「飛鳥の原に百済の花が咲きました」 兪弘濬 [著] ; 橋本繁訳

@ 渡来人の故郷、飛鳥

日本に住んだこともなく何の縁もない私が、日本で故郷のように感じる場所がある。
奈良県高市郡明日香村を中心とした地域、通称飛鳥である。日本という国号が初めて現れたのも飛鳥時代だった。

飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。
五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。
韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。

飛鳥政権を建設した主役は、百済系と推定される蘇我氏一族であった。
蘇我氏の権力は大変なもので、聖徳太子の母親も蘇我氏の血を引いており、推古女王の母親も蘇我氏だった。

飛鳥南側の山裾の、高松塚古墳が眺められる檜隈には、東漢氏と呼ばれる渡来人集団がいた。
彼らの子孫は絶えることなく「渡来人出身」として、僧侶、技術者、学者、官吏として活躍した。
特に、坂上氏は、東北地方の先住民である蝦夷の征伐に功績を立てた、奈良時代の代表的な武人家門になった。
今もこの村には、渡来人を祀った於美阿志神社が残っている。

日本には飛鳥という地名をもつ場所が四〇カ所もあるという。
古代の文献には、「安須可」「飛鳥」「明日香」「安宿」などさまざまに出てくるが、すべて「あすか」と発音する。
大阪河内の「近つ飛鳥」というところは、「安宿」と表記したという。「安らかに宿るところ」という意味である。
そうだとすると、朝鮮半島を遠く離れた厳しい旅の末に、ようやく平穏に留まれる場所を得たという意味ではないだろうか。

七一〇年、都を奈良に遷すとともに飛鳥の栄光は終わり、それから一三〇〇年過ぎた現在では、偉容を誇る寺院も、宮殿跡も、邸宅もない。
しかし、山裾のあちこちに、飛鳥時代の遺跡がひしめき合っている。それを半日かけて巡るのは、夢の旅路といえる。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。