西日本屈指の繁華街、大阪・ミナミの脇を、騒々しさとは無縁のローカル線がひっそりと走る。

 南海高野線の一部で「汐見橋線」とも呼ばれる。高野線を名乗りながら、高野山の麓へ向かう本線とは30年以上前に分断され、枝線と化した。レトロな雰囲気が大正、昭和の懐かしさを醸し出し、鉄道ファンを楽しませているが、実際の利用客数はごくわずか。新型コロナウイルス禍が利用客数の減少に追い打ちをかける。

さびれた駅舎

大正モダン風のクリーム色で壁が塗装され、ターミナル駅だったころの面影が残る汐見橋駅(大阪市浪速区)。壁面にはかつて、昭和30年代に作られたという幅3メートル超の沿線観光案内図が掲示されていた。当時あった淡路島の鉄道までもイラストで紹介。駅の名物として知られたが、劣化が進み5年前に撤去された。

自動化された改札を抜けてホームに入ると、岸里玉出駅行きの折り返し電車がホームに滑り込む。

5月下旬の日暮れ間近。通勤ラッシュ帯にもかかわらず、ひと車両当たりの乗客数は5〜6人程度。窓を背にした長椅子タイプのシートには空きが目立つ。

夕空に青信号がともり、2つ先の木津川駅(同市西成区)で下車する。手前の芦原町駅は、路面電車の電停のような2面2線の小さな無人駅だったが、ここは随分と趣が違う。

無人駅の割に広大な駅構内、貨物ヤードの跡。駅の西側を流れる木津川の貯木場に向け、和歌山・紀伊山地の材木を貨物列車が運んだ時代があった。

46年に貨物駅としての役割を終え、今や一日の利用客が100人を切ることも。さびれた駅舎の前にはコンビニはおろか、人の姿も見当たらない。レールを転用した柱には製造年号とみられる「1910」の数字が刻まれ、静かに名残を伝える。

大動脈の時代しのばせ

汐見橋線は明治33(1900)年、前身となる高野鉄道が、狭山方面に伸びていた路線を大阪都心方面に延伸させ、大小路駅(現堺東駅)−道頓堀駅(現汐見橋駅)間を開業させたことに始まる。

昭和5(1930)年に麓の極楽橋駅から高野山上までのケーブルカーが開業したことで、大阪との間が鉄道で結ばれた。ただ、大正13(1924)年には南海本線との間で連絡線が設けられ、高野線の難波乗り入れが始まっていた。

そして昭和45年、全ての電車が汐見橋駅−岸ノ里駅(岸里玉出駅の前身)間で折り返すようになり、60年には立体交差事業で高野線の線路が分断。汐見橋線は完全に枝線と化した。

高架化された汐見橋線の岸里玉出駅を出発し、カーブを曲がると単線から複線に変わる。所要時間は約10分の路線を30分間隔で電車が折り返すため、途中のすれ違いはほぼ起きない。オーバースペックとなった線路が、交通の大動脈だった頃をしのばせている。

https://news.livedoor.com/article/detail/20276036/
2021年5月29日 9時0分

産経新聞
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