【歴史】邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い 奴国の海人が暗躍 ★2 [樽悶★]
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富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。
■倭人の王の外交デビュー
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。
※省略
このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。
※省略
改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。
邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。
西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。
邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。
倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。
奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。
江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。
また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。
奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。
※省略
北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。
ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。
※省略
ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。(続きはソース)
関裕二(歴史作家)
7/31(土) 11:52配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210731-00010000-php_s-bus_all
★1:2021/08/02(月) 22:34:00.47
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1627911240/ 邪馬台国って、土人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者の扱い
その程度なのに、邪馬台国がどうとか
自慢して恥ずかしくないの? >>1
(歴史作家)w
小説としても現実と乖離し過ぎててつまらない そりゃあ邪馬台国からの使者は自分の国を売り込むために話を盛るだろうし、行ってきた魏の使者も自分たちが過剰接待を受けた見返りに「大国に行きました、遠くて大変でした」くらいの話は魏の他の役人は確認できるわけもないから盛るだろうし。 呉への牽制のために、邪馬台国の位置を下方にしたんじゃないの? 「隣国に攻撃されて負けそうだから援軍ください」と
言っている邪馬台国が日本列島の代表を偽るのは無理だな >>9
曹操の時代か、曹丕の時代か知らんがその魏のこと。
孔明と卑弥呼は同世代と覚えた記憶がある。 まあ北部九州やろ
巻向に負けて歴史から消えた
それでいいじゃんね 小説の宣伝をニュース記事風にするのはやめてもらえませんかね >>9
うん
曹操没(220年)後の少しあとの話(238年、247年) ジャップは息をするように嘘を吐くからな
昔からそうだったんだね 冊封どうこうは支那側が勝手に言ってるだけで
外交しようとしてきた相手全員を、勝手に臣下と見なしてるだけだからな
金印だの称号もそう
外交関係結ぼうとする時に貢物を持っていくなんて
どの国でもやることで
支那自身でなければ、特筆するべきことが無いのは確か たぶん、かなりしょぼかったんだと思う。古代エジプトとギリシャとかローマと
比べるのは禁句になってるこたからもわかる。
おそらくは、高床式の倉庫があればまだマシでそうでさえないDQNの川流れの
ウエーイ系の、全身入れ墨のヤカラのダンシング・クイーンが卑弥呼。
集落はせいぜい数百人。しかもそれはマツリのウエーイの夜に膨らませた人口。
言ったもん勝ちだから、魏志倭人伝の記録担当に伝わった頃には、とてつもねえ
話に盛られまくって、ギシシギアンアン想像しつつギシアンじんでん!女王様ぁ!あふぅ!
つってヲタの記録者がさらにまたかなり話を盛って、怒った上司に大部分カットされて
不完全な意味不明の情報不足のどうでもいい土人の世界扱いになったんでねえのかと。 ・ストローだった九州が呉からの輸入品をネコババして反乱(倭国大乱)
↓
・正統倭国は魏が帯方郡を支配下に置いたことを知り、密使を送って同盟を結び、魏は呉に、正統倭国は反乱倭国に対抗(呉から見たら反乱軍が奴国、正統倭国が狗奴国)
↓
・日本では魏から親魏倭王のお墨付きを貰った邪馬台国(呉からは狗奴国と呼ばれてた側)が勝利、中国では魏が呉に勝利
↓
めでたしめでたし 中国の歴史書に頼らないと自国の古代史も分からない。文明後進国の悲しさだな >>6
もう魏は滅びて西晋になってから書かれているから
魏の役人の顔を立ててあげる必要はないけどね 邪馬台国は奈良
奈良は元々狗奴国の版図だったんだが纏向遺跡を見ると東海勢を中心とした女王国勢に侵略され対狗奴国の前線基地且つ女王のいるところ、都になったんだろうな
これが邪馬台国でヤマト政権の始まり
当時生き残っていた狗奴国は河内と和泉だね
ヤマト政権の始まりは東征ではなく東海勢の西征ということ
記紀を作った天武朝は女王国に連なるもの
平安朝は狗奴国に連なるものなんじゃないか? すげーな日本
3世紀に朝鮮半島を行き来できる船があって
繁栄に影響を及ぼすほどの鉄を輸入出来たのか 関裕二
歴史評論家
武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー
千葉県柏市生まれ
仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている
民間の歴史研究家である
またその史観は、市井において賛否両論ある
作家さんです
歴史学者ではありません
ただの門外漢です >>29
朝鮮半島→対馬→壱岐→北九州
のルートなら丸木舟でも可能らしい 嘘つきじゃなくて、倭はどういう状況でも無関係で
楽浪帯方を落とした魏=帯方郡が、倭人国の勢力と同盟すれば
東夷安定が確定して、蜀への侵攻や呉へのけん制が成立する、
という
三国志での日本史はどうでも良い無責任な、
単なる魏王の地方の領主国家との同盟戦略自慢なんだけど?
まあ、この魏の台頭=公孫氏滅亡と韓への侵攻
で、卑弥呼の北部九州、日本海、瀬戸内海勢力は
対魏での防衛のための軍事連携が必要になって、古墳時代になった、
という 日本史の証明にはなるんだけど?
邪馬台国がヤマトだのどうたら って言うのは、
日本史でも、記紀に歴史の事実がちょっとくらいは書かれてると良いなあ?
って思ってる、日本人の自己中な読み方でしかない。 じぇんじぇん違うじゃん!
オットーに、👨🦲ギリシャ人坊主に、イラン人商人に、 中国の正史である「隋書」にはお馴染みの十七条の憲法と冠位十二階が出てくるが、それを定めたのは九州のアマノタラシヒコなる男王とある
文中に阿蘇山という固有名詞も出てくるので九州のあのへんに聖徳太子のモデルがいたことは間違いないだろうね 卑弥呼って、実在しなかったと考えると全てが腑に落ちるよね。
そもそも外国の使いが、邪馬台国とやらの内情を詳しく知れるということがおかしい。
その時点でホラ吹いてるだろ この時代にひろゆきとか
同じ顔の瀬戸大也とか
ガクトとか居たら
もう魏志倭人伝は
とんでもねえもんになって連載(連載もんじゃねえよ!)打ち切り 大化の改新前の方が栄えてたんだよな
テロリスト藤原鎌足が自分たちの都合の良いようにに書き変えてしまった 邪馬台国九州説って
これこれこういうわけで九州にあるというそこまではわかるけど
その後大和政権との折り合いってどうつけてんだっけ
神武東征はほぼ否定されてるし
九州勢と大和との戦争みたいなのもないし
いつの間にか衰退して吸収されたみたいな感じ? 小説をネタにスレ立てしてジャップ連呼して
何の病気だよ…(呆れ) そういう事か!
東漢氏ってなんで渡来人なのに、
倭漢氏って呼ばれるのかと思いきや…
日本人とちょっと違うのか。倭人って。 >>9
三国志に卑弥呼が出てくるのは、
諸葛亮が死んだ後の日本人に馴染みの薄い三国志末期の時代 >>40
神功皇后が熊本征伐の途中に征伐した
山門の土蜘蛛が卑弥呼の100年後の邪馬台国 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる(福岡志賀島)
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国(免田式土器?)が対立
3〜5世紀 奈良の纏向遺跡(前方後円墳発祥?) おそらく奈良を中心とした出雲・北陸・東海・吉備等の連合政権、北九州との交流は非常に乏しい
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜南東北を平定 雄略天皇=ワカタケル大王
4〜8世紀 熊本の球磨川流域と宮崎の一ツ瀬川流域以南に独自の古墳文化(熊襲)
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 日本史板での結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの
免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg
伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれたし
後に東征することも可能になった
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった 中国が三国志のように各地に都を構え繁栄してたころ、
日本はまだ卑弥呼さまーってやってたと思うと
中国の歴史は凄いよな 邪馬台国は埼玉県だからな。
埼玉人は出世のためならどんな嘘でもつく。 ワロタ〜。日本人はこんな昔からずっと嘘つきだったのね。 天皇創始じゃないと都合悪いんだろ
こういう輩にとっては 当時の中国で卑を「ひ」と読んでたんだろうか
実は「ひみこ」とは全然違う呼ばれ方してたかもしれないよね 岡田英弘 位置関係や里程にズレが大きく信頼性に欠ける >>44
いやそれは間違い
その時代はまだ九州倭国がバリバリに健在の時期
実際は卑弥呼の末裔を詐称した田油津媛を九州倭国が成敗し
その事績を近畿日本が詐称したと言うのが事実
神功皇后の事績はほとんどがウソ >>61
卑弥呼の末裔が神功皇后の一族で、
田油津媛がそれに楯突いたなら
皇室の正当性確保が最優先の記紀は
必ず言及しそうだけど 全て魏志倭人伝にちゃんと書いてある。
邪馬台は、倭国大乱で負けて、列島での覇権放棄の証に
女王=剣を持たぬ王・祈るだけの王(卑彌呼)を即位させた。
それが証拠に、卑弥呼の死後、邪馬台の覇権復興を掛けて
男王が立つも、また戦に負け、また女王(臺與)に戻した。
邪馬台には二度と覇権は戻らなかった。
どこが列島の新覇権国か?
魏にその正体を隠しつつ、邪馬台の博多港を完全に押さえてる
謎の勢力「大倭」だわ。
倭国(列島)の大半を手中に収めたので「大倭」と名乗ったな。
これ、その後の時間軸を考えると、畿内勢力だわな。 >>63
いまの日本語に「ぴ」はないから
当時のやまとことばにもなかった、でいいと思う どこから、コーカソイドの血入ったんだろう…
🇯🇵ひのもと人って 宋書478年、倭王武(雄略天皇)の上表文。
「邪馬台国?卑弥呼?そんな奴は知らん。東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。海を渡りて海北を平らぐること九十五国。我は大倭の王である。」 >>64
いやそれは間違い
その時代はまだ九州倭国がバリバリに健在の時期
実際は卑弥呼の末裔を詐称した田油津媛を九州倭国が成敗し
その事績を近畿日本が詐称したと言うのが事実
神功皇后の事績はほとんどがウソ >>29
というか後漢書も魏志倭人伝も明確に韓の東西は海で南は倭に接すると陸続きである描写がある
倭人はかなり古い時代から海を渡って行き来しながら鉄資源確保の為に朝鮮半島に進出しているよ >>73
それは九州倭国の王
雄略天皇などでは無い っていうか、塩湖だったんでしょ?
いつ、淡水湖になったの? >>63
卑弥呼はピミヲだよ
ヲはスサノヲのヲと同じ「王(ワウ)」の借用語
「呼」は万葉仮名でも「ヲ」 この手の話って、あらかじめそいつの中でストーリーがあってそれに対する証拠を集めていくような話ばかりだよな。
このスレにもいるけど実に胡散臭いわ とりあえず古墳と天皇家は無関係な
反論する奴は江戸時代以前の歴代天皇の墓を見て回れ >>82
それが畿内説です
結果ありきで印象操作し、思想誘導する手法はまさに反日民族の手法と同類です >>67
ん? 今の日本の「ひ」が、昔は「ぴ」と発音されてたって
話じゃなかったけ? >>29
まぁその頃の中国はもうあの三国志の後の事でローマでは帝国が栄え
日本って本当に後進国だったんですけどね
ここからやっと前方後円墳だーとかエジプトでは数千年前に終わった巨大古墳作りだすし 中国からの使者も、めんどくせぇ出張みたいなもんだからな
ダルいから大して調べずにテキトーに報告書書いて帰ってるわ >>81
同じ作家でも推理小説家の高木彬光の書いた「邪馬台国の秘密」
「古代天皇の秘密」は論理的で面白いぞ。まあ頭から鵜呑みに
するのも変だけど。 >>67
逆。昔は、ハ行は無かった。最初はパ行だ。
その内、ファ行が派生した。室町以前だ。
「ニッポン」、「ニフォン」
江戸時代に入って、ファ行がハ行に変化。
「ニッポン」、「ニホン」
卑彌呼当時の発音は、ピミク、今の発音ではヒメコ。 >>26
外周の外側に脅威を置いておくことで外周の反乱を防ぐ役目もあるでな >>26
その「魏の役人」の親玉って司馬懿っていうと思うんだけど
遼東征伐後に接触したと考えると。
それでも顔立てる必要ない?
毌丘倹の可能性もあるか。こっちなら逆方向に配慮がいるな
まぁ一番大きいのは司馬昭が急死して司馬炎の権威付けのため急遽禅譲が行われた
そのタイミングで使者がたまたま来てたんで盛るのに都合がよかっただけな気がする。 >>90
道も整備してないジャングルみたいな所を進んで
いかなきゃいけないし、大変だよな。 >>1
奴国なんて名前じゃない
日本人を倭奴と言ってただけじゃ?
倭の奴の國じゃなく倭奴の国って言ってんだよ、当時の中国の人は。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています