【歴史】邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い 奴国の海人が暗躍 ★3 [樽悶★]
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富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。
■倭人の王の外交デビュー
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。
※省略
このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。
※省略
改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。
邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。
西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。
邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。
倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。
奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。
江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。
また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。
奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。
※省略
北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。
ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。
※省略
ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。(続きはソース)
関裕二(歴史作家)
7/31(土) 11:52配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210731-00010000-php_s-bus_all
★1:2021/08/02(月) 22:34:00.47
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1628055106/ やっぱ九州説だわな
東や南にしか進まないのに畿内説は成り立たないよ >>1
46無番長 2021/02/16(火) 15:32:45.34 ID:
アニキが在日で部屋住み時代によく聞かせられた話だったが、アニキは朝鮮学校出てた。
昭和30年代から40年年代初めあたりだが3日に1度は女さらって犯してたと自慢してたぞ。何度か警察につかまりそうになったが、傷害以外では捕まらなかったそうだ。犯したら必ず顔を変形するまで殴るそうだ。そうすると覚えていないという。本当かどうか知らんけど。
とにかく気持ち悪いアニキだったな。結局、女二人をシャブ漬けにして金引っ張ってたので捕まってどうなったか知らん。俺も部屋住み逃げ出したから。
朝鮮学校時代には警察に捕まっても職員総出で警察に抗議していけば釈放されるんだってよ。 関裕二
歴史評論家
武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー
千葉県柏市生まれ
仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている
民間の歴史研究家である
またその史観は、市井において賛否両論ある
※ただの門外漢の作文です https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=%C3%96t%20t%C3%B6r%C3%B6k%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%C3%B6t%20d%C3%B6g%C3%B6ny%C3%B6z%20%C3%B6r%C3%B6k%C3%B6s%20%C3%B6r%C3%B6m%C3%B6k%20k%C3%B6z%C3%B6tt.%20%C3%96t%20t%C3%B6r%C3%B6k%20%C3%B6rd%C3%B6g%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%20%C3%B6rd%C3%B6g%C3%B6t%20d%C3%B6g%C3%B6ny%C3%B6z%20%C3%B6r%C3%B6k%C3%B6s%20%C3%B6r%C3%B6m%C3%B6k%20k%C3%B6z%C3%B6tt.%20Szerb%20h%C3%BAsz%2C%20%C3%B6t%20cseh%2C%20%C3%B6t%20t%C3%B6r%C3%B6k%2C%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%20h%C3%A1ny%20ember%3F&op=translate
そうかりかり
するなってw🗣 古代史は何を言っても許される。お気楽な商売ですなぁ。 約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
もうこれが全て。
九州以外あり得ない。
議論不要。
ちなみに、約280年ごろに書かれた魏志倭人伝は、魚カンの『魏略』や『広志』を一部丸パクリしています。 オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らへん!!知ったことかいな!! 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に刺史についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、
「南至投馬国」部分の竹簡を加えてしまったのだろう。 >>5
コピーにレスも何だが、古代史スレに朝鮮人は関係ないからな
シベリアで石器狩猟生活をしていた朝鮮民族が半島へ南下してきたのは早くても中世以降
中世国家の高麗ですら朝鮮人の直接の祖とは言い切れない 日本がシャーマニズム統治だった頃に中国では三国志だもんな
物凄い文明の差を感じる 陸路の場合は直線距離じゃなくて当時のくねくね道で計算しなよ
直線で100kmでも移動は200kmくらいになるだろ オモシロ九州説まとめ
Q:対海國は絶海の孤島と書かれてますけど対馬なんですか?
A:たぶん
Q:対海國は対馬国だそうですね
A:たぶん
Q:一大国は壱岐なんですか?
A:たぶん
Q:一大国は一支国だそうですね?
A:たぶん
Q:糸島のどこに王の痕跡があるのですか?
A:・・・
Q:漢委奴国王が朝貢した立派な港があるはずなのに、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないところに上陸するのはなぜですか?
A:・・・
Q:九州の遺跡や出土品は、漢委奴国王のモノではないのですか?
A:・・・
Q:地元の文化財担当者は厳しい見方を示していますが、本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:古代史はロマン!!ロマン!!ロマン!! >>1
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
このように日本の史書を読めばすぐに気づくはずのことに気づけない畿内説派のほうこそ
日本の歴史を軽視しているのである >>20
対馬と壱岐ではないと言い張ってる奴なんてほとんどいないだろ >>18
まあ孔明もいろいろ怪しい術を使ってるじゃん? 邪馬台国九州説の端緒は、万世一系の神の国である朝廷が、大陸に朝貢を行っていた筈がない、
今は滅んだ朝廷とは無関係の国が有ったに違いない、という政治的な主張なんだけどね。
まあ、どこに有ったか判明しないほうが、みんながあーだこーだネタにできるのでそれでいいけど。 >>22
九州にあるという九州説者が言い始めてるぞ
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずで、
邪馬台国を伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は九州であると結論づけている。 四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。
卓淳の王、末錦旱岐マキンカンキ?が、斯摩宿禰に、
「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、我らを遣わして、その国に行かせた。もし、よく我々に道を教えて、通わせて頂けば、我が王は深く君を徳とするでしょう』と。
そのとき、久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。しかし、まだ交通が開けていないので、その道が分らない。海路は遠く波は険しい。大船に乗れば何とか通うことができるだろう。途中に中継所があったとしても、叶わぬことである』 >>21
それもあるが、魏志倭人伝によると卑弥呼の時代240年ごろに日本には、牛も馬もいなかったとある。
ところが、纏向では馬具の鎧(あぶみ)が出土した。
日本が馬を輸入したのは、391年の倭・高句麗戦争の時に、高句麗の騎馬の戦法を見てから、「これはすごい」と思って、391年以降に馬を日本に入れた。
よって、馬具が出土する纏向は卑弥呼の墓ではない。 >>18
卑彌呼は統治していない。君臨してただけ。
魏志倭人伝を注意深く読めば、邪馬台は倭国大乱で負け
覇権放棄の証として女王=剣を持たぬ王を擁立している。
大乱は、教科書にある様な、邪馬台内の三十数カ国の
内乱に非ず。列島の大乱だという事も読み取れる。
邪馬台を下した列島の新覇権国の「大倭」もちゃんと
魏志に登場している。正体を偽装しているがね。
邪馬台の交易港(博多港)をしっかりと押さえている。 ゴミみたいな観光資源のトコには大概「邪馬台国ニダ」って書いてある。
久しぶりに「大和撫子タマの腰」が見たくなった >>31
https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=zh-CN&tl=ja&text=%E5%8D%93%E6%B7%B3&op=translate
チョー チュウェン 倭人は、391年の倭・高句麗戦争で騎馬隊がおらず、歩兵だけだったことが、高句麗や中国の史書からも判明している。 1里が435mで伊都国は糸島でとか言ってる奴理解不能なんだけど
そいつの中でどう整合性取ってるの? ヤマタイコクとヤマトがたまたま語感が似てたもんだから、変に連続性があるという思い込みが生まれそこから抜け出せなくなってしまう奴がいるんだろうな >>39
そもそも、ヤマタイコクという名前の国はなかったと考えて良い。
なぜなら、最初に邪馬台国らしきものが登場するのは、約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』であるが、そこには、邪馬嘉國と書いてある。
約280年頃に書かれた陳寿の『魏志倭人伝』では、邪馬壱國(日本発音→ヤマイチ、中国発音→シェイマーイ)
初めて、邪馬臺國(臺は台の旧字体)が登場するのは、432年に范嘩が書いた『後漢書倭伝』である。 卑弥呼の正体はやまたのおろち
やっとの思いで2回倒した >>33
馬の骨なんか、もっともっと昔から出土してるよ。
野良馬 >>39
もっと言うと、魏志倭人伝の記述が
魏の版図自慢用のファンタジーで、曖昧な情報を元に捏造してたのを普が書き直したダケなのに
「オラが村が邪馬台国」連中がヤマトにこじつけたって線が、最も信憑性が高くなる。
だからこそ日本側に卑弥呼云々の記録が無いし、隋書の以下の記述どおり。
「倭国はヤマトに都する。即ち魏志倭人伝にある、いわゆる邪馬台国なるモノなり」 >>42
邪馬台国に馬はいない
纏向ハズレ確定だな
其地無牛馬虎豹羊鵲 391年の倭・高句麗戦争では倭人には騎馬隊がなく、歩兵しかいなかったことが高句麗、中国側に記録されている。
日本には、馬はいなかった。
ちなみに、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、アメリカ大陸には馬はいなかった。
たまに、「コロンブスの前からいたー。骨があった。オーパーツだー」とほざく奴がいるが、アメリカ大陸先住民は誰も馬に乗ってなどいなかった。 残念ながら邪馬台国畿内説は考古学者から見放された。 >>15
それだよなよな
魏志倭人伝は司馬懿の手柄を誇張するために
「司馬懿のおかげで判明した東夷の国の詳細」を盛り盛り書いている
そのため、魏の時代ではない情報や繋がりのない情報が
あちこちの資料から切り貼りされて唐突に挿入されている
例えば、刺史は行政官(魏)のはずが監察官(漢)になっていたり
魏略では伊都国は万余戸とあるのに魏志では千余戸になっていたりする
翰苑(廣誌)では伊都国の次が邪馬嘉(臺)国となっているが
魏志では里数の資料とは別の、日数の資料の情報が挿入されている
また対馬、末盧、伊都、奴と戸数なのに、一支と不弥は「家」数になっていたり
その記述は常に一貫性を欠きつづけていると言っても過言ではない
ので、末盧国の描写「草木がぼうぼうで前を歩く人が見えない」も
いつの時代の話なのか分からない 魏志倭人伝くらいにしか記述がない邪馬台国を調べるなんて
資料が無さすぎて研究のしようがない
そんなもんに誰が研究費を出すかね?
という事で邪馬台国を研究する学者などいなくなったわけだよ >>47>>49
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
大多数の考古学者は大和説です
大多数の考古学者は大和説です
大多数の考古学者は大和説です
邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>50
あぁ、そいつはゴッドハンドの共犯者じゃんwww
で、
・これは、たとえば卑弥呼がもらった金印が出てもだめで(後からよそに動かされる可能性があるから)、邪馬台国
の位置を書いた地図が中国で出ない限り、万人を納得させるのは難しいでしょう。
とか書かれてるのにそういう部分を引用しない時点で
お前はクズだという事がよくわかる 日本史
京都大学 畿内説
東京大学 北九州説
東洋史
魏王朝内部の権力争い
司馬仲達 邪馬台国 呉攻撃の同盟国 魏志には呉を攻撃しやすい場所に書かれた
曹爽 大月氏 蜀攻撃の同盟国 >>50
それがあの有名な「近畿では鉄が溶けやすいんですキリッ」のとこw >>55
それは馬ではない。
馬ではない生物を馬と言ってはいけない。 猿は人間から進化したのではなく、猿のような生物から、猿と人間に分かれたのである。 日本も沖縄も統一前は自分らの正統性裏付けに支那皇帝に朝貢するのは別に不思議じゃないな。
国内に絶対手に権力がないんだから オランウータンは見つけたらすぐ動物園行き。
ネアンデルタール人は、動物園に入れられないでしょう。
北京原人は微妙だ。
動物園へ!という人もいれば、動物園に入れたらダメだろという人もいると思う。 >>57
年代測定していないだけで、馬だろうけど…
北朝鮮じゃあるまいし 箸墓から馬具出土
邪馬台国に馬はいません
さよなら畿内説 朝鮮半島ですらこの時代の歴史や国がわかってるのに
ジャップ… プッ 実際にあったかどうかすら分からん国に勝手に誇り感じて
「おらがくにを中国様が認めてくださっただ!」と喚いてる邪馬台国論争参加者って
世界の中でも一番惨めな人種だなw いち早く金印を獲得し、いち早く絶縁(日出処天子)してるわけだ
距離的にはずっと近いはずの、どっかの国と違ってな 考古学って、適当だよな。
古畑任三郎で一番面白いのは、動機の鑑定。
春峯堂のご主人が、「慶長の壺」を見つけたから、展覧会に展示する、しかも本物と鑑定されたというが、
人間国宝の老人が「ろくな鑑定家がおらんちゅうことですな」と言う。
春峯堂のご主人が、「どういうことだ!」と言うと、
老人は「それは私が作ったものだ。ほら私が作ってる写真だ見てみろ」と。
で、殺される。
★慶長時代は、今から400年前 >>53
佐原氏が存命なら名誉毀損で訴えられる悪質な書き込み
学者や考古学者についての話題なのに、一般人が納得するかどうかの部分を引用しなかったと文句をつけるのは論点をずらした難癖
悪質な書き込みがあったと歴博にも通報しておこう >>70
この程度で名誉毀損罪が成立するわけがない。
逆に、名誉毀損罪で訴えられるという書き込みが、脅迫罪に抵触するかもな。 >>66
そうとも、限らないか。
有気音と無気音の違いで単語を区別する言語だったとしか。 >>67
お前がそういうスタンスで参加していたから
それしか思いつかないだけだろ
オレは九州とは縁のゆかりもない関東人だぞ
ただ単に素直に考察すると九州説になっていっただけだぞ
あとは畿内説論があまりに無理やりで、必死だから煽るのが面白いだけだw 四大文明と比べちゃだめだぞ
記録媒体ないんだからみんな妄想でいいんだよ、どうせ立証なんてできないんだから >>78
男は子どもも大人も顔に入れ墨を入れていると記述されているので
朝鮮半島由来じゃなくて、南方の海洋民族由来といわれている
なんでも倭人は呉をつくった太白の子孫だという伝説?か何かあるんだよ >>67
高校生。
みんなは外で遊んでるし、セクロスもしてるぞ >>1
邪・倭・卑なんて悪意のある漢字、どの國の誰が付けたの? >>78
逆じゃないかなあ。ヤマトが渡来人の国(ナラ)。遺伝子的にも。 >>69
春峰堂つうか、その手下のハゲな
春峰堂すら見抜けない代物
そして400年前の慶長年間のツボなんぞより、
贋作である人間国宝の作ったツボの方が価値が高い、と
真作の慶長のツボで殴るんだわ
あれはコロンボの「別れのワイン」並の名話
そうそう、あんた、考古学をテキトーなもんだとおっしゃってる
テキトーで済むならね、
あんたの人生その程度のもんってこってす 馬、在来種でググったら
日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し、対馬・九州に家畜馬として導入した蒙古系馬にある[1][2]。倭・高句麗戦争の直後に当たり、倭(および朝鮮半島の協力勢力)の政策により日本で騎馬・軍馬の導入育成を始めた。この時代の馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、適地を求めて現在の関東地方(群馬、千葉)や東北地方にまで急速に飼育が広がり[3][4]、日本は産馬の地となった。
って出てきた。
本当に高句麗と戦争後に輸入したものが日本の在来種の馬じゃん
纒向遺跡から馬具が出てきたってことは、邪馬台国じゃないって確定じゃないかよw エヴェンキが来る迄南朝鮮半島はヤマト勢力下に有った訳だし誰と取り引きしてたんだろう、歴史考察は其処が抜けてて良く分からん、
しかも何かを輸出して取り引きしてたとか超適当だし、そんなに鉄を輸出してたら超軍事国家に成れたよw 全てを紐解く鍵は古地図である 年代が下った元の時代でさえ日本列島の地図は
東北地方が真上で九州が真下の南に描かれている なので倭人伝の説明の
南に陸路1ヶ月は東へということ つまりは奈良なのです >>993
>対馬の到着地と、壱岐への出発地は同じ場所なのか?
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町) @阿波 >>92
いや、もう流石に諦めろよ
畿内説は完全に詰みだよ
纒向から馬具が出たこと=この遺跡の年代は
高麗と戦争のあと、つまり391年よりも後の時代の遺跡ってこと
それとオレが計算したもの
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
纒向は邪馬台国よりもかなり後になってできた宮だということ あたまおかしい糞ウヨがやたらエベンキ族を馬鹿にするが
遺伝子的にいえば朝鮮人はエベンキどころか日本人とほぼ同じだからな
エベンキ族と朝鮮人は遺伝子的にはむしろ遠いくらいだ いつも思うんだがこういう超昔の事をあーだったこうだったと妄想作り上げるこの業界って本当無駄だよな。ずっと雲をつかもうとしてる繰り返しw
本当に卑弥呼が居たのかすら疑わなければならないしその時代に何をしてたのか時系列も憶測妄想でしかなく、その当時まで戻れない以上は確かめようも無いんだから他の生産性のある研究に時間労力使えばいいのにと毎日思うw >>92
ところが、1140年頃の『古今華夷区域総要図』では、朝鮮半島の下に「倭奴」があって、その下に「日本」がある。
つまり、邪馬台国に引きずられて、九州と畿内がごちゃごちゃになって、地図を描く人、歴史書を書く人の間でも人によって色んな考えがあったというだけ。 >>97 エヴェンキも目は2つだしな。
遺伝子は似てる。 >>84
そう。
なんで長江南部の民族と同じ名前なのかが謎
> 「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、
設浮於海、欲居九夷、有以也夫。
樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。
故に孔子、道の行われざるを悼み、説(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。
以(ゆえ)有るかな。
楽浪海中に「倭人」あり、 分かれて百余国をなし、 歳時をもって来たりて献見すと云う。
また呉地の条には「会稽海外に東鯷人有り。
分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ」の記載があるが、東鯷人と倭人の関係は不明である。 >>38
普通の人の思考
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 魏志倭人伝の里数は間違ってる
一部の九州説信者の思考(5ちゃんねるの場合は大半の九州説信者)
魏志倭人伝の行程は1里435mでは合わない → 短里が存在した(しかも里で表記されているが里とは違う長さの里)
こういう論理飛躍と捏造を平気でやるんだから頭おかしいとしか言いようがない
おまえも魏志倭人伝の里数は間違ってるという一般的な解釈にわざわざ反論してきたんだから
頭のおかしい短里厨と同類だろ >>98
違う違う。
もう確定してるんだよ。
266年頃に書かれた郭義恭の『広志』の記載、
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
もう九州で確定しているのに、認めないだけ。 まるで朝鮮人にたたら製鉄の技術でも有ったかの様に語られてるが、朝鮮半島から来た鉄は中国由来の石炭で鉄を溶かした鋳鉄だし、
何でか日本で発生したたたら製鉄の製法は朝鮮半島からは出土されないみたいなんだよね。 >>99
北九州にいたからおかしかない
1140年の朝鮮は南九州を知らん
だから古伊万里も薩摩焼もあくまで壬辰倭乱よりあと
また日本は戦略上の理由もあって、地形図を書かないんだわ
あるのは宿場の図であって、
地形つうのは見て覚えるもん >>98
そうね
うちなんか1183年から本貫あるけど、
おまえんちみたいに部落出身だと一族の歴史なんてないだろ?
うちのもんが邪馬台国発見したから趣味でやってるだけ。
あ、ゲームやアニメについて何か調べるのは無意味なんだろ?
はよタンポポを刺身に乗せる仕事に戻れ >>103
翰苑にも似たことが書いてあるらしいね
少なくとも中国側からは北九州のある地域が邪馬台国と認識していたという事だろう
当時の日本全体の政治情勢や古墳はまた別の話 >>103の大事な点を言う。
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
これは文字数から言って、一つの竹簡にこれのみの記載だけがあった。
ところが、魏志倭人伝では、ダラダラと倭の文化とか説明を書きながら、急に「南至投馬国水行二十日」と出てくる。
どう考えても、この竹簡部分は「この竹簡の文字って倭の記述かな?一応付け足しとくか!」ぐらいで付け足した。
だから不自然な感じになっている。 >>103
>もう九州で確定しているのに、認めないだけ。
いくら連呼しても、「阿波」が存在する限り、無駄。 @阿波 >>68
私は「聖徳太子狂人説」を採るものである。
冷静に考えて欲しい。当時の最先端の一大強国である隋に対して、
「恙無きや」と国書に記す人物がまともな思考を持っていたと
言えるだろうか?
そもそも当時の国力で「平等外交」など望むべくもないし、
当時の人間がそんなことを考えもしなかっただろうことは
容易に推測できるだろう。 >>97 をいエヴェンキ、ゴキブリとかでも目は2つだからなお前の言い分が認められたとか勘違いしてねーよな? >>108
翰苑ね
「後漢書曰く、倭は韓東南大海の中に在る。
山島に依り居す。およそ百余国。武帝が朝鮮を滅してより使訳が漢に通じるのは三十(=卅)余国。王を称す。
その大倭王は邪馬臺に治す。楽浪郡境はその国を去ること万二千里。その地はおおよそ会稽(東冶)の東にあり、朱崖、儋耳と相近い。」
「魏志曰く、倭人は帯方東南にある。
倭地を参問すれば、孤立して海中の島々の山(魏志は上)にあり、あるいは離れ、あるいは連なり、巡り巡って五千余里ほどである。
四面はともに海に極まる。営州より東南、新羅を経てその国に至る。」
後漢書と魏志の引用なんで、新しいことなし >>114
憲法17条とか冠位12階とか法律や制度の整備を行っているけれど >>108
同じく翰苑から。魏略は原本喪失
「魏略曰く、帯方より倭に至るには、海岸に従い水行する。
韓国を過ぎ(魏志では歴)、枸耶韓国に到る。七千余里。
始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。
その大官は卑拘といい、副は卑奴(母離)という。
良田はない。南北に市糴している。
南に海を渡り一支国に至る。官を置く。
対馬と(与対馬)同じ。土地は三百里四方。
また、海を千余里渡って末羅国に至る。
人は上手に魚を捕る。うまく水に浮き沈みしてこれを取る。東南五百里、伊都国に到る。万余戸。
爾支という官を置く。副は洩渓觚(魏志では泄謨觚)、柄渠觚という。その国王は皆女王に属している。」
広志も原本喪失。
「広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。
また南、邪馬嘉国に至る。
女(王)国より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。
次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、倭西南海行一日に伊邪久国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり。」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/8/kan_en.htm >>112
https://www.youtube.com/watch?v=63bNv7RmHHc&t=1144s
15:10くらいから
でも、昔でこんなことがわかったのでしょうか?
グーグルアースもないのに
どうでしょうね?
そんなことができたのでしょうか?
「中国では古くから数学や天文学が発達していました」
何この漫才w
本当に真面目に主張しているとは思えないけど
まさか本気じゃないよね? 九州にあった倭の王族が
纒向に植民都市を作りました
それが大和の元になります
九州と大和は親戚です
ちなみにその頃、蘇我氏は天皇でした
鎌足と馬の骨天智のクーデターで
九州倭国の流れを汲む古来からの皇系が変わってしまいました >>108
同じく翰苑から。魏略は原本喪失
「魏略曰く、帯方より倭に至るには、海岸に従い水行する。
韓国を過ぎ(魏志では歴)、枸耶韓国に到る。七千余里。
始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。
その大官は卑拘といい、副は卑奴(母離)という。
良田はない。南北に市糴している。
南に海を渡り一支国に至る。官を置く。
対馬と(与対馬)同じ。土地は三百里四方。
また、海を千余里渡って末羅国に至る。
人は上手に魚を捕る。うまく水に浮き沈みしてこれを取る。東南五百里、伊都国に到る。万余戸。
爾支という官を置く。副は洩渓觚(魏志では泄謨觚)、柄渠觚という。その国王は皆女王に属している。」
広志も原本喪失。
「広志いわく、倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。
また南、邪馬嘉国に至る。
女(王)国より(自)以北は、その戸数、道里を略載できる。
次ぎは斯馬国、次は已百支国、次は伊邪国。案ずるに、倭西南海行一日に伊邪久国あり、布帛なし。革をもって衣となす。けだし伊耶国なり。」
www.eonet.ne.jp/~temb/8/kan_en.htm >対馬の到着地と、壱岐への出発地は同じ場所なのか?
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町) @阿波 >>124
ちなみに対馬にモリというのがいるが、
素戔嗚命が降り立った韓の国がソシモリ
> スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に降りた
(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利(ソシマリ)はその地の風俗を歌う曲である。)
スサノオが言うにはこの地に私は居たくない。
埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。 畿内なら、九州から畿内に向かう途中の描写が全くないのは不自然すぎるだろ、
九州まではあんなに詳細に書いてるのに
出雲とか吉備津とかは書かないで済む規模の国じゃないだろ >>102
1里が435mだと伊都国まで200q以上離れて無いといけないから
糸島だと上陸地点に該当する場所が無いだろうが https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=tr&tl=ja&text=Al%20bu%20takatukalar%C4%B1%20takatukac%C4%B1ya%20takatukalatmaya%20g%C3%B6t%C3%BCr.%20Takatukac%C4%B1%20takatukalar%C4%B1%20takatukalamam%20derse%20takatukac%C4%B1dan%20takatukalar%C4%B1%20takatukalatmadan%20al%20getir.&op=translate
🇹🇷トルコもキテるなwwwww >>131
魏志倭人伝の里数は正しくないと何度も何度も何度も何度も何度も言っている
そうやって反論してくる意図がまったく理解できない
何を主張しようとしてるんだ?
短里が存在したと言いたいのか? >>130
五万戸と記される投馬国が出雲かも知れない
瀬戸内海を水行して
昔から船着き場で栄えた瀬戸内海の鞆(とも)の浦が投馬国の事かもね >>133
>魏志倭人伝の里数は正しくないと何度も何度も何度も何度も何度も言っている
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
↓【東南】陸行500里 (25km)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15km)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25km)1里250m
不弥国(千家)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群)
↓【東】渡海(紀伊水道)1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里 紀伊水道渡海→奈良周辺)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里( 直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>133
何故間違った事を書いたのか
その根拠を言ってない 邪馬台国畿内説なら、瀬戸内海の水行は不自然
日本海側の方が可能性あるだろ >>134
投馬国(五万戸 土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)は、
邪馬台国(女王之所都 七万戸 大吉野川流域一帯)に匹敵する強大国。 @阿波 近くの図書館に関裕二の本いろいろあるので読んだけど、
読み物としては面白いよ。論文として読むと?となるけど。 >>136
はあ?
陳寿が「意図的に」「わざと」嘘の里数を書いたと畿内説論者が主張してると考えてるのか?
そんな主張はしてない
で、あんたは何を言いたいのか明確に言ってくれ >>140
そんな事言ってない
何故間違ったと思うのか聞いてるんだが >>140
ごめん>>142は聞き方が悪いな
何故間違いを犯してしまったのかだな >>6
そもそもこの分野に専門家なんて居るのか?
資料皆無で何も出来ないだろ >>42
日本の馬ってモンゴル種なんだが、それ以前に別の種の馬が居たって事? >>142
そんな理由わかるわけないだろうが
事実として、魏志倭人伝の里数は間違っている
それだけだ
で、あんたが言いたいことは何?
いい加減、答えてくれ >>50
三角縁神獣鏡云々って…
いつの時代の人か知らんけど今じゃ鼻で笑われる根拠じゃん >>147
魏志倭人伝は引用だろうけど元も史書はいつ誰が書いた物か分からない
つまりそれだけだと距離は分からない
ただしそれぞれ行程に距離が書いてるから
もし伊都国が糸島を想定してるのなら435mは有り得ないと言っている >>142
渡邉義浩氏とかが唱えてるように、大月氏国より遠くから朝貢があったことにするために
作られた数字というのが主流の説だが、あくまでも仮説にすぎない 魏の使者は倭には行ったが、邪馬台国には行っていないのでは? 結局どうなればこの論争は終結するんだ?
ここは卑弥呼の墓です とか書いてある立札でも発見された時? >>149
>もし伊都国が糸島を想定してるのなら435mは有り得ないと言っている
だ・か・ら、魏志倭人伝の里数は間違ってると何度も何度も何度も言ってるんだよ
日本語わからないのですか? >>151
よくわかんない理由だな
それだとどの国が遠くても構わないし全ての国を引き離せば良いのか? >>155
間違ったと思う理由が何も無いのか?
そっちの方がおかしいだろ >>154
一枚二枚見つかったところで、それが何?としかならんわ
後代に日本から渡ったんだろ >>158
調査もされてて
間違いなく三角縁神獣鏡と鑑定されてる >>153
学説的には三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡で
邪馬台国は大和国で終結してるよ
九州説を主張している学者はもう居ない状態 >>157
理由なんかわかる訳ないだろ
測定精度の問題かもしれないし、情報不足かもしれないし、机上の創作かもしれない
事実として、魏志倭人伝の里数は間違っている
それだけだ >>154
洛陽で見つかったとされる三角縁神獣鏡は、真偽不明なので、とりあえず保留。 なんにせよこの分野は資料がほとんど無い
言いたい放題、言ったもの勝ち >>159
中国の洛陽で三角縁神獣鏡が1枚出てきたのは
三角縁神獣鏡は中国の魏で作られた鏡という従来の説を補強するものとなる >>162
上陸地点が唐津辺りだとすると糸島は広島とかその辺じゃないの?
200qって相当な距離だからな >>149
あんたが伊都国までの500里が正しく、もう一つの未知の距離単位「里」が存在したと言いたいなら、
自分で立証すればいいだけだ >>163
中国の洛陽で見つかった三角縁神獣鏡は
資料的価値がある >>166
だ・か・ら、魏志倭人伝の里数は間違ってると何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってるんだよ
日本語わからないのですか? >>167
そんな事する必要無いじゃん
伊都国が糸島だと想定してる人は1里が435mだとおかしいよと言ってるだけ 関氏によると
纏向を邪馬台国とした場合最大の矛盾は
尾張勢力が狗奴国となってしまう事
尾張は纏向建国の最大の功労者であり、敵対勢力ではないのだとか >>169
何故間違ったのか想定出来る理由が何も無いっておかしいだろ >>170
>伊都国が糸島だと想定してる人は1里が435mだとおかしいよと言ってるだけ
だ・か・ら、魏志倭人伝の里数は間違ってると何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も言ってるんだよ
日本語わからないのですか? >>165
全くならない
日本には五百枚とか有るんだぞ
せめてそれを上回る数を揃えてから言ってくれ >>171
詳しく
数万年前の化石とか出すなよ?w >>176
根拠も無しに間違ってると言い張るだけっておかしいでしょ >>172
それなら魏志倭人伝に書いてある事が間違ってるんだろ >>178
現代の知見で検証した結果、魏志倭人伝の里数は間違っていることが判明した
それだけだ >>175
邪馬台国は魏に4回使者を出したことが記録にあるし
三角縁神獣鏡は国内でも複製されていた
国内で500枚くらい見つかっても普通
三角縁神獣鏡は倭国に贈る用途の鏡だったとされている 日本は易姓革命は無いけど、中国王朝交代が頻繁。
洛陽なんて何回も戦乱で焼かれているから保存状態が悪い。
洛陽を都とした王朝は東周、後漢、魏、晋とか多数ある。 >>182
複製とする根拠、倭国に贈る用の鏡とする根拠を宜しくね >>181
元の史書を書いた人が何処の誰か分からんのに
全ての時代全ての地域で一貫して1里は435mだったのか? >>184
日本も記紀以前の記録は徹底的な焚書されてるから似たようなもんよ そもそも卑弥呼なんて本当に実在したのか?
AV女優なら知ってるが こういう空想に空想を重ねる歴史観は面白くも何ともない https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=Te%20tetted%20e%20tettet!%20E%20tettetett%20tettet!%20Te%20tettetett%20tettek%20tettetett%20tettese%20Te!%20Te%20tetted%20t%C3%B6nkre%20a%20Trabant-tet%C5%91tart%C3%B3t%2C%20te%20tet%C5%B1!%20Te%20tetted%20e%20tettetett%20tettet%3F%20Tettetett%20tettek%20tettese%2C%20te!%20Te%20tetted%20t%C3%B6nkre%20a%20Trabant-tet%C5%91tart%C3%B3t%2C%20te%20tet%C5%B1!%20Te%20tetted%20e%20tettetett%20tettet%3F%20Tettetett%20tettek%20tettese%2C%20te!&op=translate
怒るな、ってってってって!😂 >>186
魏晋里は435m
それ以外の長さの里が存在した根拠はない
その文面から、もう一つの未知の距離単位「里」が存在したと言いたいのだろうとモロに伝わってくるが
立証義務は自分にある 有気音と無気音で単語を区別する言語と
有声音と無声音で単語を区別する言語って
グループ違うの?
(例外はあるが) >>185
三角縁神獣鏡はいくつか同じ紋様のものが見つかっている
これは粘土で鋳型をとって国内で複製されたものとされる
そして全唐文という文書には
魏は昔倭国に今までにない形式の鏡を作って渡してあげた
といった内容の文が書いている >>192
おまえの言ってる事は1里は435m以外有り得ない事を前提にしてるんでしょ
書いた人が何処の誰だろうが必ず1里は435mだと言えるの? 100年後、東京と大阪の距離が3000kmと書かれた文書が見つかったと仮定する
まともな常識と知識のある人は、文書に書かれた距離が間違ってると判断する
短里厨は、もう一つの長さの異なるkmがあったんだと言い張る >>194
それ根拠になってないよね
他にはないの? >>197
じゃあどういった事が根拠になると思う? >>195
だ・か・ら、架空の距離単位が存在したと言い張りたいなら、立証義務はおまえにあるんだよ
幽霊が存在しないと言ってる側に、存在しないことを証明しろと要求してるのと同じだ >>198
複製品が日本で製造されたものの複製品でも全然おかしくないよね?
そして三角縁神獣鏡が中国で製造された根拠がまるで出てきてなくね?
たった一枚出てただけで、何故三角縁神獣鏡が中国ルーツになるのよ?
今までにない形式の鏡?
それがこれだとする理由もなし
都合よく解釈してるようにしか見えないね >>198
まあ何も分からないこの時代、妄想してなんぼだとは思うので
根拠根拠というのも野暮だわな悪い
何か面白いネタが有ったらまた頼むわ >>199
昔の事だし分からないとしか言いようがない
ただ435mだと明らかに距離は間違ってる >>203
>ただ435mだと明らかに距離は間違ってる
それでおk >>204
対馬は435q離れてる事になり見えない
そんなの間違うか? >>205
しつこいぞ
架空の距離単位が存在したと言い張りたいなら、立証義務はおまえにあるんだよ >>207
間違うのか?
帯方郡から会稽東治まで1万2千里だから5220q
そんな間違いあり得るの? >>208
だ・か・ら、架空の距離単位が存在したと言い張りたいなら、立証義務はおまえにあるんだよ
幽霊が存在しないと言ってる側に、存在しないことを証明しろと要求するな >>209
何度も書いてるが昔の距離単位なんて分からない 陳寿は晋の時代の人であり、一里約400メートルで三国志を書いている(魏志、呉志、蜀志)。
陳寿は倭に行ったことがなく、魏の使者の距離についての誤った記録を元に魏志倭人伝を書いたから一里400メートルではとんでもない場所になる。
朝鮮半島から倭までの距離を測量した記録が無かったのだろうな。 短里が存在したと言い張りたいなら、自分で立証すべき
演繹的でもいいし、帰納的な方法でもいい
もちろん、どんな言い分も論破できる
論破できるというのは、言い負かせるという意味ではなく、嘘インチキ捏造を暴けるという意味 >>212
400mであっても帯方郡から会稽東治まで4800q
こんな間違いあり得るの? >>209
立証って具体的に何を求めているんだよw
昔の文書にこの1里は100mと書いているとでも思っているのかよ?
そんなことあり得ないとなぜ分からないんだ?この石頭の低知能はww
実際の距離がわかる地点からの距離で計算すれば
1里100ⅿ位になれば、それが立証されているんだよ
物分かりが悪い猿だな、こいつはw 中国国内の距離感は正確だけど海を隔てた異国の距離感は間違っていたのは仕方がない。
測量しているわけではないから 梯携(テイイ)たちでググって
ハシゴが一番最初に出てくるってどういう事!💢 >>209
お前は無知すぎる
624 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 18:45:32.83 ID:y1B9e6n60
>>574
戦国策には戦国七雄の領土があちこちに書かれているがどれも短里
https://i.imgur.com/WpRnm2e.jpg
元資料
https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4063&file_id=19&file_no=1
当時の中華という概念にはチベットもウイグルも内蒙古も含まれないので
長里でいえば方四千里程度の範囲 ちなみに方四千里でこんな感じ
>>218の戦国策が全て短里なのは疑いようがない
655 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 19:14:02.48 ID:y1B9e6n60
魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
https://i.imgur.com/GFj713W.jpg
ほぼ中華全土に匹敵する
当然魏国よりもはるかに大きくなってしまう
魏の国の人間が韓が自国より大きいと誤認することなどあるわけがない
東夷伝が短里であることに疑いの余地は一片も無い 陳寿が書きしめしてる場所が↓ここ
台湾の東海、沖縄付近に邪馬台国がある
まさに、計其道里、當在會稽東冶之東
もちろん、陳寿が描いた予想の倭地
878 ニューノーマルの名無しさん 2021/08/05(木) 12:56:51.78 ID:sXKJ9pMj0
中華の方万里から
その方万里の東北に方4千里の半島があって
そこから周旋5千里の倭地
単純計算しても
10000−(4000+5000)=残り1000里
方万里の下辺に近い
呉を、魏と挟撃できる位置に倭地があると考えるのは自然な考え
http://o.5ch.net/1ufp5.png >>212
倭どころか高句麗伝や韓伝ですら距離がおかしい 1里が435mで計算するからパプアニューギニアとかバカげた事を言ってる訳で
でもそれじゃ西側に会稽東治が無いでしょ
会稽東治まで同じくらいの距離行かなきゃダメなのよ >>220
何という書物にどう書かれているのか言ってみ だから陳寿は高句麗とか韓とか外国に行ったことがないから、他人の作成した文章からの引用なので、距離方角は間違いだらけた >>225
そう思わなくは無いけど伊都国が500里で奴国100里不弥国100里は
丸々引用してるだろうし書いた人が何の根拠もなく書いたとは思えない はっきり言えば末盧国伊都国奴国不弥国辺りの記述を疑いだすと
邪馬台国や卑弥呼は実在したのかって話しにもなってくる
何を根拠に書いたんだ? 青は藍より出でて藍よりも青し
君子曰、學不可以已。青取之於藍、而青於藍、冰、水爲之、而寒於水。 >>224
魏志東夷伝序文
書稱東漸於海西被於流沙其 九服之制 可得而言也
尚書は「東は海に進み、西は沙漠におよぶ」と称した。九服の制がうまくいったと言うべきである。
きゅう‐ふく キウ‥【九服】
〘名〙
@ 「周礼‐夏官・職方氏」に見える、中国、古代の制度で、千里四方の王畿を中心とし、外へ五百里ごとに一服とした九つの区域をいう。中心から侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服の九つ。
https://i.imgur.com/yInYjTy.jpg これ、何色の事言ってるんだろうwwwww
混乱するわ >>224
方万里の世界観については、渡邉義浩氏の魏志倭人伝の謎を解くという書籍のP122に詳細が書かれているから自分で買って読んでくれ
専門家じゃないんで詳細をいちいち説明できんよ >>230
やっぱり出典は周礼だろ
それ短里なんだよw
332 :日本@名無史さん :2020/12/08(火) 00:48:45.37
>>331
周礼は周公旦が書いたとされているから周代の里、いわゆる短里で書かれている
周公旦は周の初代王・武王の弟だから周が出来たばかりの頃に書かれたということになる
当時の中華世界は漢とは比べ物にならないほど狭く、短里で方万里程度
https://i.pinimg.com/736x/a2/95/78/a29578075b2986e76634556b302223db.jpg >>234
その概念が陳寿の時代にも受け継がれてるから
東夷伝の序文に九服の制が上手くいったと書かれたのだろう >>234続きではなぜ戦国策や周礼が短里で書かれているのか
それは長里を定めたのが秦の始皇帝だから
始皇帝がまだ秦王だったころには方五千里と言っていた周以前の五帝の版図を
始皇帝として即位した後には方千里と数字が5分の1に減少している
始皇帝が即位する前と後で1里の長さが5倍になったわけだ
長里は短里の約5倍だから計算はピッタリ合う
http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/yamataikoku/tanli.pdf
> そして古田さんは、漢の司馬遷が紀元前 91年 ころに記した『史記』に、
> 夏・殷・周の≪古法≫に拠る「短里」と、秦・漢の≪新法≫による「長里」のあることを発見します。
> 次の通りです。
>
> 『史記』五帝本紀 第一の
> 【(帝舜の地は)方五千里にして荒服に至る 】の記述は、「短里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 五帝本紀第一、ちくま学芸文庫版 25頁〕
>
> 『史記』秦始皇帝本記 第六の
> 【古の五帝は、地は千里に過ぎず 】の記述は、「長里」に拠つている。
> 『〔史記本紀 I』 秦始皇帝本記第六、ちくま学芸文庫版 145頁 〕
>
> これは、同じ≪周以前の五帝の版図≫を、
> 「短里」の行われた『五帝本紀』では、方五千里と言い、
> 「長里」が新たに定められた『秦始皇帝本記』では、(方)千里と言い換えているのです。
> 『〔倭人伝を徹底して読む』1987年、朝日文庫版 190頁 〕
>
> そしてこの記述は、
> ≪古の五帝の版図≫は〔短里で言えば方五千里〕、〔長里で言えば方千里〕に過ぎないが、
> ≪始皇帝の版図≫は〔中国全土を網羅している〕、
> と誇つているのです。
>
> では、いつから?〔周以前からの短里〕が〔長里〕に改められたのか?と言えば、ズバリ、『史記』に次の記述があります。
> 【始皇帝は五行説に立ち、古の周が≪火徳≫であるとしたのに対し、秦はこれに勝つ≪水徳≫とし、水徳に叶うと言われる黒色と六の数を尊んで、
> 符節や法冠の長さは六寸、輿は六尺、一歩は六尺、乗車の馬の数は六匹とした】 >>1
もっと簡潔に文章書け!
ダラダラ書いた文章は誰も読まんわ、ボケ >>235
それ貴方の感想ですよねw
こちらは全て文献に基づいている
お前の負けだ >>239
中華を方万里としたのは周礼であり当時は短里(>>234,236)
お前の貼ったその図は実際の里程に当てはまらない無意味な落書きでしかない
実際の里程は>>219のとおり >>240
実際の里程にはなんの意味もない
あくまで三韓が方四千里という意味しかない
大月氏国まで万七千里とされたので
それに対抗したのが洛陽から万七千里(帯方郡から万二千里)の邪馬台国 >>241
それはただの負け惜しみ
誰が指摘しようが始皇帝の即位前後で同じ範囲の面積表記が方五千里から方千里に変えられているのは確固たる事実 >>242
それあなたの感想ですよね
なにかソースでも?w >>244
倭国―東アジア世界の中で (中公新書)/ 岡田英弘(著) >>246
大月氏国に対抗して盛ってあると書かれてる 伊勢・賀茂も天皇家と関係なさそうよね
伊勢が祖神なら天皇家の未婚の娘を捧げるなんて意味わからんもの
先祖じゃないから娘を捧げるんでしょ >>250
魏が金印を授けたのは大月氏国と邪馬台国の二国しかない
西域が担当だった曹真の功績に張り合うように
東夷が担当だった司馬懿の功績を盛ったのだろうという話 >>251
ただの想像ってことね
それはソースにならんな アホが多いなぁ
距離を正確にはかってるわけ無いだろ
なんで百里単位で書いてあるんだよ
正確に測る技術があったら一里単位で書いてあるわ 後漢は西暦184年の黄巾の乱を経て衰退する
後漢最後の帝「献帝」の建安年間(196〜219)に
公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し
倭と韓も帯方郡に属した。
西暦220年に後漢は滅び、魏が生まれ
西暦237年に公孫氏は、魏に反旗を翻して独立を宣言
自らを「燕王」と名乗り
倭と韓も属している帯方郡もそのまま燕に属した
西暦238年に魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は、倭と韓も属している帯方郡の征討を開始
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
遼東地方の15歳以上の男子を皆殺しにして
倭と韓も属している帯方郡を制圧
それと同時に
大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた倭の女王を親魏倭王にした
邪馬台国は帯方郡に属していた倭・・つまり
九州の国ではありません >>252
そもそも陳寿は、里数表記の資料と日数表記の資料とを
唐突に繋げて書き記すような無茶をしてるので
魏志倭人伝に書かれてる行程に拘るのはあまり意味がない 後漢最後の帝「献帝」の建安年間(196〜219)に
公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し
倭と韓も帯方郡に属した。
つまり
九州の漢委奴国王の倭奴國は、公孫氏とともに、魏に反旗を翻した >>253
分かってるけど誤差で納得出来るかって話し 西暦238年に魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿が
そんな九州の倭國を親魏倭王にするわけがない >>255
少なくとも里程で書かれた不弥国までは短里で実際の地理とほぼ一致する
韓伝や高句麗伝も短里で辻褄があってる >>253
誤差で収まる範囲かどうかが重要
少なくとも畿内は遠すぎて誤差では済まされない 1里が434mで300歩なら1歩145cm
なぜか歩は人間の2歩分らしいから、人間の1歩は73cm
300歩も半端だから100歩で1里にするとして、人間の1歩73cmに100を掛けると73mで丁度短里くらいになる
短里が1歩73cm x 100歩ならこっちの方が度量衡として相応しいよな
短里は度量衡黎明期に作られたかもしれんね >>18
技術が未発達な初期では農業やりやすい適した土地との差は決定的
人口の差になってあらわれ都市文明が先に花開く
天の恵みですな。人間の差ではないから悲観することはない https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=ko&text=%E7%B7%91&op=translate
気になる朝鮮半島
緑色はなんて言うんだろう……野草?!
Σ👩 短里とかを前提にしてる時点で、九州説は月刊ムー路線を自ら選んだことになる 『後漢書から明史に至るまでの中国の史書にある邪馬台国と大和朝廷の関係』
奴国(九州)…倭国大乱…邪馬台国(大和)…卑弥呼…男性王…台与(卑弥呼、台与は皇室系譜と無関係)…男性王…倭の五王(ここまで系統不明)…アメノタリシヒコ(用明天皇)→皇室系譜→倭から日本への改称(壬申の乱)→以下皇室系譜
↓
神武天皇(筑紫城から大和州へ)―――――――――――――――――――――皇室系譜―――――――――――――――――――――――――――――↑(系譜繋がる)
@邪馬台国の場所=アメノタリシヒコ(用明天皇)の都と同じ=筑紫城から大和州へ移った後の王なので場所は大和
A卑弥呼、台与と皇室系譜は完全に無関係
B皇室は邪馬台国ではなく奴国の後継
C@〜Bから邪馬台国が途中で大和朝廷に変わっていることが分かる
D卑弥呼は政治をしない一代限りの共立されたシンボルで、台与も13歳の少女で単なる場つなぎ。邪馬台国はおそらく一代限りの非世襲の不安定な政権だと考えられる
EDから全国的な影響の確立を見せる4世紀の古墳時代から世襲の大和朝廷に変わってる可能性が高い
FEから皇室系譜が明確に繋がると記載されているのは用明天皇以前の男性王のどこかで繋がる可能性が高い
これが中国史に見える邪馬台国と大和朝廷の関係
初期段階の非世襲の不安定な政権が、世襲の大和朝廷に変化してる事になる
なので場所は大和だが、邪馬台国と大和朝廷はイコールではない >>264
実は畿内説のように数字誇張説をとった方が九州説にとって都合かいい
日数も圧縮できるから
それでもなんとか倭人伝を厳密に解釈しようとしてる九州説の方が畿内説よりよっぽど知的誠実さを感じるね
ま俺の感想だがw ちーっとも支配出来てないじゃん!
緑色一つでわかる >>266
後漢は西暦184年の黄巾の乱を経て衰退し
後漢の郡や県が制御することが出来なくなった
朝鮮半島の韓と九州の倭は、好き勝手な振る舞いをし出す
そんな後漢の末期、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった地方官の公孫氏は、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出
まずは現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置き
早ければ西暦204年には
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて新たに帯方郡を設けて辺境の治安を強化
好き勝手な振る舞いをする倭と韓を制圧して帯方郡に帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築く
そして公孫氏は
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
そして西暦220年に後漢の献帝から曹操の息子の曹丕が禅譲を受けて初代魏皇帝になり、後漢は滅び、魏が生まれる
つまり魏にとって九州は、勝手知ったる支配地域
邪馬台国が九州にあるならば、距離も方位も間違えない
へたすりゃ九州の地図も持っていた可能性があります その後、倭と韓を配下に、朝鮮半島南半から北部九州まで統治体制を確立した公孫氏は、
恩義がある曹操とその息子の曹丕には恭順したが、曹丕が崩御し、ほとんど面識がなかったその子の曹叡(明帝)が皇帝に即位したとき
ついには魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足として
西暦237年に公孫氏は、帯方郡が統治している倭と韓とともに、魏に反旗を翻して独立を宣言
遼東の襄平城において自らを「燕王」と名乗った
そのため魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は西暦238年、倭と韓とともに魏に反旗を翻して独立を宣言した公孫氏の征討を開始
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して襄平城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧
この戦乱により、帯方郡に属していた北部九州の「漢委奴国王」の倭奴國には、対馬から壱岐を経由して大量の人々が「帯方郡」から避難してきて、なかば立て籠ることとなり
魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿にとっては、北部九州の「漢委奴国王」の倭奴國は、いつまた反魏の温床になるかわからない注意するべき倭國【狗奴国】と呼ぶようになった 57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した
漢委奴国王の倭奴國の遺跡や出土品なのか
238年に魏に貢を奉り朝賀し、魏の皇帝「曹叡(明帝)」から印綬を賜った
親魏倭王の邪馬台国の遺跡や出土品なのか
年代論の解決もせず、
九州の地元の文化財担当者ですら「邪馬台国のモノ」とするには厳しい見方をしているのに
「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」
なんつって、
邪馬台国のモノだと言い張る九州説のほうが、よっぽどオカルト集団だよ 邪馬台国にあるはずの殉葬がなく、
邪馬台国にないはずの馬具は出てきた
これを卑弥呼の墓だと言い張る畿内説は、頭がおかしい 機内にあったのなら邪馬台国関連の記録が畿内に誕生した政権の文書に残ってないのはなぜ?
遠く離れた九州の地の小国の集まりの話だから記録も記憶も残ってないのでは? 九州説の短里は正しいが、里数を加算するところが、こすい。 @阿波 >>276
>遠く離れた九州の地の小国の集まりの話だから
「阿波」の話だよ。 @阿波 >>281
神武東征も、「阿波」での物語。 @阿波 阿波説ってこれだよ
https://www.youtube.com/watch?v=63bNv7RmHHc&t=812s
グーグルアースもなかったのにこんなことわかったんですか?
さあ、どうでしょうねえ?
中国では古代から数学、天文学が発達していて...
いやいや、そんな高度な測定技術があったら、魏志倭人伝の行程ごとの距離が正確になっているからw
東南に1万2000里だけは正確に測定できたのに狗邪韓国から対馬を千里、対馬から壱岐も同じ千里なんて
おおざっぱな記述になっているわけないじゃんw
まあ、阿波説唱えている人たちもただのネタとして照れ隠ししながらやっているんだろうけれどw 正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した
これが
神武東征 >>284
>狗邪韓国から対馬を千里、対馬から壱岐も同じ千里なんて
>おおざっぱな記述になっているわけないじゃんw
決して、大雑把などではない。
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 琉球とアイヌは最近まで顔に入れ墨する文化が残ってたけど
大和朝廷の人たちはいつ頃・なんで鯨面文身を捨てたんでしょうか?
顔に入れ墨してた人たちがその風習を捨てた事について中国側もなぜ記録に残さなかったんだろう >>290
これだよな
田油津媛(たぶらつひめ)は、『日本書紀』に記述される山門郡に居たとされる土蜘蛛の巫女女王。日本書紀では仲哀9年3月丙申に神功皇后により誅殺されたとされるが、事実とすれば4世紀半ば頃の出来事になる。 >狗邪韓国から対馬を千里、対馬から壱岐も同じ千里なんて
>おおざっぱな記述になっているわけないじゃんw
決して、大雑把などではない。
帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>273
その人が何を言ったかなんてどうでも良いし
年代もピッタリ出るんじゃ無いんだから可能性がある程度で良いんだよ >邪馬台国の卑弥呼
当て字に悪意しか感じないよね。中国とは決して仲良くなれないと思う。 来る人来る人、🇯🇵ひのもと人は国土の広さを自慢するが
我々はどうも疑わしいと思っている。
↑ 『中国史における邪馬台国の位置』
@アメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書)
Aアメノタリシヒコは用明天皇(新唐書)
B用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後なので都は大和(新唐書)
ゆえに邪馬台国は大和というのが中国の理解
ちゃんと書いてある
『中国史における一大卒』
@九州には刺史のような一大卒が派遣されて監視している(魏志)
Aアメノタリシヒコが支配地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書)
つまり一大卒がいる場所は中央から監視される属国
九州は属国であると明記されてることになる
当然、日本の中心などではない
『倭から日本への国号の改称』
@アメノタリシヒコは日本の王(隋書)
A日本が倭を合わせた、または雅でないことを嫌い改称した(旧唐書)
B用明天皇は皇室系譜に継続(新唐書)
C日本は小国ながら王も貴族も昔からずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史)
(補)日本書紀で粟田真人が日本の使節と名乗ったのに倭の使者と呼ばれたと呼称の混乱があると記載
D白村江の戦いの当事者の唐に日本を滅ぼしたの征服したの言う記録はなく「ずっと同じ」と記載
この日本側の記録も合わせると国号変化は壬申の乱を指していると分かる
1,2項目も踏まえて九州に邪馬台国も日本の代表の勢力も存在してる余地はない >>299
それってさぁ
数字を誇大に表現してただけなのに
その数字をクソ真面目に信じて、現代の知見で計算したらたまたま「短里」っぽくなっただけだろ
白髪三千丈や怒髪天に代表される大げさな表現が大好きな中国
壱岐から呼子までは30キロもないのに、「渡一海千里」と表現する
この場合一里は30m弱
陸行の里程も、どうせ100里単位でまとめてるだろうから
本来60里だったけど100里
140里だったけど100里
という事もあるだろう
短里大好きっこなおバカさんたちは、こんな場合でも馬鹿正直に計算するんだろう
応用力がないから >>302
水路が千里単位、陸路が百里なのは、その程度の精度しかない概数だと言って来たのは九州説だぞ
なのに、1里はきっかり400mだの測量しただの直線距離だったなど、寝ぼけたことを言ってるのが畿内説 >>303
だからさぁ
だったら「短里」みたいなおかしな主張をするなって話だよ
普通に一里は400から500mだという前提で考えればいいんだよ
その上で、100里とか500里にそれほど深い意味はなく、単にそのくらい離れてるというイメージで考えればいい
このように、常識的に考えても九州説は成り立つのだから
馬鹿の畿内説やアホの阿波説に合わせるような低能な事はやらなくていいんだよ 四十年、魏志にいう、正始元年。
[建忠][校尉]梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。 倭国の定義がごっちゃになってる
奈良に移動したから。 https://www.google.com/search?q=%E9%AB%98%E8%BB%8A&rlz=1CDGOYI_enJP932JP932&hl=ja&sxsrf=ALeKk03ig-TtZHjXwQ03JJJefXJxHtIS2Q%3A1628210938803&ei=-oYMYbiJMIXdmAWs9YaIBA
高車もすげー検索結果になるよなw
電気工事か?⛑⚡︎
どんだけ西洋から文献信用されてないんだよ >>304
だからおおよその比率で、
九州上陸から奴国までで、九州上陸から邪馬台国までの全路程の3割だと言ってる >>304
一里が400から500mだと1万2千里は5千qとかになるから有り得ないでしょ 卑弥呼の次が、男王で上手くいかず妹が着いた。
って流れが畿内の方でなかったら九州説が有力なんじゃないの? >>310
お前がどう言ってるのかは関係ない話で
「短里」を主張する九州説の人に
それはおかしいと言ってるんだが >>311
渡一海千里で、実際の距離とは無関係に千里になってるのだよ
壱岐から呼子までの30キロ足らずで千里になる
なので、クソ真面目にキロ数で考える必要などない
一万二千里とは、
とてもとても遠い距離だ
という意味が伝わればいいんだよ >>299
誇張もあるし、古代の距離は道のりの距離だと考えれば、大きな矛盾もなく
短里なるものを想定する必要なし
月刊ムーで頑張れ >>316
だったら陳寿は5千qを想定して1万2千里と書いたんじゃねえじゃん >>229
🇭🇺ハンガリーで新羅さん死んだんかwwwww 1万2千里と書いた人はその距離がどのくらいか分かってるでしょ
5千qを想定したと思うのか? >>318
「方万里」というのが当時の世の中の広さなのだから、
それよりも遠い場所にある国だという意味でしかない
そしてこの時の「万里」にも、正確に1万里である必要は無い
広いという意味でしかない 蛇足といえば言葉が悪いが短里がなくても九州説が有利かなと思う 晋という国の威厳を示すために
卑弥呼や邪馬台国という架空の国をでっち上げて
朝貢してきたと見せかけただけだろうな。
だから邪馬台国自体が中国の創作の可能性が大きい 邪馬台国←あり得る神武東征前だから。
神武東征はどこから?なんで四国は無視? >>303
>1里はきっかり400mだの測量しただの直線距離だったなど、寝ぼけたことを言ってるのが畿内説
まるで畿内説の総意であるかのような書き方だな
学者でそんなこと言ってる人いないと思うが、どこの誰がそんなこと言った?
ネット上の個人でも見たことないな
仮に1人2人おかしなことを言ってるやつがいたとしても、ただの雑音
まあ、得意の捏造だろうけど
相手を陥れるために、相手がデタラメを言ったことにして、それを批判する
九州説のやつらの常套手段だ 5千q先に邪馬台国があってその西側に会稽東治がある
そんな地図を想定したと思う? >>310
まだこんなマヌケなこと言ってるのか?
ほんと知能低いな
おまえに一つ問題を出してやる
・帯方郡から邪馬台国まで、12000里
・帯方郡から九州上陸まで、10000里
・九州上陸から邪馬台国まで、2000里
とする
問題
10000里と2000里では、「実際の距離」はどちらが長いか? 距離は結構大雑把
しかし、方角やその他の数字を伴わない記述は信じる
一部に書き間違いがあっても問題ない
それだけで九州説は成立する
クソ阿波や一部の馬鹿が信じてる「短里」の弱点は
帯方郡から狗邪韓国まで7000里の部分を、
当時分かるはずがない直線距離で現して、
それで70mだという無理矢理なトンデモ説を唱えているところ 司馬一族が呉を牽制するために呉の東の海の向こうに大国があって魏と友好関係がある見せかけるために架空の国と女王をでっち上げて呉牽制してたってのが事実
だからどこを探しても邪馬台国なんてないし卑弥呼のお墓もないし
日本側に一切記録がないのも辻褄が合う。
おまえらは架空の国について必死こいて話してる愚か者w
通称「魏志倭人伝」は日本側から見ると第三者(中国)が、同時代に編纂したもので、中国では正史と同等として扱われていた事から、多少の間違いや勘違いがあるものの基本的には正しいものと捉え、貴重な資料として考えられています。しかし、当時の「魏」、「西晋」は対立する「呉」に対し、より大きな国が自国の冊封国になっている事を誇示し、さらに、軍事的な脅威を与える為に政治的な意向が強く繁栄されているとも考えられます。又、司馬氏が魏での立場を有利とする為、魏の西方に位置し大国であるクシャナ朝(大月氏)と結んだ曹氏以上に成果を誇示する必要性から「倭」を巨大な国として報告したとも考えられます。
https://www.nozawayu.com/yamataikoku/yamatai.html 魏晋王朝は異民族を人口不足を補うために移住させたり、烏桓兵のような戦士として利用していた
更には魏や呉の背後を突かせる事を想定して盛んな外交交渉を行っていた
その証拠として魏晋王朝時代には漢時代から異民族へ授与された印綬の数が大幅に増加している
漢時代は10個、魏晋王朝時代は45個
与える対象も漢時代は北方民族のみだったが魏晋王朝時代には範囲が広がっている
特に魏は公孫淵、高句麗などと戦闘を行っており、朝鮮半島とそれに隣接する漢時代からの友好国の倭との関係には強い関心を払っていると考えられる
この事からよく俗説的に言われる捏造や政治パフォーマンスなどではなく、
親魏倭王印は魏の戦略的な観点に基づく外交の成果と考えるの自然だろう 邪馬台国はありませんでした。
その場所は、魏志倭人伝の中で「南至投馬國水行二十日」、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の2行で表しています。これは、魏志倭人伝でいう放射式ならば伊都国、直線式ならば不彌国から南方向に船を利用して20日後に投馬国、船を利用すると10日、歩くと1カ月で邪馬台国に到着するという意味です。当時の水行1日は約84キロと推定されている為、投馬国は伊都国から1680キロ離れている事になります。一方、陸行は1日に約28キロ(4キロ/1時間×7時間)為、邪馬台国は840キロ(28キロ×30日)離れている事になります(水行でも84キロ×10日で840キロ)。当然、これだと投馬国と邪馬台国は太平洋の海上にあり、現在該当する島等はありません。しかし、この位置こそ呉の東の海上に当たり、魏には呉の海上を封鎖出来る程の広大な国が冊封国として控えている事を暗示させる効果があると推察されます。 >>221
呉をビビらせるために架空の国と友好関係あるんだぜーってほら吹いてたってことだな
三国志にはこういうブラフがよくあるからね >>329
>方角やその他の数字を伴わない記述は信じる
方角以外は具体的に何?
邪馬台国についての記述はほとんど残らないはずだが 晋が滅んだ理由の一つに異民族の反乱の続発がある
もともとは八王の乱による晋の統率力の低下が原因ではあるが、魏の時代から大量の異民族を入植していた事がこの争乱の遠因となっている
この後に起こる五胡十六国時代の到来もこの異民族入植が元になってると言える
魏晋王朝と言うのがどれだけ異民族との関係を推進していたかが後の歴史からも読み取ることが出来る
魏晋の異民族政策と言うのはただの示威行動などではなく、国策として推進された政策であるのが理解できる >>334
倭人は入墨だらけとか
水銀の鉱床があったり
冬でも生野菜を食べ裸足で生活
鉄の鏃を使う
色々あるじゃないか
それに、なぜ邪馬台国に限定するんだ?
倭人伝なのだから倭人についての記述だぞ 天が降り立ってから179万2470余年になるが、
↓
しかし!遠い所の国ではまだ王の恵みが届かず
↓
速水之門←どこ?へお出でになると一人の漁師がやってきて
「私は、土着の神で珍彦と申します。」
↓
後の倭直の先祖である
↓
筑紫国の宇佐へ着いた
船無いと倭国(北九州?)へ行けないって…??
四国から神武東征した方が辻褄合うけど。 はっきり言えば昔の事だし1里が何mかなんて分からない
ただ伊都国奴国不弥国の記述から大した距離でも無いんだろうとしか思ってない >>338
それ邪馬台国とは無関係な記述だろ
魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えるのは不可
ただのインチキ読み >>341
>魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えるのは不可
それお前がやってる事じゃん そもそも邪馬台国の時代には鉄の生産は九州は既に一位から陥落している 魏志倭人伝で倭人の習俗を説明してるのに
倭人の国であるはずの邪馬台国なのに、倭人の習俗とは関係ないと言ってるのが>>341 あるいは中国大陸にいた倭人と一緒に西へ渡って筑紫国へ…
政治的な問題が絡んでるから?
現在の中国人関係ないだろうにw 司馬懿って孔明に同じことされてハメられたからな
呉に対して架空の邪馬台国の存在を信じ込ませて下手に動けば挟撃されるという圧力かけたのは流石だわ。
それをこんな21世紀にもなってどこに邪馬台国があったとか言ってる日本人はやはり根本は低脳なんだろうな >>342
具体的にどれを指しているんだ?
やっぱり得意の嘘をでっち上げての中傷か? >>317
>>218は面積の話だから道のりだからなんていう言い訳は通用しない
お前が現実を認められない負け犬なだけ >>347
この部分
>>334
>邪馬台国についての記述はほとんど残らないはずだが
倭人伝の話なのに邪馬台国伝かのようにとらえてるからこうなる >>344
それは呉に信用させるためについたデタラメだから 陳寿は万二千里と書いて会計東冶の東になるだろうと言ってるわけだが
帯方郡から会計東冶(台湾)の緯度まで直線距離で約1500km
帯方郡から長江河口の緯度まで直線距離で約770km
陳寿の時代の単位で何里だろうね?
一里=400mで計算してみるとそれぞれ3750里、1925里だな
一里=80mで計算してみるとそれぞれ18750里、9625里だな
果たして陳寿は三国志を古代の単位で書いたのか
それとも概念的な話をしただけなのかどっちだろうか >>349
はあ????????
こっちは魏志倭人伝は魏志邪馬台国伝ではないと言ってるんだぞ >>339
大分県には速見郡という地名がある
速見か速水なのかは誤差の範囲だろう
大昔は別府も速見に含まれてたはず 朝鮮半島から神武東征は無いだろ
耽羅とか出てこないから。 >>353
俺が先に言っている
>>338
>それに、なぜ邪馬台国に限定するんだ?
>倭人伝なのだから倭人についての記述だぞ
ほらな 司馬一族が西に追いやった曹家が西のほんとの大国クシャナと同盟結んだから
司馬一族は対抗するために架空の国邪馬台国と卑弥呼をでっち上げて曹家と敵国の呉を牽制したって言うことだね。
どこにあったかとか議論する価値もない。 例えたら、鮫島事件を100年後にどんな事件か議論してるのと同じだなw >>356
まったく会話になってない
342の書き込みに「それお前がやってる事じゃん」とある
おれがいつどこで魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えたんだと聞いている そんな大国の女王である卑弥呼の墓がないし
そんな大国なら日本側にも正式な記述があるはずで
中国がつけた蔑称ではなく正式な呼称も見つかるはずなのにそれもない。
いい加減司馬一族が中国統一するためのでっち上げだと理解しないと(笑) >>359
まず最初に、お前が
魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝と思い込んでいると、的外れなレスをしたのが始まりだろ
俺は、まず初めにお前のレスに、
>>338
>それに、なぜ邪馬台国に限定するんだ?
>倭人伝なのだから倭人についての記述だぞ
と書いてるのだから
魏志邪馬台国伝とは捉えてないことが分かるはずだ
お前は読解力が無いから理解できずに俺を中傷した
それが始まり >>352
そんな事真面目に考えても無駄
5千qなんて誤差や勘違いの範疇じゃないから
地理とか全く理解してない人が書いたくらいしか理由がない
それでもそんな人が会稽東治の東なんて言えるはずも無いから矛盾するけど >>310
おまえのマヌケぶりを晒してやろうと問題出したんだから答えてよ
・帯方郡から邪馬台国まで、12000里
・帯方郡から九州上陸まで、10000里
・九州上陸から邪馬台国まで、2000里
とする
問題
10000里と2000里では、「実際の距離」はどちらが長いか? 勘違い馬鹿は無視して相手にしない方がいいんだが
奴らは無視すると、勝ったと思い込むからなぁ
面倒でも相手の間違いを指摘していった方がいいんだよ
他の人たちには迷惑だろうけどwww >>354
淮水と泗水が合流する地域に倭人住んでたんじゃないの? >>364
水路と陸路を同様の尺度で測ろうとするのが誤りだな >>363
そう、だから陳寿が万二千里と書いて会計東冶の東になるだろうと言った時点で
実際の距離はどうでも良く概念的な話に過ぎないという結論になるわけだ バカって一方向しか物事見えないんだよね。
そもそもそんな大国なら日本側に正式な呼び名の記述もあっておかしくないし
墓も見つかるはずなのに一切出てこない。
この時点で中国のでっち上げだと小学生でも気付く。 >>362
倭人は入墨だらけとか → 倭人一般についての記述で倭国内のどこのことか不明、邪馬台国の場所とは無為関係
水銀の鉱床があったり → 倭人一般についての記述で倭国内のどこのことか不明、邪馬台国の場所とは無為関係
冬でも生野菜を食べ裸足で生活 → 倭人一般についての記述で倭国内のどこのことか不明、邪馬台国の場所とは無為関係
鉄の鏃を使う → 倭人一般についての記述で倭国内のどこのことか不明、邪馬台国の場所とは無為関係
こういう邪馬台国と無関係なものを持ち出し、それが九州で一致するから、邪馬台国は九州だという理屈だろ
おまえは実際には、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えてるんだよ!!! >>352
陳寿も魏志倭人伝から推測しただけだぞバカw
その場所は、魏志倭人伝の中で「南至投馬國水行二十日」、「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の2行で表しています。これは、魏志倭人伝でいう放射式ならば伊都国、直線式ならば不彌国から南方向に船を利用して20日後に投馬国、船を利用すると10日、歩くと1カ月で邪馬台国に到着するという意味です。当時の水行1日は約84キロと推定されている為、投馬国は伊都国から1680キロ離れている事になります。一方、陸行は1日に約28キロ(4キロ/1時間×7時間)為、邪馬台国は840キロ(28キロ×30日)離れている事になります(水行でも84キロ×10日で840キロ)。当然、これだと投馬国と邪馬台国は太平洋の海上にあり、現在該当する島等はありません。しかし、この位置こそ呉の東の海上に当たり、魏には呉の海上を封鎖出来る程の広大な国が冊封国として控えている事を暗示させる効果があると推察されます。 >>361
原文だと卑弥呼の死後に墓じゃなくて、「塚」を作ったとしか書いてないからなあ >>368
地理を全く理解出来ない人が書いたか距離の解釈が間違ってるかだな >>367
>だからおおよその比率で、
>九州上陸から奴国までで、九州上陸から邪馬台国までの全路程の3割だと言ってる
こんなマヌケなこと言ったのは誰だ?
