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弥作文化を代表する銅鐸などは呉越の地域から
春秋時代の銅鐸に似た形の青銅の銅鼓が出土
している。
高さは三〇センチ前後で、出雲の加茂岩倉追跡から
1990年代後半に大量出土した初期の銅鐸とほとんど
変わらない大きさ。

呉越地方銅鼓の系統が浙江省の寧波あたりから直接的
に列島にもたらされた可能性が非常に高い。
そして出雲地方に定着している。

だが出雲地方には、呉越地方よりさらに南の地域である
広東省広州市一帯の地域とも関係があった証拠が見つかり、
それは1990年代からすでに研究されている。
古代の南越であるが、越の南方、南海に面した国で
南越王墓は広州市の像崗山にあるが、そこからは
船紋銅桶型器と呼ばれる線刻画をほどこした銅桶が
出土している。
その線刻画にはゴンドラ型の船団に頭に鳥の羽根の
ような被り物戦士描かれ、日本の武士のようにに首級を
ぶら下げげて立つ像などが描かれている。
南越は卓越した航海技術があったことはすでに多くの学者
の研究にによって知られるが、この絵と似たような線刻画が
鳥取県でも出土している。

大型の土器片に描かれているものだが、同じゴンドラ型船
に乗った人の頭には雲南に酷似した羽根のようなかぶり物
をつけている。
南海に面して航海に長けていた雲南系の民族は列島に水稲を
伝え航海や交易も行っていた縄文系の列島倭人の日本海沿岸
まで来て倭人として定着していった。
このあたりの関連は文化人類学と考古学の横断分野ですでに
良く知られるようになって20年近く経っている。