【邪馬台国】纒向遺跡「古代都市」裏付け、外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備など ★2 [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(桜井市)の「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果、他地域から運ばれた外来系のものが全体の10%近くを占めることが分かった。胎土を分析するとより増える可能性がある。同遺跡が幅広い地域と結びついた古代の「都市」がったことが改めて裏付けられた。
纒向遺跡では東海や北陸、関東など広範囲の外来系土器が出土しており、その割合はこれまで15〜30%前後とされてきた。
巻野内家ツラ地区は纒向遺跡の北東部に位置。大型建物群(3世紀前半〜中ごろ)が確認されている「辻地区」に続く、3世紀後半の中枢部とされる。昭和62年に導水施設が見つり、水を用いた祭祀(し)の場だったと考えられている。
桜井市教委文化財課の橋本輝彦課長は、平成8年度に巻野内家ツラ地区の溝から出土した土器を分析。土器の様式は「布留0式期」(3世紀後半)に位置付けられ、器種が確認できる口縁部の破片全1687点をカウントした。
その結果、全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が最も多く43%で、河内系13%、山陰系11%、近江系8%、吉備系7%などだった。阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
昭和51年刊行の纒向遺跡の報告書「纒向」では外来系土器の比率の多さと、搬入地域の広範囲性が指摘され、同遺跡が3世紀の日本列島において中心的な地だったことを示す特徴の一つとされてきた。
橋本課長は「(すべてを調査対象にする)悉皆(しっかい)的な調査だが、従来のデータと変わらない数値が得られた。研究も進み大和と他地域の関わりがより厳密に分かるようになってきており、アップデートする作業が重要になる」と話している。
分析の成果は、桜井市纒向学研究センターの紀要「纒向学研究第9号」に掲載された。
奈良新聞 2021.08.10
https://www.nara-np.co.jp/news/20210810090736.html
2021年8月10日 16:30
https://note.com/naranewspaper/n/n497963d6218b
★1:2021/08/13(金) 23:16:29.14
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1628864189/ その当時の古美術マニアがそこに住んでいたとかではないのか? 九州の影響がないなら邪馬台国とは別の大勢力の都市ということだろ
前後に邪馬台国と統合されるのかもしれんがそれは纒向遺跡ではない 要は東海から近畿、中国地方に跨る交易拠点が纒向にあったという事
邪馬台国?
九州北部の泡沫集団のことだよ 聞いたことない会社のパレットやカゴ車が、なぜかうちの倉庫にある 当時の東海は弥生人の領域か?
関東はまだ縄文人の領域のような気がするが 九州北部からは楽浪郡の土器と共に、吉備と東海の土器が大量に見つかっている
畿内の土器はないみたいやけどね
結局九州北部も奈良も東海と吉備の支配下にあったんじゃないか
九州北部を統治するのが一大卒
元々畿内の国、対狗奴国の前線基地が奈良の邪馬台国で纏向遺跡
狗奴国が強いので半世紀以上睨み合い、その間にいつの間にか邪馬台国の都機能が強化されたんだろう 魏志倭人伝の記述からの推定
狗邪韓国=巨済島
対馬国=対馬市
一支国=壱岐市
末廬国 =松浦市、糸島市西部
伊都国=糸島市南東部
奴国=早良区南部・那珂川市、春日市
不弥国=早良区北部
投馬国=朝鮮半島南部
邪馬壹国=北部九州地域
倭種=山口県
侏儒国=四国 邪馬台国が伊都国(北部九州)に一大率を置いて
北部九州を監視してたくらいだから、
北部九州の権限は制限されてたんでしょうね
祭祀用の土器の製作も許されなかった ヤマト政権の始まりは東征などではなく、西征でヤマトを支配下に置いた東海と西征で九州北部を支配下に置いた吉備が手を結んだことじゃないか >>1
纒向遺跡からは馬具やベニバナの花粉が出土していて
5世紀以降の遺跡だと分かってるのにな。 まーたネトウヨが発狂しちゃう事実が判明しちゃったw
クソジャップは韓国から文明を恵んでもらってたコジキなんだよねw 「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果 ニダ王国があったでござるw >>20
弥生人は西から来てる
もしそうだったとしても
最初は西から東への弥生人の流れがある
最初の西から東への拡拡散を東征というなら
その説は東征後の西征という事だな ムー大陸と同じ位 見つからないな
次のスレが立たないのが多くて退屈だ 3世紀後半、卑弥呼が亡くなり男王の内乱の後くらいに纏向遺跡から吉備系の土器が消えるんだよ
男王の時の内乱で、東海山陰勢と吉備は仲違いしたんじゃないか?
その後の吉備津彦の吉備攻めとかに繋がっていくのかもしれないね 当時の倭は朝鮮半島南部の投馬国と北部九州地域の邪馬壹国を中心とした海峡国家 前スレは畿内説が撃破され阿波説が良い混ぜ返しをしながら九州説の完勝でしたね >>1
それは邪馬台国ではなく
ヤマト王権だろ?
なんで邪馬台国でなければならないの? >>31
場所を特定できない、物的証拠もない、九州説は勝ちようがないw 魏志倭人伝当時婆さんだった卑弥呼がアマテラスのモデルなら、卑弥呼の次の男王はその1世代か2世代後の人物
ひょっとしたら卑弥呼の次の男王はニギハヤヒのモデルかもねえ つまり、邪馬台国の他に大きな勢力が機内で成長していたが、それは魏の使者には記録されなかったと。 租税として集めたものだよね
最終的には九州に運ばれる >>32
奈良(大倭)は魏志倭人伝に登場する倭国の支配者層の「大倭」に由来するとしか考えられない
魏志倭人伝は中国の正史の一部であり、当時から倭国でも最重要資料だったはずなので
九州などからあなたは大倭(倭の支配者)ですねと認められてたから、奈良は大倭と名乗れた >>33
それはどこも一緒ですわ。
九州にせよ機内にせよそれ以外にせよ、結局どこか確定できないのに勝利宣言してる奴ほんと痛いw >>12
近いのに文化が入ってこないなんて有り得ない >>16
末廬国 =福津市辺り・万津浦 わははははは @阿波 まとめ
1.邪馬台国は大和王権の前身で同じ地域で大和王権へ移行していった
2.邪馬台国と大和王権の為政者の血縁の有無は不明
3.邪馬台国の存在を歴史から抹消しなければならなかった >>39
畿内は特定できてるやん。纒向遺跡
古代の大王の古墳群や日本最古の神社も近くにあるから
信憑性は高い 纒向が関東、北陸、東海を統べていたのならそれは確実に倭国の盟主と言えるな >>36
>大きな勢力が機内で成長していたが
お前、目が曇ってるのか? @阿波 >>36
黥面文身で潜水するといった倭国の習俗から見て九州と思われ
そもそも魏の使者というか魏による倭国の指導係は九州に滞在したんでしょうね
畿内の勢力はよく分からない倭諸国の中に居るんでしょうね
崇神が次第に強大化するのは3世紀後半で魏の使者が来たときは大疫病の国難で右往左往してる地方政権の時期で
無理もないと思いますよ >>39
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 これで決定済み! @阿波 >>43
卑弥呼と邪馬台国は、魏に朝貢してたから日本の歴史から消されたんだろうけど
奈良が「大倭(魏志倭人伝で倭国の支配者層という意味)」を名乗ってたり
日本書紀では奈良の神功皇后紀に魏志倭人伝が引用されてたり
奈良が邪馬台国であることは、完全には消去はできなかったよ >>49
それは確かに九州の記述だろうけど
邪馬台国が九州の証拠にはならない、北部九州は邪馬台国(奈良)の領土だった可能性があるので 魏、つまり中国の三国志の頃って日本の位置は
朝鮮半島から見て南に延びているって思われてたらしいな
魏志倭人伝の記載を基に辿って行くと邪馬台国は近畿辺りになるそうだな >>53
「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 これで決定済み! @阿波 >>56
阿蘇山麓のベンガラということでそこは許してほしい >>44
阿波の方、古代スレでよくお見かけするw
まあ、阿波にも古代王朝が存在した可能性はある。
キーは忌部氏だな。 >>46
物証が弱い。
結局魏または晋の金印が見つからん限り延々続くんじゃねw >>54
東に倭種の国があると書いてあるし九州しか見て無かったかも知れん 普通に考えれば島根あたりか九州だよな
中国と朝鮮半島からの渡来人が大陸文化を伝えたんだし
船で来やすい場所を通り越して畿内とかまずありえんわ >>62
しょっちゅうひっくり返る考古学に
「確定」なんて概念は存在するの?
そりゃ見つけた本人はそう言いたいだろうがね >>57
卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは北部九州だからな 奈良から桜井に向かうJRの「マキムク〜」ってアナウンスが面白い >>64
考古学的には山陰と北部九州地域以外は候補から外れるよね
魏志倭人伝の記述から北部九州地域一択だな。 中国まで行き来してるのに日本国内で交流が無いなんて有り得ない
東北は生活するのに適さない土地であまり住んでなかっただけでしょ 2スレ目なのでちょっと遊びということでマルコポーロの元朝非到来説をちょっと紹介させてほしい
マルコポーロの口述で東方見聞録を書いたルスティケロは伝説収集のベストセラー作家でよく検討すると元朝の習俗がむちゃくちゃらしい
どうも単なる伝聞で実は黒海沿岸で貿易業で富豪になったマルコポーロの生家が中央アジア商人から獲た知識で書いたのではないかと
これは近年次第に有力化してる見解である
ところで魏志倭人伝は司馬懿直々の命令で倭国に滞在した魏使節の資料なので基本的に出鱈目は無いと思うが
逆に吉備奈良東海に関する習俗の記述もない
具体的な詳述は九州に限られ、他は何もないのである。つまり魏使節は九州から外には出ていないのではないかと。 >>73
張政等の魏使は伊都国までしか来ていないのは魏志倭人伝の記述からも明ら
しかも伊都国で卑弥呼や壱与と逢ってるな
当然、邪馬台国は北部九州地域だな。 畿内説の人は記紀を歴史書だと勘違いしている
記紀は歴史書風に書かれた神話の書
神話と史実は区別しないと。 >>1
>>全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が
最も多く43%で、
東海から纏向へはどういうルートを通って、どういう運搬手段を使って、どのくらいの人数で
どのくらいの日数で運ばれたのかが分からないとどうしようもなく説得力が無い。
一回の通常の運搬量はどのくらいだったのかも知りたい。
極端な話が、それは北九州を通じてやってきたものかもしれない。
こういうところが日本の現代の考古学の欠点ではないか?
つまり、物理的な具体性に欠け、表象的に過ぎる。
それは邪馬台国論争で魏志倭人伝の記述を頼りにする場合、どういう船に乗ってどういう
航海技術によってどういうルートで邪馬台国にやってきたのかを書かなければ意味がない。 >>57
>阿蘇山麓のベンガラということでそこは許してほしい
魏の皇帝が許してくれん。 @阿波 https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2FDSXZQO0730493018062021000000-1.png?w=600&h=402&auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&q=45&fit=crop&bg=FFFFFF&ixlib=js-1.4.1&s=0944a45f8586c9b26f1389f9fd79c614
船なら若狭湾より上陸して琵琶湖経由で畿内に入るルートですよ
若狭湾〜能登半島のエリアは渡来人が多い地域
渡来人の上陸拠点だったから渡来人が多い地域になったのだろう >>59
>キーは忌部氏だな。
キーは「忌部一族(阿波勢力)」だな。
「忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>78
「其山有丹」の丹が辰砂なら魏が水銀朱を倭に与えた意味が分からん
「其山有丹」の丹はベンガラで問題ないな。 >>67
卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。 @阿波 >>82
なんで中国産の朱が阿波産なの?
中国から貰ったってのは間違いってことかな >>73
>つまり魏使節は九州から外には出ていないのではないかと。
魏使節が九州から外に出ていようがいまいが、「阿波」と朝鮮半島はしょちゅう通交しているからw @阿波 >>85
>なんで中国産の朱が阿波産なの?
だれがそんなアホなこと言った? @阿波 天皇家が九州から命がけで大和国=邪馬台国=政治の中心を奪いに来た事実をみても
畿内説以外に考えられないだろ >>53
それは無い。
なぜなら、纏向政権の長、
彌馬升が邪馬台国では副長官だったと
魏志倭人伝に明記されているからだ。
四道将軍を本州一体に派遣して支配していた
纏向彌馬升政権を、副長官に任命する程の
力を持っていた勢力が逆に居たと言う事で、
御馬城崇神が九州に進出できなかったという
歴史の事実を含めて、
北部九州の邪馬台国が当時の日本の
支配者的立場だったと言っていいだろう。 >>88
天皇家(天孫族)が畿内に来たのはいつだろう
纒向遺跡の時代にはまだ来てなかった気がするが
根拠は無い 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。皆、徒跣。屋室有り。父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。中国の紛を用いるが如し。
食、飲には籩豆を用い、手食す。
というわけで黥面文身かつ朱丹を塗った裸足の異様な習俗であると
この朱丹はベンガラではないかなと思われるのだが
あと相当な温暖地でもありますね 纏向の外来土器の出土状況が、
四道将軍を派遣した範囲と一致する事で、
歴史の事実である事が確定したというのが、
纏向の発掘成果である。 邪馬台国は九州の小国だよ
そしてヤマト国に併合された >>91
天武が神武の墓にお参りしてるから
天武と神武の時代はそれ程離れていないと考えられるので
神武東征は5世紀くらいだと俺は考えてる。 >>91
卑弥呼の時代の天皇家は宮崎周辺の天照を祀る豪族にすぎなかったと思う
日本書紀や記紀では年代に矛盾するから卑弥呼は消された >>96
卑弥呼は倭姫命で、
長官伊支馬=活目=垂仁の娘であり、
丹波氏の娘ヒバヅメノヒメとの間に出来た娘を、
邪馬台国の女王にする力があったと言える。 倭国大乱は記紀で言う狭穂彦王の乱であり、
丹波氏の王子、狭穂彦が投馬国の
西都原古墳群の辺りに進出して、
宮崎市生目の生目氏との争いになった事であろう。
この投馬国の統一戦争を征した生目氏が、
宇佐の妻垣に進出して、
邪馬台国の王になろうとしたが上手く行かず、
丹波氏の娘と婚姻してその間に出来た
娘の姫命を女王にした顛末が、
邪馬台国の女王卑弥呼なのである。 畿内説だと無理くり編入した箸墓古墳の関係ですら崇神治世しかあり得ないのだが
崇神治世に魏使節が滞在した記録は無い
また崇神治世だとすると卑弥呼が死に男王を立て国大いに乱れ台与を立てたという史実も全くない
どう見ても辻褄が合わず卑弥呼と崇神は無関係と結論するしか無いのである 倭姫命は生目氏の娘であると同時に、
丹波氏の娘でもある。
結局丹波氏の娘が女王になったと言うことで、
折り合いがついたのだろう。 >>97
魏志倭人伝の年代通りだと箸墓古墳に眠ってる人こそが卑弥呼
でも記紀では矛盾するから天皇家の姫とされた
ただそれだけの話だと思うけど >>87
>>82
>>>67
>卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。 @阿波 >>101
その解釈は有り得ない。
なぜなら、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られたと考えられる、
邪馬台国の超重要拠点たる伊都國の平原遺跡が方墳であるからだ。
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を
権威の象徴とする政権たる
畿内説のロジックは完全崩壊したと言っていい。
考古学会でも、箸墓が卑弥呼の墓などと言う輩は居なくなるだろう。 >>99
時系列だと卑弥呼の後に内乱が起こって伊予?が何とか平定して
その後に衰退した邪馬台国を天皇家が奪い取ったということだろう
天皇家は邪馬台国を奪って消し去ったからもちろん崇神とは無関係だろ 古代に都市であったことは事実なんだろうが
それが邪馬台国なのかどうかはまだわからん >>103
魏志倭人伝の記録と箸墓古墳の年代は一致するから
被葬者が卑弥呼でなければ卑弥呼よりも巨大な権力をもつ
「女性」が同時期に存在したことになるぞ >>73
マルコポーロはシナに行ってない、は有力ではない。
その説で話題になった女研究家は、排斥された。
欧州でも学問の自由はありません。 >>106
もうちょっとオレの書き込みを読んでからレスしてくれないか? >>110
もうちょっと分かり易く書いて欲しい
魏志倭人伝にも卑弥呼の墓が方墳とは書かれてないし 四道将軍を派遣して本州一帯を支配しようが、
ソレが前方後円墳を作ろうが、
その力を持ってしても九州に進出できなかったという事実をもって、
北部九州にはそれを超える強大な勢力があった事が
歴史の事実として確定するのである。 >>73
下手すると朝鮮南部までで日本に来てないかもしれない
みな想像力がないから対馬海流を舐めすぎなんだよな
10世紀後の元寇ですら難破してる
倭人が当時の倭国であった朝鮮南部を通り帯方郡まで行って大陸への朝貢するのは考えられる
倭人は元々縄文だから縄文船を作り海洋を航海できた
逆に大陸の彼らに往来できる能力があったのかどうか大いに疑問 >>111
アナタは基本的な日本語の読解能力が欠如している様だ。
私はそもそも平原遺跡が卑弥呼の墓とは一言も書いていない。
なぜどうして私が一言書いてない事を
私が書いたことのようにして、私を批判する?
やり口が良くないぞ。 >>91
神武が東征した経路ってのは完全にわかってて
九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
ナガスネヒコに阻まれて、船で紀伊半島をぐるっとまわって纏向まで入ってきた。
で大阪の河内に行った時に今はない河口湖があって
その記述からだいたい紀元前後(2000年前)くらいじゃないかって言われてたな。 四道将軍は信じられないけど
魏志倭人伝は信じられる不思議
別冊に数行書かれてるだけで裏も取れてないのに
今の時代の論文でも嘘や捏造があるのに >>114
纏向の外来土器の範囲が、
崇神の派遣した四道将軍の範囲に
一致すると考える事ができない人間は、
日本の古代史を思考する素養は無い事を、
露呈してしまっているのに、
その浅はかさすら気が付く能力もない事を
さらけ出してしまっている。 >>116
百歩譲って東征があったとしても
東征とかそんな規模じゃないんだと思うよ
岡山にも数年滞在してるよね
戦闘で兄が死んだりと >>106
どの時期でも権力者一族に女性は含めれるだろうし
その女性が強い影響力をもつこともあるだろさ 東征って多分
本家がガタガタしてて、それに介入しようとした話じゃないかな >>115
平原遺跡が方墳だから前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓ではないという
解釈でいいのかな?色んな解釈があっていいと思うよ
自分は魏志倭人伝の年代(これは確実)と箸墓古墳の年代(これも確実)
記紀では被葬者が女性でかつ巫女である
これだけの一級資料をひっくり返す資料は難しいと思ってる 八百万のヤ、纏向のマ、東海のト 不思議な事にこの3地域の頭文字をつなげるとヤマトとなる、古代の造語能力ってこんな感じかも 纏向から出土した特殊器台埴輪、
桃の種、犬の骨、そして外来土器の範囲。
それらから、吉備出身の豪族御馬城が、
桃太郎伝説のある吉備津彦を引き連れて、
纏向に政権を樹立して、
本州各地に四道将軍を派遣した伝承は
考古学的に実証されたのだなと、
思考が巡らないのは、
日本の古代史を語るだけの能力に
著しく欠けていると言わざるを得ない。 >>120
俺も全然東征じゃないと思ってる。
多分、纏向に婿入り。
神武は日向の四男坊だから。政略結婚。
纏向も一枚岩じゃなくてナガスネヒコはそれに反対してた勢力。
だから途中で暗殺された。 後のモンゴル帝国軍ですら樺太を日本だと思ってないだろ?
もっと南方の国だと思ってる >>116
4〜5世紀までは残ってたみたいだから
卑弥呼の後の東征には全く矛盾しない 東海系って範囲が広すぎるだろ。
分類の地名見ていると、伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河・遠近江・駿河あたりまで入ってるのか? >>123
そんなものは最初からひっくり返っているのだが。
アナタは先ず日本語を理解しようとする努力をして欲しい。
畿内説による邪馬台国は権威の象徴として前方後円墳を築造する勢力なのに、
邪馬台国の超重要拠点の卑弥呼の時代の墓が、
前方後円墳でないのは、
畿内説の邪馬台国が権威の象徴として、
前方後円墳を作る勢力だったというロジックが
間違っている事を端的に示しているという日本語を
先ず理解しましょう。 箸墓古墳の年代は周辺土器と炭素14年代測定法により推測してるらしいが当然誤差はある
確実なんて言う奴はまず最初に振り落とすべきだろう
箸墓古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっているなんて”確実に”問題だろう
>(1)年代値を求めるときに、炭素14の半減期として、リビー博士が使った5568年という値を使うことが、
国際会議で決められています(Stuiver et al., 1977)。現在のところ、最も正しいと思われる半減期は、
5730±40年(Godwin, 1962)という値ですから、これだけでも3%の違いが出てきます。
3,520年が3,520×1.03=3,626年になるということです。100年も差が出てしまいます。
>(2)さらに厄介なことがあります。通常、大気中の二酸化炭素には炭素14から出来ているものが
全体のわずか1兆分の1だけ存在しています。炭素14年代値を算出するときには、
過去においても大気中の炭素14濃度が一定であったと仮定していますが、実はこの仮定は正しくありません。 >>129
記紀の記述だとちょうど河内潟がある時期じゃないかって
いわれててそれが3000前から2000前らしい。 >>127
そもそも神武が本当に主役だったのかね?結婚にしろ遠征にしろ主役は戦死した兄だったんじゃないのかな。
兄が死んでも諦めずに大和に入って、婿入りにしろ征服にしろ村レベルの領有に成功。
そうしたただの小豪族クラスだったのが、数百年後に子孫が大和朝廷樹立に成功したから、朧げな言い伝えをさかのぼって神武神格化じゃないのかな。 近畿説主張者は頭に障害がある人間
まともな知性のある人なら
九州説へと帰結するのが当然 >>131
卑弥呼の後の天皇家でさえ色んな形の古墳を作ってるのに
古墳の形だけで権力の繋がりを考えるのは危ういかも?
もう出かける そもそも、纏向から出土する紅花の花粉や馬具等、
明らかに、時代編年が間違っていると
言わざるを得ないことばかりだ。
そして、たとえ纏向の時代編年が正しかったとしても、
邪馬台国の超重要拠点の伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と時期を同じくする
平原遺跡の墓が、
方墳であることを持って、
邪馬台国が前方後円墳の築造を権威の象徴とする勢力たるロジックは、
完全に破綻したと言えるだろう。 >>134
あ、そうね兄が主役だったかもね。
後から神格化したのはそうだと思う。
もともと纏向はニギハヤヒとかナガスネヒコが作った連合国だろうし。
日向が政略結婚でのっとったのか。
逆に纏向が邪馬台(ヤマト)国の血を欲したって事かもしれんし。
神武の日向は多分、筑紫平野の邪馬台国の分家だと思うわ。
ニニギが筑紫平野から高千穂に降り立って日向に国つくった。 むかし河内潟があったから神武は実在したとか草すぎだろwww
なんで潟の存在が神武の実在に繋がんだよwww >>88
意味がわからない…。
「政治の中心=大和」を何の根拠もなく設定した上に、神武が「政治の中心を奪う意図を持っていた」と、これまた思い込みの設定。
それはおかしいだろ。
「地方の小豪族である神武が、入手できそうな別の地方の小豪族の土地を奪いに来た」
という、最もどこにでもある可能性を退ける理由がどこにもないだろ。
先に大和=政治の中心、天皇家=神武の時から日本の支配者を目指していた、等という結論を勝手に出して、そこからさかのぼると歪みまくるよ。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にしろ、祖父どころか父の代でも天下統一なんて考えてなかったよ。 とにかく卑弥呼自身についての記述が少な過ぎる。
墓についてはそこそこ書かれてるが。
鬼道って何のことだよ。
陳寿のボケカスが適当に書きくさったから、分らんじゃないか。 魏志倭人伝よく読め。
漢に倭国代表として朝貢した奴国は、邪馬台の配下に過ぎなかった。
邪馬台こそが、漢の時代の列島覇権国だとわかる。
その邪馬台が、倭国大乱で敗れ、覇権放棄の証として女王を立てた。
そしてその邪馬台が自ら朝貢してる。朝貢*させられ*てる。
倭国大乱は、邪馬台内三十数ヶ国の内乱ではなく、列島の大乱だわ。
大乱の勝者は、(漢の時代の邪馬台同様)魏に正体を隠している。
邪馬台の港を支配する大倭(ダイワ)。後の大和(ダイワ=やまと)だ。 >>142
出かける前に一言
何故いきなり超遠方のそれも陸と繋がってない大和を
天皇家が多大なリスクを冒してまで目指したの???
