昭和20年8月16日に自刃した大西瀧治郎中将の遺書。現在は表装され靖国神社遊就館に展示されているが、もとはこのように便箋5枚にわたって書かれていた。
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 国民に戦争終結を告げる天皇の「玉音」が放送された翌日、昭和20(1945)年8月16日未明、ひとりの海軍の将官が割腹し、自決をとげた。

 昭和19(1944)年10月、フィリピン・レイテ島に進攻してきた米軍の大部隊に対し初めて特攻出撃を命じ、「特攻の父」とも呼ばれる大西瀧治郎中将である。大西はその後、軍令部次長となり、最後まで徹底抗戦を叫び続けたが、遺された遺書には、軽挙を戒め、特攻隊員と遺族に謝罪し、青壮年に後事を託し、世界平和を願う言葉が綴られていた。「徹底抗戦」と「世界平和」のはざまに秘められたその真意を読み解く。

■大西瀧治郎中将の遺書

 飛行機に爆弾を抱いて敵艦に体当りする、日本海軍の「神風特別攻撃隊」は、戦況が日本に決定的に不利となった昭和19年10月20日、日米両軍の決戦場となったフィリピンで、第一航空艦隊司令長官としてマニラに着任したばかりの大西瀧治郎(おおにし たきじろう)中将の命により編成され、10月21日に初めて出撃し、10月25日、最初に敵艦隊に突入した。

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 そもそも、米英を相手とする戦争に勝算がないことは、海軍上層部の共通認識であり、大西自身も開戦前から見通していたことであった。それなのになぜ、大西は、搭乗員の生還を期さないかくも非情な命令をくだし、のべ数千人もの若い命を爆弾に代えて突入させたのか。

 大西は昭和20年5月、軍令部次長として内地に呼び戻されたが、7月26日、連合国によるポツダム宣言が発せられたのちも最後の最後まで講和に反対し、徹底抗戦を叫び、

 「あと2千万人の特攻隊を出せば必ず勝てる」

 などと非情きわまりない主張をしたと伝えられている。

 天皇がポツダム宣言の聖断をくだし、国民に終戦を伝える玉音放送が流れた翌8月16日未明、大西は渋谷南平台の軍令部次長官舎で自刃して果てた。その行動の表層的な部分だけ見れば、まさに異常極まる所業である。

 ――ところが、大西が遺した遺書には、つい先ほどまで徹底抗戦を叫んでいた同じ人物が書いたとは思えない冷静な筆致で、若い世代に後事を託し、軽挙を戒め、世界平和を願う言葉が書かれていた。

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 前段で、特攻で戦死させた将兵に陳謝し、死をもってその英霊と遺族への償いをすると述べている。その死にざまも、拳銃で頭を撃ち抜くような簡単なものではなく、日本刀で腹を十文字に切って、なおかつ喉を突き、なるべく苦しんで死ぬようにと介錯を断り、自らの血の海で半日以上も悶えた末に絶命するというすさまじいものだった。

 特攻を命じた司令長官のうち、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。

■図りかねた大西中将の「真意」

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 そもそも、この遺書は、いつ書かれたものか。門司が調べた限り、割腹直前の大西には、このような遺書を書く時間的余裕があったとは認められない。だとすれば、事前に書いて準備していたことになるが、それならば終戦前の大西の抗戦論や行動も、理性と計算に基づいたものということになり、その解釈も、巷間伝わっている大西瀧治郎像とは異なったものになるはずだ。

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 話を要約すれば、特攻は「フィリピンを最後の戦場にし、天皇陛下に戦争終結のご聖断を仰ぎ、講和を結ぶための最後の手段である」ということだ。だとすると、特攻の目的は戦果ではなく、若者が死ぬことにあるのか――。

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 門司から見て、大西中将はけっして非情な冷血漢でも、凶気の長官でもなかった。いや、むしろ抗戦論者とは逆の冷静な目を持ち、人間味あふれる、いや、むしろ人情が表に出すぎるぐらいの人、という印象のほうが強い。

 終戦のとき、大西中将が講和を妨害し、日本をさらなる破滅に導こうとした、などという話を聞いたり読んだりするたびに、

 「いや、長官はそんな人じゃありませんよ」

 と反論したくなる。エキセントリックに見える大西の行動には、なんらかの意味があったはずだ、と門司は信じている。(続きはソース)

(神立尚紀 カメラマン・ノンフィクション作家)

8/15(日) 8:01配信
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★1:2021/08/19(木) 05:44:30.68
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