【歴史】邪馬台国は“嘘”をついた? 「親魏倭王」の称号を手にした卑弥呼の狙い 奴国の海人が暗躍 ★3 [樽悶★]
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富を蓄えた北部九州に対抗するために、三世紀初頭の奈良盆地に人びとが集結し、ヤマト勢力が出現した。邪馬台国の卑弥呼は、勃興する強敵・ヤマト勢力に対抗するために、策を講じる――。邪馬台国こそ日本列島を代表する「ヤマト」である――卑弥呼は魏に対して嘘の報告をしたのだ。
■倭人の王の外交デビュー
『漢書』地理志(一世紀ごろ成立)に、弥生時代の日本の様子が記されている。
※省略
このころ、朝鮮半島南部の鉄を取りに、穢(わい)・倭・馬韓の人びとが群がっていたとあり、奴国の海人たちも、こぞって進出していたのだろう。そして、富を蓄えた上での、朝貢ということになる。
※省略
改めて確認しておくが、ヤマトの纒向(まきむく)に人びとが集まりはじめたのは3世紀初頭のことで、ヤマトが国の中心となったのは、3世紀半ばから4世紀にかけてのことだ(絶対年代は確定していない。幅がある)。また、邪馬台国がヤマトと同一かどうかは、ハッキリわかっていない。
邪馬台国は2世紀後半から3世紀にかけて日本のどこかに存在した倭国の首都だ。邪馬台国は倭国の王が住む国で、卑弥呼と台与(とよ=壱与〔いよ〕)の2人の女王が立てられたが、この間にも中国では、動乱が続き、勢力図はめまぐるしく変化していった。
西暦265年に、魏は晋(西晋)に変わり、280年に南方の呉が滅び、晋が国土を統一すると、翌年11月、倭人が来朝し、方物を献上している。王の名は記されていないが、卑弥呼の宗女・台与と思われる。
邪馬台国の2人の女王は、『日本書紀』に登場せず、中国側の史料に現れるだけだ。しかも台与は、このあと歴史からフェイドアウトしてしまう。行方がわからないのだ。ここにも大きな謎が隠されている。
倭国は北部九州と考えた方が理にかなっている。拙著『ヤマト王権と古代史十大事件』(PHP文庫)の中で述べたように、邪馬台国は北部九州の山門県(やまとのあがた:福岡県みやま市)にあったと思う。
奈良盆地にヤマトが出現したのは、富を蓄えた北部九州に対抗するためで、多くの人びとがヤマトに集結した。逆に窮地に立たされた北部九州は、朝鮮半島に進出してきた魏に、すばやく使者を送り、「われわれが日本列島を代表する邪馬台国(ヤマト)」と偽りの報告をして、卑弥呼は「親魏倭王」の称号を獲得してしまったのだろう。
江戸時代に本居宣長が唱えた「邪馬台国偽僭(ぎせん)説」の考えに近い。本居宣長は、「天皇が中国にへりくだるはずがない」という発想から偽僭説を思い浮かべたが、そうではなく、虎の威を借りることで、ヤマトを牽制する目的があったのだろう。親魏倭王のヒミコを倒せば、ヤマトは魏の敵になる。
また、この時北部九州は一枚岩ではなく、沿岸部の奴国と西隣の伊都国(いとこく・福岡県糸島市と福岡市西区の旧怡土郡)は、それぞれがヤマトと邪馬台国、別々の勢力と通じていたと思われる。
奴国はヤマトと手を組み、伊都国は邪馬台国と魏の間をとりもったのだろう。考古学は三世紀初頭にヤマトや山陰勢力が奴国周辺に押しかけていたことを突きとめているが、奴国はヤマトを北部九州に誘い入れた人たちだ。
※省略
北部九州は朝鮮半島の鉄を大量に入手することで栄えた。もちろん、鉄の代償となる何かを輸出していただろう。
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。
ならばこのあと、ヤマトと邪馬台国の関係はどうなったのだろう。
※省略
ただ、勝利を収めたのはヤマトだったこと、邪馬台国にしろヤマト建国にしろ、九州を中心とした海人たちが暗躍し、鍵を握っていたということは間違いない。(続きはソース)
関裕二(歴史作家)
7/31(土) 11:52配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210731-00010000-php_s-bus_all
★1:2021/08/02(月) 22:34:00.47
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1628055106/ やっぱ九州説だわな
東や南にしか進まないのに畿内説は成り立たないよ >>1
46無番長 2021/02/16(火) 15:32:45.34 ID:
アニキが在日で部屋住み時代によく聞かせられた話だったが、アニキは朝鮮学校出てた。
昭和30年代から40年年代初めあたりだが3日に1度は女さらって犯してたと自慢してたぞ。何度か警察につかまりそうになったが、傷害以外では捕まらなかったそうだ。犯したら必ず顔を変形するまで殴るそうだ。そうすると覚えていないという。本当かどうか知らんけど。
とにかく気持ち悪いアニキだったな。結局、女二人をシャブ漬けにして金引っ張ってたので捕まってどうなったか知らん。俺も部屋住み逃げ出したから。
朝鮮学校時代には警察に捕まっても職員総出で警察に抗議していけば釈放されるんだってよ。 関裕二
歴史評論家
武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー
千葉県柏市生まれ
仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』でデビュー、以後古代をテーマに執筆活動を続けている
民間の歴史研究家である
またその史観は、市井において賛否両論ある
※ただの門外漢の作文です https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=%C3%96t%20t%C3%B6r%C3%B6k%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%C3%B6t%20d%C3%B6g%C3%B6ny%C3%B6z%20%C3%B6r%C3%B6k%C3%B6s%20%C3%B6r%C3%B6m%C3%B6k%20k%C3%B6z%C3%B6tt.%20%C3%96t%20t%C3%B6r%C3%B6k%20%C3%B6rd%C3%B6g%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%20%C3%B6rd%C3%B6g%C3%B6t%20d%C3%B6g%C3%B6ny%C3%B6z%20%C3%B6r%C3%B6k%C3%B6s%20%C3%B6r%C3%B6m%C3%B6k%20k%C3%B6z%C3%B6tt.%20Szerb%20h%C3%BAsz%2C%20%C3%B6t%20cseh%2C%20%C3%B6t%20t%C3%B6r%C3%B6k%2C%20%C3%B6t%20g%C3%B6r%C3%B6g%20h%C3%A1ny%20ember%3F&op=translate
そうかりかり
するなってw🗣 古代史は何を言っても許される。お気楽な商売ですなぁ。 約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』の記載
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる。
↑
もうこれが全て。
九州以外あり得ない。
議論不要。
ちなみに、約280年ごろに書かれた魏志倭人伝は、魚カンの『魏略』や『広志』を一部丸パクリしています。 オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らへん!!知ったことかいな!! 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に刺史についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、
「南至投馬国」部分の竹簡を加えてしまったのだろう。 >>5
コピーにレスも何だが、古代史スレに朝鮮人は関係ないからな
シベリアで石器狩猟生活をしていた朝鮮民族が半島へ南下してきたのは早くても中世以降
中世国家の高麗ですら朝鮮人の直接の祖とは言い切れない 日本がシャーマニズム統治だった頃に中国では三国志だもんな
物凄い文明の差を感じる 陸路の場合は直線距離じゃなくて当時のくねくね道で計算しなよ
直線で100kmでも移動は200kmくらいになるだろ オモシロ九州説まとめ
Q:対海國は絶海の孤島と書かれてますけど対馬なんですか?
A:たぶん
Q:対海國は対馬国だそうですね
A:たぶん
Q:一大国は壱岐なんですか?
A:たぶん
Q:一大国は一支国だそうですね?
A:たぶん
Q:糸島のどこに王の痕跡があるのですか?
A:・・・
Q:漢委奴国王が朝貢した立派な港があるはずなのに、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えないところに上陸するのはなぜですか?
A:・・・
Q:九州の遺跡や出土品は、漢委奴国王のモノではないのですか?
A:・・・
Q:地元の文化財担当者は厳しい見方を示していますが、本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:「細かいことは言わないで。古代史はロマンですから」(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:古代史はロマン!!ロマン!!ロマン!! >>1
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
このように日本の史書を読めばすぐに気づくはずのことに気づけない畿内説派のほうこそ
日本の歴史を軽視しているのである >>20
対馬と壱岐ではないと言い張ってる奴なんてほとんどいないだろ >>18
まあ孔明もいろいろ怪しい術を使ってるじゃん? 邪馬台国九州説の端緒は、万世一系の神の国である朝廷が、大陸に朝貢を行っていた筈がない、
今は滅んだ朝廷とは無関係の国が有ったに違いない、という政治的な主張なんだけどね。
まあ、どこに有ったか判明しないほうが、みんながあーだこーだネタにできるのでそれでいいけど。 >>22
九州にあるという九州説者が言い始めてるぞ
つまり、この記事にある行程は、邪馬台国と朝鮮半島をつなぐ最大のルートだったはずで、それにもかかわらず、交易の道が「本当に歩けるのか」と訝しむほどであるはずがない。ここに大きな意味が隠されている。
伊都国と奴国は、「海の道」の終着点となる天然の良港を備えていたから栄えたのだ。とすれば、末盧国から伊都国まで魏の使者を歩かさなければならない特別な理由があったと考えねばならない。
答えは簡単だと思う。邪馬台国と伊都国は、ヤマトに通じていた奴国に、魏の使者の到来を悟られてはならなかったのだろう。奴国は海人の国でもあり、奴国の海人たちは伊都国や末盧国の近辺を普段から船に乗って往来していただろう。だから、魏の使者を船に乗せて末盧国から伊都国に連れて来れば、見つかってしまう恐れもあったのだ。 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずで、
邪馬台国を伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は九州であると結論づけている。 四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。
卓淳の王、末錦旱岐マキンカンキ?が、斯摩宿禰に、
「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、我らを遣わして、その国に行かせた。もし、よく我々に道を教えて、通わせて頂けば、我が王は深く君を徳とするでしょう』と。
そのとき、久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。しかし、まだ交通が開けていないので、その道が分らない。海路は遠く波は険しい。大船に乗れば何とか通うことができるだろう。途中に中継所があったとしても、叶わぬことである』 >>21
それもあるが、魏志倭人伝によると卑弥呼の時代240年ごろに日本には、牛も馬もいなかったとある。
ところが、纏向では馬具の鎧(あぶみ)が出土した。
日本が馬を輸入したのは、391年の倭・高句麗戦争の時に、高句麗の騎馬の戦法を見てから、「これはすごい」と思って、391年以降に馬を日本に入れた。
よって、馬具が出土する纏向は卑弥呼の墓ではない。 >>18
卑彌呼は統治していない。君臨してただけ。
魏志倭人伝を注意深く読めば、邪馬台は倭国大乱で負け
覇権放棄の証として女王=剣を持たぬ王を擁立している。
大乱は、教科書にある様な、邪馬台内の三十数カ国の
内乱に非ず。列島の大乱だという事も読み取れる。
邪馬台を下した列島の新覇権国の「大倭」もちゃんと
魏志に登場している。正体を偽装しているがね。
邪馬台の交易港(博多港)をしっかりと押さえている。 ゴミみたいな観光資源のトコには大概「邪馬台国ニダ」って書いてある。
久しぶりに「大和撫子タマの腰」が見たくなった >>31
https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=zh-CN&tl=ja&text=%E5%8D%93%E6%B7%B3&op=translate
チョー チュウェン 倭人は、391年の倭・高句麗戦争で騎馬隊がおらず、歩兵だけだったことが、高句麗や中国の史書からも判明している。 1里が435mで伊都国は糸島でとか言ってる奴理解不能なんだけど
そいつの中でどう整合性取ってるの? ヤマタイコクとヤマトがたまたま語感が似てたもんだから、変に連続性があるという思い込みが生まれそこから抜け出せなくなってしまう奴がいるんだろうな >>39
そもそも、ヤマタイコクという名前の国はなかったと考えて良い。
なぜなら、最初に邪馬台国らしきものが登場するのは、約266年頃に書かれた郭義恭の『広志』であるが、そこには、邪馬嘉國と書いてある。
約280年頃に書かれた陳寿の『魏志倭人伝』では、邪馬壱國(日本発音→ヤマイチ、中国発音→シェイマーイ)
初めて、邪馬臺國(臺は台の旧字体)が登場するのは、432年に范嘩が書いた『後漢書倭伝』である。 卑弥呼の正体はやまたのおろち
やっとの思いで2回倒した >>33
馬の骨なんか、もっともっと昔から出土してるよ。
野良馬 >>39
もっと言うと、魏志倭人伝の記述が
魏の版図自慢用のファンタジーで、曖昧な情報を元に捏造してたのを普が書き直したダケなのに
「オラが村が邪馬台国」連中がヤマトにこじつけたって線が、最も信憑性が高くなる。
だからこそ日本側に卑弥呼云々の記録が無いし、隋書の以下の記述どおり。
「倭国はヤマトに都する。即ち魏志倭人伝にある、いわゆる邪馬台国なるモノなり」 >>42
邪馬台国に馬はいない
纏向ハズレ確定だな
其地無牛馬虎豹羊鵲 391年の倭・高句麗戦争では倭人には騎馬隊がなく、歩兵しかいなかったことが高句麗、中国側に記録されている。
日本には、馬はいなかった。
ちなみに、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、アメリカ大陸には馬はいなかった。
たまに、「コロンブスの前からいたー。骨があった。オーパーツだー」とほざく奴がいるが、アメリカ大陸先住民は誰も馬に乗ってなどいなかった。 残念ながら邪馬台国畿内説は考古学者から見放された。 >>15
それだよなよな
魏志倭人伝は司馬懿の手柄を誇張するために
「司馬懿のおかげで判明した東夷の国の詳細」を盛り盛り書いている
そのため、魏の時代ではない情報や繋がりのない情報が
あちこちの資料から切り貼りされて唐突に挿入されている
例えば、刺史は行政官(魏)のはずが監察官(漢)になっていたり
魏略では伊都国は万余戸とあるのに魏志では千余戸になっていたりする
翰苑(廣誌)では伊都国の次が邪馬嘉(臺)国となっているが
魏志では里数の資料とは別の、日数の資料の情報が挿入されている
また対馬、末盧、伊都、奴と戸数なのに、一支と不弥は「家」数になっていたり
その記述は常に一貫性を欠きつづけていると言っても過言ではない
ので、末盧国の描写「草木がぼうぼうで前を歩く人が見えない」も
いつの時代の話なのか分からない 魏志倭人伝くらいにしか記述がない邪馬台国を調べるなんて
資料が無さすぎて研究のしようがない
そんなもんに誰が研究費を出すかね?
という事で邪馬台国を研究する学者などいなくなったわけだよ >>47>>49
国立歴史民俗博物館
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c
大多数の考古学者は大和説です
大多数の考古学者は大和説です
大多数の考古学者は大和説です
邪馬台国畿内説は否定証明済み
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿、吉備、出雲などの諸勢力が割拠していて
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な定説で、否定するものなど誰も居ない。
ところが邪馬台国の命令で北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり近畿に邪馬台国があったと主張することは
近畿は自分の周辺国すら軍事的に統括出来ずに居たのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、最早学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないファンタジー。
はい、完全論破w
>>50
あぁ、そいつはゴッドハンドの共犯者じゃんwww
で、
・これは、たとえば卑弥呼がもらった金印が出てもだめで(後からよそに動かされる可能性があるから)、邪馬台国
の位置を書いた地図が中国で出ない限り、万人を納得させるのは難しいでしょう。
とか書かれてるのにそういう部分を引用しない時点で
お前はクズだという事がよくわかる 日本史
京都大学 畿内説
東京大学 北九州説
東洋史
魏王朝内部の権力争い
司馬仲達 邪馬台国 呉攻撃の同盟国 魏志には呉を攻撃しやすい場所に書かれた
曹爽 大月氏 蜀攻撃の同盟国 >>50
それがあの有名な「近畿では鉄が溶けやすいんですキリッ」のとこw >>55
それは馬ではない。
馬ではない生物を馬と言ってはいけない。 猿は人間から進化したのではなく、猿のような生物から、猿と人間に分かれたのである。 日本も沖縄も統一前は自分らの正統性裏付けに支那皇帝に朝貢するのは別に不思議じゃないな。
国内に絶対手に権力がないんだから オランウータンは見つけたらすぐ動物園行き。
ネアンデルタール人は、動物園に入れられないでしょう。
北京原人は微妙だ。
動物園へ!という人もいれば、動物園に入れたらダメだろという人もいると思う。 >>57
年代測定していないだけで、馬だろうけど…
北朝鮮じゃあるまいし 箸墓から馬具出土
邪馬台国に馬はいません
さよなら畿内説 朝鮮半島ですらこの時代の歴史や国がわかってるのに
ジャップ… プッ 実際にあったかどうかすら分からん国に勝手に誇り感じて
「おらがくにを中国様が認めてくださっただ!」と喚いてる邪馬台国論争参加者って
世界の中でも一番惨めな人種だなw いち早く金印を獲得し、いち早く絶縁(日出処天子)してるわけだ
距離的にはずっと近いはずの、どっかの国と違ってな 考古学って、適当だよな。
古畑任三郎で一番面白いのは、動機の鑑定。
春峯堂のご主人が、「慶長の壺」を見つけたから、展覧会に展示する、しかも本物と鑑定されたというが、
人間国宝の老人が「ろくな鑑定家がおらんちゅうことですな」と言う。
春峯堂のご主人が、「どういうことだ!」と言うと、
老人は「それは私が作ったものだ。ほら私が作ってる写真だ見てみろ」と。
で、殺される。
★慶長時代は、今から400年前 >>53
佐原氏が存命なら名誉毀損で訴えられる悪質な書き込み
学者や考古学者についての話題なのに、一般人が納得するかどうかの部分を引用しなかったと文句をつけるのは論点をずらした難癖
悪質な書き込みがあったと歴博にも通報しておこう >>70
この程度で名誉毀損罪が成立するわけがない。
逆に、名誉毀損罪で訴えられるという書き込みが、脅迫罪に抵触するかもな。 >>66
そうとも、限らないか。
有気音と無気音の違いで単語を区別する言語だったとしか。 >>67
お前がそういうスタンスで参加していたから
それしか思いつかないだけだろ
オレは九州とは縁のゆかりもない関東人だぞ
ただ単に素直に考察すると九州説になっていっただけだぞ
あとは畿内説論があまりに無理やりで、必死だから煽るのが面白いだけだw 四大文明と比べちゃだめだぞ
記録媒体ないんだからみんな妄想でいいんだよ、どうせ立証なんてできないんだから >>78
男は子どもも大人も顔に入れ墨を入れていると記述されているので
朝鮮半島由来じゃなくて、南方の海洋民族由来といわれている
なんでも倭人は呉をつくった太白の子孫だという伝説?か何かあるんだよ >>67
高校生。
みんなは外で遊んでるし、セクロスもしてるぞ >>1
邪・倭・卑なんて悪意のある漢字、どの國の誰が付けたの? >>78
逆じゃないかなあ。ヤマトが渡来人の国(ナラ)。遺伝子的にも。 >>69
春峰堂つうか、その手下のハゲな
春峰堂すら見抜けない代物
そして400年前の慶長年間のツボなんぞより、
贋作である人間国宝の作ったツボの方が価値が高い、と
真作の慶長のツボで殴るんだわ
あれはコロンボの「別れのワイン」並の名話
そうそう、あんた、考古学をテキトーなもんだとおっしゃってる
テキトーで済むならね、
あんたの人生その程度のもんってこってす 馬、在来種でググったら
日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し、対馬・九州に家畜馬として導入した蒙古系馬にある[1][2]。倭・高句麗戦争の直後に当たり、倭(および朝鮮半島の協力勢力)の政策により日本で騎馬・軍馬の導入育成を始めた。この時代の馬骨や馬歯、馬具が考古遺跡から出土しており、適地を求めて現在の関東地方(群馬、千葉)や東北地方にまで急速に飼育が広がり[3][4]、日本は産馬の地となった。
って出てきた。
本当に高句麗と戦争後に輸入したものが日本の在来種の馬じゃん
纒向遺跡から馬具が出てきたってことは、邪馬台国じゃないって確定じゃないかよw エヴェンキが来る迄南朝鮮半島はヤマト勢力下に有った訳だし誰と取り引きしてたんだろう、歴史考察は其処が抜けてて良く分からん、
しかも何かを輸出して取り引きしてたとか超適当だし、そんなに鉄を輸出してたら超軍事国家に成れたよw 全てを紐解く鍵は古地図である 年代が下った元の時代でさえ日本列島の地図は
東北地方が真上で九州が真下の南に描かれている なので倭人伝の説明の
南に陸路1ヶ月は東へということ つまりは奈良なのです >>993
>対馬の到着地と、壱岐への出発地は同じ場所なのか?
津島国(方400里、千戸)(対馬の上対馬町)
↓海渡1000里 (50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐の郷ノ浦町) @阿波 >>92
いや、もう流石に諦めろよ
畿内説は完全に詰みだよ
纒向から馬具が出たこと=この遺跡の年代は
高麗と戦争のあと、つまり391年よりも後の時代の遺跡ってこと
それとオレが計算したもの
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる
纒向は邪馬台国よりもかなり後になってできた宮だということ あたまおかしい糞ウヨがやたらエベンキ族を馬鹿にするが
遺伝子的にいえば朝鮮人はエベンキどころか日本人とほぼ同じだからな
エベンキ族と朝鮮人は遺伝子的にはむしろ遠いくらいだ いつも思うんだがこういう超昔の事をあーだったこうだったと妄想作り上げるこの業界って本当無駄だよな。ずっと雲をつかもうとしてる繰り返しw
本当に卑弥呼が居たのかすら疑わなければならないしその時代に何をしてたのか時系列も憶測妄想でしかなく、その当時まで戻れない以上は確かめようも無いんだから他の生産性のある研究に時間労力使えばいいのにと毎日思うw >>92
ところが、1140年頃の『古今華夷区域総要図』では、朝鮮半島の下に「倭奴」があって、その下に「日本」がある。
つまり、邪馬台国に引きずられて、九州と畿内がごちゃごちゃになって、地図を描く人、歴史書を書く人の間でも人によって色んな考えがあったというだけ。 >>97 エヴェンキも目は2つだしな。
遺伝子は似てる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています