【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル [樽悶★]
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
箸墓古墳の墳丘(上)近くで見つかった葺石。宮内庁管理の区域の2メートル手前まで迫った=平成7年2月、奈良県桜井市
https://imgur.com/dWesxT5.jpg
「考古学者が一番掘りたい古墳」ともいわれるのが、奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、墳丘長約280メートル)。日本で最初に造られた巨大前方後円墳で、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説が戦前から唱えられているからだ。卑弥呼が中国から贈られた「金印」が見つかれば、邪馬台国畿内説を決定づけるとの期待は大きい。しかし、宮内庁が第7代・孝霊天皇の娘の墓として立ち入りを禁じ、発掘もできない。この謎のベールに包まれた古墳に、果敢に挑んだ発掘調査があった。
■古墳研究が何十年も遅れる
「卑弥呼の後継・臺与(とよ)の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」
平成7年2月、新聞やテレビは箸墓古墳の発掘成果を大々的に報じた。これまで不明だった築造時期が絞り込まれ、邪馬台国論争に重要な手がかりが見つかったからだ。
さらに研究者を驚かせたのは、立ち入り厳禁のはずの古墳で、なぜ発掘ができたのかということ。
この調査を担当したのが、県立橿原考古学研究所研究員だった寺沢薫さん(70)。現在は、箸墓古墳や邪馬台国の首都ともいわれる纒向(まきむく)遺跡を研究する桜井市纒向学研究センターの所長を務める。
実際の発掘の範囲は、宮内庁が管理する古墳のすぐ外側だった。墳丘北側に接して広がる大池の護岸工事を近畿農政局が計画し、それに先立っての調査。大池の堤防は墳丘につながっていたため、「箸墓に最も近い」発掘となった。
「何か出たら古墳のギリギリまで掘り進めようという思いだった」。寺沢さんはこう振り返る。「箸墓にこれだけ近いところを掘る機会なんてこの先、何十年あるか分からない。今やらなかったら、箸墓や古墳時代の研究が数十年遅れることになる」
■「立ち会いってどういうことや」
※省略
最終的に、発掘範囲は宮内庁の管理区域の2メートル手前まで肉薄≠オた。「本当はあと1メートルぐらい掘り進めたかったが」と寺沢さん。
調査の結果、箸墓古墳の墳丘は、宮内庁の管理より外側に広がっていたことを証明。さらに、古墳には幅10メートルほどの小さい周濠があることも分かった。
築造時期を特定する決め手となったのが、周濠部分などで見つかった大量の土器。考古学では年代を決める最も重要な「物差し」で、木製品の鋤(すき)=スコップ=とともに出土。いずれも古墳築造にあたった作業員が捨てたものと推定され、土器の型式から箸墓古墳の築造は3世紀後半から末頃と分かった。
「もし立ち会い調査で済ませていたら、葺石も土器も見つからなかっただろう」
■宮内庁の監視の目
ちょうど葺石が見つかり出したころから、宮内庁関係者の巡回の回数が増えていった。当時、記者としてこの発掘現場を取材した際、同庁職員の姿をしばしば見かけた。「宮内庁が管理している墳丘部分まで掘っていないか監視しているんだろう」。発掘現場を訪れた大学の研究者らから、そんな声ももれた。「卑弥呼のロマン」とは裏腹に、現場にはピリピリした雰囲気が漂っていたのを覚えている。
今では、仁徳天皇陵古墳(堺市)などの陵墓で、宮内庁と地元自治体が共同で発掘を行う事例も増えてきたが、この頃は「互いに縄張り意識みたいなのがあった」(考古学研究者)時代だった。
ただし、葺石や土器が見つかったことを受け、研究所から宮内庁の考古担当者に連絡すると、同庁担当者がさっそく現場を訪れ、出土遺物や遺構に見入った。寺沢さんは「組織や立場は違っていても、お互いに考古学者同士。いろんな意見が交換できた」と振り返る。
寺沢さんは現在、出土土器を通じた箸墓古墳の築造年代を260年代後半から270年代とみている。
卑弥呼が亡くなったのは248年ごろ。それなら被葬者は? (小畑三秋)
2021/9/15 08:00
https://www.sankei.com/article/20210915-C22NUJAAMFP2FAFDVJTAFEIUXE/
2021年9月17日 23:01
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/nd1ba09826dcb >>851
そこまでいいくとご都合主義と言われても仕方ないな
そのあとの神功皇后は数えで101歳まで生きたからそこは一年二歳だと言われてもね 倭国大乱などの倭国は九州勢力
近畿の方の勢力が後の大和政権=日本
その大和政権が九州の倭国なども支配し
国家的規模になってそこから日本がスタート
だから邪馬台国も倭国も現在の日本にあったが
日本の源流ではない 皇室がなくならない限り永遠に日本の古代史は謎のまま
発掘調査したら一発で全部つながるだろうに
しかし日本には皇室は必要です
現天皇に苗字があるとすれば息長さんです >>837
仁徳天皇の頃にも朝鮮出兵しているからな
お前は記紀を読まないから日本側の動きも知らないだけだろうよ
知っているのは三韓征伐だけのバカ 巫女が王になれるなんて火山で不安煽ることの出来る九州は阿蘇か鹿児島しかありえない。常識的にモノを考えろ。 >>856 > 倭国大乱などの倭国は九州勢力
近畿の方の勢力が後の大和政権=日本//
卑弥呼以前の大乱には、九州は無関係だよ。
> だから邪馬台国も倭国も現在の日本にあったが 日本の源流ではない//
要するに、邪馬台国は何処にあったんだよ。
>>857 > しかし日本には皇室は必要です//
無けりゃ無いで、別に困らないよ。
> 現天皇に苗字があるとすれば息長さんです//
継体以降はな。 宮内庁があれこれ禁止するから却って箸墓に対する期待が高まるんじゃね
実際宮内庁の連中は箸墓に何があるのかほとんどのやつは知らんだろ >>859 > 巫女が王になれるなんて//
単なる巫女ではなかったんでしょうよ。
崇神紀じゃ、単なる巫女って事にしちゃってるけどな。 栄養学的に言って稲作が発達した北部九州の方が、当時木の実などを主食にしていた奈良辺りより知能的に発達している
魏志倭人伝に記されていることは、北部九州圏内のことで間違いないだろう
当時の航海技術や道路などのインフラなどをかんがえても、九州から数百キロ離れた近畿圏との交流はしない
当時の1キロメートルは現在の100キロメートルに相当するだろう(移動で考えて)
でもバカはすべてを現在の技術に当てはめて言う
水行1か月では九州から若狭湾まで進めるとか、陸行1か月では九州から近畿圏まで行けるとか
例えば当時の福岡は現在の地理とは異なり、かなり入り組んだ湾となっていた
陸行ならば現在で1日で行けるところが、当時は10日ぐらいかかっただろう
現在の事情に合わせたバカが言う〇まるの距離がおかしい! というのは考え方がおかしいだけ
邪馬台国は北部九州、おそらく現在の大宰府辺りにあったはず
そうでなければ後の世に大宰府を庁舎とはしない >>817 >「大きな冢を作った」なら「作大冢」なんだ//
大きいと多いの区別がないなんて、寡聞にして知らんの。
> 「径」も三国志の中では直径の意味で使われてる例がない
経路や距離の意味でしか使われてないんだよな//
はァ? 帯方郡から邪馬台国って、径万二千里なのかね。
四角ければ方百歩、丸けりゃ径百歩だろ。
いい加減な事八゛力り書いてるんじゃないよ。
底の浅い思い付きをダラダラと書くなよノー夕リソ。 >>863
> 魏志倭人伝に記されていることは、北部九州圏内のことで間違いないだろう//
張政の来た時点で、径100歩の墳墓は箸墓のみだ。
箸墓が卑弥呼墓なのは確定事項だよ。
> 当時の航海技術や道路などのインフラなどをかんがえても、
九州から数百キロ離れた近畿圏との交流はしない
当時の1キロメートルは現在の100キロメートルに相当するだろう(移動で考えて)//
道程記事はデタラメ、ってのにサッサと気付く事だね。魏志だってそれを指摘してるんだしさ。
会稽(紹興)東冶(福州)の間ってさ、緯度から考えると、
九州最南端の佐田岬の少し南から、台湾最北端の少し北の間ってことで、
目ぼしい陸地の絶えてる海洋域だろ。つまり魏志倭人伝は、
そんな所に邪馬台国がある訳ないだろ、と云ってるんだよ。
むろん、北極星の仰角を測定すれば、それが緯度になると分かっていて、
佐田岬と台湾最北端でそれを実測したデータがあったという事だ。 >>816 > 古代の日本人は春で1年秋で1年と数えていたからこそ//
四季を知らずって、年4会計じゃなくて、種まきと収穫の年2会計だった、という意味だよ。
八゛力みたいな事を書いてるんじゃないよ。
> 今や常識だぞ//
非常識に常識なんて名前を付けるなよ。
> 天皇の在位期間がこのように長くなったことの説明もつく//
神武即位を安直に、BC660に持っていっただけだ。
千人も天皇を作る気力が無かったんだろうさ。
>>825 > 種まきで1年、収穫で1年の数えていた//
ホントにノー夕リソなんだな、オ〆はさ。 >>837
21代の雄略が471年でほぼ確定してるよな?
で、14代神功がいたとして仮に391年とした場合
雄略までの80年間に6代の大王をどうやって収まるんだ?
仁徳という有名なのがいるんだぞ?
算数できるのかお前? >>847
謎めいたクマソの秘密の解き明かすヒントとなるレスがあるよ
514日本@名無史さん2021/09/13(月) 21:11:36.13>>515>>516
ヤマトタケルこと小碓尊って九州熊曾国の行縢山に住むカワカミタケルに勝負を挑み
闇討ちに近い(女装して刃物でブスリ)暗殺作戦に成功した後
死ぬ直前カワカミタケルにその強さ??を称えてヤマトタケルの称号を与えられ
小碓尊はそれからヤマトタケルと名乗り始めたって日本書記に記述されてるけど
それが本当ならヤマトタケルってどうだけレベルが低いキャラなんだよってなるよね
515日本@名無史さん2021/09/13(月) 21:19:35.50
>>514
その辺りの古代史物語は創作に跳んだ童話だから眉唾もの
俺は倭国連合最強だった邪馬台国と絡ませて比喩的に
大和朝廷が九州を意識しまくって捏造物語を創作したと見てる 516日本@名無史さん2021/09/13(月) 22:41:04.91
>>514
カワカミタケル率いる熊曾国の行縢山は
九州の日本最古最大規模を誇る西都原古墳群に近辺なんだよな
魏誌倭人伝に記される邪馬台国や卑弥呼など古代倭国の秘密が握られてそう
517日本@名無史さん2021/09/13(月) 23:14:04.79>>518
三国志東夷伝倭人の条の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
518日本@名無史さん2021/09/13(月) 23:24:40.97
>>517
古代中国の漢民族は自分達以外の東西南北四方に居住する
異なる民族は劣った文化しか持たない四夷蛮族と見なしていたし
中華民族が東方西方南方北方の未開で未発達の蛮族を
文化的に教化しなければならないとう思想を持っていた >>1
トヨのほうが年代は近いんだが、
そうなると卑弥呼から30年間、男子の王で争いが起きてる
それが奈良であれば、天皇の元での戦争に当たるわけ 事実と創作に何の違いがあるのか。とあえて言ってみる。
年寄りなら分かる・自分たちが習った歴史、報道されてきた内容と、今がどれだけ違うのか。
墨塗り教科書バリのことが行われて来たのが中国の歴史書。 昔のことなんて分かりゃしないよ
そもそも魏志倭人伝自体、どんだけ信憑性があるもんなのか?
