【奈良】「卑弥呼の後継・臺与の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」 卑弥呼の箸墓に迫った2メートル ★2 [樽悶★]
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箸墓古墳の墳丘(上)近くで見つかった葺石。宮内庁管理の区域の2メートル手前まで迫った=平成7年2月、奈良県桜井市
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「考古学者が一番掘りたい古墳」ともいわれるのが、奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、墳丘長約280メートル)。日本で最初に造られた巨大前方後円墳で、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説が戦前から唱えられているからだ。卑弥呼が中国から贈られた「金印」が見つかれば、邪馬台国畿内説を決定づけるとの期待は大きい。しかし、宮内庁が第7代・孝霊天皇の娘の墓として立ち入りを禁じ、発掘もできない。この謎のベールに包まれた古墳に、果敢に挑んだ発掘調査があった。
■古墳研究が何十年も遅れる
「卑弥呼の後継・臺与(とよ)の墓?」「築造は3世紀後半から末、邪馬台国畿内説に弾み」
平成7年2月、新聞やテレビは箸墓古墳の発掘成果を大々的に報じた。これまで不明だった築造時期が絞り込まれ、邪馬台国論争に重要な手がかりが見つかったからだ。
さらに研究者を驚かせたのは、立ち入り厳禁のはずの古墳で、なぜ発掘ができたのかということ。
この調査を担当したのが、県立橿原考古学研究所研究員だった寺沢薫さん(70)。現在は、箸墓古墳や邪馬台国の首都ともいわれる纒向(まきむく)遺跡を研究する桜井市纒向学研究センターの所長を務める。
実際の発掘の範囲は、宮内庁が管理する古墳のすぐ外側だった。墳丘北側に接して広がる大池の護岸工事を近畿農政局が計画し、それに先立っての調査。大池の堤防は墳丘につながっていたため、「箸墓に最も近い」発掘となった。
「何か出たら古墳のギリギリまで掘り進めようという思いだった」。寺沢さんはこう振り返る。「箸墓にこれだけ近いところを掘る機会なんてこの先、何十年あるか分からない。今やらなかったら、箸墓や古墳時代の研究が数十年遅れることになる」
■「立ち会いってどういうことや」
※省略
最終的に、発掘範囲は宮内庁の管理区域の2メートル手前まで肉薄≠オた。「本当はあと1メートルぐらい掘り進めたかったが」と寺沢さん。
調査の結果、箸墓古墳の墳丘は、宮内庁の管理より外側に広がっていたことを証明。さらに、古墳には幅10メートルほどの小さい周濠があることも分かった。
築造時期を特定する決め手となったのが、周濠部分などで見つかった大量の土器。考古学では年代を決める最も重要な「物差し」で、木製品の鋤(すき)=スコップ=とともに出土。いずれも古墳築造にあたった作業員が捨てたものと推定され、土器の型式から箸墓古墳の築造は3世紀後半から末頃と分かった。
「もし立ち会い調査で済ませていたら、葺石も土器も見つからなかっただろう」
■宮内庁の監視の目
ちょうど葺石が見つかり出したころから、宮内庁関係者の巡回の回数が増えていった。当時、記者としてこの発掘現場を取材した際、同庁職員の姿をしばしば見かけた。「宮内庁が管理している墳丘部分まで掘っていないか監視しているんだろう」。発掘現場を訪れた大学の研究者らから、そんな声ももれた。「卑弥呼のロマン」とは裏腹に、現場にはピリピリした雰囲気が漂っていたのを覚えている。
今では、仁徳天皇陵古墳(堺市)などの陵墓で、宮内庁と地元自治体が共同で発掘を行う事例も増えてきたが、この頃は「互いに縄張り意識みたいなのがあった」(考古学研究者)時代だった。
ただし、葺石や土器が見つかったことを受け、研究所から宮内庁の考古担当者に連絡すると、同庁担当者がさっそく現場を訪れ、出土遺物や遺構に見入った。寺沢さんは「組織や立場は違っていても、お互いに考古学者同士。いろんな意見が交換できた」と振り返る。
寺沢さんは現在、出土土器を通じた箸墓古墳の築造年代を260年代後半から270年代とみている。
卑弥呼が亡くなったのは248年ごろ。それなら被葬者は? (小畑三秋)
2021/9/15 08:00
https://www.sankei.com/article/20210915-C22NUJAAMFP2FAFDVJTAFEIUXE/
2021年9月17日 23:01
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/nd1ba09826dcb
★1:2021/09/18(土) 22:53:01.38
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1631973181/ >>948
神功皇后の熊襲征伐は単純な物語ではないよ
魏志倭人伝の元を書いた張政への倭国の対応もはっきりいって普通じゃないからね >>950
奈良県天理市の西殿塚古墳が壱与(イヨ)の墓とされている
築造は3世紀末〜4世紀初にかけて >>953
>奈良県天理市の西殿塚古墳が壱与(イヨ)の墓とされている
所在が分かる大王墓だと論証された、近世の天皇陵で、
平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した古墳など一切存在しない。
よって、平地のくそ最悪最底辺地ズボズボ沼地に盛り土した「前方後円墳」は、大王の陵墓では有り得ない。 @阿波 半島人と交易して力あった国々からその利権を親戚になる事で奪い取ったのが大和だろな そうなると邪馬台国は北九州だろ 今の朝鮮人とは無関係だけどな >>955
半島人と交易して力あった国は、鉄器王国「阿波」。 @阿波 神功皇后が120年ズレてる説ってあるけど
その根拠が好太王碑文と12世紀に書かれた三国史記(現存する朝鮮半島最古の歴史書)
けど、実際には具体的に神功皇后が攻めてきたなんて書いてないし
それどころか新羅本記では、紀元前50年頃からずっと倭人が攻めてき続けてるし
173年に倭女王卑弥呼の使者が来たと書いてある始末
まだ倭国大乱の真っ最中で、卑弥呼が共立されてる時期じゃない事くらいわかりそうなもの
と、三国史記もあまりアテにならない 学問に対する良心の誠実さを示すのが学者だとすると、学者が存在しない世界だな >>953
地元の大神神社の伝承だと箸塚古墳の地下の弥生墳丘墓がトヨ=天ウズメらしいね
彼女は今の椿大社にか組まれていたときに垂仁ことイクメに暗殺され、その時の故事が猿田彦の奥さんになった元ネタという考え方してたはず
そこの候補地からは後漢鏡が出てたはず >>952
川上建日別率いる熊曾(異称・熊襲)の姫だった襲武媛(そのたけひめ)は
日本書紀に景行天皇の妃(妻)なったとハッキリと記録され
襲武媛と景行天皇の間に生まれた子を国乳別皇子といい
国乳別皇子の長子は分家し水間と名乗り後に
北九州・筑前(現在の福岡市周辺)を支配してた記述は注目に値するよな つうか、日本憎しで突っ走ってるけど
外交務まるの? 秘密のベールに包まれたままの方がロマンがあっていいんだよなあ >>899>>903
九州説カルト信者が畿内説にイチャモンつけるときに使う藁人形論法の典型例が桃の種
「畿内説は纒向から出た桃の種を根拠にしてるが、桃の種なんか邪馬台国の根拠にならない」
っていうトンチンカンな畿内説批判を今までに何百回も見た >>963
水間、ミマは、水口宿禰に近いとされ、宗方氏と物部氏の混血
九州に地盤があるとされ、東征軍に属したとの話も
奈良には水口神社があり、宿禰が祀られている
宿禰は物部が傘下に与えた役職呼称とされる >>573
九州邪馬台(キュウシュウヤマト)を畿内ヤマトが滅したから
二世紀前半の九州分布から近畿分布と変わる >>966
桃の種が邪馬台国の根拠になる理由は?
神事の痕跡ではあっても、卑弥呼や邪馬台国のものだと言う根拠になるとは思わんけどな >>767
アマテラスは卑弥呼、神話で繋がってるが、天皇家とは血縁がない
だから、伊勢神宮に天皇陛下は参拝しない >>967
落ち込ませて悪いけど栄華を誇った九州のお下がりだし
所詮奈良の大和レベルなんて >>966
邪馬台国は確かに奈良の大和だけど、朝貢した卑弥呼は九州の卑弥呼
九州勢が大和を名乗った
これがとある日本の旧家に伝わる歴史
魏書を書いた人はトヨと同年代の人
宗女トヨは親子関係を表す
つまり、魏書に書かれている卑弥呼は複数
結婚してない方の卑弥呼はヤマトの卑弥呼
世話人の弟は賀茂氏の分家の太田タネコ
昔は特に血筋がモノを言う時代
奈良と九州は親戚どうし >>969
畿内説側が主張してないことを主張したことにして批判するから藁人形論法なんだよ
実際、考古学者で「桃の種は邪馬台国の根拠になる」と言ってる学者は一人もいないだろ
いるなら誰? 匂わせに失敗したら相手が藁人形論法を使ってるという藁人形論法を使うわけか
とことん腐ってるな畿内説
背後にカルトが居るな 桃の種は年代を測定するための材料に過ぎない
桃でもいいし、栗でもいいし柿でもいい
みかんでもリンゴでもいい 日本の方が朝鮮よりも水稲稲作栽培が早いと言うガセネタを信じている
お前らの古代史の知識は全部間違いだらけと考えた方が良いぞ >>927
尾張氏は丹波国造の出自。
海部氏も同じ。 >>921
記紀が歴史の事実を元にしているのは間違いない事である。 https://www.asahi.com/articles/ASL5B22KKL5BPTFC001.html
例えばこういう記事を読んで、畿内説は桃の種を根拠にしてると思い込み
桃の種なんかが根拠になるはずがないと批判する
典型的な藁人形論法 >>979
桃の種は纏向が吉備出身の豪族、
御間城崇神の王都である事を裏付ける出土品であり、
特に崇神の家臣の吉備津彦の桃太郎伝説を裏付ける出土品である。 >>3
しかし韓国に古代から伝わる歴史書なんてあるのかね?万能壁画以外に 邪馬台国の丹波氏は倭健命の東征によって
広がって行ったのと、
いわゆる元伊勢と言われる地域に広がって行った、
2つの広がりがある。
邪馬台国のその後を追うには、
この2つのルートを追っていけばいい。 弥生の伝承は記紀だけに残っているわけではない。
天の羽衣伝説は絹織物の伝播を元にした伝承であり、
絹織物の伝播は弥生時代〜古墳時代にかけてであり、
天の羽衣伝説が弥生時代起こった事を
伝える伝承である事が分かるのだ。 邪馬台国=ヤマト
ヤマト王権の前身
邪馬台国は畿内、出雲、北部九州と数十の連合勢力
卑弥呼→台与→簒奪→倭の五王→大王へと権力が移行していった
卑弥呼は桃や蛙を使った鬼道で太陽を崇め稲の豊作を祈祷→天照大神の神話を生み出した
宮中祭祀は鬼道の名残り >>937
今では神功皇后はそれまで唱えられていた年代よりも
120年後の時代の人だという説が有力視されている
>日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅が倭の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。
紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している[1]。百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[1]。井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている[1]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[ >>985
簡単に前身を使いすぎ
邪馬台国は消滅してヤマト王権が誕生したのが事実 もちろん、先ほど述べた通り、
桃太郎伝説は崇神の家臣、
吉備津彦の伝説である事が、
纏向の発掘で裏付けられている。 >>987
邪馬台国は丹波氏の王国として引き継がれている。
その結果、丹波氏の神功皇后が
大和朝廷で強大な権力を
発揮する事が出来たのである。 >>967
それと川上建日別(カワカミタケル異称・熊襲))率いる熊曾国の姫
襲武媛(そのたけひめ)は景行天皇の皇妃となり3人の皇子を産んだけど
3男の豊戸別皇子(くにそわけのおうじ)の子孫は
丹波国(現在の兵庫県中北部)に派遣されの丹波道主命となってる >>990
引き継がれた?証拠は?
金印でもあるんか? 邪馬台国が引き継がれるなりしてれば神話なんぞ要らんわな
大陸の後ろ盾と、その金印で全国を統一すればいい また、日本の正月開けには、
鏡開きという風習がある。
餅を割るのがなぜ鏡開きなのか?
今となっては、なぜどうしてなか?
分からない訳だが、
この鏡割りという風習は、
実は弥生時代の銅鏡が割られた状態で出土する事が始まりである事が、
この私によって提唱された。
現代に残る鏡開きの風習が、
実際には弥生時代から引き継がれた風習なのである。 >>993
記紀を見れば、倭健命の東征が、
丹波氏の武力を背景に行われたことは明らかであり、
それを元に拠点とした元伊勢籠神社や
熱田神宮の宮司が丹波氏出自の氏族であることも
それを裏付けているのである。 >>973
つまり桃の種も物証にはならないって事やん?
じゃあ畿内説の根拠ってなんだ? >>978
一部事実を元にしてそうな描写はあるが、だからといって記紀が史実だったとは言えないとなんどいったら このスレッドは1000を超えました。
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