【邪馬台国】纒向遺跡「古代都市」裏付け、外来系土器が10%超…東海、河内、山陰、近江、吉備など ★2 [樽悶★]
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邪馬台国の有力候補地、纒向遺跡(桜井市)の「巻野内家ツラ地区」の溝から出土した土器を分析した結果、他地域から運ばれた外来系のものが全体の10%近くを占めることが分かった。胎土を分析するとより増える可能性がある。同遺跡が幅広い地域と結びついた古代の「都市」がったことが改めて裏付けられた。
纒向遺跡では東海や北陸、関東など広範囲の外来系土器が出土しており、その割合はこれまで15〜30%前後とされてきた。
巻野内家ツラ地区は纒向遺跡の北東部に位置。大型建物群(3世紀前半〜中ごろ)が確認されている「辻地区」に続く、3世紀後半の中枢部とされる。昭和62年に導水施設が見つり、水を用いた祭祀(し)の場だったと考えられている。
桜井市教委文化財課の橋本輝彦課長は、平成8年度に巻野内家ツラ地区の溝から出土した土器を分析。土器の様式は「布留0式期」(3世紀後半)に位置付けられ、器種が確認できる口縁部の破片全1687点をカウントした。
その結果、全体に占める外来系土器の比率は10.3%と判明。そのうち地域別では東海系が最も多く43%で、河内系13%、山陰系11%、近江系8%、吉備系7%などだった。阿讃系(13%)や南関東系(2%)の土器も確認できた。
昭和51年刊行の纒向遺跡の報告書「纒向」では外来系土器の比率の多さと、搬入地域の広範囲性が指摘され、同遺跡が3世紀の日本列島において中心的な地だったことを示す特徴の一つとされてきた。
橋本課長は「(すべてを調査対象にする)悉皆(しっかい)的な調査だが、従来のデータと変わらない数値が得られた。研究も進み大和と他地域の関わりがより厳密に分かるようになってきており、アップデートする作業が重要になる」と話している。
分析の成果は、桜井市纒向学研究センターの紀要「纒向学研究第9号」に掲載された。
奈良新聞 2021.08.10
https://www.nara-np.co.jp/news/20210810090736.html
2021年8月10日 16:30
https://note.com/naranewspaper/n/n497963d6218b
★1:2021/08/13(金) 23:16:29.14
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1628864189/ >>97
魏志倭人伝の年代通りだと箸墓古墳に眠ってる人こそが卑弥呼
でも記紀では矛盾するから天皇家の姫とされた
ただそれだけの話だと思うけど >>87
>>82
>>>67
>卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。 @阿波 >>101
その解釈は有り得ない。
なぜなら、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られたと考えられる、
邪馬台国の超重要拠点たる伊都國の平原遺跡が方墳であるからだ。
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を
権威の象徴とする政権たる
畿内説のロジックは完全崩壊したと言っていい。
考古学会でも、箸墓が卑弥呼の墓などと言う輩は居なくなるだろう。 >>99
時系列だと卑弥呼の後に内乱が起こって伊予?が何とか平定して
その後に衰退した邪馬台国を天皇家が奪い取ったということだろう
天皇家は邪馬台国を奪って消し去ったからもちろん崇神とは無関係だろ 古代に都市であったことは事実なんだろうが
それが邪馬台国なのかどうかはまだわからん >>103
魏志倭人伝の記録と箸墓古墳の年代は一致するから
被葬者が卑弥呼でなければ卑弥呼よりも巨大な権力をもつ
「女性」が同時期に存在したことになるぞ >>73
マルコポーロはシナに行ってない、は有力ではない。
その説で話題になった女研究家は、排斥された。
欧州でも学問の自由はありません。 >>106
もうちょっとオレの書き込みを読んでからレスしてくれないか? >>110
もうちょっと分かり易く書いて欲しい
魏志倭人伝にも卑弥呼の墓が方墳とは書かれてないし 四道将軍を派遣して本州一帯を支配しようが、
ソレが前方後円墳を作ろうが、
その力を持ってしても九州に進出できなかったという事実をもって、
北部九州にはそれを超える強大な勢力があった事が
歴史の事実として確定するのである。 >>73
下手すると朝鮮南部までで日本に来てないかもしれない
みな想像力がないから対馬海流を舐めすぎなんだよな
10世紀後の元寇ですら難破してる
倭人が当時の倭国であった朝鮮南部を通り帯方郡まで行って大陸への朝貢するのは考えられる
倭人は元々縄文だから縄文船を作り海洋を航海できた
逆に大陸の彼らに往来できる能力があったのかどうか大いに疑問 >>111
アナタは基本的な日本語の読解能力が欠如している様だ。
私はそもそも平原遺跡が卑弥呼の墓とは一言も書いていない。
なぜどうして私が一言書いてない事を
私が書いたことのようにして、私を批判する?
やり口が良くないぞ。 >>91
神武が東征した経路ってのは完全にわかってて
九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
ナガスネヒコに阻まれて、船で紀伊半島をぐるっとまわって纏向まで入ってきた。
で大阪の河内に行った時に今はない河口湖があって
その記述からだいたい紀元前後(2000年前)くらいじゃないかって言われてたな。 四道将軍は信じられないけど
魏志倭人伝は信じられる不思議
別冊に数行書かれてるだけで裏も取れてないのに
今の時代の論文でも嘘や捏造があるのに >>114
纏向の外来土器の範囲が、
崇神の派遣した四道将軍の範囲に
一致すると考える事ができない人間は、
日本の古代史を思考する素養は無い事を、
露呈してしまっているのに、
その浅はかさすら気が付く能力もない事を
さらけ出してしまっている。 >>116
百歩譲って東征があったとしても
東征とかそんな規模じゃないんだと思うよ
岡山にも数年滞在してるよね
戦闘で兄が死んだりと >>106
どの時期でも権力者一族に女性は含めれるだろうし
その女性が強い影響力をもつこともあるだろさ 東征って多分
本家がガタガタしてて、それに介入しようとした話じゃないかな >>115
平原遺跡が方墳だから前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓ではないという
解釈でいいのかな?色んな解釈があっていいと思うよ
自分は魏志倭人伝の年代(これは確実)と箸墓古墳の年代(これも確実)
記紀では被葬者が女性でかつ巫女である
これだけの一級資料をひっくり返す資料は難しいと思ってる 八百万のヤ、纏向のマ、東海のト 不思議な事にこの3地域の頭文字をつなげるとヤマトとなる、古代の造語能力ってこんな感じかも 纏向から出土した特殊器台埴輪、
桃の種、犬の骨、そして外来土器の範囲。
それらから、吉備出身の豪族御馬城が、
桃太郎伝説のある吉備津彦を引き連れて、
纏向に政権を樹立して、
本州各地に四道将軍を派遣した伝承は
考古学的に実証されたのだなと、
思考が巡らないのは、
日本の古代史を語るだけの能力に
著しく欠けていると言わざるを得ない。 >>120
俺も全然東征じゃないと思ってる。
多分、纏向に婿入り。
神武は日向の四男坊だから。政略結婚。
纏向も一枚岩じゃなくてナガスネヒコはそれに反対してた勢力。
だから途中で暗殺された。 後のモンゴル帝国軍ですら樺太を日本だと思ってないだろ?
もっと南方の国だと思ってる >>116
4〜5世紀までは残ってたみたいだから
卑弥呼の後の東征には全く矛盾しない 東海系って範囲が広すぎるだろ。
分類の地名見ていると、伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河・遠近江・駿河あたりまで入ってるのか? >>123
そんなものは最初からひっくり返っているのだが。
アナタは先ず日本語を理解しようとする努力をして欲しい。
畿内説による邪馬台国は権威の象徴として前方後円墳を築造する勢力なのに、
邪馬台国の超重要拠点の卑弥呼の時代の墓が、
前方後円墳でないのは、
畿内説の邪馬台国が権威の象徴として、
前方後円墳を作る勢力だったというロジックが
間違っている事を端的に示しているという日本語を
先ず理解しましょう。 箸墓古墳の年代は周辺土器と炭素14年代測定法により推測してるらしいが当然誤差はある
確実なんて言う奴はまず最初に振り落とすべきだろう
箸墓古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっているなんて”確実に”問題だろう
>(1)年代値を求めるときに、炭素14の半減期として、リビー博士が使った5568年という値を使うことが、
国際会議で決められています(Stuiver et al., 1977)。現在のところ、最も正しいと思われる半減期は、
5730±40年(Godwin, 1962)という値ですから、これだけでも3%の違いが出てきます。
3,520年が3,520×1.03=3,626年になるということです。100年も差が出てしまいます。
>(2)さらに厄介なことがあります。通常、大気中の二酸化炭素には炭素14から出来ているものが
全体のわずか1兆分の1だけ存在しています。炭素14年代値を算出するときには、
過去においても大気中の炭素14濃度が一定であったと仮定していますが、実はこの仮定は正しくありません。 >>129
記紀の記述だとちょうど河内潟がある時期じゃないかって
いわれててそれが3000前から2000前らしい。 >>127
そもそも神武が本当に主役だったのかね?結婚にしろ遠征にしろ主役は戦死した兄だったんじゃないのかな。
兄が死んでも諦めずに大和に入って、婿入りにしろ征服にしろ村レベルの領有に成功。
そうしたただの小豪族クラスだったのが、数百年後に子孫が大和朝廷樹立に成功したから、朧げな言い伝えをさかのぼって神武神格化じゃないのかな。 近畿説主張者は頭に障害がある人間
まともな知性のある人なら
九州説へと帰結するのが当然 >>131
卑弥呼の後の天皇家でさえ色んな形の古墳を作ってるのに
古墳の形だけで権力の繋がりを考えるのは危ういかも?
もう出かける そもそも、纏向から出土する紅花の花粉や馬具等、
明らかに、時代編年が間違っていると
言わざるを得ないことばかりだ。
そして、たとえ纏向の時代編年が正しかったとしても、
邪馬台国の超重要拠点の伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と時期を同じくする
平原遺跡の墓が、
方墳であることを持って、
邪馬台国が前方後円墳の築造を権威の象徴とする勢力たるロジックは、
完全に破綻したと言えるだろう。 >>134
あ、そうね兄が主役だったかもね。
後から神格化したのはそうだと思う。
もともと纏向はニギハヤヒとかナガスネヒコが作った連合国だろうし。
日向が政略結婚でのっとったのか。
逆に纏向が邪馬台(ヤマト)国の血を欲したって事かもしれんし。
神武の日向は多分、筑紫平野の邪馬台国の分家だと思うわ。
ニニギが筑紫平野から高千穂に降り立って日向に国つくった。 むかし河内潟があったから神武は実在したとか草すぎだろwww
なんで潟の存在が神武の実在に繋がんだよwww >>88
意味がわからない…。
「政治の中心=大和」を何の根拠もなく設定した上に、神武が「政治の中心を奪う意図を持っていた」と、これまた思い込みの設定。
それはおかしいだろ。
「地方の小豪族である神武が、入手できそうな別の地方の小豪族の土地を奪いに来た」
という、最もどこにでもある可能性を退ける理由がどこにもないだろ。
先に大和=政治の中心、天皇家=神武の時から日本の支配者を目指していた、等という結論を勝手に出して、そこからさかのぼると歪みまくるよ。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にしろ、祖父どころか父の代でも天下統一なんて考えてなかったよ。 とにかく卑弥呼自身についての記述が少な過ぎる。
墓についてはそこそこ書かれてるが。
鬼道って何のことだよ。
陳寿のボケカスが適当に書きくさったから、分らんじゃないか。 魏志倭人伝よく読め。
漢に倭国代表として朝貢した奴国は、邪馬台の配下に過ぎなかった。
邪馬台こそが、漢の時代の列島覇権国だとわかる。
その邪馬台が、倭国大乱で敗れ、覇権放棄の証として女王を立てた。
そしてその邪馬台が自ら朝貢してる。朝貢*させられ*てる。
倭国大乱は、邪馬台内三十数ヶ国の内乱ではなく、列島の大乱だわ。
大乱の勝者は、(漢の時代の邪馬台同様)魏に正体を隠している。
邪馬台の港を支配する大倭(ダイワ)。後の大和(ダイワ=やまと)だ。 >>142
出かける前に一言
何故いきなり超遠方のそれも陸と繋がってない大和を
天皇家が多大なリスクを冒してまで目指したの???
動機付けが不自然過ぎるだろ >>141
海から流れる潮に乗って潟内に入ったんじゃないかと思われる記述が記紀にあるからじゃない?
記紀が編纂された頃やそれ以後では想像できなかったはずの弥生時代の状況が
表現されてることから神武東征が弥生時代に行われた可能性が高いと思ってる人が結構いるみたい。 >>145
ひのもと国は繋がってなくても倭国とは繋がっていたんだろw >>145
九州北部はほぼ縄張りが決定し、
日向が九州南部なら水田稲作にあまり向いてなかった可能性が考えられ、
瀬戸内沿岸は平野部が多くなく、山陰も平野部が少ない上に出雲が居座ってるので、
まださほど人が入植されてなかったであろう畿内やその周辺の平野部に
野心を抱いた可能性が考えられるかな。 https://translate.google.co.jp/?hl=ja&sl=ja&tl=en&text=%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%93%EF%BC%81%E3%81%93%E3%81%93%E3%81%AE%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%B7%AF%E3%82%92%E5%8F%B3%E3%81%B8%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%AE%E4%BA%A4%E7%95%AA%E3%82%92%E5%B7%A6%E3%81%B8%E6%9B%B2%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%81%9D%E3%81%93%E3%81%9D%E3%81%93%E6%AD%A9%E3%81%8F%E3%81%A8%E3%80%81Cocco%E3%81%AE%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E4%BC%9A%E5%A0%B4%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82&op=translate 三角縁神獣鏡ガー
という畿内説のもう一つの畿内説のロジックも、
邪馬台国の超重要拠点で、
外国からの贈り物を検査したと明記されている伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた
平原遺跡から、数々出土する舶載鏡の中に、
全く三角縁神獣鏡が無い事を持って、
完全に破綻したと言えるのである。 武内宿禰の眷属が神武の正体
その眷属の一人の応神が九州から下剋上して大王になり
先に九州から畿内入りしてた傭兵団長の神武を始祖とした 邪馬台国が九州から近畿まで跨っていた可能性はないの?? >>146
それと神武の実在性がどうつながるんだよw
河川の氾濫なんか仁徳の時代に治水事業が行われてるんだから過去の話であるまい >>141
実在の証明にはならんけど、全部神話で片づけるのも暴論って事でしょ。
記紀が編纂された7世紀には河内湖も河内潟も存在してないし
地質学なんてあるわけないから、当時、実際見て伝承されてきたってこと以外は
ありえないんだよね。 魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は[大夫]難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢こうを持ってきた。
太守のケ夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
(知らない)
四十年、魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
(知らない)
四十三年、——魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の[大夫]の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
(知らない) 四十六年春三月一日、斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。
(知っている)
卓淳の王、末錦旱岐が、斯摩宿禰に、
「甲子の年の七月中旬、百済人の久氐、弥州流、莫古の三人が我が国にやってきて、『百済王は、東の方に日本という貴い国があることを聞いて、我らを遣わして、その国に行かせた。
もし、よく我々に道を教えて、通わせて頂けば、我が王は深く君を徳とするでしょう』と。そのとき、久氐らに語って、『以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。しかし、まだ交通が開けていないので、その道が分らない。」
(朝鮮半島南部にあるのに日本を知らない)←んなアホなw >>152
1年を2年と数えてたという仮説と考古学的物証から
卑弥呼がいた時代頃に崇神の御代として大和政権が誕生したと考えると、
記紀を読んだ限りでは九州まで覇権が届いてたとは思えんかな。
ただ朝鮮との交易を始めたので崇神の次からは九州にちょっかい出し始めてるけど。 琉球の統治者である薩摩藩がその気配を消して琉球国をして清に朝貢させたように畿内のヤマト朝廷が九州の小国邪馬台国を隠れ蓑にして魏に朝貢させた可能性はあるな >>129
5世紀が神武の東征の可能性のある最後の時期だな。 >>92
>この朱丹はベンガラではないかなと思われるのだが
自分に都合よく言うな。 ベンガラごときを特記するか! アホンダラめ。 @阿波 なんせ福岡県近辺で全部の地名出てくるし
方角と日数の問題が本当よく分からん >>91
>天皇家(天孫族)が畿内に来たのはいつだろう
8世紀に、「阿波」から来た。 @阿波 >>153
河内湖とか潟の想定MAPとか見たけど相当デカいよ。
河川の氾濫でああはならないと思うけど。
あとそんな状況じゃまず航行しないし。 >>38
中国側の名称は邪馬台だったよ
中国の資料に大倭と書いてたらそれはヤマトとは読まないね >>152
九州の土器は?
纏向にはないのでない? >>96
>卑弥呼の時代の天皇家は宮崎周辺の天照を祀る豪族にすぎなかったと思う
アホか! 践祚大嘗祭で蚊帳の外の分際が。 下がれ。 @阿波 >>122
神武東征は九州ではうだつの上がらない分家が
九州での出世を諦めて東方へ移住し植民した話だな。 >>160
先ず根本的に邪馬台国は小国足りえない。
纏向の外来土器で推定できる
纏向政権の支配地域の広さか推定できる
軍事力をもってしても、
進出することができないほどの
強大な勢力が北部九州にあったという
歴史の事実を受け入れなければいけない。 司馬 懿が魏の第2代皇帝にした「曹叡(明帝)」は
景初二年(238)の
1月に
遼東で独立を宣言した公孫淵への攻撃を、司馬 懿に命じる。
司馬 懿は、毌丘倹、胡遵らとともに陸路で遼東に攻め込むとともに、
劉マと鮮于嗣を密かに海路で、山東半島から黄海を越えて朝鮮半島に派遣し、海から楽浪郡と帯方郡の2郡を攻撃
その真っ只中の6月に
倭國の邪馬台国の女王の卑弥呼の使者の難升米と都市牛利が帯方郡に現れて、太守の劉夏に魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を願い出て
劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送る
その後8月に
司馬 懿は、公孫淵を破り、首を都へ送って、
返す刀で襄平城を陥落させて、公孫淵の高官たちを斬り殺し、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで
15歳以上の男子を皆殺しにして、朝鮮半島南半を制圧した
つまり、朝鮮半島で戦闘中の魏の軍勢は
始めて聞く倭國の邪馬台国とその女王卑弥呼のことを
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州の漢委奴国王の倭奴國とは無関係と判断して
魏の皇帝「曹叡(明帝)」への拝謁を許したわけだ
そして新たに(帯方郡)太守となった弓遵が240年に
建中校尉梯儁等を邪馬台国に派遣してみたら
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して山陰に上陸し、
出雲まで、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩かされる
マジで、公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州とは無関係の
遠いという表現を越えている、畿内の倭國だったというわけだ >>102
>卑弥呼が貰ったとされる中国産の水銀朱が出土してるのは「阿波」だ。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
または、同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 @阿波 >>106
>被葬者が卑弥呼でなければ卑弥呼よりも巨大な権力をもつ
>「女性」が同時期に存在したことになるぞ
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。
「忌部一族(阿波勢力)」のお墓を有難がる隠れ忌部。 わははははは @阿波 その後、朝鮮半島では、部従事の呉林が
楽浪が元は韓国を統御していたという理由で、馬韓の辰王が管理していた辰韓八国を分割して楽浪郡に編入させたため、帯方郡と楽浪郡は韓全体と戦うことになり
246年5月、2郡はついに、韓王の箕氏一族を断絶させる
公孫氏が独立を宣言した帯方郡と楽浪郡を領土とする【燕】に属してた九州には、対馬、壱岐を経由して
238年の、司馬 懿が公孫氏を征討する「遼隧の戦い」で逃げてきた【燕】の残党と
その後の「韓の戦い」で逃げてきた【韓王の箕氏一族】の残党で溢れかえり
もじどおり【反魏】の温床、魏憎しの塊となって畿内の親魏倭王を攻める
そして親魏倭王は、韓の制圧を終了した帯方郡太守の王頎に
247年
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
というわけだ >>116
>神武が東征した経路ってのは完全にわかってて
>九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
現実を冷静に判断できないお前は、引っ込んでろ! @阿波 >>150
三角縁神獣鏡を含む記年鏡が中国で出土した例がないからな。 >>155
仁徳の時代に治水事業が行われてるから河川の氾濫はよくあることだよ
関東なんか江戸時代前まであった >>123
そもそも墓の構造が魏志倭人伝に一致しないわね >>116
>九州の日向から瀬戸内海通って大阪の河内に入ったんだけど
どこにも「九州」の日向からなどと書かれていない。 いい加減なこと言うな! @阿波 そもそも倭をヤマトと読めるのは
🇭🇺ハンガリーぐらいだというwwwww
🇯🇵日本ですら読めない >>181
河川の氾濫?
内陸の白肩の津まで船で行けたって話だろ >>164
方角は若干狂ってるが距離は1里80mくらいで説明が付くね。 >>182
卑弥呼の墓は
みやま市にある権現塚古墳だよ
その地で神功皇后に討たれた田油津媛は
卑弥呼―台与から続いた後の邪馬台国の女王に間違いない >>151
明確な序列関係でないのに「下剋上」はおかしいんでないの? >>163
>自分に都合よく言うな。
おまはんよう言うなあ >>187
>@阿波が来ると台無しだな
締まるだろ? トンデモ同士、見ておれん。 @阿波 神武の東征以前に、
饒速日命の天孫降臨があったと
記紀や伝承に書かれている。
また、神武と饒速日命は、
同じ高天原出身の同族である事を
確かめ合ったとも言われている。
天皇家は高天原から日向に天孫降臨し、
饒速日命は高天原から河内を拠点にして、
大和に天孫降臨したと言われている。
この河内に進出したというのが、
考古学的に西の奴国勢力を象徴する、
銅剣銅矛の河内からの出土で裏付けられ、
高天原が奴国のあった博多湾周辺である事が確定し、
実際に物部氏が博多湾周辺から
河内に拠点を築き、大和に進出した事が
確定したと言えるのである。 >>166
天皇家が阿波出身だとしても、大和に移ったのは弥生末期〜古墳時代だよ、8世紀ではない。 朝鮮半島で独立した公孫氏がいたから日本からの外交ルートがふさがってて
司馬懿が公孫氏を滅ぼしたから日本とのルートが再開して魏に卑弥呼の使者が行けたんだろ
それで金印もらった 狗邪韓国(釜山)→對馬国(対馬)→一大国(隠岐)→末廬国(米子市)
→伊都国(鳥取市)→奴国(豊岡市)→不弥国(福知山市)
→投馬国(京都市)→邪馬台国(桜井市)
これが邪馬台国奈良説の最終決定版だな。 しかし
対馬、壱岐は、魏の追撃を警戒する【燕】の残党と【韓王の箕氏一族】の残党にガッツリ押さえられ
対馬も壱岐も経由せず、対海国と一大国を経由して山陰に上陸し、
出雲まで、草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない場所を歩かされるルートでは
帯方郡太守の王頎は、
塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
のが精一杯
そんな最中、高齢だった卑弥呼は249年に死亡してしまい、派遣されていた張政の助言で、後任として出雲の男王を立てたがうまくいかず
呆れた張政は、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し帰国してしまう
その後、畿内の邪馬台国は
九州の倭奴國の漢委奴国王の第四皇子の神武を担いだ
【燕】の残党と【韓王の箕氏一族】の残党により
武力制圧されてしまい
大陸からの追撃を阻止するために、倭は大陸と断絶するわけだ >>192
じゃあ、お前はベンガラを特記すると思うのか? @阿波 つかさ、委せるってちゅごっくで言うの?
和習じゃね?
委奴国だろうけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています