【歴史】邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い 奴国の海人が暗躍 ★2 [樽悶★]
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富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。
■倭人の王の外交デビュー
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。
※省略
このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。
※省略
改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。
邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。
西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。
邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。
倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。
奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。
江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。
また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。
奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。
※省略
北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。
ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。
※省略
ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。(続きはソース)
関裕二(歴史作家)
7/31(土) 11:52配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210731-00010000-php_s-bus_all
★1:2021/08/02(月) 22:34:00.47
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1627911240/ 邪馬台国って、土人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者の扱い
その程度なのに、邪馬台国がどうとか
自慢して恥ずかしくないの? >>1
(歴史作家)w
小説としても現実と乖離し過ぎててつまらない そりゃあ邪馬台国からの使者は自分の国を売り込むために話を盛るだろうし、行ってきた魏の使者も自分たちが過剰接待を受けた見返りに「大国に行きました、遠くて大変でした」くらいの話は魏の他の役人は確認できるわけもないから盛るだろうし。 呉への牽制のために、邪馬台国の位置を下方にしたんじゃないの? 「隣国に攻撃されて負けそうだから援軍ください」と
言っている邪馬台国が日本列島の代表を偽るのは無理だな >>9
曹操の時代か、曹丕の時代か知らんがその魏のこと。
孔明と卑弥呼は同世代と覚えた記憶がある。 まあ北部九州やろ
巻向に負けて歴史から消えた
それでいいじゃんね 小説の宣伝をニュース記事風にするのはやめてもらえませんかね >>9
うん
曹操没(220年)後の少しあとの話(238年、247年) ジャップは息をするように嘘を吐くからな
昔からそうだったんだね 冊封どうこうは支那側が勝手に言ってるだけで
外交しようとしてきた相手全員を、勝手に臣下と見なしてるだけだからな
金印だの称号もそう
外交関係結ぼうとする時に貢物を持っていくなんて
どの国でもやることで
支那自身でなければ、特筆するべきことが無いのは確か たぶん、かなりしょぼかったんだと思う。古代エジプトとギリシャとかローマと
比べるのは禁句になってるこたからもわかる。
おそらくは、高床式の倉庫があればまだマシでそうでさえないDQNの川流れの
ウエーイ系の、全身入れ墨のヤカラのダンシング・クイーンが卑弥呼。
集落はせいぜい数百人。しかもそれはマツリのウエーイの夜に膨らませた人口。
言ったもん勝ちだから、魏志倭人伝の記録担当に伝わった頃には、とてつもねえ
話に盛られまくって、ギシシギアンアン想像しつつギシアンじんでん!女王様ぁ!あふぅ!
つってヲタの記録者がさらにまたかなり話を盛って、怒った上司に大部分カットされて
不完全な意味不明の情報不足のどうでもいい土人の世界扱いになったんでねえのかと。 ・ストローだった九州が呉からの輸入品をネコババして反乱(倭国大乱)
↓
・正統倭国は魏が帯方郡を支配下に置いたことを知り、密使を送って同盟を結び、魏は呉に、正統倭国は反乱倭国に対抗(呉から見たら反乱軍が奴国、正統倭国が狗奴国)
↓
・日本では魏から親魏倭王のお墨付きを貰った邪馬台国(呉からは狗奴国と呼ばれてた側)が勝利、中国では魏が呉に勝利
↓
めでたしめでたし 中国の歴史書に頼らないと自国の古代史も分からない。文明後進国の悲しさだな >>6
もう魏は滅びて西晋になってから書かれているから
魏の役人の顔を立ててあげる必要はないけどね 邪馬台国は奈良
奈良は元々狗奴国の版図だったんだが纏向遺跡を見ると東海勢を中心とした女王国勢に侵略され対狗奴国の前線基地且つ女王のいるところ、都になったんだろうな
これが邪馬台国でヤマト政権の始まり
当時生き残っていた狗奴国は河内と和泉だね
ヤマト政権の始まりは東征ではなく東海勢の西征ということ
記紀を作った天武朝は女王国に連なるもの
平安朝は狗奴国に連なるものなんじゃないか? すげーな日本
3世紀に朝鮮半島を行き来できる船があって
繁栄に影響を及ぼすほどの鉄を輸入出来たのか 関裕二
歴史評論家
武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー
千葉県柏市生まれ
仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている
民間の歴史研究家である
またその史観は、市井において賛否両論ある
作家さんです
歴史学者ではありません
ただの門外漢です >>29
朝鮮半島→対馬→壱岐→北九州
のルートなら丸木舟でも可能らしい 嘘つきじゃなくて、倭はどういう状況でも無関係で
楽浪帯方を落とした魏=帯方郡が、倭人国の勢力と同盟すれば
東夷安定が確定して、蜀への侵攻や呉へのけん制が成立する、
という
三国志での日本史はどうでも良い無責任な、
単なる魏王の地方の領主国家との同盟戦略自慢なんだけど?
まあ、この魏の台頭=公孫氏滅亡と韓への侵攻
で、卑弥呼の北部九州、日本海、瀬戸内海勢力は
対魏での防衛のための軍事連携が必要になって、古墳時代になった、
という 日本史の証明にはなるんだけど?
邪馬台国がヤマトだのどうたら って言うのは、
日本史でも、記紀に歴史の事実がちょっとくらいは書かれてると良いなあ?
って思ってる、日本人の自己中な読み方でしかない。 じぇんじぇん違うじゃん!
オットーに、👨🦲ギリシャ人坊主に、イラン人商人に、 中国の正史である「隋書」にはお馴染みの十七条の憲法と冠位十二階が出てくるが、それを定めたのは九州のアマノタラシヒコなる男王とある
文中に阿蘇山という固有名詞も出てくるので九州のあのへんに聖徳太子のモデルがいたことは間違いないだろうね 卑弥呼って、実在しなかったと考えると全てが腑に落ちるよね。
そもそも外国の使いが、邪馬台国とやらの内情を詳しく知れるということがおかしい。
その時点でホラ吹いてるだろ この時代にひろゆきとか
同じ顔の瀬戸大也とか
ガクトとか居たら
もう魏志倭人伝は
とんでもねえもんになって連載(連載もんじゃねえよ!)打ち切り 大化の改新前の方が栄えてたんだよな
テロリスト藤原鎌足が自分たちの都合の良いようにに書き変えてしまった 邪馬台国九州説って
これこれこういうわけで九州にあるというそこまではわかるけど
その後大和政権との折り合いってどうつけてんだっけ
神武東征はほぼ否定されてるし
九州勢と大和との戦争みたいなのもないし
いつの間にか衰退して吸収されたみたいな感じ? 小説をネタにスレ立てしてジャップ連呼して
何の病気だよ…(呆れ) そういう事か!
東漢氏ってなんで渡来人なのに、
倭漢氏って呼ばれるのかと思いきや…
日本人とちょっと違うのか。倭人って。 >>9
三国志に卑弥呼が出てくるのは、
諸葛亮が死んだ後の日本人に馴染みの薄い三国志末期の時代 >>40
神功皇后が熊本征伐の途中に征伐した
山門の土蜘蛛が卑弥呼の100年後の邪馬台国 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3〜5世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?) おそらく奈良を中心とした出雲・北陸・東海・吉備等の連合政権、北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜南東北を平定 雄略天皇=ワカタケル大王
4〜8世紀 熊本の球磨川流域と宮崎の一ツ瀬川流域以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれたし
後に東征することも可能になった
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった 中国が三国志のように各地に都を構え繁栄してたころ、
日本はまだ卑弥呼さまーってやってたと思うと
中国の歴史は凄いよな 邪馬台国は埼玉県だからな。
埼玉人は出世のためならどんな嘘でもつく。 ワロタ〜。日本人はこんな昔からずっと嘘つきだったのね。 天皇創始じゃないと都合悪いんだろ
こういう輩にとっては 当時の中国で卑を「ひ」と読んでたんだろうか
実は「ひみこ」とは全然違う呼ばれ方してたかもしれないよね 岡田英弘 位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける >>44
いやそれは間違い
その時代はまだ九州倭国がバリバリに健在の時期
実際は卑弥呼の末裔を詐称した田油津媛を九州倭国が成敗し
その事績を近畿日本が詐称したと言うのが事実
神功皇后の事績はほとんどがウソ >>61
卑弥呼の末裔が神功皇后の一族で、
田油津媛がそれに楯突いたなら
皇室の正当性確保が最優先の記紀は
必ず言及しそうだけど 全て魏志倭人伝にちゃんと書いてある。
邪馬台は、倭国大乱で負けて、列島での覇権放棄の証に
女王=剣を持たぬ王・祈るだけの王(卑彌呼)を即位させた。
それが証拠に、卑弥呼の死後、邪馬台の覇権復興を掛けて
男王が立つも、また戦に負け、また女王(臺與)に戻した。
邪馬台には二度と覇権は戻らなかった。
どこが列島の新覇権国か?
魏にその正体を隠しつつ、邪馬台の博多港を完全に押さえてる
謎の勢力「大倭」だわ。
倭国(列島)の大半を手中に収めたので「大倭」と名乗ったな。
これ、その後の時間軸を考えると、畿内勢力だわな。 >>63
いまの日本語に「ぴ」はないから
当時のやまとことばにもなかった、でいいと思う どこから、コーカソイドの血入ったんだろう…
🇯🇵ひのもと人って 宋書478年、倭王武(雄略天皇)の上表文。
「邪馬台国?卑弥呼?そんな奴は知らん。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。海を渡りて海北を平らぐること九十五国。我は大倭の王である。」 >>64
いやそれは間違い
その時代はまだ九州倭国がバリバリに健在の時期
実際は卑弥呼の末裔を詐称した田油津媛を九州倭国が成敗し
その事績を近畿日本が詐称したと言うのが事実
神功皇后の事績はほとんどがウソ >>29
というか後漢書も魏志倭人伝も明確に韓の東西は海で南は倭に接すると陸続きである描写がある
倭人はかなり古い時代から海を渡って行き来しながら鉄資源確保の為に朝鮮半島に進出しているよ >>73
それは九州倭国の王
雄略天皇などでは無い っていうか、塩湖だったんでしょ?
いつ、淡水湖になったの? >>63
卑弥呼はピミヲだよ
ヲはスサノヲのヲと同じ「王(ワウ)」の借用語
「呼」は万葉仮名でも「ヲ」 この手の話って、あらかじめそいつの中でストーリーがあってそれに対する証拠を集めていくような話ばかりだよな。
このスレにもいるけど実に胡散臭いわ とりあえず古墳と天皇家は無関係な
反論する奴は江戸時代以前の歴代天皇の墓を見て回れ >>82
それが畿内説です
結果ありきで印象操作し、思想誘導する手法はまさに反日民族の手法と同類です >>67
ん? 今の日本の「ひ」が、昔は「ぴ」と発音されてたって
話じゃなかったけ? >>29
まぁその頃の中国はもうあの三国志の後の事でローマでは帝国が栄え
日本って本当に後進国だったんですけどね
ここからやっと前方後円墳だーとかエジプトでは数千年前に終わった巨大古墳作りだすし 中国からの使者も、めんどくせぇ出張みたいなもんだからな
ダルいから大して調べずにテキトーに報告書書いて帰ってるわ >>81
同じ作家でも推理小説家の高木彬光の書いた「邪馬台国の秘密」
「古代天皇の秘密」は論理的で面白いぞ。まあ頭から鵜呑みに
するのも変だけど。 >>67
逆。昔は、ハ行は無かった。最初はパ行だ。
その内、ファ行が派生した。室町以前だ。
「ニッポン」、「ニフォン」
江戸時代に入って、ファ行がハ行に変化。
「ニッポン」、「ニホン」
卑彌呼当時の発音は、ピミク、今の発音ではヒメコ。 >>26
外周の外側に脅威を置いておくことで外周の反乱を防ぐ役目もあるでな >>26
その「魏の役人」の親玉って司馬懿っていうと思うんだけど
遼東征伐後に接触したと考えると。
それでも顔立てる必要ない?
毌丘倹の可能性もあるか。こっちなら逆方向に配慮がいるな
まぁ一番大きいのは司馬昭が急死して司馬炎の権威付けのため急遽禅譲が行われた
そのタイミングで使者がたまたま来てたんで盛るのに都合がよかっただけな気がする。 >>90
道も整備してないジャングルみたいな所を進んで
いかなきゃいけないし、大変だよな。 >>1
奴国なんて名前じゃない
日本人を倭奴と言ってただけじゃ?
倭の奴の國じゃなく倭奴の国って言ってんだよ、当時の中国の人は。。 57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
なのに九州の上陸地点が
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
なんてわけが無い
九州説者ですらそう考えていて、必死に飛んでも理論を展開する
この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていた
奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもった
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかった。
奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していたから、
魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあった 邪馬台国に卑弥呼 字面から完全に馬鹿にしてますよね。でも日本海を渡る船を作る造船技術と航海術そして漢字で文字文章を記せたんでしょう。文明国ですね。 >>100
金印が出てて
「漢委奴国王」は、漢の倭の奴の国王と読むのが定説 >>40
色々仮定はあるけど大和政権が中国との交易権を得る為自分らは邪馬台国の人間です、と嘘をついたって話が今のところしっくりくる 57年に漢委奴国王になった九州には
対馬ー壱岐の島伝いに、渡来人がたくさん来ていた
107年には、生口160人を連れて、対馬ー壱岐の島伝いに朝鮮に渡り、安帝に謁見した
壱岐島と九州本土は、200年以上に渡り、渡来人も倭人も、頻繁に行き来していた
なのに九州の上陸地点が
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
なんてわけが無い
そもそもだ
奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していたから、
魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあった
というならば
対馬から壱与、壱与から末盧国で、見つかってしまうだろーー >>102
それも勘ぐりすぎだな
イト国には、伊都といういい字を当ててる >>100
倭奴なんて呼び方どこに出てくるんだよ
倭人とか倭種とか倭国だろ
奴国というのは、魏志倭人伝に2万戸大都市として出てくるから目立つ
遺跡でもその時代にはありえない巨大道路が整備されているので
漢の金印も奴国の王というのが正しい >>100
奴国(ぬこく)な。魏志倭人伝に○○奴国が一杯出て来る。
奴は、鬼怒川の怒(ぬ)と同じ。
鬼怒=き(毛)ぬ(野)=実り豊かな穀倉地帯
奴国=ぬ(奴)国=穀倉地帯の(=豊かな)国 >>80
違う
ピミコでよい
翰苑では卑弥娥となっている
か行音でよい >>102
全然間違い
邪馬臺の臺は皇帝の居る場所と言う意味がある
むしろ最高度の尊称 邪馬台国は日本ではないよ
太平洋上に存在したムー大陸で、その女王、ラ・ムーの別名が比美子
海竜マンタが守護する国家 ほんと歴史学って学問としてアレだよな。
なんの証拠もなく妄想を語り合ってるだけ。
誰の妄想が一番理にかなってそう、かってことを競う感じ。 >>40
垂仁生目の子供景行が崇神系統の姫、
播磨稲日大郎姫と婚姻して
垂仁と景行が崇神朝の後継者になったが、
景行天皇は倭健命が嫌いで、
母方の丹波氏に養子に出してしまって、
皇太子に美濃の豪族の娘との子供
成務天皇を選んだところ、
各地で反乱が起こり、
結局吉備の豪族と丹波氏の支援を受けた
倭健命が制圧に赴いて、
日本を再び平定し、
最終的に丹波氏が天皇家の外戚となって、
倭健命系の天皇家の朝廷が、
日本に誕生した。 その時代は一般人も大勢交流してるんだよな
言葉も通じたらしいしな
それで大陸から来た人が帰らずに残って倭人が増えて大きくなったんだよ 末盧国に上陸して地形調査してたんだよ
又は伊都国奴国の場所が違う >>103
その定説がおかしんじゃねえの?
どうしても日本が蔑称で呼ばれてたの認めたくないみたいな >>113
それは畿内説だけだよ
普通は、史書と遺跡を照合して妥当な結論を導こうとしてる >>117
蔑称というなら、そもそも東夷が蔑称だろ
いちいち地名までひがむことはない
伊都国の例もあるしな 魏略にはこうある
東南五百里到伊都国戸万余
伊都国には万余戸ある
魏志の
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸
千余戸とはえれーちがいである
もしかしたら対馬国や一支国や末盧国や伊都国や奴国の描写も
いろんな時代のあちらこちらの情報を切り貼りしてきて水増ししてる可能性がある >>113
>なんの証拠もなく妄想を語り合ってるだけ。
トンデモだから、当たり前。
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >>118
>普通は、史書と遺跡を照合して妥当な結論を導こうとしてる
よって、「阿波」一択。 @阿波 >>103
つ
>一般に、三宅米吉説に従って「漢の委わの奴なの国王」と訓んでいるが、依然、異説が唱えられ、決定打ではない。 >>117
そうなんだよ
金印という重要なものに誤字なんか許されるはずがない
漢が委ねる奴国の王と普通に読めるのに
倭の奴の国王とか文脈も意味も全然おかしい
委ねるというのは、漢が一方的に認めるということだけでなく、半島周辺国が反乱を起こさないよう見張る役割もあったのだろう
漢にとっても心強い友好国として手厚い待遇だということがわかる。 多婆那国が但馬か丹波でしょ。
倭国の東北一千里だから奈良大和はまったく倭国と関係ない位置だよね。 >>43
劉備玄徳が卑弥呼の恋人とかいうの読んだ気がするんたが。 >>113
当時の人間も妄想で語ってるからな
地球は平面、太陽は10個あった
日食は太陽の死を意味する、など
逆に今の感覚や常識で考えては行けないのだよ >>124
魏志倭人伝には、そのまんま奴国と出てくる
倭奴国ではなくてね >>111
いるんだよな
当時のシナ人が、まるでメルカトル図法の世界地図を持ってたかのように錯覚する人 >>113
理に叶ってたら妄想じゃないだろ
この妄想猿w >>120
単に魏志倭人伝が正しくて翰苑が間違ってるだけ >>124
漢の倭の奴の国王でよい
博多の那国のこと >>125
漢の倭の奴の国王と普通に読める
はい、論破w 2万戸も居る直ぐ傍にたった千戸の別の国があるのも変
2万戸はかなりデカい領土だぞ 魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
もうこれで、論争はいらないんだよ。
邪馬台国はどう考えても九州。 >>125
いや、漢代の別の国に送った印鑑もヘンを省略することは普通に行われていた 中国の印に詳しい中国史学者は
金印は倭奴国で倭国と同義(匈奴とかと同じで貶めるため)
だと書いてたな
漢の倭の奴国って表現がそもそも他にない いい加減やっと伸びなくなってきたな
文献史学でいえば北九州。
ヤマト朝廷が捏造したのが近畿説
これで終わり。
新井白石と本居宣長の論争でも九州で決着ついてるし、
新井白石が山門郡に言及してる以上、
そこで終わる
あとから神功皇后にゆかりがあるから山門神社作ったとかいう説の方がおかしい
山門神社の由来は神功の広開土王碑よりも前。
マジでワカタケル、雄略までは偽史の恐れがある >>139
ニンベンがないけどな
鮪と有はおなじものか? >>118
史書と遺跡を照合っても、やはり理学系の学問と違って仮定や仮説(妄想ともいうい)が入り込む余地が大杉。
再現実験もできんし。特にブツが殆ど残ってないこの辺りの事を語るのはやってる方も空しくなりそう。 >>110
『北史』居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
『隋書』都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
全てに共通するのはヤマタイの音だけ >>146
いや、漢代の別の国に送った印鑑もヘンを省略することは普通に行われていた
卑字の考えは誤り。
一番分かり易いのが邪馬臺や臺與の臺。
これは皇帝が居る場所と言う意味があり、卑字などでは到底無い。
中国には外国の地名や人物名に中国の漢字を当てるときに使う辞書のようなものがあり
それを使って漢字を当てただけ。
日本語のピの音を中国人が聞いた時に、その辞書を見たら項の最初に卑の字があった、それだけのこと。
言い換えると中国人がピの音を聞いたとき卑の字を一番思い浮かべ易かったと言うだけ。
むろん外国人の国名なのだから配慮を余りせずにややぞんざいに扱ったと言う面はあるのかも知れないが
ことさら選んで卑字を使ったと言う考えは明らかに誤り。
例えばアジアは亜洲と言うが亜は「足らない」と言う意味。(悪とは「心が足らない」と言う意味。)
何か、中国人は自分に卑字を使ったわけか?w
大体、自ら記紀に伊邪那岐だの伊邪那美だの書いてるくせに何を言うかって話しでもあるし、
卑弥呼の墓の祇園山古墳をあんな扱いしておいて、
崇神の墓である箸墓をモモソがどうの卑弥呼がどうの散々不敬な言動とっておいて
何をほざくかって話しでもある。
>>148
ヤマトだな
山門のこと
古代日本語に連母音は無いから
yamataiだのyamaiだのどれも間違い
大体、臺與はタイヨなのかアホンダラw 2世紀の九州北部は伊都国が中心の連合国家で
奴国は伊都国の直轄地で一般人が住むところ
伊都国は王族とそれに使えた人が住むところ
佐賀の七が瀬遺跡の王と久留米の祇園山遺跡の王が
伊都国の王を支えた
この体制はヤマト王権で豪族が天皇を支えたやり方と同じ >>113
宇宙論みたいなもんで、言ったもん勝ちな時代があった
あるものは史跡が九州にないから近畿であるといい、
ゼンゼン違う人物の墓をあとから卑弥呼の墓ってことにして
なんとか金を集めてみたり。
あるものは史書からもっとも可能性が高いのは北九州であると言ったが、
「日本書紀を嘘だというのか!」と学会を終われ、
のちに吉野ヶ里が見つかったことで信憑性が高くなり。
あるものは近畿へ移動した、あるものはニ王朝が存在した、
阿波ものは四国だってずっと吠えてる。
そして真実はムー大陸だった >>113
まあ少なくとも論文とか研究所読んで言ってくれよ >>148
勝手に日本読みしてはいけない。
邪摩堆→シェイモードゥイ
邪靡堆→シェイミードゥイ >>149
> 次の“委奴”は『後漢書』の記述と一致することから「倭奴」の略字と理解できますが、その解釈は分かれています。
外臣に下賜(かし)する印には王朝名の次に民族名、
そして部族名がくるので、「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」と考え、
「漢委奴国王」を「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」とする読みかたが今日の代表的な解釈です。
ということなんで、諸説ある段階
委奴だと倭人がニンベンで人間扱いwwwとかいうドヤができない
そもそもなんで「委」なのかってお話。
これだと我々の意味でワとは言えない
長江南部にいるのが倭人だしな >>155
日本国内なので日本語で読みます。
がんばってエカテリーナのことをキャサリンと呼んでてください
その段階でお前がこのスレに存在する価値がない
帰れ、中国へ
>>151
イヨの書いてある文献に邪馬壹国と書いてあるんだから仕方ないね
誤記ならイヨだが、トヨを否定できないから、
邪馬臺国はヤマイチの可能性も微レ存
ところが、当時の魏書から引いたと思われる、
隋書や北史は邪馬臺なんだからヤマイチは破綻したんだよ ヤマト王権のルーツは九州北部にあったってことね
伊都国の王は2世紀後半に崩御して40枚の銅鏡とともに
平原1号墳に眠るピアスをした女性と思われる巫女
卑弥呼が未婚であったがこの巫女も高確率で未婚と思われるので
母や祖母ではない
平原遺跡に眠るのは未婚の女王であり卑弥呼のおばか姉
伊都国の次の王は畿内遷都して2世紀末には滋賀県伊勢遺跡に住み
3世紀はじめには桜井市纏向に住んだ卑弥呼 日本人は、勝手に漢字を「ヤマト」とか「ヤマタイ」に近づけてはいけない。
これは、九州派、畿内派、両派に対する警告だ。
ヤマトと読ませるには、「耶馬都」や「琊馬都」にしなければいけない。 >>143
魏志倭人伝に、ずばり倭人の国である奴国と書いてる >>113
当時の人間もハンガリー語で語ってるからな 卑弥呼ってそれに該当するようなのが古事記とか日本書紀にないってのはどうなんだろうな。
出雲だとか隼人とか中央政権とは違うグループの記述があるんだから邪馬台国とか卑弥呼を指す呼び名なりがあってもおかしくないのにない。 >>158
中国人が聞き取って書いた漢字だ。
何で勝手に日本読みするんだ?
鉄木人→テムジンとそのまま読む
成吉思汗→チョンギスハンとほぼそのまま読む
日本国→ジーベングゥオと読み、それをマルコポーロがジパングと書いた。 >>159
護衛が居たはずなのにその形跡も無いんでしょ >>165
日本の歴史でおぼろげに記憶があるのが4世紀末の神宮、応神以降だから
さらに100年以上さかのぼる時代はもう記憶にございません状態だったんだろ >>160
いや、現在の音読みに近いという根拠はちゃんとある
なぜなら、邪馬台国の時代からほんの2、3百年ののち日本人も漢字を使い始めるが、当初は万葉仮名のように音だけを使ってた
それが、今に伝わる音読みだ
マツロ(松浦)、イト国(糸島)の例もある >>2
中国の歴史書だからな
漢字で書かなければいいのに歴史教育者の連中は中国にへりくだりたくてしかたがない >>160
中国人にどう聞こえたかだから
ヤマトゥィ >>163
Wikipediaより
その金印には「漢委奴國王」(かんのわのなのこくおう)と刻まれていた。刻まれている字は「委」であり、「倭」ではないが、
委は倭の人偏を省略することがあり、この場合は「委=倭」である。このように偏や旁を省略することを減筆という >>172
邪は、ヤと発音しない。
シェイだけである。
中国漢字は、日本漢字のように読みが複数あるのは例外中の例外で、それはシェイとしか発音しない >>159
なんでも卑弥呼に結びつけるんじゃない
全日本的に見て巫女なんて珍しくもなく、
チェジュではウタ、琉球ではノロ、
恐山ではイタコ、
明治の巫女禁断令出るまでは日本中に歩き巫女がいた
仮に神政一致の部族の長だとしても、
40枚じゃ少なすぎるし、
大型内行花文鏡は魏の時代としては古すぎる
逆にこれ、そもそも邪馬臺国で魏から下賜された鏡の前から、
副葬品に鏡使われてた証拠でしかない
佐賀有力説の俺でもこれが卑弥呼だとは思わない >>169
記録はないが記憶はあるぞ、この時代は口伝が強いから全くないわけではないはず。 >>173
だからそこには減筆されている根拠とか理由が一切ないでしょ?
何が根拠となって省略されているという話なのか聞いているんだよ >>179
つまり、当時の日本人は邪馬台国のことを、シェイミードゥイと言ってたわけか。
笑えるな >>140
二万戸の奴国は春日市を中心にした平野部で千戸の宇美国は奴国と山を隔てて
宇美町として存在している狭い地域なので当時なら千戸でも多すぎるくらい
地理が全く判っていないようなので倭人伝論争には首を突っ込まん方が良い >>176
広東語とか上海語とか客家語とか北京語とか潮州語とかで発音が全然違ってたりするんだけど 奴国の海人族とは志賀島を本拠地にした安曇族と博多区住吉を本拠地にした
住吉族の事で安曇族は綿津見三~を信奉し、住吉族は住吉三~を信奉した
祭神が三~と言う事は中華思想が入っていると言う事になる >>183
不弥国は千戸じゃなくて千家なんだぜー
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
なんでここだけ戸じゃなくて「家」なのかは分からん
例によってあちこちの資料から情報を切り貼りして水増ししてるのかもしれない 七ヶ瀬遺跡から墓群 弥生後期の251基 佐賀
https://www.yomiuri.co.jp/local/saga/news/20210709-OYTNT50094/
https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/07/20210709-OYTNI50025-1.jpg
ここまででかい大刀と2個の鉄斧
平原遺跡のピアスの巫女とは対照的に戦いの男王を想像させる
祇園山遺跡にも中央に立派な石棺が残っており
七ヶ瀬遺跡と二人の王で熊本の狗奴国の攻めから伊都国を守る
防衛ラインを構築していた戦う国だったんじゃないか
伊都国の王は戦わない トップだから
同様に天皇も戦わない 一部例外はあるが 戦うのは下っ端
>>167 護衛はいた ただ軍隊はいなかった
それは伊都国や伊勢遺跡や纏向遺跡も同様
女王や天皇がいる都に軍が置かれることはないよ
この基本姿勢は応仁の乱まで保たれたと思うよ
>>177 状況証拠を並べただけではあるが
名前を挙げた遺跡の詳細を調べれば否定できないと思うぞ
各遺跡の物証でも時系列的にも理屈の上ではおれはおかしなことは書いてない
可能性として考えられることだし
否定する証拠はでてこないと思うぞ >>186
そもそも二万戸が食っていける稲作できる土地が
筑紫地域に当時なかったそうだよ >>190
魏志倭人伝に護衛居るって書いてあんじゃん >>191
想定してる領土が小さすぎるのよ
7万戸なんて広大な領土だったはず https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=Honnan%20j%C3%B6tt%C3%A9l%3F&op=translate
🇭🇺👱「ほんなん、ゆうてる?(Honnan jottel?)」
(Where are you from?)
🇯🇵👱♂「🤣(…あかん、わろてまうw)」 >>185
その時代の人間にどう聞こえたか
邪馬台国とそれほど変わらない時代に輸入した漢字の、いわゆる音読みが証明している 距離が大きく盛ってあるのだから戸数も同じように盛ってあっても不思議はない >>185
全然違うというのは考えられない。
魏志に「伊都」と「好古都」が出てくる。
伊都は、そのまま「イート」、好古都は、「ハゥクゥト」と発音する。
ハカタである。
もし、ヤマトならその都をそのまま使って、耶馬都と書けばいい。
しかし、魏志には邪馬壱としか書いてない。
邪馬壱はミスだとしても、邪馬臺だ。 >>196
距離盛ってないじん
5百里とか百里とか書いてあるけどそんな狭い所に2万戸って 青色を、
🔵水色に言ってみたり、🌲山の色に言ってみたり >>198
台の旧字だと、つくりは豆
豆腐、登山
都がツに近いトだとすれば、台はトゥ 狗古智卑狗を現代中国語読みしても、
コゥクチピィーコで、菊池彦で間違いないと思われる。 まあ狗奴国と書かれた国の方が大国であったろうし
邪馬台国とはそれに統合されまいと頑張った弱小部族連合だったのだろうとは思う
でもって男の王が立とうとしたら足を引っ張り合って統合できずに分裂して終わった国なのだろう 中国人は、決してテキトーに音を聴いてない。
例えば、琉球にまだ史書がない時代の山北王・羽地(はねじ)を「怕尼芝」と書いている。
これを翻訳にかけると、そのまんま「はねじ」である。 不思議なのは隋書でも
倭の王の名は多利思比孤となっていること
この時代は推古天皇と聖徳太子の時代だから邪馬台国の時のように文字を使っていなかったはずがないのに
なぜ日本の史書に出てこない名前の王が倭国の王となって記述されているのか?
中国人が耳で聞いた音を当て字にするのは日本側に漢字がない時代だけのことだろ?
なのに多利思比孤って誰だよ?
もしかしてこの時代でも倭国と日本は別の勢力として以前別れて存在していて
九州には畿内のヤマト王権とは別の勢力外て、その地の王が多利思比孤だった可能性ってあるかもしれないよな 沖縄人のことを最初に「おきなわ」と書いたのは、薩摩である。
沖縄人は昔から今までずっと、「ウチナー」と言っている。
鑑真の東大話上東征伝では、沖縄のことを「倭急拿」と書いていて、現代中国語読みでも、「ウォジナー」で薩摩人のテキトー「おきなわ」より、はるかに近い音で聴いている。 日本人て聞き取り能力ないよな
Englishがイギリスになったり >>185
死んだ親父は満洲帝國生まれで大東亜戦争が終わり蒋介石アメリカから追い出されるまでいたからやや中国語なまりだった。
餓鬼の頃それをばかにしていたものだったが、こんないい先生が身近にいたんだからこの人から真面目にシナ語を教わってればよかったと後悔してる
中国語
教わりたいときには
親は無し 飛鳥宮内部には軍隊は配置されてない
軍隊がいたのはすこし離れたところで有事があればすぐ駆けつけられる位置
日本史習ってたら天皇が直接戦うことがマレだったと知ってるはずだぞ
跡取り争いで戦った大海人皇子はいたけどこのときは皇子だし
後方から指示を出した天皇がほとんどじゃないか
神功皇后は実在しなかったとして景行の九州巡幸
斉明天皇が百済を助けようと筑紫の朝倉宮に入るが崩御
桓武、平城嵯峨、後白河、後醍醐
明治大正昭和天皇は統帥権はあるけど現地で戦ったりしない
武士のトップの中には前に出る人もいたけど 謙信
基本的には大将は一番安全なところ >>207
Wikiによると、
>漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる。
>『古事記』ではこの天皇までを記している[3]。
>『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、
>小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。
>分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、
>後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮は奈良県高市郡。
淡海三船は722年〜785年の人、8世紀後半までは、漢風の名前はなかったのだろう >>103
イヌでもあろうけど同時にアラユダヤッ国王な可能性が >>209
シナは邪馬台国のように当て字しただけだが、日本はウチナーの意味まで含めて翻訳したからな >>210
オランダ語らしいぞ
google翻訳に Engelsch を入力してオランダ語で発音聞いてみるとあら不思議 魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
もうこれが全て。邪馬台国はどう考えても九州。 >>215
推古天皇というのは後世に作られた名だとしても
豊御食炊屋比売と多利思比孤ではかなり違う名前だけれど
本当に推古天皇のことを多利思比孤と記述したのかなあ?
使っている字も全然違うし、発音も似ても似つかないよね 各説のワクチン接種状況
畿内説:接種券が貰えない訳あり民なので大規模接種予約奮闘中
九州説:殆が職域接種で2回接種完了 >富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。
>邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。
>邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。
この説だと、邪馬台国と大和朝廷は別勢力として考えているのだな
それは別にいいのだが、地名が西から東へと移った形跡はどう説明するのか?
北九州の山門が畿内の大和となったのが、神武東征の元ネタでは?
逆に、邪馬台国が畿内に進出し大和朝廷になったとすれば、古事記や日本書紀に記述が無いのは不自然
神功皇后が山門の田油津媛を討ち取った話はどう説明する?
曹操と同じ鉄鏡の発見から邪馬台国は九州に存在したと思うが、邪馬台国と大和朝廷が別勢力か、邪馬台国の後継国家が大和朝廷かは永遠に謎
親魏倭王の金印が発見されれば、違う角度でものが見れると思う >>219
これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
この文見覚えあるな >>224
ずばり魏志倭人伝。
魏志倭人伝は、それ以前に書かれた『魏略』と『広志』からつまみ食い的にパクって、さらに他の文献や口伝などから得た知識を付け足しただけ。 >>219
邪馬嘉国←これは、「ヤマト」と呼称するのだろうか?
邪馬まではどの文献も同じだが、その次の漢字がバラバラなのがな… 266年ごろに書かれた郭義恭の『広志』(本当は旧字体で廣志)の記載は、
【到伊都國又南至邪馬嘉國】
また、南して邪馬嘉国に至る
WまたW、南して邪馬嘉国に至る
と、伊都国からちゃーんと連続して、また南に行ったら邪馬嘉国に至ると書いている。
これは、魏志倭人伝の、「南投馬国」とは違う。
投馬国は、急に出てきて、「また」とは書いてない。
つまり、投馬国は陳寿が勝手に付け足したか、陳寿より後の誰かが付け足した。 >>229
勝手に「ヤマト」に近づけてはいけない。
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
★琊馬都(ヤマトー)←この漢字にすると、現代中国語発音でも、ヤマトそのままになる。 諸兄に一応知らせておく。
卑弥呼の時代といえば、弥生時代で文字の記録もなにも残らない
超古代とか思っている輩も多いとは思うが、同時代の著名人を並べると
倭国:卑弥呼
魏:主 曹操、軍師 荀ケ、司馬懿 将 夏候兄弟、張遼
蜀:主 劉備、軍師 孔明、法正 将 関羽、張飛、超雲
呉:主 孫権、軍師 魯粛、陸遜 将 周瑜、呂蒙
など。
倭国のこの面々に勝てるか?卑弥呼は鬼道を使えたという
simしてみよう。
卑弥呼「くらえ我が鬼道 ハァッ!!」
孔明「いまです!関羽、張飛、超雲!」
賢明なる諸兄なら、どちらが勝ったか
おわかりいただけただろうと思う。 伝ってつくものは、あくまでも伝だものね。
伝言ゲームみたいに途中で別の何かに変わるんだわ。 つまり、唐(618年〜907年)の李賢は、不思議に思った。
「あれ?なんか、発音が違うな〜。もしかしてこうかな?」
そして、こういう注釈をつけたのである。
↓
「今、その名前を案ずるに、邪馬臺(シェイマータイ)というのは邪摩惟(シェイモウウェイ)のなまりである!」
これは笑える。
つまり、「ヤマタイ」「ヤマト」なる国に、卑弥呼はいなかったのである。
もっと別の何かの名前の国にいたのである。 >>137
>お前はNGなw
お前だけ、そうしとけ。 あほんだら! @阿波 >>236
あと飛鳥時代でも
まだ大和王権は九州を併合していなくて
九州には依然として倭国が健在で
倭国王が多利思比孤という説はどう思う?
すでに文字を使っていた飛鳥時代の天皇の名を
多利思比孤なんて、日本人には聞いたこともない名前で隋書では書かれているんだぞ
絶対に天皇のことじゃないよね、この倭国王って >>141
>邪馬台国はどう考えても九州。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>233
>>236
まさにそれ
邪馬台という名称自体が存在しない可能性が高いのに、それを無視して論争を続ける人々のアホらしさ とある説がある。
今の中国語の漢字読みの発音は
時代が遡るとかなり違うという説がある。
それは異民族の度重なる侵入であらゆる単語発音が
導入されたためとある。
幸い日本はカナのおかげでかなりの発音が
そのまま残っているという。
大和政権時代からの漢字の音読みこそ
どうやら、当時の漢字よみとの説もある。
なぜなら?
尊敬する中国の学問の字をそのまま日本語発音に
できるわけがない。そのままの発音を残しただけ つーか!
🇯🇵ひのもと人も知らない、
倭人の
大夫←官位?難斗米(なしめ?)
大夫←官位?伊声者掖耶(いせいじゃわきや?)
については議論しないのか?
どっちが改竄したの? >>241
いや、肝心の日本語の発音がスゴイ変わっているからw >>244
それでも中国に比じゃないともいう
まだまし。 そんな大嘘が通るほど無知じゃないだろ当時の人間と魏をバカにし過ぎw
漢代から倭人と交流あるから基本事項と情勢は、それなりに把握していたと思われる。 >>249
>漢代から倭人と交流あるから基本事項と情勢は、それなりに把握していたと思われる。
その通り!
倭国(阿波)は、しょっちゅう朝鮮半島まで鉄材料を取りに行ってたからな。 @阿波 >>248
その人の現代口語も平均から外れてる気がするんで眉唾に感じるw ミトコンドリア脳筋症とかの原因になる、ミトコンドリアDNA って、母系遺伝、母親からしか遺伝しない。
脳や筋肉とかの出来は、主に母親で決まるんだろう。 この妄想作家の本昔から本屋に堂々と目立つところに置いてあって自称歴史好きが買ってるみたいなんだよな
売上そこそこあるんだろうか
こういうのはまる人陰謀論や都市伝説好きそう >>248
イントネーションを中国っぽくしてる。
和歌の世界はイントネーションをそのまま残しているという。
非常に挑戦的な動画だとは思うが面白い。 >>158
こらこらバカww
>>148
ヤマトだな
山門のこと
古代日本語に連母音は無いから
yamataiだのyamaiだのどれも間違い
大体、臺與はタイヨなのかアホンダラw
>>1
スレタイからして電波の九州説だろうなと思ったらやっぱりか
もう発掘調査の結果は誤魔化せないのでどうにかこじつけるしかなくなっている あと諸兄に知らせておくことがある。
天皇家の儀式に使われる言葉と発音。
あれ、1000年程度はそのままで
伝えられてる。以上。 >>257
>ヤマトだな
倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「認められた」ところ。
その心は、「阿波」が嘗ての「倭の地」だったから。 @阿波 『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝に分かれている。
別々の項目にしている。
やはり別々にしたのは、卑弥呼の倭国と、今、唐王朝政府が関わっているヤマト政権とは「なんか違うなー。倭国とヤマトって同じなのか?」とおもったかだろう。
ちなみに、旧唐書倭国伝の書き出しはこうである。
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。」
西暦57年、光武帝は委奴(倭奴のことで、ヘンを省略することを減筆といい、他の国にもヘンを省略した印鑑をあげていた)
さて、漢委奴国王の印綬が福岡県から発見されている。もう分かりましたね?
邪馬台国は九州以外あり得ないのである。 >>257
上代特殊仮名遣いからして無理。
甲類と乙類でトが違う。 古代ヤマトではカモメが飛んでいたそうです。
■万葉集における「ヤマト」と読む当て字は多種有り
『倭』 19首(1)
『山跡』 18首
『日本』 14首
『夜麻登』 5首
『八間跡』 1首(1)
『也麻等』 1首
『夜萬等』 1首
『夜未等』 1首
例)
大倭には 群山あれど、
とりよろふ 天の香具山。
登り立ち 国見をすれば、
国原は 煙立ち立つ。
海原は 鴎(カモメ)立ち立つ。
可怜し国ぞ。
あきづしま大倭の国は。 書き直し
『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝に分かれている。
別々の項目にしている。
やはり別々にしたのは、卑弥呼の倭国と、今、唐王朝政府が関わっているヤマト政権とは「なんか違うなー。倭国とヤマトって同じなのか?」とおもったかだろう。
ちなみに、旧唐書倭国伝の書き出しはこうである。
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。」
西暦57年、光武帝は委奴(倭奴のことで、ヘンを省略することを減筆といい、他の国にもヘンを省略した印鑑をあげていた)に対し、漢委奴国王の印綬を与えた。
さて、漢委奴国王の印綬が福岡県から発見されている。もう分かりましたね?
邪馬台国は九州以外あり得ないのである。 >>259
たぶん、そう発音したんだろうなあ
隋書東夷伝倭国伝より
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
開皇二十年に、大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。 >>260
>天皇家の儀式に使われる言葉と発音。
言葉と発音などいくらこねくり回しても無駄。
天皇家の最重要儀式 「践祚大嘗祭」で必須品「麁服」にこそ意味がある。 @阿波 >>268
ちゃーんと読んでもらいたい。
旧唐書はこう言っている。
「倭国はいにしえの倭奴国(わどこく)のことである」
奴国(なこく)ではない。 倭国の首都が邪馬台国なの?
初めてしったんだが。邪馬台国自体が国じゃないの? >>267
でも彦の付く名前って九州に限ったもんじゃ無いし無関係なのかね
無関係な東北なんてアテルイとか訳わかんない名前付けてる訳で >>272
いや、九州って書いたのは倭国王って書かれているから
しかも天皇とは思えない名が倭国王として書かれているなら
この時代、もしかして九州ではまだ倭国が健在なのか?という疑問が生まれるってこと >>262
>『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝に分かれている。
教えてやろう。
倭国伝は、遷都まえの倭国(阿波)の伝。
日本国伝は、8世紀遷都後の奈良大和伝。 @阿波 「現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている」
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、
木屋平村の三木山山頂に居を構える。
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。 @阿波 和歌山県の伊都郡が伊都国。
熊野が狗奴国ではダメ? >>278
>熊野が狗奴国ではダメ?
狗奴国」は邪馬台国に勝るとも劣らない超強大国。 その国力の源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。
これらが無い山奥に、超強大国「狗奴国」など勃興するわけがない。 何を考えているんだかwww @阿波 ミトコンドリアの出来は、母親で決まる。
オカシイと、ragged red fiber とかで、知的障害とかになっちゃう。
卑弥呼様。 魏の使者は邪馬台国の中心部まで行ってないだろ
邪馬台国までの経路が途中から大雑把になってる
おそらく九州か山陰の邪馬台国の出先機関までしか来てない
でもきちんと出張報告しないと怒られるから、伝聞を報告してる 時々、オランダ村がオランダでいいですか?って言う奴が出るな
いいわけないだろ 卑弥呼とか邪馬台国とか、漢字からして、どう考えても嫌らって言うときの呼称だわ。
東京をトンキンって言うのと同じ。 >>165
朝廷の前身であるなら記紀に編纂されているはずだし、そもそも後の隋や唐へのそれと同じで漢や魏に使者を送ったくらい書いてあっても良いですよね
そして地方政権であるならば各地の風土記に書いてあればいいのですが出雲風土記くらいしか完全なのが残ってないんでしたっけ? 答えは簡単だと思う。
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から、対馬に渡り壱岐を経由して九州に至るルートは
57年に後漢に貢を奉り朝賀して、光武帝から「漢委奴国王」の印綬を賜った九州の奴国にとって
朝鮮半島と繋がる最大のルートだったはず
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されているがそこには
朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、
「漢委奴国王」の印綬を賜った九州の奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。
そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。
それにもかかわらず、九州本土の交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない
邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。
奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。
などと取って付けたようなことを言うが、それならば
魏の使者を船に乗せて朝鮮半島から対馬、対馬から壱岐と連れて来れば
朝鮮半島南部の鉄を取りに群がっていた奴国の海人たちに見つかってしまうだろ 徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。 東大や京大にうかるような女子や、スポーツ優秀な女子は、ミトコンドリアの出来が良いのだから、ガンガン子供を作らないとな。
ミトコンドリアDNA は母系遺伝。
卑弥呼様。 柳川市や久留米市から
どんどん遺跡が見つかってほしいものだな
柳川市も応援するよ なんだー西洋人だったのかw
アンドラスとか、エンドーフィールドとか >>282
>魏の使者は邪馬台国の中心部まで行ってないだろ
行っていようがいまいが、どうでもよいこと。
「忌部一族(阿波勢力)」は、しょっちゅう朝鮮半島へ行って交易してるんだから。 @阿波 >>219
これに関する論文があったから読んだけど
結論は卑弥呼がいる邪馬嘉国(いわゆる邪馬台国)は九州にあって
不弥国から1300里の近傍にある国であり、
後のヤマト政権につながるとも考えられる邪馬台国(魏志の邪馬壹国)
とは別物で不弥国から水陸で延々いくような記述は
これがごっちゃになってるという話だったな >>295
言っておくが、淡路島も倭国(阿波)の領分だからな。 @阿波 邪馬台国山門説には、低湿地で7万戸もの家を抱えるには狭く、国の所在地としては適さないとか、単なる読みの類似だけで比定す
るには無理があるとかの批判があるが、もともとここにあった邪馬台国が、より居住に適した久留米のような筑紫平野や筑後川流域
にうつり、ここにはその呼び名が地名として残ったのではないかという意見もある。そしてその勢力が近畿へ移動し、大和を名乗っ
たというのである。 古代🇭🇺ハンガリー語が分からない事には
👱オチャーンがどんな言葉使ったてたなんて
分からないんじゃJO。 >>298
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>295
魏の使者は親魏倭王の金印を倭王(倭女王)に直接渡すのがお仕事では
そして内情偵察も
それをしないと帰って怒られぞ
倭の地理が全然わからんし、魏としては倭が呉と仲良くされると困る >>296
以北其戸數道里可得略載(これより北の国はその戸数や距離を記載することができる)
詳しく分からんが魏志倭人伝に全く同じ記述があるんだけど >>302
常に交易してるんだがら、当然魏の使者も倭国(阿波)に来ただろうさ。 特別に困難な旅でもない。 @阿波 ヤマトと邪馬台の発音が似すぎているのが気になるな
偶然だとしたら何%の確率? 関東という大平野に強大な国ができなかったのはおかしい
どれだけ原始人だったんだよw >>305
>ヤマトと邪馬台の発音が似すぎているのが気になるな
同じなんだから、当たり前。 @阿波 >>289 つづき
さらに、
独立を宣言し反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」を征討した魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿にしても
「遼隧の戦い」による戦乱により、
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から避難してきた人々が大量に暮らす九州の「漢委奴国王」の奴国は
いつまた反魏の温床になるかわからない注意するべき倭國であり
238年に司馬懿が遼東公孫氏を皆殺しにした後に、新たに(帯方郡)太守となった弓遵が
240年に邪馬台国に派遣した建中校尉梯儁等にとっては
邪馬台国がその九州の「漢委奴国王」の奴国なのか否かを見極めることは、もっとも重要な事項であり
九州に上陸後に魏の使者を、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩く
なんてことに協力するわけもない >>308
>九州に上陸後に魏の使者を、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩く
>なんてことに協力するわけもない
心配スンナ。 いつもの通り慣れた倭国(阿波)への道だ。 わははははは @阿波 https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=%C3%81d%C3%A1m%20b%C3%A1ty%C3%A1m%20p%C3%A1v%C3%A1t%20l%C3%A1tv%C3%A1n%20sz%C3%A1j%C3%A1t%20t%C3%A1tv%C3%A1n%20p%C3%A1v%C3%A1v%C3%A1%20v%C3%A1lt.%20%C3%81d%C3%A1m%20b%C3%A1ty%C3%A1m%2C%20P%C3%A1p%C3%A1n%20j%C3%A1rv%C3%A1n%2C%20p%C3%A1v%C3%A1t%20l%C3%A1tv%C3%A1n%2C%20sz%C3%A1j%C3%A1tt%C3%A1tv%C3%A1n%2C%20l%C3%A1b%C3%A1t%20r%C3%A1zv%C3%A1n%20p%C3%A1v%C3%A1v%C3%A1%20v%C3%A1lt.%20Tavon%20a%20l%C3%BAd%20%C3%A1t%C3%BAsz%2C%20vissza%C3%BAsz%20meg%20%C3%A1t%C3%BAsz.&op=translate
🤣この🇯🇵日本人にはなんとも言えない早口言葉wwwww >>305
偶然ではないよ
後漢書が同時代の大和(やまと)から類推して勝手に書いた
つまり順番が逆なので、邪馬台という名称にこだわる意味はない つまり『魏志』(倭人伝を含む)には
帯方郡ー韓国−対海國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て、邪馬壱國
と書かれてあるが
対海國は対馬國では無いし
一大国は一支国では無い
「遼隧の戦い」による戦乱により、
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から避難してきた人々が大量に暮らす
いつまた反魏の温床になるかわからない注意するべき九州の「漢委奴国王」の奴国
に至るための対馬も壱岐も経由せず
全く別な対海國と一大国という島伝いに
九州以外の草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所に上陸するのが邪馬台国
だからこそ
「帯方郡」を征討した魏の皇帝「曹叡(明帝)」と、その軍事トップの司馬懿は、邪馬台国を親魏倭王にしたのだ https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=Ide%C3%A1lis%20esetben%20az%20ilyen%20kijelent%C3%A9seknek%20mindk%C3%A9t%20sz%C3%BCl%C5%91t%C5%91l%20vagy%20minden%20%0Aegyes%20feln%C5%91tt%20gy%C3%A1mt%C3%B3l%20kell%20sz%C3%A1rmazniuk.%0A&op=translate
例文 保護者
🇭🇺ハンガリー語って変化形が難しいから気付きにくい。 理屈として九州説はわかるけどなんで遺跡が無いの?大きなクニならそれなりに残ってるだろ。 >『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝に分かれている。
教えてやろう。
倭国伝は、遷都まえの倭国(阿波)の伝。
日本国伝は、8世紀遷都後の奈良大和伝。 @阿波 はんこは江戸時代の創作
畑から出る話うさんくさい
農耕技術がない時代に他国と外交する発想ねー >>315
>理屈として九州説はわかるけどなんで遺跡が無いの?大きなクニならそれなりに残ってるだろ。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>306
食い物が豊富だったから巨大権力に頼る必要なかったとかかね まぁでも今の天皇とか関西人は明らかに朝鮮系だよな
不気味な顔をしている 人間がたくさん住むところって地形とか似てくると思う。とりあえずそこそこ温暖で水が豊富なところじゃないとダメだ。そこを狙って掘りまくれよ。 >>324
関西人は大陸系DNAを多く有しているが、あなたからしたら不気味な顔になるの?
あなたどんな顔?小倉久寛系か? >>325
金無いし民間業者が掘って出てくればそいつらに出させられる 邪馬台国かは知らんけど纏向はまだほんのちょっとしか発掘調査してないらしい。本気で掘りまくればまたいろいろ出てくるだろう。 >>318
縄文人ですら貝や翡翠の加工品で貿易してたのに 答えは簡単だと思う。
『魏志』(倭人伝を含む)には
帯方郡ー韓国−対海國−一大国−末廬国−伊都国−奴国−不弥国−投馬国を経て、邪馬壱國
と書かれてあるが
対海國は対馬國では無いし
一大国は一支国では無い
「遼隧の戦い」による戦乱により、
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から避難してきた人々が大量に暮らす
いつまた反魏の温床になるかわからない注意するべき九州の「漢委奴国王」の奴国
に至るための対馬も壱岐も経由せず
全く別な対海國と一大国という島伝いに
草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない
弓遵が派遣した建中校尉梯儁等が「ここはどこなんだよ」と思うような
九州以外の倭國に上陸するのが邪馬台国
だからこそ
「帯方郡」を征討した魏の皇帝「曹叡(明帝)」と、その軍事トップの司馬懿は、邪馬台国を親魏倭王にしたのだ >>328
>邪馬台国かは知らんけど纏向はまだほんのちょっとしか発掘調査してないらしい。
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 坂口安吾によれば、高千穂神楽の起源として、隼人や熊襲の芸能民が朝廷で神楽を
演じながら、ストーリーを作っていったのではないかというんだな。安吾は神武の
存在も否定。彼なら「邪馬台国は九州で捏造された」ぐらいは言ったかもw
坂口安吾が無くなったのが1955年の2月だが、同年の中央公論2月号に掲載された
「安吾 新日本風土記 宮崎県の巻 高千穂に冬雨ふれ」の中で安吾は「日向は天孫
降臨の伝説の地。しかし日向の高千穂町を主張する宮崎県と霧島山の高千穂峯を主
張する鹿児島県とが高天原の本家争いをしているのでも分るように、伝説を史実化
しようとするのが無理だ。伝説はこれを伝説だけのものとして受けとるのが健全だ。
先祖の残した文化的遺産として軽く受けとれば足るのである。」と書いてるが、続
きは青空文庫で読んでくれ。 最近の母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別されるみたいやね
九州沖縄、高知、徳島広島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
大都市は混血が強い傾向
畿内の京都大阪は意外なことに東北グループに近い
東北から移住の多い東京や地理的に近い北関東よりはるかに東北に近いのが京都大阪
明治以降西日本から大阪にかなりの人が移住したことを考えると、大阪は元は東北グループと言えるかもしれん
この辺が歴史の真相に近づく大ヒントになるかもな
大阪辺りは、東北グループの母系を守りながら新しい人々を次々と受け入れてきた地なんじゃないか まあ、九州連合国の邪馬台国が魏に金印もらう必要があったのは
東側に強い勢力があったからだろ。
魏が朝貢させる必要があったのは、半島牽制のためだしな。
利害関係の一致よ。
何にせよ、結局、九州の勢力から出た神武が、技術先進国の
奈良を平定したんだから、結局、倭国が国を統一したのよね。 冗談だが、孔明と卑弥呼が同盟していれば
魏は滅亡していたねw >>315
九州地方の弥生時代遺跡
福岡県
平原遺跡(糸島市)
三雲南小路遺跡(糸島市)
板付遺跡(福岡市)
野方遺跡(福岡市)
須玖岡本遺跡(春日市)
今宿五郎江・大塚遺跡(福岡市)
佐賀県
吉野ヶ里遺跡(吉野ヶ里町)
千塔山遺跡(基山町)
長崎県
原の辻遺跡(壱岐市)
里田原遺跡(平戸市)
富の原遺跡(大村市)
寄神貝塚
カラカミ遺跡(壱岐市)
車出遺跡(壱岐市)
熊本県
方保田東原遺跡(山鹿市)
小野崎遺跡(菊池市)
うてな遺跡(菊池市)
大分県
安国寺集落遺跡(国東市)
宮崎県
檍遺跡
鹿児島県
広田遺跡(南種子町)
けっこうあると思うけれど? >>336
父系で見れば明らかに大阪は朝鮮系だけどねw 父系で見ても全ゲノムの割合も
関西人≒朝鮮人
なぜ認めないのだろうw 邪馬台国=近畿説が盤石になり、九州に多い右翼の存在的根拠を断っておくのは
良いことだ。 父系でみたら大阪とか石川はO1b2がやや少ない以外は他の地域と変わらない
マイナーな古い系統もかなり残っているという特徴もある
一言で言えば多様性があるかな >>347
なんで嘘つくの?
東日本の弥生系3割に対して西日本5割あるじゃん 九州北部=邪馬台国
奈良=大和朝廷
で別の国でしょ
混同してる人が多いけど、教科書にも同じ国とは書いてないんだよね あまり関係はないが
関西人が朝鮮系と似てるというのは本当だな
初めて大阪に行った時驚いたよ
サッカーの堂安律とかほっしゃんみたいな顔は
大阪以外ではみかけない 奴国にしろ倭国にしろ1文字は中華王朝のみって法則から外れてるのがおかしい
他に中華以外で1文字の国って有るの? おさらい
・倭人伝は中国の史書なので、倭国の地名も倭人の発音に合わせて中国漢字で表記されています
・魏志倭人伝に書いてあるのは邪馬「壹(壱)」国であり、魏の公用語であった呉語で読む「シャマイ」国となる
参考: https://i.imgur.com/AQR5l08.png
・以降の史書に出てくるのは「邪馬臺」や「邪摩堆」であり、すべて語尾は「タイorダー」と発音する漢字が充てられている
・後世のヤマトは深く考えず邪馬臺=ヤマトと思って読んでいたが、新井白石と本居宣長が誤読に気付いたのが邪馬台国論争の始まりである
・「大和」は、魏志倭人伝では女王国で使われていた市の監視役「大倭」と記載されている 西暦239年に魏に使いを送ったのは、どこの勢力だと思いますか?
https://i.imgur.com/BbxsgG7.png
これを見てまだ九州だと言い張ってるやつは、次のどちらかに当てはまるだろう
・論理的に物事を考えることができない低脳
・九州にこじつけるためには、物証の無視も嘘の強弁も捏造も何でもやるやつ >>351
>他に中華以外で1文字の国って有るの?
粟(国) 長(国) @阿波 まともな知性のあるやつは九州説なんて信じないよ
そもそも渡来人は山口から畿内へ向かって
そこで大きな発展を築いた
その後の歴史を見ても畿内なのは確実 >>355
銅鏡はその鏡の製作年代から平均して100〜200年後の墓で出土している
よってその図で左の分布が3世紀頃、右は4世紀以降の分布状況となる >>340
大阪人として思うが、大阪顔は人(福建省あたり?)に近いと思う。
少なくとも朝鮮顔よりは。
阪田三吉(将棋棋士)
https://i.imgur.com/6ZkC9jz.png
藤山寛美(喜劇役者)
https://i.imgur.com/Zfd3mJH.jpg 直リンク三つ以上弾くので一個削っていた。もう一つ。
二代目桂春団治(落語家
https://i.imgur.com/WdhkxY7.jpg 九州「説」っていう名称だから、いまだに学説として生きてると勘違いしてるやつ多いけど
もはや学説とは言えず、単なる俗説、あるいはエンタメコンテンツみたいなもの >>359
うーん
大阪の平均顔は千原ジュニア、ほんこん、堂安律みたいな顔じゃない?
少なくとも日本ではいない系統だよね 後漢時代の倭は100国あったが倭国大乱後、魏に朝貢してきたのは女王国30国のみ
半島南部〜北部九州=女王国連合=卑弥呼時代の邪馬台国30国
山陰、瀬戸内、四国、近畿=女王国の東の海を渡った先にあったと記されている「倭種の国」70国
中国史書によると、当時の倭人は呉・越の末裔だったと記されている
弥生時代の渡来ルートは大きく二つに分けられる
@弥生初期に呉・越から直接九州へと渡ってきた人々=倭人=邪馬台国民
A呉・越から半島を経由して山陰〜若狭湾から入植してきた渡来人=弥生人=ヤマト民族
参考:ハプログループ
https://i.imgur.com/xQ4QPNd.png >>360
誰から?何をソースに?特にどの部分?
「歴史は過去に対する政治である」という部分はあるが、
これは日本に限定した話ではない。 何言っても遺伝子的に大阪が大陸系に近いのは
間違いないけどね… 様々な中国史書を照合すれば邪馬台国に該当するのは九州以外ありえません
魏志倭人伝をデタラメと言い放つ畿内説は妄想作文ですね
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
魏志倭人伝の水行行程の部分は、朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、出発点は帯方郡。
地図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文) >>364
ほんこんは、>>359 >>361に属する顔だろ。ほほの比率とか。
千原は、大阪人顔としては外れていると思う。
平均じゃない。
>堂安律
しらん。 >>368
まあ、君が代丸が常時運航されていた時代もあるからね >>357
>その後の歴史を見ても畿内なのは確実
畿内の歴史は、8世紀奈良遷都から始まる。 @阿波 隼人の反乱なんか見ても比売之城に篭った女性領袖のの桂姫みたいなのがいるから
九州には卑弥呼みたいな女性領袖がいたんだろうなと思う。 畿内説とかまともな学者は誰も支持してない与太話だぞ
九州であることを疑う根拠は何もない 邪馬台とヤマトが両立すると考えるより邪馬台=ヤマトのほうが素直じゃない? >>346
>>347
(→ %28
)→ %29
へ置き換える。 でも天皇はどう見ても大陸系だろ?
大陸系が多い畿内なのは自然な話だ >>375
全く
日本側の資料に中国との関係をうかがわせるものが一切ないし卑弥呼の時に中国から贈られた物が何一つ残ってないことからも別の勢力だと考えるほうが素直 >>374
>九州であることを疑う根拠は何もない
「阿波」が存在する限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 んなもんヤマトタケルがタケルをパクったのと同じじゃねえの >>377
邪馬台国と大和に関係があるとすると
九州の国がそっくり畿内に移動して国をつくった
根拠はないわけではない
九州と畿内の地名の明らかに人為的な一致
「九州」と「近畿」の地名類似についても有名です。
単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、
春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原と続く地名連鎖が存在します。
「畿内」でも全く同様に「笠置(笠置山)」→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。
そして、現在は存在しない邪馬台国(ヤマト)と近畿の大和があります。 縄文の日本人ってのは
阿弖流為とか熊襲みたい人々だと思うよ
大化の改新の頃には
純粋な日本人だけじゃなくて百済の技術や力や人材も入ってきてる
だからそのころにやっと日本が一つになって
天皇が出てきましたってならわかるけど
縄文時代の神武天皇は絶対無理があるよ >>378
何をどう見て大陸系という判断なんだw
今上陛下のご尊顔のことをいうなら、どっちかつうと、香淳皇后、上皇后陛下の
影響が強いだろ。明治天皇のお顔と異なる。
つーか、メンデル習った? >>383
>九州の国がそっくり畿内に移動して国をつくった
おめでたいやっちゃのう。 @阿波 >>375
そもそも大和朝廷の天武が記させた記紀ですら
神武が高天原(宮崎)から来たとなってる(東征)
邪馬台かどうかはともかく近畿とは別に
九州に先進地域があったと考えるほうが理にかなってる
そしてどちらが大陸と連絡を取りやすいかはバカでも察しがつく
中国の文学者によれば戦国時代に滅んだ越の国の残党が
朝鮮半島を経由して日本(九州)に到達して
その時々で中国の王朝に朝貢を行ったことが中国の歴史書に記されているそうだ
わざわざ中国の王朝に朝貢しようとかいう発想自体が大陸から来た人間の発想 中国は常に周辺国が狙っててその中に日本も含まれたって事だろ
チャンスがあれば取ってたかもね >>1
まあこいつも作家だから学問を否定した逆張りで、荒唐無稽な与太話を作ったんだろう >>386
日本人というか天皇家の本国は任那なのかもな
高天原=任那、
天照から新天地を海の向こう側に探しなさいと命を受けた
瓊瓊杵尊が船を出して南下、原住民があまりいない土地が
日向の高千穂だった、と
これが天皇の始祖となる >>392
移住者?
まあでも任那って中国を取る為の足がかりじゃ無いかな >>391
日本の古代やってる学会が学問を否定してるんだからw >>190
俺は佐賀邪馬臺国派なんで、
確実に証拠となりそうなものを詰めていこうぜ、と言ってるだけ。 >>47
それよな。その南、鹿児島〜南西諸島は市来式土器が分布するからこれもまた別の区域になる。 >>394
取るためっつうより、
あそこに倭人の橋頭堡置いておくと海運で港から港に運べるじゃん
自然、集積地になる
交易拠点としては正解
もっとも日本のものになるのは楽浪郡の後だけど。
だから百済新羅と任那(または加羅)はあっても、
任那日本府ってのが疑わしいわけ
その証拠はない
ただし、高句麗と百済が天皇家の血縁にあるのは本当 >>47
前にも突っ込んだが、縄文海進でその図では邪馬臺国が海の底にあることになる。
日本史板の「結論」とするなら知識がなさすぎる 天皇に手出し出来ない権威が何故あるか?
他所から来た奴に権威があるとは思えない >>400
> 豊璋の弟については、
『日本書紀』によれば百済王善光(『続日本紀』では徐禪廣)といい、豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。
白村江の戦いの後、百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。
> 高句麗の遺民の一部には倭へ逃れた者もいたという。
『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。[109]、
高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
日本の歴史ではそうなってる。
日本書紀信じないなら祖国へ帰ろう 武力で権力を握っても人はついてこないし日本人はそれを学んだんだろう
だから権威で治める方法を思いついたんじゃないか? 邪馬台国は埼玉県だからな。
埼玉県人が嘘つきなのは昔から有名。 朝鮮半島半部〜九州北部の倭人の連合勢力が邪馬台国勢。
西日本は、倭人の国が多数で乱立状態。
3世紀末ころに、九州南東の軍事勢力が、技術先進国奈良の
統治権力を潰して平定し、この経済力と軍事力で、ついに
西日本を制圧した(が朝鮮半島南部は失った)のが今の日本。
それだけのことだろ。
邪馬台国は覇権をとれなかった勢力なんだから、
いくら考えてもたいした意味ないのよね。 丹生都比売は天照大御神の妹神で稚日女命
わかひるめのみことと言い
神功皇后 じんぐうこうごう の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります。
(丹生都比売神社)
日女命→ヒミコ
ヒミコは役職名 >>401
>前にも突っ込んだが、縄文海進でその図では邪馬臺国が海の底にあることになる。
ヨコだが、「邪馬臺国」は弥生時代である。 縄文海進を持ち出すな。 @阿波 いや、一度ものすんごく海面上昇して
盆地へ海水が大量に流れて海面落ち着いたようだが。
それで瀬戸内海できた。
大陸でも同じだろうね。 九州説自滅といった感じだな。
魏の役人は自ら見て回って報告している。邪馬台国の役人の話を鵜呑みにするわけがない。
騙そうたって騙せるものではないのだ。
九州説によれば、邪馬台国はヤマト王権とは別に存在して4世紀に併合されたことになっているが、
那珂八幡古墳のように三角縁神獣鏡を伴った前方後円墳が北九州にも3世紀中葉から分布しており、
布留0式土器も多数出土している。
ヤマト王権が3世紀前半に始まるとしても、九州も初期ヤマト王権から服属していたことを示す。
邪馬台国が九州に存在したとするには、時間的空間的スペースが存在しない >>412
「とくに2,000年前ごろ(キリスト誕生のころ)は、現在よりも海面は約2メートル低下していたと思われる証拠が多く、
わが国では、この時期を「弥生小海退」といい、ヨーロッパではローマ小海退とよんでいる。
2,000年後、現在の高さに海面が回復してきた過程については定説がないのが現状である。徐々に高さをましてきたのか、
あるいは小さい振幅の上下の動きをくりかえす過程で今の高さに落ちついたかは、今後解決されるものと思う。」とあり,
さらに「弥生時代ごろの低位海面を示唆する埋積浅谷は,そのほかにも濃尾平野における朝日遺跡(愛知県清洲町,弥生前・中期以降)や
岡山市の津島遺跡(弥生前・中期以降)などにもみられるが,こうした埋積浅谷とは異なる形式で弥生時代の低位海面を証拠立てる遺跡もある。」
と述べている。 @阿波
弥生時代の岡山平野の海面は、現在と比べてどうだったのか。 | レファレンス協同データベース (ndl.go.jp) >>413
畿内ヤマトが九州に進出するのは景行あたりからだろう
それに纒向は九州との繋がりが薄過ぎる >>415
>畿内ヤマトが九州に進出するのは景行あたりからだろう
畿内にそんな勢力は存在しない。 畿内は倭国(阿波)の巨大墓地にすぎない。 @阿波 仮に卑弥呼が畿内に居たとしても絶対的な権力があったとは思わんな
各地の豪族が牽制し合うような感じじゃないの >>415
玄界灘沿岸地域は3世紀前半からだ
玄界灘沿岸地域とは伊都国や奴国があったところ
熊襲とか別の地域を持ち出すのは筋違い >>418
>各地の豪族が牽制し合うような感じじゃないの
それがまさに、大河吉野川流域集落(国 >>418
>各地の豪族が牽制し合うような感じじゃないの
それがまさに、大河吉野川流域集落(国)の情勢。 @阿波 天皇というか関西人は明らかに朝鮮系だよ
どう考えても畿内説だ
九州の顔ではないだろう >>1
どのスレか忘れたけど
土人(つちんちゅ)っての笑ったなー >>365
後漢時代に瀬戸内海四国近畿は同じ貿易圏内にいません
100国というのは九州一円と半島南部、一部山陰程度
それは遺跡物が証明している >>424
たしかに関西人は渡来系の血が強いからな
邪馬台国は畿内だろうね >>414
瀬戸内海が出来るぐらいの縄文海進はあった
(古代は盆地)
@東京大学 日本書紀にも海面上昇を思わせる箇所が沢山あるじゃん。 >>1
俺は逆だと思うけどな。
旧大和地方の勢力が卑弥呼の子孫たちで
それを征服したのが現皇家。 >>401
弥生時代は弥生海退だぞ無知w筑後側の比較的海岸に近い場所にも弥生遺跡があるからそんなに海は入り込んでない
この図で一番海よりの扇ノ内遺跡や徳益八枝遺跡も弥生時代
それともお前は海中に人が住んでいたとでも言うのか?w
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/b9/8cc03f541639b7ffcddd7ee7cb26dbac.jpg
柳川市公式ウェブサイト / 柳川の遺跡
https://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/kyoiku/rekishibunka/rekishi/iseki.html
>海岸線の後退により次第に陸地化が進んだ有明海沿岸部のうち、特に柳川市周辺地域では、近年の発掘調査により
>弥生時代中期前半以降の遺跡が確認されています。
>徳益八枝遺跡(柳川市大和町徳益)は、弥生時代前期から中期初頭(約2,200年前)の集落です。
>調査では柱が軟弱な地盤に沈み込まないように工夫された掘立柱建物や井戸が検出されました。
>また、磯鳥フケ遺跡(柳川市三橋町磯鳥)では弥生時代中期後半(約2,000年前)に比較的短期間に営まれた集落が調査されました。
>約3,500m2の広範囲にわたり掘立柱建物群や井戸等が検出されていますが、集落は更に広範囲に広がっているようです。
>蒲船津江頭遺跡(柳川市三橋町蒲船津)では、弥生時代後期(約1,800年前)の集落が調査されました。
>先の二つの遺跡と同じく多くの掘立柱建物が見つかっています。
>これらの遺跡以外にも、弥生時代の貝塚として三島神社貝塚(柳川市西蒲池)や島貝塚(柳川市大和町鷹ノ尾)が知られるほか、
>扇ノ内遺跡(柳川市西蒲池)では石田と呼ばれる田圃に残る大型の石の地下から甕棺が出土しており、支石墓の可能性があります。 >>435
遺伝的に一番チョンに近いのは関西人なんだよなぁ >>424
畿内説は当然だがこういう馬鹿チョンは在日というものを知らない
歴代天皇の顔知らない馬鹿チョン >>410
>衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、
>これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとあります
実際は、丹(朱)の産地だったから戦費提供できて領地をかくまった、ということ おまえらまだ邪馬台国の謎解き終えてないのかよ
35年前に俺は既に解き明かしてたというのに >>1
アホだなあw 魏志倭人伝に全部書いてあるのにw
この説で、合ってるのは、邪馬台が九州北部ってことダケ!
後漢書と照らし魏志倭人伝でバレるのは、漢の時代、邪馬台は
自らは朝貢せずその存在を漢に隠し、配下のみなと奴国を
「倭国代表」として漢に朝貢させていたということだ。
つまり、漢の時代は、邪馬台が列島覇権国だったと解る。
その邪馬台が、倭国大乱の後、今度は魏に朝貢に出されてる!
邪馬台は倭国大乱で負け、覇権放棄の証に女王(卑彌呼)を立て、
新覇権国から表向きの「倭国代表」として魏に朝貢に出されてる。
倭國大乱は、教科書()にある様な邪馬台内の三十数カ国による
内乱ではないのも判る。列島の大乱だわ。
倭国大乱の勝者で、朝貢した邪馬台の裏に居る新覇権国は、
ちゃんと魏志倭人伝に登場している。
魏に正体を偽装し、邪馬台の交易港博多を押さえる「大倭」だ。
そう、畿内勢力だよ! 邪馬台国とか卑弥呼ってロマンがあって好きだな。んで、契丹古伝によれば、長江文明は倭人が作ったものらしいし、漢字も元は倭らしい。黄河文明もDNAから白人の文明らしいし、中国の歴史捏造は大昔からだから史書と雖も当てにはならないでしょ。 九州の国の話しか出てこないのに
なぜか邪馬台国だけ近畿とか意味不明な事言ってるやつは基地外としか思えない >>411
平安時代まで残ってんだな、これが。
巨椋池くらいしっとけ >>434
はい
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf
じゃバカはバイバイ
縄文海進から少しずつひけていったのが弥生海退
一気になくなったと思ってるバカはもう一回魏志倭人伝読み直せよ
温暖で雪が降らず、人々は裸足であった。
これは砂浜から氾濫地帯であることを指す。 >>415
違う
九州熊襲の征伐は
・日本武尊命
・景行神功
・雄略天皇
の少なくとも三回出てくる
その度に熊襲は服属してることになる。
これはどう考えてもおかしい 常識だが、縄文海進のあと、弥生期に弥生海退が始まったことからわかるとおり、
吉野ヶ里も海から20kmある。
したがって現在の地図の筑後川に○つけてるのは、
地形学を知らないドアホってことね
だから「ヤマトは山門」になるわけ。
山に近くないと生活できないから。
https://www.maff.go.jp/kyusyu/seibibu/kokuei/18/kantaku/index.html
佐賀県の佐賀平野では日本最大の弥生遺跡、「吉野ヶ里遺跡」が発見されています。
邪馬台国をも彷彿とさせる、古代中国の影響を色濃く残した大規模な環濠集落跡は、当時の豊かさを象徴するものでした。
しかし、吉野ヶ里遺跡は平野の内陸部に位置しており、
有明海を窓口に交易を行うにしては、海岸から遠く離れています。
実際、吉野ヶ里遺跡は、現在の有明海の海岸線まで直線距離にして約20km。
このことから、吉野ヶ里に大集落があった弥生時代、海岸線は、現在と比べ佐賀平野のはるか内陸部に位置していたことがわかります。
当時の海岸線は、海抜4mの等高線、現在の国道264号線とほぼ一致しており、国道に沿った一帯ではたくさんの貝塚が見つかっています。
つまり、2000年の年月をかけて、佐賀平野は沖へ沖へとその面積を広げてきたことになります 魏志のの地理の記述自体倭人伝に限らず
遠方ほど大雑把で信用できないのは
松本清張が清張通史で指摘している
検証するだけ無駄 >>441
歴史捏造はジャップのお家芸だろ
最初の日本書紀からデタラメ書きまくってるのによく中国の事が言えたものだな 渡来人も南方系、中国大陸系、朝鮮半島系といろいろある。
人数的には、任那経由の朝鮮半島系が最多。 >>3
東洋と西洋は800年周期で盛衰が入れ代わってるんだよ
西洋が栄えてるときは東洋は暗黒時代で内戦や文化の低迷が続く
その逆もしかり
ちなみに今は西洋が暗黒時代に突入する転換点の時期 >>413
三角縁神獣鏡ww
あり得ない年号の入ったパチモンだろ
シナからは骨董屋から見つかった一例しかないショボいシロモノ
畿内説自滅って感じだな 倭人伝冒頭の旧百余国って時点で九州説は消えるんだけどね 三角縁神獣鏡
金属製品を自製して影響力を拡大しようという勢力が存在した証にはなる。 嫌儲板の奴らは一回噴火で消えたから九州に文明は一切ない上野原遺跡が捏造だから破壊して鹿児島県民160万人虐殺するって喚いてたわ。 帯方郡から万二千里の時点で、畿内説は消えるんだけどね
奴国から南となってるのに、まだ畿内説してたら頭おかしいんだけどね 関裕二さん何冊も本出してるけど全部同じこと書いてあるよね >>452
まったく反論になってない
何でもいいから言い返せば反論になると思っているのか
俗説を信じてるやつの知識がいかに薄っぺらいかを表しているレスだな 日本語では オリンピック と言うが中国語では Ao4lin2pi3ke4 と言いかなり違うから
邪馬台国も やまたい とは言わず全く違う発音かも知れない >>456
帯方郡から万二千里だから、もちろん九州説も消える
それなのに、九州は万二千里で合うという趣旨のレスをしてるのは
ひたすら黒を白だ、黒を白だ、黒を白だと強弁してるのと同じ
奴国から南に2ヶ月の場所は太平洋上
義務教育レベルの基礎知識もない >>429
>瀬戸内海が出来るぐらいの縄文海進はあった
縄文海進があったことを否定しているわけではない。
「邪馬臺国」は弥生時代である。 縄文海進を持ち出すな。
「とくに2,000年前ごろ(キリスト誕生のころ)は、現在よりも海面は約2メートル低下していたと思われる証拠が多く、
わが国では、この時期を「弥生小海退」といい、ヨーロッパではローマ小海退とよんでいる。 @阿波 >>438
>実際は、丹(朱)の産地だったから戦費提供できて領地をかくまった、ということ
まさに、倭国(阿波)。 @阿波 >>440
>この説で、合ってるのは、邪馬台が九州北部ってことダケ!
「阿波」が存在する限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 >>461
九州上陸まで1万里
陸に上がって奴国まで6百里
残り1割強(千四百里)の距離
消えるのは畿内説のみ >>465
>九州上陸まで1万里
陳寿は、各里程を足し算しろと言っていない。 勝手に足し算するのは、トンデモ説だけ。
そもそも、その里程を加算するのが間違いの元!
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。
「自郡至女王國萬二千餘里」
なぜ魏志倭人伝で、「從郡至倭・・・」の行程記述とは別に、「自郡至女王國萬二千餘里」が ポツンと 分離して書かれているのだろうか?
それは、行程記述と「自郡至女王國萬二千餘里」が、別事項だからである。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で一万二千余里を特記したもの。
だからことさら、行程記述とは切り離して記述している。
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」で「萬二千餘里」だと言いたかったから。
その心は、帯方郡から女王国までの距離が、「直線距離」なのであって、間違っても決して「行程里数加算距離」と取られないため。 @阿波 >>465
知識がないだけでなく、知能も低いんだな
万二千里の里数は正しくない
1万里の里数も正しくない
こんな状況で、千四百里では畿内説のみが消えると言い張るなら
その理由を論理的に説明してみろ >>466
各路程ごとの距離を書いてるのに、加算するなというほうがトンデモだな
そもそも水路も混じってるのに直線距離なんてどうやって測るんだよ
これだから畿内説は困る >>263
それも良くあるウソ
ツクヨミの名前は万葉集とか記紀とかで甲類乙類入り混じってグチャグチャ
甲乙は決めてには全然ならない
実際すぐ後代になって区別が消えるわけだし >>467
縮尺は、各路程ごとの記載された距離と、実際の距離と比較すれば分かる
1里だいたい100mだな
これで計算した奴国からは物証の金印がでた
奴国まで確定だな >>466
こらこらまたウソか?
距離は道のりであって直接距離じゃないぞウソをつくな
大体ロクに地図すらない時代に直接距離なんて測れるわけないだろが >>458
まったく反論になってない
何でもいいから言い返せば反論になると思っているのか
俗説を信じてるやつの知識がいかに薄っぺらいかを表しているレスだな 卑弥呼なんか架空やろ
この国って根っからの嘘吐き国ってバレたし
日本の歴史って全部がフィクションのように思えてきた
なので歴史関係の本は全部捨てたったわ
全てが嘘っぽいし
卑弥呼も聖徳太子も架空の人物だと思う >>424
まるでデタラメ
少なくとも神武は南九州の隼人出身だからチョン要素はほぼ無い >>473
お前が架空でウソっぽいだけだから
そこは大丈夫だよ猿w >>473
シナの歴史書に、親魏倭王の印を贈ったなんてウソ書いても、シナ人は誰も得をしない 自分から王とかキングとか兄貴とか名乗る奴は基本キチガイ >>477
何を勘違いしてるか知らんが、卑弥呼は自分から名乗っちゃいないぞ
魏の使いがきたとき卑弥呼はもう死んで壱与の時代
卑弥呼のことは昔話として書いてる >>476
日本の歴史はかなりの嘘が紛れ込んでるそうだよ
なので過去の偉人とかも全部脚本家が用意した内容をなぞって
教科書なり参考書に書かれてる可能性がある
なので俺は自国の歴史は全否定するし
誰一人として登場人物を信じてないわ
人物なり歴史背景がぜんぶ怪しいんで >>479
シナ人はメリットのないことはしない
正しい情報なら役に立つだろう
そして、邪馬台国に関してはウソを書く理由が何もない >>468
>各路程ごとの距離を書いてるのに、加算するなというほうがトンデモだな
魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。 @阿波 6000年前の轟式土器集団は縄文人M7a1aで確定
2021年06月13日Scientic Reports誌掲載
Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences
https://i.imgur.com/xhmofdZ.png
https://i.imgur.com/pvDE0ax.png
https://i.imgur.com/db6QTQN.png
https://i.imgur.com/O0yq8VB.png 縄文遺伝子分布
https://i.imgur.com/SsaSe8k.jpg
日本語族(扶余諸語)拡大の源郷
https://i.imgur.com/dmVPbhk.jpg
https://i.imgur.com/o06tyq6.png
琉球諸語の系統的位置
・南日本語派のひとつであり,日本祖語からの最初の分岐「琉球語派」ではない。
・南部九州語(薩隅方言)と姉妹関係にある。
・第1音節の子音が/k/であり第2音節の子音が/t/である形は,九州と琉球列島にのみ観察される。
・九州と琉球列島におけるマトリョーシカ分布.交差せずかつ含意階層をなす等語線を少なくとも9本引くことができる。
https://i.imgur.com/KVkkuqP.png
https://i.imgur.com/JDguyih.png
https://i.imgur.com/nn6vO9m.png >>480
嘘は書かないかもしれないが、間違った情報を書いている
場合はいくらでもありそうだな >>470
>1里だいたい100mだな
捏造
捏造は言語道断
そして各路程ごとに100mが当てはまるというのも、勝手に言い張ってるだけの出まかせ
畿内説のみが消えると言い張るが、論理もくそもない >>468
>そもそも水路も混じってるのに直線距離なんてどうやって測るんだよ
なんらかの測量方法があったのだろう。 なければ、里数を書く意味がない。 @阿波 >舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
昔は100余国なのに、今はたった30国
>東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿
東55国、西66国の倭国さんが!
卑弥呼のとき、たった30国だけとか
畿内なワケないよね
畿内なら
60国近くは連合国家じゃないとおかしいよねw >>480
邪馬台国だって誰かの創作じゃないのか?
それは中世時代の人なり明治辺りの脚本家が創作した可能性があるし
それに日本って嘘がとても多い
それはお隣の韓国並みにな
なんせ渡来人が多い国だもの
なのでお隣の国技みたいに自国を美化するために邪馬台国なる
架空の世界を作り上げた可能性は否定できないよ
見たわけでもない邪馬台国なんて俺は信じてないわ 邪馬台国とヤマト政権が直接戦った説はロマンあるけど
邪馬台国は内部分裂して、いくつか地域の争いが散見して、最後に残ったのが大和政権じゃないかな >>481
だからウソを何度も書くなキチガイ
>>484
お前はウソと間違った情報ばかりだよな猿w
俗説信者は学者をバカ扱いしてるが、実際は逆で
このIDなしのやつのカキコミは俗説信者の知能の低さを証明してるようなもの >>488
お前は例によってNGなw
>>491
全然間違い
はい、論破w >>493
涙拭けよバカw
>>490
じゃオレもお前見てないからお前は信じないw
はい、また論破w 自分は肥後邪馬台国派なので
肥後邪馬台国が筑紫に吸収され
筑紫王族が畿内へ疎開。
畿内でクーデターが発生し畿内勢力へ。
大和朝廷発足の流れだな。 卑弥呼は日、火、太陽に関する人物
畿内説は、まるっきり逆説
695 日本@名無史さん sage 2021/05/27(木) 18:04:10.77
卑弥呼は天照大御神
卑弥呼の死は日食を暗示
臺與=たいよう(卑弥呼の次の太陽)
当時の中華では「太陽」は「太陽」と読み書いていた
臺與は、台を与えると書くが
陳寿は卑弥呼(臺)の後継者(として与える)でありつつ
卑弥呼同様に太陽に関する人物と春秋の筆法で記した
すべて、辻褄が合う
畿内説は
卑弥呼=百襲姫=大物主を神降ろし=大物主を祀ることで治め
かつ天照大御神を外へ出すと言う論外ぶり
いかに畿内説が逆説であるか
おわかり頂けただろう >>481
どうやって直線距離を測るんだよ
道のりなら、歩数で測れるけどな >>490
奴国から金印が出てる
当時の倭人に作れないし、字も書けない
現実を見つめろよ >>486
現実の距離と合ってるじゃないか
畿内説は現実から逃避するなよ 魏志倭人伝より前に書かれた郭義恭の『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
もうこれで、討論不要。
邪馬台国は九州でしかない。 朝貢国としては宗主国に自分を大きく見せようとするのは当たり前
特に異常なことではない
そんだけ >>503
「一日歩いたので三十里」くらいの精度だと思うんだけどね 邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
★琊馬都(ヤマトー)←この漢字にすると、現代中国語発音でも、ヤマトそのままになる。 近畿パー
泡パー
四国パー
伊都国パー
宇佐パー
吉野ヶ里パー
大倭パー
直線距離パー
色んなパーがいっぱい
君は今日はどのパーにするのかな?
>>502
なんかこの国にまつわるものは全て信じられないし
信じたくもない
教育も嘘っぱちが多いし
安倍を恨めよ もう日本の古代史は言いたい放題ですね
真実から目を背けて、日本固有の歴史に書き換えようとするから、嘘に嘘を重ねることになる
お笑い芸人?
簡単に言えば卑弥呼は中国人で、当時の日本は朝鮮と一衣帯水だから、区別することに無理がある
大和は朝鮮による王朝です
その朝鮮には金朴など有力氏族もいたが、ほかにも様々な民族がいただろう
日本人はそれらの民族の複合として、今に到る
そもそも九州とは朝鮮による地名である >>504
>現実の距離と合ってるじゃないか
捏造と出まかせを繰り返すのみだな
畿内説を否定したいなら、論理的に説明しろと要求すると、知識も知能もないから
毎回こうやって壊れたテープレコーダーになる >>508は非常に面白い。
唐代の李賢は思った。「あれ?何か言われてるのと、発音が違うなー。もしかしてこうかな?」
そして後漢書倭伝にこう注釈をつけた。
「今、その名前を案ずるに、邪馬臺(シェイマータイ)というのは邪摩惟(シェイモウウェイ)のなまりである。」
↑
これは、笑える。
シェイマータイの方がむしろ、「ヤマト」に近かったのにより遠ざかって、わけの分からない名前になった。
つまり、卑弥呼はヤマトとかヤマタイとかいう名前の国ではなく、もっと別の名前の国にいたのである。 >>514
お前壊れたテープレコーダーだよな猿w
邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
自国民が支配者にとって都合のいい
捏造された歴史が教えられてたとしたら?
こういう視点がみんな無いよね
なんせあざとい、人を平気で騙すような奴が多いクソ島国なんで
だから自国の歴史なんか何から何まで信じられなくなったわ >>514
魏志倭人伝に書いてあることそのまんまだ
改ざんしようがない
畿内説は現実を直視しろ
論理的な反論があるなら聞いてやるぞ >>512
いちいち相手するような内容でもないと思うが
魏志倭人伝に「韓国を通り過ぎ」とはっきり書かれてる これは良スレ
全部読んだが、つまり畿内で確定したんだな >>518
邪馬台国は江戸時代から研究されてるのだが >>523
歴史を教える、広めるのは支配者側です
いわば政府であり、出先機関の文科省
その政府が悪意をもって捏造された架空の歴史を教えてるかもしれない
っていう疑問は持たないの?
政府なんて1ミリも信用できないよ >>524
文部省などなかった時代から研究されてる
実権を徳川が握ってた時代からな 本居宣長も新井白石も、倭人伝の記事が
九州であるとは認めている。
その時に出てきた卑弥呼が
九州邪馬台国の女王なのか、
邪馬台国は別にあって地元の女性が
自称したかが違う。 [纏向遺跡]
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 弥生時代=鉄器時代
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png >>494
>お前は例によってNGなw
涙拭けよバカw @阿波 >>1
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる >>525
研究はされてるかもしれないけど
その研究された内容を政府なり文科省が必死になって
事実を覆い隠すために改ざんしてたらどうなる?
政治屋に馬鹿官僚、あいつらって嘘吐き野郎だらけだよ?
よくそんな歴史を真に受けるわ 言っとくが、中国人の聴力をなめてはいけない。
薩摩は沖縄のことを「おきなわ」と書いた初めての人であるが、沖縄人は昔も今もウチナーという。
鑑真はすでに唐代の『唐大和上東征伝』で沖縄のことを倭急拿と書いており、「ウォジナー」と現代中国語読みでも読む。かなり近い。
少なくとも薩摩のインチキ「おきなわ」よりはかなり近い。
また、琉球に史書のない時代の山北王・羽地(はねじ)を怕尼芝と書いており、ビックリそのまんま現代中国語読みでも「はねじ」である。
成吉思汗も「チョンギスハン」、チンギスの本名テムジンも鉄木人と書いて「テムジン」そのまんまである。 [卑弥呼時代]
2世紀後半〜3世紀前半(弥生時代後期)
■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
「纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく」 悪いがこの国に関しては嘘を平気で並べるような国柄だし
半島系の日本人がかなりいる事を考えるとな
写真なり映像記録ぐらいしか信じられん
江戸以前の歴史的資料とかいくらでも捏造できちゃうんだしさ >>499
>卑弥呼の死は日食を暗示
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 纏向は卑弥呼の墓じゃないよ。
卑弥呼は250年ごろに死んだ。
纏向からは馬具の鎧(あぶみ)が出土している。
魏志倭人伝の通り、卑弥呼の時代に日本に馬はいなかった。
日本が馬を輸入したのは、391年の倭・高句麗戦争の時で、高句麗の騎馬戦術を見て、それから馬を輸入するようになった。
なので、纏向は391年以降の墓だ。 >>500
>どうやって直線距離を測るんだよ
なんらかの測量方法があったのだろう。 なければ、里数を書く意味がない。 @阿波 >>505
>邪馬台国は九州でしかない。
「阿波」が存在する限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 >>532
シナか保管するシナの歴史書を、日本政府や幕府は改ざんできない
お前は、こんな着想できる俺スゲーと厨二病をこじらせてるだけだよ >>540
なんらかってどんな方法だよ
道のりなら歩数で測れるぞ >>522
>全部読んだが、つまり畿内で確定したんだな
「阿波」が存在する限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 卑弥呼と天皇家は関係ないかもな
九州でやってた邪馬台国のトップが卑弥呼
天皇は大化の改新でテロリスト藤原鎌足が
作った飾りだし >>529
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域は、当時の鉄器王国「阿波」からの被鉄器供給地域であったと見なせます。 @阿波 >>543
そのシナの歴史書に支配者が都合いいように脚色して創作してたらどうすんだよ
創作なんていいようにやれてしまうぞ
日本人のズボラさ、いい加減さは昔からの伝統だ
現政府も時の幕府も創作してるかもしれない
一切確信得ることはないし、自国の歴史は完全否定してる >>544
>なんらかってどんな方法だよ
いまは分からん。
なんらかの測量方法があったのだろう。 なければ、里数を書く意味がない。 @阿波 >>547
つまり四国は単なる物資の供給地であって都ではないんですよ >>444
そのpdfを見たって>>401は大間違いということしかわからんのだがw
しかも弥生時代は海だったとしているところに実際には弥生遺跡が>>434のとおり存在するのだから
その論文が間違っているのは言うまでもない
バカはお前一人だよカス >>548
といいつつ漢字を使ってるよな
どこから来たのか考えてみればいい
歴史からは逃げられない
最初に、シナ人に邪馬台国というウソを書く理由がないといってる
あるといいたきゃ理由を出せばいい >>551
>つまり四国は単なる物資の供給地
つまりお前んとこは、なんでも「阿波」から恵んでもらう後進地ってこと。 @阿波 >>1
これ系の話はもう5CHレベルの創作話とTwiterの嘘松があわさったようなものになってきたなw
煽って釣りまくって最後にレスした奴が勝ちみたいなw >富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した
って事は同じ情報を共有して同じ目的を持ってないと行動できないと思うが
どんだけの時間がかかったんだよ
とても一代や二代くらいで出来るもんじゃねぇだろ >>552
>スケールが小さくなったなおい
お前が妄想ふくらましすぎなんだよ。 おめでたいやっちゃ。 わははははは @阿波 郭義恭の『広志』(本当は旧字体で廣志)には、ずばり、伊都国からまた南に行くと邪馬嘉国に至るとある。
さらに、広志より少し前に書かれた魚豢の書いた『魏略』も伊都国で止まっている。
奴国→不弥国も出てこない。
陳寿魏志は、とりあえず、魏略と広志と文章がそのまんまのところがたくさんあるから丸パクリした上に、後から知った情報をテキトーに付け加えているのは明らか。
魏志倭人伝は不弥国までの行程を示し、だらだらと別の文化とかの記載になって、それからいきなり、
「南至投馬国水行二十日」と突如として出てくる。
明らかに陳寿か誰かが、魏略と広志からパクったものにこの文章をねじ込んでいる。 邪馬台国が中国の書物にしか出てこないという事は
捏造されても証拠が無いんだよなぁ >>561
奴国が実在したことは福岡から出土した金印で裏付けられたけどな 曹操の墓(曹操高陵)から出た鏡と、日田の遺跡からでた鏡が、そっくりだったんだよな
魏志倭人でに出てくる魏とは、三国志の曹操の立てた国で、息子の曹丕が皇帝に即位したが
曹操は生前は皇帝にはならなかった。
そして曹丕が皇帝に即位したときに、「魏武帝」と追贈しているから、
それ以後全部、曹操は魏武帝と記録されているので、
「魏武王」と記録されている時期が極めて限られる
そして曹操高陵から「魏武王」と記録が見つかったと事が決め手になって、
最高権力者としては、薄葬にすぎるという反対意見などあった議論が決着して
曹操の墓と結論が出た
魏志倭人に出てくる地名って、福岡の天神で、お前どこ中出身?って聞いて回ってでた答えと変わらん
投馬国とか、邪馬台国とか北部九州以外ないだろ w
卑弥呼の鏡「可能性高い」大分・日田で出土の鉄鏡
中国・曹操陵の発掘責任者が見解
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520 >>561
つまりねつ造を疑ってみても、証明しようがないので意味がないってこと
そんな非生産的なことをしていないで
出されている条件から答えを出す試験問題と思って取り組むのが
邪馬台国の議論
証明不可能なねつ造論は、試験問題から逃げているだけの落ちこぼれ学生みたいなものだから
試験会場から出ていくべき 行程距離を全部足せば1万2千里てのは別におかしく無いけどな >>444
インド・イラン祖語で
マジャール=大きいだっけ? >>553
そこに載ってる徳益八枝遺跡、磯鳥フケ遺跡、蒲船津江頭遺跡って
国土地理院地図で見たらみんな標高3mくらいなんだよね。
まあ当時の海面が2m上がっても一応住める感じ? 他所の地を否定するのではなく
自らが推す地域を肯定してくれよ
九州の山門郡が邪馬台国なら、俺は否定しないから良点を幾つでも書いてくれ!
阿波が邪馬台国ならなぜ阿波なのか書いてくれ、俺は阿波なんて完全無視していた。 >>556
阿波が搾取されてた可能性を考えないのかwww どの国でもそうだけど、
歴史って支配者の都合のいいように作られちゃうし
日本どころか、世界の歴史も本当の事は分からない
歴史の授業とか創作物を読んでる感じだったわ
あたかも本当のように皆を信じ込ますように考えた脚本家偉いなー
って感心しながらな 『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝に分けている。
それはなぜか?
旧唐書を書いた劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩は、思った。
「あれ?この卑弥呼の時の倭国と、隋の時とか唐の時の日本って違くね?なんか違うよなー」
そこで、分けて書いたのである。
旧唐書倭国伝の書き出しはこうである。
「倭国はいにしえの倭奴国のことである」 >>29
朝鮮半島なら島づたいに見えるし行けたのでは
中国大陸は命懸けで、遣唐使の時代でも10隻ぐらい派遣して辿り着けたのは最澄と空海の2隻だけとかの確率だったが >>560
魏志倭人伝が後から書かれたものならどう考えても陳寿は転載してるよね
かなり重要な事だと思うけどなんでみんな無視してるの? >>29
それ創作なんじゃないの?
日本ホルホルしたい渡来人がでっち上げた可能性は捨てきれない >>573
距離で記述してる国と、所要日数で記述してる国は、切り分けて考えてるよ 少なくとも、卑弥呼の倭国と、後の日本国は「別の国だろー」と思っていた中国人がたくさんいたことは明らかである。
1140年ごろに描かれた『古今華夷区域総要図』では、倭奴と日本は別の島になっている。
1532年に描かれた『四海華夷総図』でも、倭と日本は別の島になっている。 >>577
>>505はどう解釈するんだ?
どう考えても転載でしょ >>578
旧唐書には
日本は元は小さな国だったが倭国の地を併せて大きくなったと書かれているんだから
倭国と日本は全く別だと認識しているし
日本=大和王権が後から勃興して倭国を侵略して大きくなったと明確に書かれているしな
倭国連合の代表の邪馬台国ならば、邪馬台国も倭国なので
このような書かれ方はしないだろうな
倭国とは別の勢力という認識だからわざわざ倭国の地を併せて大きくなったと書かれていると解釈するのが妥当だろうね >>579
別にそのまんまだろ
投馬国(宮崎)と邪馬台国(北部九州)は、帯方郡からの所要日数 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
伊都國だけは常に漢字が一貫している。
ところが、邪馬台国は常にバラバラである。
笑えるのが唐の李賢で「今その名前を案ずるに邪馬臺というのは邪摩惟(シェイモウウェイ)のなまりである」と言っていて、唐代の発音の方が正確であるはずなのに、訳の分からない名前になっている。 金印の時代も疑わしいしな
金印シンポジウムではいろいろ言われてて面白い
つまみだけ付け加えたラクダ説とか >>519
具体的な反証があるなら話も聞くんだけどね
ただそれは嘘それは嘘と繰り返されてもこちらとしてはああそうですかとしか言えない >>581
原文に無い投馬国は何処なのか分からんね 江戸時代の学者なんか関裕二と変わらんやろw
なんで正しいとおもうのか >>583
金印は根拠になり難いな
何人かの手に渡って失くしたかも知れんしな 国号が大和から日本に変わったころはもう日本は中国に朝貢やめてるので
たとえば国号についてとか詳細な情報は大陸に伝わらなかったと思う >>565
>行程距離を全部足せば1万2千里てのは別におかしく無いけどな
そもそも、魏志倭人伝のどこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない!
すべて直線距離で表されている。 @阿波 >>584
そう、魏志倭人伝に書いてあることそのまんまのことしか書いてないのに、
畿内説はそれはウソそれはウソしか言わない >>583
全部創作ですよ
あんなもの意図的に作れちゃうし
金メッキ施したりしてさ
金印なんてあると本気で思ってる奴は馬鹿w >>571
後漢書鮮卑伝に思いっきり、山東省辺り?にいた倭人を
拉致してつりをやらせたって書いてるじゃんw >>588
いや、遣唐使から話を聞いているだろ
そして日本の言うことは信用できないと書かれている >>568
>阿波が邪馬台国ならなぜ阿波なのか書いてくれ
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 >>588
『旧唐書』の日本国伝に書いてある。
日本国というのは、倭人がその名前をきらびやかでないのを嫌って名前を変えたか、日本国が倭国を併合したと。 >>569
>阿波が搾取されてた可能性を考えないのかwww
「忌部一族(阿波勢力)」以外にだれが搾取したというのか? アホ玉よ。 @阿波 >>29
>繁栄に影響を及ぼすほどの鉄を輸入出来たのか
「忌部一族(阿波勢力)」だからな。 @阿波 >>590
直線距離とも書いてないだろ
直線にしようと思えばそれぞれの行程を計算し直さなきゃいけないけど
そんな事やってると思えない >>600
>直線にしようと思えばそれぞれの行程を計算し直さなきゃいけないけど
人に分かるように書け! @阿波 >>601
だって北東とかに行くと真っすぐになって無いでしょ
ひたすら南下なら直線と言えるかもだが >>596
その倭国はエミシのことでしょ
大和朝廷(日本)が東北・北陸のエミシを併合完成したのが7世紀だから
そのことを日本(大和)が倭国(九州から東北)を統一(併合)したという意味だよ
中国人にはそのへんがよくわかってないから大雑把な説明として扱われてるだけ >>601
横だけれど
直線距離だとすると
それまでに分かっている行程の距離を一旦ご破算にして
計算しなおさなきゃいけないので無駄になるだろ?
行程距離の合算なら合計を出すだけなので楽って意味だろ
そもそもわざわざ直線距離で出す意味なんてないだろ
古代人には直線で進めるジェット戦闘機も弾道ミサイルのような兵器もないんだぞ
何のために古代人が直線距離を算出する意味があるんだ? >>100
んだす。
当時の侵攻者が中国人の男だっただけだす
日巫女は、たんなる巫女であり 祭祀の人 >>603
蝦夷は倭国ではない
魏志倭人伝にも毛人と書かれている 四国の物部子孫だけどね
やっぱり物部川流域に住んでるよ
だから川の名は大事な資料なのは確か >>603
そもそも古代中国の王朝にとって
「倭国」とは九州だけを指す言葉
まずこの常識を頭に入れて置いたほうがいい
https://i.imgur.com/sLjZGVj.jpg >>606
毛人てのは朝廷が従わない周辺の国を蔑称として呼んだ名前で魏志には書いてない
雄略が畿内から遠い地を毛人と呼んでる
当たり前だが毛人なんて別民族は本土にいない
日本はアイヌを除けば単一民族、東北地方もみんな「倭人」 >>611
でも、お前、さっきの書き込み間違ってるの認めたら? 考古学なんてのは理系も文系も体育会系もダメな連中が行くとこなくて専攻するような分野だからな
考古学者なんてのは中卒レベル
研究熱心なのはいいがIQ低すぎて事実と想像の区別が付かないのが最大の欠点
そして不正の誘惑にも弱い 倭国とは、毛人である?
ただのバカは無視しましょう。
明らかなバカなのに、間違いを認めないのは無視した方が良い まあ当時ウルトラ先進国だった中国の後ろ盾は欲しいんじゃ?
何か有った時には「火の用心のお札」と同じで何の役にも立たんけど。
平時の権威つけには良いんだろう。 >>615
それはあるけれど
邪馬台国が畿内のヤマトを詐称した説はさすがに
突飛すぎるだろw
普通に考えて、倭国連合30カ国を束ねるための権威付け
あるいは残り70カ国の倭国のクニグニもこの卑弥呼を神輿に担いでいる倭国連合に
参加させるための権威付けに使いたかった
後は邪馬台国と敵対していた狗奴国との戦いを有利にするために
魏を後ろ盾に欲しかった
こんな理由だろう >>615
そう思ってたか疑問なんだがなあ
3、400年ほど後には日出処の天子とかやってる訳で 日本書紀に全部書いてないか?
神武東征する時に、最初に倭人と出会って
道案内してもらって、古代奈良にいた人達征伐して
大活躍したんで、国造を倭国造とした
って。 >>618
そのとおり
むしろ、畿内ヤマト政権が九州邪馬台国を詐称した
親魏倭王の威光を利用するために だろうだろうと推測の積み重ねで、流石、作家としか思えない。 >>617
現在の国で言うと、中国人のようでございます >>620
つまり倭人=国津神(日本列島在来人種)
神武が率いる氏族=天津神(渡来系氏族)
って解釈になるんだろ?
つまり畿内は倭人ではなくて、後からやって来た渡来系氏族の子孫 ヤマト民が文字を読めるようになった頃、魏志倭人伝を読んで邪馬壹国の歴史を自分たちの先祖の話だと勘違いした可能性はある。 >>619
朝貢しているうちは子分のままだからね
日本は中国から親離れするまで400年もかかった 坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。近年、纏向遺跡における箸墓古墳の発見以降、多くの学者が邪馬台国とヤマト王権を同一視し、邪馬台国大和説をとっています。その中で、橿原考古学研究所の職員として纏向遺跡の発掘にも携わってきた著者が、考古学の立場から邪馬台国とヤマト王権の違いや、邪馬台国北部九州説を説得力を持って証明していることは重要です。
著者は次のように指摘します。
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>626
良いものくれるから朝貢してたんだろうけど本音はどう思ってたのかなあと
国内で権威になったのかね >>624
渡来人に倭って名乗らせてる
>>42← でも金印は二個あるからね
もう一個が出たらそこでいいわ 土雲って縄文人と弥生人が最初に和合して上手く行ってたグループなんだろなぁ
これを後からやって来た弥生人か渡来人のグループが駆逐したんだな
ただおかしいのは狗奴国は縄文色が濃いんだよな
何かまだいくつか捻れがありそうだ >>628
そりゃなるだろ?
例えが下卑ているけれど
例えば暴走族の少年たちが
俺たちの後ろはあの最大の暴力団の山口組さんがついているからな
俺たちに逆らえば、怖いオジサンたちが黙ってないからなと脅しに使えば
他の暴走族の少年たちはビビって、言うことを聞いて
分かりました、傘下になります、って感じになるだろw 「大和」は、魏志倭人伝では女王国で使われていた市の監視役「大倭」と記載されている
纏向付近は「大市」と呼ばれ、市で賑わった土地
通じるものがあるな >>624
奈良の渡来人入植は4世紀末頃〜
産経新聞(2018.11.28) 最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
『白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。』 >>634
つまり古代中国王朝の見方は正しいってこと
つまり畿内の政権は倭人とは違う氏族の政権だという見解
古代中国王朝では「倭国」=九州だったってこと
https://i.imgur.com/sLjZGVj.jpg 我々はkudarc政権だ!
みたいな?
マジかよー挫折政権かよー >>637
中国からはそう見えただけで正しくは無いな ヤマトタケルってまず双子の兄貴を殺害してその地位を乗っ取り
クマソタケルを殺してタケルの名前を拝借
イズモタケルも殺して宝剣を拝借
ヤマトも歴史も盗んでもおかしくないな >>639
いや、意味がわかっていないw
魏が倭国30カ国が女王を共立してと書いているんだから
女王も倭国の中の存在=邪馬台国=九州って言っているんだよ
物分かりが悪いなw
別に日本人の視点では倭国は九州だけじゃないと思っているのは関係ないってこと
古代中国人の目線で倭国連合と言っているんだから
それは古代中国人視点では九州連合と言っているわけよw >>9
曹丕、
司馬懿が公孫燕を滅ぼしたから卑弥呼が和平結んだ 嘘なんだろうけどね。
そんな有力者なら墓でもあるはずなのにないし
魏志倭人伝でしか出てこないからな
邪馬台国と卑弥呼って >>646
卑弥呼の墓はあるだろうけれど
特定されていないだけだろ?
ない、ってわけじゃない >>642
中国からはそう見えてただけで正しいとかじゃ無いから >>574
邪馬台国時代の遺跡に船の絵が描かれてるよ 今で言えば大阪民国の吐媚太晋血に卑弥呼っていう凄い風俗嬢がいるんだぜーってツイッターとかで書いたデマが広まったって程度のことだろうな
邪馬台国や卑弥呼って
神武天皇や聖徳太子でさえ嘘なんだし 九州収めるほどのやつなのに
お墓や記述日本にない時点でガセだよ >>650
>つまり古代中国王朝の見方は正しいってこと
おまえがこれ書いたんだから >>649
邪馬台国時代の遺跡
それを証明するソースは?
その辺に落ちてる石を邪馬台国の時代からのものって言ってるだけじゃね >>653
オレは正しいと思っているよ
ただ正しいと思っていない人に対しても
>>642
で、倭国と記述していることで邪馬台国は九州に有ったことの証拠になるって言っているんだよ 1〜2世紀佐賀市七ヶ瀬遺跡から出てきた墓の様式と
久留米市祇園山遺跡の墓の様式が似てるんだよな
祇園山遺跡も1〜2世紀だったとすると2世紀の九州北部では
糸島市 伊都国
福岡市、春日市 奴国
佐賀市 七ヶ瀬遺跡
久留米市 祇園山遺跡
これらが同時期に存在していた
今後調査で甕棺や石棺の造りで共通していて同じ工房で作られたとわかれば
これらは同盟国だった可能性が高い >>645
ホルホルしたいかは別として
噂程度の話が本当のように広まっただけでしょ
今でもどこどこのクラブにすごいヤリマン女がいるんだぜとかいうガセネタが定番になってる次元の話 >>655
連合国家なら邪馬台国と大和は無関係じゃ無いかも知れんしな
まあ書き方次第で
認識不足で間違ってるけど中国王朝からはそう見えたが正解かもね >>652
畿内ヤマトから見たら土蜘蛛の王さまだからな
そりゃ記録にない また畿内説は反論が出来なくなってトンチ詭弁とはぐらかしやすかしに入ったな 何処へ消えたのか?って
朝鮮半島の南部の倭人は当時はメジャーな人口だったが
疫病で南方系の人種がほぼ絶滅したことは既に調査されているじゃん
もしも卑弥呼の勢力が、歩いて行ってるならば
通過点である朝鮮半島南方を通って疫病を持ち帰り
邪馬台国そのものをすっかり絶滅させたと言うことは普通にあり得るじゃん
ヤマトと戦をした形跡が無いもんな >>3
でも金印もらえてるんだよなあ
中華世界では玉(国内内臣)に次ぐ地位で、外国としては数少ない一等国扱い
次いで銀、銅、木と続いてく
因みに朝鮮半島は木印で「地方官」止まり…つまり独立国として認めて貰えてない 古事記では土雲で出雲と同じ雲を当ててるのに
日本書記だと土蜘蛛で悪意丸出しなんだよな
漢字悪字当ては日本書記のが悪意は強いな
それこそ倭人伝より悪意がある 住居が海岸縁だった場合、邪馬台国は地震による津波で一夜にして壊滅したかもしれない。 >>662
それを貰って喜んだかどうかが分かんないんだよな
一豪族ならともかくヤマトとして 漢の金印も「何だこりゃ?こんなの要らねえ」でポイっとやったかも知れんし >>602
>だって北東とかに行くと真っすぐになって無いでしょ
だれが北東へ行くってんだ?? トンデモといっしょにすんな。 @阿波 >>667
書き間違えたけど意味は分かるだろうと思ったからそのままにした
東南な >>665
あれは作り話らしいしな
ウソってことw >>663
古事記は「俺らはこういう経緯で天皇の元に集ってるんだ」という国内向け記録
日本書紀は「こうして日本ができたのです」という国外向け記録
結束より討伐重視は仕方ないね
>>665
当時は中華が超大国で、ザックリ言うと中華連合みたいなもんだ
日本が対等めいた親書書いて激おこされるのは数百年後
今でもアメリカに認められれば嬉しいだろ >>604
>それまでに分かっている行程の距離を一旦ご破算にして
>計算しなおさなきゃいけないので無駄になるだろ?
なんで計算し直さなきゃならんのだ? あほか? @阿波 >>663
当時の支配層が書かせたものなのだから、自分たちに都合良く書くわけで
つまり、中国系がよくやる当て字の悪意ってこと
中国系は 陰湿で悪意丸出し
とゆう話w
それに 完全に統治もしきれてなかった様子だしね >>671
行程の距離はわかっているのに
わざわざそれを合計せずに
直線距離出すなら他にわざわざ計算するか
計測することになるだろ?アホか? 中国の歴史では邪馬台国と大和朝廷は別物扱い
これは日本から提出された王年代記を参考にしてるので日中ともにこの認識
なぜか「大和朝廷が邪馬台国の後継を自称した」等と言う人がいるが全く見当違い
むしろ完全に無関係だと大和朝廷側は主張している
場所は大和であると中国史は記載しているので、大和の内部で邪馬台国が大和朝廷に取って代わられた図式になる >>656
>今後調査で甕棺や石棺の造りで共通していて同じ工房で作られたとわかれば
>これらは同盟国だった可能性が高い
つまり、「忌部一族(阿波勢力)」の進出を示していることに他ならない。 @阿波 >>671
南下して東南や東に行くと直線じゃ無くなるのよ
帯方郡から阿波は地図だと九州に上陸して直角に曲がるでしょ
それを直線で線を引くとその距離を計算しなきゃいけない >>663
雲は太陽を隠す
アマテラス信仰文化圏にとっては邪魔な存在 >>664
>住居が海岸縁だった場合、邪馬台国は地震による津波で一夜にして壊滅したかもしれない。
あっという間に、復旧するさ。 要らぬ心配すんな。 @阿波 >>672
そうです
当時の権力者に ズタボロにされたらしいわ 𐳓𐳪𐳇𐳀𐳢𐳄
kudarc
百済
𐳎𐳀𐳢𐳘𐳀𐳦
gyarmat
ヤマト
ロヴァーシュ文字は右→左な点に注意 金やら 賞状
権威や 肩書きで喜んで興奮しまくって 嬉ションするのは みな だいたい中国系だよ >>681
土雲グループの一つに卑弥呼と邪馬台国が居たんじゃないのかな? https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=Indon%C3%A9zia%20abban%20az%20id%C5%91ben%20holland%20gyarmat%20volt%2C%20%C3%ADgy%20nagyapa%20megtanulta%20a%20holland%20%C3%A9s%20az%20indon%C3%A9z%20nyelvet%20is.&op=translate
Indonezia abban az időben holland gyarmat volt, igy nagyapa megtanulta a holland es az indonez nyelvet is.
当時,インドネシアはオランダの植民地でしたから,おじいちゃんはオランダ語とインドネシア語の両方を学びました。 >>675
>行程の距離はわかっているのに
直線距離でな。
>わざわざそれを合計せずに
だから、なんでわざわざ合算するんだ? 要らん事、勝手にすんな! あほんだら! @阿波 問題は朝鮮半島が鉄の精錬をはじめたのがいつか判らないこと
あいつら歴史をインチキで塗りたくったから事実が判らない そもそも、🇭🇺ハンガリー語はぶっ壊れまくってるけどw
元々はアジア系の言語だったようだ。 >>627
>弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
邪馬台国が魏と外交交渉したのは弥生終末期の一番最後の時期
>楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
一般的な畿内説でも交易拠点は北部九州であり、上記は架空の畿内説への批判でしかない
>邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
前方後円墳の築造に先立ち、庄内式土器の各地への流入
また纒向遺跡では全国各地の土器が出土
中国鏡をほぼ独占入手している状況
https://i.imgur.com/BbxsgG7.png
>邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
ホケノ山古墳
>さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。
明確に楼観・城柵とみなせる遺構が見つかってないのは確かだが、1000人の侍女が仕えることができる大きさの遺跡は、全国で唯一纒向遺跡のみ
もちろん九州には候補になりえる遺跡は一つもない
まあこの人は森浩一の弟子だし今さら主張を変えられないだろう
畿内説・九州説どうこうとは関係ない日本古代史の通説さえも否定した見解が含まれているから、この人の説は正直どうでもいい >>675
>直線距離出すなら他にわざわざ計算するか計測することになるだろ?
最初っから「直線距離」で示しているものを、なんで計算し直さなきゃならんのだ? と何度言えばw @阿波 >>679
天照に捧げる稲には雨が必要
雲は必要なのさ >>678
>南下して東南や東に行くと直線じゃ無くなるのよ
>帯方郡から阿波は地図だと九州に上陸して直角に曲がるでしょ
??? 万二千里も直線距離 だと何度言えばw @阿波 中国史の記載はこうなっている
…系譜不明
→系統
奴国→倭国大乱→邪馬台国(大和)→卑弥呼…男性王…台与…男性王…アメノタリシヒコ(用明天皇、以下皇室系譜)→倭から日本へ改称(壬申の乱)
↓
神武天皇→(以下途中省略)→アメノタリシヒコ(用明天皇)→以下皇室系譜継続
という形になる
皇室は奴国の後継で邪馬台国の後継ではない事になっている
邪馬台国と大和朝廷に直接的な繋がりはない事になる 弥生人が謎なんだよ
何か倭人も渡来人も一緒だもんな
だから+縄文の土雲がぼやける
ここを日本書記の作成者達は悪用してる
オンドル+倭人+縄文が土雲じゃないかな?
これが北部九州で卑弥呼の居た邪馬台国
オンドル抜きの倭人+縄文が狗奴国の卑弥呼呼で南九州 >>689
少なくとも、弥生時代中期後半からだよ。 倭国(阿波)でその頃から鍛冶やってるからな。 @阿波 宮脇淳子「大陸で生きていくのは大変なんです(意味深)」 >>672
現物見てないから風評かは知らん
ただ立場や目的によって書き方は変わるよねって話では >>692
理解したか? 石頭よ。 わははははは @阿波 はい、答え合わせのお時間ですよ
■大宰府に残されていた文献に邪馬台国の場所が記されています。
張楚金の『翰苑』 660年以前に成立。平安時代初期(9世紀)頃に転記。
https://i.imgur.com/aoXGq7Z.png
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
※中国の史書において連続した行程は「又〜至る」と記述される >>699
聖徳太子にしても蘇我氏をリニューアルして自分達側に組み込もうとしてるから
ウッカリとかじゃなくて意図して風評被害をやってる 中国の歴史を見ると皇室は奴国の系統上にあり、大和の邪馬台国に変わって大和の政権を世襲するようになった勢力と書いている
どのタイミングで変わったのかは不明 >>690
もしかしたら ルーマニアもなんかな?
ルーマニアは、ルーマニア語や ハンガリー語を 今は使うみたいだけど >>697
わりと遅いよね
稲作始まってから かなり経って 大陸から
職人集団が来たのだろうか? >>702
多分我々は風評被害という単語の解釈にズレがあるだけだな 天照大神も天之日矛と同じように渡来神で海人族や秦氏が信仰して祀っていた神だよね、天皇もそっち系てことよね。 >>687
じゃあ、お前は
古代人はより簡単に測れる行程距離じゃなくて
どういう方法を使ったのか、お前にも説明はつかないけれど
古代人の技術で直線距離を計測したと仮定してもだね
直線距離が全く実用性がないのに、何で古代人はわざわざ直線距離を測ったと思っているんだよ?w
当時は飛行機もミサイルもないから直線で進めるものなど皆無だぞw
しかも直線距離を測れるなら、精度の高い地図が作れるはず
なのに古代人の地図ってこんなものだよ
これ古代じゃなくて中世の時代だけれど
こんなものだよ
https://i.imgur.com/sLjZGVj.jpg
この矛盾をお前はどう説明つけるのさ?w >>703
だいたい その感じはわかる
やらせていたんだよ 倭、倭国は九州王朝だ。
対馬を挟んだ日本列島と朝鮮半島を版図に治めた古代の超大国だ。
ただ663年白村江の戦いで敗戦して滅びた。
日本が出てくるのは、全部これ以降の時代だ。
記紀もそうだろ。
それ以前の記録は焚書か紛失した。
記紀には邪馬台国を日本とは書けなかった。
そりゃそうだ、倭国は大国で中国の記録に何度も出てくる。
新参の日本が「ウリは倭国ニダ」と騙っても、
モロバレしたからだろうw 後からやってきたグループはさ、自分達の存在意義を高めるために原理主義で攻撃すんだな
廃仏毀釈を人間でやったんだよ
本来は和を以て尊しで神仏混合こそが日本人的だと聖徳太子の蘇我氏も言ってたのにすり替えられるんだな
土雲は人間廃仏毀釈という民族浄化やられたんだな
そういやシリアで民族浄化をしたのはイスラム原理主義だったな 中国史は隋書以降は卑弥呼の事を一切記載しなくなる
その後は書き出しに「日本(もしくは倭)は元は奴国である」という記載から始まる
「元は邪馬台国である」とは書いてない
皇室は邪馬台国ではなく奴国の系統であると中国は認識していることが分かる >>691
年代を逆算したら纒向は候補から除外せざる得ないことが判明したよ
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる >>709
>直線距離が全く実用性がないのに
あほ! 直線距離じゃないと、地図が書けんだろうがよ。 何考えてんだ? @阿波 >>717
だから直線距離計れるなら
マトモな地図があるはずだよって言ってんだよ
理解力がないなあ
でも中世でもこの程度の地図だよ>>709
これじゃあ距離云々のレベルじゃないって気づけないの? >>709
「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」 >>713
中東はね だいたい感じが わかった
エジプトの仲介も、もう要らない >>685
だから
田油津媛
卑弥呼の時代から100年後くらいに
神功皇后に討たれている
現在の福岡県山門郡に棲んでいた土蜘蛛の女王だそうだ >>720
そうやって逃げる?w
こうやって計算すればピッタリ符合するんだよ >>714
中国にはバレてるってことだわ
ヤバイわ…
マジ あいつら >>719
>だから直線距離計れるなら
>マトモな地図があるはずだよって言ってんだよ
「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」 そもそも卑弥呼は高齢の独身女性で共立された人間
役割りは宗教的な祭祀で政治は一切やっておらず王として世襲をする人間ではない
次の男性の王も安定して即位できずに混乱を起こし、次に即位した台与にしても「卑弥呼の宗女」で娘ではない
なので邪馬台国そのものが系統を残すような政権ではなく一代限りの不安定な勢力だった事が伺える
この不安定な共立による否世襲の政権が、混乱の後に世襲王統に代わり大和朝廷になった物だろうと推察される
全国的な文化的な連帯の進む古墳時代の開始段階がこの変化に当たるのではないかと思われる
西暦で言うなら4世紀頃だろう >正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等
正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣した
>又渡一海 千餘里 至末盧國
>有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前人
又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。
240年に倭国に来た魏の使者の梯儁は末盧国に来て
草木ボウボウで前を歩く人が見えないようなところを歩かされた
この記事は伊都国と奴国との関係が悪かったから
使者は末盧国から上陸したことにしているが
それなら末盧国を経由せず伊都国に直接上陸もできたはず
糸島半島の付け根の東側も西側も天然の良港となる地形をしている
249年?くらいに来た二人目の使者張政は奴国や不弥国のことを追記しており
関係が悪かったとは考えにくいし
伊都国の王は紀元前1世紀に奴国の王だったが
後に民衆とともに暮らさず
少し離れた福岡市西区の吉武高木遺跡に住むようになり
1〜2世紀さらに西に移動して糸島市に奴国をおさめる王族が住んだ可能性が高い
一人目の使者梯儁の末盧国上陸は天候不順とかもっと別の理由だと考える >>723
神功皇后は 中国系だな
出雲とは仲がよくなかったのかもしれんわ >>715
その通り。
纏向は調べれば調べるほど、4世紀中期から後期にしかならなそういう結果が出てるのに、
読んでないのが近畿箸墓原理主義 王は民衆と住まない制度が1世紀くらいの九州北部から始まったのね
57年漢委奴国王の時にはすでに王は民衆から離れて住んだと思われる
民衆は春日市 王は福岡市西区に住んだが奴国王であった わかりやすく
民衆は奴国春日市に住んで
王は福岡市西区の吉武高木遺跡周辺に住んだ
王は奴国には住んでないが奴国王だった >>701
安東大将軍とか新撰姓氏録にいないんだよね…
どういう事だ?さすがに大将軍なら書くだろ >>709
距離を考えてない地図を出してドヤってのもな
これが行基図。
668〜749年
i.imgur.com/2X1Loxk.jpg
距離ではなく国の境と位置、版図を表している
坤輿万国全図
16世紀にリマトゥの監修で作ったもの
www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/viewer/viewerArchives/0000000503
これが距離測量した16世紀、伊能全図
i.imgur.com/s7xIIc9.jpg
ちなみに魏志倭人伝は位置と距離で書いてある
その図とはコンセプトが違うからな そうか、九州で決まったのか
いやあ長い闘争であった >>730
発掘調査で出た モノと 科学検証も交えて
およその炭素年代と
文献の中身まで 偏らずに冷静に観察して
照らし合わせられるか
の、作業になるから かなり大変だよ しつこいようだが、何の議論もいらない。
もう九州で確定している。
↓
魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
よって、邪馬台国は九州である。 少なくても中国の魏にとって
近場で交易に便利な九州の国々ほっといて
いきなり畿内周辺の辺鄙なわけのわからん国のとこに行くかね? 1世紀の九州北部では住む場所で王と民衆を区別したってことね
王は奴国の民衆と共に住まず西側に離れて住んで時代とともに西に移動した
吉武高木→伊都国
この住む場所の区別はのちのヤマト王権や飛鳥の宮や
天皇家と貴族しか都の一等地に住めないことに繋がった可能性があり
九州北部こそが日本の統治の制度を作った地である可能性がある >>727
エジプトは神政一致だよ
王とはなにか。
それは神の裁きの代弁者であり、
税を納めさせて再分配する公平なる執行者のことを指す
逆に王が巫女であり、国政に直接的行使をしないつうのは
完成された官僚制度が形成されてたことになる Az eredeti tizenharom amerikai gyarmat.
(アメリカ13植民地。)
現代ひのもと人は、倭人語の意味忘れてしまったのか… >>738
無理だよ
九州通らなきゃシナに行けない
同盟するか征服するしかない >>736
まあそうだね
でもそれやるのがお仕事。
炭素年代は400年の誤差があるから、
どうしてもあてにならない部分がある
例えば纏向ではモモの種の炭素年代で3世紀から5世紀の幅があるが、
モモの種は明らかに箸墓や纏向神殿からかなり遠い
塚だから人が住んでた証拠ではあるけど、
これだけで箸墓が卑弥呼の墓ってのは無理がある
トロイアだって10層以上地層あるんだよ >>738
畿内論者って、我儘なガキみたいだよな
常識的に考えて九州だろうに
畿内じゃなければ嫌だ!ってひたすら駄々をこねているだけw >>743
そもそも纏向で桃の種が発見されたのは柵列の下の別の遺構。
土坑は建物の柱穴より深く連続していない遺構なので関連性は不明。
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
少なくとも建物と桃が同時期のものでない事は確かだ。 >>738
魏はお迎えされてるのだから、
使者の国についていった
そこで「九州すっとばして」が変になるかどうかは議論にならない
東京でオリンピックあるときに、わざわざ東南アジアから途中、九州四国近畿観光してから東京に来ることはない
それなら港伝いに移動するわけだから。
遣隋使には九州の地理の描写はないよ
でも、近畿説だとすると問題は北九州まですげえ詳細なのに、
国内に入った途端にまったく吉備と大阪難波津の地名が出てこない
縄文海進のせいだとしても難波津から神武もあがってるはずなのに。 >>738
魏には、日本側も入ってるし 大陸側に居たのかもしれない
でも たぶん中国の内地で戦乱や中国の支配層が変わったりで滅ぼされてるかと
かなり内陸部に居てたっぽい 入れ替わってはないんでしょ?
半分はヨーロッパへ逃げた? >>745
そうだね
だからそう書いてる
モモの種も中国種とは確認できてないので、
食って捨てたのがそこなだけ。
「祭司の跡」なら穴掘って埋めないのね
これは古事記に土の下は黄泉の国としてたことからもわかる
だから土の「上」に古墳を作るわけ >>743
地層か… そうだよね
食べるには道具が要るし、近畿には その器も大量に出てきてるわけだし
そもそも モモの種があること自体が…ね
モモといえば 中国ですからねw 魏志倭人伝は司馬懿の手柄を誇張するために
「司馬懿のおかげで判明した東夷の国の詳細」を盛り盛り書いている
そのため、魏の時代ではない情報や繋がりのない情報が
あちこちの資料から切り貼りされて唐突に挿入されている
例えば、刺史は行政官(魏)のはずが監察官(漢)になっていたり
魏略では伊都国は万余戸とあるのに魏志では千余戸になっていたりする
翰苑(廣誌)では伊都国の次が邪馬嘉(臺)国となっているが
魏志では里数の資料とは別の、日数の資料の情報が挿入されている
また対馬、末盧、伊都、奴と戸数なのに、一支と不弥は「家」数になっていたり
その記述は常に一貫性を欠きつづけていると言っても過言ではない
ので、末盧国の描写「草木がぼうぼうで前を歩く人が見えない」も
いつの時代の話なのか分からんぞという話 >>738
>畿内周辺の辺鄙なわけのわからん国
日本の教育を受けてないんですか?
ヤマト政権って知ってますか? >>752
アスペかよ?
古代中国人目線での話だろ?
それまで外交に表舞台に立ったことがない
日本列島での新興国だった畿内のヤマト王権なんて
古代中国王朝にとっては>畿内周辺の辺鄙なわけのわからん国
って意味で書いているんだろうに
どうしてこうも物分かりの悪い奴ばかりなんだろうな?畿内論者って基本的に頭悪いだろ?w >>747
たぶんね、中国華北には日本人はいなかった
なぜなら、漢楽浪郡に使いを出してるが、
邪馬臺国使節団はすでに漢が滅びてて魏に変わったことを知らなかった
また、晋に送ったのもそれ
> 現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月、倭人が朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始の初めに倭人が通訳を重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與と考えられている。
魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したものと考えられる。 >>652
大和政権って都合の悪い記録は全部抹消してるからね
日本ほど歴史が当てにならん国はないレベル >>737
>よって、邪馬台国は九州である。
「阿波」が存在する限り、いくら連呼しても無駄。 @阿波 >>746
九州も魏ですよ
中国大陸側にも魏がありましたね
中国の内地で 戦乱か、何かの支配者交代などがあったか
日本列島にも 中国から かなりの政治的亡命者が、逃げてやってきたのかもしれませんね?
現代でもあるのだから、当時でもあったでしょうね >>738
>少なくても中国の魏にとって
「少なくとも」 と言え! @阿波 >>753
教科書レベルの日本史を否定して創作した与太話に興味なし 邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
倭国の首都は、九州と思っていた中国人が、裴世清来日以降、畿内に連れて行かれたので混乱している。
特に、唐の李賢が笑える。
「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟(シェイモウウェイ)のなまりである」(笑)
完全に混乱してる。 >>742
心配スンナ。 しょっちゅう行ってる「忌部一族(阿波勢力)」に任せとけ。 @阿波 >>701
http://www.eonet.ne.jp/~temb/8/image001.gif
言葉遊びじゃね? >>752
>ヤマト政権って知ってますか?
倭国(阿波)から遷都した、8世紀の大和朝廷からな。 @阿波 >>750
縄文時代の長崎が先
>日本では長崎県の多良見町にある伊木力遺跡[8][9]から、縄文時代前期の桃核が出土しており、これが日本最古とされている。
弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、各時代を通じて出土事例がある。
桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串など祭祀遺物と伴出することもある。
平安時代 - 鎌倉時代には珍重されていたが、当時の品種はそれほど甘くなく主に薬用・観賞用として用いられていたとする説もある。
箸墓が日本最初のモモの発見地ならよかったね >>694
簡単に言えばって事で現実はもっと細かく区切って東南に行ったり東に行ったり南に行ったりしてるでしょ >>755
だから中国は日本に歴史捏造国とレッテルを貼ってる
先日、中国が韓国の歴史捏造を暴露してた >>751
魏があったのだから、そいつらを利用しない手はないからね
あらゆる場所に魏が居たのなら 報告書も わりとバラバラだろうし
もし、大陸と列島に またがって居たとするなら 日本側には情報が遅れたり 時間も 少しはズレますねぇ >>757
九州も魏、の意味がわからない
あと句読点つかおうや
改行で読みやすくするのはありだが、スペースうつと
息切れに見える
コロナか? >>738
奈良先住民の丹敷戸畔とかの勢力だと、
魏志倭人伝引用した部分と矛盾しないか?
別な勢力? >>756
おまえもうちょっとまともに話しを聞くかと思ったけど無茶苦茶だな >>759
教科書の邪馬台国は畿内にあったと載っているか? >>755
そりゃ、植民地だなんて記録に残さなくても 印綬については魏晋時代の印綬が多く見つかっていて後漢時代から大幅に増えている
対象もほぼ北方民族だけだったものから範囲が増えている
これは魏晋王朝が周辺民族との関係にかなり強い関心を持っていたことを示している
移民や異民族戦士の活用を行った政権の性格が出ている
朝鮮半島にしても高句麗や韓との戦いを行っており、倭との外交は安全保障上で大きな意味を持っていたと言える
この事から魏晋王朝が異民族に対して適当な記載をしていたとは考えにくい
俗説で聞かれる単なる権威付けなどではなく、積極的な外交政策の上で行われた使節の交換であったろうと言えるだろう 九州が魏とゆうか
それは 言い過ぎかもしれないけど
現代の日本の中国地方や、山口県あたりにも 魏はあったかと思うよ?
近畿エリアにまであったかどうかは 少し疑問には思うけど
かなり 中国大陸と日本に またがって居たと思うわ
でないと説明がつかないもん >>760
各時代の音で頼むわ
>>751
手柄誇張は当たり前で、
日本書紀にも白村江で負けたあと、
中国唐軍が大規模捕虜を連れて北九州に長期駐屯、
つまり占領された事は書いてない
そもそも磐井の乱で新羅征伐止めてることの中身も個人的な問題にしてるが、
二王朝なら筑紫の国が邪馬台国の後継の可能性もあるからな
その辺は一次史料をかき集めるしかない
さらにいえば、今の日本の教科書だって、
古書の切り貼りだよ >>771
ヤマト政権のことだ
おまえ会話にならないから絡んでくるな
創作ラノベ書きたきゃ一人でやってろ つか、マレー半島の近くで出てくるんだろ?
倭国の紹介って。
マレー半島にインドイラン系の人住んでたんじゃないの?
その人たちと一緒に日本平定した。 >>751
東夷遠征は、司馬帥・司馬昭兄弟の政敵の毌丘倹の手柄やで >>776
だから時代が違うだろ?マヌケ
これは邪馬台国の時代の話だぞ
3世紀の話なのちゃんと話が見えてますか?そこの低知能はw >>773
例えば
> また侏儒国が、その南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里。
>また裸国・黒歯国がその東南にある。船で一年がかりで着くことができる。
これなどは完全に妖怪の類いだが
山海経などに書かれてる東南海中の島国の描写が唐突に挿入されている
このように「司馬懿のおかげで判明した東夷の詳細」を盛るために
あちこちから切り貼りしてきて水増ししたのが魏志倭人伝の記述 >>770
九州にも居たし
それとは別で 阿波もあったみたい >>779
>つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
おまえのカキコミだ
教科書レベルの日本史を否定したデンパ系与太話に興味なし >>782
>>756みたいな言い方は無いだろうって事を言ってるんだよ 文字が一般的でない時代はオペレーター事務系としてのチーム卑弥呼は居るよな >>765
>現実はもっと細かく区切って東南に行ったり東に行ったり南に行ったりしてるでしょ
寝言は寝てから言え!
万二千里も直線距離 だと何度言えばw @阿波 九州で統一王朝を伺わせる遺構が出てこないのがね。
捜査に例えるなら聞き取りの調書はあるが裏付けできる証拠がない状況。 卑弥呼の時代=2世紀後半〜3世紀前半における鉄器文化浸透状況を見れば一目瞭然
『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png >>783
教科書に纒向遺跡は卑弥呼の時代って書かれているか?
日本書記をきちんと読まずに
あの時代の天皇は架空と決めつけないと成り立たなくなる畿内説のほうが
ヤマト政権のことなど軽視しているように見えるが
オレは日本書記に出てくる天皇は実在したとして
忠実に年代を計算したら纒向は卑弥呼の時代よりも後の時代と結論に至った
日本書記、古事記を無視している畿内論者の方がある意味反日なのではないの?w >>770
>おまえもうちょっとまともに話しを聞くかと思ったけど無茶苦茶だな
相手してやるから、掛かって来い! ヘタレよ。 @阿波 >>788
もともと倭国30カ国が女王を共立して
なのだから、統一王朝ではなかったんだよ >>774
それは魏の大使というか、魏の出張所があったって想定なのか?
ところが遣唐使の失敗に見る通り、直接大陸から行ったり来たりは難しい
だから高句麗から曇徴と王仁が漢字と水車を伝えに来てる
推古代に。
だとすれば華北で手一杯の魏が各地に魏の役所置くよりは、
魏公認の倭国王として邪馬台国を認めたのも納得だろ
現に宋から倭の五王は鎮東将軍、征東将軍の号を受けてる >>787
帯方郡から九州に上陸して阿波に向かったら直線になってねえじゃん
しかもこれはざっくり言ってるだけで現実にはもっとくねくね曲がりながら行ってる訳で
それを直線に直した上に更に帯方郡から阿波の直線を計算しなきゃいけない
そんな事をやってると思うのか? >>784
>だから阿波はNGワードに入れとけよ
そう言うお前こそな。 「阿波」が気になって、NGにできないんだろ? わははははは @阿波 >>792
俺に言う前に>>756みたいな言い方してないで掛かってやれよ よくマスゴミで使われてる「最有力候補と言われている纏向」 ← 誰に言われてるのか?答え:畿内説学者
参考)畿内説ゴリ推し教科書の他の記述
山川出版社版の歴史総合の3種中1種が唯一「慰安婦」の強制性に言及している。
この教科書は脚注(位置は教科書の右側)で「各地の戦場では、慰安所が設けられ、
日本や朝鮮、台湾、占領地の女性が慰安婦として集められた。
強制されたり、だまされて連行されたりした例もある」と述べている。 >>759
教科書には万世一系の天皇家がずっと日本の王であったとかいてあるのか?
他の王朝はなかったと。
まつろわぬ民はいなかったと。
>>413
で、見て回ったんだけど、
「海蛇からよけるために刺青をしてる」
「裸足で過ごしている」
「雪が降らない」
ってのが奈良のどこにあるんだろうな
奈良からどこの海に魚とりに行ってたの? >>785
>>>756みたいな言い方は無いだろうって事を言ってるんだよ
なんの根拠も挙げられずに、連呼するだけのお前のことだろうがよ。 わははははは @阿波 >>791
>教科書に纒向遺跡は卑弥呼の時代って書かれているか?
教科書レベルの知識もないことを白状したな
こんなやつと議論する価値なし
そんな基礎知識もないやつが専門家の学術研究を否定して、空想で創作した与太話を史実だと強弁する
九州説にはこういう身の程知らずばっかり
おまえの与太話に興味ないからこれで終了 >>790
>よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域は、当時の鉄器王国「阿波」からの被鉄器供給地域であったと見なせます。 @阿波 >>801
空想で創作した与太話← まさに畿内説w >>800
>>756が反論になってると思ってるおまえが無茶苦茶なんだよ ルーン文字とか出てくれば色々わかるんだけど
>>243
これは? >>801
どこの教科書に書いてあるんだよ?
ソースだしてみ
纒向に遷都したのは崇仁天皇の3年となっている
崇仁天皇の治世は西暦で何年から始まったと教科書に書いてありますか?
チャンとソース付きで出してみろよ
どうせお前みたいな知恵遅れは消えるだけのチキンだろうけれどなw >>798
日本政府見解と一致してるよ、それ
日韓慰安婦合意でそうなってる
阿波にはなんらかの政権があった可能性が確かにあるんだけど、
阿波国内に鉄の生産地もあったし、
オノゴロ島なる聖地もあるからそれなりの意味はあるんだが、
そこから難波津までが近いので、
近畿勢力圏の聖地あるいは重要な島だと言ってよい
中つ国、葦原瑞穂国の一部とされたと思われるがな
古事記の国産みは相当偏ってる
かつては俺もあの順に征服したのかと思ったが、どうも怪しい >>797
会話の成立しない相手だからNGにしとけ >>795
>帯方郡から九州に上陸して阿波に向かったら直線になってねえじゃん
この阿呆玉! 万二千里の記述に、「九州に上陸」など書かれておらんわい。 顔を洗って出直せ! ボンクラめ。 @阿波 >>788
むしろ弥生時代中期にかけて存在していた博多湾を中心とした北部九州一体に広まっていたまとまりが後期に入ると急激に崩壊して消滅している様子が出ている
その北部九州の連帯の崩壊と、九州から新式の完形鏡が消えるタイミングが重なっている
倭国大乱の時期とも重なるのでこの頃に九州北部の勢力に何らかの混乱とそれによる崩壊が起こった事が予想される
その後に畿内を起点とする勢力の九州から関東にかけての拡大が現れるという図式になっている
考古学的に見ると九州の勢力の崩壊と、畿内勢力の勃興と言う流れがちょうど邪馬台国に至る前の時期に起こっている事になる >>1
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
日本書記に出てくる天皇在位年を忠実に逆算して
神功皇后の三韓征伐が真実にあった
高麗の石碑に倭国が攻めてきたと刻まれているのだから史実なのだろう
そこから逆算すると纒向遺跡どころか遷都した年は卑弥呼の時代から50年は後ということになるである
ここに邪馬台国畿内説の最有力候補だった纏向遺跡は候補から外れるのであった >>810
本当に会話が成立しないな
どうやってそれで万二千里の距離を計算するんだよ >>799
>教科書には万世一系の天皇家がずっと日本の王であったとかいてあるのか?
もちろん、書いてない
>>799
>「海蛇からよけるために刺青をしてる」
>「裸足で過ごしている」
>「雪が降らない」
横レス
そもそも邪馬台国と関係ない記述だが、九州のどこにその記述に該当する場所がある? 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
※卑弥呼は、ヤマトという国にはいなかった。
なぜなら、伊都の都はどの史書でも不動であり、現代中国語読みでもそのまま、「イト」である。
であるならば、邪馬都という漢字が使われてしかるべきなのに、都は一回も使われていない。 >>816
そもそも、記紀に邪馬台国は登場しない
畿内(ヤマト政権)とは無関係なのだ >>808
>古事記の国産みは相当偏ってる
国生みは、「阿波」およびその周辺を言ってるんだよ。 @阿波 >>812
これだと九州の一部地域の話を倭国全体のことのように書いた虚偽調書ってことになる。 ナァン ドゥン ミー?
イー シェン ツェー イェー イェー?
伊声者の掖耶?
官位が手がかりにならないかなー >>817
壱の旧字のつくりは豆
豆腐、登山、トゥと読む >>815
>どうやってそれで万二千里の距離を計算するんだよ
「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」 >>824
技術の差異はないかどうかはともかく距離を計算するのは可能だと思うよ
でもわざわざそんな事をやってると思うのか? >>243
魏志倭人伝の頃に倭国には官位あったって事だろ?
それが驚きじゃね?
なんで日本書紀に書かない? >>826
>でもわざわざそんな事をやってると思うのか?
そんな事 ってなんのことだ? @阿波 >>828
飛行機が無いんだから計算しても現実には使わないルートなんだぞ 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シィーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
※卑弥呼は、ヤマトという国にはいなかった。
なぜなら、伊都の「都」はどの史書でも不動であり、現代中国語読みでもそのまま、「イト」である。
であるならば、「邪馬都」という漢字が使われてしかるべきなのに、「都」は一回も使われていない。 卑弥呼は日、火、太陽に関する人物
って、誰もが思ってるよね
となれば畿内説は、まるっきり逆説
695 日本@名無史さん sage 2021/05/27(木) 18:04:10.77
卑弥呼は天照大御神
卑弥呼の死は日食を暗示
臺與=たいよう(卑弥呼の次の太陽)
当時の中華では「太陽」は「太陽」と読み書いていた
臺與は、台を与えると書くが
陳寿は卑弥呼(臺)の後継者(として与える)でありつつ
卑弥呼同様に太陽に関する人物と春秋の筆法で記した
すべて、辻褄が合う
畿内説は
卑弥呼=百襲姫=大物主を神降ろし=大物主を祀ることで治め
かつ天照大御神を外へ出すと言う論外ぶり
いかに畿内説が逆説であるか
おわかり頂けただろう >>829
アホよ。 倭国(阿波)がどこにあるのかを示すために、距離と方角を記しているだろうがよ。 何考えてんだ。 @阿波 >>832
そんな事の為にわざわざ計算してると思うのか?
計算しても使えないんだから何の役にも立たない >>3
こんなのが自慢に見えてる時点でお前の国だんだけ卑屈なんだよ >>834
>計算しても使えないんだから何の役にも立たない
役立たずは、お前だけだよ。 わははははは
陳寿は、史書として倭国(阿波)の位置を示した。 @阿波 「倭人在帶方東南大海之中」
陳寿は、史書として倭国(阿波)の位置を示した。
北に瀬戸内海 ・ 西に豊後水道 ・ 南に黒潮太平洋 ・ 東に紀伊水道
まさに、「帶方東南大海之中」まんまの四国だね。 わははははは @阿波 >>788
まるで文献からは九州と書かれているという意味に解釈できるが、いったいどこをどう読めば九州になる?
一般的な文献解釈では、倭国は南方に伸びる大きな島で、邪馬台国は沖縄あたりに位置すると書かれていて
畿内も九州も当てはまらないというのが大勢だと思うが >>834
そもそもこの時代に道のりから直線距離を計算するのは不可能
測点を座標値にして計算上の直線距離が出せるようになったのは、三角関数が確立された14世紀以降 >>813
奈良の箸墓のどこにあるの?って聞いてるんだけど
難波津の話なんかしてないが。 >>838
ウソだな
沖縄あたりに位置するとどこにあるんだ? >>839
ざっくりで良いんだから可能だとは思うけどね
ただしその為には曲がってる行程を直線に直さなきゃいけない 陳寿は、史書として倭国(阿波)の位置を示した。
「倭人在帶方東南大海之中」
北に瀬戸内海 ・ 西に豊後水道 ・ 南に黒潮太平洋 ・ 東に紀伊水道
まさに、「帶方東南大海之中」まんまの四国だね。 わははははは @阿波 >>816
>海蛇からよけるための刺青
沖縄では残ってる
刺青禁止令出たのは明治だしな
>裸足で過ごしている
これも沖縄など砂浜の地域やポリネシアンでは一般的
てか京都の貴族は靴履いてんだが。
草鞋って知ってる?
>雪が降らない
鹿児島では西南戦争のときに100年ぶりに雪が降ったとされてる
要するに九州の低地ならありえるってこと
奈良では絶対ない。
わかったら祖国に帰ってコロナ感染してろ >>841
捏造と嘘の強弁を延々と繰り返してた壊れたテープレコーダー野郎か
畿内が消えるという言い分を論理的に説明するのが先だ >>1
この手の本はファンが居て妄想書いてもそこそこ売れるんだよな >>843
その、ざっくりが無理
地上だけなら(膨大な時間をかければ)図解トラバース法で測れるが、海を挟むともう無理
途中にしるしをつけられない >>842
小野妹子の祖先「天足彦」を君主号だと勘違いしたのではという説が有力
天皇の名にタラシが多いからそのまま天皇を指している(その時代なら推古)というのが定説 チャイナとか、国も民族もそっくり入れ替わったり、混在していたりで、統一した歴史なんか
ないので、ちゃんと当時の国名と民族を書けよ 畿内説の強弁野郎だろ
実際、攻撃的な口調ですり替えばっか >>846
何度も書いてるぞ
帯方郡から万二千里
このうち九州上陸までが1万里
残り二千里のうち、マツロ国から奴国までが6百里
つまり、マツロ国から奴国までの距離の三倍ちょっとで邪馬台国だ アメノタリシヒコは隋の使者にあって男王だってハッキリしてんじゃん >>854
そういう支離滅裂な論理を何度繰り返しても説得力ゼロだ
まさかと思うが、上っ面の里数の大小、上っ面の里数の比率で判断してるんじゃないよな?
もし上っ面の里数で判断してるのなら、おまえの知能はゼロ同然だと断言できる まぁでも、東と南にしか進んでないのだから畿内のはずがないんだよな >>856
魏志倭人伝に書いてあることそのまんまだ
何一つ俺の解釈を挟んでない
根拠を示して反論しろよ
畿内説はウソだウソだと騒ぐしかできない 魏志倭人伝より前、約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
これで、終わり。
九州以外あり得ない。
議論など無駄。 >>854
>このうち九州上陸までが1万里
そもそも、この考え方がくそ間違い。 @阿波 畿内からは卑弥呼のいた頃の魏の年号が入った
中国でも見つかってる三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出土 >>858
万二千里の里数は正しくない
1万里の里数も正しくない
と上の方で書いて教えてやっただろが
正しくない里数と正しくない里数の大小を比べて何の意味があるんだ???
最低限の知能があれば、無意味な比較だとすぐに気づく >>860
書いてあることそのまんまだぞ
帯方郡から半島南まで7千
半島南から対馬まで千
対馬から壱岐まで千
壱岐からマツロまで千
どう考えても一万里 >>862
東や南にしか進んでないのだから北上し畿内に行くなんて説は意味無いよな >>862
正しくない正しくないと叫んでるだけで、何一つ理由は書けない畿内説 >>820
それであってるよ
単に帯方郡に近かったから挨拶に行っただけ >>865
1里は約435m
魏志倭人伝の行程で検証すると、里数は明らかに誤り
こんな基礎知識もないのか
知識もない、知能もないやつが支離滅裂な理屈で畿内説を否定しようとしてたわけだ >>867
■日本書紀より
崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>867
その前提が間違いってことだな
なんせ、計算上の奴国から金印という動かぬ証拠が出てる
距離は、(誤差はあるにせよ)正しいといえる >>863
それすべて「直線距離」 だと何度言えばw
それを勝手に足し算していい気になるな。 @阿波 >>867
何故それが絶対正しいと言えるのか
解釈が間違ってるかも知れんだろ
日本で1里と言えば4kmだよな >>869
また支離滅裂な理屈だ
「距離は、(誤差はあるにせよ)正しいといえる」という合理的な根拠をまったく示していない
1里が100mとかは幼稚な捏造に過ぎない >>872
一里を400m〜500m
海を渡った場合は実際の距離とは関わらず慣用句として1000里
それを地図上でやってみればいい
畿内は無いwww >>867
>1里は約435m
で、「女王国東渡海千余里」の復有国皆倭種は、どこなんだ? お前、言えるのか? @阿波 >>871
架空の距離単位が存在したと言い張りたいなら、立証責任は自分にある
幽霊は実在する、幽霊は実在すると連呼しても説得力はない 日本での1里は
戦国時代以前で530m程度
以後で4km程度。
古くは日を持って量るとある。
記録に残る範囲では、
日本は魏の里を使った痕跡はない。 >>872
マツロ国からイト国、
イト国から奴国の距離比率は5:1
合ってるじゃないか
しかも物証の金印つき
だから奴国までは、こじつけ畿内説でも認めざるを得ないのが現状だ 中華の方万里から
その方万里の東北に方4千里の半島があって
そこから周旋5千里の倭地
単純計算しても
10000−(4000+5000)=残り1000里
方万里下辺近い
呉を、魏と挟撃できる位置に倭地があると考えるのは自然な考え
http://o.5ch.net/1ufp5.png >>873
>海を渡った場合は実際の距離とは関わらず慣用句として1000里
そんな慣用句があると思うなら勝手にどうぞ
そして魏志倭人伝の里数は当てにならないという意味にもなる 畿内からは卑弥呼がいた頃の魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる
中国でも三角縁神獣鏡は見つかっていて
これは卑弥呼のいた時代に畿内と魏に交流のあった証拠 >>879
海を渡るときにどうやって距離を測るんだ?
具体的に説明してみろwww
里数が当てにならないというのはお前の感想でしかない 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として里と日を1/5して、距離と方向を合わせると次のようになる。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州—釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津—小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城—佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀—大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川—玉名 47km
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名—緑川 26km
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川—人吉 86km
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域—屋久島 315km
裸国、黒歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km
おまけ
韓地、方4000里 (4000里/5)^2=800里^2=(800*435)^2 =121104km^2
wikipediaより、
韓国 面積 100,210km^2 >>875
当時の事なんか分かるかバカ
ただ一支国が何処でそこから何処に着いて伊都国奴国不弥国は何処と想定してるか言ってくれ >>879
里数は当てにならん、方角はデタラメや、万二千里は信じたらあかん、、、
でも、邪馬台国は畿内にあったんや
この謎理論が畿内説の特徴だ >>877
>マツロ国からイト国、
>イト国から奴国の距離比率は5:1
それを証明してくれ
「里で書かれているが里とは違う長さの里」が存在したこともな
できないなら、捏造を認めろ >>886
畿内説はただのアホかと思ってたが、どうやら恣意的に印象操作してるし捏造くさいな 畿内の古墳から見つかる三角縁神獣鏡は
銅出徐州 師出洛陽つまり徐州の銅で魏の都洛陽の鏡師が作ったと書いてる
三角縁神獣鏡は洛陽でも見つかっている 倭で銅鏡の国産化が始まったのは紀元前2世紀頃なんだな
福岡県春日市教育委員会は27日、市内の須玖タカウタ遺跡で、国内最古となる
紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)の青銅鏡鋳型の破片が見つかったと発表した。
これまで鏡の国内生産は紀元後1世紀ごろから始まったとされ、それをさかのぼる青銅鏡鋳型の出土例はなかった。
専門家は「鏡の製作史を見直す貴重な発見」としている。2015/05/27 >>888
畿内説はさぁ
畿内に邪馬台国があったという結論を先に決めて話を組み立ててるからおかしいんだよな
東や南にしか進んでないのに北上しなきゃたどり着けないから、方角は間違いだと言い張るしかないしwww 陳寿が書きしめしてる場所が↓ここ
台湾の東海、沖縄付近に邪馬台国がある
まさに、計其道里、當在會稽東冶之東
878 ニューノーマルの名無しさん 2021/08/05(木) 12:56:51.78 ID:sXKJ9pMj0
中華の方万里から
その方万里の東北に方4千里の半島があって
そこから周旋5千里の倭地
単純計算しても
10000−(4000+5000)=残り1000里
方万里の下辺に近い
呉を、魏と挟撃できる位置に倭地があると考えるのは自然な考え
http://o.5ch.net/1ufp5.png >>243
誰かわかっているなら、
◯△命の先祖也って書くんじゃないの?
誰かわからないってどういう事w 金印と同じで鏡みたいな持ち運べる物って決め手にならんのよね
しかもどうせ貰った鏡を溶かして銅鐸とか作ってたんだろうし >>892
そう、倭人伝では北、東(南)、南方面についてばかり紹介されている
これは視点の位置が西にあることを示唆している
つまり九州視点で描かれているんだよね アスカが何を意味する言葉なのかわからんうちは畿内説はないわ >>889
そうやってはぐらかすということは、証明できないから出まかせを言ってたんだな?
架空の距離単位を捏造したと認めろ >>890
日本国内で複製したという説もあるし
文献に出てきてる枚数よりも多数の鏡が出土してるし
九州の勢力から畿内の勢力に下賜した可能性や、
畿内の勢力が九州から奪った可能性もある
畿内の古墳から出土したというだけでは決め手には全くならない この頃すでに大陸と日本の交流がかなりあって情報源はひとつじゃないのに、
卑弥呼の嘘だけが歴史書の真実になるわけないだろボケ >>833
悪党扱いなんてしてないよ
司馬氏は魏志が書かれた時の皇帝様なんだから悪く書ける筈が無い 普通の人の思考
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 魏志倭人伝の里数は間違ってる
九州説信者の思考
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 短里が存在した(しかも里で表記されているが里とは違う長さの里)
こういう論理飛躍と捏造を平気でやるんだから頭おかしいとしか言いようがない >>901
逆にそれが面白い
他の地域も交流があったはずなのに記述がいい加減 これから東京五輪に集まってた地方の警察官6万人が解放される
お盆には首都圏と大阪から数千万人が地方に帰省する
地獄はこれからだよ >>903
九州説だけど、一里400mから500mで問題ないと考えている
九州説は短里と決めつけるのはよくない
そして、そんなレッテル貼りしかできないのが畿内説という事でもある >>903
だから一支国が何処でそこから何処に着いて伊都国奴国不弥国は何処と想定してるのよ 議論など無駄。
魏志倭人伝より前に書かれた『広志』に、「伊都國に至るまた南に行くと邪馬嘉國がある」とある。
魏志倭人伝は『広志』からそのままパクって書いてる文章があるので、おそらく邪馬嘉の「嘉」が竹簡なので良く見えなかった。
そのため、魏志倭人伝では邪馬「壱」と書いた。
上の「士」の部分を見て予測したのであろう。
そしてまた、別の史書、例えば『後漢書』では、「士」の部分を見て「臺」と書いた。(後漢書は書かれたのは432年頃である)
であるから、元々は邪馬嘉国の方が正しい可能性が極めて高いのである。
ヤマトという発音に近づけようとするから、一貫しないのである。卑弥呼はヤマトなどという場所にはいない。
邪馬嘉なので、シェイマージャ、むしろ島津とかそういう名前のところにいたのである。 対馬壱岐唐津糸島福岡と延々北九州の話してその次は奈良です
ってそんなのはおかしいんじゃないのという
難しい学説抜きのまさに素直な感情があるからなあ >>907
一支国 壱岐(中心は原の辻遺跡)
末盧国 唐津市(中心は中原遺跡か?)
伊都国 糸島市(中心は三雲遺跡)
奴国 福岡平野周辺(3世紀の中心は比恵・那珂遺跡)
不弥国 不明 ちなみに、竹簡なので、『広志』の、
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】は、一つの竹簡に書かれていた可能性が極めて高い。
竹簡が禁止されて、「紙に書け!」との命令が出されたのは、晋代に入ってからである、
紙はご存知の通り、後漢の蔡倫が発明したが、日本では確か平安時代あたりまで、紙ではなく竹簡に書いていたはずだ。 >>910
それだと1里435mだと合わないだろ
伊都国まで200q以上離れてる >>910
マツラ国は呼子の周辺だよ
命がけで海を渡ってた時代なのに
航海術が発達した時代の考え方をするのは間違い
壱岐島から一番近い九州本土は呼子 いつになっても好き勝手な距離の読み替えが理論だと思いこんでるバカしかいないな >>903
魏の里は435mだよ。
しかし陳寿が手にした記録、史料は1里=75mで書かれていた。
それをコピペしただけ。
そして合計したら12000里ほどになると追記した。
地理感の無い陳寿の感覚では、会稽東冶の東あたりだなと想像したのでそう書いた。
それだけのこと。 じゃ、聞くけど、
なんで新しい漢字作ったの?
日本に身近なドイツ語話者が住んでいたの? >>909
まあ、それが素直な感想だろうな
だが魏志倭人伝は邪馬台国旅行記ではない
何十年に渡って長い期間、楽浪郡や帯方郡から伊都国に来ていた
楽浪土器の出土で裏付けもある
魏志倭人伝にも伊都国は郡使が往来し常に駐するところと書かれている
何度も来ていた伊都国周辺が詳しく書かれ、2回しか訪問してない(と解釈できる)邪馬台国の情報が少ないのは当たり前
邪馬台国は伊都国から遠いから2回しか行ってないと考えることもできる 様々な中国史書を照合すれば邪馬台国に該当するのは九州以外ありえません
仮説と仮説を妄想で結合した作文が畿内説です
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
魏志倭人伝の水行行程の部分は、朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、出発点は帯方郡。
地図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文) >>911
その検証結構強烈でどう見ても陳寿は転載してて
元の史書には投馬国も水行も陸行も無いんだよね 卑弥呼は、ヤマトなどという国にはいない。
陳寿は魚カンの『魏略』と郭義恭の『広志』から、パクって書いてるのに、なーんで陳寿の「邪馬壱國」(シェイマーイー)が正しいとなるの?
勝手に漢字を変えるなよ
勝手にヤマトに近づけるなよ 距離が日付に変わる水行〜の部分は別の記録→久しぶりに魏に朝貢してきた倭人による行程説明だよ
つまり投馬国、邪馬台国は倭人独自の呼び名だ >>914
>壱岐島から一番近い九州本土は呼子
一番近いから・・・ アホの典型。 @阿波 基本的に一里は400m〜500mで、短里はこじつけだと思っている
しかし、一里が長いか短いかの違いでしかないのだから
どっちが正解だったとしても
北上しなければならない畿内説はそもそも成立できないんだよな 卑弥呼は、ヤマトなどという国にはいない。
陳寿は魚カンの『魏略』と郭義恭の『広志』から、パクって書いてるのに、なーんで陳寿の「邪馬壱國」(シェイマーイー)が正しいとなるの?
邪馬臺(シェイマータイ)と書いたのは、432年の范嘩ですよ。なーんで、范嘩の邪馬臺が正しいとなるの?
勝手に漢字を変えるなよ
勝手にヤマトに近づけるなよ 335 ニューノーマルの名無しさん 2021/08/04(水) 21:42:23.63 ID:Mn3MwAp80
対馬視点
https://i.imgur.com/StfFbCi.jpg
阿波も畿内も見えませんね
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
遼東地方の15歳以上の男子を皆殺しにした
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党が
九州に大量に逃げ込んでいると思うだろう
なのに
九州の倭國を親魏倭王にするわけがない >>925
1里を400ⅿと考えている人はアホだと思う
例えば中学校で数学の先生が
7000X=9000000って問題出されているのに
以前の授業ではX=400だったから、今回の答えもX=400と答えている頭の悪い生徒が
畿内説だと思う
帯方郡から狗邪韓国って位置は特定できているんだから
現在の地図で計測してみればいい
海岸線を伝って測定すれば900Kmくらいだ
これが7000里って書いているんだから
素直に900Kmを7000で割れば
1里いくらで換算できるのか簡単に計算ができるのに
それをやろうとする知能がないのか、厳しい現実を直視できずに
目を背けているだけなのかわからんが
畿内説のこの子供のような駄々のこねぶりが醜い 対馬視点
//i.imgur.com/StfFbCi.jpg
【238年に】
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
遼東地方の15歳以上の男子を皆殺しにした
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党が、
「漢委奴国王」の北部九州に大量に逃げ込んでいると思うだろう
なのに
【238年に】
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿が
九州の倭國を親魏倭王にするわけがない 琉球を考えてみよう。
たしかに、色々な漢字で書いている。
「流鬼、瑠求、流求、留仇」
しかし、どれも全て「リウショウ」のような発音でほぼ一致している。
ちなみに一番古いのは、隋書流求國伝の「流求」だが、現代中国語発音でも、琉球と流求は同じ発言である。
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈
↑
おいおい、漢字も変わってるのに、発音も全然違うじゃねーか!!
畿内派の皆さん、勝手にヤマトに近づけるなよ! >>928
大雑把に海岸線を計測したら1500キロくらいだったぞ
もっと細かく考えたらさらに距離は伸びるだろうな 普通の人の思考
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 魏志倭人伝の里数は間違ってる
一部の九州説信者の思考(5ちゃんねるの場合は大半の九州説信者)
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 短里が存在した(しかも里で表記されているが里とは違う長さの里)
こういう論理飛躍と捏造を平気でやるんだから頭おかしいとしか言いようがない >>933みたいな頭の悪いやつっているんだな。
多分奈良人なんだろうな。
おらが村の為に、どうにか奈良に引き込もうと必死。
↓これの中国人学者、3人とも邪馬台国は九州と言っている。世界漢字学会会長もな。
https://youtu.be/snsumvO8sxI >>929 つづき
ならば
【238年に】
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
遼東地方の15歳以上の男子を皆殺しにした
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
「漢委奴国王」の九州に大量に逃げ込んでいる
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党を
どう始末しようと考えるか
答えは簡単だ
九州も壱岐も対馬も使わずに
山陰地方から対海國と一大国を使用して朝貢してきた
出雲と奈良の連合国を「親魏倭王」にして
そいつらに
「漢委奴国王」の九州に大量に逃げ込んでいる
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党を
始末させれば良いのだ
247年 倭女王の卑弥呼は、狗奴国の男王、卑弥弓呼素と、戦争状態であることを説明した。 >>932
嘘だろ
オレはさっきgoogle earth使って
けっこう海岸線を小刻みに計測したら
900Kmくらいだったぞ 張政(ちょうせい)
三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)。
帯方郡太守王頎の部下。
正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された。
この時期は卑弥呼が死去した時期であり、一説によれば、卑弥呼の後継者争いに巻き込まれ、20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとされる。 >>891
その年代は、遺跡全体の?
それとも、鋳型破片の?
大陸側から鋳型が渡った可能性は0? 15世紀明代でも対外的に日本国王と言えば太宰府にいた懷良親王だったんだから、
九州の邪馬台国が倭の代表を名乗っても何の不思議もない。 経史を好んで読み、文章を綴ることもでき、←
ものごし穏やかでみやびていた。←
(何このベタ誉めw)
則天武后は、彼を麟徳殿に招いて、宴を催し、司膳卿(しぜんけい〜官名)の官を授け、留め置くことなく本国に帰還させた。 >>940
https://i.imgur.com/f2hqUli.jpg
なんか余計な寄り道というか
スタート地点と終着点がグチャグチャと
計測しすぎなんじゃないか? >>943
日本国内の状況と同じと想定して計測してる
トンネルはもちろん存在しないし、橋も少なかっただろう
未熟な土木技術だから、現代の道路のようなまっすぐな道など作れず、
海岸線をなぞるような道が殆ど
そういう想定で、しかし、これでもかなり端折ってショートカットしている
ひたすら海岸線をなぞれば3000キロは余裕だろうな 対馬視点
//i.imgur.com/StfFbCi.jpg
【238年に】
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
遼東地方の15歳以上の男子を皆殺しにした
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党が、「漢委奴国王」九州に大量に逃げ込んでいると思うだろう
そのままにしておけば九州で勢力を盛り返し、呉や高句麗と呼応して、九州、壱岐、対馬を伝いに、いつまた反撃してくるかわからない、やっかいなヤツらだ
ならば、魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
「漢委奴国王」の九州に大量に逃げ込んでいる、反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党を、どう始末しようと考えるか
その答えは簡単だ
九州も壱岐も対馬も使わずに
山陰地方から対海國と一大国を使用して朝貢してきた
出雲と奈良の連合国を「親魏倭王」にして
238年、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた
そいつらに
「漢委奴国王」の九州に大量に逃げ込んでいる
反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」の残党を
始末させれば良いのだ
247年 倭女王の卑弥呼は、狗奴国の男王、卑弥弓呼素と、戦争状態であることを説明した。 朝鮮半島はおそらく陸で測量してる
まあある程度直線で測量してるでしょう >>945
いやいや殆んどが海上だから
トンネルとか道路とか関係ないだろ >>944
一応ググってみたけれど
近衛氏の荘園として有名な島津荘→島津院が発祥
そこから先は過去に辿れなかった
邪馬台国までつながるのは難しそうw >>944
火山が無い中国の人たちが桜島を見たら腰を抜かす
ちなみに阿蘇も同じ
『魏志』(倭人伝を含む)に記載されていない段階で
邪馬台国は九州では無いんですけどね >>931
琉球は元は西洋から来たリュキア説に興味ある >>949
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
海岸にそって水行して7000里で狗邪韓國と魏志倭人伝に書かれているだろ? >>953
七千里の内訳が分からないから何とも言えないけど
朝鮮から対馬や壱岐へ移動するときに
「渡一海千里」と表現するのだから
もしかしたら七千里の途中で何度か「渡海」だったり、それに近い行為をしてるんじゃないか? >>955
わざわざ道路事情の悪い当時に陸地を行くことは無いだろ?
当時は日本でもそうだっただろうが
長距離旅行するのは船で行くのが当然だろうし
一度船から下りて陸地を歩く行程を取るなんて意味不明すぎる >>951
阿蘇の記述など隋書だけで、その時に噴火したのだろう。 >>956
読解力無いのか?
>>955は、船で移動してる事を前提にしたレスだぞ
プサンから対馬までを千里と表現してるのだから
それと同じ程度の距離を島伝いに移動すりゃ千里だろ
実際の距離ではなく「渡一海千里」で、千里になるのだから
テキトーに考えても、
帯方郡を出発していきなり南へ進めばいくつか島があるのだから
その島までたどり着けば「千里」
それを何度か繰り返せば意外と距離数は稼げるだろうな
上のレスで七千里の内訳が分からないと書いたのはそういう事
長里で七千里の辻褄合わせは意外と簡単かもしれないぞ
しかも無理矢理でもない >>951
で、その当時阿蘇山は噴火してたのかな? >>950
シマという読み的には、志摩が何か関連あるのかな?と思いついたり まあ、つまりだ
帯方郡から狗邪韓國までのルートなんて中国人にとっては、よく知られた海上ルート
現在でも場所は確実にここと断定できる、この二地点間の距離はおおよそ900Kmなわけよ
それが7000里って書いているんだから
1里は400mとか500mとか言い張っているのはバカってこと
割り算してみると1里128mくらいになるだけ
ちゃんと数学の先生の出した問題文を読むこと
もう答えは魏志倭人伝に出ているんだよw >>958
バカだなあw
お前はw
いちいち小島まで1000里で計上していたら
7000里どころか10万里かけても久那韓国にたどり着けないだろw
むしろどんどん1里の値が現在の距離で短くなるだけの理屈だろ?www >>962
プサンから対馬
対馬から壱岐
壱岐から呼子
場所はだいたいわかってて
「渡一海千里」と表現されてるのだから
海岸線を伝うのではなく島などを目指せば、距離にかかわらず千里と考えてると予測できるのだから
内訳の分からない七千里のなかに、それと同じ事が含まれてるかもしれないことは容易に想像できることだ >>958
>プサンから対馬までを千里と表現してるのだから
プサンを出航したら対馬海流に流されて対馬には着けない。
対馬に着くためには、出航地・狗邪韓国は順天あたりから。 @阿波 今は結構な田舎やのになんで最初にこんなとこに人が集まったんやろか >>964
だからさw
それやっちゃうと
七つの小島に渡海するだけで
7000里消費しゃうでしょ?
暑すぎて脳みそとろけてないか?お前w
頭冷やせよw 中国魏晋南北朝学会副会長・陳長崎氏は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に刺史についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分が書かれたのは漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、一つの資料に作り上げてしまったので、
色んな時代のことが書かれていると言う。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、「南至投馬国」などを加えてしまったのだろう。
そして、陳長崎教授は邪馬台国は九州であると言う。 >>962
>現在でも場所は確実にここと断定できる、この二地点間の距離はおおよそ900Kmなわけよ
違う。 @阿波
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天) >>963
>いちいち小島まで1000里で計上していたら
朝鮮半島の地理は全く知らんけど
帯方郡から南下するなら、海岸伝いよりまっすぐ海を渡った方が速そうだぞ
そうなると、
プサンから対馬程度の距離に島がある
その島を中継点とすることで、いきなり二千里を稼ぐことが出来るという事
帯方郡から島、島から朝鮮半島
途中で島を経由すればそれだけ千里単位で距離が増える
それで七千里
で、
>いちいち小島まで
海岸伝いでは千里とカウントせず、あくまで海を渡るような進み方の場合に千里とすると仮定すれば
お前のような間違いを犯さずに済むよ >>970
なんか意味不明になってきたなw
何が言いたいんだよ、一体w >>967
ほとんどが「水行」みたいなもんだろ
だから七千里でいいんだよ >>971
渡海と水行は違う
朝鮮半島の海岸線を伝うのなら水行と同じようなもの
これ、アスペじゃなければ理解できることだよ >>973
だったら小島に渡るだけで1000里消費しちゃうって
主張は一体何だったんだよ?
まるで意味のない青年の主張をしてみましたか? >>973
そう。
例えば、隋は台湾に行くときに、澎湖諸島など島づたいに移動しているので、水行と書いている。 >>974
プサンから対馬までくらいの距離を渡る事
これを「渡海」
海岸線を伝うのは「水行」
ほら、全然違うじゃん
こういう事すら区別できない奴が短里とか主張する
だから九州説が馬鹿にされるんだわwww
長里で九州説は普通に成立する 魏に嘘を付いたのは邪馬台国ではない。
邪馬台が嘘を付いた相手は、漢だ。
魏志でバレることは、漢には配下の奴国を朝貢させてたこと。
自身は存在を隠し、配下の奴国を朝貢させ、漢の臣下の礼をさせ、
邪馬台はその奴国を支配してるから、邪馬台は漢の皇帝と同格だ、
という(屁)理屈で列島に君臨した。
それと同じ事が起きている。
倭国大乱で邪馬台を下し覇権放棄(=女王即位)に追い込んだ、
新覇権国の「大倭」が、魏に正体を隠し、だが邪馬台の港を支配し、
邪馬台を倭国代表の体で朝貢させている!
だが、その大倭、港の横の伊都国に代官「大率」を常駐させ、
港を監理。魏の遣いを伊都国でブロックし、旧朝貢国の奴国に
行かせないし、当然、卑弥呼にも会わせない。 >>976
小島に渡海するだけで1000里消費しちゃうって主張は
むしろ1里当たりの現代の距離換算を何とか400ⅿに近づけたいと思っている
畿内説派には不利な主張なのにID:Lbmqq+rv0(畿内説派)は頭がトロ臭くて
意図せずに主張したマヌケか?w >>898
地図みりゃ検証できるだろ
マツロ国→イト国
イト国→奴国
距離は5:1だ
1里435mは明らかな誤り >>978
対馬から壱岐まで渡れば千里
それと同じ考えをしているだけで
長里で九州説が成立するという当たり前な事を理解できない奴がいる
短里を主張する九州説信者は馬鹿
まともな九州説は長里を採用している
で、俺を畿内説だと思い込むような知性だから、短里を主張する九州説信者は馬鹿という事が証明できたわけだよ フラクタル理論で砂粒、さらにその分子、
原子まで細かく計測すれば
無限に距離が伸びていくというネタがあったな。
だが、7千里は魏の里では3000kmほど。
900kmではまだ細かさが足りない。 短里はインチキだとほざいてる畿内バカは、中国人の著名な学者も魏志倭人伝は短里であるとたくさんの人が言ってるのに、理解できないんだな。
馬鹿すぎる。 >>980
ID:Lbmqq+rv0顔真っ赤だなw >>980
そもそも、水路は千里刻みの概数
1日かかったから千里、程度の話だ
歩数を使える陸路とは精度が違う
畿内説は、この程度のことにも考えが及ばない IDの出てない人ってなんだろう
消しにくくて鬱陶しいな >>984
なるほど、
1日船で移動すれば千里
七千里なら船で七日間の距離という事か
納得だね 帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天) @阿波 >>979
比率が5:1というのが本当なら証拠を地図で示せばいい
何も示さないのは、嘘をゴリ押ししようとしてる魂胆が丸見え
もちろん「里で書かれているが里とは違う長さの里」が存在した根拠もな
>1里435mは明らかな誤り
普通の人の思考
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 魏志倭人伝の里数は間違ってる
おまえの脳みそ
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 短里が存在した(しかも里で表記されているが里とは違う長さの里)
こういう論理飛躍と捏造を平気でやるんだから頭おかしいとしか言いようがない >>970
そもそも中国大陸からなんで漢の楽浪郡が南端なのかというと、
途中で対立してる高句麗と、金の支配地を通過できないから。
なので、漢から鴨緑江に行って、
そこから半島伝いに南下することになる
そして当時の船はヨットみたいな簡易帆船か、
手漕ぎのガレー船になるわけだから、
移動するのに立ち寄りながら移動することになる
特に韓国とか邪馬台国の文化水準だと沿岸航行しかない
なわけで、
こう
https://i.imgur.com/8xNU9rd.jpg 台湾の権威ある学者・周教授も「魏志倭人伝の里数は、メキシコに行ってしまうから無視していい」と言って、
邪馬台国は九州だと言っている。 朝鮮半島から対馬までが千里
対馬から壱岐までが千里
まぁそれはいいとして
朝鮮半島から対馬のどこに到着したのか、
対馬の到着地と、壱岐への出発地は同じ場所なのか?
これが疑問
朝鮮から対馬へ渡るなら、対馬の北端に到着するイメージがある
しかし、
対馬から壱岐への移動だと、対馬の南端から出発するイメージ
では、対馬の北端から南端への移動は記録しないのか
あるいは出発地と到着地は同じなのか
気にし始めると気になってよく眠れる >>993
まずは
対海國が対馬の対馬国である
一大国は壱岐の一支国である
ところから証明しないとな 台湾の権威ある学者・周教授も「倭に牛馬なし」との記述を見て、牛馬がないと運搬が相当に大変だったはずで、
伊都國から邪馬台国が遠く離れているのは考えられないと話す。 里の捏造が九州説にとっての重要な根拠だから、何が何でも捏造しようとしてんな
九州説って学問でないのは当然として、もう月刊ムー以下の与太話じゃん >>996
長里でも九州説は成立するよ
畿内説の人は、九州説は短里だから間違いだと言い張りたいみたいだけど
そうじゃない当たり前の九州説の方が多いんだよね >>989
地図見れば誰にでも検証できる
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