動機付けが不自然過ぎるだろ >>141
海から流れる潮に乗って潟内に入ったんじゃないかと思われる記述が記紀にあるからじゃない?
記紀が編纂された頃やそれ以後では想像できなかったはずの弥生時代の状況が
表現されてることから神武東征が弥生時代に行われた可能性が高いと思ってる人が結構いるみたい。 >>145
ひのもと国は繋がってなくても倭国とは繋がっていたんだろw >>145
九州北部はほぼ縄張りが決定し、
日向が九州南部なら水田稲作にあまり向いてなかった可能性が考えられ、
瀬戸内沿岸は平野部が多くなく、山陰も平野部が少ない上に出雲が居座ってるので、
まださほど人が入植されてなかったであろう畿内やその周辺の平野部に
野心を抱いた可能性が考えられるかな。 https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=en&text=%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%93%EF%BC%81%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%AE%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%B7%AF%E3%82%92%E5%8F%B3%E3%81%B8%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%A4%E7%95%AA%E3%82%92%E5%B7%A6%E3%81%B8%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%81%93%E6%AD%A9%E3%81%8F%E3%81%A8%E3%80%81Cocco%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E4%BC%9A%E5%A0%B4%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82&op=translate 三角縁神獣鏡ガー
という畿内説のもう一つの畿内説のロジックも、
邪馬台国の超重要拠点で、
外国からの贈り物を検査したと明記されている伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた
平原遺跡から、数々出土する舶載鏡の中に、
全く三角縁神獣鏡が無い事を持って、
完全に破綻したと言えるのである。 武内宿禰の眷属が神武の正体
その眷属の一人の応神が九州から下剋上して大王になり
先に九州から畿内入りしてた傭兵団長の神武を始祖とした 邪馬台国が九州から近畿まで跨っていた可能性はないの?? >>146
それと神武の実在性がどうつながるんだよw
河川の氾濫なんか仁徳の時代に治水事業が行われてるんだから過去の話であるまい >>141
実在の証明にはならんけど、全部神話で片づけるのも暴論って事でしょ。
記紀が編纂された7世紀には河内湖も河内潟も存在してないし
地質学なんてあるわけないから、当時、実際見て伝承されてきたってこと以外は
ありえないんだよね。 魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は[大夫]難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢こうを持ってきた。
太守のケ夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
(知らない)
四十年、魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
(知らない)
四十三年、——魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の[大夫]の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
(知らない) 四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。
(知っている)
卓淳の王、末錦旱岐が、斯摩宿禰に、
「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、我らを遣わして、その国に行かせた。
もし、よく我々に道を教えて、通わせて頂けば、我が王は深く君を徳とするでしょう』と。そのとき、久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。しかし、まだ交通が開けていないので、その道が分らない。」
(朝鮮半島南部にあるのに日本を知らない)←んなアホなw >>152
1年を2年と数えてたという仮説と考古学的物証から
卑弥呼がいた時代頃に崇神の御代として大和政権が誕生したと考えると、
記紀を読んだ限りでは九州まで覇権が届いてたとは思えんかな。
ただ朝鮮との交易を始めたので崇神の次からは九州にちょっかい出し始めてるけど。 琉球の統治者である薩摩藩がその気配を消して琉球国をして清に朝貢させたように畿内のヤマト朝廷が九州の小国邪馬台国を隠れ蓑にして魏に朝貢させた可能性はあるな >>129
5世紀が神武の東征の可能性のある最後の時期だな。 >>92
>この朱丹はベンガラではないかなと思われるのだが
自分に都合よく言うな。 ベンガラごときを特記するか! アホンダラめ。 @阿波 なんせ福岡県近辺で全部の地名出てくるし
方角と日数の問題が本当よく分からん >>91
>天皇家(天孫族)が畿内に来たのはいつだろう
8世紀に、「阿波」から来た。 @阿波 >>153
河内湖とか潟の想定MAPとか見たけど相当デカいよ。
河川の氾濫でああはならないと思うけど。
あとそんな状況じゃまず航行しないし。 >>38
中国側の名称は邪馬台だったよ
中国の資料に大倭と書いてたらそれはヤマトとは読まないね >>152
九州の土器は?
纏向にはないのでない? >>96
>卑弥呼の時代の天皇家は宮崎周辺の天照を祀る豪族にすぎなかったと思う
アホか! 践祚大嘗祭で蚊帳の外の分際が。 下がれ。 @阿波 >>122
神武東征は九州ではうだつの上がらない分家が
九州での出世を諦めて東方へ移住し植民した話だな。 >>160
先ず根本的に邪馬台国は小国足りえない。
纏向の外来土器で推定できる
纏向政権の支配地域の広さか推定できる
軍事力をもってしても、
進出することができないほどの
強大な勢力が北部九州にあったという
歴史の事実を受け入れなければいけない。 司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃
その真っ只中の6月に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、太守の劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送る
その後8月に
司馬 懿は、公孫淵を破り、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した
つまり、朝鮮半島で戦闘中の魏の軍勢は
始めて聞く倭國の邪馬台国とその女王卑弥呼のことを
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州の漢委奴国王の倭奴國とは無関係と判断して
魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を許したわけだ
そして新たに(帯方郡)太守となった弓遵が240年に
建中校尉梯儁等を邪馬台国に派遣してみたら
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して山陰に上陸し、
出雲まで、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩かされる
マジで、公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州とは無関係の
遠いという表現を越えている、畿内の倭國だったというわけだ >>102
>卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
または、同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>106
>被葬者が卑弥呼でなければ卑弥呼よりも巨大な権力をもつ
>「女性」が同時期に存在したことになるぞ
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
「忌部一族(阿波勢力)」のお墓を有難がる隠れ忌部。 わははははは @阿波 その後、朝鮮半島では、部従事の呉林が
楽浪が元は韓国を統御していたという理由で、馬韓の辰王が管理していた辰韓八国を分割して楽浪郡に編入させたため、帯方郡と楽浪郡は韓全体と戦うことになり
246年5月、2郡はついに、韓王の箕氏一族を断絶させる
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州には、対馬、壱岐を経由して
238年の、司馬 懿が公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で逃げてきた【燕】の残党と
その後の「韓の戦い」で逃げてきた【韓王の箕氏一族】の残党で溢れかえり
もじどおり【反魏】の温床、魏憎しの塊となって畿内の親魏倭王を攻める
そして親魏倭王は、韓の制圧を終了した帯方郡太守の王頎に
247年
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
というわけだ >>116
>神武が東征した経路ってのは完全にわかってて
>九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
現実を冷静に判断できないお前は、引っ込んでろ! @阿波 >>150
三角縁神獣鏡を含む記年鏡が中国で出土した例がないからな。 >>155
仁徳の時代に治水事業が行われてるから河川の氾濫はよくあることだよ
関東なんか江戸時代前まであった >>123
そもそも墓の構造が魏志倭人伝に一致しないわね >>116
>九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
どこにも「九州」の日向からなどと書かれていない。 いい加減なこと言うな! @阿波 そもそも倭をヤマトと読めるのは
🇭🇺ハンガリーぐらいだというwwwww
🇯🇵日本ですら読めない >>181
河川の氾濫?
内陸の白肩の津まで船で行けたって話だろ >>164
方角は若干狂ってるが距離は1里80mくらいで説明が付くね。 >>182
卑弥呼の墓は
みやま市にある権現塚古墳だよ
その地で神功皇后に討たれた田油津媛は
卑弥呼―台与から続いた後の邪馬台国の女王に間違いない >>151
明確な序列関係でないのに「下剋上」はおかしいんでないの? >>163
>自分に都合よく言うな。
おまはんよう言うなあ >>187
>@阿波が来ると台無しだな
締まるだろ? トンデモ同士、見ておれん。 @阿波 神武の東征以前に、
饒速日命の天孫降臨があったと
記紀や伝承に書かれている。
また、神武と饒速日命は、
同じ高天原出身の同族である事を
確かめ合ったとも言われている。
天皇家は高天原から日向に天孫降臨し、
饒速日命は高天原から河内を拠点にして、
大和に天孫降臨したと言われている。
この河内に進出したというのが、
考古学的に西の奴国勢力を象徴する、
銅剣銅矛の河内からの出土で裏付けられ、
高天原が奴国のあった博多湾周辺である事が確定し、
実際に物部氏が博多湾周辺から
河内に拠点を築き、大和に進出した事が
確定したと言えるのである。 >>166
天皇家が阿波出身だとしても、大和に移ったのは弥生末期〜古墳時代だよ、8世紀ではない。 朝鮮半島で独立した公孫氏がいたから日本からの外交ルートがふさがってて
司馬懿が公孫氏を滅ぼしたから日本とのルートが再開して魏に卑弥呼の使者が行けたんだろ
それで金印もらった 狗邪韓国(釜山)→對馬国(対馬)→一大国(隠岐)→末廬国(米子市)
→伊都国(鳥取市)→奴国(豊岡市)→不弥国(福知山市)
→投馬国(京都市)→邪馬台国(桜井市)
これが邪馬台国奈良説の最終決定版だな。 しかし
対馬、壱岐は、魏の追撃を警戒する【燕】の残党と【韓王の箕氏一族】の残党にガッツリ押さえられ
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して山陰に上陸し、
出雲まで、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩かされるルートでは
帯方郡太守の王頎は、
塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
のが精一杯
そんな最中、高齢だった卑弥呼は249年に死亡してしまい、派遣されていた張政の助言で、後任として出雲の男王を立てたがうまくいかず
呆れた張政は、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し帰国してしまう
その後、畿内の邪馬台国は
九州の倭奴國の漢委奴国王の第四皇子の神武を担いだ
【燕】の残党と【韓王の箕氏一族】の残党により
武力制圧されてしまい
大陸からの追撃を阻止するために、倭は大陸と断絶するわけだ >>192
じゃあ、お前はベンガラを特記すると思うのか? @阿波 つかさ、委せるってちゅごっくで言うの?
和習じゃね?
委奴国だろうけど。 >>199
いや、自分に都合よく言ってるのは、お互い様では無いでしょうかという意味ですよ。 ちなみに
壱与は、白珠五千孔、青大句珠二枚を
魏の皇帝に献上しているが
これは出雲の玉造りの「白めのう」と「青めのう」です >>195
>天皇家が阿波出身だとしても、大和に移ったのは弥生末期〜古墳時代だよ、8世紀ではない。
弥生末期〜古墳時代の奈良盆地に天皇がいた痕跡皆無。 戯けたこと言うな。
白村江の戦で惨敗したから、しぶしぶ8世紀に、クソ田舎の奈良盆地へ逃げ込んだのだ。 @阿波 >>201
それは認めるとして、じゃあ、お前はベンガラを特記すると思うのか? @阿波 最近年のせいかパソコン画面がぼやけて見えるようになって@阿波と
書いていると思うのだが@阿呆としか見えんようになった >>204
いずれにせよ「丹」としか書いてないからなあ。 大阪湾型銅戈が出現したのが
前2世紀〜後1世紀であり、
この時期に饒速日命の部族が
東征したと言えるだろう。 >>206
>いずれにせよ「丹」としか書いてないからなあ。
お前は、「丹」=ベンガラとしてわざわざ特記すると思うのか? となんども聞いてるんだがw @阿波 >>152
やまと国であればその可能性はあると考える >>208
魏志倭人伝を自分が書いた訳では無いので、そこは何とも言えない。 >>211
まあ、その返答が精一杯のところだろう。 @阿波 >>213
トンデモ論争に割って入ったら、荒らし認定 ガンダムの安彦良和が描いた漫画の
「ムジナ」「神武」「ヤマトタケル」を読むと
だいたい古代日本がビジュアルとして入ってくる。
絵で見ると理解度がだいぶ違うからオススメ。
ちなみに安彦は少数派の日向が邪馬台国説だったけど
途中で筑紫平野の復元された吉野ヶ里遺跡に足を運んで
規模の大きさに、コッチだったかもと作中に回想してる。 >>213
トンデモ論争に割って入ったら、荒らし認定 されてしまうのか? 正当論はつらいのうw @阿波 三十二代目の、倭奴國の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が
なぜ息子たちを畿内に東征させたのか
それは
公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で【燕】を皆殺しにした
その後の「韓の戦い」で【韓王の箕氏一族】を皆殺しにした
魏の将軍の司馬一族が、晋の皇帝になったから 將 軍 魏 武 之 子 孫 , 於 今 為 庶 為 青 門 。
英 雄 割 據 雖 已 矣 , 文 采 風 流 今 尚 存 。
學 書 初 學 衛 夫 人 , 但 恨 無 過 王 右 軍 。
丹 青 不 知 老 將 至 , 富 貴 於 我 如 浮 雲 。
開 元 之 中 常 引 見 , 承 恩 數 上 南 熏 殿 。
凌 煙 功 臣 少 顏 色 , 將 軍 下 筆 開 生 面 。
良 相 頭 上 進 賢 冠 , 猛 將 腰 間 大 羽 箭 。
褒 公 鄂 公 毛 髮 動 , 英 姿 颯 爽 猶 酣 戰 。
先 帝 天 馬 玉 花 驄 , 畫 工 如 山 貌 不 同 。
是 日 牽 來 赤 墀 下 , 迥 立 閶 闔 生 長 風 。
詔 謂 將 軍 拂 絹 素 , 意 匠 慘 淡 經 營 中 。
斯 須 九 重 真 龍 出 , 一 洗 萬 古 凡 馬 空 。
玉 花 卻 在 御 榻 上 , 榻 上 庭 前 屹 相 向 。
至 尊 含 笑 催 賜 金 , 圉 人 太 僕 皆 惆 悵 。
弟 子 韓 幹 早 入 室 , 亦 能 畫 馬 窮 殊 相 。
幹 惟 畫 肉 不 畫 骨 , 忍 使 驊 騮 氣 凋 喪 。
將 軍 畫 善 蓋 有 神 , 偶 逢 佳 士 亦 寫 真 。
即 今 漂 泊 干 戈 際 , 屢 貌 尋 常 行 路 人 。
塗 窮 反 遭 俗 眼 白 , 世 上 未 有 如 公 貧 。
但 看 古 來 盛 名 下 , 終 日 坎 壈 纏 其 身 。 三十二代目の、九州の倭奴國の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が
なぜ息子たちを畿内に東征させたのか
それは
公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で【燕】を皆殺しにし
その後の「韓の戦い」で【韓王の箕氏一族】を皆殺しにし
畿内の邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王として魏の皇帝に推挙した
魏の将軍の司馬一族が、晋の皇帝になったから 以朱丹塗其身體・・・朱が水銀朱で、丹がベンガラだな。 >>221
>朱が水銀朱で、丹がベンガラだな。
じゃあ、これを訳してみろ。 @阿波
↓
以朱丹塗其身體 孔子曰:「昔桀紂不任其過,其亡也忽焉。成湯文王知任其過,其興也勃焉。過而改之,是不過也。」 >>207
銅戈は武器ではなく祭器だから東征とは無関係だろ 徳島に総本社のある~社で全国に広まった~社など聞いた事が無い
邪馬台国阿呆説を信じているのは@阿波(阿呆or痴呆)だけ 委奴国は伊都国だろう
魏志に出てくる国の中でも別格だ >>225
武器であろうと祭祀の道具であろうと、
銅剣銅戈を象徴とする博多湾周辺の勢力が、
河内を拠点に畿内に進出していったという事が、
饒速日命の天孫降臨と一致するという事だぞ。 九州系の土器がない時点で、巻向は邪馬台国ではない事がよくわかる 丹青引贈曹将軍覇(杜甫)
(丹青 … 朱色と青色の絵の具。転じて彩色した絵画。)
青の揺らぎが面白い。 >>183
動物の骨で占いとは亀トか。
俺の想像では、箸と殆ど似た外形の筮竹のようなもので
占ってた。もし、箸墓に埋葬されたのが卑弥呼ならばの
話だが。 さっさと纏向が邪馬台国に
決めときゃいいやん
不毛の論争はいろんな意味で無駄や >>143
あちらで鬼って言ったら死者とかだからまあ邪道の意味合いだろうね
そもそも占い師、それも女が国を動かしてますってんだから古代中華の感覚じゃ今で言うところのオウム真理教的なもんでまともに取り合うことじゃなかったんじゃないの 麻姑(マコ)自ら説く、接待以来、已に東海の三たび桑田と為るを見る。向に蓬萊に到りしに、水又、往昔会時より浅きこと略〻半ばなり。豈に将に復た還って陵陸と為らんとするか、と。方平笑って曰く、聖人皆言う、海中行〻復た塵を揚ぐ、と
(この前お会いしてから東の海が桑畑にかわり、それがまた海になったのを三度も見ました)
海面上昇?! >>229
交易で運ばれていった可能性もあるし
勢力が進出するなら鉄器を持って行くだろう。 >>233
そんなことしたら
歴史のねつ造になってしまうだろ >>233
それだと日本史にみょうちくりんなものがくっついてしまって
真実が見えんようになると思うかな。 >>236
何の話してんのかようわかってへんけど、
青銅器やったら近畿・東海で自作できてたと思うで。 >>223
>朱や丹をもちいてその身体に塗る。
じゃあ、その「朱」はどこで採れたんだ? @阿波 >>226
>徳島に総本社のある~社で全国に広まった~社など聞いた事が無い
諏訪神社。 @阿波 >>243
>すべての起源は阿波節。
お前の祖先も「阿波」起源だ。 喜べ。 わははははは @阿波 すべての起源は阿波って、朝鮮の人には悪いけど、朝鮮人みたいで感じ悪いよね〜 >>245
お前の書き込みが、
全く根拠が無いだろ。
バカが。 だいたい大陸から近いのは九州北部なんだからそっから文化とか入ってくるのが普通だろうが
雨も九州から東に移っていくように >>246
ある。
「卑彌呼」時代の土器は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法の「東阿波型土器」 @阿波 >>249
たぶん秀吉に兄貴分コテンパンにやられてもて、
これからは自分らで自立してかなあかんてなって、
いろいろ錯綜してしもたんやろな。 >>249
>すべての起源は阿波って、朝鮮の人には悪いけど、朝鮮人みたいで感じ悪いよね〜
そう思うのはごもっともだが、事実なんだからどうしようもないだろ。 土器とか古墳とか「阿波」以外にないんだからよ。 @阿波 >>252
そう言うや、纏向に出てくるとかいう阿讃系土器とその「東阿波型土器」って別物なん?
それとも…? 九州の弥生に博多湾周辺で作られていた銅戈が、
大阪湾周辺、特に河内の住吉大社周辺で出土する事。
コレが饒速日が高天原=博多湾周辺から河内を拠点にして、
畿内に進出していった伝承と重なって来る。
それを鉄器じゃないとダメなんじゃー
とかアホかよ。
逆に鉄器じゃ博多湾周辺の部族が進出した事は分からんわボケ。 邪馬台国スレに必ずわいてくる阿波ニキ、
毎回妄想垂れ流しでほんとうざいから見つけ次第即NG >>256
>世界が狭いのう・・・。
事実は「誇大妄想」より奇なり。 @阿波 >>257
阿讃系土器とは、「東阿波型土器」工法で阿波・讃岐の土で焼いたもの。 その他もすべて「東阿波型土器」工法で焼いた土器。 @阿波 魏志倭人伝当時は九州北部も奈良も吉備と東海勢の支配下にあったが、
九州北部と近畿の在地の勢力は仲良くしてたんじゃないかな
1世紀中頃九州北部に方形周溝墓が現れるからねえ >>258
何で鉄器があるのに銅器なんだよ
アホか >>259
>毎回妄想垂れ流しでほんとうざいから
お前は、うざい、うざいと思いながら、やり込められるから反論できないヘタレだな。 わははははは @阿波 わははははは @阿波
阿波って忌部氏だっけ?
途中で歴史から消えたけどどこいったの? 阿波の歴史はこんな感じで、大和政権誕生後
讃岐と対等以上に渡り合えるようになって舞い上がってもたみたいな感じなんやろな。
>>261
ふーーん。
土器の焼き方は阿波から出雲圏の各地に広まったってこと? >>265
「忌部一族(阿波勢力)」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の衰退した忌部氏(斎部)ではない。
倭人とは「忌部一族(阿波勢力)」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。
みんな元を辿れば全部、「忌部一族(阿波勢力)」=「倭人」。
「天皇家」も「蘇我氏」も「物部氏」も「中臣氏」も「葛城氏」も「大伴氏」も、平安時代の『新撰姓氏録』編纂以前は全部、「忌部一族(阿波勢力)」。
忌部氏(斎部)は、物部氏の衰退(丁未の乱)後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。 @阿波 >>266
8世紀の大和朝廷の生みの親だよ。 分かったか?奈良土民よ。 @阿波 >>270
そんな記録見たことも聞いたこともないな。 >>271
それ以外の記録も無いだろうがよ。 バカげたこと言うな。 @阿波 >>272
記紀に百済からいろんな博士来てもらって教えてもらったらしき記録あるよ。 >>270
100歩譲って大和朝廷の生みの親は良いとして、8世紀はねえだろよ、そんなこと言ってるからトンデモって言われるんだぞ。 >>267
何が出ても纒向は卑弥呼の時代から100年後くらいの時代の遺跡だから
邪馬台国ではないよな >>274
倭国(阿波)がな。 そのお陰で「阿波」に飛鳥寺院がたくさん建立された。 @阿波 >>275
>8世紀はねえだろよ
なんでや? 大和朝廷が8世紀からじゃないと言うのか? @阿波 >>277
そんな記録は見たことも聞いたこともないな。 【燕】に属していた九州の倭奴國の
三十二代目の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が
なぜ息子たちを畿内の邪馬台国に東征させたのか
それは
公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で【燕】を皆殺しにし
その後の「韓の戦い」で【燕に属していた韓】を皆殺しにし
畿内の邪馬台国の卑弥呼を魏の皇帝に推挙して親魏倭王にさせた
魏の将軍の司馬一族が、晋の皇帝になったから
晋の皇帝になった司馬氏の正規軍が、朝鮮半島から対馬と壱岐島伝いに、侵攻してきて
晋の皇帝になった司馬氏が親魏倭王にした邪馬台国が、奈良と出雲の陸路で、攻撃してくれば
【燕】に属していた九州の倭奴國の漢委奴国王一族は
【燕】の公孫氏や、【燕に属していた韓】の王の箕氏一族のように皆殺しになってしまうから
先手を打って、晋の皇帝になった司馬氏が親魏倭王にした邪馬台国を軍事制圧して
司馬一族が皇帝となった【晋】と日本を断絶させたのだ 纒向は朝鮮から政争に敗れて逃げた陜父が日本に建てた多婆羅国の都市だろ
その多婆羅国ほか多くの百済の衛星国家を征伐するために
百済から派遣された軍の総司令官で百済の皇族でもあるソン・ソンジョが神武天皇 >>279
もっと、「阿波」を勉強してから出直してこい! @阿波 >>278
6世紀に博士呼んで8世紀に朝廷って、2世紀もの間何やってたんよ? >>273
そうだよ。
魏志倭人伝にもある倭国大乱が、2世紀終わりだ。
この大乱で奈良が九州やまと(邪馬台)を覇権放棄
(=女王即位)に追い込み、博多港を押さえて、
列島の新覇権国になってる。
ちゃんと魏志倭人伝に書いてる。 → >>144 >>283
頭かち割って電極とかさして脳内読み取れって事? 箸墓を掘ればよい。
とっくに盗掘はされているだろうが、何かは出てくる。
盗掘人にはいらないものだったが、古代史マニアを興奮させる何かが。
皇帝の詔(絹)の破片
下賜品目録(竹簡)の破片
下賜品につけられていた荷札(木簡)の破片
魏の軍旗(絹)の破片
ここら辺が出て、分析の結果、魏で使用されたものと一致すれば、おもしろい。 >>278
阿波で築造された最後の前方後円墳が4世紀末頃の大代古墳と国高山古墳、それを最後に阿波では前方後円墳の築造が無くなる。
忌部一族の主体が阿波から居なくなったという事を暗示している。 >>284
>2世紀もの間何やってたんよ?
2世紀どころか、ずっと倭国(阿波)で王政をやっていきたかったんだが、白村江の戦で負けてしまったからさ。 @阿波 【燕】に属していた九州の倭奴國の
三十二代目の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)が
なぜ息子たちを畿内に東征させたのか
それは
公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で【燕】を皆殺しにし
その後の「韓の戦い」で【燕に属していた韓】を皆殺しにし
畿内の邪馬台国の卑弥呼を魏の皇帝に推挙して親魏倭王にさせた
魏の将軍の司馬一族が、晋の皇帝になったから
対馬と壱岐島伝いに、
晋の皇帝になった司馬氏の正規軍が侵攻してきて
奈良と出雲の陸路で
晋の皇帝になった司馬氏が親魏倭王にした邪馬台国が攻撃してくれば
【燕】に属していた九州の倭奴國の漢委奴国王一族は
【燕】の公孫氏や、
【燕に属していた韓】の王の箕氏一族のように
司馬氏によって皆殺しにされてしまうから
【燕】に属していた九州の倭奴國の漢委奴国王一族は先手を打って、
晋の皇帝になった司馬氏が親魏倭王にした、
出雲と奈良の連合国である邪馬台国を軍事制圧して
東への退路を確保するとともに
司馬一族が皇帝となった【晋】と【倭】を断絶させたのだ >>286
阿波説なんて、主張している人たちが信じているわけじゃない
ただの遊びみたいな説だから
根拠はただ一つだけ
魏志倭人伝に書かれている帯方郡から女王国までの距離1万2000里を
直線距離で東南に伸ばした直線と会稽東冶の東という記述から
会稽東冶から東に伸ばした直線が交わる点が阿波ってことが根拠になっているだけ
古代人がグーグルアースでも使ったかのような
日本の地形を地球上の位置を正確に計測していたとするのが阿波説だぞw
主張している人も真剣に主張していない説だからなw >>288
阿波で前方後円墳の築造が無くなったことと、
忌部一族の主体が阿波から居なくなったという事はなんの関係もないし、ぜんぜん居なくなってもいない。
単に巨大古墳を「阿波」で造らなくなっただけ。 @阿波 >>269
へー。大麻で神事とかやってたのって忌部氏だっけ?
あと剣山が都市伝説とかによくなってるけど何か関係あんの? 土器に何を入れて運んでたのか気になる
まさか器だけってことはなかろうし 公孫を滅ぼし、ふたたび朝鮮半島北半分を領土とした魏は、
漢が朝鮮半島北部を占めた時代の冊封体制の再構築にさっそく手をつけた。
魏は、帯方郡太守を通して、馬韓や辰韓、倭国などに朝貢を促した。
こう考えると、邪馬台国は漢代に朝貢した国の後裔。
北九州だ。
纏向には朝貢を促す連絡は行かないだろうから。 >>291
結構その説突拍子もなくインパクトあって好きかな。
徳島にその説を説明した豪華な博物館とか建設して欲しいかな。
ただし、子供が勘違いして信じないように、
ナンセンスさもちゃんと醸し出しておいて欲しいけど。 纏向で何やってたのかな
各地の豪族が偶に来てお供え物して帰ってたとか?
それだとやっぱり卑弥呼みたいのが居たのか >>293
確か麻担当が徳島忌部だったんじゃなかったけ?
要するに植民地支配するための出先機関みたいなもんだったと思っといた方がいいかな。 阿波説で町おこしとか夢があっていい
まあ、本当は北部九州だけど、
卑弥呼の伝説は国宝級なので四国にも町おこしの権利はある >>292
いや、忌部一族の主体がごっそり移動しちゃったので、巨大古墳を作る権力の有る集団が居なくなったと考えたほうが自然。
畿内や千葉など、各地ではその後も巨大前方後円墳の築造が続いている。 >>298
纒向に宮をつくって遷都したのは
崇神天皇だと記紀に書かれている
だから時代が卑弥呼の時代よりも50年〜100年くらい後の遺跡だとはっきりしている
つまり纒向は邪馬台国のことではない >>157
柔然だとして、王様の名前が一致してないってどういう?
中国の文献が西洋の文献をコピペ翻訳した? >>291
>会稽東冶から東に伸ばした直線が交わる点が阿波ってことが根拠になっているだけ
アホか。 そんなもの、状況証拠のひとつに過ぎん。
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 @阿波 阿波よりは吉備の方がまだ説得力があるような。
いやただの印象だけど >>293
>へー。大麻で神事とかやってたのって忌部氏だっけ?
忌部氏というより、「卑彌呼」だな。
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻(おおぬさ)などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
大麻といえば、阿波忌部。
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 百済の東というより、
百済の南じゃないの??当事者の日本人ですら
この方向感覚w >>298
>纏向で何やってたのかな
せっせと、古墳造り。 @阿波 >>305
吉備にもぜひ阿波説以上に笑わせてくれる突拍子もない説を編み出してほしいかな。 >>299
>要するに植民地支配するための出先機関みたいなもんだったと思っといた方がいいかな。
いや、天皇家の本貫地ふるさとだ。 @阿波 >>306
日本在来種の麻はマリファナ成分弱めなんだけどね。
麻酔いすると作業効率が落ちるので、マリファナ成分の少ない個体を選択して栽培した結果と考えられる。
もちろん成分は0ではないので、多少の効果はある。 >>309
今で言う飯場みたいなもんか
えらい立派だな >>301
まあ、いずれにせよ、奈良遷都までは「阿波」で王政を敷いているから。 @阿波 >>294
1の
「巻野内家ツラ地区は纒向遺跡の北東部に位置。大型建物群(3世紀前半〜中ごろ)が
確認されている「辻地区」に続く、3世紀後半の中枢部とされる。昭和62年に導水施
設が見つり、水を用いた祭祀(し)の場だったと考えられている。」
からすれば、中身が空で運ばれて来たとも見れるが、遠方からだからその地方の地酒
とかだったかもw
液体が入ったものを運ぶとすれば、蓋つきで、しかも余程揺れの少ない運搬方法が必
要だったに違いない。沿岸沿いを割と大きめの舟で運んだのかな? 纏向はまんま神話の通りじゃん
https://i.imgur.com/exXhsM4.jpg
こりゃ畿内ヤマトは九州の東に海を渡るとまたある倭種の国々確定じゃね 福岡在住なんだけど、奈良の人からお中元で三輪そうめんを頂いたら
桐箱の蓋に「卑弥呼の里・纏向」て焼き印がw
ちょっとこれは見過ごせん!喧嘩売っとるんかちゃ!!
素麺はとてもおいしゅうございました >>302
>纒向に宮をつくって遷都したのは
>崇神天皇だと記紀に書かれている
お前もその記紀の「纏向」が奈良纏向と思ってるお目出たいヤツだな。 わははははは @阿波 >>310
お前にもなにか分けてやろうか? どれがいいか? わははははは @阿波 誰が入ってるか言えよ〜o(>∀︎< o)(o >∀︎<)o >>313
>もちろん成分は0ではないので、多少の効果はある。
それぐらいがちょうどいいんじゃね〜の。 鬼道やるのに。 @阿波 >>314
>えらい立派だな
そんなもの、本家「阿波」にもいっぱいあるよ。 @阿波 卑弥呼は北部九州
畿内は神武天皇
その間に吉備国
この連携ネットワークは確定済み >>306
鬼道が大麻の幻覚作用ってのは面白いな。
大麻(学名:カンナビス)が神奈備(カンナビ)からとったとかも言われてたな。
>神奈備はアニミズムでもあり、自然への感謝や畏敬や畏怖の体現であるが、
神の住まう神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境、
または、その常世と現世をわかつ結界や、禁足地なども意味する。
鬼道が神道につながる原始宗教だったら面白いわ。 >>299
天皇が即位して初めて行われる「大嘗祭」に使われる麻の織物を「麁服(あらたえ)」というのだが、これを作るのは代々阿波の三木家(忌部氏の子孫)と決まっている。
もう一つ、絹の織物「繪服(にぎたえ)」が有って、これは三河で作られるのだが、一族が指定されている訳では無く、三河の絹織物が、品質的に優れていたため選ばれたのではないかと言われております。
阿波忌部は、天皇家にとって特別な意味を持つ一族だった事は事実でしょう。 神武天皇が最初に旗揚げしたのが
今で言う広島県
中華思想の影響を受け、倭国の中心だと思ったから
https://i.imgur.com/CU4nL4X.jpg
吉備を従え、出雲を征する途中で
この日本列島の新たな地形知識を得たのだろう
毛人の領域も取り込めば
倭国の中心はもっと東、そう畿内だと
そこから畿内征伐へと進み安住の地
そして日本の最も中心に都を得る そのヤマト王権が利用したのは天照大御神信仰
宗教的な儀式儀礼で連合統治した
ただ疾病流行によって
天照大御神の神通力もむなしく
祟りを恐れて、大国主も同時に祀ったりしたが意味もなく
結果2柱は放り出され、オオモノヌシを降ろすことになる
北部九州は、吉備と協力して
畿内に連合国家体制を作り上げたが
疾病流行によって瓦解
吉備が離反したせいで
北部九州は一時的に、畿内との連携が取れなくなる
その頃が魏志倭人伝に描かれた倭地 >>329
「麁服(あらたえ)」は阿波忌部が調進するって決まっていて、誰が作っても良いって訳では無い模様。
ただし、阿波の三木家がもし廃絶してしまったらどうするのかはわかりませんが、仮定の話をしても意味がないでしょう。 >>318
田舎の奈良南部には他に町おこしネタがないので
嘘でも信じたフリ
奈良の民だって「福岡さん申し訳無い」と心で侘びてるはず >>329
>ただの提供地ですね
そのただの提供地が、太古より「阿波」限定だということを考えろ、どカス。 @阿波 全部掘り返したらなんか解るんだろうけどできないからな
七支刀みたいに禁足地に金印埋まってるかもなw >>331
アマテラスもたらい回しにされたようだけどね。
もともと九州から来てるだろうから纏向だと色々と
不都合があったんだろうね。
結果、伊勢で落ち着いたみたいだけど。 >>335
>全部掘り返したらなんか解るんだろうけどできないからな
全部掘り返したら、お前らトンデモががっかりするだけだよ。
「忌部一族(阿波勢力)」のお墓だってことが確定してしまう。 @阿波 >>295
違いますよ、歪曲しないでください
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃
その真っ只中の6月に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、太守の劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送る
その後8月に
司馬 懿は、公孫淵を破り、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した
つまり、朝鮮半島で戦闘中の魏の軍勢は
始めて聞く倭國の邪馬台国とその女王卑弥呼のことを
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州の漢委奴国王の倭奴國とは無関係と判断して
魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を許したわけだ >>306
卑弥呼が操ったのは鬼道じゃなくて色んな権力男の亀頭だろw
卑弥呼が天の鈿女なら、裸の女陰の前に垂らした麻の紐が動く
ことで万個がちらちら見えて、男達は幻惑されたはず。
「卑弥呼様〜もっとじっくり見せてくだせぇ〜〜〜w何でも言
うことを聞きますけんw」 >>1
で、食い物の捨てたあとは?
纏向ってバザールか奉納にしか思えないんだが。 三国志魏志 公孫淵伝
景初元年(237)、かくして幽州刺史毌丘倹らを遣り、璽書を齎させて公孫淵を徴した。公孫淵はかくて兵を発し、遼隧に逆(むか)えて毌丘倹らと戦った。毌丘倹らは勝利せず還った。公孫淵はかくて自立して燕王となり、百官・有司を置いた。使者を遣って節を持たせ、鮮卑単于に璽を仮し、辺民(の上に)封拝し、鮮卑を誘呼して北方を侵擾させた[7]。
二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った[8]。公孫淵は将軍卑衍・楊祚らと歩騎数万を遣って遼隧に駐屯させ、囲・塹を営むこと二十余里。司馬懿の軍が至ると、卑衍に命じて逆戦(迎撃)させた。
↑
景初元年(237年)公孫淵は独立して燕王名乗り、周辺諸国に通告した
燕の独立を知った倭国の邪馬台国は新たな燕王に朝貢するため難升米を派遣
邪馬台国の朝貢使節団は景初二年(238年)6月に帯方郡に到着
ところが同時期の6月には司馬懿の軍勢が遼東で公孫淵軍と戦闘を開始
帯方郡に到着した邪馬台国の難升米は足止めを食らった
同年8月、公孫淵滅亡、帯方郡で足止めを食らってた難升米ら一向は
問答無用で魏の洛陽に連行されて金印、銅鏡100枚他のお土産を貰いましたとさ >>333
橿原とか、桜井とかは、決して「奈良南部」ではないおw「奈良盆地南部」ならまだわかるけど。 >>302
崇神天皇は3世紀と考えれば
卑弥呼の時代に纏向に王宮があった事になるな >>347
崇仁天皇 在位期間 99年ー2=97
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
以上の天皇の在位期間は計226年
しかし古代日本では1年に2歳年を取る半年暦を採用すると226年の半分の113年が実際の年数になる
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
それから113年さかのぼった年が崇仁天皇が纒向珠城宮に遷都した年(即位3年)と計算される
つまり391−113=278年
一方、卑弥呼は242年から248年の期間に死去している
魏志倭人伝に描かれた時代にはまだ纒向珠城宮は成立していなかった計算になる
つまり纏向遺跡は少なくとも卑弥呼が生きていた時代の邪馬台国の遺跡ではないことになる >>340
景初2年6月は帯方郡は魏と戦争中で公孫氏の領地
魏の領地でない所に魏の謁見を求めて使者を派遣するのもおかしな話だから
卑弥呼が帯方郡に使者を派遣したのは日本書紀や梁書や太平御覧が記すように
景初3年6月の事と考えられている
卑弥呼が帯方郡に使者を出したのは景初2年になってるのは
後年に魏志倭人伝に生じた誤記と見られてる
そして畿内で見つかる三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡には
景初3年と魏の年号で彫ってあって
卑弥呼が魏皇帝からもらった銅鏡百枚のうちの一部とされていうる >>348
そのとおり
崇神治世の前に、既に卑弥呼は死んでる >>349
誤記ではない難升米が朝貢したのは景初二年であってる
朝貢先は独立したての燕王だった
その時の貢物はたった奴隷10人と布が少々のすげえしょっぱい小規模使節団
ところが帯方郡で足止めくらってるうちに公孫淵が滅亡し
自分の手柄を大きく見せかけたかった司馬懿は、この帯方郡にいた朝貢使節を
洛陽に連行して、司馬懿が公孫淵を討伐したおかげで早速、東の果ての大国が
朝貢しにきましたよぶち上げたわけだ
その結果、たった奴隷10人と布少々のしょっぱい使節が、金印貰ったり大変なことに
なってしまった >>352
日本書紀や梁書や太平御覧は卑弥呼の帯方郡への遣使を
景初3年6月と記している
これらは魏書曰くと魏志倭人伝からの引用である事を記しているので
古い時代の魏志倭人伝には景初3年とあった事がわかってる
現在見る魏志倭人伝は原本が失われた12世紀に復刻されたもので
公的な文書ではなく民間で書き写したものを集めて編集したという事が前書きに書いてあって
旧来の文書と比較すれば誤記が多い事が知られている >>353
後世の書き手が勝手に書き換えただけだな
中国の歴史書はそういう勝手な書き換えがある
例えば魏志では
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
とあるのを
後漢書では
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
と書き換えてしまっている
よって
景初二年の出来事を何百年ものちの歴史家が勝手に景初三年に書き換えただけ >>356
時系列的には景初三年とあったのを景初二年と書き換えた事になるね
現在見る魏志倭人伝は12世紀に復刻された比較的新しい文書 >>357
魏志には景初二年と書かれているものを
5ch探偵みたいな奴が勝手な推理をして書き換えただけ >>358
12世紀に復刻された魏志倭人伝より以前の文書の
日本書紀や梁書や太平御覧には卑弥呼の遣使が景初三年とある
これらの文書は魏書曰くとあって
魏志倭人伝からの引用である事を記しているので
12世紀以前の魏志倭人伝には卑弥呼の遣使を景初三年と書いてあったという事がわかってる >>359
要するにその梁書がデマの発端なんじゃね >>360
魏書曰くと書いてあるから違うね
魏志倭人伝を参照にした 改めてスレタイ読み直したら
10%超えってw
たった10%だろw
殆が自前 >>362
何パーセントだろうと
纒向と魏志倭人伝に書かれている邪馬台国とは時代が違うから
別の国
邪馬台国はヤマト王権によって滅ぼされた国
だから魏に使いを送ったという重要な史実が記紀に書かれていないわけ
何しろ邪馬台国はヤマト王権とは別の国だから
そんな歴史知らん、ってことで記紀には書かれていないってこと >>363
纏向は3世紀からあるそうだから
そんなに違わないんじゃ 卑弥呼の邪馬台国を乗っ取ったのが神武勢力だろ
そして歴史を書き換えた
卑弥呼は御漫湖に箸を突き刺して死んだ惨めな女に改編されてしまった >>365
考古学的には畿内の文化が変わったのは2世紀後半から3世紀初頭にかけて >>362
>殆が自前
そのほとんどの自前が、ぜんぶ「東阿波型土器」だという落ちだ。 @阿波 >>363
神功皇后が使いを送ったという一文は後付けだな
記紀は改ざんされてるだろうし >>366
たぶん孝霊天皇辺りがきっかけになってるんやろな。 >>366
東征や東遷など考古学的に一切起こってないのが分かってるな
ただ大和朝廷は卑弥呼との関係を否定してるし、中国も大和朝廷と邪馬台国は同一としてない
中国が日本から提出された王年代記に基づいて系統を書いてるが、そこに卑弥呼も台与も一切載らない
卑弥呼の記載も隋書を最後に消える
そして神武天皇は奴国の後継だと書いてる
実際問題として卑弥呼の纏向時代と、その後の定型化された前方後円墳の時代で体制が変化してると考えられる 考古学=東征や東遷の痕跡などない
史書=邪馬台国は大和。大和朝廷も大和だが系譜は別
となっているので一代限りの共立王の時代から、世襲王家に変わったのだろう
その変化が邪馬台国の終焉と、大和朝廷の出現
定型化古墳がその転機と考えられるので、邪馬台国が3世紀初頭から3世紀半ば、大和朝廷となったのは3世紀末だろうな >>349
全然違う
司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃して平定している
公孫氏が、遼東で討伐されたのは8月 >>371
魏志倭人伝と隋書では墓の構造が違う
魏志倭人伝:棺有り槨無し
隋書:死者は棺、槨に収める
畿内説は魏の時代からずっと前方後円墳体制だったと言い張るのはおかしい >>281
交流がなかったのは魏志倭人伝に書いてあるとおり >>345
王宮は日本中にあったえおうしし、九州には紀元前からある
そして奈良に関しては最近、まさに発掘担当者からの発表があった。白旗上がってる
関川 尚功 『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』2020/9/20
坂 靖 『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』2020/2/5
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>349
呉の職人が作ったと判明している三角縁神獣鏡がどうかしたのか 邪馬台国論争を将棋に例えると、プロ棋士はみんな投了してしまったのに、へぼアマチュアだけしつこく粘ってる状態
へぼ過ぎて自分の負け確定だと認識できないだけでなく、九州優勢とさえ思い込んでる そもそも『魏志倭人伝』すら読んでない奴が多い
(1)
「邪馬台国の東に海があって、その先に別の倭種の国がある」と書かれておる
九州→海→纏向
(2)
陳寿の使った現資料には「邪馬台国は伊都国のすぐ南」とある
>>378
(1)と(2)で分かるように理系の俺からしたら、そもそも謎が存在しない
畿内論者ってのは反知性主義者か何かか? 魏志倭人伝をしっかり読めば畿内説は馬鹿の妄想
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
謎の水行陸行の箇所は、魏に朝貢に来た倭人から得た最新情報であり、その起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
よって女王の都がある邪馬台国は女王国北部のすぐ南側と考えられる。
おそらく筑紫野市〜八女市の領域が適合する。
図解:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日数で距離を示した(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 文系がバカと言いたいわけじゃない。でも古代学者は全員文系だろう
それに輪をかけて5chの畿内論者は「魏志倭人伝」すら読んでない。上記の(1)
理系だけで研究していれば、そもそも畿内説自体が誕生すらしていない ホリエモンみたいに進学先がたまたま文系なだけで、センスとしては理系の人もいるけどね 畿内説の考古学者は理系どころか文系も苦手だから
得意なのは妄想とこじつけ 俺は理系だったが
古文漢文日本史にハマって文系に
大学は史学部だ >>371
隋書には魏志の邪馬台は大和の事と書いてある >>370
魏志倭人伝や後漢書には倭国大乱の事が書いてあって
およそ西暦160〜180年くらいの出来事とある
考古学的にもその頃に畿内の文化の変遷が見られて
これは記紀にあるいわゆる神武東征と状況が合う >>373
帯方郡にいた公孫氏が景初二年の8月に討伐されて
安全になったから景初三年6月に倭から魏に朝貢を求めて
帯方郡に卑弥呼の使者が派遣されたんだろうね >>377
三角縁神獣鏡には景初三年と魏の年号が入っていて
魏の銅鏡と同じ銅を使って作られている事がわかってて
魏の都のあった洛陽からも見つかっていて魏鏡と判明しているよ 隋から日本へ逃げてきている人たちいるのに
なんでしっくり来ないんだかw >>386
違うね
伊都国(出雲)にはもともと王(出雲主王)がいて
『魏志倭人伝』その国は、元々は、また(狗奴国と同じように)男子を王と為していた。
初代出雲主王「大国主」の葦原中国建国後、邪馬台国が国譲りを迫り戦争状態に
『魏志倭人伝』居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た
結局出雲は国譲りに合意して天照大神の支配下に
『魏志倭人伝』そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という
弟の建速須佐之男命のいる根の国が統治を助ける
『魏志倭人伝』非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
邪馬台国は天津彦彦火瓊々杵尊を出雲に派遣する
『魏志倭人伝』官は爾支 常に伊都国で政務を執っている
畿内の邪馬台国より北の出雲諸国の国々には、天津彦彦火瓊々杵尊が天降り、出雲諸国はこれを恐れている
『魏志倭人伝』女王国より以北には、特に一人の大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。 >>379
百済の東が倭国じゃないの?
長安の東は標高が低い。 >>366
考古学的には畿内の文化が変わったのは5世紀だよ?
それまでは暗黒の地
>>385
隋書にも魏志の邪馬台は九州だって書いてあるよw >>387
公孫氏は、早ければ西暦204年には
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて新たに帯方郡を設けて辺境の治安を強化
好き勝手な振る舞いをする倭と韓を制圧して帯方郡に帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築き
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、司馬 懿と同じく曹操に仕えている
曹操は、公孫氏を後漢の献帝に推薦し
公孫氏は後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。
しかし
司馬 懿が「曹叡(明帝)」を魏の第2代皇帝にすると公孫氏は、司馬 懿と「曹叡(明帝)」に反旗を翻し、遼東で独立を宣言した >>392
>考古学的には畿内の文化が変わったのは5世紀だよ?
5世紀に何が変わった? @阿波 >>388
三角縁神獣鏡みたいな年号入りの鏡が中国から出土した例はない
洛陽からも見つかったものは偽造品だね
中国で日本人が年号入りの鏡を高く買ってくれるんで贋作してるんだ。。 >>393 つづき
そのため「曹叡(明帝)」は景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、
毌丘倹、胡遵らを陸路で北から遼東に攻め込ませるとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、
山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、
劉マと鮮于嗣は楽浪郡と帯方郡の2郡を平定して
南から遼東に攻め込んだ
毌丘倹、胡遵軍と劉マと鮮于嗣軍に挟み撃ちされた公孫淵は、
遼東の襄平城に立て籠る
その真っ只中の6月に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、劉マの後に太守となっていた劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送る
その後8月に司馬 懿軍は、
子の公孫脩とともに数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して襄平城から逃亡した公孫淵親子を斬り殺し、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した 重要なのはここの部分
公孫氏は、早ければ西暦204年には
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて新たに帯方郡を設けて辺境の治安を強化
好き勝手な振る舞いをする倭と韓を制圧して帯方郡に帰属させ、朝鮮半島南半から北部九州の漢委奴国王の倭奴國までの統治体制を築き
その後
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、司馬 懿と同じく曹操に仕えている
つまり
魏の皇帝と、その将軍の司馬 懿は公孫氏から
北部九州の漢委奴国王の倭奴國は帯方郡に帰属して
公孫氏の支配下にある
と説明を受けているということだ
なので
公孫氏を討伐中の魏の皇帝と、その将軍の司馬 懿が
北部九州の倭國を親魏倭王にすることは有り得ない 九州の宇佐から四国通って河内
関門海峡は危険だった 邪馬台国とか定期的にあげるが
面白くも何ともない
古代エジプトにしないか? >>394
阿波から進出した皇室の先祖が畿内で権力を確立したのが4世紀末、5世紀には権力が盤石になり、皇室の先祖一族は、阿波には留守番部隊だけ残して畿内に完全に移住した。 >>403
それもいいが、その移住した痕跡があるのか? 奈良の古墳時代にどんな集落遺跡があると言うんだ? @阿波 >>402
中国がエジプトの植民地ならな wwww >>397
明帝が楽浪帯方に密かに太守を派遣したのはいつ頃だろうな?
仮に司馬懿が遼東に攻め込んだ景初二年6月と同時期なのであれば
難升米たちが帯方郡にやってきたのは、魏への朝貢ではなく公孫淵への朝貢だったかもしれない >>404
畿内とは書いているが、奈良とは書いてないよ・・・一応な。 >>409
畿内でもいいよ。 畿内の古墳時代にどんな集落遺跡があると言うんだ? @阿波 おい、畿内説よ。 古墳時代の畿内第V様式圏にどんな集落遺跡があると言うんだ? @阿波 >>388
ワロタw
中国で見つかったのは農民から買った骨董品w
まさか信じてる畿内信者がいるんだねw インドの方から倭人に出会って神武東征した可能性は? 宮内庁が天皇陵調査解禁しないから不毛な論争が続くんだよなぁ。
いい加減な比定しといて調査させないなんて馬鹿なこと、今上陛下も望まないと思うがな。 >>407
まず、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された公孫氏が
なぜ、大恩ある魏の皇帝に反旗を翻し、配下の韓と倭とともに独立を宣言したのかだが
曹操の息子である初代魏皇帝「曹丕」は、徐姫夫人の子供である京兆王曹礼を後継ぎにしたいという気持ちを、公孫氏を含めた重臣に漏らしていた・・にもかかわらず
西暦226年、曹操の息子である初代魏皇帝「曹丕」が病に倒れると、有力な将軍であった司馬懿は
曹丕に誅殺された甄夫人の子供で、その存在すら知られていなかった「曹叡」を次の皇帝にしようと皇太子に復活させたため
「後漢の左将軍・襄平侯」として、倭と韓を配下に、朝鮮半島南半から北部九州まで統治していた公孫氏は、猛反発
曹丕の死後、司馬懿たちのゴリ押しで、曹叡がそのまま2代皇帝に即位(明帝)すると、公孫氏は魏朝の仇敵である呉の孫権との同盟を画策し、
「曹叡(明帝)」から「大司馬・楽浪公」を賜ることを断り
ついには帯方郡が統治している倭と韓とともに魏に反旗を翻して独立を宣言
西暦237年に、遼東の襄平城において自らを
遼東・楽浪・帯方・韓・倭を支配下に置く「燕王」と名乗ったわけだ
そのため「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は西暦238年、倭と韓とともに独立を宣言した公孫氏の征討を開始して
その作戦として
景初中 明帝密遣帯方太守劉マ楽浪太守鮮于嗣 越海定二郡
「景初中に、明帝は密かに帯方太守、劉マと楽浪太守、鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。」 魏の朝鮮半島長官=公孫氏について、「 公子」までは王籍で、孫の「公孫」からは臣籍になるそうです。
かつては王籍だが今は臣籍の氏族が「公孫氏」。
すると卑弥呼の朝貢直前の半島支配者の公孫氏とは魏の皇帝の孫の一人が起こした一族だったのでしょうか?
公孫氏は魏に謀反を起こして独立宣言してから地固めのために、半島や倭などに味方になるよう強く訴えたそうなので、当時日本に来た可能性はあります。
公孫氏の使者が馬韓や辰韓に行ったらその先の倭に目をつけないわけはない。
使者が九州に来たでしょう。
そして伊都国に駐留したでしょう。
魏志倭人伝の中の倭へのルートとは公孫氏が開拓したルートかもしれません。
4世紀に五胡十六国時代に入り、帯方郡が半島に孤立したとき、帯方郡の漢族は何とか揚子江の南朝の地に行きたかったのではないか。
そして五胡が跋扈する北部を通らずに行くには海路です。いったん倭地に行き、倭人の船で行こうとしたかもしれない。
公孫氏の来航が天孫降臨というのはありかもしれない。時代的にはあいますね。 >>96
正しい知識をもとに考えないとね
ではコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 長文の上推測に過ぎない話を「〜なわけだ」とか断定口調で書く奴は大体ろくな奴じゃない まぁ、司馬懿が遼東に攻め込んだ景初二年6月と同時期だろうな
そこに出雲を併合した天照大神の難升米たちが
九州も壱岐も対馬も経由せず出雲から朝鮮半島に渡って
帯方郡にやってきた >>420
『魏志』には、倭人伝と韓伝があるんですよボウや 公孫氏の反逆は極めて短く激怒した司馬懿に虐殺されちゃいましたね
邪馬台国と公孫氏はもちろん関係がある
楽浪に行かないとビジネスできない以上
邪馬台国は公孫氏には
仁義を通して朝鮮貿易したのは当然
その公孫氏が虐殺されたら朝鮮貿易のバックは司馬懿だから
慌てて魏に朝貢した(二股とも言える)
ところでこの朝鮮貿易の主要品は燕鉄(朝鮮中部にも鉄炉があったがメインはもっと北)の鉄産品で
その出土は大きく九州に偏っている
つまり邪馬台国は九州です ちなみに『魏志』の韓伝では
韓は帯方郡の南にある。
東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。
およそ四千里四方。
三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。
馬韓は西に在り、それぞれ指導者がいて、
勢力の大きいものは自ら名乗って臣智(シンチ)と為し、
その次のものを邑借(ユウセキ)と為す。
臣智(シンチ)の官には、魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長がある
景初中に、明帝は密かに帯方太守「劉マ」と楽浪太守「鮮于嗣」を派遣し、海を越え二郡を定めた
その後、太守は
諸韓国の臣智には邑君印綬を加えて賜い、それに次ぐものには邑長を与えた
邑君とは、「区域の君主」という意味で卑弥呼の親魏倭王のような韓の王という意味では無い 卑弥呼と八幡信仰 その1
源平合戦で失われたため1313年に再編纂された
宇佐神宮の縁起書である『八幡宇佐宮御託宣集』には次に一説がある
『辛国の城に、始て八流の幡と天降つて、吾は日本の神と成れり』
これは八幡信仰の源流が辛国(外国)にあり八流の幡が日本にやってきて神となった
と言う意味 辛国とは弥生時代には三韓のこと、飛鳥時代には伽耶国、平安時代以降は
唐を含めた外国全般を指す
つまり外国からたくさんの旗が日本にやってきて八幡神となったと言っている 卑弥呼と八幡信仰 その2
魏志倭人伝によれば
正始6年(245年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米(卑弥呼の使者)に
黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)
正始8年(247年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために
帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡した
と記述されている
黄幢とは兵隊が担ぐ軍旗のことであり黄色は魏王の皇帝色である
要するに錦の御旗、魏の後ろ盾、権力と武力の象徴である >>424
邪馬台国と公孫氏は関係ありません
公孫氏が帯方郡の配下にしたのは
九州の倭奴國で
畿内の邪馬台国は無関係です >>215
「ムジナ」は相原コージだね
安彦良和は「ナムジ」だよ
大巳貴命で大国主命
でもこの漫画と続編の「神武」は途中で古くからの仲間たちの衣装を変え
顔面に刺青を入れさせ無理がある感じ 卑弥呼と八幡信仰 その3
日本における八幡信仰の総本山宇佐神宮には3つの社があることをご存じだろうか?
3つの社にはそれぞれ祭神がおり向って左から第一の社は八幡神・応神天皇
向って右の第三の社は神功皇后である そして中央の第二の社は一番大きいのだが
比売大神(ヒメオオカミ)が祀られている。宗像三女神という説もあるが
基本的には比売大神がどんな女神なのかよくわかっていない
古くからの旗にまつわる信仰の地の総本山に巨大な女神を祀った社が存在し
建立以後は近畿の皇族・貴族からも重要視され続けた神社
これもう宇佐の比売大神=卑弥呼で間違いないやろ >>421
やはり邪馬台国の朝貢使節団の朝貢先は燕だよな
おそらく景初元年に独立した燕王公孫淵から連絡かなんかがあって
邪馬台国は奴隷10人と布を少々のしょっぱい朝貢使節団を帯方郡に送ったわけだ
難升米たちが帯方郡に到着した景初二年6月
当初の想定とは異なりそこを支配していたのは燕ではなく魏
すでに司馬懿と公孫淵は遼東で戦闘を始めており
難升米たちは帯方郡で足止めを食らったまま8月には公孫淵滅亡
自分の手柄を大きく見せたかった司馬懿は
帯方郡で待機していた難升米たちを洛陽に連行して
「東の果ての大国」が早速朝貢しにきたのは俺のおかげと盛りに盛った
そのおかげで奴隷10人布少々のしょっぱい使節は
金印、銅鏡、その他沢山のお土産を貰いましたとさ そもそも魏志の信憑性すら低いのに、
そんなの根拠にしてる九州説を支持する理由がわからんわ >>433
えーと南を西に直角に曲げる畿内信者はどうすればいいのだ >>396
中平六年や黄初や正始五年など
年号の入った鏡は中国でも見つかってるよ >>424
>ところでこの朝鮮貿易の主要品は燕鉄(朝鮮中部にも鉄炉があったがメインはもっと北)の鉄産品で
根拠は?
魏志韓伝の「国には鉄が出て、韓、?、倭がみな、従ってこれを取っている」「また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」
と矛盾してるように見えるが? 『魏志』韓伝によれば
辰韓は馬韓の東にあり
国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている
とあります。
この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は
邪馬台国ではなく、九州の倭奴國の漢委奴国王です
その後、漢は西暦184年の黄巾の乱を経て衰退し
漢の郡や県が制御することが出来なくなった
朝鮮半島の韓と九州の倭は、好き勝手な振る舞いをし出したため
公孫氏が帯方郡の支配下においたのです >>413
そうやって印象操作に必死だけど
洛陽の三角縁神獣鏡は見つかった場所は畑 >>433
三國志は卑弥呼が死んで約30年後に書かれてて倭では多分壱与の治世
張政は実際に日本に暫く滞在して報告書を書いてる
信憑性は極めて高いと考えられてるよ。 >>437
1日本の弥生期の鉄成分分析で燕鉄と分析されてる
2朝鮮の製鉄炉遺跡は朝鮮中部に少し出るだけで南部にはまったく無い
3朝鮮で製鉄が広く可能になったのはだいぶ遅れて4世紀以降とされている
4「鉄を産する」との記述は鉄原料になる鉄鉱石とも読める(朝鮮南部に鉄鉱石が沢山出る) >>439
何処の畑かも分かっていないんだよw
本当に出土品かも分からない >>432
全く違う
「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は
遼東の公孫氏の支配下には、
遼東の南の楽浪郡と、
そのまた南の帯方郡と
そのまた南の韓と
そのまた南の海を渡った九州の倭がある
ことを、公孫氏から報告を受けて知っていた
だから
九州にある倭國を倭王とすることは出来ない
そこに九州ではないところの倭國から使者が来たため
これ幸いと親魏倭王にしたんだよ >>436
それも出土した場所が分かっていない
贋作の可能性が高い 魏志倭人伝では
卑弥呼の魏への謁見を求めての帯方郡への遣使は景初二年6月になってるけど
景初二年6月は燕の公孫氏の支配する帯方郡は魏と戦争中で
その頃は魏の領地ではない戦争中の帯方郡に魏への謁見を求めて
使者を派遣するというのはおかしな話
日本書紀や梁書や太平御覧には
卑弥呼の帯方郡への遣使は景初三年6月と書かれてるので
景初二年は後年の魏志倭人伝に生じた誤記の可能性が高い >>442
>>444
洛陽の白馬寺近くの畑とわかっているよ
発見者もわかっている >>443
別に東夷がどこの属国になろうが中華は拘らんよ
朝貢しにきたらヨシヨシするだけだ 外来土器がたった10%超えるくらいで、、
たいしたことないな。
徳島海陽町の芝遺跡は
弥生時代末期〜古墳時代初めに絞ると
外来土器が9割超えてる特異な遺跡。 >>438
アホw
漢の時代、邪馬台(九州)は、配下の奴国に朝貢させ、
自らは朝貢せず、つまり漢の臣下に成らずに朝貢の利
だけ得て列島に君臨したわけだ。漢の時代の列島覇権国。
それがバレるのが魏志倭人伝だ。
だが、その邪馬台が、漢の混乱期に起きた倭国大乱で
負け、和議条件=覇権放棄の証として女王(卑彌呼)が即位。
そして今度は邪馬台が魏に朝貢*させられ*た。新覇権国の
大倭(ダイワ)から。大倭=後の大和(ダイワ=やまと)だ。
大倭は、ちゃんと魏志倭人伝に登場してる。正体を偽装して。 『魏志』韓伝によれば
辰韓は馬韓の東にあり
国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている
とありる
この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は
邪馬台国ではなく、九州の倭奴國の漢委奴国王です
その後、漢は西暦184年の黄巾の乱を経て衰退し
漢の郡や県が制御することが出来なくなった
朝鮮半島の韓と九州の倭は、好き勝手な振る舞いをし出したため
公孫氏が帯方郡を創設し、朝鮮半島の韓と九州の倭を支配下においた
そして公孫氏はその後
後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順
自らが支配下に置くのは
遼東と
遼東の南の楽浪郡と、
そのまた南の帯方郡と
そのまた南の韓と
そのまた南の海を渡った九州の倭
だと公孫氏は曹操に報告
曹操は後漢の献帝に公孫氏を推薦
公孫氏は後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、
帯方郡も後漢の郡として追認された。
「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿は、当然それを知っている
だから、九州にある倭國を倭王とすることは出来ない
そこに九州ではないところの倭國から使者が来た
なのでこれ幸いと親魏倭王にしたんだよ 農民が畑で見つけて骨董品収集家に売った骨董品w
それで考古資料と言えるなら学者は骨董市に通うべきww 🍺ドイツの方まで氷河だろ?
ミルウォーキー/札幌
北緯43度3分
ミュンヘン
北緯48度8分 『魏志』韓伝によれば
辰韓は馬韓の東にあり
国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている
とありる
この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は邪馬台国ではなく、
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜った
九州の倭奴國の漢委奴国王だ
これは、九州説者も畿内説者も異論はないだろう 王趁意さんという民間骨董品収集家らしい
ぐぐって見るとその「研究」の批評が結構出てくるぞ >>452
> だから、九州にある倭國を倭王とすることは出来ない
そんなことはないだろ
宗主国だった燕国を滅ぼしたらその属国が乗り換えてきただけの話だよ >>460
趣味の世界なので語りたくてうずうずしてる人がそれだけいるという事 >>386
変遷はあったと思うけど、戦争中に銅鐸作りまくってるはないとは思うかな。 >>460
しかもほぼ全員が頭どうかしてるような妄想を延々と喚いてるだけだしな
基地外の宝石箱 九州が邪馬台国の首都なわけないじゃん
外敵にいちばん近い場所を首都にするバカがいるかよ
三国志でいえば当時の九州なんか関羽が治めてた荊州みたいなもん 資料が僅かな古代の古代史好きな奴は妄想家 邪馬台国が北部九州にあったと
言う事実にも関わらず妄想に妄想を重ねて事実を隠しウソばかりででっち上げた
妄想畿内説を真実のように見せかけるテクニックには敬服する >>464
朝鮮半島南岸は基本同族で外敵と考えないのが普通と思うかな。 >>466
朝鮮まで行けるなら、九州にしか邪馬台国がないって考える方が不自然 >>459
宗主国だった燕国を滅ぼす前
だから
その属国が乗り換えてきても
ムリ >>468
帯方郡に到着したのは6月、8月に公孫淵滅亡
そこから洛陽に連行されて魏に朝貢
どこにも無理はない >>467
弥生時代、主に2つの弥生人の派閥が存在し、
その影響は古墳時代にまである程度及んでたと考えるかな。 >>457 つづき
そして
後漢最後の帝、献帝の、建安年間(196〜219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し、
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した
とある
この公孫氏が創設した帯方郡に属した倭も邪馬台国ではなく、
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜った
九州の倭奴國の漢委奴国王で間違いないだろう 本スレに天狗・有頂天・増上慢になってる奴がいるよね?
過去にも多くの天狗が現れては消えていったよなぁ・・・w >>455
馬鹿はこれだからw
自分で魏志倭人伝読んで、自分の頭で考えろ。
教科書に書いてる事に毒され杉。哀れだ。
あの分野の日本の学者がやってることは学問じゃない。
政治だよ。政争してるだけ。オツムはパーだ。 >>469
帯方郡に到着したのは6月、8月に公孫淵滅亡
もしも燕国の属国の使者だったら
切り殺されてる >>476
6月に帯方郡に到着してる難升米はもっと早く出発してるわな
つまり朝貢先は魏ではなく燕
でも帯方郡が魏の太守になったのは6月(と想定)だよな
そして8月まで足止めくらって洛陽に連れて行かれて魏に朝貢した >>457
魏志韓伝だからそこに書かれてあるのは魏の時代だよ >>474
九州北部を含め西日本全般に弥生人が多く分布してたと考えるのが普通だと思うかな。
ただ、九州北部及びその周辺地域とそれ以外では毛色がちょっと違いそうかなってだけで。 土器と桃の種しか出土しない纏向が邪馬台国の首都とか笑わせるんじゃ無い
邪馬台国の首都は吉野ヶ里と決まっている お前ら土器を珍重しすぎ。アフリカでもそんなに重視しない。 >>472 つづき
公孫康はその後、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国した曹操に恭順
自らが支配下に置くのは
遼東と
遼東の南の楽浪郡と、
そのまた南の帯方郡と
そのまた南の韓と
そのまた南の倭
だと曹操に報告し、曹操から襄平侯・左将軍に任命された
このときの公孫康が曹操に報告した倭も邪馬台国ではなく、
57年に後漢に貢を奉り朝賀し、光武帝から印綬を賜った
九州の倭奴國の漢委奴国王で間違いないだろう >>477
だから
朝貢先は魏ではなく燕
ならば
魏朝に反旗を翻した燕の属国ということで
劉マの後に太守となっていた劉夏に切り殺されています >>479
違うよ
馬韓・辰韓・弁韓は、魏によって滅亡してる 纒向遺跡の付近を見ると
大神神社、三輪山、日本一のたい焼き、三輪素麺山本、
箸墓古墳、その他古墳多数、JR巻向駅、大和青垣国定公園
が見えた。
国営飛鳥歴史公園、高松塚古墳も少し離れてあるな。 >>483 つづき
そして公孫康の息子の公孫淵が、
遼東の襄平城において自らを「燕王」と名乗り
遼東と
遼東の南の楽浪郡と、
そのまた南の帯方郡と
そのまた南の韓と
そのまた南の倭を支配地として
曹操と司馬懿が興した魏朝に反旗を翻し
魏朝がその公孫淵を討伐しているその真っ只中に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、劉マの後に太守となっていた劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出た
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼は
公孫康が創設した帯方郡に属した九州の倭と
同じかどうかだけれども
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼は
公孫康が創設した帯方郡に属した九州の倭と同じだったら、
難升米と都市牛利は劉マの後に太守となっていた劉夏に切り殺されていただろう 纏向からは土器と桃の種だけで無く犬の骨も出ていたな、忘れていたww
犬食民族が暮らしていた証拠 >>487 つづき
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼が
公孫康が創設した帯方郡に属した九州の倭とは
全く違う場所にある倭の國だったから
劉マの後に太守となっていた劉夏は
難升米と都市牛を、役人と兵士をつけて都まで送り
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼が
公孫康が創設した帯方郡に属した九州の倭とは
全く違う場所にある倭の國だったから
曹操と司馬懿が興した魏朝は
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼を親魏倭王にした
ということだ >>464
狗奴国という外敵が隣りにあるって魏志倭人伝に書いてあるんだが?? 文選の哲学が伝来するまで我々日本人は文章の大義すら知らぬ土人。文字を後世に残す意味すら知らない。悲しいのぅ〜。 >>491
その狗奴国が九州にあるんだろ
わざわざ外敵がいるところに首都置かない説を補完するだけの情報だな >>493
隣に狗奴国があるって書いてあるんだが?
大丈夫かオマエ?? 要するに本拠地を畿内に構え、九州で狗奴国と戦闘を繰り広げてたと
そこの将軍が卑弥呼だったわけだな >>494
だから九州に邪馬台国の前線基地があったんだろ つまり卑弥呼より上の存在が畿内にいたはずなのに、卑弥呼は勝手に大陸と交流して王と認めさせていたわけだな でなけりゃ、わざわざ頭下げて卑屈になるはずない
大陸の権威を味方につけて下克上でもしたかったのだろう https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=gyarmat%2C%20gyarmatok%2C%20gyarmatnak%2C%20gyarmatoknak%2C%20gyarmatot%2C%20gyarmatokot%2C%20gyarmatott%2C%20gyarmatokott%2C%20gyarmattal%2C%20gyarmatokkal%2C%20gyarmatostul%2C%20gyarmatokastul%2C%20gyarmatt%C3%A1%2C%20gyarmatokk%C3%A1%2C%20gyarmat%C3%A9rt%2C%20gyarmatok%C3%A9rt%2C%20gyarmatba%2C%20gyarmatokba%2C%20gyarmatra%2C%20gyarmatokra%2C%20gyarmathoz%2C%20gyarmatokhoz%2C%20gyarmatban%2C%20gyarmatokban%2C%20gyarmaton%2C%20gyarmatokon%2C%20gyarmatn%C3%A1l%2C%20gyarmatokn%C3%A1l%2C%20gyarmat%2C%20gyarmatok%2C%20gyarmatnak%2C%20gyarmatoknak%2C%20gyarmatot%2C%20gyarmatokot%2C%20gyarmatott%2C%20gyarmatokott%2C%20gyarmattal%2C%20gyarmatokkal%2C%20gyarmatostul%2C%20gyarmatokastul%2C%20gyarmatt%C3%A1%2C%20gyarmatokk%C3%A1%2C%20gyarmat%C3%A9rt%2C%20gyarmatok%C3%A9rt%2C%20gyarmatba%2C%20gyarmatokba.&op=translate
ヤマト七変化 >>496
違う、邪馬台国の南が狗奴国と接していると明記してある。
キチンと魏志倭人伝を読み込めよ。 >>501
馬鹿なのかお前
九州に邪馬台国の前線基地と狗奴国があって隣同士接しててもおかしくないだろ 九州の南部分だけ狗奴国で、北から中国地方を渡って畿内まで邪馬台国ってイメージしても何も違和感ない 大陸から渡ってきた弥生人が九州の原住民を南に追いやり、北に陣取る
そっから東征しつつ、南の原住民と戦った
その原住民が狗奴国 🇯🇵🤔ヤマのふもト?ヤマ(集団)?
🇭🇺🤔コロニー?入植地?
🇨🇳🤔従順な人々? ハプログループD,ハプログループNは極東に沢山いたはずだが。
現代はいない。 >>502
まだそんな事を言ってるのか?
魏志倭人伝に邪馬台国は南を狗奴国と接すると書いてある。
キチンと魏志倭人伝を読めバカが。 全くもってお話にならない。
なぜキンパーは魏志倭人伝を読まないのか?
キンパーは脳が破壊されているとしか言いようが無いな。 この様にして、
魏志倭人伝を読まない人間が、
畿内説等を主張してしまうのだ。
大変愚かなことである。
皆さんはこうならない様に気を付けましょう。
ただ、気を付けてもどうにもならない人間がいる。
ソレがキンパーになってしまうのだ。 熊本にあった狗奴国も佐賀にあった邪馬台国も江南人と縄文人の混血して
生まれた倭人、倭人同士の争いがおきていたと倭人伝には書かれている訳だ
熊襲は球磨川の南側に暮らしていたと言う事になる、邪馬台国と狗奴国の
人間が同一民族だった証拠はどちら側からも甕棺墓が出土したことで判る >>507
バーカ
なら俺が言ってることも当てはまるだろ 九州北部から畿内まで邪馬台国で、その九州部分が南九州の狗奴国と接してると考えれば普通にその記述に当てはまる 九州って狭い地域に邪馬台国を限定するのが間違いだといい加減気づけよ 遺伝子的にはもともと住んでいた縄文人と
何処かからやってきた弥生人が混血した民族のようだがw https://translate.google.co.jp/?sl=ja&tl=zh-CN&text=%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B3%E3%80%81%E6%97%A5%E5%85%89%E3%80%81%E5%AF%86%E8%88%AA%E3%80%81%E3%81%B8%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%B8%E3%81%A8%E3%80%82%E6%B0%B4%E6%88%B8%E7%B4%8D%E8%B1%86%EF%BC%9F%E3%83%8E%E3%83%83%E3%83%88%EF%BC%81&op=translate >>511
畿内説論者ってこんな幼稚な奴しかおらんの?w >>449
その芝遺跡も「狗奴国(長国)」の領分だ。 @阿波 >>452
>この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は
>邪馬台国ではなく、九州の倭奴國の漢委奴国王です
碌な鍛冶炉遺構の無い九州は、鍛冶鉄器王国倭国(阿波)からの鉄器被供給地域。 @阿波 >>457
>この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は邪馬台国ではなく、
いや、「邪馬臺国」と「狗奴国」だ。 ともに弥生時代中期後半から鉄器を作っている。 @阿波 >>514
違う。
旧石器人とどこかからやって来た人のミックスが縄文人。
縄文人とどこかからやって来た人のミックスが弥生人=倭人
倭人の国に大陸と半島(これも大陸からの人)からの難民移民が加わったのが古墳人や飛鳥時代。
民族移動で流入が起きたイギリスと比べても、日本は均一だ。
イギリスはアングロサクソンやノルマンの征服やらあったが、
遺伝子は場所によって随分違いがあり。
たかだか2000年ちょっとくらいではここまで均一にはならん。 >>484
魏志韓伝にはこうある
是後倭韓遂属帯方
もともと倭も韓も帯方郡に属してて
その親玉(宗主国)がすげ変わったに過ぎない
朝貢の使者ごときをいちいち切ってたらキリがない
宗主国と一緒に抵抗するなら切られるかもしれないが
乗り換えるならヨシヨシして終わりだ 名前からして古代朝鮮人部落
神社発祥の地
東行けば 伊勢 >この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は
>邪馬台国ではなく、九州の倭奴國の漢委奴国王です
碌な鍛冶炉遺構の無い九州は、鍛冶鉄器王国倭国(阿波)からの鉄器被供給地域。 @阿波 >この漢の時代、辰韓で鉄を取っていた倭は邪馬台国ではなく、
いや、「邪馬臺国」と「狗奴国」だ。 ともに弥生時代中期後半から鉄器を作っている。 @阿波 そんなわかってない事でテスト出さんでよ 歴史は昭和からで良くね? おい、畿内説よ。 古墳時代の畿内第V様式圏にどんな集落遺跡があると言うんだ?
まだ答えられないのか? これは由々しき問題だぞ。 @阿波 邪馬台国論争の下らなさの始まりは邪馬台国の具体性の無さ。
人口45万とか絶対絶対ありえないないないナイスネイチャw
様々の遺跡からの出土品を見ても、こんな貧弱な品々で高密度
の都市文明が成り立つ訳ない。日本で本格的に鉄を作り始めた
時期は紀元700年頃からだろ。
バビロンの最盛期ですら人口20万に過ぎない。
神武の東征みたいな、強烈な団結心が生れるのにはオリジナル
な文化が絶対に必要だが、そんなものは3世紀の日本には無かっ
た。まして、天皇家の年代的に見て神武は紀元前300年頃の人と
目されてるはず。その頃の日本人はホニャホニャの朴訥なただの
田舎のオッサン、オバチャンでしかない。それで神武が「さあ、
東を征伐しに行くでぇ!」で、部下たち「おぅ!」とか、ならん
ならんw >>529よ、「邪馬臺国」は「阿波」だ。 安心しろ。 @阿波 >>457
君は思い違いしてる。
邪馬台国は「国家」とは違う。
都をおいたある地方だ。
魏志のいう「倭」は、「倭人たち」という意味だ。
100のクニに分かれていた時代も「倭」だ。 >>482
出土するものしか研究できないからね。
アフリカは知らんが、欧州の考古学もやっぱり土器なんだよw >>530
阿波が邪馬台国なら、土佐が狗奴国かw
今の日本人には自民、維新、創価支持の
犬的奴隷が多い。 >>534
>阿波が邪馬台国なら、土佐が狗奴国かw
違う。
土佐は、「投馬国」だ。
阿波は、北部「邪馬臺国(粟国」と南部「狗奴国(長国」からなる。 よく覚えておけ。 @阿波 弥生時代の土器以外の青銅文化といっても、銅矛、銅鐸、
銅鏡ぐらいしかないからな。
纏向で見つかった炭化した竹籠だが、古代のアジアでは
竹に関する民話は沢山残っている。箸墓の箸も竹製だっ
たはずで、竹のモチフは邪馬台国と同年代と目される 滇
王国の金の腕輪や、青銅製の小さな家の模型などに現れる。
日本の各地の神社には宝物として様々な大籠が納められて
いるが、たいそうな由緒があるのが通常で、しかも元は全
部大きな竹籠であり、大きな竹籠は古代の舟や筏のシンボ
ルだ。纏向の纏の字が現すのも元は大きな瓢箪型の竹籠の
ことなんだが。
竹は古代はアジア一帯で豊穣のイメージと結びついており、
日本では竹取翁の竹取姫で知られる。竹は竜でもある。節が
あることから男根でもある。 >>490
1世紀に鉄器はあるよバカが。
日本には鉄も銅も紀元前5世紀頃に伝来している。
>>532
邪馬台国は「国家」だよ
倭国と略同じ意味だ
北部九州地域に邪馬壹国
南部九州地域に狗奴国
朝鮮半島南部に投馬国
中国地方に倭種
四国に侏儒 邪馬台国が畿内にあったとした場合
邪馬台国は後の大和朝廷になったのか
大和朝廷に倒された饒速日系だったのか
どっちかね 高句麗の北に住んでいたのが穢族
穢族の北に住んでいたのがアイヌ人 >>92
それが事実なら奈良や北九州も範囲外だな。
鹿児島宮崎、和歌山辺りだな。 公孫淵は236年に反逆し237年に魏との戦闘を開始し
238年8月に虐殺されてるわけで
卑弥呼がこの無謀な反逆者に肩入れしたとは全く考えられないね
卑弥呼の帯方郡への遣使は、238年6月と魏志倭人伝にあるので、
むしろ激戦地の様子見の偵察兼ねて卑弥呼は使節を派遣したんだと思うよ
この検使の時点で、既に公孫淵は司馬懿軍に包囲され死にかけてるので、
司馬懿が公孫淵を誅殺するのを見込んで魏への使節を出し卑弥呼が魏に国交を願うのは理に適っている
この点につきそんな激戦地に使節が行く訳が無いとして魏志倭人伝は誤りとし239年の使節という説があるが
むしろ、一番で司馬懿に慶賀するから大きな意味があるのであり
わざわざ記述に反して1年変える解釈は意味不明だね https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=zh-CN&text=%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%95%E3%82%8A%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%EF%BC%81%0A%E3%81%82%E3%83%BC%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%83%87%E3%83%96%E3%83%83%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%A0%E3%81%9E%EF%BC%9F&op=translate
難しいって事は違うんだろうけど。 >>529
魏志倭人伝の邪馬壱国の記述は伝聞である。訳する時に大袈裟になったか、倭人が大袈裟に言ったかと思います。 >>529
神武はただの伝説だろうねw
250年頃に40万の都市がある訳が無いが
馬韓で10万戸と数えてるので
九州地域(邪馬台国勢力)で10数万戸と数えるのは不自然ではないと思うよ
実際にそんなにいたかではなく魏がどのように見てたかという話だからね 大和朝廷から見ると、邪馬台国はたぶん土蜘蛛、縄文人
邪馬台国は当時の中国が付けた蔑称の当て字だから、実際にはたぶん山門国
卑弥呼は西暦248年に亡くなった山門国の女王
山門国は現在の九州北部と朝鮮半島南部を治めていた
魏に朝貢したり、熊襲と戦っていた
卑弥呼の死後は弱体化し、大和朝廷に滅ぼされた、たぶん 卑弥呼は、司馬懿より別格の待遇を賜り
238年以降司馬氏の軍事力をバックに九州で安泰を続けたのだろうね
もちろん楽浪帯方にも自由に出入りできるから九州朝鮮交易で儲けたであろう
卑弥呼死後に一時国乱れるが
すぐに台与で収まったのもバックにいる司馬氏のおかげである
しかし司馬氏が禅譲により晋の皇帝になると九州にいた魏の後見役は晋に帰国してしまう
また八王の乱で晋の帝室が殺戮の嵐になると楽浪帯方も事実上機能停止する
こうして310年代には晋のバックを失い九州女王国は弱体化したのだろう
ちなみに奈良では崇神晩年に任那(朝鮮南端部)の朝貢を受けたとあり
此れが大和朝廷正史での初の朝鮮外交記録である
つまり八王の乱で朝鮮も大混乱なので奈良の新興勢力に軍事バックの依頼がようやく来たと言える https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=hu&tl=ja&text=kudarc%2C%20kudarcok%2C%20kudarcnak%2C%20kudarcoknak%2C%20kudarcot%2C%20kudarcokot%2C%20kudarcott%2C%20kudarcokott%2C%20kudarccal%2C%20kudarcokkal%2C%20kudarcostul%2C%20kudarcokastul%2C%20kudarcc%C3%A1%2C%20kudarcokk%C3%A1%2C%20kudarc%C3%A9rt%2C%20kudarcok%C3%A9rt%2C%20kudarcba%2C%20kudarcokba%2C%20kudarcra%2C%20kudarcokra%2C%20kudarchoz%2C%20kudarcokhoz%2C%20kudarcban%2C%20kudarcokban%2C%20kudarcon%2C%20kudarcokon%2C%20kudarcn%C3%A1l%2C%20kudarcokn%C3%A1l%2C%20kudarc%2C%20kudarcok%2C%20kudarcnak%2C%20kudarcoknak%2C%20kudarcot%2C%20kudarcokot%2C%20kudarcott%2C%20kudarcokott%2C%20kudarccal%2C%20kudarcokkal%2C%20kudarcostul%2C%20kudarcokastul%2C%20kudarcc%C3%A1%2C%20kudarcokk%C3%A1%2C%20kudarc%C3%A9rt%2C%20kudarcok%C3%A9rt%2C%20kudarcba%2C%20kudarcokba.&op=translate
クダラ七変化 >>554
北海道朝鮮沖縄から渡日した原日本人が言語を持って来たんでしょうね
今のところ最古の旧石器人骨は沖縄なので台湾渡来ルートがもっとも有力でしょうね
スンダランドの北端にあたる台湾に原日本語の集団がいたんでしょう 魏志倭人伝によれば畿内説は馬鹿の作文
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
謎の水行陸行の箇所は、魏に朝貢に来た倭人から得た最新情報であり、その起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜伊都国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D南には敵対する狗奴国がある
E東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
つまり半島南部が投馬国、北部九州が邪馬台国であり、いにしえの倭奴国である。
図解:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里である。
参考)
・倭人は里を知らず日数で距離を示した(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 >>555
僕は枝分かれと思うかな。
沖縄に行った者と大陸を移動して後の日本列島やその周辺に来た者があり、
台湾と沖縄の間を黒潮が流れるようになって往来が難しくなり、
台湾の琉球民族はその後征服されたと思ってるかな。 >>557
沖縄の旧石器人骨が最近分析され現代日本人との血縁が肯定されたということで
台湾沖縄ルートが最有力なのは肯定できると思いますね
そこに北海道や朝鮮ルートも後で加わったのではないかな >>419
日本書紀で天孫降臨の地が「日向の襲(そ)の高千穂峰」と書かれた以上は
神話は鹿児島県内で完結しており宮崎県が混じる余地はないね >>559
日向とは宮崎県に鹿児島の一部を足したものだと思うが >>558
人骨で血縁が肯定されたってどの程度レベルまで分かるんかよくわからんけど、
台湾までは同じやったやろから兄弟的な存在ではあったろうとは思うかな。
日本列島に来た人々は一部朝鮮半島南部にも残ったろうし、
朝鮮半島において北方民族の南下で混血が始まり弥生時代初期に
縄文人の助けを借りて日本列島渡って来る者がいたのかなと推測するかな。
東北辺りの縄文人は樺太経由で南下してきた北方民族とも若干混血してるやろね。 >>556
こいつは日本史板にこれと同じデタラメ作文を貼り続けてる荒らし
嘘とインチキを暴かれてもしつこく貼ってるのだから荒らし行為の確信犯 佐賀福岡あたりは大水害で倭国大乱で、そして水害が起こりにくい奈良盆地大和地域
を選んで人々が集まって大和王権ができたという逸話が、今の気候惨状を見ると
納得できる >>561
襲という地名は宮崎県とは関係ないよ
今の霧島市のあたり >>561
言葉足らずでごめんね
行政区分は8世紀頭まで大隅も薩摩もまとめて日向国だった
日向の襲の高千穂なら霧島連山の鹿児島県側しかありえない 稲の花が咲く時期に洪水に遭ったら、一貫の終わりだからねえ。
今年はコメの出来が悪くなると思われる。
洪水の可能性が高い暴れ川の流域は、広い平野が有ってもほとんど未利用の湿地帯だったはず。 何で狗奴国と熊襲を同一視してしまうんだろうか?
音韻が違うし、距離の不一致を前提にした珍説 卑弥呼がアマテラス
高天ヶ原は福岡
邪馬台国は熊本
卑弥呼の代で九州中部の攻略に成功したからもっと南に天孫が降臨した
真実はわりとシンプルなもんだ
日本の神々がシナの皇帝の威を借りたなんて書くわけにもいかんだろうしな >>552
卑弥呼は、司馬懿より別格の待遇を賜った
それは
後漢最後の帝、献帝の、建安年間(196〜219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し、
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した
の倭とは、全く違い
九州の国では無く、対馬も壱岐も使わずに渡ってくる倭國だから
ちなみに
後漢最後の帝、献帝の、建安年間(196〜219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し、
この後、倭と韓はついに帯方郡に属した
の韓は、246年5月、司馬懿より滅亡させられている >>566
襲が太古には宮崎県全体にまで広がる勢力だったけど、
ニニギ一行がやって来た後、最終的には鹿児島県の一部に
押し込まれる形になった可能性も考えられるかもしれんけどね。 >>568
熊襲=熊+襲
熊 kuma =狗奴 kuna、kunu そして
後漢最後の帝、献帝の、建安年間(196〜219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為し、この後、倭と韓はついに帯方郡に属した
の、帯方郡に属していた九州の倭には、
対馬と壱岐を経由して
238年の、司馬 懿が公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で逃げてきた【燕】の残党と
その後の「韓の戦い」で逃げてきた【韓】の残党で溢れかえる
帯方郡に属していた九州の倭、
狗奴国(倭奴國)の男王、卑弥弓呼(漢委奴国王)は
朝鮮半島からと
帯方郡に属していなかったために親魏倭王となった畿内と出雲の連合國の邪馬台国からとの
魏の挟撃を恐れて、
朝鮮半島から逃げてきた【燕】と【韓】の遺民を集めて兵を興し
邪馬台国の卑弥呼に戦争を仕掛ける 皇子らも、翌年、洛陽苑の宴で謀殺され、ついに天祐4年(907)、哀帝(李昌翼の実兄)は、朱全忠に帝位を禅譲し唐は滅亡。これを受けて朱全忠は「後梁」を開いた。
その後、李昌翼は、養父の姓を享けて胡氏を名乗った。これが明経胡氏の始祖である」とあり、従来は一家伝に過ぎないと看做されてきたが、
DNA解析の結果、何らかの事実が反映されているのではないかと指摘されている。
史実としては、天祐2年2月9日(905年3月17日)、洛陽苑内で行われた偽りの宴会の最中に、朱全忠らによって哀帝の兄弟皇子(男子)17人のうち9人が謀殺され、7人の皇子らが身を隠し行方不明となっている。 朝鮮半島から対馬と壱岐を経由して逃げてきた【燕】と【韓】の遺民から
魏の2代皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿の狡猾さ残忍さをさんざん吹き込まれたのだから
帯方郡に属していた九州の倭、
狗奴国(倭奴國)の男王、卑弥弓呼(漢委奴国王)は
次は俺の番だと恐怖に駆られて
漢委奴国王として東征を決意して
朝鮮半島から逃げてきた【燕】と【韓】の遺民とともに
出雲畿内の連合國の邪馬台国の親魏倭王の卑弥呼に戦争を仕掛けるのは
当然だわな そして
朝鮮半島から逃げてきた【燕】と【韓】の遺民と
帯方郡に属していた九州の倭、
狗奴国(倭奴國)の男王、卑弥弓呼(漢委奴国王)から
戦争を仕掛けられた
出雲畿内の連合國の邪馬台国の親魏倭王の卑弥呼が
対馬も壱岐も使わずに出雲から対海國と一大國を経由して
【燕】と【韓】が滅亡した帯方郡に使者を送り、救援を求める
のも当然だし
救援を求められても
朝鮮半島から逃げてきた【燕】と【韓】の遺民と
帯方郡に属していた九州の倭、
狗奴国(倭奴國)の男王、卑弥弓呼(漢委奴国王)が
刃を東に向けているのなら
魏の2代皇帝「曹叡(明帝)」とその軍事トップの司馬懿はなんの心配も無いから
援軍なんか送るわけがないのも当然だ >>563
核心を突かれて焦ってるのか?w
畿内説は都合の悪いものに出くわすと必ず相手を卑下しながら根拠も提示せずに否定する
半島の反日民族がやってる事と一緒w 少なくとも考古学に3世紀後半とされる崇神の事績に魏志倭人伝の一致点は何もない
この時点で畿内説は常識的に破綻している
巻向の発掘はこの九州奈良無縁の事実をさらに裏付けてしまった >>579
畿内説の人は全員が願望と史実の区別のつかない朝鮮脳だなw >>580
九州無縁は邪馬台国の証拠なんですよ
>>571
>>574 不毛な文献あさりは置いといて、畿内説での邪馬台国王都有力候補地が纒向遺跡なんだろ?
北九州説での候補地はどこ?見つかったの?未だ見つからないの?だとしたらどうして見つからないの?
相手がリングに上がらないことには、試合にならないのだがw >>583
文献である魏志倭人伝との比定無しに畿内説が成立することは有り得ない >>586
だから、何でそこだけに限定されるんだよ
畿内までが邪馬台国でもいいだろ >>537
>妄想はチラ裏でやってろ
ヘタレは引っ込んでろ!
>阿波が邪馬台国なら、土佐が狗奴国かw
違う。
土佐は、「投馬国」だ。
阿波は、北部「邪馬臺国(粟国」と南部「狗奴国(長国」からなる。 よく覚えておけ。 @阿波 九州説とか四国説は倭国を狭い範囲に詰め込み過ぎる傾向があるね。
畿内説を支持する訳では無いんだが、
町おこし志向が強すぎると思う。
実際の倭国の領域は日本列島の西側三分の二ぐらいの広い範囲。 >>587
3世紀には九州と関西での交流自体がない。 >>589
>九州説とか四国説は倭国を狭い範囲に詰め込み過ぎる傾向があるね。
アホ! 倭国は時代が下がるにつれて、広がるもんだ。 @阿波 弥生人が紀元前10世紀に大陸からわたってきて、その1300年後かに倭国が成立してんだろ?
その間に弥生人は西日本に広がってるんだから、そこを統一したのが倭国で全然おかしくない 「卑彌呼」時代の倭国は、阿波(粟国+長国)+南淡路島+讃岐 程度だろう。 @阿波 >>594
独自説を主張するならまず根拠を示さなきゃダメですよ。 >>596
>独自説を主張するならまず根拠を示さなきゃダメですよ。
根拠ってなにを出せばいいんだ? @阿波 あなたは願望だけで主張してるから根拠が示すことができないのです。 そもそも統一どころか現代の各県単位ぐらいに権力が成立し国内戦争状態だったのが3世紀の日本でしょ
崇神ですら疫病根絶したら吉備北陸東海に軍勢を送り激しく交戦してるぐらいである
統一的王権の成立は4世紀に畿内勢力が伸長した結果でしょうね 中国語と一致していない日本語を調べていけば
輪郭が見えてくるがw 九州倭国→倭国大乱→大和王権?
→白村江敗戦→日本建国
室町日本→戦国時代→豊臣統一政権
→朝鮮出兵→江戸幕府成立 佐賀の氾濫を見てると吉野ヶ里が正解のような気がしてきた
佐賀は昔から氾濫を繰り返して肥沃な土地だったんだろうなと思う 都市というか集落があって、そこにいろいろな地方から流れてきた
土器があっただけじゃん? >>607
そりゃ、「卑彌呼」時代の倭国はそんなものさ。 雄略天皇時代なら、もっと拡大してただろうがな。 @阿波 そういえば、奴国とか狗奴国とか、一文字や二文字の国名が多い中、
邪馬台国はなんで特別長い国名なのかね? >>591
>全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が最も多く43%で、河内系13%、山陰系11%、近江系8%、吉備系7%などだった。阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
九州の土器がないなw >>611
じゃあ九州が狗奴国でその他西日本が邪馬台国だな https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=ta&text=%E6%AD%AF%E7%A3%A8%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F&op=translate
✨🦷🪥 >>613
え?
普通に日本海からわたって丹後半島から畿内来れるだろ 女王国の東、海を渡ること千余里で、また国々があり、これからもすべて倭種の国である
1、九州南部の場合>四国
2、四国の場合>紀伊半島
3、紀伊半島の場合>三河・知多半島など
4、伊豆半島の場合>ちょっと遠いけど房総半島・・・
5、房総半島の場合>・・・さすがにハワイは遠すぎた。 >>570
卑弥呼の代はもっと後だよ
初代天皇の神武が九州日向から出発して大和を制圧した事が記紀に書いてあるから >>617
>初代天皇の神武が九州日向から出発して大和を制圧した事が記紀に書いてあるから
いまだに九州には、こんなお目出たいヤツがいるんだなぁ。 ある意味感心するわ。 @阿波 >>612
あいにく大陸製の土器は九州のほうが多い
「親魏倭王」卑弥呼が居たのが九州なのは明白
国産土器ばかりのマキムクはノーチャンス >>621
出島で取引した舶載品は江戸に運ばれたから東京でも見つかってる
でもマキムクでは見つからない
これが答え >>612
ソレはムリ。
なぜなら、末盧国、伊都國、奴国、不彌国が邪馬台国の北の国で、
邪馬台国に属している国になり、
これらの国の南に邪馬台国があって、
その南に接する狗奴国という位置関係
を日本の地図の中に再現することができない。 狗邪韓国=金官伽耶
対馬国=対馬
一支国=壱岐島
末廬国 =松浦
伊都国=糸島・怡土
奴国=那の津、那珂
不弥国=宇美
投馬国=妻・都間
邪馬壹国=山門
狗奴国=球磨、隈
侏儒国=種子島
この様にして、現代の地名にも
魏志倭人伝の国名は、
明確に残っており、
コレを謎と言うのは、
畿内説のプロパガンダでしかない。
最初から、邪馬台国の位置に謎は無いのである。 中国との交流を表してる中国鏡の分布図があります。
景初三年(239年)に魏に使いを送った国はどこにあったと思いますか?
https://i.imgur.com/BbxsgG7.png だいたい邪馬台国が畿内から九州に至るような領域国家だとしたら
邪馬台国に至るまでに記載されている現在で言えば市単位の小さな都市国家が併存しているのが
アンバランスすぎるだろw
そんな巨大な版図を持った国が邪馬台国なら九州の一地域の狗奴国との戦に苦労して
魏に助けを求めないだろ?
あるいは伊都国も独立させていないで占領して邪馬台国になっているだろ?
倭国100カ国が大乱したって書かれているんだぞ
邪馬台国一国だけが畿内から九州に至る巨大な領域国家であとの99カ国は現在でいえば市町村レベルの小さな都市国家レベルの国々ってことになるんだろ?
畿内説論者のこの無理やりな妄想に賛成できる人間なんて、ほとんどいないと思うぞw >>625
大陸の贈り物を検査する拠点の伊都國の、
舶載鏡が大量に出土した、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡から、
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が
一枚もない事を持って、
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が
卑弥呼に贈られた鏡であるというロジックは
完全崩壊した。 >>625
答: 九州北部(邪馬台)
魏に遣いを送った邪馬台、女王卑弥呼の邪馬台(九州)だ。
だかその博多港は、大倭=後の大和(ダイワ=やまと)に
押さえられている。(魏志倭人伝)
魏から下賜された宝物は、全部、奈良に移送されたわけだ。
魏志倭人伝で分かるのは、漢の時代に倭国代表として朝貢
してた奴国が、実は邪馬台の配下だったということ。
ここから、漢の時代の実の列島覇権国は邪馬台だとわかる。
その邪馬台が、倭国大乱で敗れ、覇権放棄の証に女王を擁立。
女王=剣を持たぬ王・祈るだけの王 だわ。
そして、新覇権国・大倭から、今度は邪馬台が倭国代表として
魏に朝貢に出された。
新覇権国・大倭は、魏に正体を偽装し、博多港を押さえてる。
このやり方、列島内の政治で、列島覇権国は自ら朝貢せず、
つまり大陸の臣下に成ることなく、代わりに配下を朝貢させ、
朝貢の利だけ得て、列島内で君臨する方法だ。
江戸幕府・薩摩藩が、琉球国を清国に朝貢させたのに少し似てる。 九州のことなんか畿内の連中が相手にするわけない
卑弥呼が勝手にやってるだけ そもそも畿内は畿内で東征に兵力割いてるから、九州の田舎のことなんか卑弥呼にまかせきりだったに決まってるんだろ >>628
あのねえ、この図の3世紀の鏡は、
三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の事で、
これは実際には卑弥呼の時代には
流通していない鏡であると言い切れるモノで、
卑弥呼の時代に流通していた鏡と明確に考えられるのは、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡から大量に出土した、
方格規矩鏡の方で、その図の2世紀の分布の方なの。 >>629
>>630
残念でした〜
彌馬升=御馬城は
魏志倭人伝に、邪馬台国から
副長官の地位を与えられる方の
勢力でした〜 >>627
そもそも中国で三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡といった記年鏡は一枚も出土してないからな。 >>631
ほう、それは面白い。
なら、まだ卑弥呼の時代、博多港は大倭がガッチリ
押さえていなかったのかもしれんな。
卑彌呼の死後、邪馬台の覇権復興を掛けて男王が立ち、
直ぐに鎮圧されて女王(臺與)に戻してる。
その反乱の後で、大倭が直接、博多港支配に乗り出した
のかも知れんな。 >>633
ならますます畿内=邪馬台国説が補強されるな
副官がいるなら >>636
残念でした〜
長官は伊支馬=生目、
宮崎県生目の豪族が長官でした〜 >>637
だからそいつが畿内から長官に任命されてたんだろ >>638
宮崎県の豪族生目が長官であり、
本州一帯を支配していた御馬城が
副長官である。
宮崎県>本州一帯
この判断を下す女王の勢力がどこにいたか、
冷静に考えましょう。 奈良時代の九州に太宰府なんての置かれてるの見てもわかる
あそこは大陸を迎え撃つ要塞みたいな土地
そこに長官がいても不思議はない >>634
中国でも中平六年や正始五年と
年号の入った記年鏡は見つかっているよ また、記紀では、
生目は御馬城の息子となっているが、
魏志倭人伝では、
生目が長官であり、
御馬城が副長官という
逆転現象が起こっている。
つまり、この崇神→垂仁の継承は、
万世一系男子の継承では無かったと
考えられるのである。 >>627
三角縁神獣鏡は九州からも20面ほど見つかっている 卑弥呼は、北部九州
邪馬台国は、畿内
もう解決済み 三角縁神獣鏡は数が多いので
どれからどのように派生して
どのように変化して行ったかも
研究されている。
古いものは九州や出雲に多く、
これらが派生して畿内に移っている。 記紀や特殊器台埴輪、桃の種、犬の骨等を考えると、
やはり御馬城崇神は吉備出身の豪族であり、
ソレが日向生目の豪族と繋がる接点は、
息子景行の吉備津彦の娘、播磨稲日大郎姫との婚姻であると考えられる。 >>643
邪馬台国の、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた
平原遺跡から見つかってないと意味ないんだよ。 畿内説論者のソース=学者の論文や文献
九州説カルトのソース=ド素人の同好会HP、個人ブログ、胡散臭いネット情報
ガセネタ、嘘、デマ、作り話を必死に集めて九州だ、九州だと喚いてるんだから
こんなやつらと議論が成り立つはずがない 東海系土器の代表、S字甕、パレススタイル土器。尾張国が製造武器庫だったか。 >>625
景初三年とかデマもいいところ
魏志にはきちんと景初二年と書かれている 畿内説のソース=偽学者の妄想
九州説のソース=魏志倭人伝、考古学的資料 >>644
これでいいんじゃないの
二つの情報が合わさってる
北九州の諸国を従えた卑弥呼率いる女国は北九州にあり
水行一月とかの遠絶の邪馬台国は畿内にあったと 根本的に邪馬台国に都があって女王がいると明記されており、
邪馬台国と女王がいる都は分離不可能である。 中国の魏志南北朝史学会の教授は
女王国東渡海千余里に注目して
畿内はこの条件に一致しないから九州と結論している >>645
卑弥呼が景初三年に魏に使いを送ったので
景初三年と書いてる鏡が一番古い
景初三年と掘ってる鏡が畿内から見つかってる >>647
平原遺跡から出るのは漢鏡なので
卑弥呼の時代より古い物 >>657
それってただの和製コピーだよ
というかもともとそんな鏡もらってない可能性が高い 生目長官が邪馬台国に居を構えた位置が分かっちゃった。
久留米大善寺玉垂宮だ。
あー、ここがほぼ邪馬台国の都で間違いないだろうな。 >>658
残念でした〜
コレが卑弥呼の死亡時期同時代に流通していた
舶載鏡である事が確定しています〜 >>656
あの教授は恣意的すぎる
山海経から引用されている伝説上の国と同列に書かれている記述だから信憑性がないのを知っているにもかかわらず
九州にこじつけたいから無理やり信憑性のない記述を根拠に選んだとしか言いようがない >>662
女王国東渡海千余里復有国皆倭種という情報がまずあって
東南大海中にある伝説の島国の記述をコピぺしてきて水増ししてるな
魏志倭人伝はこういう水増し記述が異様に多い
それは何故か?
東夷伝序文に司馬懿が公孫淵を討伐したお陰で
東夷の詳細がわかるようになったと書かれている
なので詳細が分かってもいないのにさも判明しました!という体を装うために
時代も場所もバラバラの情報をあちこちからかき集めてきて水増ししているわけだ >>663
>女王国東渡海千余里復有国皆倭種という情報がまずあって
そんな情報があったとみなす根拠がない
北部九州から首都の邪馬台国までの里数さえ知られてないのに
その先にある国名も不明の国までの里数が知られていたとかあり得ない話
倭人は里数を知らないし、魏使が訪問したとは読めない
明らかに創作だろ 女王国の北部は里数戸数確認出来たが、あとは遠くてよくわからない
↓
畿内説だと博多湾〜出雲?〜奈良の道中は無人となってしまうので、国名だけ紹介されている国々は東日本となってしまう
じゃあ女王国の東の海を渡った先にある倭種の国はどこ?
まさかの北海道?w
話にならねえなw 九州には邪馬台国の伝承地名が現代にも残ってるんだよ。
確率として100。
誰も疑うことの無い状況まで来たな。 東に渡海すると倭種の諸国になるがよく分からない
というのは九州が本州とは交易以外は政治軍事的に没交渉ということだろう
魏の使者である張政はそもそも九州から出ていないと思われるね 「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」について
邪馬台国を大分県に比定すれば、東側に海がある(1000里は合わないが、論点が違うのでここでは触れない)
しかし、伊都国や奴国とは文化圏が違うので、伊都国や奴国が邪馬台国連合30国に入らない珍説になる
また、魏との交流痕跡が多い畿内までも国名不明の倭種の国とみなす理屈は不合理、というか明らかに矛盾
邪馬台国を筑紫平野に比定すれば、伊都国や奴国と同じ文化圏に入る
しかし、筑紫平野の東は海ではなく山であり、記述と不一致になる
東の海の向こうの倭種の記述が九州説に合うとかは、ド素人が「地図だけ見て」思いついた戯れ言に過ぎない
「諸説あり」に出てた中国人学者も日本の考古知識がないので同じ >>665
台湾大学の教授は
当時ろくな伝達手段もない時代に
伊都国と邪馬台国が遠く離れていることはあり得ないと言ってるな >>670
>当時ろくな伝達手段もない時代に
「忌部一族(阿波勢力)」は遠く、朝鮮半島まで出かけているがw これ如何に。 @阿波 >>669
>また、魏との交流痕跡が多い畿内までも
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ / 坂靖 (著)
著者は次のように指摘します。
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。・・。さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 邪馬台国の東は豊の国を含んでいるのは間違い無い。
なぜなら、考古学的に、国として記述されるレベルで発展していた事が間違いの無い地域で、
実際に宇美から妻国までの行程の中に地理的に入ってくるのが間違いの無い地域なのに、
魏志倭人伝に記述が無い事。
尚且、卑弥呼の次の女王が、
豊の国の姫、臺与であるという事。
以上の事から、豊の国を含む地域が
邪馬台国であった事は間違いない事だろう。 ちなみに張政は使節だが
正確に言えば邪馬台国を監視するための後見役ないし軍事顧問と言うべきだろう
卑弥呼の死の直前に帯方を発し、邪馬台国に告諭している
これは魏の官吏として保護下にある邪馬台国の政治に強く介入してることになる
このような張政の非常に強い立場からも
逆に邪馬台国が九州の地方政権に過ぎなかったのは明らかであろう
この時期の邪馬台国はっきり言えば魏の保護国なのである 何も知らないバカが延々と妄想を垂れ流してて面白いな >>670
台湾大学の教授?
その人って「諸説あり」に出てた政治学の学者のことか?
中国の古代史については素人、日本の古代史についてはもちろんド素人
ググった知識くらいはあるかもしれんが
伊都国と邪馬台国が遠く離れていることはあり得ないと言い張っても
3世紀は列島規模の広域交流が活発化してきた時期
ド素人が考古学的事実を無視して、根拠もなく「あり得ない」と言い張っても説得力なし >当時ろくな伝達手段もない時代に
「忌部一族(阿波勢力)」は遠く、朝鮮半島まで出かけているがw これ如何に。 @阿波 >>677
そんなド素人幾ら何でも出さないんじゃないの? >>677
広域交流って行商人が旅するのとはわけが違うわな >>677
奥山というド素人畿内説は元気にしてるのか? >>677
>>679
古代の政治を研究してる学者だから素人ではない >>673
625を参照
実際にあるものをないことにしたいなら、明確な根拠が必要 張政が卑弥呼に与えた黄幢は、
倭姫命から大幡主の命に贈られた
黄色い旗で間違いないだろう。
コレは、現代においても、
博多祇園山笠の大幡主命の旗として、
飾られているモノである。
となると、やはり、張政の檄文が、
どこかに伝わっている筈だ。 >当時ろくな伝達手段もない時代に
考古学は残酷。
「忌部一族(阿波勢力)」は遠く、朝鮮半島まで出かけているがw これ如何に。 @阿波 >>683
景初3年の国産鏡に何か意味があるとでも >>682
古代史の研究者でもない人間が研究???
どんな研究をしてるんだ?
趣味でやってるだけなら素人
当たり前だろ >>683
参照と言われてもどんなデータなのかすら定かでない図を出されても困るわw >>683
そこに3世紀の鏡とされている画文帯神獣鏡は、
実際には卑弥呼の死亡時期には
舶載鏡として、邪馬台国内部で出回っていなかった事が、
邪馬台国の外交上の重要拠点であった伊都國の平原遺跡の数々の舶載鏡の中に、
一枚も存在しない事で証明されている。 ちなみに張政の存在が畿内説には全く整合しない
箸墓古墳を作る崇神に告諭した中国人はいないのである
畿内説だと魏志倭人伝と崇神記の整合点が全く無い つうか、倭人拉致して魚釣らせたって
書いてあるじゃんw
都合の悪い部分は無視w
当然、中国大陸に住んでいたんだろう。 >>689
ド素人の出まかせ、嘘、捏造による反論は無意味なので不要 >>682
古代の政治ってローマと中国以外まともなもん無さそうだけどな。
その一環で邪馬台国との外交とかも入ってきそうだけど 🇨🇳🐼俺の父親だ!
🇯🇵👱俺の父親だ!
🇰🇷🇰🇵👱♂俺の父親だ!
🇭🇺👱♂……😅 中国魏晋南北朝史学会の副会長や台湾大の教授を罵倒する畿内説
さすがだわw >>695
どんな優れた学者でも専門外の分野はド素人
当たり前だ >>696
じゃあ中国語しゃべれない日本の学者は全員ど素人ってことでいいな 天候異常で全国あちこち洪水で水没したから土器持って、水没しなかった纒向に集まる >>696
中国魏晋南北朝史学会の副会長やってるのに
ド素人ってことは無いでしょ。
「魏晋」の時点で邪馬台国も外交相手だから研究対象なんじゃないの? >>696
考古学は作文だから中卒程度
世間のド素人は大卒だからなw >>692
理論上間違いのない
1+1=2のごとき反論で、
素人か言った云々で
それを間違いにする事は
不可能なレベルである。 >>697
考古学者は文献解釈の分野はド素人
文献史学の学者の解釈の中から考古資料と一致する解釈を支持してるわけだろが 日本の専門家は畿内説に反旗を翻してしまったなあ
ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ
坂 靖 (著)
同志社大学大学院文学研究科修了、博士(文化史学)。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保護課 主幹。
考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
関川尚功 (著)
1951年、長野県生まれ。関西大学文学部史学科卒業。
1974年、奈良県立橿原考古学研究所入所。学生時代を含め約40年、大和の遺跡や古墳の発掘と検討に携わる。
纏向遺跡、藤ノ木古墳、太安萬侶墓などの調査に従事。 外来系土器のうちで1番多いのは朝鮮半島の土器だった そういえば小学校の卒業記念にタイムカプセル埋めたんだけど成人式の日の掘り起こしイベントに行ってない
俺の粘土細工どうなったんだろう N-Y70200 - 中国(陝西省)
N-PH1612 - 韓国
N-PH1896 - ハンガリー、トルコ
N-A9416 - ハンガリー、クロアチア、チュヴァシ共和国 >>703
関西大学史学科だと
ほかに文献史学で九州説の人もいるし畿内説の人もいるし
考古学で畿内説の人もいる
学者レベルでもまだまだ両方いるんだよな 魏志倭人伝に合う事実が1ミリも無いのに
どうやって学者が畿内説になるのか不思議でしょうがない 伊都國は邪馬台国の重要拠点で、
刺史の様な役人が常駐していた。
帯方郡の使者は伊都國に駐在していた。
洛陽や帯方郡からの使者は、
伊都国の港頭で臨検し、
文章や賜物を調べ、
女王のもとに届けるものが、
これと違わないようにした。
こう言う重要拠点の伊都國で、
卑弥呼の死亡時期と
同時期に作られた平原遺跡から
出土する舶載鏡の数々の中に、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が
1枚も存在しない事を持って、
洛陽や帯方郡からの賜り物の中に、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が
存在しなかった事が照明された事は、
一切のでまかせ、嘘、捏造を含んでいない、
正しい理論である。 一日中バカな妄想をわめき続けてる奴ってどんな奴なんだろうな?
邪馬台国スレって本当に異常者ホイホイだよなぁ
賢者気取りのどっかのジジイとかなんだろうな
そっちの姿の方が気になるわw 今の魏志倭人伝の記述だとその行程から
九州はありえないので邪馬台国は畿内になる(それ以降の史書でも大和が邪馬台国となる)
それ以前の広志、魏略、魏書などの魏時代の資料を基にした史書の
記述だと不弥國や投馬國などがなく
伊都國のそばに卑弥呼の国があるように思えるから九州説と思われる
より丹念な史料調査や本文比較が望まれる >>710
例えば現代に置き換えて
外国から東京に銅鏡百枚輸入したとして
成田空港からそれが見つかるかな そして、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡から出土した
内行花文鏡と方格規矩鏡と四螭文鏡が、
卑弥呼の死亡時期に邪馬台国で
流通していた鏡であると言い切れる。 >>713
2行目「畿内」は有り得ない
魏の使節が南の意味を知らないという不思議な畿内説になる >>715
内行花文鏡は漢鏡
卑弥呼の時代は魏だから
三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡など魏鏡が見つかる畿内に
邪馬台国があったとするのが一般的 >>714
成田空港には天皇の死に合わせて作られた遺跡は無いし、
国宝級の賜り物を埋蔵する施設もない。
それらの遺跡が実際に平原遺跡として存在する伊都國と、
成田空港は全く別のものである。 >>717
ソレは卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた、
賜り物を検査する伊都國の平原遺跡から出土する
数々の舶載鏡の中に、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が
一枚も無い事で完全に理論として否定される。 >>718
残念だけれど伊都国や平原は
卑弥呼が魏に使いを送った頃の魏の年号が入った
明らかに魏鏡の三角縁神獣鏡や画文体神獣鏡の出土がないので
魏の時代には重要じゃなかったという推定を覆せないね >>719
そもそも伊都国は魏の時代には一大卒を置かれて邪馬台国に監視されていた
なので伊都国が邪馬台国というのはあり得ないね 基本的には徐州の銅山を手に入れたのは、
晋の時代に入ってからであり、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が、
分析上、徐州の銅で作られていると言われており、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡から
画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡が出土しない事で、
魏鏡ではなく晋鏡である事が
裏付けられたと言えるだろう。 魏の時代は銅山が無かったので、
銅銭の流通が少なくなってしまった事が分かっている。
で、実際に徐州の銅で作られた鏡は、
西晋時代になってから流通するものであり、
魏で鏡といえば鉄鏡なのである。
そういう中で、銅鏡100枚集めたとなれば、
ソレは漢鏡で間違いないだろうし、
ソレが結局卑弥呼の死亡時期と同時期の
魏の時代に作られた平原遺跡の
舶載鏡の種類になって表れていると
言えるだろう。 そして、魏の曹操の墓から見つかった鉄鏡と同等の鉄鏡が、
日田のダンワラ遺跡から見つかったと言われる、
金銀象嵌の鉄鏡である。
それで、曹操約註集に貴人公主には
9寸の鉄鏡を送ったと明記してあり、
実際にこのダンワラの鉄鏡が、
9寸の鉄鏡である事で、
魏が公主卑弥呼に贈った鉄鏡なのだなという事が
確定したのである。 神獣鏡は畿内説から必死の押しが1990年代以降続くがどんどん畿内説には形勢不利になる
なぜならば全国の古墳からどんどん出て遂に数百面ぐらいになった
中国にはほぼ似たものが無いので当然少なくともかなりの割合が国産と考えるべきで
しかも4世紀のあまり重要でない古墳からどんどん出ると、
中国を真似た単なる副葬用の国産装飾品では無いのかと思われるのもやむを得ない
一番有名な奈良県の黒塚の33面はスプリング8分析で2018年に話題になったが実は2003年にも成分分析してる
その結果、中国の銅と一致したと2回も新聞に載ったが、ほぼ話題にならない
その理由は研究者も言ってるように中国の銅を日本で使うので、銅の成分ではどこで製作したか当然不明だからである
面数の多さから見て4世紀5世紀の奈良県に鏡作りの工人が居たんだろうね 大分には国東半島というのがあって
大昔は国の東の端っこということが示されている >>728
それは解釈が多少違うんだが、
三角縁神獣鏡が画文帯神獣鏡と
同じ銅で作られたと言う分析結果となり、
画文帯神獣鏡は魏晋鏡で、
三角縁神獣鏡も魏鏡であり、
卑弥呼に贈られた魏鏡であるという
主張になった訳だが、
画文帯神獣鏡は魏晋鏡ではなく晋鏡であり、
三角縁神獣鏡も晋鏡であるという分析結果であって、
三角縁神獣鏡は最低限、晋の時代の
鏡だなと、
各所から反論の声が上がっていた。
それを、更に補強する形で、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた、
邪馬台国の超重要拠点で、
外交上の贈答品を検査した伊都國の
平原遺跡の数々の舶載鏡の中に、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が無い事で、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が
卑弥呼の死亡時期に流通していた舶載鏡では無い事が
裏付けられたと言えるのである。 >>730
なるほどー。一応神獣鏡に関する記事等は沢山読んだんだが
研究者からそもそも銅の分析して舶載鏡と国産鏡の区別はつかんやろという意見が常にあるので紹介した
正確には晋鏡であるという問題のほうが重要な位置を占めてたんやね
いずれにせよ畿内説でも鏡の話は苦しいようで最近持ち出す畿内説論者はまず見かけ無いですなぁ >>722
魏志倭人伝には伊都国に一大率を置いたとか書かれていない
嘘吐かないように。 必死にウイグル人虐殺するのも
よく分かるような…w >>726
曹操と劉備の徐州の戦いで曹操が勝って
有名な銅の産出地である徐州は魏の領地になった事が三国志に書いてある >>736
徐州全土が魏になったわけではない
銅山のある徐州南部は呉の領土 >>737
徐州の呉の領地はごくわずかで銅の産出地は存在しなくて
鉄がわずかに産出されていた事が記録に残っている >>738
嘘つきw
177 :名無しさん@1周年 :2020/03/28(土) 03:48:01.99 ID:9OOE01ur0
徐州刺史部で銅山があったのは徐州最南端の江都や儀徴のみで三国時代は呉の領土だった
中原勢力が呉の銅を使えるようになったのは西晋が呉を滅ぼした西暦280年以降で、卑弥呼はもうとっくに死んでる
「銅出徐州」の銘文はその鏡が280年以降に作られていることを物語っている
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
三国時代の、魏の領域になっている徐州に、銅を産出する地域は、ふくまれていたのか。西晋時代、東晋時代の徐州は、どの範囲をさすのか。
すでに、1992年に、中国の考古学者、王仲殊氏は、参考文献を示し、かなりくわしく論じている。
略
要するに、上にのべたように、三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。
しかし、もし『銅出徐州』の銘文中の徐州が、いまの江蘇省の長江以北と山東省東南部の広大な地区をさしているならば、いまの揚州市付近の江都、
儀徴一帯には、古く銅鉱があり、漢代の初めに呉王の劉?が鋳銭したところと伝えられている
〔呉王劉?は漢高祖劉邦の兄の子で、呉地方に封建され、王国内の予章郡で銅山を開発して、銅銭を鋳造した。
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/365-17.gif
王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。 自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
(女王卑弥呼は)女王国より以北には、特に一大率を置いて諸國を検察させている、諸国はこれを恐れはばかっている。(女王卑弥呼は)常に伊都国で治めている。 銅出徐州で有名な呉の銅の論点なのに、知らない無知な人が畿内説を唱えてるんだなあw
さすが畿内説w >>739
こういう意見もあるよ
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。 >>742
そんなソースの無い妄想を並べられてもw 漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡によれば
呉の領有した徐州の一地域の広陵郡は
銅山はなくて鉄を産するのみとある >>639
イクメ大王 垂仁天皇
ミマキイリヒコ 崇神天皇
イリヒコって入り婿ってこと? >>675
しかし当時の日本唯一の国際都市伊都国をもつ邪馬台国は
日本最大勢力なのは言うまでもない
1-2世紀ごろと推察される鉄器の出土が
九州北部に集中していることからも疑いはない >>745
また嘘をついたな
銅山県に銅鉱山は無い
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 『漢書』地理志、『続漢書』郡国志には、彭城およびその付近の地区には、漢代に鉄鉱があり、かつて鉄官〔鉄の産地で鋳造を担当した官〕がおかれたが、
> しかし銅鉱はない。『新唐書』地理志、『宋書』地理志などにも、徐州には鉄を産するといっているが、銅を産出するとはいっていない。
> ただ、明・清時代の関係ある書籍になってようやく徐州付近に銅山があり、『旧く、かつて銅を産す』といっているが、実は根拠のないことである。
> 清時代の雍正年間〔1723〜1735年〕に徐州府に銅山県がおかれたが、しかし銅山といっても有名無実である。
> 近代の実地踏査によれば、徐州利国駅〔山東省との境にある地〕でとれるおもな鉱石は赤鉄鉱であり、銅山島の南端にある鉄峰の赤鉄鉱の中に
> 黄銅鉱がまざっていて、風雨によって緑色になっている。銅山の名のおこりはこのことからおこったのであろうが、しかし、採鉱のできるような銅鉱山ではない。
> 要するに、上にのべたように、三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。 >>145
逆算して結果から考えて、誤解し過ぎているだろ…。神武が手に入れたのは大和の一部に過ぎないよ。その後も周りは大和の豪族だらけ。
徳川家康の先祖・松平家の初代も謎の流浪人で三河のほんの小さな土地を入手したのが始まりだぞ。
後北条氏・北条早雲は京都で使えていた伊勢氏だったが、姉が嫁いでいた今川氏の元に来て伊豆を狙って手に入れたよ。
いくらでも事例がある。血縁や周囲の状況が許せば、どこの土地でも常に狙われるもんだろ・・・。 結局このように口からデマカセを並べるだけなのが畿内説の特徴
畿内説というのは学説などではなくただの嘘八百に過ぎない 畿内説は言い逃れが酷いなあ
ソース付きで呉の銅を説明しても、妄想で言い逃れだもんな
俺は畿内説で無くて良かったよw >>1
ジャップの文化は全て朝鮮のお情けで与えてもらったもの
ジャップオリジナルの文化は何一つない >>747
そうだね。鉄器分布から見て日本一の先進地で疑い無いでしょうね >>749
銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ
宋銭「元豊通宝」鋳銭が行われていた。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。んだよ
九州説は嘘ばかりついてるからとっくに学界で信用を失って
九州説の学者は誰も居ない状態 >>755
ソースを出してみろ嘘つき
"宝豊監"で検索しても畿内説のスレしかヒットしないぞw
口を開くと嘘しか言わない畿内説w >>747
違うね。漢の時代にみなと奴国が朝貢してたのに、
魏の時代、その奴国が港の管理から外され、ヒナモリ
というお目付け役まで置かれてる。
そして、奴国を支配する(=漢代の列島覇権国)邪馬台は、
倭国大乱の和議条件で女王を即位させてる。覇権放棄だわ。
港を押さえてる謎の勢力「大倭」、これこそが大乱の勝者
にして新覇権国だわ。(魏には正体を偽装しているがね。)
かつて邪馬台が配下の奴国を朝貢に出した様に、今度は
新覇権国・大倭が軍門に下した邪馬台を魏に朝貢に出してる。
大和は、港の横の伊都国に代官「一大卒」を置いて港を監理。
女王臺與の時代、邪馬台の朝貢は名前だけ。実務は完全に
大倭の代官「一大率」が仕切ってる。
この謎の新覇権国・大倭とは、後世、大和(ダイワ=やまと)
に改字する奈良のことだわ。 >>758
そんな根拠のない妄想を並べられましてもw
畿内説は嘘と妄想だけで出来ています >>759
根拠は魏志倭人伝と後漢書だよ。
そこから簡単に導き出せる論理的帰結だよ。 >>760
言葉足らずだったかも知れんが、邪馬台は九州だよ?
地政学からしても当然。
実際、上に書いた通り、邪馬台(九州)が大倭(奈良)に
負けて覇権を失っていて、卑弥呼の死後、覇権復興を掛けて
男王が立つも、また戦に負け、女王(覇権放棄の証)に戻してる。
邪馬台に覇権が戻ることは無かったわけだ。
という訳で、邪馬台が畿内にあって大和朝廷になったというの
畿内説派、有り得ないんだわ。 古墳時代の奈良畿内に王都集落遺跡がない。
よって、奈良畿内に大和朝廷に繋がる元となるものが存在しない。 @阿波 古代史はキチガイがいっぱいいるから、すぐに邪馬台国の話題に逸れるな
纏向がヤマト王権の出発地かってほうが重要なのに、結論出ないヤマタイなぞどーでもいいわ 奈良の歴史は、8世紀の「阿波」からの遷都より始まる。 @阿波 奈良の飛鳥遺跡は、倭国(阿波)王権庇護による、朝鮮半島避難渡来人によるものである。 @阿波 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 @阿波 >>761
魏志倭人伝
自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
〇(女王卑弥呼は)女王国より以北には、特に一大率を置いて諸國を検察させている、諸国はこれを恐れはばかっている。(女王卑弥呼は)常に伊都国で治めている。
×(女王卑弥呼は)女王国より以北には、特に一大率を置いて諸國を検察させている、諸国はこれを恐れはばかっている。(一大率は)常に伊都国で治めている。
一大率は女王国より以北に置かれているから、伊都国で治めているのは一大率じゃなくて女王卑弥呼だね
後漢書は1世紀頃までのことしか書かれていないが
北部九州地域に倭奴国が在ったことが書かれてる
君の意見は妄想でしか導き出せない帰結だな。 >>750
モモソが奈良の有力者と婚姻して
その孫世代の崇神が乗っ取ったのかな じゃなんでブダなんだ?
みたいなツッコミをw違うの?
違うみたい?いかにもインドと関係ありそうだけど。 遺跡とか探ってる奴は幸せでいいねぇ
過去のどうでもいい遺跡や遥か遠くの宇宙の事だけ考えてる生産性の全くない奴らってのは、
一体何なんだろう・・・
そいつら自信は意味が無いけど、そいつらの行動を後押しするパトロンがより多くの生産性を得ていて、こいつらを
援助してるから成り立っているんだろうな
要はパトロンのペットみたいな存在で、そいつら自信に人間としての生産性による価値はないって事だな >>774
遺跡は強力な観光資源にもなり得るものなんだが。
もちろん他の意義もある。
遠い宇宙の研究は地球を含む世界の誕生や未来の理解に
繋がり、物理学の進歩にも繋がり、それは生活にも役立つかも https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=ta&text=%E3%82%82%E3%81%A1%E3%82%8D%E3%82%93%E3%80%81%E9%A4%85%E3%80%82&op=translate
🍚 >>769
それはないな、伊都国の王が港を検閲し、責任もって女王へ届けるとある
女王がいるところには侍女千人がいて人前には姿を現さないので、伊都国の千戸というのではつじつまが合わない。
伊都国は政治をつかさどる官僚の集団だろ。 >>779
>伊都国は政治をつかさどる官僚の集団だろ。
今で言う、「出入国在留管理局」 だと何度言えばw @阿波 >>780
出入国在留管理局に諸国が恐れはばかることなどありえん
もういちど読み直してこい >>781
その方は、自分はご都合主義で強気で主張するが、
都合の悪い部分は見えない・聞こえないという特殊能力をお持ちなので、
何を言っても無理だよ。 卑弥呼は北部九州
邪馬台国は畿内
投馬国は吉備
狗奴国は熊襲
倭国大乱=出雲の国譲り=神武東征
解決済み >>781
>出入国在留管理局に諸国が恐れはばかることなどありえん
あほ! 筑紫忌部なんだぞ。
古墳の築造技術(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を目の当たりにして、
関東の土民も、朝鮮半島の先住民も、九州の土民も、畿内の土民も、
倭国(阿波)の超先進文化の移入を喜び受け入れ、尊敬し、「忌部一族」を王と仰いだことだろう。 @阿波 一大卒については各種史書の内容からその役割は明確になっている
魏志
・中国の刺史のごときもの(中央から地方に送られて監視する役目)
・伊都国に常駐し諸国はこれを恐れる
旧唐書
・アメノタリシヒコが各地に一大卒を派遣して支配
新唐書
・アメノタリシヒコは用明天皇。筑紫城から大和に都を移した後の王なので都は大和
と言う事なので九州は大和から監視の役人を送り込まれて支配されてる属国
当然、九州は日本の中心などではなく属国であることが明らかとなる
史書に明記されている
謎も何もない 歴史学と言うのは複数の史書や資料をもって裏付けをするものであって、一つの本の「解釈」など存在しない
倭人伝だけの解釈などを幾つ持ちだしたところで何の意味もなさない >>783
こういうやつって奇抜な話を作ればいいと思ってるのかな
魏志倭人伝を曲芸読みしてるだけだろ
ぼくのかんがえたさいきょうのぎしわじんでんかいしゃく 北部九州と吉備の協力で成り立った畿内な以上
女王国(女王国連合)は瀬戸内海一帯で
西日本に、またがっていた考えるのが妥当
本家は卑弥呼のいる北部九州 >>787
記紀との整合性を考えれば、自然とこういう結論になる
魏志倭人伝のみなら
邪馬台国の位置は台湾の東海、沖縄近辺になる 奴国の王様はどこ行ったんだろうね?
奴国紹介のときに少しくらい触れても良さそうだが
或いはそもそもいなくて倭の奴の国王という通説読みは間違いだったとか トンデモ同士、延々とバカ議論できていい関係だな。 わははははは @阿波 >>791
漢の委(倭)の奴の国王という3段読みは古代中国の印章に例がないそうだからな
漢の委奴の国王なんだろう 纏向が凄いのは分かったが
だからと言って纏向が邪馬台国だという根拠がよくわからないんだが
だったら良いなって話しなんせしょ? >>779
伊都国の王は港を検閲なんてしないよ
魏志倭人伝には女王卑弥呼の家臣が皆で、呼子の港で検査し、責任もって女王卑弥呼へ届けるとある
伊都国は卑弥呼の王宮都市だったんだ >>795
>莫大な予算で何も出ない点でしょ
その通り! @阿波 >>788
馬鹿はこれだからw
ちゃんと論理的に読め。 >>796
東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
伊都国には王がいて、女王へ送り届けると書いてある
王と女王はちゃんと使い分けてある >>736
当時の魏は貨幣の鋳造も碌に出来ない程に銅が枯渇していたんだが・・・
魏の時代に銅鏡は製作されてない説を推すね
王族ですら代替品の鉄鏡使用しているのに誰が銅鏡使うのかと 地政学から言うと、邪馬台(やまと)の起こりの地は日田。
そこから筑紫平野を支配し、最後、博多平野・博多港を手に入れ
地域覇権・ひいては列島の覇権を握った。
博多港を手に入れて以降、政治・経済の重心は、流通結節点である
大宰府の辺りにあったはず。当然、ここは軍事上の要衝でもある。
結果、邪馬台最盛期の事実上の首都機能は、ここに集中したはず。
卑彌呼は、倭国大乱で大倭に負けて、覇権放棄の証として即位。
籠っている訳だが、ひょっとすると、軟禁だった可能性も有る。
港の管理から外され、お目付け役ヒナモリまで置かれたかつての
朝貢国・奴国、この奴国がひょっとして大宰府辺りまで含むなら、
そこに軟禁されていた可能性も有りか。 >>764
邪馬台国禁止にした方が日本の考古学は発展するなw >>794
尾張を中心とした周辺豪族の連合政権だよ纏向は
それが邪馬台国かどうかなんて現状分かりっこないのだから議論するだけ無駄 カン違いしてる人が多いが歴史学も考古学も邪馬台国探しなんてしてない
不確かな文献しかない物なんて対象になってない
考古学は当時の発掘物を集成して大和から全国に展開する中心地が誕生してると言う風に言ってるだけ
で、聞かれたらおそらく邪馬台国と言うのを想定するならそこだろうと答える程度
邪馬台国探しなんて素人しかやってない >>805
>尾張を中心とした周辺豪族の連合政権だよ纏向は
そんな大層な連合政権がなんで突如消滅せにゃならんのだ? お前なりに披露してみろ。 聞いてやろう。 @阿波 >>808
いや大和政権のベースだろ
この連合政権が服属しない他の豪族を討伐して大和国が成立した
ヤマトタケルは尾張を象徴化した存在 >>809
>いや大和政権のベースだろ
だからなんで大和政権のベースが突如消滅せにゃならんのだと聞いている。
お前はそんなことも考えずに、妄想ばかり垂れてるのか? 出直してこい! @阿波 >>810
言ってる意味がわからん
記録に残ってないとかそういうこと? 普通、歴史学と言うのは複数の文献を調べて裏を取る過程を踏む
だから一つしかないような史料は史料となり得ない
考古学が用いられるのはそういう信用に足る史料がない場合
日本の古代史が考古学に頼るのはそもそもの史料がたりないから
なので倭自伝ひとつの解釈や読み替えなど学問でも何でもない
ただの作文 >>811
>言ってる意味がわからん
お前はよっぽどのアホだな。
じゃあ、なんで纏向遺跡は突如消滅したんだ? @阿波 >>813
遷都で何か問題あるの?
てか貴方はどういう解釈してるのよ >>814
>尾張を中心とした周辺豪族の連合政権だよ纏向は
だから、なんでその纏向遺跡は突如消滅したんだ? @阿波 もう奈良時代には古墳ってなんだかよくわからないけど天皇の墓にでもするか、とか
銅鐸はなんだこれ?意味わかんねえわ、とか
すでに連続性がないんだよな >>816
>いや何なのよあんた
お前、ボケてんのか? @阿波 >>816
この方は、自分に都合の悪いことには一切聞く耳持たないので、
相手にするだけ無駄ですよ。 >>814
>遷都で何か問題あるの?
どこへ遷都したんだ? 纏向に代わる、遷都した連合政権の王都集落遺跡はどれだ? @阿波 >>812
同感だな。同時代の傍証する新資料が出てこない限り、魏志倭人伝の解釈なんて結論出るわけないんだから議論するだけ時間の無駄
最近邪馬台国関連のスレいくつか見てみたが、ド素人が探偵ごっこ学者ごっこしてるだけだな
なんでもかんでも現代の地名と結びつけて、その地名が記録上いつからあるのか検証してなさそうなやつとか
弥生時代は海面マイナス2mだから〜と有明海沿岸の海岸線の議論をしているが、有明海なんて江戸時代から現在まで干拓が盛んで海岸線が沖に伸びたなんて義務教育レベルの話が出てこないとか
遠浅の海に流入する河川の下流部は、土砂の堆積作用で数百年千年スケールだとどんどん陸地が広がっていくので多少の海面変動なんて無視できるとか
地震等、長期的な地殻変動による隆起沈降の話が抜け落ちてるとか
レスバして互いに資料出し合ってるけど、レスの内容的にそもそも自分の出した資料の内容読み込んでなさそうなやつとか
見ててうんざりした 畿内説が不利になると阿波とか無意味にとか言い出すよな >>821
>同時代の傍証する新資料が出てこない限り、魏志倭人伝の解釈なんて結論出るわけないんだから議論するだけ時間の無駄
動かぬ、阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
異論が有ればどうぞ。 わははははは @阿波 文明らしい生活に必要な道具を木で加工するのに鉄器は必須だから
鉄器の出土量で経済力がわかる
経済が最も発展した地域が周辺を政治的に統べるのは
ごくごく当たり前の原理ね ある文献には、二十一年に任那は滅んだとある。
総括して任那というが、分けると加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、率麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞滄国、稔礼国、合わせて十国である。
↑
🇯🇵ひのもと国の役人ですら詳細把握できてないけどw 時間をかけて鉄器が北九州から関西まで充足していく
3世紀初頭から始まる日本の土地が西から東へ豊かになっていく過程こそが
神武東征に他ならない 細かい個々の人物の営みにフォーカスしなければ
単純明快なこと >>824
>鉄器の出土量で経済力がわかる
鉄器の出土量が多いところは、鉄器王国「阿波」から鉄器を多く供給されたことがわかる。 @阿波 >>823
史料が一つだと記述の信憑性自体が問題になる
伝言ゲームで話が変わることもあるし、丹があるのを見て丹を産する山を有していると大陸の人が思い込んだのかもしれないし
聞かれた人間が丹を産する山を有していると見栄張ったのかもしれない。それ一つで決定的証拠になるなんてことはない。もうレスしてくるな >>823
三重に丹生鉱山っていううのもあるしね。
若杉山は、確かに弥生時代の重要な辰砂採掘遺跡なんだが、
けっして唯一無二の存在というわけではない。
丹生鉱山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9%89%B1%E5%B1%B1 倭国とひのもと国は別の国なんだろうw
倭国語とひのもと語も違った? ついでに書いておくと、三重の丹生鉱山周辺は縄文時代に辰砂を採掘していた遺跡があり
記録上奈良〜鎌倉頃にも稼働していた。弥生時代にも採掘がおこなわれていた可能性は十分ある
続日本紀だと698年には伊勢のほか常陸・備前・伊予・日向から辰砂の献上があったということだし
下記の論文によれば奈良周辺のほか日本各地に水銀採取(丹)との関連をうかがわせる地名があるとのことなので
弥生時代後期の未発見の辰砂採掘跡が今後見つかる可能性もあるだろう
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/72/4/72_4_178/_pdf
おまけだが、弥生時代後期〜古墳時代の墳墓に使われた朱の産地を硫黄同位体比から推定しようとした論文もある
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chikyukagaku/47/4/47_KJ00009158966/_pdf >>832
沖縄が日本語風の言語喋ってるから
その仮説は無理よ >>626
形式的にせよ、わが国における領域国家の成立は8世紀初頭の律令制成立を待たなくてはならない
邪馬台国の実態はせいぜい小国家群の盟主、更に言えば交易の元締め的な、極めて不安定な存在だったと考えられる >>826
神武東遷は、架空の神話だよ。
奈良が、漢の時代の列島覇権国にして歴史的権威
となっていた九州やまと(邪馬台)を滅ぼし、
その権威を継いだ(てか奪ったw)のを正統なものに
見せる為に、後世において作られた神話だ。
魏志倭人伝をちゃんと読めば、2世紀後半(末?)の
倭国大乱で邪馬台は大倭(奈良!)に負け、列島の権力は
畿内に移ったのが解る。九州の邪馬台は、権力無き権威として、
しばし存続。その間、倭国代表の体で魏に朝貢させられてる。
だが邪馬台の博多港は、新覇権国・大倭(奈良)が掌握してる。
なお、邪馬台が大倭(奈良)に滅ぼされるのは、4世紀に入り
異民族侵入による華北崩壊で、東亞の朝貢秩序が消失した折だ。 >>834
https://youtu.be/DUUZrCk8864
植民地支配したみたいな話になるからタブーだがw
日本書紀に東征したと書いてある以上…
周りの国とは、ぽっかりハプログループが別れてしまっているし。 >>836
政治の中心が北部九州から近畿へ遷移したとされる説を
鉄器の年代別出土量の差異が支持している
その事実をもって神武東征と言っただけ
そもそも神話とでは年代が丸で合わないだろ >>834
沖縄が日本の文化圏に属するに至った(日本化)のは平安時代末期から鎌倉時代にかけて、多数の交易集団が流入したことが原因と考えられる
それ以前の文化や言語状況は不明な点が多い >>1
古事記や日本書記はいうほどでたらめではない
卑弥呼の魏志倭人伝に関しても神功皇后の章で言及されているし
卑弥呼は神功皇后の時代に存在していたのはほぼ間違いない
そして日本書記を見ればわかるが仲哀天皇とその后である神功皇后は山口県と福岡に数年滞在している
つまり日本の首都=御所は奈良や山口や福岡にあった時期があった >>828
>史料が一つだと記述の信憑性自体が問題になる
動かぬ証拠がまったくないお前に、言う資格はない! 消えろ! @阿波 そもそもウラル語族だからw
朝鮮半島から陝西省あたりにいたのは。
骨のハプログループを見れば。 基本的に日本中の丹生神社が
水銀鉱石を採取してたんじゃないかな。 九州のは街起こし
畿内のは考古学
他に産業が無い地域は学術的アプローチより金銭的アプローチに重きを置くからね >>831
>三重に丹生鉱山っていううのもあるしね。
至る所に丹生鉱山があるのは、だれでも知っている。
「卑彌呼」の時代に >>836
お前が勝手に日本書記を神話化するなよ
神武天皇以前は神話扱いだが、神武天皇からはちゃんと干支で年表が記されているぞ >>837
その在野の言語学者さんの説を取るなら
そもそもプレ日本語の発生が紀元前700年ごろの朝鮮半島で
紀元前300年ごろに半島南部と北九州に分布とあるが >>831
>三重に丹生鉱山っていううのもあるしね。
至る所に丹生鉱山があるのは、だれでも知っている。
「卑彌呼」の時代に(本当は縄文時代からだが)、丹を採掘していたのは「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。
たとえ山に「丹」鉱脈が有ろうとも、採取していなければ只の山。 @阿波 >>840
その通り。
史跡がどんどん記紀の記述の通りに発掘されており
特に崇神天皇以降は乖離が少ない >>835
>邪馬台国の実態はせいぜい小国家群の盟主、更に言えば交易の元締め的な、極めて不安定な存在だったと考えられる
その通り! 大河吉野川流域一帯の国家群だ。 @阿波 >>854
徳島の吉野川沿いって、
板野・阿波・美馬・麻植・名方の5国(旧郡単位)ぐらいだよね。
さすがに規模が小さすぎだよw 2世紀の九州と奈良の鉄器の出土量の差異に加えて
一大卒があったとされる伊都国からは
1世紀ごろの硯と規格が統一され高度な加工がされた
木製の座卓が複数出土している
漢字を使った文書管理がすでに行われていた証拠である
2世紀に物見やぐらの銅鐸をぶっ叩いてた土人そのものの奈良とは
雲泥の差である ? 08/17 16:31
化まだ
ル
ブ
ンス
ラク >>832
隋書倭国伝からそんな事を言っているんだろうけど
よく読んでみれば隋書倭国伝も魏志倭人伝もそんなに大きく日本書記と差はない
つまり日本書記と被る記述の方が多い
魏志倭人伝になるとおかしな記述が多くなるが
よくよく当時の事を考えると日本側が魏を恐れて敢えて偽情報を掴ませたのがわかる
つまり当時は地図自体が最高機密だった
だから魏志倭人伝から考え出される地図はあんなにもデタラメなのだ
あれを正確だと思う方が間違っている事にいい加減に気がつこうな
距離も都市名もデタラメ
初めの奴の国辺りだけは誤魔化せないから正しいだけ >>843
>水銀鉱石を採取してたんじゃないかな。
いや、「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂を精製していたところだろう。 辰砂鉱脈の無いところにも丹生神社があるから。 @阿波 >>847
だから東遷するまでが神話だよ。
滅ぼしたから神様にしちまった訳で。神話が必要だった。
これは出雲も同様だ。滅ぼした強敵出雲を神々の地とした。
宗教的、いやむしろ政治的な必要性からね。
出雲との違いは、その権威を奈良が継いだかどうかの違い。
邪馬台は、奈良がその権威を継いだから、その地の神が
東の奈良にやってきたことにした。神武天皇だね。
神武天皇は東遷するまで最初は神だったんだよ。
つまり神武天皇は、西の権威を象徴する架空の人物だ。
まあ、東遷以降も、史実とは見做せない時期がしばらく続く。
その意味では、東遷以降も「神話」はまだ続くと言えるかなw >>855
アホ! 池田から鳴門まで延々真っすぐ東西に80kmをも貫く「大河吉野川」流域に広がる弥生後期集落遺跡群だ。 @阿波 >>858
もしそうだとすると張政は北部九州から一歩も出てないと考えるべきだね
つまり風習や行政は繁栄に満ちた北部九州の様子を報告した文書になる >>860
でも東遷の記述って具体的だし実際の地形的に乖離が少ない
ナガスネビコとの戦いとか熊野の話とか史実入ってると思うよ
ヤタガラスは人で三島溝杭と同一視されてるし
溝杭は神武の皇后の祖父 >>863
>ナガスネビコとの戦いとか熊野の話とか史実入ってると思うよ
その通り! しっかり、「阿波」に痕跡を残している。 @阿波 >>1
魏志倭人伝があんなにもおかしいのは神功皇后や武内宿禰が魏を恐れたからであり
使者の張政だったっけ?
彼が案内された場所は御所ではない可能性が極めて高い
だから地図も滅茶苦茶であり都市名も距離も方角も全部デタラメで
魏に正しい情報を与えないためにいろいろな工夫をしていたと考えられる
卑弥呼も神功皇后ではなく卑弥呼が魏に援軍を頼んだ時点で神功皇后と武内宿禰に処刑されている
張政を出迎えはしたが、彼には正しい情報は敢えて与えないでいた
そのために田舎から田舎を案内された
ために文字もなく文明もないと張政は魏志倭人伝の元の日記にそう記述した
そういう場所しか案内されなかったから
しかし食事などいろいろな接待だけはした >>861
吉野川が東西に80km有っても今の河口の徳島市中心部辺りは、
耕作に向かない三角州や湿地帯だし、暴れ川の吉野川は毎年のように洪水をおこし、流れを変えるので、
水田耕作には向かず、徳島の米作はどちらかと言えば、南部の那賀川沿いの方が盛んで、
吉野川流域は畑作が中心、穀物が取れないと人口も増えないし、ムラの発展も難しい。 >>865
張政は使者じゃなくて駐在武官
要するにGHQのマッカーサー >>869
同意。事実上張政が魏の施政官でどの(九州の)倭人よりも上位 我々素人でも、鮮明に邪馬台国は
山門と言い切れる訳だから、
もう専門の学者も分かっているのは
間違い無いだろうな。
後は我々が圧をかけて、
邪馬台国は山門八女でしたと
言わせないといけない。 >>867
>吉野川流域は畑作が中心、穀物が取れないと人口も増えないし、ムラの発展も難しい。
心配スンナ。 穀物・食物・蚕の女神である「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」がついている。 @ 親魏倭王の称号がヒミコからトヨへ移譲されることを
公式に認めて内戦を諫めようとしてるんだから
ただの使者であるわけがない >>872
またそうやっていつものように現実逃避ですか?
ヤレヤレ >>869
張政は塞曹掾史で和解のための使者
別にこの時に倭の国は魏と事を交えていないからね
卑弥呼は張政到着前に神功皇后と武内宿禰に処刑されているけど >>874
なんでや? 「忌部一族(阿波勢力)」は雑穀栽培のノウハウを発明し、全国へ普及させているのは、周知の事実だ。 消えろ! @阿波 邪馬台国スレは何故毎度の如く、妄想スレに成るのだろうか? >>870
だから倭国は魏の同盟国のようなもので卑弥呼が貢物を出して魏に軍を要請しただけ
別に交戦しているわけでもないし
上位とか下位とかない
しかも魏国は倭国に親魏倭王の称号を贈っている
別に張政が絶対だったわけではなく
神功皇后と武内宿禰に騙されていたのが本当のところ >>876
アホんだら、発明なんかしとらんわ、縄文時代から連綿と伝承されてきた技術を洗練しただけだわ。 考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
コレが現在の一線級の考古学者の見解。
こういう人たちを支援する為にも、
我々も頑張らなければいけない。 >>875
妄想語りあうんじゃなくて歴史資料でよろしく >>858
さすがに無茶苦茶な事を書いてるとは思わない
ただいろんな史料を集めて想像で書いてる部分はあるだろう >>878
しかも魏国は倭国の卑弥呼に親魏倭王の称号を贈っている
魏国は倭国に対してそれなりの敬意を払っている
まあそんな卑弥呼は張政が来る前に処刑されているけどね
そもそも倭国の女王のはずである卑弥呼が軍事的に狗奴国の男子王卑弥弓呼に悩まされ全く敵わに魏に援軍を要請するのがおかしい >>875
1行目はむしろ魏の威信を示し敵方を退却させる目的だったような気がするね
塞曹掾史張政等を遣わし因って詔書、黄幢を齎し難升米に拝仮し檄を為りて之を告諭す 張政が卑弥呼に授けた黄幢は、
倭の姫命が大幡主命に授けた旗として
伝承の中に受け継がれ、
現在、博多祇園山笠の
大幡主の黄色い旗として飾られている。
後は、張政の檄文がどこかに残っている筈で、
それを探り出すしかないだろう。 >>882
張政は実際に日本に来ていたと思うよ
但しそれは日本の首都=御所ではなかった
違う地方都市に騙されてはいり完全に監視されて情報をコントロールされていた
偽情報を掴まされて、いろいろな貢物を与えられて彼らの国に送り返された 錦の御旗、魏がケツ持ちしている事実で
兵隊集めるなりして狗奴国との戦争を終わらせる意図
魏から援軍なんて来ないよ 卑しい字をあてられない高句麗ならともかく >>883
訂正
そもそも倭国の女王のはずである卑弥呼が軍事的に狗奴国の男子王卑弥弓呼に悩まされ全く敵わずに魏に援軍を要請するのがおかしい >>883
最後の行はそのとおりで卑弥呼が九州の地方政権の王であることが分かる
魏の行政官に頼らなければ隣国との紛争も解決できない弱体ぶりだった >>887
それじゃ朝貢した意味ねえじゃん
てか卑弥呼も台与も女らしい行動と言うのか権威に縋ったような気がするな >>888
魏志倭人伝を書いた人間と魏国の倭国への対応は違うからね
魏国は倭国の女王に親魏倭王の称号を贈った
魏志倭人伝を書いた蜀の人間は倭国を邪馬台国と呼んでバカにした >>871山門八女
そこは、邪馬台の一部だわ。
地政学から答は簡単に出る。
邪馬台(やまと=山戸・山門)は、日田盆地が起こりの地。
そこから筑紫平野一帯(八女もこの中)を支配下に入れ、
最後、博多平野・博多港をものにして地域覇権を握り、
交易独占(特に鉄)と漢への朝貢を握り、列島覇権をも
手に入れた。
邪馬台は、漢の時代の列島覇権国だわ。 >>871
考古遺跡の何もない八女と山門
畿内の大和
魏志倭人伝に7万戸と記される邪馬台国はどちらがふさわしいか >>892
数十年前の外交記録が音だけで伝わって
文字は編纂者が勝手に書き加えた?
そんなわけねぇでしょw >>894
戸数が盛られているのはどこに邪馬台国を比定しても似たようなものだろう
馬韓10万戸も怪しいものだ >>891
朝貢したのは神功皇后であっても朝貢を利用して魏の軍を要請したのは卑弥呼だからな
つまり最後に卑弥呼は倭国の財産を自分のために悪用した
だから卑弥呼はすぐに処刑され張政は卑弥呼の姿を見ることはなかった >>894
もちろん山門八女だ。
考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
コレがその考古学の結論だからな。 纏向遺跡はせいぜい国内だけの交流しか確認出来ないが
吉野ヶ里遺跡は中国製の刀などが出土しているから
吉野ヶ里を含む北部九州の方が遙かに国際的な古代都市
纏向のようなヘボ遺跡は北部九州の最低の遺跡よりも遙かに下位の遺跡 八女の筑後南部も
山門郡も遺跡群ばかりだよ。
あと、みやま市から大牟田、荒尾を挟んだ
玉名、山鹿あたりまでの地域は
鉄器が多いことでも有名。 >>895
元の文章が残っていないのだから仕方ないだろうよ 九州の各地方自治体は観光の為に税金投入しまくって、街起こし、おらが街の観光名所にしまくってるから
今さら後には引けないし、このままずるずる行くしかねーんだよね 中国まで行ってるんだから九州と近畿に交流はあっただろう
纏向から九州の土器が出ないのはその時期途絶えてたと考える方が良い 纏向の外来土器の出土状況から見て、
纏向が記紀で言う、
御馬城崇神の四道将軍を派遣した範囲を征する
王都である事は間違い無いだろう。
そして九州の土器が無い事で、
崇神がその本州を制するほどの
軍事力をもってしても、
九州に進出できなかった事を意味し、
当時の最大の軍事力を持つ国、
邪馬台国が北部九州にあったことが
分かるのである。 >>899
日本書記では神武天皇が奈良で初代天皇になったと書いてあるけど
その後も歴代天皇は九州巡幸をしているよ
景行天皇などの章を見ればわかると思うけどね >>573
熊襲という言葉は「襲」の方が本体だと思うけどな
襲は現代まで鹿児島の地名に残ってる お前ら邪馬台国は普通に崇神垂仁政権だよ
伊都国がポイント
倭人伝にも書記にも記述あるだろ
ツヌガアラシトは大カラ国の王子と記述があるだろ?
大カラ国が何処にあったか?
ほら明白じゃん >>904
うーん、それは違うね
九州から本州へ渡るのには船が必要でたかが土器を運ぶために船を利用する事がなかっただけ
割れやすい土器はそれこそ現地で作る方が早い
実際には日本書記が示すように神武天皇が九州から本州へと渡った
土器は基本現地生産
ただ陸地がある場合には運搬もあった
食事するときには必要だからね
船でわざわざ土器は運搬しなかった
高価な土器になると破損を恐れてなおさら運搬しなかった
これが正解 崇神御馬城は、魏志倭人伝に彌馬升として登場し、
邪馬台国の副長官であるのだ。
で、垂仁生目が邪馬台国の長官伊支馬として登場する。
結局、本州一帯を征しながら、
邪馬台国では副長官の地位を与えられる立場でしかなかったのである。
しかも、長官は日向の豪族生目である。
この魏志倭人伝の記述からも、
当時のパワーバランスが、
九州>本州であったことが分かるのである。 >>903
進んだ北九州から近畿にわざわざ物資を送ってもらうなら
土器より鉄器だろう >>910
それは大きな間違いであり、
考古学的にも九州から、
畿内の土器が出土する事で
完全否定できる、
なんの根拠もない貴方の
その場しのぎの思いつきであるな。 関西人=大和民族の末裔
関東人=被征服民族
が科学的にはっきりしちゃったか 大和は韓国中国への海路を確保するために宗像と組むしかなかった新興勢力でしょ
それ以前なら、対馬ルートを持ってた豪族が邪馬台国じゃないかしら
甕棺が出る地域の >>912
別の物を持ってきてたかもな
でも土器なんかなんで持ってきたんだろうな 物々交換してて土器は人気無いから捨てて帰ったのか? >>879
連綿と伝承されてきた技術を洗練して、栽培技術を確立したのを、発明というんじゃ。アホんだら! @阿波 >>912
その場合「北九州」じゃなくて「九州北部」な。
北九州は現役の市名と同じなので、誤解を招く恐れがある。
「南九州」は南九州市とか無いのでオケ・・・と思ったら、
俺が知らなかっただけで「南九州市」もできてたんだなw >>901
魏志倭人伝後半の制詔の部分は洛陽にあった公文書のまんまだと考えられてるけどね。 >>916
酒とか肉とか米とか食糧の交易に
土器を使うことはあるんじゃないかな 崇神と垂仁の関係であるが、
魏志倭人伝には彌馬升崇神が副長官であり、
伊支馬垂仁が長官であると言う。
記紀では崇神の子供が垂仁であるが、
子供が長官であり、親が副長官であったというわけだ。
従って、万世一系男子の継承という
天皇家の掟が崩れてしまっており、
結局崇神と垂仁の継承は、
直系男子の継承ではないという事になるだろう。 >>918
>連綿と伝承されてきた技術を洗練して、栽培技術を確立したのを、発明というんじゃ。アホんだら!
そんな説は初めて聞きました、改良と発明は別物です。 >>894
>魏志倭人伝に7万戸と記される邪馬台国はどちらがふさわしいか
ふさわしいのは、大河大吉野川流域一帯一択。 @阿波 >>904
>纏向の外来土器の出土状況から見て、
とつぜん消滅した、ショボい纏向をそれ以上言うな! なんの価値もない。 @阿波 >>913
神功皇后から応神天皇の時代には大勢の関東の兵が朝鮮半島に派遣されているからね
その時に食事用の土器が一緒に九州に運ばれたんじゃないのか?
日本書記を見ればわかると思うよ 名古屋辺りの土器は特に人気無いから大量に捨てたのか >>926
当然関西や日本中のいろいろな地方の兵が福岡経由で朝鮮半島に派遣された
三韓征伐もあったし
その時に食事用の土器が九州に流れ込んだと思う 纏向の外来土器の出土範囲が、
記紀に書かれた四道将軍の範囲に
ビッタリ一致する以上、
纏向の外来土器は、纏向政権が、
支配下範囲を示しているとしか言いようが無い。
それが北部九州の土器がほぼ無い事で、
記紀の通り九州には進出できなかったんだなと言う事が、
考古学的に確定するのである。 >>926
3世紀の関東人なんて石槍装備の縄文人やぞ 神功皇后と言うのは、
倭の姫命と同じ、
丹波氏の姫であるが、
丹波氏が丹後に進出していった
時代の話だからな。 土器や銅製品だってなにかと交換しないと手に入らないもんな >>924
何度も言うが、吉野川流域で7万戸を支えるのは当時は無理。
阿波忌部の直系の末裔だって遥か山奥の山の上に屋敷を構えてるんだから。 >>836
それなら日向神話が南方海洋民族の説話を元にしている理由がわからないね
文化人類学なんか存在しない頃の話だよ
それに権威を継ぐと言うなら隼人族である必要もないね
ではコピペ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>908
襲君とか襲武媛とか部族の名前にも出てくるからな
熊というのは聞かないな >>929
>纏向の外来土器の出土状況から見て、
とつぜん消滅した、ショボい纏向をそれ以上言うな! なんの価値もない。 @阿波 >>934
>何度も言うが、吉野川流域で7万戸を支えるのは当時は無理。
碌な集落遺跡もないくせに、お前に「阿波」を言う資格などない! 消えろ、どカス。 @阿波 それにしても襲武媛とか日向御刀媛とか戦闘少女という感じでそそる名前だね >>938
よそのことなど関係ないだろ、吉野川流域で7万戸は無理。 倭人伝なんか信用するなかと言ったかと思えば
倭人伝には天皇が書いてるとか大嘘を吐くし
畿内説ってなんなんだよ? >>941
>よそのことなど関係ないだろ
大有りだろうがよ。 大河大吉野川流域一帯の弥生集落遺跡群以外に7万戸(?)の集落遺跡があるのか?
碌な集落遺跡もないくせに、お前に「阿波」を言う資格などない! 消えろ、どカス。 @阿波 もともと百済は十済?
ますますクダラと読めないな…… >>898
畿内からは魏志倭人伝に書いてる卑弥呼が魏に使者を送ったころの
魏の年号の入った銅鏡が見つかってるし
卑弥呼の墓は径百歩つまり直径約約140mと書いてる通りの大きさの
前方後円墳が卑弥呼の時代から存在している
魏志倭人伝に書いてあるものが見つかるのは畿内
なので考古学で見れば邪馬台国は畿内にあった国 >>942
畿内説は狂人のたわごとだよ
だからもう日本史板ではネタ扱いされてる >>945
墓の構造がそもそも根本的に魏志倭人伝とは違うぞ 馬加も(千葉氏)カッコつけて…意味わかってたのかなw
可汗の意味 >>943
ちょっとは頭使えよ、一戸あたり4人が住んでるとしたら、
7万戸で28万人だぞ、無理にきまっとろうが。 >>945
ほらまたこうやって嘘を言う
畿内の銅鏡はもう国産だと分かっているのに
畿内説というのはこういう都合の悪い事実に全てほっかむりしてるだけの虚構です
337 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/01(土) 13:31:50.48 ID:xWuatOBT0
>>236
ただの国産コピーですがw
型取りすることでいくらでもコピーが作れるんだよ
今どきの歴史:三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 >>947
日本書紀と内容が食い違ってるって事は
どちらかが改竄したという事 九州説は議論をしてるのではなくて
やってるのは悪口による印象操作のみ >>947
魏志倭人伝に前方後円墳の大きさなんて書いてないが
書いてるのは径百歩という大きさ
このサイズの前方後円墳は卑弥呼の時代である3世紀から
畿内にあった事が知られている >>952
>>757から逃亡した嘘つきが言っても説得力ゼロだぞ
結局畿内説はいつも通りソースのない虚偽を並べ立てただけだったな >>951
箸墓古墳と同時期の奈良の古墳は有棺有槨
そもそも墓制が魏志倭人伝と根本的に違う >>949
ドアホ!! その7万戸をマジで信用してるのか? ちょっとは頭使え!どあほ。 @阿波 >>950
畿内で見つかる画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は
中国でも同じものが出土してるから中国鏡と判明している
特に三角縁神獣鏡は成分を分析したら魏の鏡と同じ銅で作られてる事がわかり
魏の年号が入っていて
銅出徐州 師出洛陽 魏の徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったと書いてあり
魏の都のあった洛陽からも出土しているので魏鏡だったという事がわかっていて
魏の行程から卑弥呼に与えられたものという事が確定しつつあるところ >>945
その解釈は間違いだ。
まず第一に卑弥呼が死亡した時期に作られた、
邪馬台国の超重要拠点の伊都國の、
平原遺跡から出土する数々の舶載鏡の中に、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が無い事で、
卑弥呼の死亡時期に画文帯神獣鏡や
三角縁神獣鏡が流通していない事が確定した。
そして邪馬台国の超重要拠点の伊都國で、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた
平原遺跡の墓が方墳である事から、
伊都國は、前方後円墳の築造を象徴とする纏向政権とは、
なんの繋がりもない事が確定している。
邪馬台国畿内説のロジックは
完全崩壊しているのである。 >>959
魏志倭人伝に伊都国は
一大卒を置かれて邪馬台国から監視を受ける立場だった事が書いてあるよ はい畿内説の勝利
九州説唱える奴はもはや異端なんでよろしく こじつけみたいの沢山あるが…
慰禮城→十済国→百済国 つか、任那日本府の役職も可汗?!(旱岐)
なんか、関係あるとしか思えないw >>951
張政に偽情報を吹き込んでのは卑弥呼を処刑した神功皇后と武内宿禰
魏に対して嫌疑を抱いていたのでデタラメを流し込んだ
だから魏志倭人伝では都市名も方位も距離もデタラメな記述が多い
張政がいた場所は田舎の都市で文字もなく牛も馬もいない田舎
邸宅は立派だがかなりの田舎だった
少なくとも御所ではない
そこで管理されて偽情報を与えられていた
魏志倭人伝にも偽情報が多く
それは魏に日本の地図を作らせないためであった
その策略に未だに子孫の日本人に気がつかないだけだ >>958
それは完全なミスリードだ。
三角縁神獣鏡が同じ銅と分析されると言うのは、
晋鏡である画文帯神獣鏡であり、
それを魏晋鏡と言うことにして、
それで三角縁神獣鏡が魏鏡だと
ミスリードしている訳だよ。
しかしながら、魏では
銅銭を流通させることができないぐらい、
銅が枯渇しており、
魏で鏡と言えば鉄鏡であって、
結局銅鏡を製造して流通させられるようになったのは、
晋の時代に入ってからである。
少なくとも、卑弥呼の死亡時期に、
徐州の銅の鏡を製造して流通させることはできなかった。
この事が、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡の舶載鏡の中に、
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が無い事で
裏付けられたと言えるのである。 >>930
日本書記によると既にその頃には天皇の子孫が関東を開拓していた
まあ逃げ出した王子もいたけど
>>931
神武天皇と神功皇后の実在が否定されたのは戦後GHQが日本を統治してから
その際に持ち上げられたのが津田左右吉だった
実際にはあとはこじつけでいろいろと無理やり存在が否定されていった >>960
そうだ、その邪馬台国とは、
前方後円墳の築造を象徴とし、
三角縁神獣鏡の配布を行っていた
纏向とはなんの関係もないという事だぞ。 >>966
>日本書記によると既にその頃には天皇の子孫が関東を開拓していた
それを、関東忌部というんだぞ。 よく覚えておけ。 @阿波 神武の事績は考古学的には何も無いので実在には無理がある
崇神には箸墓古墳築造といった証拠があり大きく違う
人代初代は本当は崇神で
初代から九代は伝説及び三輪の豪族というのが実情だろう >>965
正始五年などの魏の年号の入った銅鏡が
普通に中国で出土しているよ >>969
天皇の子孫が開拓するというより指揮を取っていた
そしてそれは当時の天皇の命令だった
ちなみにヤマトタケルは関東まで来ていた >>970
>神武の事績は考古学的には何も無いので実在には無理がある
何も無いことはない。 「阿波」の吉野川北岸にしっかり残っている。 @阿波 >>958
徐州で銅が産出できたのは呉の領土だった南端部だけだと>>739にソース付きで教えてもらっただろw
お前はソースの無い嘘で反駁したが>>757に嘘を暴かれ逃げ出した負け犬
そうやって嘘しか書かないから畿内説は破綻したんだよ >>967
纏向と関係あって
纏向は王都だったのかも知れない >>971
残念だがソレは日本に
100枚送るほど作られるものではなかった事が、
平原遺跡の舶載鏡が漢鏡である事から分かるのである。 >>972
>天皇の子孫が開拓するというより指揮を取っていた
>そしてそれは当時の天皇の命令だった
天皇の子孫も天皇自体も、みんな「忌部一族(阿波勢力)」だ。 お前のご先祖も「忌部一族(阿波勢力)」だ。 拝め。 @阿波 >>971
それは三角縁神獣鏡じゃないから関係ない話だな >>974
徐州は銅山のある地区を含む大部分が魏の領地で
呉の領地は南端のわずかな部分だけだったんだよ
>>976
三角縁神獣鏡は国内で複製されたものを含めて
数百枚は見つかっている >>975
それが間違いである事が、
平原遺跡の舶載鏡が後漢鏡ばかり
である事から分かるのである。 (馬加→幕張メッセだけど)
古雛加=古雛干=居西干=居西可汗 >>958
>特に三角縁神獣鏡は成分を分析したら魏の鏡と同じ銅で作られてる事がわかり
> 650 :名無しさん@1周年 :2019/06/08(土) 14:37:02.32 ID:vlUn2Ajg0
> >>618
> >そもそも黒塚古墳の三角縁神獣鏡は成分分析の結果、後漢鏡と同じ成分だと判明している
>
> あいにくだが、それは完全な誤りだと金属分析の専門家からとっくの昔に指摘されてるんだ
> しかも平成十六年には既に指摘されていたのに平成三十年になって同じ過ちを繰り返している悪質なゴッドハンド
>
> http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf
> > 平成十六年五月、マスコミが一斉に泉屋博古館の発表をもとにして「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開」と報じた。
> > 興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「Spring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」1)を入手し一読して驚いた。
> > すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論が展開されていた。
> > すなわち、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたと言う前提そのものが完全に間違っており、
> > 当然のことながら、その前提から導かれた「三角縁神獣鏡は魏鏡」との結論も無意味のものであった。
> 中略
> > たまたま、泉屋博古館の続報論文について、金属製錬史分野の第一人者である植田晃一氏とお話する機会があったが、
> > 植田氏も泉屋博古館の主張について「実際を知らない愚論で、……こんな幼稚な論文が罷り通ったのでは、日本考古学の将来は真っ暗」
> > とまで述べておられた。 >>979
それが間違いである事が、
平原遺跡の舶載鏡が後漢鏡
ばかりである事から分かるのである。
やはり、魏は徐州の銅山を手に入れられなかったので、
銅銭を流通させることが出来なかった、
鏡も銅鏡ではなく鉄鏡である
という、従来の説が正しいのである。 >>979
>>749でもう論破されてるぞ嘘つき
>>982
嘘を百回言って真実に見せかけるのが畿内説の生存戦略ですから >>983
全く同じほぼ意味のなさそうな分析を約15年の間隔で2回するという非常に不可解な事態ですね
考古学の世界でも賛同者が少ない
というか新聞記事にすら学者の批判が堂々と書かれているね @阿波が書き込むようになって邪馬台国スレはまったく面白く無くなって
俺は書き込むのを殆ど止めている。このバカどうにかならんのかな? >>977
天皇家だからって拝むのを強要するのは違うだろw
天皇家は、自分らの事を拝めなんて言ってない。 台与時代は九州と大和の休戦状態。台与が死んだ後大和の九州完全征服だろ。 >>987
>@阿波が書き込むようになって邪馬台国スレはまったく面白く無くなって
そりゃそうだろうて。 トンデモを言ったらコテンパンにやり込められるんだからな。 ご愁傷様。 わははははは @阿波 >>988
あほ! 「忌部一族(阿波勢力)」の本国「阿波」に向かって拝めと言ってるんだ。 @阿波 中国側の研究者が述べる魏晋鏡の特徴
ここで挙げられている鏡は九州のほうが圧倒的に多く出土している
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku250.htm
> 魏の時代の鏡について、徐苹芳氏は次のようにも述べている。
> 「三国の魏が成立しますと、尚方が再建され、このうち『右尚方』が銅鏡製作の任を負いました。かくて銅鏡の鋳造は回復されたのですが、
> それほど大きな進展があったわけではありません。この時代に鋳造された銅鏡、例えば方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡・盤竜鏡・
> 鳥文鏡・双頭竜文鏡などは、すべて後漢以来の「旧式鏡」に属します。
>
> もっとも、後漢のものと比べてみますと、方格規矩鏡の文様は、簡略化の傾向をたどっておりますし、内行花文鏡の鈕座が、
> 多く蝙蝠(こうもり)の形になり、獣首鏡の獣首文様にも変化が生じました。河南省の洛陽で、後漢末期と三国魏の時代の墓が数多く
> 発掘されましたが、そこから出土した銅鏡は、内行花文鏡・獣首鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などでして、最も数多いのが内行花文鏡と変形獣首鏡でした。」
>
> 「方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方で流行していました。
> ただ、様式的にはいくつかの変化が現れます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、
> また獣首鏡の文様も全く獣首らしくなくなりました。」
>
> 「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡・盤竜鏡・
> 双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いまあげた一連の銅鏡の範囲を
> 越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。」 結局、日本に500枚も流通されている三角縁神獣鏡が、
もし仮に魏から卑弥呼に贈られた100枚の鏡であるとしたら、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡の、
数多くある舶載鏡の中に、
1枚もないと言うのは理論上説明する事が出来ないモノである。
やはり、平原遺跡から出土しない、
画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も、
卑弥呼の死亡時期には日本国内には流通していなかったのである。
そして、どの鏡が卑弥呼の死亡時期に
流通していたかと言うと、
後漢鏡と言われるもので、
この事によって、
魏は銅鏡を100枚新たに作れなかったんだな、
やはり、徐州の銅山は手に入れてなかったのだな
と言う事が分かるのである。 >>988
天皇も、ふる里「阿波」に向かって拝んでいることだろう。 @阿波 >>988
天皇も、常世の国・ふる里「阿波」に向かって拝んでいることだろう。 @阿波 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 10時間 14分 48秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。