ようやく気づいて、取り消したければ正直に言え >>295
良くないから
【国立歴史民俗博物館】
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c >>352
そもそも陳寿はそんなこと言ってない
魏志倭人伝には会稽【東治】の東と書いてある
会計東冶=福建省福州市付近と会稽東治=江蘇省蘇州市は字が似てるだけで全然別の場所
http://andokunio.blogspot.com/2018/08/blog-post_19.html
> 5.東治の「東」
> 「治」とは、地方官の駐在するところ(治所)の意味である。(康煕字典:「治、州郡所駐曰治、如蜀刺史曰治成都、揚刺史曰治会稽」)
> 呉志孫輔伝の裴松之注に、【典略曰、輔恐権不能保守江東、因権出行『東治』、乃遣人齎書呼曹公、行人以告権、乃還偽若不知、
> 與張昭共見輔、権謂曰「兄、厭樂邪何為呼他人」、輔云「無是」、権因投書與昭、昭示輔、輔慙無辭、乃悉斬輔親近、分其部曲、徒輔置『東』】とある。
> ここに「東治」と「東」が見える。
> 紹煕本に「東治」とあれば無条件で校勘なしで「東冶」に改訂する百衲本も、この「東治」だけは改訂していない。
>
> 典略がいう事件の背景は呉志孫権伝にいう「建安五(200)年、曹公表権為討虜将軍領会稽太守、屯呉」にある。
> 典略の要は、孫権の兄の孫策の死後、その業(討虜将軍領(=兼)会稽太守)を継いだ孫権が十九才という若さのためか、
> 孫権の江東を保守することに危惧を抱いた従兄弟の孫輔が、孫権が「東治」へ行った留守の間に曹操を呼ぼうとしたことがばれて、孫輔は「東」に徒(うつ)された、ということです。
> 建安五(200)年、孫権が会稽太守として屯した呉は、春秋時代の呉の都、秦漢では会稽郡(今の浙江省から江蘇省)の郡治の江蘇の呉県(太湖の東の蘇州)。
> 後漢の順帝永建四(129)年に会稽郡から呉郡が分離して、以降呉郡の治になる。
> 会稽・呉分離以降、会稽郡は浙江以南となり、郡治は山陰(紹興)に移る。
> 典略のいう、孫権が会稽郡治の山陰(紹興)を留守にして出かけた「東治」とは、孫権が江東を保守するために駐屯した呉の地のことである。(「東冶」は江東からはかなり遠い。)
> 「会稽東治」とは、「会稽の『東』の治所」という意味である。 わざわざ長江河口付近と台湾付近と二つ書いてやったのに
アホが多過ぎない?大丈夫? >>373
墓だろうが塚だろうが大国ならば存在してるはずだし場所の記述もあるだろう
結局司馬一族のでっち上げだからないんだよ。
確かに日本の原型になる土人は存在してただろうけど
存在を大きく見せかけて曹家と呉に牽制してただけだよ 魏が呉に対抗して邪馬台国の位置を誇張したのでは?
邪馬台国そのものが架空の国かどうかは知らないが、呉を牽制できる位置に邪馬台国を設定したのだろう
陳寿本人が邪馬台国へ行ったわけでもないから、時代が違う資料を参考にしつつ方角や距離を適当に設定
里という単位を使ったり、日数という単位を使ったり、整合性がないのがその証拠では?
別の見方をすると公孫淵討伐をした司馬懿、つまり司馬氏への忖度の一環として邪馬台国を記載したと思う
>>324
四国は神武東征に出ないが、香川県に神武に縁がある神社は存在する
DNA分布を見ると九州や畿内に渡来人は土着せず四国に集中している
自分は邪馬台国九州説を支持しているが、日本最古の前方後円墳、丹、剣山、忌部氏が存在する徳島県もあるし、何らかの勢力が存在したのは確実
徳島県が邪馬台国の説もあるくらいだしな >>374
その測量ができるような技術水準なら、もっと正確に短い距離の測量もできてるはずだけどね。
適当に書いてるだけだよ >>375
同じ百里刻みの精度を持つ陸路同士の比較だぞ
水路は入ってない
残念だったな、畿内説 >>379
九州説の柳田康雄元年國學院大學教授も
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
鏡やすずりなどの出土品
が
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に記された
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って
107年に生口160人を献じ、安帝に謁見した倭奴國のモノなのか
『魏志倭人伝』に記された
238年に魏に貢を奉り朝賀し、印綬を賜った邪馬台国のモノなのか
年代論の解決が邪馬台国論争の決定的な課題だっつってるよ >>384
不弥国から邪馬台国まで半分は水行なんだが?
おまえの乏しい知識では邪馬台国まで陸行したことになってるのか?www 俺は山東省辺りにあったと推測
奴隷送れない。常識的に考えて >>384
張政が実際に歩いて歩測したなら短里なんて使われるはずがないよな 会計東冶の比定地が何処かなんてどうでも良いのよ
5千qも離れてると本気で思ってるバカが書いたのかって話しだから 1:纏向は出雲の植民地
2:そこへ九州からも参加していた(これが魏志倭人伝にある邪馬台国)
3:やがて神武の子孫はクーデターを起こし、出雲から権力を簒奪した(これが国譲り神話)
4:それの後身が大和朝廷
畿内はいわば出雲の植民地で、大国主が君臨していました。
そこへ九州甘木地方から神武一行がその国に新参者として招かれました。
神武は大国主の娘 or 孫娘の婿殿となり、葛城に住むことになりました。
ところが、彼の子孫は尾張氏などと共謀してクーデターを起こし、政権を簒奪してしまいました。
この政権簒奪は欠史8代と言われる天皇の時代の事で、それは記紀神代に描かれています。 >>371
>こういう邪馬台国と無関係なものを持ち出し、
倭人伝の記述だぞ
つまりお前は
>>344で書いた通り
魏志倭人伝で倭人の習俗を説明してるのに
倭人の国であるはずの邪馬台国なのに、倭人の習俗とは関係ないと言ってる
という事だ >>387
原文をよく読め
不弥国からとは、どこにも書いてない >>388
奴隷送りとか
自分が溺れてベトナムとかの王女になっちゃうんじゃ? >>389
歩いて測ろうと紐で測ろうと長さの単位がなきゃ書けない >>383
そんな事すら出来なかったら地図を書くなんて到底無理だから >>396
張政が何百年も昔の単位で測る意味とは一体…… 柳田康雄さんは畿内説だよ
当時奴国以上の都会が九州にないから東遷説をとってる
邪馬台国が都会だという前提こそ疑うべきだと思うけどね >>392
>倭人伝の記述だぞ
その通り
だが邪馬台国のこととは書かれていない
倭人の風習習慣の記述は邪馬台国の場所の特定には使えないってのは高校生でも知ってる基礎知識
>倭人の国であるはずの邪馬台国なのに、倭人の習俗とは関係ないと言ってる
当たり前だ
倭国内のどこを観察したものかも不明なものを邪馬台国のものだと決めつけるのは不合理
結局おまえは、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えたインチキ論法で九州だと言い張ってるんだ >>366
それが何処なのかは全く知らんけど
珍彦で検索したら椎根津彦のwikiが出てきて
そこに書かれてるのは
・速吸門
これは速吸の瀬戸
・亀の甲羅の上
速見郡に亀峯神社というものがある
神社の足元は前方後円墳
由来は定かではない そもそも距離で書かれてる部分と何日と書かれてる部分は距離でいうとこれくらい
時間でいうとこれくらいの日程が必要という意味では? >>393
なるほど、トンデモ解釈をしようってのか
まあいい
起点が帯方郡でも伊都国でもいい
邪馬台国まで半分は水行なのを知らなかったマヌケだったわけだな
>だからおおよその比率で、
>九州上陸から奴国までで、九州上陸から邪馬台国までの全路程の3割だと言ってる
で、これどういう計算だと3割になるんだ? >>403
>だが邪馬台国のこととは書かれていない
邪馬台国は倭人の国だぞ
アホだなぁ >>399
倭人伝のみならず東夷伝は全部短里で書かれてる
韓の方可四千里や高句麗の方二千里なんかも全部短里
動機がどうであろうとそれが事実なのだから仕方ない >>2
邪馬台国→大和朝廷
と思ってる人は近畿説支持なんだけど
大和朝廷と邪馬台国の関連は不明なんだよね
邪馬台国は九州地方の連合国家で大和朝廷とは別物
と割り切っちゃうと、九州説の方がしっくり来るんだよね
邪馬台国が内乱になった時に内乱が治まるまで
魏の使者が伊都国(福岡)で様子をみたりしてるし
近畿じゃあ遠すぎる 魏からもらった宝物がなんで畑の地下にあるのか?
それが最大の謎だろ >>408
つまり短里が使われてた何百年も昔に
伊都国や奴国や不弥国を歩測して秦や漢に報告した人がいる!?
ちょっと考えられないわ
時間超越し過ぎてない? 【天皇家の主張】とは
天皇家は九州から畿内にやってきました。 初代は神武天皇です。
記紀には神武の系譜がかかれています。 彼の祖先は『高天原』からやってきたと書かれています。
高天原とはどこにあったのでしょうか? 高天原から高千穂の峰に降り立った神々はそこから東へ向かい日向に至ります。
ということは普通に考えて神々は高千穂の西、『火の国』から陸路九州山地を超えてやってきたと考えるべきでしょう。
(ちなみに「火の国」の巫女が「火巫女」だったのではないでしょうか?
そして日向に至った神々はコノハナサクヤヒメと結ばれる事になります。 魏の「王印」は複数の国を従える国に与えられている
そして支配下にある国には列挙される九州の国々も含まれる
>>300で書いたように一大卒は中央から支配地を支配する為に送られた役人
これ等の地域は邪馬台国に服属していると書いてる
邪馬台国は吹いて消える様な小国ではありえない >>411
そうではなく東夷世界では当時も短里が使われ続けていたと解釈するしかない
現実に史書に使われている以上それ以外の解釈は無い >>411
考えられるでしょ
元の場所に帰るのに物凄く重要なんだから >>409
そう
卑弥呼は倭国の王たちから共立された存在なのだから
共立されてる時点で、周辺国家よりも勢力があるはずもなく
どちらかと言えば弱小国家だったはずなのよね
卑弥呼がいた邪馬台国を打倒したのが大和政権だと考える方が自然 >>417
東夷を管轄する帯方郡では当然使ってただろうね
だからこそ記録に残ったのだろうとしか解釈のしようがない >>419
帯方郡で短里が使われてたという研究でもあるなら信憑性もあるが
今のところUFO見たレベルの話だなー >>420
長里で万二千里を解釈すると倭の位置は赤道付近になる
でも陳寿はちゃんと会稽東治の東だと概ね正しい位置を割り出せているのだから
陳寿も東夷伝では短里で書いてあると認識していたんだよ >>407
その文面は、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えてるのを認めてるってことだな
おまえのインチキの矛盾を指摘してやろう
倭国の山では丹が出るという記述がある
倭国内のどこでも丹が出るのか?
もちろん出ない
山で魚が獲れるのか?
もちろん獲れない
倭人倭国の風習産物の記述は、倭国内の「どこでも」ではなく、「どこか」の場所だということだ
もちろん、倭人倭国の風習産物の記述は邪馬台国の場所の特定には使えない
結局、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えたインチキ論法が九州説の根拠でしたwwwwwww 宮崎県や四国からでも宇佐を一回無視して通り過ぎてるけどw 縄文人が舟で漂着するんじゃないんだから
自分が今何処に居るか知らないなんて有り得ないから >>418
記紀では神功と卑弥呼を同一のように年代書いてるから同じヤマト >>410
畑から見つかった魏からもらった宝物ってなんだっけ? 漠然と九州だと思ってる一般人は別として
こういう掲示板で九州説をゴリ押ししてるやつの知識がいかに乏しいかがよくわかった
高校生レベルの知識さえないwwww >>421
概念的な話をしただけじゃね?
万二千里は単に大月氏国に合わせただけかと >>422
その言い訳レスのすべてについて
>>329のレスと一つも矛盾しないんだよな
そして、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝と思い込んでいないとの前提で読んでも一つも矛盾しない
お前が一人で勝手に言いがかりをつけているだけなんだよな >>425
もう神功皇后は4世紀の人物だと確定しているから
卑弥呼とは全然別人だよ >>381
偉人だから墓が有るだろうなんてのは勝手な思い込みだよ
アレクサンドロス大王やチンギスハンの墓はいまだにどこにあるのか行方知れずだし、
日本史だって聖徳太子や藤原道長がどこに葬られているのか謎のままだ >>425
それっぽく書いてるだけだろ
歴史は勝者が作るものだから で、入植地国敗北国ってどういう事なの?
まさか……😅おっちゃん? >>429
具体的な説明もなく、一方的に自分は正しい解釈をしてると言い張っても
ああそうですか、としか言いようがない
しかし、おまえがこういう邪馬台国とは無関係なものを挙げて九州説の根拠にしたのは事実
>倭人は入墨だらけとか
>水銀の鉱床があったり
>冬でも生野菜を食べ裸足で生活
>鉄の鏃を使う >>431
塚を作って、大きさは直系100歩
これが前方後円墳なら
もうちょっとその形状について詳しく記述してるはずなんだよね
祭壇みたいなものだから記述してないんだとか畿内説の人は言い張ってるけど
あんな大きな祭壇なら、大きな祭壇画あると書いてると思うわw
なので、常識がある人なら円墳だろうと考える >>428
実際に概ね正しい位置を計算できているのだからそんな逃げは無理
君はただ現実から逃げているだけ 今日の収穫
九州説の根拠は、邪馬台国の場所とは無関係な記述である倭人倭国の風習風土だとさwwwwwww >>436
現実から目を逸らしてるのはあなた
帯方郡や張政が何百年も昔の単位を使う理由なんかない
台湾大学の教授も中国の史書で外国の距離は信用できないと言ってるくらいには
信憑性ない >>434
倭人の一般的な習俗がそれなら
邪馬台国も同じような習俗だと考えるのは当然の事だな
邪馬台国の習俗が他と違うのなら違うって書くだろ普通
邪馬台国の習俗が他の倭人と違うという根拠は、魏志倭人伝には一切書かれていない
お前の妄想でしかないんだよ
史料批判ってのはそうやるんだ >>437
邪馬台国は倭の女王の都なのにそこの風習を一切書かずに辺境の風習だけ書いたって?
そりゃ君の頭がおかしいだけだろう >>438
・邪馬台国は畿内に存在した
これを結論とするために、魏志倭人伝の記述に矛盾がある場合はすべてを誤りだとする
これが畿内説 >>439
現に使用されているのだから現実から逃げているのは君だよ
理由なんて史書に書かれていない以上推測の域を出ないものはどうでもいいこと
>>408のとおり東夷伝全体で実際に使用されているという現実がまずあるのだからそこから逃げてはいけない >>443
帯方郡から狗邪韓国まで7000里の部分はどうなるの? >>439
陳寿は書き写してるだけで元の史料がいつの時代の物か分からない
それが正しいかどうかはともかく現地の測量はやってるよ
自分が何処に居るか分かんないと帰れないから 邪馬台国の痕跡を残す唯一のソースが魏志倭人伝という書物
本当にそんな国が実在してるのかどうかも怪しい >>445
いやいや
正確な地図がない時代なのに、なぜ直線距離が分かるんだ?
そういうところがおかしすぎるって話なんだよ >>448
正確な地図を作る為には測量が必要
それをやってないなんて有り得ない 魏で使った当て字が適応すぎて、本当は卑弥呼じゃなくて日巫女だろ? >>446
短里が使われてた周の時代に
伊都国や奴国や不弥国の距離を歩測して周に報告してたとは考えずらい >>440
>邪馬台国も同じような習俗だと考えるのは当然の事だな
とうとう魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えたインチキ読みをしてると白状しやがったwwww >>453
陳寿が距離と方角から倭の位置を計算できてるから当時も東夷では短里を使っていたんだよ
中央官僚の陳寿が知ってるくらいだから帯方郡じゃそれが公式だったのだろう >>453
考える方が自然だろ
それやらないと自分が今何処に居るか分からないんだぞ >>450
>>294
コイツは直線距離で500qだから1里71mで短里になると言い張ってるんだが
道のりだともっと長くなるはずだよね
短里が成立するの?
それともクソ阿波が間違ってるのかな? >>451
当時、そんな測量技術があったの?
古地図とか見ても無茶苦茶じゃん >>430
雄略の在位が確定してるから神功は4世紀後半に入るスペースがない >>461
無茶苦茶であろうと測量しないと全く地図なんか書けないから
全部想像で書いたと思ってるのか? >>454
あぁ、
お前はアホすぎるんだなwww
魏志倭人伝に書かれてる内容は邪馬台国の事ではないという前提になると
邪馬台国研究なんて一切できないんだがwww
かつてそれを行ってた東大や京大の教授はみんな馬鹿だったという事になる
お前の屁理屈が正しい場合はな >>456
どうせ測るなら普段使ってて公文書にもなる単位を使う罠
何百年も昔の単位なんか使う意味ない
例えば現代において東京大阪間の距離を里で報告するような間抜けは要らんでしょ >>464
https://www.cc.mie-u.ac.jp/~lz00102/cosmos.files/080207.html
歩測図をつくってみよう >>458
阿波が正しかったことなんてないだろ
水行は千里単位でしか書かれてないから相当ざっくりした数字だけど
道のりでも矛盾しない 鋼鉄ジーグの邪魔大王国が九州設定だったのは、やはり御大永井豪が
邪馬台国九州説を支持していたからなのかな? 俺なんて末盧国から陸行したのは測量する為じゃないかと思ってるくらい >>466
>>455のとおり、東夷では普段から短里を使っていた
いつまでも現実から逃げちゃダメだよ >>465
>かつてそれを行ってた東大や京大の教授はみんな馬鹿だったという事になる
いや馬鹿ではない
おまえのようなインチキ読みはしてないから >>464
話が逸れて行ってるな
元に戻すと
現代のような正確な地図がない時代に
どうやって直線距離が分かるのか?
そして現代の測量とほぼ同じ距離の地図を作れたのか?
という事
常識で考えたら
「あり得ない」
で終わる事だ
単純に現代のオッサンが「短里」を創作したときにそうなっただけだろう >>471
そんなUFOはいたんだみたいな話を力説されても困惑 >>466
魏志倭人伝は元の史料があって書き写したものだろう >>468
で、7000里は7000×70mで490キロだけど
直線で500キロなのに、沿岸部を伝って言って490キロっておかしくね?
この時点で短里は破綻してる >>473
その正確な地図を作る為に測量しないと無理なのよ >>469
映画のトゥームレイダーだと小笠原諸島だったなw >>476
短里は80mくらいだけど?
7000里で560km前後
実際の距離が600kmくらいだから誤差も考えれば特に矛盾はない >>474
そうやって空念仏を唱え続けることで陳寿が距離と方角から倭の位置を計算できているという現実から逃げるだけなんだね
現実を認めるのが辛いならそうやって現実逃避を続けてれば >>475
元の史料が一体いつの時代のものなのか
短里使ってた時代に伊都国や奴国や不弥国まで歩測して記録に残してたとも思えないが 伊能忠敬みたいにそれだけを目的に一発で完璧な地図を作ったなんて思ってない
中国は広大だし史料をつなぎ合わせて地図を作ってたんだろうよ
ただその為には測量してないと話しにならない ここまで出た九州説の根拠
・魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝にすり替えたインチキ読み
・短里
こんなの月刊ムー以下のラノベだよ >>484
ソース付きで論破されたのが悔しいからってそういうのはよくないよ >>482
なんで思えないのかそれが分からんわ
縄文人みたいにどこかに漂着すれば良いって訳じゃ無いんだぞ
元の場所に帰って来なきゃいけないんだから自分が何処に居るか分からないなんてあり得んだろ >>484
方角、区間距離、帯方郡からの距離、すべてデタラメや!そやけど邪馬台国は畿内にあったんや!これが畿内説 >>486
そもそも短里使ってた時代に
伊都国や奴国や不弥国まで歩測して記録に残してたなんて与太話を信じられるかね? >>484
なんか最近の畿内説論者って
畿内説の正当性を訴えるんじゃなくて
ひたすら九州説を貶すだけに終始している卑怯者になりさがったよね
なんで?w >>488
信じられるし逆にやってないなんて思えない
歩測なんかじゃなくもっと正確にやってたんじゃないか >>488
東夷の警戒情報という側面もある
むしろ、デタラメ書く理由がない >>492
いつの時代であっても元の場所に帰るんであれば測量はやってるはず >>493
今の時代に東京大阪間を測るのに「里」を使うくらい馬鹿げた話だよね >>479
グーグルマップで計ったら、沿岸部を通ると700キロ近くになるけどな そもそも倭の範囲が九州だったって事やろ。
魏の認識もそうだったから親魏倭王の金印を送ったと。 >>494
バカげてると思う方が全く理解出来ない
帰る場所があるのに自分が居る場所が分からないなんて有り得ない >>477
精度の話だよ
なんで人工衛星もないのに現代と同じ精度で測量できるんだ?って事だよ
短里説の人たちって時系列とか技術革新とかそういうの理解できてなさそうなんだよな >>498
そんな事言ってないだろ
正確さはともかく測量はやってたと言ってるんだよ >>497
なんでわざわざ何百年も昔の単位で測って報告すんのよ?
そこに一体どんな意味が? >>500
その時代の史料を陳寿が書き写したからじゃ説得力無い? あの時代に全国勢力なんてあるわけないからええんちゃう?
全日も新日もお互いに世界チャンピオン名乗ってるのと一緒だろ >>501
その時代っていつの時代の話をしてんの? >>499
測量すればいいという話ではない
正確さが現代と同等でないのなら
帯方郡から狗邪韓国まで7000里もあるなら誤差があっって当たり前
なのに、当時の地図ではなく現代の正確な地図で数字をこねくり回してるから
短里説はおかしいと言われる >>484
論破されるから答えられない
畿内説の根拠は? つか、原本残ってる書物って
どのくらいあるんだろう?
写しじゃなくて。 >>504
勿論誤差はあるだろうし大雑把な数字だからな
九州の百里とか五百里もキッチリなんて思ってない >>506
何百年も昔とは何年ごろを想定した話なの? >>508
キッチリではないはずなのに
何里だから何キロだとか
そんなしょうもない事をやってるのが短里説
そもそもさぁ
「渡一海千里」という慣用表現を
クソ真面目に、何キロだから短理だと確かに千里だとか
アホな事をやってる時点でお察しなんだけどな
海上で距離の測定はできない >>509
いつの時代であっても帰る場所があるなら測量はやってる
その正確さはともかく >>510
そんな事俺は考えてない
記録を残した時代の距離の単位なんか全くわからん 邪馬台国とは大和国のこと
そうして見ると色々と整合性が取れる >>447
日本書紀書いた人もわからない。
でも、誇らしいから(大陸支配していた?)書いておくか >>511
正確さが必要な話なんだがな
一般的な長里を採用してる方からすれば
100里とか500里とか、どうせ100里単位でまとめてるし
海なんて1日移動すりゃ1000里と計算してるんだろう
という大雑把な考えでいいけど
短里説の場合、
海上での距離も地上でも、途中に山岳地帯があって大きく迂回して
正確な測量技術がないから誤差も大きくなるはずなのに
なぜが現代の衛星写真も併用した正確な地図から距離を計測して
1里を70mや80mにすればぴったりだ
やっぱり短理なんだ
とか言い張ってる
この場合、
短里説は制作さが重要になるんだよ >>512
単位を知る必要は無い
短里があったと考えてる時点で間違いなのだから 度量衡が決まって時間が経てば1日に何里進むかとか予測できるようになるだろうそれで面倒な辺境の測量に代えたんじゃないかな
だからキリの良い数字が並んでる
でも投馬国と邪馬台国は予測できないような行き方をするところにあった >>511
ソコ誤魔化したら話が進まないじゃんw
秦より前の時代から伊都国や奴国や不弥国があって詳細が報告されてたとか
魏志東夷伝を書いた前提から崩れるわけだが >>515
長里でも短里でも中里でも何でも一緒でしょ
当時の一里の距離なんか分かんないし書いてある事から推測するしかない >>519
70mなのか400mなのか
という話だよ
常識がある人は400mの方を採用する
それだけの事だ >>518
元の史料があって陳寿は書き写したとしか思ってない
元の史料も実際に行って測量した人の記録もいつの時代のものか分からない >>522
つまり周の時代(紀元前200年より前)に伊都国や奴国や不弥国があって
短里で歩測した人が詳細を周に報告していたという主張だね? 九州王朝説とか古田史観とか、
そういうのって、結論ありきの畿内説に対するカウンターでしかなく
その一つの方便に短里説があっただけなんだよな
本来、あんなのを信じる方がおかしいんだよ
長里で、実際の踏破距離を100里単位で丸める
海上は1日移動すれば1000里
これだけで九州説は余裕で成立するのだから
おかしなトンデモ説など言わなければいいのに >>523
歩測よりもっと正確に測ってると思うけどね
元の場所に帰るんだからそのくらい慎重じゃなきゃ >>520
理由を書かない畿内説
仮に百里を1ヒミコとする
マツロ国からイト国まで5ヒミコ
イト国から奴国までヒミコ
邪馬台国まで残り14ヒミコという簡単な答え合わせだ >>525
魏からのお客さんだから護衛兼ガイドがついてる 都合の悪いところは無視して
倭人拉致した所は盛大に記録するw >>527
道路が整備されてるならともかく自分の居る場所が分からないなんて有り得ない
ガイドが死んだら百人単位の御一行様が全滅するぞ 奈良がヤマトって呼ばれるようになったのは
神武東征の後だよ? >>525
つまり周の時代(紀元前200年より前)に伊都国や奴国や不弥国があって
歩測よりもっと正確に短里で測った人が詳細を周に報告していたという主張だね? >>531
3人でも5人でも山賊に襲われて死んだらどうするんだ? >>532
短里でも長里でも中里でもどうでも良いよ
一里の距離が分かんないんだから >>533
百人ではなくて百人単位の集団という事は何百人もいるんだろ?
ガイドも50人くらいいるんじゃね?
2〜3人死んでも問題ないだろ
山賊がいるような場所ならガイドのほかに武装した護衛も就くだろうしな >>535
ごめんいい加減な事書いた
何人の御一行様か知らん
俺はそのガイドも地理知ってるか疑問なんだけど >>534
距離なんかどうでもよくて概念的な話でしかないなら
何百年も昔の単位なんか持ち出すまでもないよね >>537
だから距離は記述から推測するしかないと言ってるんだけど 松浦から糸島までが500里という件について
他の国々の距離はだいたい100里とかがほとんどなのに
この部分だけ500里と距離があるのには何か理由があるのだろうか
また、松浦から糸島なら、歩かずに船で直接乗り付けた方がそもそも簡単
船に乗れない理由がある
この間だけ500里になる理由がある
意図的に迂回したんじゃね?
って思うんだけどな >>524
どっちにせよ不弥国から1300里で邪馬台国だと北九州は無理じゃないの >>539
当時の船だと何処に着くか分かんないから沿岸部の地形を測量したんじゃ無いかな >>539
そもそも直接伊都国に乗り付けたらいいだけなのに
末盧から歩く意味はないから取ってつけたルートなのでは 伊都国や奴国って4、500年は余裕で続いてるクニやったんか… >>543
逆に陳寿の頃には伊都国や奴国はもう無かったかもな >>545
卑弥呼が死んで台与の時代には
畿内ヤマトが九州北部を支配下においた可能性はゼロではないと思うわ
いつ頃筑紫国ができたんだろうな 文献も、遺物もまともにねー状況で、
なに妄想語ってんだよ。
これ題材にして空想歴史小説でも書いてろよw あくまで魏の時にそういう国があったという話だからな
その前にいつからあったかもわからんしその後いつまであったかもわからん 陳寿が生まれたのが233年
倭人が曹魏に朝貢したのが238年
陳寿が西晋に仕えたのが265年以降
わかってると思うが
編纂時は、過去の情報をかき集めて書いただけ
西晋に仕えた時点で、司馬懿も卑弥呼も死んでる >>539
台風の季節だから壱岐から最短で本土に上陸したかった
伊都に大きな中国船が停められる港がなかった
とかかな >>541
それはないだろうな
それに、どこにつくか分からないような航海技術しかないのに測量はできるのか?
都合よすぎじゃね?
>>542
まぁ、昔の文献を丸写しした可能性もあるしなぁ >>539
上陸ポイントは軍事上重要な拠点だから念入りに調査したんだろう >>551
海流に流されるだろうし目的地にキッチリ着くか分からんでしょ >>552
そういうのってさぁ
卑弥呼の時代に中国人がはじめて九州に来たかのような設定じゃないと成立しないだろ?
でも、中国との交流はもっとずっと前からあったのだから
今さらそんな調査をする必要なんてないと思うけどなぁ 約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
これで証明終了。
卑弥呼がどこにいたのかを知りたい人は、もう去っていいですよ。
100%九州ですから。 >>554
一回来たから分かるもんでも無いし末盧国から伊都国の間の何処に漂着しても
分かるように地形を調べたんじゃないか? >>553
航路として確立してるのなら
どのくらい流されるか分かってるだろうから、先読みして目的地に到着できるようにするだろ
それに、曲がりなりにも外洋を航行するのだから、そこそこ大きな船だし
そうなると、港として整備された場所以外には接舷できない
なんかあれだな、
お前の書き込み読んでると
あんまり知識が無さそうだな 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、
「南至投馬国」部分の竹簡を加えてしまったのだろう。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。 >>556
あのな
1回とか2回とかじゃないんだよ
数百回あるいは数千回は行き来してるよ
まるっきりの新規開拓の航路じゃないのだから
なんでそんな基本的な事も知らないんだ? 帯方郡の役人が狗邪韓国から九州に海を渡るときの船ってどんなもんだろうな?
https://i.imgur.com/pItq6bJ.jpg
8世紀の新羅の船でこんならしいぞ >>557
キッチリその場所に着くのは難しいと思うけどな
因みに知識は無い >>561
それほど難しくないと思うぞ
ある程度近づいたら目的地が目視できるのだから、そこに向かえばいい
もしかしてあれか?
松浦に向かったつもりで糸島に到着するとか
そのくらい大雑把だと思ってるのかな? >>559
頻繁に行き来するからこそ地形が分かる地図がある方が便利でしょ 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのもクソ遅かったはずで、
邪馬台国を伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は九州であると結論づけている。 >>563
基本的な話だけど
魏志倭人伝を記述するときに始めて調査したわけではない
その何百年も前から日本と交流は続いている
地図を作るなら何百年も前に作ってると考えるのが普通だけどな >>542
そう
壱岐から伊都国に行くには船で直行する方が安全で早い
だから末盧国の記述があるのは、魏使の実際の行程ではなく、北部九州の国の配置を表した地理志だからという見解もある
しかも末盧国のエリアからは3世紀の中国との交流痕跡が見つかってない
中国鏡にしろもっと古い時代のものしか出てない https://i.imgur.com/q8XpgKJ.jpg
5〜6世紀の倭人の船はこんなもんらしいぞ
こんなんで末盧国に接岸するのか、それとも伊都国の砂浜に乗りつけるのか 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
仮に、卑弥呼が「ヤマト」にいたなら、同じ魏志倭人伝に出てくる「伊都」の「都」を使って、邪馬都と書くべきである。
ところが、邪馬台国に関するあらゆる史書で全く一貫性がなく、さらに都が使われたことは一度もない。
伊都国はずっと同じであるにも関わらずだ! >>565
地図を一発で完成させたなんて思ってないから
現地で測量するのは当然でそれを元に地図を作ったんだろう
これは九州に限らず何処でもそうだけど一発で伊能忠敬の地図みたいのを作ったと思ってない >>567
壱岐の原の辻遺跡から船着場の遺跡が見つかってるけど、そこに行くには川を遡上しないといけない
だからレッドクリフの映画に出てくるような大型船はありえない >>569
現地で測量したのがいつの時代かだよな
紀元前200年より前なのか、西暦200年より後なのか 伊都は、現代中国発音でも、そのまま「イト」と読む。
中国語は沖縄人のように語尾を伸ばすので、イートーに近いが。 >>570
詳しくないけど伊能忠敬ってそれだけを目的に物凄く時間を掛けてやってるでしょ
でも中国からの使者はついでにやってるだけだから 任那は新羅に国境を接していますので、恐れることは卓淳と同じ滅亡の運命にさらされないかということです←
やっぱり柔然じゃね?任那の一部ではない。
じゃ、ユダヤらしさ、ハンガリーらしさ、ローマらしさはあるかな? 中国人の聴力をなめてはいけない。
もちろん、時代が古くなるほど、少し現代発音から遠ざかる傾向はあるが。
『魏志倭人伝』の狗古智卑狗→コゥクチピコー(菊池彦)
『魏志倭人伝』の好古都→ハァコゥト(はかた)
『魏志倭人伝』の対蘇→トゥイスー(鳥栖)
『隋書』の阿蘇→アスゥ(ほぼそのまま) >>567
80年代に関西の学校が3世紀の古代船で半島まで到達できるか実験してる
結果は合格 けれども、よく守り備えて、警戒を忘れてはならぬ。お前らは、卓淳国らの災いを繰返すのを恐れるといったが、新羅は自分の力が強くてできたわけではないのだ。
かの喙己呑は加羅と新羅との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救い助けられなかった。それで亡んだ。
かの南加羅は小さく狭く、素早く備えることも出来ず、どこに頼るべきかも分らなかった。 それで亡んだ。また卓淳は上下が離れ離れで、国王自ら新羅に内応した。それで亡んだ。
これ、何処だwwwww🤔 >>558
>>564
九州説とも畿内説とも魏志倭人伝の記述の里程を延々語ってきたというのんい
根本から考え直せって話になってくるな
というか魏略も広志も前から元ネタだって話があるのに
(学術レベルは知らんが)一般ネタだとまず見ないな
逸文の研究とかもっとやれということだな 前漢の首都・長安から、後漢に洛陽に遷都。その距離は337km。(唐皇宮跡から洛陽白馬寺まで)
長安と洛陽ですらこんなに距離が離れてる。
中国は卑弥呼がいた240年頃に倭国の首都を九州にあった邪馬台国と認識し張政を派遣。
608年には裴世清が倭国の本当の首都である畿内に行った。
だから、「何か、歴史書で見てきた倭国と違うじゃねーか!」と思って、『旧唐書』で倭国伝と日本国伝に分けた。
だから旧唐書で、日本は倭人の別種と書いた。
だから、1140年の『古今華夷区域総要図』で倭奴の島と日本の島を別々に書いた。
だから、1532年の『四海華夷総図』で、倭の島と日本国の島を別々に書いた。
そりゃあ、混乱するよ。卑弥呼は九州にいてそこが倭人の首都だと思っていたのに、裴世清は変なところ(奈良)に連れて行かれてさ。 >>554
平和な時代の漢と、
内乱真っ只中の三国時代では外交官に求められる資質が違う 邪馬台国や狗奴国の記述は卑弥呼や台与が居て陳寿が生きた時代だろうが
それ以外はいつの時代の記録か分かんないんだな 卑弥呼が畿内にいたなら、ヤマト王権と連続性があるので、倭国伝と日本国伝を分ける必要はない。
「日本は倭人の別種だ!」と書くこともなかった。
ところが、魏志倭人伝では、「女王国から東に海を渡っても、みんな倭人」と書いている。
もし、邪馬台国が畿内なら、「倭人の別種の日本人とは合わなかったんですかぁ?」となる。
だから、卑弥呼は九州にいたのだ。 >>585
魏志倭人伝は九州を指してるだろうが内容が古いとなると
実際に卑弥呼や台与が居た場所は分からなくなった >>586
中国の学者は
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
とかかれてるので奈良ではないと言ってるな >>587
それが古い情報なら卑弥呼や台与が居たって事だけが正しくなる >>588
女王国の東には海があってその向こうにはまた倭種の国々があるわけで
そういう地域は奈良ではないというのは、女王がいた時代の話じゃね >>590
邪馬台国は昔からあってそれを女王国と混同した可能性
と言ってもその根拠が無いな 八月七日、百済は[上部]奈率科野新羅、[下部]固徳汶休带山を遣わして上表し…
面白い。百済人なのに新羅さん >>591
7,80年は男王の時代がつづいて女王が共立された
その女王の都は邪馬台国という
なので邪馬台国自体は昔からあっても不思議はない
例えば107年の倭面土国(帥升)がヤマト国でも不思議はないね
ただ張政が訪れた時代の邪馬台国は女王卑弥呼の時代だっただろう >>583
邪馬台国が魏を裏切って呉と組んだ場合は遠征軍を送らないといけないだろ ついに、新羅の地に久陀牟羅の城を築き、←←
ここからクダラ→意味が変化して失敗? >>593
戦争やってるしその人は多分邪馬台国迄行ってないでしょ
九州だと思ってたけど引っかかってたのはヤマトの名前なのよ 邪馬台国に来た、卑弥呼に会った中国人たち、張政などは、畿内には行ってない。
もし、畿内に行ったなら倭人と日本人に会ったと書くだろう。
ところが、女王国から東に海を渡ってもみんな倭人と書いている。
しかし、隋代以降になると中国人たちは、倭人と日本人に会っている。
旧唐書に、日本人は倭人の別種と書いている。 >>596
行ってる行ってないは関係ないよ
伊都国、奴国があって一大卒があって
(一大卒の南に)邪馬台国があって
邪馬台国の南に狗奴国があって
女王国の東に海をわたるとまた倭種の国々があるのは畿内ではなく九州 >>598
あるのは邪馬台国と狗奴国だけで他は既に無くなってたとしたら 邪馬台国の読みって結局ヤマタイ、ヤマト、どっちが正式よ 距離とか文化とかが違うと感じて、日本人は倭人の別種と旧唐書は書いたんだろうが、今ひらめいた。
分かった!
卑弥呼は九州にいた。
ところが、ヤマト王権の時代になると中国人達は畿内に行っているので、あの強烈な関西弁を聴いて、
「こいつら、倭人(九州人)と喋り方や言葉が違う。」
「ほんまでっか?」って何?なんか倭人(九州人)とちょっと似てる言葉話すけど、ところどころ違うぜ?
「◯◯やねん!」って何?
倭人は「◯◯ったい」(もしかすると、ヤマったい)って、語尾は「たい」だったのに、こいつら言葉違う。
でも日本語だし倭人の別種ということで。
こうなったのだろう。 >>600
ヤマタイの読みは卑弥呼を否定したい本居宣長が敢えて南方読みして大和朝廷と無関係と主張した読み
本来普通にヤマトと呼ばれていた >>595
このとき新羅は、佐知村の馬飼の奴(奴隷)である苦都に、
「苦都は賤しい奴で明王は有名な王である。今、賤しい奴に名のある王を殺させてやる。後世に伝わって、人々のロに忘れられることがないだろう」 >>600
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
つまり、答えはどれか分からない。
これが正解。 この人の本は昨日読んだ
本居宣長の説を凡そ採用してるよね
巻向あたりが前方後円墳発祥の場所と推定されるから邪馬台国はそこだという説をとってた >>599
いつの時代かわからないとしても
女王国より北にある伊都国に一大卒を置いて諸国を検察させてたわけで
伊都国の南に邪馬台国があったのはべつにそれでいいんじゃない?
張政の時代に邪馬台国が畿内に移動していたという情報があるわけでなし
とくになにか伊都国、邪馬台国、狗奴国、女王国東渡海千余里復有国を否定する材料はない >>600
別にどっちでも。「『ヤマト』だったら奈良の大和に違いない」なんて
結論にはならないし。 やっぱり🇯🇵任那日本府の帰国出来なかった人達がヨーロッパへ逃げた??
🤔 >>606
卑弥呼以前も邪馬台国(やまと国)は何処を指してたのかと思って
7万戸てのは糸島市とか福岡市とかの狭い範囲の話しじゃない 旧唐書で、倭国伝と日本国伝を分けた決定的な理由がさっきひらめいちゃいました。
卑弥呼の時代は九州弁を聞いて、ヤマト王権ができて奈良に行った中国人達は、強烈な関西弁を聞かされたので、
それで「倭人と日本人はちょっと違う。日本人は倭人の別種だ」と書いたんだな。 >>595
余昌はついに取囲まれて、脱出できなかった。
兵士たちは猥狽して助けるすべも知らなかった。
弓の名人に筑紫国造という者があって、進み出て弓を引き、狙いを定めて、新羅の騎卒の最も勇壮な者を射落した。
その矢の鋭いことは、跨いだ鞍の前後の橋を射抜いて、鎧の襟に通った。
また、次々と放つ矢は、雨のようにいよいよ激しく、包囲軍を退却させてしまった。
これによって余昌と諸将は、間道から逃げ帰ることができた。
余昌は筑紫国造が包囲軍を退却させたことを褒めて、尊び名づけて鞍橋君といった。新羅の将兵は百済が疲れきったことを知って、ついに全滅作戦を取ろうとした。 >>609
戸数なんてあてにならんよ
魏志に伊都国は千余戸とあるのに魏略では万余戸と書いてある >>600
ああ、あと、中国の史書には「ヤマト」と発音できる国名は一切出てこない。ゼロ。皆無。
ヤマトと発音できるのは、琊馬都とか、邪もヤと発音してあげるとして、邪馬都だが、それはゼロ。
伊都は今の中国語発音でも「イート」そのまま。
どんな史書でも、一貫して漢字も「伊都」。
邪馬台国だけは、漢字も発音もバラバラ。 この人は日本書紀の記述をかなり恣意的に独特な解釈をして読んでたから
結論ありきかなとは思った
神功皇后の妹に豊姫と言う方がいらっしゃったから、神功皇后=台与という説を立ててて
かなり強引だなと思った。読み物としては笑えて面白い >>1
確かにこの僭称説だと実質的な倭国の中心地畿内と、その後日本の歴史に登場せずに消えた北九州にある弱小勢力の邪馬台国という二つが両立しうる ある本には、二十一年に任那は滅んだとある。
総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞滄国、稔礼国、合わせて十国である。 >その国、本は亦、男子を以って王と為す。
>住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年
>乃ち一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼と曰う。
>鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大。
>夫婿なく、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。
>王と為りてより以来、見有る者少なし。
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。
>ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。
>宮室、楼観は城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。
卑弥呼が産まれたのは伊都国で
2世紀後半に先代巫女が亡くなったので
その時に未婚で若い王族の女性の卑弥呼が女王となった2世紀末
>卑弥呼以って死す。
>冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
>更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。
>復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。
台与は第10代崇神天皇の皇女の豊鍬入姫とよすきいりひめだろう
日本書紀で豊鍬入姫は天照の命で神社を祀って
そこを聖域とすることに成功した巫女 いつもいつもおかしな勘違いをしてる人だらけだが「大和朝廷は邪馬台国や卑弥呼の後継など名乗ってない」
むしろ積極的に無関係だとしてる
中国に提出された王年代記の皇室系譜には、卑弥呼も台与も邪馬台国も一切乗せてない
日本、すなわち大和朝廷は神武天皇の後継
中国もその主張を採用してる
なのでよく俗な人が言う「卑弥呼の後継者を自称した」と言う話は全く見当違い
位置は同じ大和であると中国の史書に書かれているが、系譜や政権の連続性はない この筆者の本には
わざと遠回りして行き方をわからないように案内したと書いてあったから
最初から距離についてはでたらめだと考えてるよ。僭称だからという結論ありきだから 勝手に頭の中で「大和朝廷は卑弥呼の後継者を自称して乗っ取った勢力なのだ」とか言う前提で妄想を組み立てている人だらけなのが驚く
中国史に大和朝廷と卑弥呼の邪馬台国を混同してる様子はない
これは日本が提出した資料を基にしているので、大和朝廷自身の主張でもある >>620
卑弥呼の後継かどうかはともかく
>これは日本が提出した資料を基にしているので、大和朝廷自身の主張でもある
こんなもんが信用できるか 卑弥呼の時代に、倭人の九州弁を聞かされていた中国人たちも、隋代以降は畿内まで行かされて強烈な関西弁を聞いて、「九州人とこっちの倭人は言葉が違う。」
「ようし、こう書こう」→日本人は倭人の別種(旧唐書より)
そして日本人自身、東北人何喋ってるのか分からない。なまり強い。あいつら、「毛人」
日本人「中国さん、あいつら毛人っていうんです。何喋っているのか分からん」→中国人「そうか、日本の隣は毛人の国か!」
↓
そして、中国の地図『古今華夷区域総要図』に朝鮮の下に、「倭奴」と書かれた島、倭奴の左下に「日本」と書かれた島、日本の右下に「毛人」と書かれた島。 そもそも中国の史書を見れば書いてあるものを見てもないと言うのだから話にもならない
こんなものは説でも何でもない
ただの作文以下の物 畿内厨よ、纒向纒向と連呼するだけじゃ説得力ないぞ
文献からも物証からも完璧な九州説を少しは見習え
オモシロ九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!! ずーっと、考えていたのに、答えが出ると簡単なことだったね。
何で、『旧唐書』は、倭国伝と日本国伝を分けて書いているんだ?
なんか、距離的なものとかで中国人たちが「なんか、史書と違うなー」と感じていたんだろう。というところまでは、来ていた。
ところが、ひらめいちゃったら実に簡単な答えだったね。
九州弁と関西弁があんまりにも違ってるんで、『旧唐書』は、「日本人は倭人の別種」と書いたんだな。
この説無料であげるから、広めてくれ。 >>620
旧唐書には、大和の派遣した遣唐使は嘘つきで信用できないと書いてあるがな >>629
そのぐらい城郭ひきこもりだったんじゃないの? 弥生文化は韓半島起源だからな
もうだいぶ前から考古学的に弥生文化は韓半島南部の無文土器文化の亜種だというが判明している
日本最古の弥生遺跡である板付遺跡の発掘調査から支配階級は韓半島南部が起源の松菊里型住居に住んでいて
被支配階級が縄文型住居に住んでいたと判明している
弥生文化人は韓半島からの移住者で縄文人を征服しながら九州から関西に広がっていく
そしてそこで一時停滞したあと弥生文化は一気に東北まで拡大する
ネトウヨは縄文文明などとあほヌカすがジャップは韓半島起源の弥生人で縄文人をジェノサイドした側だ
言語学的にも弥生語より古い日本語が弥生文化以前の韓半島に存在していたことが確実視されている
だからwikipediaにもPeninsular Japonicで記事が作られている
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Peninsular_Japonic
低学歴低脳底辺のネトウヨは日本語版もあるから言語切り替えて読んでみろ
考古学的にも言語学的にもジャップの起源は韓半島なんだよな
縄文人はプレアイヌというべき人たちでジャップの先祖は縄文人をジェノサイドした側の末裔だから
ネトウヨのいう縄文文明とかお笑いだよな
ジャップの神話は韓半島系の神話で縄文文化の要素はゼロ
何故ならジャップの先祖は縄文アイヌを虐殺するか奴隷化して民族浄化をしたから
日本書紀や古事記に原住民の土蜘蛛を悉く殺したと誇らしげに書いてあるぞ
更に土蜘蛛は手足の長い狩猟採集民で言葉が通じないと書いてある
土蜘蛛ってのは縄文系のアイヌだろうよ
天ころの先祖が原住民を葛で作った罠に嵌めて火を放って焼き殺したとかそれで葛城という地名が出来たとかジェノサイドの自白がてんこ盛りだわ 韓半島南部の全羅道や済州島の古代の言語は日本語と同系であったと推測されている
ネトウヨは韓民族の先祖を小便で顔を洗う不潔な穢人だと書いているが
言語学的には穢は韓半島で韓民族と混住していた日本語系の人たちだと推定されている
皮肉なことに不潔な穢はジャップの親戚だったという訳だ
日本語や琉球語の故地は韓半島なのは確実で更にその前の日本語話者は山東にいたんだろ
中国の周王朝の時代に山東半島は漢民族の支配下に入る
その原住民は東夷と言われていた
彼らは漢民族に同化するか渤海の対岸に移住していった
移住先は農耕に適した遼河下流域や韓半島南部
その頃の遼東の文化と無文土器文化は共通点が多く同系という事まで考古学的には判明している
山東の東夷→韓半島の無文土器文化人→弥生人→現代のジャップだ
日本の教科書では未だ日本民族は太古の昔から日本に住んでいてとか大嘘書いてるからな
歴史を歪曲してるのはジャップの方なんだよな
日本列島で誕生した縄文文化人が弥生文化人になりクニが生まれて統一されて
天ころが生まれて日本国になるなどというお伽話が普通に教科書になっているからな
そんな訳ねーだろ
ジャップは韓半島起源の弥生人が縄文アイヌを悉く殺戮や奴隷化した末に若干の混血で産まれた民族
そして九州から南に行ったのが琉球人になる
蝦夷は本州アイヌに違いなく倭人の弥生時代からのジェノサイドが平安時代まで続いたということ
今の東北列島人は征服された蝦夷の末裔ではなく後から入植した倭人の末裔
そして本州アイヌの民族浄化が終わった頃から倭人は北海道に進出して北海道アイヌの浄化に入りその完了形が日帝の北海道内地化だ
ジャップそのものが半島起源なんだがネトウヨの寝言が糞笑える オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らへん!!知っとるかいな!! >>628
旧唐書の日本伝には、別種であると書いてはあるがその続きには、名前が悪いから変えた、倭国を併合したのどれかよくわからないことが書いてある。 >>635
それも知っている。
しかしいくつかの地図でも日本と倭を分けている。
分かってみれば、実に簡単なことだった。 >>631-632
朝鮮人が弥生人というのはかなり無理がある主張ではあるとしても、
その弥生人征服説は十分可能性があると昔から思ってた
しかしDNA解析が一般的になりだしてから間違ってるのが濃厚だと思うようになった
というのも、日本人の全ゲノム解析結果によると弥生人が9割、縄文人が1割と言われているが、
父系遺伝のY染色体だけを見ると日本人の4割が縄文人由来のD系統で最大グループという結果が出る
参考までに朝鮮人のY染色体にはD系統がほぼ無い
通常征服された民族というのは男は皆殺しにされ女は孕まされる
Y染色体がほぼ100%ヨーロッパ由来の中南米がいい例だ
とすると、日本人の遺伝子構成は征服説を支持するにはあまりにも無理がある
また、近年弥生人集落と縄文人集落がかなりの近距離で互いの文化に影響を与えながら共存していた遺跡も複数発見されていることから、
いまだ日本人の成り立ちには謎が多いとはいえ、征服説とは全く別のシナリオを考察する必用がありそうだ 中国史書と整合性の無い畿内説は嘘つきです
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
魏志倭人伝の水行行程の部分は、朝貢に来た倭人の説明を書き写したものであり、出発点は帯方郡。
地図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日を使って距離をしめした(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 >>569
何回測量しても、
三角関数が西暦900年ごろに始まったのだから
邪馬台国の時代の測量なんて児戯なんだよ
せいぜい行基図程度で、正確ではない
だいたい何となく全体の形が分かるくらいで、
帯方郡から狗邪韓国まで7000里とか、分かるはずがない 距離と方向はそのままとらえるとどっちにせよ合わないから
ここを厳密に見てもしょうがない
魏志倭人伝本文と魏政権の資料に基づいたと思われる魏書、魏略、広志他逸文を
しっかり参照することだね >>639
自分の住んでる町内の地図も書けないでしょ
測量しないと無理 >>637
つまり弥生人と縄文人の組み合わせとしては、複数の弥生人女と縄文人男という組み合わせが一番多かったことになる
全ゲノムに占める弥生人の割合9に対して、縄文人由来の父系遺伝子割合4は多すぎる
だからもし征服説が成り立つとすれば、少数の縄文人が多数の弥生人集落を征服した場合ということになる >>643
分母としては縄文人が圧倒的に多いから、均等に弥生人が混じればそうなる 台湾大学の周徳望教授の「倭に牛馬無し」の指摘は、これは実はかなり重要だと思うんだ。
馬がいないから、移動がクソのように遅い。
徒歩だ。
391年の倭・高句麗戦争でも倭軍は歩兵しかなかったことが資料から明らかになってる。
そんな移動がクソ遅い、物資の運搬も人がやる。
そんな人々が西暦240年頃に畿内から九州まで統治できますか?って話だよな。 >>644
単純に日本人が弥生人と縄文人の二重構成だと仮定して、
縄文人に均等に弥生人が混じったなら、縄文人由来のY染色体の割合も同じ1割になる
あるいは、全ゲノムに占める縄文人の割合は4でずっと多くなるはず
でも実際は遺伝子構成が歪だから不思議なんだよ
縄文人による征服か、弥生人の男だけが大量死した後混血するようなイベントがあったのか >>641
測量の技術自体が邪馬台国の時代は稚拙だったんだよ
その当時にいくら測量する測量すると言っても、不正確なものしかできない
なので、
帯方郡から狗邪韓国まで7000里みたいな地図が出来るはずがない 本番、中国人と台湾人はやっぱ視点が日本人とは違うな。
魏志倭人伝の「刺史」の記述を見て、「魏の時代には刺史は行政官になってるのに、魏志倭人伝では監察官の意味で使われてる。これは漢代に書かれたものを丸写したんじゃないですか?欠陥資料ですね。」
「陳寿がただ手持ちの竹簡資料で倭について書かれたことを何でもかんでも盛り込んだ印象ですね〜」
そして、みんなこう言う。
邪馬台国は九州ですね。 >>641
そもそも、魏な使いは地図を書くため邪馬台国に出かけはわけじゃない >>648
まじ中国の学者優秀すぎる
日本の学者とかアマチュア歴史ファンみたいなもんじゃん 三角関数とか当時の人もある程度分かってたんじゃないかと思うんだけどな
図面に三角書いてこのくらいの距離とか そりゃ、アルタイ人出るよな
こんだけ日本人に似てれば >>652
ある程度分かる事と、現代の地図とそん色ない物を作れるかどうかでは全く違う
邪馬台国の時代でも正確な地図が作れたはずだと言い張りたいのなら
その時代に近い年代の正確な地図を挙げてみればいい
それができないのなら黙ってた方がいい >>654
現代の地図とそん色ないなんて言ってないじゃん
技術が足りないのと最初からやる気が無いのは違うからね 魏晋南北朝時代の一里は約400メートル。
陳寿も一里400メートルとして三国志を記述していると考えるべき。
測量技術の低い古代だから、支那の領域外の距離は適当な数値。魏志倭人伝も。
これを無理矢理短里に当てはめるのは変。 >>656
難しく考えることはない
百里を1ヒミコとする
マツロ国からイト国まで5ヒミコ
イト国から奴国までが1ヒミコだ
邪馬台国まで、残り14ヒミコ 自分が何処に居るか分かんないと帰れないでしょ
それと測量してないといつまで経っても地図は書けない
まあ道のりをちゃんと知ってるガイドがついてれば解決するんだけど
どっちの言ってる事が説得力があるかだな https://i.imgur.com/tRPAM7n.jpg
距離と方位がわかればこのくらいはいけるだろ
ただし5倍も6倍距離が違ったら無理 日本の里は、戦国時代以前は530m
戦国時代移行は4km
倭人伝では、倭国は里を知らず
日を持って量る、とある。
日本では記録が残っている範囲では
魏の里を使ったことはない。 >>633
また論破済みのゴミコピペ貼ってるのかよ
学習能力ゼロの低脳
煽りコピペ貼るなら、最低限、論破されたところくらい修正してこい
>Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
>A:そんなん知らへん!!
方角が正しいか日数が正しいか不明だと小学校で習ったはずなのに、マヌケなアンサーを書くバカ九州説信者
>Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
>A:知らんのや!!
伊豆諸島で解釈可能
魏との交流痕跡が多い畿内を国名不明の倭種の国とみなす九州説の言い分の方が遥かに不合理
>Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
>A:知りまへん!!
三角縁神獣鏡の製作場所はまだ判明してないが、楽浪郡あたりと考えれば、情報伝達の遅れで十分説明可能
製作地がどこであろうと、畿内と魏の交流があったことを示す証拠でもある
>Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
>A:知りまへんのや!!
邪馬台国で倭国大乱があったとは書かれてないのに、魏志倭人伝を曲解するバカ九州説信者
そして、九州にも倭国大乱の跡はないのに、あると言い張ってるやつは捏造常習犯
>Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
>A:知らんちゅうとんねん!!
出土してることさえ知らない無知でバカな九州説信者
>Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
>A:知らへんのや!!
投馬国
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
通り過ぎてしまうし、もちろん九州も通り過ぎる
届かないのではとマヌケな質問をしているのは、短里とかいう架空の距離単位を捏造してる証 >>659
護衛兼ガイドはいる
食料もって立派な服着て異国を歩いてたら、身ぐるみはがれる
それに、いろんな国で食料も調達しなきゃならんしな
大体、ここ百里、ここも百里って、
細かい測量で出た数字じゃないことぐらい分かるだろ こうして見ると畿内説って何なの?って感じるね
明らかに関係ない遺物を持ち出して空想ばかりダラダラ話して
何か指摘されると学者ガーと逆切れしてさ
現代の情報社会を舐めてるよね >>664
測量の記録をそのまま書いたんじゃ無いと思ってるよ
距離や方向はもっともっと細かく書いてるはず
中国まで帰るんだしそのくらい当たり前 >本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」
この場合のソビエト委員会のロシアメリカ帝国の黒悪魔に仕えてる本宣長って中華帝国皇帝の使い魔じゃなくロシア帝国の悪魔皇帝に
つかえたい閔氏朝鮮一族や閔妃なんかの東学党だの大院君の大日本帝国は都の朝鮮内部の戦いと
極東アジア経営に乗り出してたロシア黒悪魔帝国と大日本帝国との闘いのころからじゃん
アヘン戦争後の大清帝国の分割とロシア帝国アメリカユダヤ金融銀行なんかが世界中の人工地震脅迫
してた頃の話でもある >>666
ガイドに案内させりゃ済むだろ
アバウトな距離が分かれば良いんだから >本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」
この場合のソビエト委員会のロシアメリカ帝国の黒悪魔に仕えてる本宣長って中華帝国皇帝の使い魔じゃなくロシア帝国の悪魔皇帝に
つかえたい閔氏朝鮮一族や閔妃なんかの東学党だの大院君の大日本帝国は都の朝鮮内部の戦いと
極東アジア経営に乗り出してたロシア黒悪魔帝国と大日本帝国との闘いのころからじゃん
アヘン戦争後の大清帝国の分割とロシア帝国アメリカユダヤ金融銀行なんかが世界中の人工地震脅迫
してた頃の話でもある
南の広東広州での中国共産党の結成についても大日本帝国諜報部の関係がある このスレ詳しい人結構居るんでしょ
古代の人が異国に行くとき棒立てたりして測量してない? >>665
九州説こそ学説的にはとっくに負けてるのに何なん
朝鮮カルトの工作員じゃないかって周りから疑われてるよ? >>665
>明らかに関係ない遺物を持ち出して空想ばかりダラダラ話して
何のこと?
具体的に頼む もう畿内説の学者はいないよ。
2011年頃から畿内説の肯定的な論文や文献は
殆どなくなった。
今は桜井市纏向学研究センターで
地元考古学をやってる。 >>671
学説的にはってなんだよ
科学的には、とか、考古学的には、なら意味は分かるが >>672
馬具が出てきたり、殉職葬者は出てこなかったりした墳墓を、卑弥呼の墓と言い張ってる件じゃないのか >>670
するわけがない
というか、外国人が勝手に測量してたらヌッコロされる
あ、コイツ攻め込んでくる気だって思われるからね >>676
やっぱりそのくらい正確には出来ると思ってるんだ >>674
科学調査も考古学調査も畿内説を指示する結果しか出てないね
よって学説では邪馬台国は畿内にあった大和国というのが定説になっている >>304
>このように、常識的に考えても九州説は成り立つのだから
いくら連呼しても、「阿波」が存在する限り、無駄。 @阿波 帯方郡(沙里院市)
↓【南】海岸水行7000里( 直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 科学的調査の結果
最古級の前方後円墳「ホケノ山古墳」が4世紀
https://i.imgur.com/pEXMJYL.png
「樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。」 いや、だから阿波は皇室の父祖の地であって、邪馬台国は関係ないでしょ。 >>678
たとえばなんだ?
畿内説をあざ笑う馬具や三角ナンチャラなら出てきているが >>683
半島最古の馬具が5世紀なのに
箸墓の馬具を4世紀初頭と言い張る畿内説
どう見ても霊感商法か認知症 >>338
>倭人伝なのだから倭人についての記述だぞ
その通り!
「忌部一族(阿波勢力)」についての記述である。 @阿波 >>343
>そもそも邪馬台国の時代には鉄の生産は九州は既に一位から陥落している
その通り!
鉄器王国「阿波」の時代だ。 @阿波 >>675
またおまえか
朝から晩まで嘘と捏造を繰り返す異常者
馬具が出たのは周濠の底に溜まった植物層の中からだ
布留1土器と一緒に出土しており4世紀初頭
数は少ないが弥生終末期から馬の骨や歯が出ているんだから、4世紀初頭に政権中央に馬がいて不自然でも何でもない
箸墓古墳は発掘してないんだから、殉葬者がいたかどうかも分かっていない
殉葬者が出てこなかったと断言してるのは嘘八百 結局手がかりは魏志倭人伝しかないのな。
一応、口承が前提であろうと思われる古事記や日本書紀があるんだから、
それらと倭人伝の対応関係をもっと調べた方がいいでないか? 東京農業大学「食と農」の博物館
「我が国における馬の歴史は古く、馬が渡来したのは弥生時代末期で、当初の用途は儀式を含んだ神事であったといわれています」
https://www.nodai.ac.jp/application/files/5014/8599/9786/59.pdf >>376
>宮崎県だと歩いて行けるやろと、ツッコミ入るw
だから、四国。 @阿波 >>687
発掘してないって、馬具が見つかったときは、一体なにを探してたんだ? >>689
「邪馬台国に牛馬は居なかった」
馬が居たとしても「輪鐙」が開発されたのは4世紀以降だ >>688
古事記は、いろんな部族の神話をミックスした形跡が有り、しかも下手すりゃ1000年単位の縄文からの言い伝えまで混じっている。
単純に比較はできないというのが現状 「輪鐙」を使う文化が浸透したのはおそらく5世紀以降 >>692
中国で302年の墓から出土した陶俑にも鐙のある騎馬俑がある
職人が作るほど社会に浸透していたんだから、実用の鐙が開発されたのはもっと前だ
https://i.imgur.com/SQ011kP.jpg 纏向遺跡の特徴
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。
また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる
土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 纏向遺跡の特徴2
■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
「弥生時代の遺構は極めて少なく」
「弥生時代の遺構は極めて少なく」
「弥生時代の遺構は極めて少なく」 🇷🇴ルーマニアが出るって事は🇭🇺ハンガリーも出るんだろうなあ >>682
>いや、だから阿波は皇室の父祖の地であって、邪馬台国は関係ないでしょ。
「邪馬臺国」=倭国(阿波)だから。 @阿波 >>701
ついでに、
「狗奴国」も=倭国(阿波)だぞ。 @阿波 >>701
論理が飛躍してますが、まあしょうがないよね、その辺りが限界。 >>703
>論理が飛躍してますが、まあしょうがないよね、その辺りが限界。
だってよう、
魏志倭人伝の「橘(たちばな)」自生地は、黒潮流れる太平洋沿岸。 少なくとも、北部九州や奈良盆地には自生しないだろ?
よって、北部九州や奈良盆地は「邪馬臺国」では有り得ない。 @阿波 >>703
お前に、こんなこと言える発想すら沸かないだろ? トンデモだからよう。
↓
「狗奴国」も=倭国(阿波)だぞ。 @阿波 >>706
でも、「丹」で可能性がなくなるわな。 @阿波 >>701
つかね、かなり古い伝統が残っていると考えられる阿波で、ヤマトやヤマタイと関連の有る地名が全く残ってない事のほうが問題。
阿波(粟)・名方(ナカタ)・麻植(オエ)・美馬(ミマ)・板野(イタノ)・勝浦(カツウラ)・那賀(ナカ)等など。 >>709
「丹」 「橘」 「楠」 これがすべて揃うのは、「阿波」だけ。 @阿波 日本書紀の崇神記に登場し、卑弥呼と同一人物と目される倭迹迹日百襲姫命だが、
崇神記で箸墓を作る件の描写の石を山上に運び上げるところとか、日本の神道カ
ルトで竹籠が非常に重要な位置を占めてることからして、大きな竹籠が箸墓の石
を運搬する上で大きな役割を担ったであろうことを俺は想像する。
倭迹迹日百襲姫命の名前の中の「日」とは竹籠の一種の「ひ」ではなかったかと。
或いはととひの場合、と=10で、とと=10、10の意味で、「ひ」は織物機の杼のこと
ではなかったか?杼によって織物の縦糸と横糸を組み合わせる作業は×と相似と言って全く差
支えないだろう。
倭迹迹日百襲姫命の場合は、アマテラスの遷座が関わってる訳で、そこにも「竹籠」の要素
が大きく関わってると思う。
卑弥呼は籠目歌にも関りがあるらしいが。
卑弥呼の「卑」は籠の一種の「ひ」から来てるのではないか? >>710
>つかね、かなり古い伝統が残っていると考えられる阿波で、ヤマトやヤマタイと関連の有る地名が全く残ってない事のほうが問題。
じゃあ、なんで「阿波」だけに、「倭大国魂神社 言っとくが、徳島市大和町は、新しい地名なので、全く参考にはならんからなw >>710
>つかね、かなり古い伝統が残っていると考えられる阿波で、ヤマトやヤマタイと関連の有る地名が全く残ってない事のほうが問題。
じゃあ、なんで「阿波」だけに、「倭(やまと)大国魂神社」 があるんだ? @阿波 じゃあ質問するが、神社の名称だけ残って地名に一切残ってないのはなんで? >>710
じゃあなんで「阿波」にだけ、「応神」とか「天皇」なんて地名があるんだ? @阿波 >>716
>じゃあ質問するが、神社の名称だけ残って
なんでお前んとこに倭神社がないんだ? なんでや? @阿波 阿波國半田町の地名「天皇」 同じ半田町には「京都」「蘇我」「葛城」も。
吉野川対岸の美馬町には「倭大國魂神社」、忌部の聖山「高越山」には「伊射奈美神社」。
今まで何気なしに見過ごしてきていたけど、これって他県には無い、物凄く特異なことじゃないの? @阿波 >>716
じゃあなんで「阿波」にだけ、「建布都神社」や「天村雲神社」や「伊加加志神社」などがあるんだ?
なんでお前んとこにないんだ? 言ってみな。 @阿波 >>683
>>684
畿内からは景気や正始元年など
卑弥呼がいた頃の魏の年号の入った三角縁神獣鏡や
画文帯神獣鏡が見つかっている
これは卑弥呼の時代に畿内と魏に交流があった証拠
箸墓古墳の馬具は堀から見つかったもので
箸墓古墳が完成した後のものである事は明らか
後の時代になって壊れたのを堀に捨てたものと見られている >>716よ。 黙ってないでなんか言え!
「阿波」に楯突くと痛い目にあうぞ。 @阿波 >>722
お前本当に畿内説か?低能すぎw
魏の年号が記された鏡
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 大田南5号墳 京都府弥生町
方格規矩四神鏡 青龍三年(235年) 安萬宮山古墳 大阪府高槻市
三角縁神獣鏡 景初三年(239年) 神原神社古墳 島根県加茂町
平縁神獣鏡 景初三年(239年) 黄金塚古墳 大阪府和泉市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 広峰15号墳 京都府福知山市
三角縁盤龍鏡 景初四年(240年) 持田古墳群? 伝・宮崎県
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 蟹沢古墳 群馬県高崎市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 森尾古墳 兵庫県豊岡市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 御家老屋敷古墳 山口県新南陽市
三角縁神獣鏡 正始元年(240年) 桜井茶臼山古墳(4世紀中頃) 奈良県桜井市
平縁神獣鏡 (晋の元康年間291年〜) 上狛古墳 京都府山城町? 「丹」 「橘」 「楠」 これがすべて揃うのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>722
鏡の年号から1世紀以上後の時代の古墳から出てくるとか
贋作臭ぷんぷんなんですが >>723
神話のベースは皇室の祖である粟の豪族が居たからですよ。
粟の豪族は、弥生時代には,稲作に適さない吉野川流域から稲作適地を求めて日本各地に進出をした。
その一族が、大和盆地で >>725の通り、場所も年代もバラバラ
副葬用に作られた国産鏡が長年にわたり大量に流通していた証拠だ >>728
>その一族が、大和盆地で
巨大墓地を造った。 @阿波 北九州、四国、近畿が旧大和領
伊都、伊予(伊邪國)、紀伊(鬼國)、伊賀(為吾國)、伊勢熊野(狗奴国)
熊野、四国が寝返って近畿が飛び地に(倭国大乱)
伊勢熊野(狗奴国)、伊予(伊邪國)、土佐(對蘇國)
この時の地図が倭人伝
後に
仲哀天皇が隼人(好古都國)攻略、南九州は攻略しきれてない
朱砂納(スサノオ)が出雲攻略
邪馬台の出雲オロチョン(古志の北方民族)越(黒齒國:オチ)へ引越し
侏儒國は石川県珠洲市
スサノオ、丹生都比売(稚日女命)を殺してしまう→男王系へ戻る
倭の五王以降で
甲斐(呼邑國)金砂(華奴蘇奴國)紀(鬼國)毛(鬼奴國)
さて初代ヒミコは何処でしょう? >>734
そういう発言がバカ丸出しなんだよw
エビデンス付けて具体的な説明しろよ低能w >>735
まともに反論出来ないからと言って・・・ 哀れなやっちゃのう。 @阿波 >>736
三角縁神獣鏡は畿内の黒塚古墳や
椿井大塚山古墳など3世紀の古墳からも出ている >>739
「阿波」の水銀朱も出ているが? @阿波 >>739
黒塚はよその人の墓で4世紀じゃんバカw
つか纏向全然関係ないし支離滅裂なこじつけばかりで笑わせるなw そもそも当時の奈良が「倭」として認識されていたかも怪しい
■魏志倭人伝に記述のある植生を見るとクスノキ科の木が多数記載されています。
卑弥呼の時代に存在していたクスノキ(樹齢1800年以上)を探すと
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年あたり
・未確認 >>742
しかし、
「丹」 「橘」 「楠」 これがすべて揃うのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>743
樹齢1800年前後の現物が無ければ証拠と言えない
はい、残念でしたw >>727
・そもそも鏡は伝世するのがデフォ
・同笵鏡は出土する最も古い古墳の築造年代より前にはすべてが製作されている
・三角縁神獣鏡は文様の変化から編年されており、古いグループと新しいグループ(従来は舶載鏡とボウ製鏡と呼んでた)に分かれていて
すべての紀年銘鏡の成分は古いグループの三角縁神獣鏡の成分と一致する
・古いグループの三角縁神獣鏡は、3世紀の古墳(黒塚古墳や椿井大塚山古墳)から出土する
・紀年銘鏡の出土で最も古いのは、3世紀末の桜井茶臼山古墳
よって、紀年銘鏡を後世の製作とみなすことは不可能 >>744
>樹齢1800年前後の現物が無ければ証拠と言えない
お前んとこに、1800年前後の丹採掘遺跡あんのか? 阿呆玉よ。 @阿波 普通に考えて
奈良と出雲が共立して卑弥呼を女王にして邪馬台国という連合国を樹立
九州と対馬を使用せずに日本海ルート
投馬国(近江)ー不弥国(摂津住吉)−奴国(因幡)−伊都国(出雲)ー末廬国(松江)−一大国(隠岐)ー対海國 (鬱陵島)ー弁辰狗邪国(狗邪韓国)ー帯方郡
を使って「親魏倭王」になり
九州の【倭奴国】筑紫城「漢委奴国王」と対立
九州の【倭奴国】筑紫城 第三十二代「漢委奴国王」の「彦瀲」の四人の息子が東征して、奈良と出雲の連合国の邪馬台国「親魏倭王」を武力鎮圧
末っ子の「神武」が総督としてそのまま奈良に残り、奈良を九州【倭奴国】筑紫城の植民地にした
だろね >>748
>普通に考えて
普通に妄想を考えて だろ? わははははは @阿波 >>748
>九州と対馬を使用せずに日本海ルート
それ航海じゃなくて漂流やろw >>752
>黒塚古墳は3世紀中ごろだよ
いつだっていいんだよ。 どのみち、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓なんだから。 @阿波 >>752
4世紀以降のよそ者の男性の墓だろ?
径百歩でもなければ殉葬の痕跡も無いw
https://i.imgur.com/QDXCvrn.png 普通に考えて
中国ですら後漢→曹魏→西晋と時代がうねってんのに
倭国だけ平和なわけない 平気で年代50年、100年サバを読み印象操作に明け暮れる畿内説5ch工作員w 㖨国の函跛旱岐(ガンヘカンキ?)
卓淳の末錦旱岐(マキンカンキ?)
何処だろー?なんか一致してるけど
ハコバツ可汗?
パツキン可汗? >>755
黒塚古墳は副葬品が3世紀中ぐらいのものだね >>760
いつだっていいんだよ。 どのみち、「忌部一族(阿波勢力)」のお墓なんだから。 @阿波 アヴァール時代の7〜9世紀のカルパチア盆地から発見された31人の人骨のミトコンドリアDNAハプログループの分析結果は、ほとんどがH、K、T、Uなどのヨーロッパ人のタイプであったが、15.3%からC、M6、D41c、F1aなどのアジア人のハプログループが検出された[14]。
スロヴァキアCifer‐Packで発見された8〜9世紀のアバール人-スラヴ人の62人の遺骨のmtDNAハプログループ分析(46人で実施)では、93.48%で西ユーラシア人の型が示された。東ユーラシア人の遺伝子も検出されたが、他のアヴァール人の遺伝子調査よりも低かった。この調査で検出された遺伝子は、アヴァール人と現在スラヴ人の中間を示すため、両者の混合と考えられる[15]。
アヴァール人の男性14人(11人が初期アヴァール人、3人が中〜後期アヴァール人)を対象にしたY染色体ハプログループ分析では、初期アヴァール人の11人のうち6 人がN、2人がR1a、それぞれ1人がC2、G、I1であり、中〜後期アヴァール人3人はそれぞれC2、N、E1b1bであった[16]。特に初期においては東ユーラシア由来のハプログループN(ウラル系民族を特徴付ける型)が高頻度であり、アヴァール人の起源がモンゴロイドであるという従来からの見解が遺伝的にも示されたことになる[16]。
パンノニア盆地から発見された7世紀の26人の古人骨の分析では、mtDNAハプログループはほとんどが東アジア由来、Y-DNAハプログループは全てが東アジア由来(すべてがNとQのみで占められていた)であった[17]。 >>760
副葬品の年代+100〜200年後ぐらいの墓だ
2世紀後半〜3世紀前半の卑弥呼時代と何の関係も無い証拠だな >>748
「共立」にみんな騙され杉。「共立」というのが、そもそも嘘。
さて、これ、誰が付いた嘘? ・・・大倭(奈良)だよ。
その昔、漢の時代、奴国が倭国代表として朝貢(後漢書)してた。
だが、魏志でバレるのは、奴国は邪馬台配下の国に過ぎない事。
つまり、漢の時代は、邪馬台こそが列島覇権国で、自身は朝貢せず、
配下を朝貢させ、自身は漢の臣下に成らずに朝貢の利を得て、
列島に君臨してた訳だ。
ところが、倭国大乱の後、その邪馬台が魏に朝貢(させられてる)。
倭国大乱で女王「共立」だが、よく読めば、これは倭国大乱の
和議条件で覇権放棄を科されたと解る。(女王=剣を持たぬ王)
で、新たに覇権を握ったのが、博多港を押さえる謎の勢力「大倭」
というのも簡単に解る。勿論、大倭は魏に対して正体を偽装してる。
当然だわな。漢の時代、邪馬台がやってた事と同じだ。
倭国大乱直前、奈良・出雲・邪馬台の三雄が覇権を争う状況だった筈。
大乱で、出雲と邪馬台が戦争して衰えた所、奈良が背後から出雲を
攻撃し、因幡の新羅人(倭人交易ルート上で密貿易→因幡の白兎)を
殺し鉄を奪い、出雲を滅ぼした筈。(最近、因幡で渡来人虐殺跡出土)
出雲滅亡で(と、恐らく高千穂勢力の協力を得)、邪馬台は万事休す。
覇権放棄を受け入れるしかなくなった筈。 畿内説が話を作るのはいいのか
何か統一のダブスタ攻撃に似てるな 100か国あってその中のひとつが奴国なんだっけ?
でももっとデカい国じゃないのかな
邪馬台国もデカい 伊都国には王が居たけど他はそんな記述は無い
他は王の居ない国か 伊都国で魏の使者が邪馬台国の内乱を見守ってたんだろ??
見守るにしては近畿は遠くないか? 伊都国には代々王が居て彼らは皆女王国に服属してた
この女王国は当然邪馬台国だろうな >>745
桜井茶臼山古墳より古いとされるホケノ山古墳でさえ4世紀なのでそれは成立しない
畿内説が古墳の年代をゴッドハンドしてるだけ
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku318.htm
> 纏向古墳群のなかの、ホケノ山古墳の築造代は、箸墓古墳の築造年代よりも古いとみられている。
> 考古学者の寺沢薫氏の年代論によれば、ホケノ山古墳は、庄内3式期のもので、箸墓古墳は、そのあとの、布留0式期のものである。
> 2008年に、『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行)が、刊行されている。
> 『ホケノ山古墳の研究』によれば、ホケノ山古墳出土の、「古木効果」がはいらないよう慎重にえらばれた十二年輪の小枝の、炭素14年代測定法による測定値は、
> 四世紀を主とする年代を示している。
> (4)ホケノ山古墳出土の試料によるばあい、歴博仮説は1%以下の危険率で棄却できる小枝の資料だと、ホケノ山の年代は320年〜400年ごろとなる。
> 箸墓古墳はそれよりも新しいと言われており、もっと新しくなる。詳細は317回「炭素年代法記事について」参照。 >>770
奴国には王は居たでしょ
居ない王に金印を送るわけない
>>772
その可能性はあるね ついでに言うと、三角縁神獣鏡は加工痕が古墳ごとに揃っていることから国産だと判明済み
海外製なら古墳ごとに仕上げが同じになったりしない
今どきの歴史:三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。 >>775
伊都国が糸島で奴国が福岡市だとして伊都国は重要な場所
なんか想像し難いし記述が間違ってるんじゃないかな 伊都国は王から遺跡から墓から出土品までハッキリしてるんだよな
ついでに女王が居たのもハッキリしてる
もう伊都国が邪馬台国でいんじゃないの? 奴国は金印貰った国なのに特別感が無いな
金印を貰う以前の情報なのか金印を貰ったのは奴国じゃ無いのか >>779
漢委奴国王は漢の委奴の国王だという説があるね
漢の委(倭)の奴の国王という3段階表記は当時の中国の印璽に例がないらしい >>780
漢の時代に伊都国表記が無いのなら委奴国の可能性があるな
その場合奴国なんてあったのか疑問だ >>688
ほぼ同時代に書かれた魏志倭人伝と
その数百年後に書かれた記紀とでは
さすがに信憑性が激しく異なる >>771
僻地の蛮族の内乱をわざわざ見守りたい?
今で言えば、アフリカの部族の対立をわざわざ近くまで見に行きたい日本人がどれほどいるか >>780,782
そのあたりは結構諸説あるね
個人的には倭人は倭の国から来たと名乗ったのに通訳が格助詞の"の"に気付かなかったんじゃないかと思ってるが
というのも漢文の国名を見ると楚国とか魯国といった書き方がされていて、楚之国のような表記は存在せず
古代中国には国号と"国"の間に格助詞の"の"を挟むという文化が無かったことが分かる
文字を持たない倭人は当然口頭で通訳とやりとりしたはずだから、光武帝にどこの国から来たか聞かれてワの国から来たと答えても
通訳はワノ国だと思い委奴国の字が当てられたんじゃないかという気がする >>773
>桜井茶臼山古墳より古いとされるホケノ山古墳でさえ4世紀なのでそれは成立しない
桜井茶臼山古墳にもホケノ山古墳にも
「阿波」の水銀朱が出ているが? @阿波 >>768
桃の種については、九州説信者が架空の畿内説の主張をでっち上げて、それを批判してるのを
ネット上で何十回も何百回も見たことあるな
桃の種が出土したことが邪馬台国の根拠になるはずないのに、桃の種ごときで大騒ぎしてる畿内説は学問ではないだ、とか
桃の種は魏志倭人伝に書かれていないのに、桃の種を根拠にする畿内説はインチキだ、とか
相手を陥れるために、畿内説側が主張してないことを捏造するのは、九州説信者が得意とするところ
何も知らない第三者がそういうカキコミを見ると、畿内説って根拠にならないものを根拠にする説だと誤解してしまう
おかげで、九州説信者=嘘つきで捏造常習犯だとよく分かったよ >>774
>狗奴国は男王だな
「邪馬臺国」の「卑彌呼」とは、「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「有男弟佐治國」の「男弟」とは、「月読尊」
「狗邪國男王」の「卑彌弓呼」とは、「須佐之男命」の3兄弟。
「卑彌呼宗女」の「壹與」とは、神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 >>778
>もう伊都国が邪馬台国でいんじゃないの?
いくら連呼しても、「阿波」が存在する限り、無駄。 @阿波 >>771
人数盛ってるなら距離だって盛ってるだろ。
近場の中国大陸じゃね? >>787
捏造は畿内説のお家芸じゃん
国産の三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡だと言い張ったりさw >>732
侏儒はそのまま小人と言う意味だから音を拾ったわけじゃないと思う なんか正確な測量云々言ってる奴がいたけど
そんなに正確に測量しながら移動だと日数的にもどう考えても
九州内もしくは九州近辺にまでしか行けない肯定になるけど?いいの? >>795
>測量しながら移動
魏使がか? アホか。 その当時の距離など、ちょっちゅう交流してるんだから、
とっくに周知されてるよ。 「忌部一族(阿波勢力)」によってな。 わははははは @阿波 >>793
出来が上手なら中国産、下手なら国産とか文系ぽい分類だよな
最近になってようやく加工跡とか比較して調査するようになってきたそうだが
今までやってなかったのかよっていう >>786
4世紀にはすでにヤマトの属国になってたんだな >>799
そのヤマトとは、倭国(阿波)。 ヤマトなんてカタカナが逃げ。 @阿波 >>650
日本人は全てが万事こんな感じでしょ
利権でガチガチで派閥争いで道理を曲げる
五輪開会式のグダグタは日本の縮図と言っていい >>753
実際高志ってそれで栄えたんでない?
此処を邪馬台国とする説も有るくらいだし >>776
埋葬のために量産したようにしか見えんね >>787
日経や産経がドヤ顔で畿内説の証拠が出たとかで桃の種を取り上げてたけどw >>796
測んなきゃ分からんだろ
おまえの家から駅まで何mか聞かれても分からんだろ 紅花花粉も取り上げてたけど
紅花が入ってきたのは5世紀なんだよね。 阿波は畿内説が不利になると現れてかき消しやってんな 畿内説だけは、あり得ないだろ
畿内にあったとするとヤマト王権がその後継ということになるんだろ?
それなのに邪馬台国が魏に使者を送ったことを日本書記日本の一行も書かれていない
これは大和王権とはまるで別の国だったということを証明しているようなものだ >>811
ましてや一部の畿内説論者によると
卑弥呼は倭姫命だとか言っている
だとすると大和王権が出来た後
大和王権=邪馬台国と言っているんだよ
それなのに魏に使いを出したことを記録していないなんて
あり得ないのに、それを主張する畿内説論者の脳みそ腐っているとしか思えない 邪馬台国を村おこしに利用したい連中には何を言っても無駄だろね
卑弥呼がいたのが九州北部
畿内には同時期ヤマト王朝があった
九州は争いが激しかった
畿内は比較的平和で婚姻などで勢力を拡大していた
普通にこんな感じでしょ >>813
九州なのは間違いないけど、北部じゃないよ。
中部〜南部。やっぱり、日向(ひむか)の国が最有力。
畿内には倭人の国が多数あったけど、それはヤマトじゃない。
ヤマトは中国と手を組んだ九州勢力が畿内に進出した結果生まれた。
婚姻などで勢力拡大は正解。中国の後ろ盾があったからサクサク進んだ。 https://kobun.weblio.jp/content/%E9%BB%99
🇲🇳👨😥🤪🐴🤜🇯🇵
амаа хамхи!! амаа тат!!
こういう事なのか?!
「ダマる」の初出いつだろ🤔 そもそも冬に生野菜食べてる時点でかなり南部地方だろう バリバリ🇲🇳モンゴル語話してますやんw
モンゴル帝国軍🐴
高麗人ハーフじゃないの? 伊都国はすべて証拠があって同時代で邪馬台国とも縁が深いから
邪馬台国そのものか邪馬台国も伊都国スタイルだったろうから
普通にその周辺だろうな 北部九州の邪馬台(ヤマト)が中国の外交権と朝鮮半島の鉄利権を握ってて
倭国の代表で先進国だったので、
クソ田舎だった畿内はヤマトって名がどうしても欲しかったんだろうな。 >>814
日向は筑紫平野の山門(邪馬台国)の分家じゃないかな。
日向は吉野ヶ里みたいな大規模な遺跡ないし。
南部の熊襲をおさえる為に作った国じゃないの。 >>821
西都原は最大級の遺跡ときくけどね。
北九州が文明の中心地なのはそうなんだけど、
彼らが争いあって消耗して日向に盟主になってもらったんでしょう。
同じ地名は南の方が古いと思うよ。
南九州→北九州→畿内の順に伝わった。
女王国の南には遠絶二十数カ国があるから、
南に陸続きじゃない土地が必要。(南西諸島)
東に渡海すると倭人の国だから東も海。
だから九州の東南部で間違いない。 >>814
九州は当時南北に別れて大規模な戦争の跡が残ってるんだけど、その辺の整合性はどうつけるの? 魏志倭人伝が指してるのは佐賀だろうな
でも7万戸だから北部九州全部勢力圏だろうけど 国の名前たくさん書いてあるけど陳寿の時代にはもう無かったんじゃないか 畿内の大和には三角縁神獣鏡や前方後円墳があるけど
九州の山門には何もないね >>815
https://pbs.twimg.com/media/EUUQwJ4U4AA0kb8.jpg
面白いなー🤔
もし、🇬🇧イギリス軍が攻め込んできてたら
「お前、ちょっとは靴下🧦食べろよ?」
ってなってたんだろうか? >>764
おまえさぁ、後漢書がいつ書かれたのか知ってんの? 三角縁神獣鏡になんで拘ってんだ
普通の銅鏡で良いじゃん >>829
卑弥呼がいた時代の魏の年号が入ってるからだよ 魏志倭人伝によれば邪馬台国は
九州を通り過ぎて会稽東治の東
つまり福建省福州市の東で沖縄や台湾のあたりにあると書いてある >>753
島根県松江市から出土した、弥生後期(西暦100年前半)の石板が、朝鮮半島の北部のすずりと判明したことに続き
鳥取県倉吉市の弥生中期(紀元前50年前後)の遺跡から、朝鮮半島か中国製の、弥生時代最大の鉄矛、板状鉄斧(てっぷ)、鋳造鉄斧の鉄器計3点が出土して
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」にある
西暦57年に九州の倭奴国が後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜って「漢委奴国王」になったときにはもう
「漢委奴国王」の九州も対馬も使わずに出雲(葦原中国)から、朝鮮半島に渡れたことが判明している
14年 倭人が兵船百余隻で新羅の海辺に侵入
出雲から建速須佐之男命が新羅に行き帰ってきた
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が新羅を訪れた
奈良の天照大神が出雲を武力併合(桓帝・霊帝の治世の間146年 - 189年) >>831
距離的に朝鮮半島から離れられないからもっと東。
九州南部が正解。 伊都国って女王が居たってハッキリしてんじゃん
伊都国スタイルは女王国=邪馬台国なんだろ >>835
少なくとも卑弥呼を共立した倭国30カ国のうちほとんどは九州北部にあった国だろ >>775
奴國は属國のこと
中国の「漢」の倭の(日本の)奴国(属国)は九州の筑紫城
初代国王は、天之御中主神で
高御産巣日神
神産巣日神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
天之常立神
国之常立神
豊雲野神
宇比邇神・須比智邇神
角杙神・活杙神
意富斗能地神・ 大斗乃弁神
淤母陀琉神 ・阿夜訶志古泥神
伊邪那岐神・伊邪那美神
大綿津見神(豊玉彦)
まで九州にいた >>835
伊都国とか西の方から東の端まで全部名前が書かれているじゃん。
何の疑問があるのかわからん。 邪馬台国が国だと思ってるからこういう色んな解釈が出来てしまう。
伊都国に臺與がいただけ。 王の名前が卑弥弓呼、台与と卑弥弓呼しか出てこないな
それ以外の国に王は居たのかな >>837
独立を宣言し反乱を起こした遼東地方の半独立政権「帯方郡」を征討した魏の皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿にしてみれば
「遼隧の戦い」による戦乱により、
後漢の地方官公孫度が樹立した遼東の半独立政権「帯方郡」から避難してきた人々が大量に暮らす九州の「漢委奴国王」の奴国は
いつまた反魏の温床になるかわからない注意するべき倭國
238年に司馬懿が遼東公孫氏を皆殺しにした後に、新たに(帯方郡)太守となった弓遵が
240年に邪馬台国に派遣した建中校尉梯儁等が
九州に上陸していたなら
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して襄平城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧したように
九州を制圧しに、魏の皇帝が軍を派遣しとるよ >>842
妄想が暴走しているけれど
結局なにがいいたいの?
実際にはそんなことにはなっていないから
どうだって言う仮説? つか、6月に雪降るのが🇯🇵ひのもと国なのにwwwww
六月、雪が降った。この年は三月より七月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。
老人は草の根を食って道のほとりに死んだ。
幼児は乳にすがって母子共に死んだ。
また盗賊が大いにはびこり、止めようもなかった。 >>841
伊都国(出雲)にはもともと王(出雲主王)がいて
『魏志倭人伝』その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。
初代出雲主王「大国主」の葦原中国建国後、邪馬台国が国譲りを迫り戦争状態に
『魏志倭人伝』居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た
結局出雲は国譲りに合意して天照大神の支配下に
『魏志倭人伝』そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という
弟の建速須佐之男命のいる根の国が統治を助ける
『魏志倭人伝』非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
邪馬台国は天津彦彦火瓊々杵尊を出雲に派遣する
『魏志倭人伝』官は爾支 常に伊都国で政務を執っている
畿内の邪馬台国より北の出雲諸国の国々には、天津彦彦火瓊々杵尊が天降り、出雲諸国はこれを恐れている
『魏志倭人伝』女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。 畿内説では突然方向音痴になったり、突然方向音痴が治ったりするからな >>807
>測んなきゃ分からんだろ
当たり前だろうがよ。 なんらかの測量方法で測ったに決まってる。
ただし、魏使が測ったわけじゃない。 魏使が来る、遥か以前から、距離や方角は既知ってこと。
なんせ、「忌部一族(阿波勢力)」は、朝鮮半島と絶えず交易してるんだからよ。 @阿波 >>813
>普通にこんな感じでしょ
お前にできる精一杯の空想だな。 わははははは @阿波 >>822
>西都原は最大級の遺跡ときくけどね。
墓地ごときに浮かれるな、あほんだら! @阿波 関祐二は一時期畿内説じゃなかった?
もう見限ったんかな? アルタイ人からハプログループD出てるって事は
アルタイ山脈から倭人と出会って神武東征した?🇰🇿カザフスタンとかも出てるんだよな…… >>847
後漢は西暦184年の黄巾の乱を経て衰退し
後漢の郡や県が制御することが出来なくなった
朝鮮半島の韓と、九州の漢委奴国王の倭は、
好き勝手な振る舞いをし出す
そんな後漢の末期、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった地方官の公孫氏は、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出
まずは現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置き
西暦204年には
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて新たに帯方郡を設けて辺境の治安を強化
好き勝手な振る舞いをする倭と韓を制圧して帯方郡に帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築く
そして公孫氏は
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
邪馬台国が九州にあったなら、方位も距離も間違わない >>854
だからw
もっとも根本的な疑問はだよ
邪馬台国=大和王権ならば
なんで魏に使者を出して、皇帝より贈られた親魏倭王の金印の話も
すべてすっぽりと大和王権の歴史書の日本書記に書かれていないの?
そもそもここが最も不自然すぎるから、畿内説なんてあり得ないでしょw >>827
闭嘴
bi zuǐ [삐주이]
입 다물어!
イブ ダムロー!
面白い🤔 日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
同格以上を主張したい国の史書に漢の属国印綬されたなんて書いて嬉しいと思うか? >>6
武蔵大のパチもんの武蔵野大の更にパチもんの武蔵野学院大学wwwwww >>845
いろいろ書いてるけど邪馬台国の勢力はそんなに小さくは無いと思うよね
卑弥呼の時代はある程度国が纏まってたんじゃないかな >>857
俺もそれ思うのよ
日本の意志やまとの意志はどうだったんだろうな >>839
それじゃ九州の北部は伊都国とか奴国で
邪馬台国ではないという事でいいの? >>859
>卑弥呼の時代はある程度国が纏まってたんじゃないかな
「卑彌呼」の時代は、まだ「狗奴国」を併合していない。 「阿波」が纏まるのは、「壹與」の時代からだな。 @阿波 >>857
だったら、そもそも大和王権は古の邪馬台国なりとは自称しないでしょ?
つまり本当は邪馬台国とは関係ないから史書に書いていない
隋が大和を邪馬台国の後継と思ったのは
遣隋使が隋に邪馬台国のことを聞かれて、よくわからん固有名詞出てきた蹴れd
大和のことだよな?と早とちりして曖昧に返事してしまって
隋に邪馬台国の後継と勘違いをさせてしまったんだろう
もしも本当に史書に載せるが嫌だった黒歴史だったとしたら
遣隋使がそのような返事をすることもなかったはず
だろ? >>862
伊都国の南側に邪馬台国があったということだろ
女王国の北側に伊都国があると書かれているってことは 自国を大きく立派に言うのは外交じゃ当たり前
なんら遺跡が見つかってない以上
邪馬台国とやらはただの集落にすぎないよ 女連れてこい!言ったのにオカマ連れて来やがった…😅 卑弥呼が金印もらったの曹操の孫の曹仁だっけ?
中国から日本の王に認められたとか恥じゃね?それじゃまるで中国に日本の統治を任されたみたいじゃん >>868
役に立たないのに権威に縋った様にもみえるんだよね >>864
中古音、古音、近古音と漢字の読み方が変わるからいにしえのってなるだけ
例えば現代読みすると邪馬台国シマタイクになってしまうだろ >>865
伊都国の南は山地
7万戸の大国があったは思えないね >>871
俺の想像はもっとデカい
九州の上半分が邪馬台国勢力圏で下半分が狗奴国勢力圏
邪馬台国は内乱やってて弱体化してるからもっとデカいかも 魏志倭人伝によれば九州北部は伊都国や奴国
邪馬台国はさらにそこを通り過ぎて水行陸行した先と書いてあるから
邪馬台国は九州にはなかった事は確実 >>873
7万戸の大国があったは、大河 大吉野川流域一択。 @阿波 >>875
さらにそこを通り過ぎて、なんてどこにも書いてない 魏の里を使うなら、
マリアナ諸島かパプアニューギニアだろ。 >>877
行程は九州に一旦上陸した後水行して投馬国に向かっているよ >>873
真南というわけじゃないだろ
糸島市の南側といえば
例えば佐賀市があるが
23万人も人口あるじゃないか?
土地の広さ的にはそれくらいの戸数ある平地はそこら中にある >>878
またパプアニューギニア説か
短里の中里の考えることはない
魏志倭人伝の陸路百里を1ヒミコとする
マツロ国からイト国まで5ヒミコ
イト国から奴国までが1ヒミコだ
邪馬台国まで、残り14ヒミコ >>873
世帯数が7万だろ?
> また、世帯数は 302,109 世帯となり、国勢調査結果として初めて 30 万世帯を超えた。
前回の平成 22 年国勢調査 世帯数 295,038 世帯と比べると、7,071 世帯(2.40%)の増加となっている。
佐賀県の世帯数は全国 44 位である。
過疎の佐賀でその30倍今いる >>879
距離と国名を書いてる箇所はそうだな
途中で所要日数に変わったのには意味がある 魏志倭人伝は時代もバラバラ、場所もバラバラの情報をかき集めてきて
ジグソーパズルのようにごちゃごちゃに繋ぎ合わせて書かれてる
たとえば刺史なんか魏晋時代ではなく漢の時代の話だし
里数の資料と日数の資料を無理矢理つなげるような乱暴な記述になっている
公孫氏が倒されたおかげで東夷のことがわかるようになったので
その東夷の国の詳細を記すことにすると序文にあるわけで
司馬懿の功績を強調するために手当たり次第に水増しして書かれたのが倭人伝
世界の果ての遠くの礼儀に厚い大国が朝貢してこれたのは司馬懿のおかげ
という筋立てになっている
それで西域の大月氏国と
盛りに盛られた東の果ての邪馬台国の2カ国だけが金印を貰えたわけだ >>873
イト国の南って、まさに吉野ヶ里なのだが >>873
だから陸行水行してからつくんでしょ。
最大級のお墓がある宮崎県に。 >>876
吉野川流域だけで7万戸は無理すぎるでしょ、ちゃんと考えて書き込むべし 魏志には千余戸と書かれてる伊都国も、魏略には戸万余と書かれてる
そのくらい適当な数字
大月氏が10万戸だから、倭国の戸数もそれに張り合うように適当に水増ししただけ 宋書倭国伝
詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王
宋の順帝が武(雄略天皇?)を半島と倭の王と認めた
このとき倭国の中心は遺構から畿内だったと思われる
隋書
開皇二十年 ?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌 遣使詣闕
上令所司訪其風俗 使者言?王以天爲兄 以日爲弟
天未明時出聽政 跏趺坐
日出便停理務 云委我弟
高祖曰 此太無義理 於是訓令改之
開皇二十年に、大王(おおきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。
高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。
まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。
日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。
高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。
倭王は飛鳥にいて裴世清が隋の使者として飛鳥に来て
飛鳥で王に会ったことが隋書に記載されている
このように宋や隋の歴史書から倭王は畿内にいることがわかるけど
なぜかこのあとの旧唐書では別種扱いされて
新唐書では倭国と同一という使者の説明や
日本に改名したことに疑いを持たれる
古いほうの歴史書の方が広く広まっていたことと
読みやすさから唐にちゃんと伝わらなかったのかな
正史三国志はすごくシンプルで読みやすいんだよね
倭人伝以外も読めばわかるが裏をかく必要がない
2通り以上の解釈が必要ないわかりやすい書き方をしている
放射説とか無駄だというころが倭人伝以外の部分もちゃんと読めばわかる >>890
イト国が見栄はるならともかく、魏の使いは目撃してるのに、魏が見栄はってもしかたない >>889
畿内は遠すぎるよ。里数的に全くとどかない。
地形とかも合わない。東は海じゃないとね。
その他もろもろ、畿内説はありえなさすぎる。 「計算してみれば会計東冶の東になるだろう」も適当な記述だが
そこから中国南部の儋耳・朱崖の習俗に飛んでみたり
山海経あたりから東南大海中の妖怪の国を付け加えてみたり
デタラメにかき集めてつなぎ合わせたのが倭人伝 魏志倭人伝の国の配置は連続説でいい
これは正史三国志の全文を読めばわかる
陳寿の書き方はシンプルオンリー >>861
ヤマトの意志→植民地
クダラの意志→失敗したなぁ… >>251
これが真実だな
軍師連盟見てたら曹真と司馬懿の関係はすごいわかるしw >>880
>土地の広さ的にはそれくらいの戸数ある平地はそこら中にある
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内が、「平地」云々をいくら言ったところで屁のツッパリにもならない! @阿波 >>894
南に万二千里すすめば九州
陳寿の認識では会稽東治の東も九州
矛盾はない >>892
見栄を張ったのは司馬懿
司馬懿が自分の功績を大きく見せるためにデタラメ報告したせいで
たまたま燕の公孫淵に朝貢しに来て帯方郡で足止めくらってた邪馬台国の使節が
洛陽まで連れて行かれてしまい金印を貰うようなハメになってしまった 司馬懿自体孔明から空城の計や死せる孔明生ける仲達を走らすとか
存在しない敵に翻弄されてたからな
同じ策を曹一族に仕向けるのも分かるわ 古の都は「筑紫城」だと古来謳われている
それが「大和」となんらかの系譜でつながっているのも必然
しかし中国の属国であることは認めたくないという歴史観のねじれは生じる
そもそもに「邪馬台国」とは日本側で自認していた名称ではない
それをどこに措定しようが日本人側で想定すべきではない(それを答えにするべきではない)
あくまで、
「中国人がどこを邪馬台国とみなしていたか?」が歴史的に正しい唯一の解答になる 魏志倭人伝の著作者は主に3つ
・魏の都洛陽で魏の皇帝とのやり取りや朝貢や返礼の物品の記録 信憑性高
・240年?に伊都国に来た一人目の帯方郡の使者梯儁 まじめ
・249年?に伊都国に来た二人目の帯方郡の使者張政 アピール上手
266年以降に陳寿は著作者の違うこれらをまとめて魏志倭人伝とした >>888
>吉野川流域だけで7万戸は無理すぎるでしょ、ちゃんと考えて書き込むべし
あほんだら! 碌な弥生後期集落遺跡もない分際で、ほざくな! @阿波 >>900
親魏倭王の称号は、援軍や貢ぎ物のおかげだから、人口の見栄を張る必要はない
そもそも、イト国1国だけ盛ったところで、総勢30国の女王国連合全体の勢力に大差ない >>893
そもそも邪馬台国は帯方郡から南に1万2千里と書いてる
なら九州は近すぎるね 秀吉時代の宗氏がやってたような事を、卑弥呼の時代にもやってたって事な 伊勢神宮が、
内宮と外宮に分けて祀ってあることから理由は察しろ >>906
倭面土国王師升は後漢に奴隷160人を貢いだのに
邪馬台国卑弥呼はたったの奴隷10人に布を少々
えれー規模の小さい朝貢なのだった >>899
やっぱりパプアニューギニアか
中国の郡の場所も知らんのか 梯儁は文体を変えないことが連続する国の説明を読めばわかる
張政は先輩梯儁の文型を真似しつつ文体を変えて読み物として変化をつけてる
陳寿が文章をできるだけ変えずに記録したことで使者の性格が読み取れる
これは日本人なら原文をみてわかるはず 漢字だから お前ら卑弥呼は日向国の生まれ(ひみこ=ひむか)
。
台与がとよなら彼女は豊の国(豊前豊後国、今の福岡大分)
の生まれ。
壱与がいよなら伊予の国(今の愛媛)の生まれ。
よって九州。 聖明王は、
「昔、我が先祖である速古王、貴首王の世に、安羅、加羅、卓淳の旱岐らが、←これ、可汗じゃないの?
初めて使者を遣わして、相通じ親交を結んでいた。
任那日本府も可汗使ってた? 中国の都合で誇張された架空の国に翻弄される日本人
なんというか学習しない国だなww >>907
まったく。
九州上陸までに1万2千里の大部分を使っているんだよ。
九州中央部くらいまでで1万2千里全部使ってしまう。
宮崎県の上端に達するかな、くらい。 >>918
>九州上陸までに1万2千里の大部分を使っているんだよ。
九州に持ってくるための、苦し紛れの足し算。 @阿波 どこの場所にあったかどうか
不毛の争いする前に
正式な呼び方を日本の文献で探さないと
そこにないのがわかれば当時の中国の情勢から見て誇張された架空の国と姫だと気付く
議論すればするほど自分がアホだと主張してる間抜けAPPEALにしかなってない >吉野川流域だけで7万戸は無理すぎるでしょ、ちゃんと考えて書き込むべし
あほんだら! 碌な弥生後期集落遺跡もない分際で、ほざくな! @阿波 新唐書 東夷日本伝
其王姓阿?氏 自言初主號天御中主 至?瀲 凡三十二世 皆以 尊 爲號 居築紫城
?瀲子神武立 更以 天皇 爲號 徙治大和州
次曰綏靖 次安寧 次懿コ 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化
次崇神 次垂仁 次景行
次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曾孫女神功爲王
次應神 次仁コ 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略
次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安 次宣化
次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達
次用明 亦曰目多利思比孤 直隋開皇末 始與中國通
次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極
遣唐使は唐に倭国は元は筑紫城で32代王が続いて
神武が天皇と名乗ってヤマトを治めて
代々天皇が続いたことを説明してる >>919
なんでも呉を牽制する目的で
魏の同盟国、倭国を強大な国として宣伝していたとか言う説はあるよ >>922
いや、他との対比とかじゃなくて、吉野川流域だけで7万戸はどう考えても無理でしょ。 >>913
またアホだ
当時のシナが、現在のメルカトル図法の地図を持っていたと妄想してる >>926
訳わからん
パプアニューギニアの西に会稽東治ある? >>918
九州北部の国を全部通っても1万700里
九州北部の国は通り過ぎるという事だね >>927
デカい国だ!→すげえ金印やるよ!→実は揉めててさぁ→黄旗やるよ→卑弥呼死亡
このオチがまた >>928
畿内説は都合が悪くなると
1里400以上で計算して
パプアニューにギアになるから
距離はデタラメと言って卓袱台返しする
いつもの一種の思考停止のヒステリーだからw >>928
それは、現在のメルカトル図法の世界地図を見て言ってるだろう?
魏志倭人伝の時代にそんなものはなかった
せいぜいこんな認識だろう
https://m.imgur.com/57eH5g0.png 自国の歴史を海外の文献に頼るって
まさか日本人て自分たちで文字すら発明できなかったの? >>932
だったら九州辺りであってるんじゃないの >>931
まあ魏志倭人伝に書いてる邪馬台国の位置は現実的な場所じゃないからね
九州とも書いてない事も明らか >>935
帯方郡から万二千里も九州
会稽東治の東も九州だ >>919
曹家による簒奪後の権威付けの一つとして、海の向こうの倭国なる蛮族も魏に臣下の礼をとったってのを見せつけたかった でもいつの間にか滅び、大和朝廷の権力のもとに埋もれてしまった。 邪馬台国の現実的な場所の書いてない魏志倭人伝を
無理やり九州と書いてる事にしようとしているのが九州説
一方で邪馬台国の考古学的な痕跡は畿内から見つかっている >>940
まぁ歴史はそんなものだろう
ヤマト政権にしたところで、日向からの東征だ >>938
それならなんで都合の悪い事書くのよ
国内で揉めてたら助けられないだろ 奴国 板付遺跡
末盧国 宇木汲田遺跡
福岡市西区 吉武高木・吉武大石遺跡
築紫城についてだけど紀元前2世紀くらいからこれらがあったけど
紀元前2世紀にこれら以外の九州北部地域に王がいた形跡がない
そしてこの頃の遺跡からは実際に使われた形跡がある武器が見つかるので
九州北部は戦乱があったと思われる
なので九州北部が統一されたのは紀元前2世紀で
卑弥呼が筑紫から畿内に来たのが2世紀末
筑紫を300年以上は治めた可能性があるんだよな
32世の筑紫城の王というのも可能性としてはおかしなことではない
卑弥呼の治世は長いが戦争して男王が続いていたら
王になってからの寿命はあまり長くない >>937
帯方から南1万2千里は魏里だとパプアニューギニア辺り
会稽東治の東は沖縄とか台湾の辺り
どちらも九州にはならないね >>941
シナでは骨董屋からしか出てこないあり得ない年号の三角ナンチャラのことか?
それとも、馬具が見つかって殉葬者は出てこない箸墓のことか?
胡散臭さ満載だよな、畿内説は >>943
海の向こうの蛮族が滅びたってどうでも良いだろ
そいつらが臣下の礼を取って貢物を持ってきたことが重要なんだから >>945
中国ある郡の場所を間違えたのか?
1万2千里は分かったる事だよな >>945
マツロ国からイト国までが5百里
イト国から奴国までが百里の計算だぞ
残り1400里
どうあがいても九州は出られない >>946
三角縁神獣鏡だけじゃなくて
畿内からは卑弥呼のいた頃の魏の年号の入った
画文帯神獣鏡も見つかっている
>>949
邪馬台国の位置は会稽東治の東
現代の位置に直すと福建省福州市の東で
沖縄とか台湾のあたりと書いている >>947
だったら何の役にも立たん
援軍が来るかもと思わせて牽制する為でしょ >>940
卑弥呼が死んだのがデカかったな
大婆様ならカリスマはあっただろうが13の小娘はただの傀儡にしかならんし
求心力はいつまでも持たずに空中分解するのは目に見えてる
そんな時に東から出雲や吉備を従えたデカい国が侵略してきたら
九州の女王国連合なんてひとたまりもないだろう
九州北部の国々はさっさと畿内勢力に鞍替えして筑紫国となり
恭順しなかった旧女王国勢は土蜘蛛として討伐されてしまいましたとさ >>945
万二千里はマツロ国からイト国を五百と数えるスケールな
会稽東治の東はこちら
https://m.imgur.com/57eH5g0.png
完全に九州だな 戦乱の世では権力や武力がある
年長者が王になる実力主義で選ばれると思うんだよ
だから王になってからの治世はあまり長くない
治世が10年くらいだとしたら300年以上の間に32代変わったとしても
矛盾はないってことね
>凡三十二世 皆以尊為號 居筑紫城 >>950
あり得ない年号の入ったパチモンとセットだろ
国産だな 会稽東治は5000qも離れた所にあると思ってたのか >>925
>いや、他との対比とかじゃなくて
まさに、対比の問題だろうがよ。 吉野川流域以外にどこにあるってんだ? 言ってみろ! @阿波 >>941
>一方で邪馬台国の考古学的な痕跡は畿内から見つかっている
いくら連呼しても、「阿波」が存在する限り、無駄。 @阿波 2世紀に平原遺跡の巫女女王を支えたであろう
佐賀市七ヶ瀬遺跡の発見は画期的だったと思うよ
2世紀に伊都国の女王は巫女で共立の王ぽい立場だったんじゃないか
そして七ヶ瀬遺跡と祇園山遺跡の王は平野部で武力を持って
狗奴国の攻撃から伊都国を守っていたと思われる
この九州ですでにあった共立システムを広域に拡大させたのが
卑弥呼のヤマト国での共立の王だったんじゃないか 会稽は春秋呉の都で現在の蘇州。
三国志呉の都は建業(南京) >いや、他との対比とかじゃなくて
まさに、対比の問題だろうがよ。 吉野川流域以外にどこにあるってんだ? 言ってみろ! @阿波 佐賀市七ヶ瀬遺跡の発見は2世紀の九州北部で
ヤマト王権に通じる統治システムがあった可能性を感じさせるんよ
出てきた鉄の大刀はでかくて王にふさわしいが
それよりも上の存在が当時あった 伊都国の巫女女王
そうなればこれって天皇と豪族の関係と似てる 九州の王は記録に残ってないだけで
定説を覆すほどのかなりしっかりした統治システムを構築していたんじゃないか
武士が台頭するまでの千年の長期に渡って
戦乱があまりない世を作った統治システムが
九州北部から始まった可能性がある
荘園制度とか貴族のドロドロはあったけどね >>806
その新聞記事の内容を曲解して、架空の畿内説主張を捏造してるのがバカ九州説信者だ 5chの畿内説信者は奈良の東に海を渡ると伊豆諸島があると主張してたぞ >>953
魏志倭人伝の邪馬台国の行程は九州を通り過ぎて南に水行陸行
沖縄辺りにあると書いてる
九州の北部あたりの国は伊都国や奴国と魏志倭人伝に書かれてる >>955
魏で使われていた年号の入った鏡が畿内で見つかってる
国産としても魏と交流がなければ年号はわからない
そして畿内で見つかる銅鏡の成分分析結果は
魏の鏡に使われてるのと同じ銅で作られているという事がわかっている >>970
どこにもそんなこと書いてない
書いてるのは、帯方郡から万二千里
このうち九州上陸まで1万里使ってる
残り二千里のうち奴国までで6百里
残り千四百里、九州上陸後、邪馬台国の全行程のうち、奴国までで3割を消費してる計算だ
九州は出られない >>971
溶かしてカタに落として固めるだけならできた
成分が同じなのも当たり前
さらに、景初4年と実際にはない(景初は3年まで)年号まで見つかってるからパチモン確定 >>946
おまえ、ウソ捏造を止めたら死んでしまう病気なのか?
それとも、親の遺言でウソ捏造を続けろと頼まれたのか?
倫理観の欠片もないサイコパスで社会不適合者かもしれんが >>972
最後に書いてある不彌国までで1万700里
次には南に水行20日で投馬国と書いてるから九州から出てる >>973
国内で作られた銅製品は色んな銅を混ぜて造られるので
魏で造られた鏡とは成分が一致しない
畿内から見つかってる銅鏡には景初や正始元年と
改元も反映されているので畿内と魏には交流があった証拠
魏志倭人伝には景初3年や正始元年に卑弥呼が魏に使いを送った事が書いてあるので
畿内から見つかる銅鏡はその時のものという事が明らかになっている >>976
魏志倭人伝に書かれてるのは景初2年じゃなかったっけ?
明帝に謁見したと書かれてるが >>977
他文献では景初3年になってるので
景初2年は後年の12世紀になって魏志倭人伝が復刻された時に生じた誤記というのが定説 >>975
日程のところを続きで解釈するから、そこから先に出てくる場所のヒントがすべて矛盾してるんだよ
漢文というのは日本語と違って接続詞や主語が省略されることが多いので、文章全体を読んで解釈しないといけない。 奈良盆地の歴史の始まり
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 近畿開拓の歴史
『大阪府大園遺跡では5世紀中頃から6世紀までを中心とする100棟以上の掘立柱建物が、京都府森垣外遺跡では5世紀後半の掘立柱建物が119棟も見つかっています。
さらに、これらの集落には「大壁建物」もありました。
「大壁建物」とは、方形に掘った溝の中に互いに接するように立てた細い柱を、土で塗りこめて壁にした建物で、渡来系集団の住居と考えられています。
これらの集落では、朝鮮半島の土器に類似する「韓式系土器」も多く出土しており、渡来系集団との関係がうかがえます。
他に、滋賀県大津市周辺などの古墳時代に渡来系集団が多く住んだ地域でも、多数の大壁建物と掘立柱建物の集落がみつかっています。』 >>979
全体を読めば九州北部から南に船出して
投馬国に行って次が沖縄あたりの邪馬台国と書いてるよ >>974
事実しか書いてない
どの部分がウソか言ってみろよ
これだから畿内説は >>976
中国に残る記録から判明しているのは銅鏡100枚のみ
民間交流によって手に入れた可能性はあるだろうが、鏡以外の交流物が出てこないのは不自然過ぎるので
中国や半島から出土されるものとは特徴が違うので
客観的にみて魏鏡のほとんどは国内で流通していたと考えられる。
そういうことを無視して明らかだの、確定だの言うから畿内説ってもうそういう奴しかいないんだなと
バカにされているんだよ。 >>976
混ぜないで、原料そのまま使えば成分は同じだ
逆にいえば、シナ製だって混ぜたら成分は変わる >>986
だったら、帯方郡から万二千里と合わせて解釈するしかないな
これは書いてることなんだから >>972
>このうち九州上陸まで1万里使ってる
九州に持ってきたい為に、足し算するご都合説。 @阿波 >>987
畿内から見つかる銅鏡は魏のもので年号も入ってるから
畿内と魏に交流があったのは明らか
>>988
国内からは成分の違う鏡も出てる
けれど三角縁神獣鏡と魏の鏡は同じ成分
>>989
12世紀に復刻された魏志倭人伝より古い資料には景初3年
それらはだいたい古い魏志倭人伝を引用してるので
12世紀に復刻される前の魏志倭人伝には卑弥呼が魏に使いを送ったのは
景初3年と書いてあった事が判明している >>993
魏の年号はパチモンだった
卑弥呼の墓ってことにしたいから、箸墓の建造年はずらしたくない、でもそうすると出てきちゃいけない馬具が出てきてしまった
畿内説のジレンマだな >>996
纏向遺跡から出た馬具はまだ言い訳つくけど墓はどうしようもないな
後世墓から持ち去られる事はあっても副葬品が追加されるなんて事はまずない オカマでも服着ていないと寒いだろ…
と上着をかけてあげて >>855
だれが
邪馬台国=大和王権
と言っている?
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