吉 三河が家康
尊氏は鎌倉か栃木といわれて(子孫の足利一門は京都定着)
関西人だと京生まれ京育ちの清盛ぐらいか(伊勢平氏で三重説もあるが) 歴史なんて勝者が書くから何割かは割引きして見なきゃいけないよね
徳川家康なんか人格者みたいに描かれる事多いけど正室築山殿、嫡男信康、結城秀康、松平忠輝に対する態度なんて情のかけらも無いもの >>601
俺は豊臣時代の話をしているんだが
当時の「天下」は畿内を指す
逆に言えば、畿内を掌握していない者は「天下人」では無い
天下人たる秀吉が摂河泉と山城を直轄し、大和に実弟を配置したのは当然と言える 三好長慶は四国阿波だが
中臣鎌足も英雄に当たるんじゃね?
何より中大兄皇子や天皇(古墳期以降)は関西 >>584
豊臣は氏なので、源、平、藤原と同じ扱いです。
なので正式な時しか名乗らないものだし、
秀吉は、あちこちに豊臣氏の名乗りを許したけど、
秀頼が死んで徳川の世になったので、豊臣氏を名乗るなんて
危険すぎて無理です。
ということは、秀吉は木下姓のままなんか?
ちなみに家康や、尊氏も、正式な署名には源を名乗ってる。 大坂方の敗北の原因は、難攻不落と呼ばれた大阪城の堀を埋めた事
堀さえ埋めなければ長期戦は必至で城方優勢だった。
和議と言う甘い餌に騙されて敗北は哀れ >>614
大河ドラマの受け売りだけど
三代将軍に秀忠の正妻「お江与」の推す忠長
「おまえは次期将軍ではない 次期将軍は長子の家光」と
家中に長子継承のルールを示したのが家康
そりゃ家康さまさまよ >>622
後詰あれば勝てる。
籠城戦ってのは、基本後詰めあっての戦術。
後詰がない場合は、相手の食料が尽きるとか、
冬になって撤退するとかなら、勝ちではないが、
生きながらえた戦いはある。 >>624
藤原さんなんて1000年以上続けているんだぜ 大坂の陣には立花宗茂が徳川の参謀役でついてるもんな。 まだまだ徳川幕府が安定してるとは言い難い状況下での大阪方の籠城戦術でしょ
幸村が家康の首狙ったのもそういう理由がある訳だし
そういう理由から籠城戦を長引かせたくなく家康は和議へ持ち込み堀まで埋める算段して大筒打ち込んだ訳だからな 大阪弁で挨拶します。アニョハセヨ
▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』
▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』
▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』
▼清河八郎(出羽庄内の尊王攘夷派志士・19世紀)
『関東は剛強な気質で心正しく、人を憐れむ。上方は柔弱で事に堪えず、人を欺く』
▼九州兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章九連隊(=京都兵)』
▼司馬遼太郎(元陸軍少尉、20世紀)
『大阪兵は日本最弱。上方者が兵にむかないのは当然なこと』
▼全国体力テスト(文科省、21世紀)
『大阪男女の体力は6年連続40位台。トップ5は福井、茨城、千葉、新潟、秋田』
▼全国学力テスト(文科省、21世紀)
『大阪男女の学力は6年連続45位。トップ5は福井、秋田、富山、石川、広島』 豊臣秀頼の背後のスペイン>>119は弾の原料の鉛を集めて援助するのが精一杯か
スペイン自体がカルバリン砲に負けてるし >>624
徳川家康の直系って実質的に3代で終わってる
幕府のイニシアチブだって家康晩年以降は徳川当主より家臣団に移っていた 淀が江戸に行けば丸く収まった。
江戸に行けば「お姉さま、お久しゅうございます」
妹の江に秀忠は頭が上がらないのだから将軍の上の江の上の淀は一番の天下人w
どうせジジイは寿命が来れば死ぬんだから慌てる事は無い。
将軍秀忠の義姉、次期将軍家光の伯母というロイヤルストレートフラッシュで負けるなんて
本当にどうかしている。 確かによくわからんよなぁ
淀は特に家康には恨みはないのにな
どっちかつうと秀吉は親の仇なのにさ
義理立てする理由ないよなぁ A級戦犯てwww
早く記事削除しといた方が恥を晒さないで済むぞ。 >>627
いいかげん大河でやれっつうんだよな。大河の制作ってこれじゃない企画ばっかり立てるw
よくやってくれたって思ったの最近だと黒田官兵衛と真田信繁くらいか そりゃ身長ドチビの秀吉から、あんな大男は生まれるわけがない罠 大野治長は吉村知事に似ている
淀・・橋下
大蔵卿局・・松井
秀頼・・?(自己主張しないのに権威がある維新好き大阪人ってだれかいますか?) >>636
淀がめちゃくちゃでかかった説があったような >>636
秀頼の母方の祖父になる浅井長政は、巨躯だったと言われている。
長政→茶々→秀頼
何の不思議もない。 当の秀吉が自分の胤か疑念をもたなかったのか甚だ疑問 >>640
淀が生む前にも子が生まれた可能性がしてきされている。
秀吉は、何かと「秀勝」と養子に名付けていた時期があるんで、
オリジナルの夭折した実子秀勝が存在したんではないかと言われている。 愛人のおこもりはOK
寧々はダメ
この男の複雑な心理 すくなくとも秀頼当人は秀吉の子として育てられ、秀吉の子と信じていたと思われる
のだから、秀吉の子と見なすしかない。
秀頼の擁護に奔走した加藤清正もそう信じていたはずだ。
秀頼が秀吉の子ではないという説は、主張者がそうだったら面白いなと思っている
以上の根拠がないw
秀吉の子ではないという主張は、あんま意味がない。 そんなことよりオナグッズ使って君もTENGA人になろう 豊臣家存続のために努力はしただろ。
それが的外れだったと豊臣方の武将から思われていた訳でな。
家康が豊臣を滅ぼすつもりなら和議の工作は良いように利用されるだけ。家康の真意を読み間違えた時点で何をやっても徒労。 >>614
弟の方が才覚があったんで家光は将軍になれなかった
ところがじーちゃんの鶴の一声で将軍になれた
だからすごーく感謝し尊敬してた >>609
大阪の楠木正成なんか戦前の教科書に載ってて必ず暗記させられた忠君愛国のシンボルだバーカ
今も皇居前に騎馬像あるわ >>588
どんだけ嫌われてんねん三成w
大谷吉継があれほど注意したのに
西軍が敗れた敗因は三成と淀殿 >>602
ポチョムキン以外は
政治に深く関与してないエカテリーナ2世ぐらいか
日本にはいないタイプの夜が盛んな女帝 >>631
家康さん自体
家臣「なに糞漏らしてるんですかwww?」
とか
家臣「俺の娘婿の親父と弟助命してくれないなら戦争だ!」
家康「判ったから!」
とか
家臣「信康(謀判しようとした長男)と嫁殺せや!」
とか
凄く立場が微妙な悪寒w >>652
乳兄弟が引き立てられるのは古くからの武家の慣習だから仕方ない面もある
ただ乳兄妹(乳姉弟)の関係が、権力の中枢に影響を及ぼしたのは確かにレアケースだね その点からも江戸幕府は日本の伝統とは異質な組織で、
乳母も外戚も人工的に排してしまったんだよな
(春日局に懲りて)乳母に顔を隠させるとか、
正室に男子を産ませない、生まれても殺すとか
まるで共産圏の全体主義国家のようなことをやっている
むしろどこの馬の骨かわからない女の血が歴代の将軍に入り続けたことで、
徳川将軍家の血統はむしろ弱まったと言えるだろう
戦国時代までは、むしろ正室の血統が重んじられていた >>627
大坂の陣直後に国元の家臣に近況を伝えた宗茂の書状には、
「我々は旗本や御前(秀忠)の備えを命じられた故に、
先手になるようなことはなく、雑兵に至るまでいずれも無事だ」
と言ってるから大坂の陣で宗茂は全く戦ってないんだよな >>656
徳川血統はむしろ雑種強勢で増えまくったに近いのではなかろうかw?
親族同士でryってやってる一族は子供の数も少なく細々と続くか途絶える >>658
徳川将軍家と尾張家はそもそも子供少なすぎて男系断絶してますぜw >>658
皇室じゃあるまいし、誰も親族同士でやれなんて言ってねーし よくある歴史の話だと豊臣秀頼て人は身長2mオーバー、体重が体脂肪率0%で200kgあったと言われてますよね。馬に乗ろうとすると重くて暴れるから首をへし折る癖があるとか。
家康は大阪城で成長したそんな秀頼を見て恐怖を感じて豊臣を滅ぼす決意をしたと。
会見したとき秀頼は屁をしただけで数メートル浮き上がり、障子を開けようとしただけで力余ってあけた勢いで城を壊したとか、女を抱いたら半分に千切れて死んだとか化け物じみてるし家康の気持ちもわかる。 五大老とかいって、ちょっと前まで敵だった奴を政権中枢に入れて、
自分の家臣は五奉行でその下につけるんだもんな
政権中枢は譜代で固めて、大藩でも外様は政権には入れない徳川とは真逆
豊臣政権は制度的に問題があったんだよ >>659
素性のわからない女性が母親の徳川吉宗が自分が将軍になるために政敵を毒殺しまく(ry あえて擁護するなら、徳川以外はそれほど問題でもないんだよ
前田は旧友、上杉と毛利(小早川含む)は信長生前は滅亡寸前で秀吉に進んで臣従した家、
(上杉と毛利の逆パターンが、信長とは友好的だった後北条・島津・伊達)
宇喜多は秀吉の猶子、宇喜多の母親は秀吉の側室だからね >>664
歴史人口学とセットで考えると東日本は100年ほどで人口が横ばいのオワコン化する
逆に西日本は伸び続けて明治維新に繋がった
家康の孫を秀頼の嫁に貰っているからその子供や次の代まで平和を保てれば
と言うのが秀吉の考えだったのではなかろうか?
大坂の陣+そのあと自分の曾孫まで殺した家康の非情さが想定外だった >>665
戦後一番家柄の良い総理大臣を出した家でもあるw
岸さんの孫は散々叩かれるのに近衛さんの孫は叩かれない不思議w >>255
小川さんも昔は美人だったろw
大坂の陣のころは初老だから間違ってはない
>>67
家康も同じくらいのチビだが…
というか母方(浅井)がでかい >>90
先進的な地域なのに古墳の規模で圧倒的に負けちゃうのかw >>584
片桐且元、貞隆の兄弟は豊臣の姓を秀吉からもらってるぞ ちなみに五大老の序列は、
1.徳川家康
2.前田利家
3.宇喜多秀家(秀吉猶子)
4.上杉景勝
5.毛利輝元
6.小早川隆景(小早川秀秋養父)、1597年死去
で、石高順ではない
中納言叙任も宇喜多と上杉は同時期(1594年)だが、
毛利(1595年)と小早川(1596年)は遅れている >>670
関東の歴史は平安時代ごろに一回断絶に近いダメージ受けてる。
古墳の規模は、奈良や大阪には及ばないが、全長100mクラスの巨大前方後円墳はかなり多い、
東京の古墳はかなり無くなっているが、それでもかつては国力があったことを示しているよ。
https://tabi-mag.jp/eastjapan-tomb10/ >>674
おそらく両方、貞観地震に、富士山の貞観大噴火などなど。 >>676
後寒冷化した時の影響も大きそう
温暖なら良いけど寒冷化すると関東〜東北は大打撃
江戸時代は幕府弱体化で明治維新に繋がり
昭和は226からの太平洋戦争に繋がった >>655
織田家の話だが活躍の目立たない池田恒興さん
お前なんで後継者決める清州会議に出席してるの?と不思議に思った時代が俺にもありました
ノブの乳兄弟と知ってまあ納得 秀頼が身長2Mっていうのも眉唾だけどね。
あの時代に秀頼を直接見た人はほとんど居ないわけだし。 >>677
将来的には大阪が今度こそ首都になる時代も有りそう 秀吉も子供がほしいなら、家康みたいに子を産んだ実績のある
後家さんとかを側室にすればよかったのに コロナ、地震、放射能、氷河期で関東、東北、北海道は必ずオワコン化する
戦後「敗戦国」として日本はGHQによって弱体化され
在日や左巻きの天下だった
日本人の天皇への潜在的忠誠心を失わせようと在日電通が3S政策で日本人を馬鹿にしてきた
日本人の忠君愛国の精神を断とうと左巻き日教組が日本人を弱体化してきた
こんな何も言えず米国にお伺いをたてないと何もできない日本が俺は大嫌いだった
それを俺は変えたいと思っている
首都を東京から大阪にうつして天皇を京都に戻して新しい中央集権国家を作りたい
太閤でも将軍でもいいから強力なリーダーシップを持つ善なる独裁者が現れてほしい
今の日本は白アリがジワリジワリと日本という家をむしばんでいるようにしか思えない
構造つまり仕組みを変えないと日本は浮上しない >>635
大坂はスペイン→秀頼、イギリスオランダ→徳川という代理戦争
その過程で貴重な銀が国外に大量流出
よく被害者扱いされるカトリックの信仰はむしろ侵略者に加担側
あと元寇は地元九州武士(幕府の監視対象)のみで順当に圧勝
むしろ九州×京都・鎌倉の東西対立から、九州に恩賞渋ってで神風のおかげとか
九州×中央・宗教勢力の内部対立からまた戦乱の瓦解へという終わり方
ネタとしてマイナーなイベントには理由がある
>>677
冷害で北や東がやられてきたが、むしろこれから日本は温暖化だな
→ 実は関東の文化の中心だった!古墳大国ぐんま >>686
文永の役後に九州に所領をもつ精強な関東武士団を九州に移住させ2度目の襲来に備えさせた
島津・大友もこの時移住した鎌倉武士
この迅速さが当時の鎌倉幕府の強み
今のチンタラ政府とは違うのだよ >>686
東北地方の全盛期は温暖だった縄文時代だとかw
温暖化が進む前提なら北海道遷都も悪くない
>>687
おかげで墓の維持が大変とか島津家の末裔の方が言ってたw
京都と鎌倉と鹿児島と東京にそれぞれあるんだっけw? >>673
関東なんて家康が干拓する迄は大湿地帯で生産力皆無だったんじゃないの? 徒花とはいえ牢人諸将と一部大阪侍が大輪の花を咲かせた傍らで
信長の駄目息子信雄がひっそりと返り咲いてて笑うw 地域別人口構成比と総人口(千人) 『日本二千年の人口史』(鬼頭宏)
▽縄文前期=106.0
東北18.1% 関東40.8% 北陸4.0% 中部23.9% 東海4.7% 近畿1.6% 中国1.2% 四国0.4% 九州5.3%
▽縄文中期=262.5
東北17.8% 関東36.8% 北陸9.4% 中部27.4% 東海5.0% 近畿1.1% 中国0.5% 四国0.1% 九州2.0%
▽縄文後期=161.0
東北27.2% 関東32.4% 北陸9.8% 中部13.7% 東海4.7% 近畿2.7% 中国1.7% 四国1.7% 九州6.2%
▽弥生時代=601.5
東北5.6% 関東16.6% 北陸3.5% 中部14.1% 東海9.3% 近畿18.2% 中国9.9% 四国5.1% 九州17.7%
https://pbs.twimg.com/media/Ca6J968UsAErz0e.jpg
https://pbs.twimg.com/media/Ca6J966UkAAzQPo.jpg
▽750年=5589.1
東北4.8% 関東17.4% 北陸8.3% 中部5.4% 東海5.3% 近畿25.1% 中国15.2% 四国6.0% 九州12.5%
▽1150年=6916.9
東北8.8% 関東23.2% 北陸10.2% 中部6.3% 東海4.7% 近畿20.6% 中国10.2% 四国4.6% 九州11.4%
▽1600年=12273.0
東北8.7% 関東16.4% 北陸7.0% 中部5.9% 東海6.4% 近畿31.0% 中国9.1% 四国5.1% 九州10.3%
▽1875年=36527.6
東北10.4% 関東16.0% 北陸9.7% 中部6.1% 東海6.5% 近畿16.2% 中国11.6% 四国7.3% 九州15.2%
▽1950年=83898.5
東北10.8% 関東21.7% 北陸6.2% 中部5.3% 東海7.0% 近畿15.6% 中国8.1% 四国5.0% 九州14.4%
▽1980年=117057.8
東北8.2% 関東29.8% 北陸4.7% 中部4.1% 東海8.3% 近畿18.1% 中国6.5% 四国3.6% 九州11.1% >>687
島津・大友が九州へ移動したのは頼朝期だ
(当主が九州に定住するようになったのは元寇期)
元寇期に移動したのは、九州千葉氏とかだ 文禄元年(1592)10月1日 秀吉は大坂を出発して九州名護屋城へ。
文禄2年(1593)8月3日 秀頼誕生。
妊娠出産が1か月ほど計算が合わないと思う。
出産が1か月早まるケースはよく聞くが、遅くなるケースはあまり聞かない。 >>693
日本史ってこういうのがあまりにも多すぎる(政治権力者やその末裔の利害が絡んでいるから)
基本的な事実関係がおろそかにされていたり、隠蔽されていたりする
徳川家康の「神君伊賀越え」もわずか2日で踏破してるからなw
(松平家忠の「家忠日記」でバレた)
しずがたけの戦いの前田利家の裏切りなんてかわいいもんよw そんな偶然が、高齢で子無しの秀吉と淀殿との間の子供で、たまたま起きるとでも?(笑) >>695
当時は最終生理日から出産予定日を推測したはずだから、生理不順のある人だと大幅に遅れる可能性はあるよ
だけど、受精日から計算される出産予定日から遅れるのはあり得ない >>693
あまり聞かないというか
2週以上遅れた自然分娩で死産にならなかったら奇跡だわ 一条帝皇后定子儀同三司ってのは世間一般の認識とは異なりなかなか関係性が拗れてましてね >>693
一応確認したけど、間違いではないが、
正確には天正20年(1592)10月1日だな
天正20年12月8日に文禄に改元されている
(文禄元年は1ヶ月にも満たなかったということ) >>694
家忠日記に拠る伊賀越えってかなり無理あるもんな
松平家忠も単に土地勘が無かったから適当なルートを書いたのか、それとも他意があって書いたのかは分からんけど
6月2日 本能寺の変勃発
6月3日
雨、京都の酒井忠次より家康が帰国次第、西国(毛利攻め)へ出陣するとの報告が来た。
(中略)
酉の刻(午後6時)頃京都にて明智光秀と織田信澄が謀反して上様(信長)が自刃されたと、大野から報告が来た。
6月4日
我等の軍勢が敵200人余りを討ち取った。
信長父子の件は極秘扱いよう岡崎・緒川より報告が来た。
家康は堺に滞在していたそうで、伊賀、伊勢路を退いて大浜へ上陸したので、町まで迎えに行った。
穴山梅雪は切腹した。道中織田信澄の謀反は風説だったことが分かった。 戦国末期のヒロインと乳兄弟な縁強き幼馴染という架空小説並の設定持ちだけど、厳しい現実はチート能力までは与えてくれず
格好悪い評価で戦国レースの最後を飾った人 >>702
家忠日記は馬鹿正直にすべて書いていることに定評があるので、
私は松平家忠がいい加減なことを書いたとは思いませんよ
あらかじめ伊賀ルートで帰国する周到な準備(馬の用意とか)がなされていたということです
まるで本能寺の変が起きることが最初からわかっていたかのように(すっとぼけ) >>705
穴山さん連れて行ったのも在庫処分兼オトリだよね! >>705
戦国時代の日本人は今の日本人とほとんど別民族。
危機管理対応意識が高くて、あらゆる変事への備えがあったと見るべき。
信長が裏切って家康を捕縛しようとする可能性は普通に考えてたろう。 豊臣家が生き延びる道はなかったのか
家康はなにがなんでも滅ぼすつもりで居たんか 豊臣体制は終焉して豊臣家だけの継続を目指すなら可能だったけど主導できる政治力
を持った人がいなかった。 >>709
それまで宗や明に留学生送って見返りにお金たんまりもらってたのが(いわゆる朝貢)
石見銀山手に入れて「自分とこの金は自分とこでまかなう」=通貨発行権握ってるからなあ
織田信長は留学生送りまくる寺を滅ぼし唐入り(中国侵攻)して元を叩く戦略
豊臣秀吉は石見銀山で日本の流通貨幣を定め経済を一手に握った
徳川家康「秀吉死んだしおれが天下取るか」
まあだれでもそうなるんじゃね?ただ毛利、今でいう「持ってない子」だなあ(^_^;) >>709
羽柴に戻って細々とやってけば滅びはしなかった。 センゴクだと鶴松は比叡山の坊主の子っての採用してたな秀頼どうすんのかな 秀頼が生まれた頃の大野くんなんてペーペーもいいとこでしかも徳川に近かかったのになんでこんな俗説生まれたんだろうな >>714
俗説どころか同時代人からも疑われまくり、
複数の人間がわざわざ書き残して、後世に伝わってるんだが?(笑) >>708
ホレ(゚Д゚)ノ⌒
https://www.出産予定日計算.net/gyakusan.php 優秀な人物は種無しが多いと聞いたが
他の能力が凄すぎて、子孫を残す方にエネルギーが行かないのかね >>717
囲碁の井山裕太(31歳)がそんな感じになりそう、
再婚してもうすぐ2年だがいまだにオメデタの話なし
井山が子作りを望んでいたのに、将棋の女流棋士の先妻が
家事もやらずにほっつき歩いてたから離婚したという話もあやしくなってきた 昔は金玉元気だったけど馬の乗り過ぎで金玉煮えて働き悪くなったんじゃね? >>717
たぶん殺人犯はタネ無しが多いとかハゲはタネ無しが多いとか
テキトーな話もいくらでもでっち上げられるぞ 決戦せずに家康が死ぬまで地位と戦力を温存しとけばよかった。やっすい挑発に乗って決戦するからこうなる。 >>708
秀吉が大阪を出発したその日にやって数日で受精したと仮定した場合
そこから計算される出産予定日から1ヶ月くらい遅く生まれてるってこと 当時の落首やらくがきに秀頼の父は誰や?ってあったらしいから、誰もが疑ってたんだろうな。 >>717
イチロー「サーセン」
安倍首相「サーセン」
高田延彦「サーセン」 >>657
当時の宗茂は3万石ほど。
かつ欧州棚倉なんで、九州出身の家臣団ではいまだベスト統率取れない。
かつ、
秀忠のお気に入りなので秀忠は近くに置きたい。
かつ、
内外共に武功に難のある秀忠だから、
側近は武名ありつつ経験者で固めたい。
徳川生え抜きはみんな家康のものだし。 >>725
デカイニートの遺伝子となると・・・ま、前田慶次!?
歴史史上最大のタブーなのか・・・ >>709
土地を与えれなかった朝鮮出兵ですべてが壊れたからな
あれで敵を増やした上に世継ぎでごたごたした
秀次が継いでいたら多分行けたかもしれない >>729
秀次粛清は相当な大ダメージ、致命傷と見なされても無理はないが、
まだ手がなかったわけではない。
>>722の言う通り、挙兵などせず、関が原などやらず、
のらりくらりと家康が死ぬのを待てばよかったのだ
その観点からすると、石田三成個人の焦りや野心が
豊臣家を滅ぼしたと言えるだろう
それは淀殿にすら見えていたらしく、
三成と吉継が謀反を企てていることを家康に知らせ、
家康に上洛するよう要請する書状を送っていたくらいである >>731
だからこの場合、淀殿は家康を待たずに
テンパっている三成を殺してしまう、捕らえてしまうという選択肢もあった >>729
三成のアホが朝鮮出兵した武将への待遇を悪くしたから
あれで武断派の武将らが三成嫌いになった
特に加藤と島津は三成嫌いだった >>734
だったら島津は徳川がいた伏見城に行って「東軍に入れてくれ」と言わない
三成は島津が提言した夜襲作戦を退けたりいろいろ恨み買ってた >>17
政治的な意味で、主君信長の姪に秀吉の実子とされる子どもを産ませたかったということだよ。
大野治長ごときが太閤殿下の目を盗んで密通なんてしたら、一発で磔だわ。切腹すら許されん >>45
昭和殉難者な。ただヘタレ昭和帝が合祀によって靖国に寄り付かなくなった >>738
鶴松に関しては確かにそのような考察もある、
が、秀頼に関してはどうも秀吉が同意を与えていないようなのだ
(出産日の辻褄が合わないことからも明らか)
それにそのような観点で見れば、秀次と淀殿に子作りさせたり、
秀吉の養子だった八条宮智仁親王と淀殿に子作りさせてもよかったのだ
(足利義尚にも、将軍御所に避難していた
後土御門天皇と日野富子の子であるという風聞が当時からあった) >>735
夜襲の提案や伏見城で義弘が鳥居から追い返された話は創作
三成は九州征伐以降島津の取次してたから関係が深いのは史実
伏見城留守居を家康自ら義弘に打診したのは史実だが、
上方での義弘の兵力が足りずに話が流れたと義弘が国元の息子忠恒に書状で伝えてるから
別に義弘自身が伏見城に乗り込んで留守居を断られたわけではない >>56
宇喜田の残党が大阪の町衆に合流してるだろ >>73
家康秀忠の間では加藤嘉明は三河者という認識。 >>709
人間の寿命は自分で左右できないからね
家康も自身がいつまで長生き出来るか考えつつ、絶えず妥協の道を模索していたと思うよ
所謂豊臣包囲網も、相手を滅ぼす方策というよりは有事に対する恐怖心の現れと解釈すべきだろう >>709
関ヶ原浪人雇い入れなかっただけで
もうちょっとマシな世界線に繋がる 秀頼出陣無しの理由って淀がむしろ和平派だったと仮定すれば
あっさり解決しねえ?
そして秀頼生存説が持ち上がる >>741
同意
秀頼が生まれるとき淀に「母乳で育てよ(乳母を使うな)」って突き放してんだよね
今も昔も母乳育児はたいていの女性にとっては不眠不休の生活になりがちなうえ
出にくい体質だと赤ちゃんが栄養不良で育ちにくくなる
ミルクのなかった当時、母乳のよく出る体質の女性に授乳を任せるのが当たり前で、高貴な夫婦に産まれた子は乳母や教育係と一緒に大事に育てるものだった
秀吉、淀を嫌ってたんだろな >>752
乳母で育てると、乳母にまかせっきりになって子供たちと一緒に育って仲良くなってしまうからそれを避けるためだったんじゃね? >>740
昭和天皇が靖国に行かなくなったのは、ヘタれたからではなく、神社の宮司が天皇の意向に背いて軍人でも無く、戦死したわけでもない人物を合祀した為だよ。 >>752
上流階級の感覚としてはそうでも秀吉の出自的には母乳で育てるのが自然な感覚なのでは それすら建て前で東京裁判史観に意義申立てる形になるのを避けたんだと思うけどね
東條に戦争指導責任全て被らせた意味が台なしになる >>756
淀殿は上流階級出身なんだけどw さぞや困惑したことだろうよ 秀頼鹿児島生存説の顛末
島津が秘かに幕府に報告したが、
幕府からの答えは「そんな死んだことになってる酒浸りは放って置け」
で終了
この神社仏閣修繕が趣味の平和主義者は、
淀が邪魔しなければ大坂退城して大和で平和な余生送っただろう >>758
秀吉の意図はわからんけど、仮に浮気した子供だったとしたら淀は(バレてる)と確信しただろうな >>753
どうして籠城戦をして頂けなかったのですか?
さすれば、豊臣家は安泰であったのに。 >>709
家康は助けようとしてたんだよ
夏の陣の直前でも家康は島津ら西国大名に上洛せず待機するよう命じてるし、
豊臣がすんなり国替えに応じてたら助けるつもりだったと思うよ
豊臣が無謀にも戦いを挑んできたからやむなく待機命令を解除して
上洛するよう命じたが、島津は結局間に合わなかったしな 堺焼き討ちしたのは不味かったよな
あれじゃもうどうしようもないわ >>755
しかも、合祀された者のなかにはキリシタン、ではなかったクリスチャンが混ざっていたと
なぜキリスト教徒が神社に……と昭和天皇は困惑されたことだろう >>757
同じことでは?
靖国がA級戦犯合祀したせいで、立場的に行きたくても行けない状況に陥ったんだな
上でヘタレとか言ってる奴なんなんだ
ネトウヨの成れ果て?
最早呆れるしかない >>762
自分が生きてるうちに反抗の根は摘み取ろうという強烈な意思を感じるけどね
そうしないと家康死後にまた一波乱起きる
旧大阪城を徹底的に埋めたのは個人的な恨みも含んでそうだがw >>766
完全に服従すれば滅ぼす必要もないからな
少しでも牙残してたら潰すしかない >>754
当時は実母の母乳にこだわると夭逝させるリスクが上がる
秀吉は○なせてもいいくらいの感覚だったんじゃないかと思う
>>756
庶民も貰い乳が当たり前だよ
乳母みたいに専属がいるんじゃなくて、母乳が足りなくて困ったら身内や近所の女性に頼んでた
※江戸時代の記録 >>766
豊臣が恭順すれぱ良かったんだよ
徳川家康の生涯は恭順の連続で生き抜いてきた
恭順出来ないなら謀反人として滅ぼすしかない >>766
通説の徳川方が勝手に内堀まで埋め立てたってのは創作だよ
外堀、内堀の埋め立ては徳川豊臣合意のもとで行われてる
諸大名の書状からも埋め立ての際、徳川と豊臣の間で騒動が起こった形跡は全く見られず、工事がスムーズに行われていたし
あと史料で見る限り豊臣潰しに積極的だったのは秀忠で、家康は終始一貫して助けようとしていたように見える >>771
> あと史料で見る限り豊臣潰しに積極的だったのは秀忠で、家康は終始一貫して助けようとしていたように見える
どういうところでわかるの? 淀の気持を知りたい
ただ大阪で栄華を楽しみたかったのか
両親の敵で自分をレイプした秀吉が築いた豊臣家を滅ぼしたかったのか >>771
>あと史料で見る限り豊臣潰しに積極的だったのは秀忠で、家康は終始一貫して助けようとしていたように見える
役割分担に決まってんじゃねーかw >>773
自分が産んで育てた子は大事だったんじゃないかな
托卵して豊臣家を乗っ取ってやる!くらい考えててもおかしくなさそう 寧々さんもなあ
冷淡というかあんまり豊臣の存続に心を砕いたようには見えない正直
ダンナの愛人に乗っ取られた家の安否とかどうでもいいかもしれんな >>771
外堀内堀の話はしてないんだが…
大坂城 石垣辺りでググってくれ
何を言っても聞かなそうなタイプみたいなんで、これ以上の言及は避けるけど >>776
ねねこそ
「本当に秀吉の子かよ!
あとは知らんwww」
ってなってそう >>772
>>762でも書いたけど西国大名をギリギリまで待機させてたことが証左になると思うけどね
今の研究でも家康は豊臣が国替えに応じていたらすんなり助けたはずだって見方の研究者が多いし
一例を上げると、
(慶長20年)1615年4月8日付島津家久宛本多正純書状(島津家文書)
「併此方より御左右無御座内ハ、縦大御所様御上洛被成候共、御上候事御無用ニ被成、御国元ニ御用意候而、御左右御待可被成候」
こちらよりお伝えなき内は、たとえ大御所様が御上洛なさったとしても、貴方(家久)が上洛なさることは無用です。
国元にて待機されて、ご連絡をお待ち下さい。 >>779
かりに国替えに応じても数世代かけて改易するだろ >>777
大坂の陣の後に豊臣大坂城を埋め立てたってことか
これは完全に勘違いしたわ
申し訳ない >>776
家康と組んで、自分の子供たち
黒田長政、福島正則、加藤清正、小早川秀秋を動かした張本人
仲良かった前田に話通して動かないようにしたかもしれない >>781
家康がどうしてたかの話をしてるのにそんな後の話は知らんがな >>773
淀君の立ち回り次第では状況打開はまあ充分可能だったとは思う
妹が徳川に嫁いでるし、こっちには千姫が来てる
秀吉死後に徳川方に身を寄せれば、反徳川の旗頭に祭り上げられることもなかったろう
大坂の陣まで行っちゃったらもうどうにも手遅れだが >>783
家康と寧々が仲良かったというのは三流小説家の創作やで >>784
外様で改易になった家なんて、家康が建てたプランをあとを引き継いだ世代が着々と履行した結果そうなっているわけやん 秀頼がパワー系知将になったんじゃないの?
デブって自分で馬にも乗れないから表にも出せない >>788
法度を破ったり無嗣断絶以外の家康の方針で潰れた家どこかある? >>788
そういう一次史料があるなら別だけどそれ完全に貴方の想像でしょ
もし信頼に足りる史料があるなら見てみたいわ 高台院がかわいがっていたことが史実から読み取れるのは
木下利房、木下延俊、小早川秀秋の甥っ子三人
秀頼なんて、秀吉の子供かどうかもわからないし、
基本それほど熱心に守りたい相手でもなかったと思われる。
ただし、大坂の役のときには一応仲裁しようとしている >>791
いろいろ難癖付けて潰しとるがな。大名廃絶録でも読んでくれ >>781
それはあまり一気に来られても兵站が持たなかったからという説があるけどな。 秀忠は空気読んで父親の代弁者として家康の手を汚さないよう立ち回るに決まってんじゃねーか。今の同族企業でもそれくらいのことはしてるぞ >>787
目的が一緒なら手も組むだろ
寧々が許さないと長政も秀秋もあんな活躍しないって >>794
無理難題を言いつけて大名廃絶することが多かったのは
秀吉の方。家康政権のときは関が原を除いてむしろ大名廃絶が少ない。
むしろ、秀忠、家光の台のほうが厳しくなってて
それで慶安の変が起きる。 >>796
北条征伐の時なんかは確かに先陣の秀次に兵糧欠乏に関する北条側の史料はあるな
ただ大坂の陣に関しては冬・夏ともに兵糧不足に関する一次史料は見たことないな
もしそういった史料があるなら是非教えてほしい >>799
>むしろ、秀忠、家光の台のほうが厳しくなってて
なんで二代将軍三代将軍が家康と別人格なんだよ。バカじゃねーの? >>794
家光時代を乗り切れば、大藩はほぼ改易されない
徳川家との縁戚関係濃くなるから
難あっても減封程度 >>798
そもそも高台院の周辺に家康と縁の深い家臣がおらず
組むことすらできない。前から家康と高台院が結託してたなら
小早川秀秋はあんなに苦労してねーわ >>801
別人だから別人格。そんなこともわからんゴミかな? >>800
そんな感じで聞いたよ。
小田原囲んだ時の経験から、その後大規模に城を囲むときは
兵站に合わせて調整するようにしたから兵糧不足が起きなかったって話だけど。
ただ1次資料は知らん。専門家じゃないんで。 >>802
そりゃ後の世代もグズグズ100年もかけて廃絶したりはせんよ。もすこしサックリやるわな。
家康薨去寸前でも福島正則が家康につれない態度取られてオロオロ泣き言言うてるやん
その時点で徳川に弓を引ける大名なんてないわな。 >>804
神君家康公という巨人とその影響力の大きさを考えろ 福島正則は態度が中途半端すぎてな。
むしろ黒田長政くらいきっぱりと徳川に忠誠??を誓わんとw >>805
なるほど
出典不明ながらそういう説もあるんだな
武田氏研究の第一人者で大坂の陣の研究もしてる平山優氏に拠ると、
家康は夏の陣でも豊臣は戦にならずに降伏するだろうからと、西国大名の上洛を見送って待機させてたって見方をしてるね 加藤福島が見事に廃絶させられてんのに徳川の主家の豊臣残すとか脳内お花畑か? >>810
もしかして加藤と福島を難癖つけて潰した大名にカウントしてるんか? >>807
家康政権のときと家光政権のときは、全くといっていいほど政策が違う。
そんな事も知らないお前が無知なだけ ID:N/fhN4Ru0は、論拠の一切ない全部自分の思い込みだから話にならないな。 足利だって関東公方が喜連川に名を改めて残してもらっただけだぞ。織田秀信だって果たして自然死だったか怪しいもんだ >>815
お前の珍説は誰も賛同してないし
そもそも全部お前の思い込みであって
論拠がまったくない。 >>771
まじかよ目からウロコだな
秀忠冷酷だな 今の公務員でさえ先例主義を取ってんのに、幕末まで「我が〇○家は…」と末端の下士に至るまでが
先祖の槍働きを言い伝えていたお家大事の当時の日本で、神君の遺訓がどれだけ強烈に影響を与えるかくらい
ちょっとくらいお頭がアレでも判りそうなもんだがなw 宇都宮国綱の改易の経緯とかを見れば、豊臣政権のほうが遥かに無茶苦茶な大名廃絶やってたのは一目瞭然
家康の時代にはそういう無茶苦茶な査定はほぼ皆無。
秀忠時代や家光時代の初期は、無理難題に近い大名廃絶があったと言えるが
それでも豊臣政権に比べたらずっとまし。 >>817
創業者の父親が大方針を立ててるから、二代目の息子は空気を読んで父親に汚名を着せまいと自ら汚れ役を被って立ち回ってるだけだよ。 >>793
関ヶ原直前に黒田長政と浅野幸長の連署で秀秋を調略してる書状が残ってるけど
「政所様へ相つゝき、御馳走不申候ハてハ不叶両人ニ候間、如此候」
我々も政所様との縁により、貴方をお誘いしないわけにはいかない
とおねを前面に出して秀秋調略してるもんな
秀秋がおねに可愛がられたことがよく分かる >>818
大名を取り潰せという遺訓があったという証拠がそもそもない。お前の妄想。
まず第一に、家康一代で無理な廃絶はしていない。家康が郡県制を志望していたという証拠もない。
お前の珍説は全部妄想なんだよ。わかるかゴミ >>817
秀忠の場合、秀頼は直接の対抗勢力だから
より現実的な危険排除の方向に考えが向かうのは不思議でも何でもない。
むしろ、あそこまで徹底的に権力を奪ったのに
いまだにあれだけの戦力を抱えられる豊臣家に対して
秀忠は単に恐怖しかなかったんじゃね? >>819
秀吉が一回日本を統一して刀狩りや検知まででやってくれた後だから
それを簒奪した家康はそれ以上の大工事を施さなくても済んだってだけの話だろうに >>821
関が原において、家康は書状いくらでも出してるのに、
1万数千の兵を率いて中央にいた秀秋は家康本人に
内応の使者出してるのに一切無視されてるんだよ。
家康の部下でもない長政、幸長の書状もらっても意味ねーだろ >>822
二代目の大樹秀忠と、自分の死後についていろいろ話し合ってんだよ家康はさ。
それで最期に残した言葉が「ざっと済みたり」だ。その言葉の意味くらいすこしは汲み取れよ池沼。 >>404
二言目には史料重視というがけっこうあやふやなんだよな >>825
そんな長政さんからの書状を後生大事に胸に抱いて
関ヶ原で、敵の後方を突ける絶好の位置に陣をはりながら
不戦を強行してお家を断絶させかけた阿保武者もいてな。 >>826
だから秀忠と家康の政治思想がそもそも違うっつうの。
秀忠の政策が全部家康の意図をくんでやってたというのがお前の妄想 幕末の徳川慶喜も、鳥羽伏見戦後はひたすら謹慎して恭順したんで赦された
後に復権して島津、毛利、徳川宗家に並ぶ公爵にまでなってる
豊臣淀政権には、時流を読んで耐え忍ぶ忍耐力が足りない
浪人駆り集めたぐらいで、幕府・大名正規軍に勝てるもんか
ヒステリック淀が豊臣滅亡のA級戦犯 >>829
>だから秀忠と家康の政治思想がそもそも違うっつうの。
家康と秀忠がそもそも対等じゃねえんだよユトリ君。 >>828
そう考えると、小早川秀秋って名将だよな。
家康勝利を確信した上で、松尾山に陣取って寝返るという
かなりの無茶をやってきっちり功績上げてる。 >>830
全くそのとおり
幕末まで耐え忍んで子孫によるリベンジを待つ他なかった ゆとり以降の世代は「カミナリ親父」ってもの自体を知らないからな。封建制が肌感覚で理解できてないときてる >>825
いや意味はあるよ
毛利・吉川・小早川は黒田が調略担当してて実際に家康の取次してるし
あと秀秋本人が家康に直接使者送ったなんて一次史料はない >>832
秀秋は戦争はかなり強かった。
何故か弱小評価されてるけど。
1番再評価が必要なのはこの人かもしれんよ。 最近の研究では大野治長は秀吉の御落胤だったので秀頼の父親であっても特に問題はないらしい >>825
最重要課題の毛利の取り扱いでも関ヶ原直前の毛利・吉川宛家康書状は一通も存在してない
全て黒田を通してやり取りしてる
確かに家康の直臣ではないがそれほど黒田父子は家康に信頼されてたんだよ
だから長政の遺言状でも関ヶ原での徳川の勝利は我々父子が居たから得られたもので、
もし黒田の御家に多少のことがあっても関ヶ原での我々の忠功を持ち出せば
幕府もそうそう処罰などできないはずだと自信満々で言ってるし 信頼されてたわりには長政がしてきた約束は
家康には守られなかったな。 広家には詫び状を送って謝罪すらしてるし。
それすらも最初から策のうちなのかもしれんがw >>839
九州切り取り勝手の約束ことか
まああれは黒田だけじゃなく清正にも言ってるんだがな
約束を守ってないのは確かだが もとの説をさらに肯定したものとかの研究は、
単にニュースにならんだけで今でもあると思うが。 >>840
関ヶ原合戦から5日後の近衛前久書状によると毛利は表向きは領地安堵との発表だが、実際は減封で話がついてた記述があるんだがな
長政が広家に自分の領地から少し分けたいって言ったのは家康から調略を一手に任された責任もあるし、
今後の吉川との関係の為にもそう言っておいた方が波風立たないしってことで言ったんだと思うよ >>844
それは長政が最初から交渉内容は嘘と知ってて、広家をだましたという事かな?
それとも、長政の交渉内容を完全に無視して減封の処置を早々に家康が決めたという事かな? >>845
それは不明
近衛前久が息子の信尹に送った書状に出てくる記述なんだけど、他に近衛の発言を裏付ける史料もないからな
もし近衛の発言が本当なら、黒田長政はこの件に関しては知らされてなかったんじゃないかと思う
まあこれも確実な史料がないから個人的な推察になるけど >>845
原文も載せとく
内容はさっき言った通り
(慶長5年)9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状
「きつ川は輝元被取候、知行分悉給置候者、家康ヘ味方に可参候とのにて候ヘども、それは余之□之由候て、半分の契約にて一味申候との事候」 そんな昔の事どーでもいいじゃねーか
過去を振り返るな
前を見て生きろ >>211
ただ独眼竜政宗でも秀頼が淀に「自分は本当に太閤の子か?」と訊くシーンで後ろに居た治長が少し反応してるんだよね >>845
あと関ヶ原合戦の前日9月14日付で本多忠勝・井伊直政の連署で吉川広家・福原広俊宛に起請文(毛利博物館所蔵)が出されてる
その内容は
・輝元に対していささかも疎略に扱うことはしない
・吉川、福原のご両人は特に内府に対して忠節を尽くされているので、内府も今後両人を疎略に扱うことはしない
・ここに毛利がお味方することが決まった以上は、内府直筆の墨付(公文書)を輝元に遣わす
毛利の御分国(領地)は申すに及ばず、只今の如く相違することはない。
この三ヶ条にもし偽りがあれば、梵天・帝釈・四大天王、日本国中全ての大小神々、
特に八幡大菩薩・熊野三所権現・加茂・春日・北野天満大自在天神・愛宕大権現の天罰を受けるものとする。
これ見ると領地安堵すると言ってるし、話が違うじゃねえかと思うけどね
まあ家康にしてやられたと見るべきだろうな >>852
その起請文は有名だね。
家康に、というよりは最初から全員で総大将の毛利家を騙しにいったとみるべきなのかもしれないな。 >>852
これ全部家康が「家臣が勝手に言った事でわしは何も知らぬ」って言われたら何も言えないよね
あと家康はちゃんとお墨付き出したんだから伊達政宗さんに100万石渡すべきだと思います。 片桐且元の件みれば家のためと思い忠告しても嫌疑をかけられて離反するしかなくなるから淀殿の決定に治長は従うしかできなかったんだろうな
そうなると今度は浪人側は不満を持つから不貞の噂は立つし暗殺もされそうになるしで中間管理職の悲哀を感じるわ そもそも最近の研究だと秀頼自身が開戦派だったから、
どうにもならんかったって話じゃなかったっけ >>736
三成は経営コンサルタントとして薩摩の借金を助けただけ
薩摩は江戸時代も借金だらけだった
その程度で三成に恩義を感じて加勢しない
三成はあまりに横柄すぎた >>857
そうだね
淀殿以下豊臣譜代が恭順論に傾くなか、太閤嫡男の矜持を貫いた対徳川強硬派が実は秀頼本人だったことが近年明らかになりつつある
二条城会見後に進物を返さない片礼で応じ、家康宛の自筆書状で「お礼は大坂に来られた際に致しましょう」と言い放っているくらいだからな >>859
本丸桜門まで出御したが、城内寝返りの報を受けて引き返した
本人が如何に戦いたくても、一存ではどうにもならない >>857
近年の大坂の陣関連の研究だと通説とは違い、淀殿が融和路線で秀頼が開戦強硬派だからな
徳川方からの大砲が飛んできたから慌てて和睦みたいな話も創作で、実際は終始劣勢のまま物資尽きかけてたから和睦しただけだし 冬の陣が終始劣勢で、物資が尽きたから講和なら
なぜ夏の陣がおきたのかがわからんな。 >>864
物資は尽きたがお金はあったんだろ。メチャクチャあったらしい >>865
いや、そういう意味じゃなくて。
大坂城あろうが金あっても無意味を冬の陣で悟ったのに
なんでまた無意味に戦うのかね? 秀頼も伊達政宗ももう少し早く産まれてたら
面白かったのに 伊達政宗がもう少し早く生まれてたら芦名にフルボッコにされてた未来しかねーわな。 >>868
よく政宗がもう少し早く生まれてたらって意見を見るけど、それは即ち輝宗が無能という事なんだろうか >>852
俺が毛利親族だったら、「家康にしてやられたフリをして領地削減を受け入れろ」と言う。
この時代の武将なら、韓信の「良狗煮られる」くらい知ってる教養はあるから、
徳川政権が確定した時点で、島津のように負けた後の緊張感もった本領安堵ではなく、家中が勝ちに奢った状態で、求心力ない輝元が当主のまま、大大名過ぎるのは危険だと分かるはず。
福島正則や小早川秀秋の末路見れば分かるだろ。 >>864
秀頼とその近臣のみがやる気満々で劣勢とは思ってなかったってことでしょ
実際講和後すぐに又牢人を集めて兵糧をせっせと買い集め始めてると板倉から家康に報告が行ってるし >>869
輝宗&政宗の親子が必要という意味で
政宗の成人が早ければ、は理解できる。
輝宗の父の晴宗は稙宗とお家騒動起こしてるから、
晴宗&輝宗では勢力拡大できない。 >>871
劣勢と思ってなかったのなら講和を結ぶ必要がないじゃん。 >>872
当時の武将なら韓信くらい知ってる。
ああ脳筋バカの福島正則なら知らんかもしれないなwww
例えば、真田氏が親子敵対したのは、過去事例から学んだ
「勝敗不明な天下分け目」での外交術だろ。
どちらが勝っても小大名クラスで生き残れるし、実際出来た。 >>874
やる気はあっても兵糧が無くなりかけてるのに戦は続けられんでしょ >>877
そういうのを戦況が劣勢と言うんだが。
まさかと思うけど、「ここでいったん和睦して武器食料補給したら俺絶対勝てるで」
と思ってたとか? >>878
その辺りは秀頼の心情が絡むところで、一次史料にもなく個人的な推論になるから話半分で聞いて欲しいけど、
決して勝てるとは思ってなかったと思うよ
まあ劣勢は火を見るより明らかなのに、秀頼は劣勢だとは思いたくないってのが本音で、
とにかく戦って後のことは知らんって心情が秀頼に少なからずあったんだと思う
もし戦が嫌ならとっとと家康の命に従って国替えに応じてるでしょ >>5
用語もそうだし一行目と二行目も全く繋がってないし何かめっちゃ怖いわ・・・ これ知ってる
実は長政が一番やる気だった浅井の血だわ >>1
な、「A級戦犯」を間違った使い方してるだろ。 秀頼は190センチの巨漢だったから
秀吉の子なわけない >>859
その代わり同意見な真田幸村が出たわけだが
母親が幸村嫌いという内部分裂状態 茶々だけ2人も子ができて、あとは0人なんておかしいから、まあ大野ではなくとも他の男の子供だろ。
茶々が近習の若侍を脅して種付けして
用が済んだら始末、容疑者が生存してないので誰も追及できず、が真相だと思う。 自分の子でないと頭でわかっていても、赤ん坊の顔を見てでき愛しちゃった。
秀吉は何人も養子にしているし、血のつながりがなくても自分の息子にしたかったんだろう。 秀吉って全国から美人集めて毎日SEXしまくって
それが原因で腰痛めて歩けなくなり一気に老けて
老衰で死んだ色ボケだぞ?
都合よく茶々だけ2人も子供出来るわけないから 南殿(みなみどの)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。羽柴秀吉の側室。
秀吉が近江長浜城主の頃の側室とされ、秀吉の第一子となる石松丸(羽柴秀勝)を産んだらしい
織田信長が、秀吉を「剥げ鼠」といって叱責する書状を返した同じ年であるため、側室の南殿が子を産んだことは、寧々と秀吉の夫婦喧嘩にも何らかの関係があると思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AE%BF
おねの嫉妬深さを報道しないよな >>890
南殿は庶民出身(史料に親族が明記されていない)なので、その辺の男とやった後で
秀吉に囲われてたので、秀吉の子ではない可能性高い。
実際、南殿は屋敷を与えられておらず
同時代から既に非実子を疑われていた証拠。
(秀吉の子を得た側室にしては異例の冷遇)
ネネが怒ったのは秀吉に側室が多いことよりも
(側室は当時普通)
どこの男の種か分からん子を家中に入れたことだろ。秀勝が亡くなったおかげで、恥曝しなお家騒動にならずに済んだようなもん。 >>889
他人の子供のために、部下であるはずの全国各大名に
ひたすら「秀頼を頼む」と米つきバッタのように頭を下げる天下人ってシュールだな。 家臣も散り散りになって力を失った豊臣に苦戦した大坂の陣の徳川
家康は自害寸前だったとも、実は戦死して影武者を置いていたとも言われている >>826
正純更迭もか?
あれはかなり無茶だろ
それに比べて家光は土井利勝を穏便に棚上げにした >>752
何かの弾みでなんか感づかれたらまた余計な血が流れるから
他人を近づけるな
という意味だったえい 淀の秀吉への復讐だな
秀頼が産まれなければ秀次は粛清されず、家康が豊臣を滅ぼすことはおそらくできなかった おねに息子(実子)がいたら
弟の秀頼助けて家康と戦ったか
家康について尾張豊臣(というか羽柴)家が続いてたか
秀次みたいに粛清されたか 片桐勝元こそがあの時代を掌の上で転がした
歴史のフィクサー >>873
でも輝宗と政宗の二頭体制が上手くいったとは思えないけどね
そもそも若干18歳の政宗に家督を譲ったのも輝宗の本意ではなく
重臣や一族による圧力の結果という話もあるし越後介入案件でお互いの
意見の相違など家督譲渡後の初っ端から足並みが全然揃っていない 体型的に西郷隆盛は秀頼が徳川を滅ぼすために転生した姿 >>752
乳母任せにしたら死んだ。
だから今度こそ、
自分のように逞しく育って欲しくて、
そう言ったんだよ。 >>899
おねの息子が豊臣を継いだら秀頼は諏訪家を継いでいた勝頼みたいに浅井秀頼とかになって近江の領主だったかも >>903
たしかに。稙宗晴宗よりマシとはいえ。。。
>>906
その役目は京極&お初がいるので不要。
京極を取り立てたことで近江の地侍への懐柔策は十分だし
お初が京極に嫁いだことで、京極に浅井子孫を入れた。
もはや浅井とか不要。 >>891
そんなことを言ったら家康は後妻好き
綱吉や吉宗の母親だって庶民や農民 >>894
家康臨終の席には本多正純と土井利勝を脇に置いて、諸侯への伝達役に土井を指名してるね。
>>822
>大名を取り潰せという遺訓があったという証拠がそもそもない。お前の妄想。
そんなもの記録として残すバカがいるかよ。
>>811
堀丹後なんかも豊臣恩顧だけど、家光の代に改易されてるな。 大阪の陣にて平和に対する罪を行ったってどういうこと? >>792
>そういう一次史料があるなら別だけどそれ完全に貴方の想像でしょ
言いたくないが一次資料バカってのは何とかならんものかね(^^; >>909
> 堀丹後なんかも豊臣恩顧だけど、家光の代に改易されてるな。
無嗣断絶って言葉知らない? >>912
ああ断絶か。改易になったのは本家の方ね >>909
実は、織田信秀の代から織田家で士分だった家、尾張の国人・土豪として認知されていた家は、
たとえ外様でも、大抵、改易にならずに大名として残ったり、引き立てを受けてるんだよな
前田、浅野、池田、山内、丹羽、蜂須賀(、堀田) >>911
資料も読めないバカよりはマシだろ
一次資料が全てとは言わないけど、少なくとも後世の軍記や小説を根拠に自説述べてる奴よりは信頼できる
単にあんたの勉強不足による嫉妬にしか見えんよ >>914
これは明確に家康の遺言や幕府の内規のようなものが存在したと思う
大抵の譜代大名よりも、よほど扱いがいい >>914
そのへんの連中は小牧長久手のあたりまでは秀吉とも同輩意識のが強かったんだろうね。
ただ蜂須賀に関しては殿様の家には家康の子孫が養子に入って
小六&家政の血統は家老の側に残ってるね。 >>915
資料を補完できるほどの脳味噌がアンタに無いだけだろ >>914
前田、浅野、池田、山内、蜂須賀は松平賜姓 蜂須賀侯爵家もお婆さんが養子も取らずもう家を絶えさせるつもりだとか聞いたことがあるけど
彼女自身が小六家政の血を継いでないってのも遠因になっているような希ガス。 >>908
やった女には、以後、屋敷を与えて管理してたろ。
南殿にはそうした待遇が無いから、非実子疑惑が当時からあったと思われ。 秀吉派のイメージある竹中半兵衛の子孫も旗本としてしっかり生き残ってる 真実かどうかも分からん史料で議論しても仕方ない
徳川家が天下を取った
これだけでいい >>914
浅野は播州の分家が刃傷で取り潰し
問題起こさなければ普通は潰されないよ。
騒動無いのに言いがかりで潰されたのって
福島正則みたいに関ヶ原を鼻にかける面倒な連中だけだろ。 >>918
補完と言う名の妄想ですねw
確固たる良質な資料に拠ってこそ補完が成り立つんだよ
適当な二次資料持ってきて補完したとしてもそれは単なる妄想でしかない
研究者や歴史家が一次資料に拠らず、小説や軍記で持論展開してたらどう思うよ
自称光秀の御子孫とかいうのも、頓珍漢な説唱えて研究者にフルボッコにされてるじゃねえか
面白ってだけで誰がそんな奴のこと信用すんねんw 大相撲の土俵いり。土俵に入るときは神が宿ると言われています。 >>925
大功ある寧々さんの実家じゃん
>>926
もうやめとけw >>866
城内主流派が戦う以外に後が無い浪人衆と譜代強硬論者で占められちゃったからな
彼らが秀頼を擁して再戦に突き進めば、もう誰にも止められない >>923
利権の分配が上手かったのも徳川政権が長く続いた理由かねえ
改革派だった信長、それを踏襲した秀吉
一方で、旧勢力の利権を保護し、支持を集めた家康
やはり神話の時代から続いているシステムを破壊するのは容易じゃないって事か・・・ 射幸心の強い山師たちを取り立てたおかげで織田家が急拡大したのは確かだけど
それが諸刃の剣であったことは本能寺が如実に表してる。 守護大名や戦国大名の多くが大名として残れなかったのに何言ってんだコイツ(´・ω・`) >>932
荒木謀反を鎮圧した時点で天下統一は見えてたから
1580年くらいのタイミングで
穏便路線に転換してれば良かったかも。 全然違うw 信長のミスは明智光秀の讒言に乗せられて
「近衛師団」の軍団長だった佐久間信盛を追放したこと
光秀を粛清するのが遅かったということ 信長は、自分がやろうとしていることの割りに身辺への注意を怠りすぎた
革新的な絶対権力者なのだから、そこは注意すべきだった
源頼朝にも、富士の巻狩りで曾我兄弟の仇討ちとかあったからね >>935
讒言って何だ?そんなことしたソースはあるのか
代々仕えた家柄の佐久間信盛が追放されたからこそ明智光秀は「次は自分かも」と
震え上がったのでは無いのか >>927
それより正室ねねが男子を産んでその子がライバル秀頼を倒し徳川を滅ぼして
名古屋に幕府を開くって小説があるよ
まあ名古屋に幕府があったなら面白いってだけの小説なんだけどねw >>937
次は自分もなにも、跡継ぎが幼い時点で光秀が隠居したら明智は干されるの確定だぞ
実力主義ってそういうことだからな
いかに光秀に功績があろうと跡継ぎに期待できなきゃ干されるのは当たり前 >>937
あるよ
『佐久間軍記』(江戸初期成立)
「誰かの讒言でもあったのではないか」という趣旨の記述がある
『寛政重修諸家譜』(江戸幕府公認・編集の家譜集)
> 後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。
> 信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、
> 正勝をゆるして城介信忠に附屬せしむ。
と明智光秀の讒言があったことを明記、認定している。
私はこの記述を見て、信長の性格、佐久間信盛折檻状の
「こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。」
という記述や、フロイス日本史の「信長と光秀が部屋で大声で言い争っていた」という記述から、
明智光秀の出雲・石見への国替えは本当にあったのではないか、と考えるようになりました。
つまり佐久間信盛を讒言した落とし前を付けろ、お前も同じことをやれということですね >>941
ちなみにフロイス日本史の「信長と光秀が部屋で大声で言い争っていた」を
(明智光秀の得意分野である)「家康暗殺計画をめぐって揉めていた」とすれば、
それはまた別のシナリオになります >>941
なるほど
しかし讒言で光秀に何かメリットはあったのかな >>943
そりゃあ佐久間追放後の「近畿軍団長」は明智光秀になりましたし、
(本能寺の変で)明智光秀の行動を阻止することができる軍団が近畿から消えましたからね 淀があんなでしゃばったのは後世の創作だろ
史実では何もしとらんと思う
主筋を滅ぼすのは非常にかっこ悪いからな 牢人衆じゃなく、浪人衆だろ。
てか浪人連中の意見取り入れても負けてたかもしれんし、大野が意見聞かなくて結果負けたけど、意見取り入れても負けてた可能性のが高いわけで、この件で大野の印象が悪くなるのは本来は理不尽だよな >>947
元々は牢人
意味はほぼ同じだけどね
歴史関連の本とか史料だと牢人を使う
更に当時の書状での表記は窂人 ヒキモリネトウヨタイプ
パワー系知将に育った秀頼
秀頼「キヨマサ!竹輪おかわり!」
清正「ははっ竹輪は無くなりましたゆえ替わりに蒲鉾にて」
秀頼「むうムシャムシャいけるな!キヨマサでかした!」 >>910
北条氏信が家を焼かれた
秀吉がくれたんだぞ 薩摩で隠れていた秀頼
秀頼「お腹減ったな〜幸村がくれたお金なくなったしど〜しよ」
おでん屋「いらっしゃい」
秀頼「酒に蒲鉾に竹輪に・・・ぜ〜んぶちょうだい」
おでん屋「へっへい(汗)」
秀頼「ぷは〜お腹いっぱいwそれじゃ」
店主「ちょちょっとお客さんお代を・・・」
秀頼「あっそっか島津につけといて」
店主「しっしまづって・・・親方様???」
秀頼「んじゃ」
店主「ちょっと待って」
秀頼「何をするー俺を誰だと思っているんだーふんがー」
店主「うわ〜お店壊さないで〜」
島津「スマンこれはお代だそれとこれが店の建て替え代だ。このことはくれぐれも内密にな」 森長可は13で家督継いだろ
そこから初陣3年後
>>940 >>20
所詮、手遅れの無理ゲー。どうにかするなら関ヶ原前に手を打たないと。 信長が天下取りを成功したら、家康をどのように遇する気だったのかが気になる >>955
条件ははるかに悪くなってるが、関が原後でも、
とにかく下手に出まくる、家康の死を待つ戦略は引き続き有効
淀殿に家康との再婚を命じた秀吉は、やっぱりよく見えてきたということ
家康が死ねばどうとでなることも秀吉はわかってただろうね
秀頼も千姫と子供を作りまくるべきだった A級戦犯のAは平和に対する罪じゃなかったっけ??? >>956
家康は甲州征伐後、すでに詰んでたんだよ
新たに駿河1国を得たものの、織田信忠(美濃国、尾張国)、
毛利秀頼(信濃国伊那郡)、河尻秀隆(信忠後見役、甲斐国)、
北条氏政(伊豆、相模他)に囲まれて伸びしろゼロ、これ以上の領土拡大は望めない、
粛清された水野信元と同じ状況に陥っていた。
信康事件によって織田氏との婚姻関係も解消していた。
(これは最近の有力説では家康から解消した、自分で息子、信長の娘婿を粛清した)
残っている息子の於義丸(結城秀康)が満8歳、長松丸(徳川秀忠)が満3歳。
家康には男系の(松平広忠を父とする)同母兄弟、異母兄弟もいない。
(義信事件のとき、諏訪勝頼は満18〜19歳で、すでに元服・初陣も済ませており、
信廉(信玄同母弟)、信豊(信玄同母弟信繁の次男)も居た武田家よりも、はるかに条件は悪い。)
織田信忠と松姫(武田信玄六女、のちの信松尼)との正式な婚姻が予定されていた。
信忠と松姫の間に生まれた男子の1人が武田の名跡を継承すれば、ジ・エンド。
だから信長生前から、
すでに家康は(依田信蕃はじめ)武田旧臣への調略を開始していたことが明らかになっている
(実質、謀反の企て)
「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちを匿った」というのは、
典型的な徳川史観による捏造プロパガンダで、
実際は現代にも残る信長自身が出した国掟がそれを否定している
だから本能寺の変をやるのは、本当にあのタイミングしか無かったんだよ 秀次虐殺から3年で秀吉が死んだのは、虐殺された秀次一族30数人の祟りだろ
親の因果が子に報い、の因果応報で豊臣家は滅んだ >>941
佐久間追放の同月に家老筆頭格の林秀貞をはじめ丹羽氏勝、安藤守就
も併せて追放しているんだよね
だからたとえ光秀の讒言が事実だったとしてもそれは
信盛追放の些細な理由にひとつに過ぎなかった気がするわ
別所氏を滅亡させ石山本願寺との和議も成立した天正八年は
信長の心境に大きな変化が生まれていた転換期だと思う
だからあの時期に纏めて功績の薄い重臣や謀反の恐れのある配下を排除し家臣団を一新した >>956
質問に直接答えてなかったね、結論としてはわからない
家康の京・堺遊覧が家康暗殺計画の一環だったのなら、あの時点で殺されてたということだし、
>>702の「家忠日記」の酒井忠次が送ってきた手紙が信長の真意として真実なら、
同盟国・従属国として軍役に応じて、所領を安堵されたかもしれない
あと「唐入り」、明征服は信長生前からのプランなので、
家康も朝鮮・明に渡航していたかもしれない
いずれにしろ家康は完全に疑心暗鬼、ハリネズミ状態だったと考えられます
とにかく置かれた状況がヤヴァすぎる
後年、家康は秀吉からの上洛要請に頑として応ぜず、秀吉の妹や母を「人質」に取って、
やっと上洛するわけですが、あまり指摘されませんが、あれも物凄い怖がりようです
「人質」を出す秀吉も秀吉で、家康が警戒する・怖がるのも無理はないと理解していたようにも見えます
とにかく他の秀吉に臣従した諸大名とは全然リアクションが違いますからね 北条家も氏政上洛に際して家康と同条件を要求してたけどね
それでも当初は氏政は家臣への手紙で上洛決行と、暗殺の危険性を否定してたんだけどね
そのあと何かが起きて態度が硬化した 秀頼って秀吉が150pのチビに対して190p100sぐらいの超巨漢だったらしいな
淀殿もノッブの家系に漏れず170p近い長身美女とのことだが本当に実父が秀吉ならちょっと無理があらあな 秀吉って超が付くくらいのスケベで側室を山ほど抱えてたけど秀頼以外に子ができなかったってのは本当かね? >>966
石松と鶴松と秀頼と女の子の4人だったと言われてる。皆さん妾腹 >>967
さんきゅー。へー、他に子がおったのか。俺はまた秀吉って種無しかと思ってたわw
だとしたら秀頼って実の子かもな >>911
バカ発見
ソースは脳内の妄想です(キリッ
一次史料否定してるアホにはたとえ雑談だとしても歴史語ってほしくないわ
一生ドラマとか小説で得た妄想垂れ流しとけw >>7
間違ってないよ
1番の戦犯の事をA級戦犯っていうんだよ
極東裁判のA級戦犯とは違う
もちろん元ネタはそれだが、戦犯という汎用性のある単語にA級という「とびきりの」的な言葉が結びついてそういう意味になった
確かにこれが使われだした時には元ネタの誤用誤解もあったかもしれないが
逆にこの新しい「A級戦犯」という単語の意味から類推して極東裁判のA級戦犯を1番罪の重い人と勘違いする、まである >>969
一次資料をゆとり世代の妄想でつないだら事実が浮かび上がると思っているのが果てしなくイタイ(>_<) >>970
つーかA級が文字どおり「平和に対する罪」だなんて、連合国側も思ってないでしょう。 >>625
勝っても領地増えないのがな
自衛隊と同じ 豊臣秀吉 身長146cm
豊臣秀頼 身長196cm 「真田丸」では大野治長は良いやつで大蔵卿局で戦犯に描かれてたな >>976
巨漢で有名な浅井長政の孫が乳幼児時代から栄養たっぷりで育てられて
カルシウムたっぷりの竹輪や蒲鉾食い放題の環境に居たんだ。
食うや食わずの幼少期を過ごした秀吉とは生育環境からしてが違い過ぎる 秀頼実子じゃない説はマイナーな説だから違うんだろうな
それなりに疑われてたなら江戸時代含めて徳川がかなり喧伝してたはず >>971
まず一次資料じゃなく「一次史料」な
こういうバカが碌に研究や論文も読まないくせに、通説や俗説を否定されると発狂したり、新説だからってだけですぐに飛び付いたりするんだろうな
と言うかそもそも一次史料の定義すら分かってなさそうだし
一次史料を妄信しろってことじゃなく、一次史料であっても史料批判された上で、複数の史料をつきあわせていって初めて信頼に足る史料かどうか決まるんだよ
例えば秀吉が中国大返しの時に中川清秀に宛てた書状に、
「上様(信長)・殿様(信忠)はいずれも無事に切り抜けられ、膳所ヶ崎へ退かれた」
とあるけどこれを一次史料だからと言って信長や信忠は生きてたんだと唱える人はいないだろ
それは他の複数の史料から信長と信忠は既に自刃していることが明らかであり、
これは秀吉が中川調略のために言ってるんだなと理解することができる
史料を補完するにしても一次史料と二次史料を根拠にするのとでは信頼性が全く違うことにすら気付いてないじゃん
一次史料否定君は何をソースに語ってるの?自分のアホな脳内がソース?w >>981
5chなんて誤字当たり前で書き込むメディアだろうに、揚げ足取りにも程があるだろ池沼。
これだけしつっこく粘着してくること自体、貴様自身の誤りを認めているようなもんなんだ。 「もんなんだ⇒もんだ」な
>だから秀忠と家康の政治思想がそもそも違うっつうの。(>829)
自分で書いてて恥ずかしくないのかねこんなことw >>968
うーん でもやっぱ種無しだったんじゃないかなー??? 六本指だったし 多指症と種無しは関係ないね。
弟の秀長も子無しなんで精子生成が不順になる性質だったのか、
原因となる感染症を患った可能性ある。 太閤記常連の蜂須賀家どころか、賤ケ岳七本槍末席の平野権平のところなんか
旗本寄合席五千石でしかないのに、松平から養子貰って家を存続させてる。
それがどういう意味を持つかはいちいち書きませんがね。 >>17
いわゆる秀吉恩顧の大名が大坂の陣で大阪方に味方しなかったのも
秀頼は秀吉実子み?マークだったからだろうなw
とくに福島正則なんかそっぽを向いているしなwww >>985
ともあれ秀次の切腹さえなければ、家康の代ではどうにもできなかったんだけどね。
豊家では江戸徳川体制のような安定した政権にはなり得なかったろうから
100年も続かないうちに天下はまた乱れたんだろうけども >>987
加藤清正は、秀頼擁護に奔走している。もう政治的劣位にある
豊臣家に忠勤励んでも敗北が明らかだったからだろ。人は過去の
恩顧より未来の可能性を見る。
他の例として韓国なんてアメリカあって存続できたのに対中貿易が
増大してる今じゃ中国のご機嫌取りに熱心だろ。 江戸時代でも子宝に恵まれない商家なんかでは、嫁を湯治に出して
そこに居る三助みたいのとヤらせてたわけだ。
その場合、タネなしを疑われた若旦那は黙認というか、
湯治に出した妻がナニをやっているかも一切承知で生まれた子供を跡取りとして育てる。
それが家という原理の強い日本のやり方なんだわな。 発想が飛躍しすぎ。嫁は誰の子でも妊娠したい動機はあるだろうが、夫側が暗黙に
了解してる訳ないだろw
子に恵まれない時は親類筋から引っ張ってくるんだよ。 >>989
石田三成と加藤清正はまさに
過去の恩に報いてきた人だろう
まあ、狸に殺されたけど もし秀吉が旧主信長の姪に自分の跡取りを生ませたいと強烈に願っていたのであれば
祈祷師招いて乱交パーティーやったっていいわけだろ。
昭和でさえ男性不妊症の解決法として、慶応の医学生の精液とタネなし夫の精液を混ぜてから
妻の膣に注入するような不妊治療をやっていたこともあったわけでさ
めでたく懐妊ということに相成れば、そんな祈祷師なんて裏でさっくり消してしまえば
戸籍のない時代だ、証拠なんて跡形もなにも無くなるわな。 >>987
旧臣に兵糧運び込ませたとされるの
福島じゃなかったっけ? >>991
それが関白秀次じゃん。妻子ともども皆殺しにさせられましたがね。 伊達政宗の取り入り方から見ても、秀次は凡庸ではあったかもしれないが、すくなくとも不覚人ではなかったよね。 >>991
嫁の実家が強力な後ろ盾のケースもあるから >>994
福島が運び込んだと言うと少し語弊があるな
福島の大坂屋敷にあった兵糧を豊臣が勝手に接収したのを黙認した このスレッドは1000を超えました。
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