日本語・タミル語同源説は、説としては荒唐無稽で相手にするまでもない
ことは明白だが、まさしくその明白な荒唐無稽さにおいて歴史的に重要な
意義を有している。国語学の権威として誰にでも認められていた大野晋が、
晩年になって自らの名声を失墜させることがあらかじめ分かっていながら、
なぜ自分が知りもしないタミル語と日本語の同源説を突如として声高に
唱え始めたのか。そこにはどのような動機が働いており、どのような背景
があったのか。タミル語と日本語と間に見出すことのできる表面的な
類似なら、任意のどのような言語の間でも見出すことができることに
大野晋本人も気づかなかったはずはないだろう。つまり、この説は、
普通に考えるなら、意図的にスキャンダルを巻き起こして、日本語の
起源についてまともに論じることを脱線させることを目的としている。
なぜ、何のためにそのようなことをする必要があったのか。それが
歴史上の問題である。