>>937
あるよ

『佐久間軍記』(江戸初期成立)

「誰かの讒言でもあったのではないか」という趣旨の記述がある

『寛政重修諸家譜』(江戸幕府公認・編集の家譜集)

> 後明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。
> 信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、
> 正勝をゆるして城介信忠に附屬せしむ。

と明智光秀の讒言があったことを明記、認定している。

私はこの記述を見て、信長の性格、佐久間信盛折檻状の
「こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。」
という記述や、フロイス日本史の「信長と光秀が部屋で大声で言い争っていた」という記述から、
明智光秀の出雲・石見への国替えは本当にあったのではないか、と考えるようになりました。

つまり佐久間信盛を讒言した落とし前を付けろ、お前も同じことをやれということですね