元々二子玉川駅周辺自体が未開地 原野だから
むしろ、今東急 小田急から見てられていた宇名根と砧と鎌田の方が人が多く農民が多くいた。

発展に寄与したのは渋谷から二子玉川までの玉川電気鉄道の敷設(1907年)である。
鉄道開業までは亀屋という料理屋が一軒あるだけだったらしいが、開業後は十数軒に増えた。

1909年には、玉川電気鉄道は玉川村瀬田の地主から7000坪の土地を借り入れて遊園地を開業した(「玉川第一遊園地」という)。
この遊園地には、川沿いの田んぼを整備してつくった菖蒲園があり、小鳥、猿、鹿などの動物がいたらしい。
河原には兵庫島という小さな島が今もあるが、ここも散策路として整備された。
都会の仕事で疲れる中流階級たちが、自然の中でリラックスする場所だったのであろう。

 この遊園地は、経営を1913年から17年までは浅草の花屋敷の経営者である大瀧勝三郎に委ねた。
大滝は自然散策型だった遊園地をより娯楽的なものに変えていった。
清水の舞台を模した「玉川閣」など十数棟の建物(今風に言うとパビリオン)を建て、そこに演芸場もつくった。
それらの建物は1914年の東京大正博覧会で使用されたものを移築したものだ。
また玉川閣は、演芸のない日には料理屋から料理を取り寄せて貸席としても使われたという。

 1918年には二子玉川駅から遊園地までの道沿いに、桜の木が百数十本植えられた。
また児童用の遊具が設置され、グラウンドがつくられて青少年の運動会も行われるなど、遊園地全体が子ども向けに整備されていった。

そもそも二子の本家本元は、川崎の二子新地ですから!!!!!!!!!