半世紀前のことも、今になると捏造されてる
戦争とか重大なことじゃなく、ちょっとした事件事案の小ネタでも、昭和の出来事は歪曲されとるよ 邪馬台国…ロマンはあるけどね
仮に実在したとして、何処に遭ったかさえ、未だ分からず >>873
九州ファンタジー論者は卑弥呼の墓見つけてから出直してこい 魏志倭人伝の邪馬台国がどこかはともかく、この時代あたりからヤマト王権が始まるという認識で良いのかね >>874
国防に関わるので他国の史書のほうが信憑性は高い >>873 > 畿内はぜってーないから//
そうだね、BC660まで男系で繋ぐためにはね。
>>872 > 事実と創作に何の違いがあるのか。とあえて言ってみる//
単に名前をBC660まで繋ぎました、なんてのは、創作って程のモンではない。
>>874 > そもそも魏志倭人伝自体、どんだけ信憑性があるもんなのか?//
ぶん投げて誤魔化すんじゃないよ。
>>875 > 仮に実在したとして、何処に遭ったかさえ、未だ分からず//
分かるように書いてあるよ、魏志倭人伝にはさ。
> 邪馬台国…ロマンはあるけどね//
読み取れない癖して、ロマンもなかろう。 ネトウヨが昔からブサヨの間違った歴史史観云々言うけど
大日本帝国当時は卑弥呼の話題はタブーだったことは知らないんだよなw >>878 > この時代あたりからヤマト王権が始まるという認識で良いのかね//
そうなんだけどもさ、
> 魏志倭人伝の邪馬台国がどこかはともかく//
邪馬台国が九州とかでは、この時代あたりからヤマト王権が始まってる事にはならないでしょ。 刺青いれてた邪馬台国の倭人は、ヤマトから土蜘蛛扱いされてた辺境民だと思うぞ 大陸には科挙があったから
大陸の文献のほうが信頼性あるな >>879
何いってんだコイツ藁
間違いだらけの書だから現在でも混乱してんだろ
そこそこ信用しても良いのは国力と文化レベルが伺い知れる部分くらいか
晋(魏)にとって知りたい情報はそこな訳だし後は使者が適当に盛って報告してもバレる事は無いからな >>881
> 大日本帝国当時は卑弥呼の話題はタブーだったことは知らないんだよなw//
あんまり軍部軍部と云うてやるなよ。
治安維持法にしろ何にしろ、連中に法律なんか作れないんだしさ。 >>885 > 間違いだらけの書だから現在でも混乱してんだろ//
別段、魏志倭人伝が間違いを犯してる訳ではない。
むしろ、魏志倭人伝は張政の(てか、その立案企画者の)間違いを糺している。 >>881
正確には日本と大陸との外交の歴史を知りたきゃ馭戎概言読めで異を唱えるのは憚れる状態だったって感じだな 地方政権の独自外交、そういうものがあったとしても
中央政府の編纂した史書はそのことを細かく書き記したりはしない
司馬懿に征服される以前に公孫氏の遼東政権が独自に倭国と通交していたのは確かだが
それについては三国志にも後漢書にも記述は残っていない 笑えるのが九州邪馬台国から分派した大和政権が
神代から日本の歴史を網羅したする古事記や日本書記に
邪馬台国の存在を抹殺した妄想ファンタジーの神話を展開するのに
魏志倭人伝には神経質なほどこだわり 倭 という名に異常など執着してるとこw まあ近畿パーは認知症コースか三島由紀夫コースかどっちかだよ
この極端なウソつきぶりには脳みそがついて行かない
いずれ破滅する >>1
卑弥呼は韓国からの渡来人
韓国や大陸の優れた知識で日本を導いた ところでさ、奈良県出身の高市早苗は
高市皇子、高市県主、三輪高市麻呂とかと関係ありそう? >>890 > 魏志倭人伝とか言ってる時点で論外//
はァ? いちいちタイトルが振ってある訳でなし、
どう称したって、論内も論外もないだろ、論無し爺さんよ。 >>895
ないやろう
奈良は上古から市場(市)が多いから市の付く姓が多い 想起メモ)
伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる
筑紫(九州)の日向の
橘の小戸の阿波岐原(海岸線?)
これを日向伊弉諾家と仮定する
祭神は、生坐した天照坐皇大御神
日向伊弉諾家直系の親族
卑弥呼=巫女名は天照大神
壹与=巫女名は天照大神だが、結婚後、豊玉毘賣
=ウガヤフキアエズの母にして神武天皇の祖母
後に神武東征へつながる。
この神武天皇が現人神系の天照皇大神となる
よって、卑弥呼の墓は、故郷の日向国にある。
円墳でさほどおおきくはない。
このように関係付けできる。 そもそも古墳ってのは水田作る際に出る残土の盛り土であってだな墓じゃないと思うぞ
日本人なら解るだろ
生け贄埋めたんだよ
人柱だろ >>1
>しかし、宮内庁が第7代・孝霊天皇の娘の墓として立ち入りを禁じ、発掘もできない。
>築造時期を特定する決め手となったのが、周濠部分などで見つかった大量の土器。考古学では年代を決める最も重要な「物差し」で、木製品の鋤(すき)=スコップ=とともに出土。
いずれも古墳築造にあたった作業員が捨てたものと推定され、土器の型式から箸墓古墳の築造は3世紀後半から末頃と分かった。
孝霊天皇は紀元前215年に死んだことになってる
別人確定 「邪馬台国」の時代は九州北部や近畿大規模環壕集落が沢山あった >>859
古墳時代以前の奈良盆地は巫女だらけ。
唐古・鍵遺跡には巫女が儀式を執っている姿が描かれた土甕が出ている。
そこでは銅鐸が作られていたが、末裔の集落にある鐘作神社の祭神に女性がいる
さらに近隣ある後発の鏡作神社の祭神にも女性がいる。
その名は石凝姥命(いしこりどめのみこと)。製銅部族の始祖か。ならば首長権は巫女に代々受け継がれているのが自然。巫女制度といえる。
縄文時代から栄えた平群。そこから竜田川を遡ると女性の修験者の拠点がある。
平群よりその南、銅鐸圏の上牧をさらに南下して葛城山。葛城の神は夜しか姿を見せない。これはマツリゴトを夜に執り行う卑弥呼と同じ。つまり巫女の可能性が高い。
古代ヤマト王権の時代まで、祭祀権は女性にあった。もちろん実務では邪馬台国と同じく男性の長と共同だったかもしれない。 >>864
大作だから「おおいに」だよ
「多いに」とか言ってないよ
冢作りの作業が盛大に行われた
奴婢100人の殉葬も盛大な冢作りの一環
径は近い距離のことだから万二千里とか長距離には使わないよ
ちゃんと勉強しろよw
三國志には丸形を径〇〇歩の使用例が無いんだよな
径の使用例を調べてみろよ >>878
大和朝廷が政権を取ったのは701年から
成立直後に自己の正当性を高める為に記紀を編纂したんだよ。 「大」はbig
「太」はmuch
「多」はmany
コレ、中文アルヨ 卑弥呼は死んだ 大きく作られた塚 100歩余りに及ぶ 殉死者奴婢100人
ドコニ問題アルカ? >>908
作る作業が「大」bigだったんだ
冢が「大」bigだったとは書かれていないな ハリマサ計測してないあるよ
ざっと見て100歩くらいあるかなぁと言う感じあるよ
ちゃんと測ってたら単位使って表記するあるよ
中国なめるなあるよ big making mound
big build mound
意味はわからないでもないあるね @大作冢・・・大いに冢を作る
A徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人・・・径百余歩に徇葬者の奴婢百余人
Aは@の説明なんだ
@冢作りの作業が盛大に行われた
Aその様子
張政は卑弥呼の墓の建設現場を見たんだ それは卑弥呼の墓ではないかもしれない
卑弥呼が死んだと言うのは張政が聞いた話であって、事実かどうかはわからない >>906
それは古田武彦の九州王朝説だろ
そんなの頭のイカれた邪馬台国九州論者ぐらいしか支持してないよ >>909
一説によれば日蝕が原因で卑弥呼は殺されたそうだ
日蝕が起きた→卑弥呼の霊力が衰えたので神が怒って太陽を隠した→卑弥呼を殺せ
で当時皆既日食が見られたのが九州だけだったと計算されている >>919
卑弥呼は既に「年已長大」だから老衰かもしれんし
或いは貰った「真珠鉛丹各五十斤(水銀朱、鉛丹各50斤)」を「以朱丹塗其身體」とある様に体に塗り中毒死したのかもしれない 茶臼山とか大阪城とか
昔は古墳と知らずに掘り返して崩して壊してしまってたんだよな >>919
日蝕を予言できたから君臨したんではなかったのか? 卑弥呼って本当に女だったの?
そもそも卑弥呼って本当に実在したの?
ます、そこから疑ってる >>921
巨大古墳は皇室の先祖の墓ではないな
神武東征以前に居た関西の豪族の墓だ
だから誰の墓か分からないんだ >>922
日蝕が起きたのは247年3月と計算されている
卑弥呼が亡くなった年も247年
つまり日蝕が原因で卑弥呼が君臨したのではなくて
日蝕が原因で卑弥呼は殺された説は有力 >>922
237年に魏で採用された景初暦の頃から確度の高い日食、月食の予測ができるようになったから
卑弥呼はその技術を手に入れた可能性はある
これは国家機密であるから容易に入手できないとしても
それ以前から中国で使われた確度の低い予測技術なら知っていたかもしれない >>926
日本と中国では日蝕の起こる日は違うよ
場所が離れているからな >>926
日は違わないよ。太陽は日周運動してるから
同じ日食が見えるのは同じ日の日の出から日の入りまでの間だ >>916
張政は卑弥呼が死んだ後も暫く伊都国に滞在してイヨが即位するのを見届けてから帰国したんだよ >>928
地球上で日食の起きる場所は違うですよ
帯状の長ひょろい場所に限られる
日本と中国では日食の起こる日が違い
中国の暦だと日食が予測できないから
江戸時代に和暦の作成が行われたんだよ >>930
そもそも古代中国のカレンダーには
この日に日蝕が起きると書いてあったのか?
現在のカレンダーよりも高機能だなw
やっぱり古代中国王朝半端ないなw 卑弥呼、卑弥呼と言われているが本名ではなく、尊称だろう。
古来から天皇の事をお上、将軍の事を上様と言って、本名で呼ぶことは臣下たちは
しなかったが、卑弥呼は姫皇女(ヒメミコ)とでも呼ばれていたんだろう。
ヤマトトヒモモソヒメのヒメミコなんて呼ばれる事はなく、ヒメミコ、ヒメミコと
呼ばれていたのを、魏の使者は卑弥呼と転記したのだろう。 >>930
当然ながら中国の予測技術を使いたければ中国の暦を使う必要がある
しかし技術そのものはなくても洛陽で何年後の何月何日に起こるという情報だけ得たとしても
あとは経度の違いを推測しておおよその予言は可能 >>933
でも日蝕は卑弥呼にとって利益をもたしたわけじゃないと思えるな
日蝕が起きた年と卑弥呼が没した年は同じ
つまり日蝕を予言できなかった卑弥呼は
逆に日蝕で不安に駆られた人たちによって殺された説のほうが
有力だと思う >>935
それは宣明歴の改訂のことを言ってるのだろうが
中国から直輸入した暦を823年も使い続けた日本の問題だろ
中国では宣明歴は71年しか使われてない つまり日蝕の恐怖にかられた人たちによって卑弥呼が殺さたのなら
卑弥呼がいたのは当時皆既日食が見られた九州ということになるんだよな >>892
別に記紀は卑弥呼を抹殺していないだろう
抹殺したのは神功皇后だろうな
そもそも卑弥呼は狗奴国の男子王にいじめられて援軍を魏に求めているからな
それがバレてすぐに処刑された
国内の政治に魏を割り込ましているからな
卑弥呼の上奏に応えて魏はすぐに張政を日本に遣わしたが
その時には卑弥呼は処刑され奴婢100人共に塚に埋められていた
それだけの事
一応張政は魏の使者だし丁寧な対応の元で騙された >>904 > 大作だから「おおいに」だよ 「多いに」とか言ってないよ//
大と多の区別がやっとついたのかいノー夕リソ。
> 冢作りの作業が//
普通に、頭痛が痛いだけだろ。
> 盛大に行われた 奴婢100人の殉葬も盛大な冢作りの一環//
勝手に盛大にするなよな。で、今度は大という字を含む熟語さがしかよ。
卑弥呼急死を受けて、突貫工事で大きな塚を作ったんだよ。
これは、魏志倭人伝の記載だけで十分わかる事だが、日本書紀の記載にも一致している。
箸墓については、昼は人が作り、夜は神が作ったなんて書かれているが、
これは、大きな塚が、昼夜を問わない突貫工事で、みるみる出来上がる様を描いてるんだよ。
> 径は近い距離のことだから万二千里とか長距離には使わないよ//
遠近に係わらず、径は距離なんかを示さない。勝手に径を距離にするな。
> 三國志には丸形を径〇〇歩の使用例が無いんだよな//
円の直径は径だよ。普通に径100歩が使用例だ。
> ちゃんと勉強しろよw 径の使用例を調べてみろよ//
普通に御前がな。
底の浅い思い付きをダラダラと書くなよ八゛力な工〒公だな。
>>911 > 作る作業が「大」bigだったんだ//
頭痛が痛いだけだろ了ホウ。
>>915 > 大作冢・・・作業が盛大に//
だからさ、業だの盛だのを勝手にくっつけるなよ。 >>1
魏志倭人伝見ればわかるけど卑弥呼は狗奴国の卑弥弓呼には全く敵わない
多くの国を支配しているにも関わらずに
それで魏に支援要請を出している
だから新井白石や本居宣長は偽女王を出してそこから地名の山門を導き出している
あながちこの説も間違いとは言い切れないんだよな
魏志倭人伝の方位や距離や都市名も半分は滅茶苦茶で未だに九州説と近畿説で言い合う始末
箸墓古墳も奴婢100人の痕跡がない事から卑弥呼の墓ではないよな
反乱ではない限り最低でも木棺に入れられたことだろうよ
一応女王の墓らしいからな >>940
だから新井白石や本居宣長は偽女王説を出してそこから地名の山門(ヤマト)を導き出している
あながちこの説も間違いとは言い切れないんだよな
卑弥呼の墓は確かに大きいがそこには奴婢100名が存在しなければならない >>906 > 大和朝廷が政権を取ったのは701年から
成立直後に自己の正当性を高める為に記紀を編纂したんだよ//
政権とったのは邪馬台国後なのに、BC660から、なんてのが、記紀の言い草だ。
つまり、ありもしない政権が、BC660から邪馬台国時代まで政権を取ってたと捏造した訳だ。
アンタの言い草は、ありもしない政権が、AD701まで政権を取ってたと捏造してるにしか過ぎない。
九州王朝国なんて、何処にもないんだよ。フリーメースンの焼き直しにしか過ぎない。
云ってるアンタには、そんな自覚すら無いんだろうがね。 >>925
> 日蝕が起きたのは247年3月と計算されている 卑弥呼が亡くなった年も247年//
日蝕の予測なんかはさ、過去にしろ未来にしろ、
時期が長けりゃ不確定要素が多すぎて無理。だが、そんな事以前にさ、
> 日蝕が原因で卑弥呼は殺された説は有力//
支離滅裂なだけ。言い出しっぺはいわば商売で書いてるんだからさ、
そんなシロモノをマに受けてるんじゃないよ。 >>942
むしろ九州にいた王こそヤマト王権に土蜘蛛扱いされていた
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。時田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。
現在の福岡県みやま市にある蜘蛛塚古墳に埋葬されている
土蜘蛛の女王とされて大和王権に征伐された田油津媛こそ
卑弥呼から続いていた邪馬台国の最後の女王だったのだろうと思う 日蝕が起きたら人々は卑弥呼の神託を求めるだろうが、そうならなかった。自らが生け贄となったか。 どうやらヤマトって地形由来の地名であって、固有名詞ではないね。
却って、みやま町とは宮山で王権の所在を示している >>946 > 日蝕が//
だからさ、ヨタ話をマに受けるなよ。
少しはモノを考えなよ、ノー夕リソ。 >>916
> 卑弥呼が死んだと言うのは張政が聞いた話であって、事実かどうかはわからない//
死んだふりをした女王様なんて御伽噺とかさ、
間に合った田道間守、今日のデザートは非時香菓、なんて童話くらい考えた上で書けよな。
> それは卑弥呼の墓ではないかもしれない//
日本書紀は箸墓について、昼は人が作り夜は神が作った、なんて書いている。
卑弥呼急死を受けて、昼夜を問わない突貫工事がなされた様を記載したものだ。
卑弥呼の急死と墳墓の急造は(卑彌呼以死 大作冢)、日中の史料で一致している。 >>1
記紀には欠史8代で書かれていないけど
九州と関西に移った神武天皇ら皇族は初めのうちはそれなりに有効な関係にあった
そのために神功皇后の夫の仲哀天皇までは九州巡幸があった
崇神天皇のころまでは良好な関係にあった
それが飢餓と疫病で九州巡幸は中止でそれどころではなくなった
九州巡幸が再開された景行天皇の頃には仲違いする熊襲が台頭し始めてきた
垂仁天皇の頃は逆に中国まで使者を遣わした
景行天皇の頃にまた九州巡幸が復活してゆっくり九州巡幸を実施した
というか西日本巡幸
景行天皇は東日本巡幸もやった
子のヤマトタケルもまた九州巡幸をして熊襲を打ち東は仙台まで足を運んだ >>946
卑弥呼=日巫女
巫女の仕事は神の信託を得て、いつ種まきをすれば
収穫が多く得られるか、といった生活に直結するアドバイスを神から教えてもらうことなんだよな
それなのに日蝕という人々が今まで目にしたことがない
天変地異が起きてしまった
神のご神託を得る卑弥呼のもとに民衆は押し寄せただろうことは想像に難くない
その時にうまくごまかせなかったので
民衆から不信感を抱かれた可能性が高い
だから卑弥呼の死んだ年と日蝕が起きた年は一致してしまう
つまり暴動によって卑弥呼は女王の座から引きずり降ろされて
殺された
こう考えると日蝕の年に卑弥呼が死んだことの説明がつく レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。