【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル [樽悶★]
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箸墓古墳の墳丘(上)近くで見つかった葺石。宮内庁管理の区域の2メートル手前まで迫った=平成7年2月、奈良県桜井市
https://imgur.com/dWesxT5.jpg
「考古学者が一番掘りたい古墳」ともいわれるのが、奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、墳丘長約280メートル)。日本で最初に造られた巨大前方後円墳で、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説が戦前から唱えられているからだ。卑弥呼が中国から贈られた「金印」が見つかれば、邪馬台国畿内説を決定づけるとの期待は大きい。しかし、宮内庁が第7代・孝霊天皇の娘の墓として立ち入りを禁じ、発掘もできない。この謎のベールに包まれた古墳に、果敢に挑んだ発掘調査があった。
■古墳研究が何十年も遅れる
「卑弥呼の後継・臺与(とよ)の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」
平成7年2月、新聞やテレビは箸墓古墳の発掘成果を大々的に報じた。これまで不明だった築造時期が絞り込まれ、邪馬台国論争に重要な手がかりが見つかったからだ。
さらに研究者を驚かせたのは、立ち入り厳禁のはずの古墳で、なぜ発掘ができたのかということ。
この調査を担当したのが、県立橿原考古学研究所研究員だった寺沢薫さん(70)。現在は、箸墓古墳や邪馬台国の首都ともいわれる纒向(まきむく)遺跡を研究する桜井市纒向学研究センターの所長を務める。
実際の発掘の範囲は、宮内庁が管理する古墳のすぐ外側だった。墳丘北側に接して広がる大池の護岸工事を近畿農政局が計画し、それに先立っての調査。大池の堤防は墳丘につながっていたため、「箸墓に最も近い」発掘となった。
「何か出たら古墳のギリギリまで掘り進めようという思いだった」。寺沢さんはこう振り返る。「箸墓にこれだけ近いところを掘る機会なんてこの先、何十年あるか分からない。今やらなかったら、箸墓や古墳時代の研究が数十年遅れることになる」
■「立ち会いってどういうことや」
※省略
最終的に、発掘範囲は宮内庁の管理区域の2メートル手前まで肉薄≠オた。「本当はあと1メートルぐらい掘り進めたかったが」と寺沢さん。
調査の結果、箸墓古墳の墳丘は、宮内庁の管理より外側に広がっていたことを証明。さらに、古墳には幅10メートルほどの小さい周濠があることも分かった。
築造時期を特定する決め手となったのが、周濠部分などで見つかった大量の土器。考古学では年代を決める最も重要な「物差し」で、木製品の鋤(すき)=スコップ=とともに出土。いずれも古墳築造にあたった作業員が捨てたものと推定され、土器の型式から箸墓古墳の築造は3世紀後半から末頃と分かった。
「もし立ち会い調査で済ませていたら、葺石も土器も見つからなかっただろう」
■宮内庁の監視の目
ちょうど葺石が見つかり出したころから、宮内庁関係者の巡回の回数が増えていった。当時、記者としてこの発掘現場を取材した際、同庁職員の姿をしばしば見かけた。「宮内庁が管理している墳丘部分まで掘っていないか監視しているんだろう」。発掘現場を訪れた大学の研究者らから、そんな声ももれた。「卑弥呼のロマン」とは裏腹に、現場にはピリピリした雰囲気が漂っていたのを覚えている。
今では、仁徳天皇陵古墳(堺市)などの陵墓で、宮内庁と地元自治体が共同で発掘を行う事例も増えてきたが、この頃は「互いに縄張り意識みたいなのがあった」(考古学研究者)時代だった。
ただし、葺石や土器が見つかったことを受け、研究所から宮内庁の考古担当者に連絡すると、同庁担当者がさっそく現場を訪れ、出土遺物や遺構に見入った。寺沢さんは「組織や立場は違っていても、お互いに考古学者同士。いろんな意見が交換できた」と振り返る。
寺沢さんは現在、出土土器を通じた箸墓古墳の築造年代を260年代後半から270年代とみている。
卑弥呼が亡くなったのは248年ごろ。それなら被葬者は? (小畑三秋)
2021/9/15 08:00
https://www.sankei.com/article/20210915-C22NUJAAMFP2FAFDVJTAFEIUXE/
2021年9月17日 23:01
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/nd1ba09826dcb >>741
>ならば同じ魏志倭人伝に書いてある邪馬台国が何百キロも離れた奈良辺りにあるはずがない
論理の欠片もない決め付けが九アノンの特徴
>普通に考えれば
出ました、九アノンの得意フレーズ
正しくは「知識のないオレ様が先入観丸出しで考えれば」だろが >>750 > わははははは//
>>751 > わははははは//
八゛力でコミュニケ障碍の工〒公の癖して、無理に書かんでもエエんだよ。 >>752
>ヤマト王権が魏に使者を送ったと
はァ? 「ヤマト王権が」だと? うそこくでね〜 @阿波 >>755
>ヤマト王権が魏に使者を送ったと
はァ? 「ヤマト王権が」だと? うそこくでね〜 @阿波 安物でも国産で魏の年号入り鏡なんて作れるような場所なら、そこは邪馬台国だよ。 >>753 > どこに? ソースは?//
はァ? 神功紀39年、40年、43年ですが?
何ぞオチでもあるのか? >>760
>ヤマト王権が魏に使者を送ったと
はァ? 「ヤマト王権が」だと? うそこくでね〜 @阿波 鏡作神社は奈良の田原本にあるからな。
それに阿波に七万戸の国は不可能だよw >>760
バカなのか?魏志倭人伝の書き写しているだけで
何代天皇が魏に使いを送ったという記述が書いていないだろ
って言ってんだよ
ヤマト王権が送ったのなら何代天皇が使いを出したと記述しているだろうが?
後から知った魏志倭人伝をそのまま書き写すなんてことをするのは大和王権の歴史ではないからと
なぜ理解できないんだ?このボンクラはw >>756
日本書紀の神功皇后紀には魏志や普起居注からの引用文が記載されてる
たとえば神功皇后摂政39年の項に魏志倭人伝の卑弥呼朝貢の記事が引用されている
これがあるために江戸時代までは卑弥呼=神功皇后が定説だった まあ記録が無いのは欠史八代の時代と考えればいいからな。
七万戸の邪馬台国なんて存在できるのは紀伊半島、河内から奈良盆地辺りしかない。邪馬台とはヤマトの事を指す。何の問題があるんだよw >>762
>それに阿波に七万戸の国は不可能だよw
碌な弥生集落遺跡もないくせに、「阿波」をとやかく言う資格なし! 下がれ、下郎! @阿波 箸墓は邪馬台国とは関係ない
大物主の三輪山に近過ぎる >>765
>七万戸の邪馬台国なんて存在できるのは紀伊半島、河内から奈良盆地辺りしかない。
河内から奈良盆地辺りに、碌な弥生集落遺跡もないくせに、下がれ、下郎! @阿波 >>764
しかし高麗の広開土王碑に刻まれた
日本軍が攻めてきた年号から計算すると
神功皇后は卑弥呼の時代よりも100年も後の時代と判明している
つまり
魏志倭人伝を読んで、邪馬台国の女王ならば
神功皇后だろうとあたりをつけて適当に年号を神功の年代にしたことで
魏志倭人伝とは年代は合わずに邪馬台国はヤマト王権とは別のクニだったという
傍証になってしまっている >>763
>ヤマト王権が送ったのなら何代天皇が使いを出したと記述しているだろうが?
こういう根拠のない先入観で凝り固まった決め付けも九アノンの典型 >>767
何の理屈になってないぞw
阿波は奈良盆地の水田跡に遠く及ばないからな、七万戸を比定するにはあまりに狭い、勿論北部九州なんて場所的には半島から近すぎて話にもならないが。 >>771
>阿波は奈良盆地の水田跡に遠く及ばないからな
碌な弥生集落遺跡もないくせに、「阿波」をとやかく言う資格なし! 下がれ、下郎! @阿波 >>763
> ヤマト王権が送ったのなら何代天皇が使いを出したと記述しているだろうが?//
摂政だったんだから、応神の時の架空説話、という事になるでしょ。
> 後から知った魏志倭人伝をそのまま書き写すなんてことをするのは//
そのまま書き写したのは何故か、という事を考えなさい。 >>769
そりゃ江戸時代の話だからしょうがないだろ
もちろん今は卑弥呼は13代仲哀天皇の皇后と同時代ではなく
11代崇神天皇より前の時代の人物だとされている
そのことより重要なのは
我々よりずっと卑弥呼の年代に近い日本書紀の編纂者が
卑弥呼の朝貢はヤマト王権とは別の九州の勢力によるものだと
考えていなかった点にある >>770
だから日本書紀には神功皇后の時代=卑弥呼の時代って書いているんだろw
だけど周辺国の記述か神功皇后は卑弥呼よりも100年もあとの時代の人間なんだよ
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年 >>771
>阿波は奈良盆地の水田跡に遠く及ばないからな
弥生集落遺跡をまず見つけてこい! 話はそれからだ。 ヘタレよ @阿波 そもそも畿内には奈良時代頃まで二上山周辺にヤマダイ郷が存在した事も確認済み、そこの近所周辺は神功皇后の母親もいる竹内宿禰の集落だ。
もう現在の考古学、文献資料だけでも邪馬台国なんて畿内しかあり得ないんだよな。 >>774
あとから邪馬台国という国があって
魏と外交していたと知ったので
それを大和王権の歴史としてとらえたほうが
ヤマト王権の歴史に箔がつくと思ったから
無理やり突っ込んだとしか思えないが? >>767
> 箸墓は邪馬台国とは関係ない 大物主の三輪山に近過ぎる//
張政が来た時の径100歩の墳墓は箸墓だけだった。
箸墓が卑弥呼墓なのは確定事項だよ。近過ぎる場所に作ったと考えるしかないだろ。
まぁ、アンタならどこら辺に作るのが適切だったか、なんてハナシをするのは勝手だが、
そりゃ、歴史とは何のかかわりもないハナシだろ。 >>771
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い奈良盆地に、七万戸の邪馬台国など興る訳がない。 @阿波 >>772
弥生時代の集落規模なら阿波なんて全然下っ端だぞw
複数の巨大弥生集落を持つ畿内には及ばないよ。 >>781
>複数の巨大弥生集落を持つ畿内には及ばないよ。
「複数の巨大弥生集落」? そりゃたのしみだ。 さあ、挙げてみろ! @阿波 >>779
どうだ?
日本書記にはヤマト王権が
魏に使いを送ったと書いていないだろ?
ただ魏志倭人伝を書き写して、魏志倭人伝に
女王って書いているから、たぶん神功皇后のことだよなと
年号を神功皇后の時代にして書いているだけ
こんな書き方(後の調査で時代が全然違うことが判明)しているのに
ヤマト王権の歴史に実際に魏に使いを送ったと思っているバカなのか?お前は >>780
畿内説は奈良盆地説ではないよ、日本語わかりませんか?
七万戸規模なんて県レベルでは不可能というだけの事。徳島にいた石野館長も言ってたなw >>775
おまえは、記紀に自分たちの伝承として書かれていることは史実で
書かれていないことは史実でないと決め付けてるわけだ
ということは、神武天皇は実在で、倭の五王は実在しないと言ってるのと同じだ
ただのトンデモ論者だと自覚しなさい >>784
>畿内説は奈良盆地説ではないよ
「複数の巨大弥生集落」? そりゃたのしみだ。 さあ、挙げてみろ! @阿波 >>774 > 卑弥呼の朝貢はヤマト王権とは別の九州の勢力によるものだ//
全然違うよ。
卑弥呼の朝貢はヤマト王権とは別の畿内の勢力によるものだったから、
そうじゃなくて、ヤマト王権がやった事だと嘘を書いて、
別の畿内の勢力、つまり、邪馬台国なんか無かったし、
卑弥呼なんかいなかったんだよ、という欺瞞の物語を書いたんだよ、日本書紀はね。
未だに、本居宣長なんかのヨタ話を妄信するとは、信じられないな。 >>778
そもそも書紀の編年で言えば
神功皇后は169年に生まれて269年に死んだことになってる
この編年に従えば、書紀の編纂者が神功皇后=卑弥呼と考えても
何もおかしくないだろう >>785
日本の歴史を調べるんだから
まずは先人たちが残した史書を解読するのが当たり前だろ
でも日本書紀に出てくる魏に使いを送ったという記述は
ただ魏志倭人伝を書き写しただけ
しかも時代が100年もズレている
これは大和王権の歴史にあったことじゃないってことくらいは
誰でも理解できるはずだろ? >>782
鍵唐古、池上曽根だけでも阿波以上だね。
勿論北摂から湖東にかけても複数存在する。
七万戸規模ならそれくらいの広さは必要だね。 これヤマト国の巫女さんが来た人の相手したっていう向こうの記録で邪馬台国の卑弥呼ってなってるだけだろ
向こうとは発音が違うから、こっちの記録にはヤマトしかないから >>790
根拠のない先入観を連呼するだけか?
で、おまえは神武天皇は実在で、倭の五王は実在しないと思い込んでるトンデモ論者だと認めるのか? >>72
天照が天岩戸に籠もっていたのは鉱脈さがしのため
卑弥呼が甲羅を焼いたのは、新で使われたという亀貨の熱耐性を確かめていたため
スサノオ一族を出雲に送ったのも鉱山のため
天照の家系は別天津神の娘との結婚で裕福だったが
スサノオたちは丹生神社建てるのにコキ使われた感じ? >>765
欠史八代なんて単に加上した名残でしかない。
ハツクニシラススメラノミコトはただ一人、崇神だ。 >>774 > 11代崇神天皇より//
まぁ、丸暗記する必要はないけどさ、
崇神って実在の初代天皇と見做される重要人物なんだからさ、
第10代ってのはキチンと覚えとかなきゃね。
邪馬台国の次代の権力者なんだしさ、日本側の資料から邪馬台国を探るには、
外せない人物なんですよ。 >>791
>七万戸規模ならそれくらいの広さは必要だね。
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い畿内が、「広さ」をいくら言ったところで屁のツッパリにもならない!
まず、「邪馬臺国」にふさわしい弥生集落遺跡を見つけてこい! 話はそれからだ。 @阿波 >>790
> 日本の歴史を調べるんだからまずは先人たちが残した史書を解読するのが当たり前
二人に指摘されるまで書紀の記述も知らなかったくせによく言うよ
邪馬台国の論争するんだったら常識じゃないかと思うんだが >卑弥呼の箸墓
箸のお墓かと思った。
なんだ地名か
書き方が悪い。卑弥呼=箸墓は決定事項じゃない
「の」って書き方が悪い。
ぷんぷん 古事記は法隆寺が焼け落ちたことを書いてない
なーんーでーかーなー?
だから日本書紀がでたんだろ >>2
ウィキで古墳に関する記述で宮内庁批判した箇所を
宮内庁IPが書き直したのがバレてて記事になってたしなあ
男系男子のみの継承で来てるわけないどころか
DNA鑑定したら赤の他人だったということもありえるので
必死に隠ぺいしてんだろうね
英国王室ですら王族はDNA鑑定してるってのに >>789
その編年計算が間違っている
魏志倭人伝に倭人は年数の数え方を知らず1年に春と秋で2歳年をとると数えていたと記述
その俗は、正歳四節を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけ
古代の天皇の在位期間が異常に長いのもこの時代のこの年数の数え方をしていたと解釈すると理解できる
もともとの編年年数はい1年2歳法だったことを知らずに
日本書記に書かれている年数をそのまま足して計算していっていたので
そのような年代になってしまったんだよ
1年で1歳年を取ると計算していた大陸王朝や朝鮮半島王朝とは
そのままの記述で考えると時代にズレがでる
つまり公開土王碑の記述を信じて
神功皇后は卑弥呼よりも100年以上後に活躍した人物と解釈するのが妥当 >>791
>鍵唐古、池上曽根だけでも阿波以上だね。
お前は消滅遺跡しか挙げられないようだな。 「阿波」の爪の垢でも煎じて飲んどけ、どカス! @阿波 >>802
どっかの駐車場から出てきた遺体も鑑定して国王のものだとわかり改葬したんだっけか >>793
意味不明だな
お前こそ根拠のない決めつけを連呼しているだけの馬鹿に見えるが? >>803
>春と秋で2歳年をとると数えていたと記述
糞ワロタ
超トンデモも持ち出してきやがった きてはぁ!がここまで無いのか?
>>80
犬狼伝説 >>765
当時の天皇は再婚する度に名前を変えていたのかも知れん
そうすれば子供の母親が分かりやすくなるだろ >>806
>ヤマト王権が送ったのなら何代天皇が使いを出したと記述しているだろうが?
これと同じ、根拠のない決め付けを繰り返してるだけだから、こっちも同じ指摘をしてるだけだ >>803
一年ニ歳説は書紀の不自然な編年を正当化するための説の一つにすぎない
それに後世の人が一年二歳説を知らずに誤って勘違いしたならともかく
書紀の編纂者がそういうミスをするわけがないだろう
なんとなれば一年二歳説に従って編年を作った当事者なんだから 何で調べちゃいけないのかね
歴史に興味があるだけの素人としては、本来分からないはずの昔のことを知るのは面白いのだけども >>796
さすがに崇神を間違えて11代と書くようじゃ、邪馬台国の話をするまでにまず普通の日本史を勉強しなさい、となるようなあw
「闕史八代」すら知らないことがもろバレwww 神武から応神までが実は同一人物だったらわかりやすいのにな >>813
崇神10代、仲哀14代だ。素直に謝っとく >>807
今や常識だぞ
古代の日本人は春で1年秋で1年と数えていたからこそ
天皇の在位期間がこのように長くなったことの説明もつく
崇神天皇 在位期間 68年
崇仁天皇 在位期間 99年
景行天皇 在位期間 60年
成務天皇 在位期間 60年
仲哀天皇 在位期間 9年
生きた年数じゃないぞw
在位期間がこれだぞ?
お前はこんな長い期間在位していたと本気で信じていて
その年数を明らかになっている年号から引き算して
編年年数を割り出したほうが正確だと本気で思っているバカなのか? >>711
「大きな冢を作った」なら「作大冢」なんだ
「径」も三国志の中では直径の意味で使われてる例がない
経路や距離の意味でしか使われてないんだよな >>816
君の書いた5人の系譜上の大王が全て実在したなどとそもそも考えている学者は今どきいないよwww >>812
天皇家には明かにしちゃまずい秘密があるんじゃないか? >>818
このように思考停止して
日本書記を否定しないとはじまらないのが
畿内説の脆弱なところなんだよなw
それでいて都合よく神功皇后は卑弥呼だったと言い張る
このご都合主義wwww >>816
常識?
九アノンたちの間で常識なのか?
世間一般では、非常識のトンデモだけどな
倭人は正月も四季も知らないと書かれているのに
アクロバティックな曲解で、月日も知ってたという意味のことを言い張ってるんだから >>797
七万戸を無視するからそんなトンデモ理論しか出来ないんだよ、阿波くんw
規模だけは阿波説は全く成立しないよ、せめて四国が邪馬台国だというならまだわからないでもないけどね。
まあ四国に統一的な文化様式や積極的交流が現状認められないのが致命的だが。
少なくとも畿内説は巻向だけでも東国から畿内は勿論、瀬戸内海周辺までそれは認められるからな。鉄に関しては淡路島や近江にあるんだから何の問題ないぞw >>811
古事記も日本書記も8世紀に編纂されたんだろ?
3世紀や4世紀くらいまで1年2歳法を使っていたことなんて
300年以上も後の時代の人は知らんかったと思うぞ >>820
神功皇后が卑弥呼だと考えていたのは書紀の編纂者であって現代の我々ではない
>>811について意見を述べてくれないか >>821
ん?正月も知らんが
収穫の時期は知っている
種まきの時期は知っている
種まきで1年、収穫で1年の数えていた
正月を知らないことと矛盾していない、というか
却って1年2歳説を補強していないか?w 宮内庁は目障りなんだよ
古墳の管轄は、文科省にしろ >>825
記紀には月日まで書かれている
おまえはそれを二倍年暦の月日だと言ってるんだよな? >>826
そうすると3世紀に書かれた魏志よりも
8世紀に編纂された記紀のほうが信用できないということになってしまうのではないか
君にとっては本末顛倒かもしれないが >>829
?
暦と年齢は同期してないよって言われているのに、何言ってんの? >>830
魏志倭人伝は倭人の使っていた
1年で2歳年を数える方法など使っていなかった
記紀を編纂した人は400年前の日本は1年で2歳年を数える方法だったことは知らなかった
これを考えると魏志倭人伝の年号のほうが当たり前だけど信じられるだろ? 古代の歴史が一番明らかになったのは古代エジプトの歴史だよね
理由は2つあって、1つは発掘しまくってること
2つ目は当時の文字が大量に残っており、それが解読された
ということ
一方、日本は発掘は許可されず、当時まだ文字が無かった・・・ >>831
割り込んでくるなら、他人に意味が通じる日本語で書いてくれ >>829
お前の言いたいことはわかる
例えば
崇仁天皇2年が秋から春までで
崇仁天皇3年が春から秋までだとすると
崇仁天皇3年冬とか出てくると矛盾すると言いたいんだろ?
だったら自分でそれを調べてみればいい
矛盾するところがあるかどうか >>790
お前バカだろう
普通に記紀の神功皇后の統治の年代は200年頃から300年頃なんだけどな
つまり卑弥呼の時期にモロにかぶっている
外国人が考え出したあの二倍暦だっけ?
あれは無視していいだろうな >>836
だから公開土王碑に刻まれている
広開土王碑より
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉
この記述が仲哀天皇9年に神功皇后が朝鮮半島を攻めた三韓征伐のことだとすると
仲哀9年=391年
今時、お前のような神功皇后が卑弥呼の時代と被ると主張している
時代遅れの馬鹿はいないぞw >>824
記紀の編纂者は神功皇后の時期に卑弥呼がいたと言っているだけで
神功皇后=卑弥呼なんて一言も言っておらんぞ
>>816
だからな、昔の系図には欠損があるのだよ
つまり長い時期の在位には欠損があったと考えるのが普通
この傾向は世界全土でみられる傾向なんだが
この程度の間違いは古代史ではどこにでも見られる
聖書や史記含めてな >>837
最初に言ってたこととずいぶん違ってきてる気がするんだが
まず日本の歴史書を紐解けと言っておきながら
結局のところ君が信頼してる史料は
魏志東夷伝倭人条と広開土王碑であってどちらの日本のものじゃないよね >>838
ヤマト王権と無関係な九州の権力の女王が遣使したのを書紀の編纂者が認識していたのだとしたら
わざわざそのことを本紀に記さないだろ。国辱ものだぞ >>839
当たり前だけれど比較しながら検証するんだよ
畿内説論者のように日本書記の記述は信用ならんから
参考外とか言い出して投げ出さずに
矛盾があればなぜかを考える
その際には外国の史書を参考に比較する
この当たり前の作業をせずに
○○だから信用できると一方的に信用したり
○○だから信用できないと投げ捨てるような
幼稚な行動をしているのがお前ら畿内論者ってところだなw >>777
俺も大和政権と古墳を造った政権は別の王朝だと思う。
葛城襲津彦が歴史からバッサリ切り落とされ過ぎ。それだけ新羅、環日本海文明は消したかった歴史なんだろうな。
新羅と今朝鮮半島に住んでる民族とは、全く関係ないけどなと付け加えとく >>822
どうして鉄器鉄工所が淡路島の五斗長垣内遺跡に作られたかって
大阪平野には別の部族がいたから淡路島を基地にしたんだろ
近畿は四隅突出型墳丘墓もなさそうだ
突然、巨大古墳を作ったちいうのは侵略されたんだよ ID:0ohvf/dG0
こいつは論理的に物事を考えることができないやつだとはっきりした
・記紀に自分たちの伝承として書かれていることは史実で、書かれていないことは史実でないと決め付けてる
・記紀の編纂者が認識していた年代と現代の知見で判明した年代をごちゃ混ぜにして畿内説にイチャモン
・畿内説論者が神功皇后を卑弥呼だと主張してると架空の畿内説を勝手に作り、藁人形論法で批判
九アノンはこんなやつばっかりだけど >>1
ここの県立橿原考古学研究所って、
どうしてこんなにも無理矢理「邪馬台国は畿内説」と持ち込もうと必死になってるの?
古墳という宮内庁管理の「墓荒し」という、新しい同和利権なん?
バックに近鉄も噛んどるの? >>844
たぶんオレも含めて
このスレを読んでいる全員が
論理的思考できていないのはお前だろ!と心の中でつぶやいたと思うぞ >>845
畿内以外のどこだと?
京大憎しで九州説を唱えた東大は九州の熊襲を見捨ててあっさり畿内説に鞍替えしたぞw >>843
大阪には、当時は平野はないぞ。
五十瓊敷命が菟砥河上で鉄の武器を作ってたろ。
ただし、菟砥川は貴志(紀氏)の支配下 >>846
一年ニ歳説の矛盾点を挙げてみろとか言ってたようなので
俺が代わりにちょっと書紀を見てみた
たとえば神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年の項
同年の記事は2月、3月、10月、12月にある >>849
ちょっと訂正 2、3、4、9、10、12月だ >>850
じゃあ仲哀天皇には
1年1歳計上法になったってことだろうな
仲哀天皇の即位期間は9年しかないから不自然な長期政権ではないからな 日本には四季がある(笑)んだから暦を持たなくても一年のサイクルぐらい把握してるにきまってるだろw
現代人よりも自然と共に生きてきたんだから当たり前 逆に昔の日本人をバカにしてんのか? >>813 > 「闕史八代」//
そっち、及び神武は、邪馬台国とはあんまり関係ありません。
>>739
> 箸墓古墳が最初の大型前方後円墳。つまり大王と呼べるレベルの最初の人間の墳墓。
そうするとミマキイリヒコ(崇神)という推理が素直//
張政が来た時点での径100歩の墳墓は箸墓だけだったのだから、
箸墓が卑弥呼墓だったのは確定事項です。つまり、
大王と呼べるレベルの最初の人間は卑弥呼だった、という事になります。
なお私は、崇神の実在、及び彼が卑弥呼後に重要な役割を果たした事は疑いませんが、
その即位は疑問と考えています。
何故だかかけ離れてワケなんて名前の、オシロワケなる12代の景行が、初代なんだと思う。
>>814 > 神武から応神までが実は同一人物だったら//
ヤマトタケルと仲哀から仁徳までが同一人物なのでわ?
辺境進出はヤマトタケルに振り分けられ、半島政策は神功に振り分けられ、
それなりに行ったであろう内政については仁徳に振り分けら、
名前(誉田ワケ)は応神に振り分けられた。
で、彼に残されたのは、帯中日子という実体のない名前と、何だかマヌケな説話だけになった。
好太王碑文によれば、404年に日本は半島で惨敗を喫した様です。
この時の大王が仲哀だったのでは。一種のトラウマな大王だった事になる。
倭王武(雄略)の上表に出てくる「祖禰」って、
躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國
なんて書かれてますが、これって仲哀の事なんだと思う。
まぁ、「渡平海北九十五國」は、話を盛り過ぎですけどね。
倭五王だって、「祖禰」が仲哀で、応神と仁徳を無視すれば、
讃/履中 ・ 珍/反正 ・ 済/允恭 ・ 興/安康 ・ 武/雄略 と、スッキリするし。
景行(忍代別)、仲哀/応神/仁徳(誉田別)、履中(去来穂別)、反正(瑞歯別)のワケ系統も、
何だかスッキリだし。まぁ、成務(稚足彦)は行き場にチト困るけどね。
>>820 > 日本書記を否定しないとはじまらないのが//
妄信する訳には遺憾だろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています