【歴史】ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった? 弥生社会の九州勢力に勝てた理由 [樽悶★]
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ヤマト王権は西の勢力が打ち立てた――長い間、日本の史学界ではそう考えられてきた。しかし、纒向遺跡の発掘調査と研究によって、その常識は打ち破られつつある。ヤマト建国の背景には、東の文化(縄文)が色濃くあることがわかってきたのである。
※省略
ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。
※省略
「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは、かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。
ヤマトや近畿地方の人びとが、大挙して北部九州に押し寄せている。これは考古学が示す客観的な事実だ。ここに大きな謎が横たわる。
弥生時代後期の北部九州は、鉄器の保有量で、他の地域を圧倒していた。この時代の鉄は朝鮮半島南部(のちの伽耶の地域)が主な産地だった。倭人だけでなく、周辺の人びとが鉄を求めて群れ集まっていたことは、中国の歴史書に記録されている。
そして、ヤマトの発展を恐れた北部九州は、鉄を東に回さない策に出たようだ。出雲や吉備と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖した気配がある。そのため、近畿地方は鉄の過疎地帯となった。
近畿地方は困窮したが救世主が現れる。日本海側の但馬や丹波(これをタニハと呼んでおく)が鉄を含めた先進の文物を、独自のルートを使い、近畿地方、近江、東海に流し始めたのだ。一帯は次第に富を蓄え、その後ヤマトに集結した。
これが、纒向遺跡誕生の筋書きであり、あわてた吉備と出雲は北部九州との盟約を反故にして、あわてて纒向にやってきたのだ。北部九州の土器がヤマトにやってこなかったのは、むしろ当然のことだった。そしてヤマト連合は、大挙して北部九州に押しかけたわけである。
■縄文への「揺り戻し運動」
史学者の多くは、邪馬台国論争にばかり気をとられているから、近江と東海の動きを見誤っていたのだ。ヤマト建国のヒントは、目の前にぶら下がっていたのに、「邪馬台国の敵・狗奴国は近江や東海」という、誤った見識が邪魔をしていたのだ。
そして、ここがもっとも大切なところなのだが、ヤマトの纒向に集まってきた地域が、「ほぼ銅鐸文化圏」だったのである。彼らは、銅鐸の中に、縄文的な意匠を描いていた。ここを無視することはできなくなってくる。
※省略
ヤマト建国とは「縄文的な社会への揺り戻し運動」だったのではないかと思えてくる。主導したのは、もちろん、銅鐸文化圏の人びとである。「ありえない」と、反発を受けそうだが、考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。
縄文時代を通じて、西日本は東日本に比べて人口が少なかったが、寒冷化した縄文後期は、西日本の人口が増えている。一部は、東日本から人の流入があったようだ。人口密集地帯だった関東から、北陸・東海、関西、中国、四国、九州へと人の流れがあったことはすでに触れている。
やがて弥生時代になると、西側から水田稲作の文化が流れ込み、弥生化が始まる。また、弥生前期を代表する遠賀川式土器が盛行していったのだ。
ところが、紀元前4〜3世紀からあとの瀬戸内や近畿では、文様を排した遠賀川系の土器に代わって、土器に櫛などの道具を用いて文様を刻む風習が戻ってきたのだ。これが、弥生時代中期後半の紀元前1世紀ごろまで続く。縄文中期の全盛期の土器に似ているのだ。
弥生前期の終わりごろから、分銅形土製品(フィギュア)が瀬戸内海を中心に登場する。これは、縄文時代晩期末に西日本で作られた土偶が起源だ。やはりこれも、縄文回帰現象といえる。
※省略
纒向は「東側から来た人間がヤマトを支配するにはもっとも都合のよい場所」であり、いまだはっきりと固まっていない新政権のもとで、いざというときは東側の山や高台に陣を構えることも可能だったし、東に逃れ、あるいは東からの援軍を呼び込める場所だったのである。(関裕二 歴史作家)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20211009-00010000-voice-pol >>775
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる
兵庫県の高地性集落
神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、同県芦屋市会下山遺跡(えげのやまいせき、標高185メートル)、
同城山遺跡(標高250メートル)
↑田能遺跡も九州系の遺跡と考えてもいいと思う。
甕棺、銅剣の鋳型、木棺墓など。
弥生時代のほかの近畿地方の遺跡からするとやはり異質。
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
>本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたこと
を示しているという。
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか? ある程度大きめの集落は
だいたい10キロくらいごとにあるよね。 またネトウヨに都合のいい歴史を捏造してるのか
韓国と同じことやってるな >>776
>最近の遺伝子調査で朝鮮人の遺伝子が色濃いのは九州より四国、関西、埼玉って結果が出てたからな
それ、「忌部一族(阿波勢力)」の全国進出の痕跡にすぎないんだよ。 @阿波 https://translate.google.co.jp/?sl=tr&tl=ja&text=ate%C5%9F%20g%C3%B6l%C3%BC&op=translate
笑えるなw🔥アチッ!って >>27
筑紫で九州全体を指すこともあるんですけど?
阿波も、徳島県ら辺だけでなくて、四国の全体だったり、
大和も、奈良県ら辺のとくきもあれば、大和盆地周辺、畿内、日本全体だったり、
河内も、大阪府の東の4分の1くらいの河内国のこともあれば、淀川・大和川に挟まれた範囲だったり、淀川・大和川の流域全体だったり、
河内国・摂津国・和泉国まで含んだ範囲(畿内の西半分)だったり、文脈で意味の範囲が違うでよ。 >>667
だからお前は反論する前に日本書紀くらい読めよ
マジでアホなのか? >>668
うん?馬韓と秦韓などの事だからな
貢物約束しただけで魏が管轄外の事を毎度記録しているとでも言うのか? >>776
唐人・新人羅・高麗人の捕虜、百済人・任那人の亡命者なんかを、当時新領土に近い統治がおぼつかない
関東方面に放り込んで開墾に使ったからな。
手足があって田畑を耕すなら誰でも良いよ、って具合に。
アメリカの西部劇の時代と同じだよ。
耕すなら誰でもいい、別に今英語喋れなくても良いって具合に、イタリア人やらドイツ人やらポーランド人やら
どんどん受け入れて耕しただけ自分の田畑にして良いよってやって、インディアンとの防壁に使ったような感じで、
飛鳥時代の日本も諸蕃を蝦夷の防壁に使った。 >>785
あなたが正しいのも含めて
筑紫平野の日向(=ひむか、西方面)の橘(筑紫の橘といえば八女郡)の、
って、邪馬台国の候補地の山門郡にどんぴしゃなんだよな >>643
お前はアホだよ
稲作は日本の基礎だぞ
今さら縄文時代に戻れるかよ
コメ文化は既に日本の食文化
寿司やみそ汁や納豆卵 ご飯
日本食の中心にあるのはコメ文化
パン文化じゃないからな >>667
いや日本書紀に記載されているけど
お前の日本書紀には掲載されていないだけだろうよ >>788
仁徳53年に新羅が朝貢を怠ったため、まず兄の竹葉瀬を詰問使として遣わし、続いて田道が兵を率い遣わされ新羅の兵を撃破した。 当時のイデオロギー的には
中国大陸国家との連携重視派
v.s.
日本列島重視派
じゃないの
前者の頂点が卑弥呼の「親魏倭王」受章
それに反発した後者が敵対→ヤマト王権樹立 やっぱり関裕二かw
この人は古代文明はいくらでもストーリーが思いつくので一生食いっぱぐれない
くらいに考えてるような人だぞw >>791
わ、ネトウヨが出たよ。
彼らってコメが大好きなんだよね。
糖尿の元凶なのにね。
恥ずかしいことだ。 >>22
加羅人はヤマトの属民
百済人は縄文系なのが有力
新羅人は中国系なのが有力
一応高句麗人が朝鮮人の民族的
先祖だがここにツングースと
モンゴルがまじって朝鮮民族ができる
だから朝鮮文化からヤマト文化への
強い影響はある以前に時代的にあり得ない >>796
イネ科の作物なんて本来人間の
栄養摂取に必要ない存在だからな 庶民はね出身地域に拘らず助け合っていたんだよ
行基集団を調べたらわかる
奈良時代畿内周辺の要路では、「調」を都まで運んできた運脚夫や造京の任を終えた役民たちが、帰国途中に飢え疲れて不慮の死という悲惨な状況が頻発していたんだな
ヤマト政権から糾弾されても、そのような人たちを布施屋を作り食べ物を持ち寄り助けたのは行基であり畿内の在地の民衆である
それが大きなうねりとなり平安を迎えることになるんだな
畿内という地は度重なる戦や権力争いの舞台になったが民衆は辛抱強く耐え多くの人々を受け入れてきた
日本一多様性に富んだ地域 そろそろ縄文=古くに成立して旧来の文明しか無い古臭い集団
弥生=当時の最新文明取り込んだ進んだ集団っての
辞めたほうが良いんじゃないの?
縄文は古くに成立して都度都度最新文明取り込んだ集団でしょ 丹後半島の歴史は興味深い
紀元前後に中心勢力が変わったんじゃないか?
弥生時代中期までは鉄工房が盛んであった
弥生時代後期になると丹後半島の中心集落の位置が変わり、朝鮮半島に類似した墓、朝鮮半島製と思われる鉄刀が出土するようになる
丹後半島と入れ替わるように淡路島や池上曽根遺跡、少し遅れて伊吹山など畿内周辺で鉄工房が営まれるようになる
紀元前後丹後半島で鉄工房を営んでいた勢力が畿内に逃れてきたと思われる
ヤマタノオロチ一族だろう
その後畿内の勢力の協力を得て淡路島や伊吹山に拠点を構えたんじゃないか?
同時代の出雲地方で丹後半島と同じような変化が起きているんだよね
神庭地方の栄華を極めていた集落は紀元前後に営みを終焉し、その後加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかるようになる
近畿地方の人々は出雲や丹後半島から逃れてきた人々を受け入れ、協力し国作りを始めたんじゃないか?
弥生時代後期に入ると近畿地方から環濠が無くなり平和な時代が訪れる
銅鐸に描かれたほのぼのとした社会
滋賀の巨大銅鐸が見つかった伊勢遺跡
近隣に墓の痕跡がない伊勢遺跡は、集落遺跡ではなく各地から首長たちが集まって祭祀を行っていた祭祀跡と考えられている
神無月に神々が集まる話の元ネタだろう 纏向遺跡から卜骨の跡が見つかっている
記紀によれば埴輪ができるまでヤマト政権には殉葬の風習があったと書かれている
卜骨も殉葬も縄文時代にはない風習である
関裕二は根本的に間違っているんだよ wiki
九州(きゅうしゅう、くしゅう)は、中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。中国では天下・世界全体の意味で用いられる場合もある。 夏(か、拼音: Xia、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃[注釈 1])は、史書に記された中国最古の王朝。夏后氏ともいう。夏・殷・周を三代という。
『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。
「タイ系の言葉を話す夏人の伝説上の最古の王朝」である[1]。
長らく伝説とされてきたが、近年の考古学資料の発掘により実在の可能性が出てきている。 二里頭遺跡周辺の当時の土壌に残る種子の分析から、粟(あわ)、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた痕跡がある。これにより、気候によらず安定した食料供給が可能となったと考えられる。
これが、それまでに衰退した他の中国の新石器時代に起こった各文化との違いであり、その後の商(殷)とも推定される二里岡文化へと繋がる中国文化の源流となったとも言われる。 夏王朝の始祖となる禹は、五帝の一人顓頊の孫である。帝堯の時代に、禹は大洪水の後の治水事業に失敗した父の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績をなし大いに認められたとされる。。
2016年8月に科学雑誌『サイエンス』に掲載された研究結果によると、この大洪水は紀元前1920年に起こったという。
舜は人望の高かった禹を後継者と考えていた。舜の崩御後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかった為に禹が帝位に即位し、陽城(現在の登封市)に都城を定めた。禹は姓は姒(じ)と称していたが、王朝創始後、氏を夏后とした。
禹は即位後暫くの間、武器の生産を取り止め、田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、宮殿の大増築は当面先送りし、関所や市場にかかる諸税を免除し、地方に都市を造り、煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。
その結果、中国の内はもとより、外までも朝貢を求めて来る様になった。 更に禹は河を意図的に導くなどして様々な河川を整備し、周辺の土地を耕して草木を育成し、中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。
禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。 『竹書紀年』に依れば、45年間帝であったという。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。
尚、「禹」という文字は本来蜥蜴や鰐・竜の姿を描いた象形文字であり、禹の起源は黄河に棲む水神だったといわれている。
この神話から、禹及び夏人は南方系の海洋民族であったと想定する説もあり、その観点からも多数の研究書がある。 ミナカヌシ 近江
クニサツチ 八方八下りの御子 8人 近江、富士、他
キノトコタチ (タカミムスビ初代) (日高見) - 天鏡(筑紫)- アメヨロヅ(四国)- アワナギ(北陸、山陰?)- イザナギ
オモダル カシコネ 安曇(近江)
八方を巡って民を治める(九州-東北)
イザナギ(二種(瓊、矛))
ヒルコ 筑波イサ宮生まれ 船に乗せ捨てられる、ヒヨルコ(流産)(近江) 船に乗せ流される、天照 ハラミの宮(富士)生まれ、
月読 筑紫(月隅)ヲトタチバナノアワキ宮 生まれ 、ソサノヲ(スサノオ) ソサ(紀伊)熊野生まれ
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 伊勢→宇佐 三女神、モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母)、(トヨ姫アヤコ(ムナカタの娘、クマノクスヒの母))
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江 ネ(北陸)とサホコ国(山陰?)を兼ね治める オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す
ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂
ニギハヤヒ(クニテル)(国照)
天照−オシホミミ−ニニギ−ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))−ニギハヤヒ(クニテル)
ハラ(富士)→アスカ どうも治水と倹約の夏より、戦争の捕虜を生贄に捧げていた呪術商人・殷のがヤバそうな政治してるな
こっちのが原始的に見えるけど後の王朝なんだな 殷の生贄…
火の神に捧げられるやつだとヤバイ
敵の捕虜生贄にするから周辺諸国から超恨まれて叛乱でほろびたようだ
中国で最初に甲骨文字使った王朝だからよけいにインド人の亜種にしか見えない 殷の時代の戦いには大量の巫女(媚)を連れていって呪術を使わせたそうな
日本もドラマ聖徳太子で巫女がたくさん同行してたな >>756
弥生時代最大級クラスの水田跡がごろごろあるのが近畿地方やで
なんで嘘をつくのか ところで、この現象は韓国語の外国語表記
と関連があると考えられる。たとえば、日本
語の発音を韓国語で表記する場合、「ヤ、ユ、
ヨ」を含むものはそれぞれ「야、유、요」と表
記する。たとえば、「キャ-갸(캬)、キュ-규
(큐)、キョ-교(쿄)」、「シャ-샤、シュ-슈、
ショ-쇼」などとなる(()内は語頭以外の場
合)。たとえば、「東京(トウキョウ)-도쿄」、
「九州(キュウシュウ)-큐슈」となる。一方、
日本語の「チャ、チュ、チョ」と「ジャ、
ジュ、ジョ」を韓国語で表記すると、それぞ
れ「자(차)、주(추)、조(초)」「자、주、조」
のように単母音で書くので、たとえば、「新宿
(シンジュク)」は韓国語で「신주쿠」と書く。 >>826
畿内説は無理やり邪馬台国の時代に年代を合わせる必要はないんやで?
古墳時代の水田という事を認めれば、弥生時代のはずの遺跡から馬の鐙が出たこととか色々辻褄が合うだろうに ギリシャ語は促音化しない
たとえば、τέσσερα は「テセラ」であり、「テッセラ」とは読まれない。κόμμαは「コマ」であり、「コンマ」とは読まれない。 弥生前期で最大規模らしい中西遺跡と同時期の吉野ヶ里遺跡の比較
奈良・中西遺跡 4.3ha、全体で10ha以上と推測
佐賀・吉野ヶ里遺跡 環濠内部40ha、集落全域117ha
現代でいうと、東京23区と地方都市くらいの差がありますなあ アマは天であり海であり海人であり海女であり尼であり女
きっとアマミ諸島は海人のなわばり あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをばよろこびに思ひ すこし後れたる方あらむをもあながちに求め加へじ うしろやすくのどけき所だに強くは うはべの情けはおのづからもてつけつべきわざをや
現代語訳
(頭中将)そのほかの生まれや育ち気立てのよさが備わっているならもっけの幸いと思い、すこし至らないところがあろうと無理な要求を加えたりしない。信頼がおけておっとりしたところさえ目立ってあれば、表面的なやさしさなどは自然と身につけてしまえるものですからね。
促音化していないが。 関裕二って神功皇后が土蜘蛛の女酋長(卑弥呼)をコロしたと言ってた人だよねw 東日本が歴史の主役になると同時に
日本語が促音化してる 浪
「浪」の古代中国語音は浪[lang]である。日本語や朝鮮語などアルタイ系言語では語頭に[l-]がくることはないという原則があるから、語頭の[l-] は[n-] で代替される。朝鮮語では今でも盧泰愚(ノ・テウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)のように中国語のlはnに転移する。現代朝鮮語では「浪」 は浪(nang) である。👈わかる
日本語では波(なみ)という漢字があてられているが、日本語の「なみ」の語源は中国語の「浪」である。浪(なみ)と発音するのは、朝鮮語読みの影響があるものと思われる。👈わからないw >>826
>弥生時代最大級クラスの水田跡がごろごろあるのが近畿地方やで
その水田跡、すべて大洪水に見舞われた無様な痕跡。
「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で「大柿遺跡」の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。
徳島大学大学院 准教授(当時) 中村 豊氏 @阿波 >>千葉県柏市生まれ。仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究
あかんやつや コンスタンティノスは当時次のように述べました。
「神 から降る雨の雫はすべての人の上に同じく当たるのではないのか。太陽はすべての人間を同じく照らし ているのではないのか。また、すべての人間は同じく、空気を吸っているのではないのか。」
また、聖コンスタンティノスは、キリスト教説教の報酬として、金銭や物品は受けず、
奴隷達の解放だけを求めたそうです。← 縄文の精神をあくまで踏まえながら、戦うとなったら真っ向から戦い抜く
まさに大和魂の確立でもあるな 誰が書いたのかを最初に確認してみたら歴史作家か
こりゃ本文を読む価値無いな 古墳人(!?)のアヤ氏に関して言えば
アヤ・アルチ・ムサ・アスカ・スグリ、、、+アスカの丘の上の大女神の神殿とくりゃ
普通に特定言語を思い出す人がたくさんいたはずだし、いるはずだ
彼らキリスト教徒だし、旧約聖書のイザヤの言葉も知っていたはずだ
自分たちのご先祖の一部が、元縄文人の帰国運動に絡んで東の島に既に渡っている事も 最近、大和朝廷ってやっぱり朝鮮系なのかな、とか思うようになってきた。 ヤマト政権の始まりは殷の風習を継ぐ卑弥呼を担いだことじゃないの
殉葬や生贄など残酷な風習が民から恐れられたのかもな
倭国大乱後のヤマト政権以降の歴史は殷の影響に抗う民の歴史でもあるかもね
殷に傾いたり民に傾いたりの繰り返し ヤマト政権成立以前の倭国大乱以前の近畿地方や縄文時代には殉葬の風習はないからねえ 鏡って中国の王城に歴代王朝数世紀分の数千枚数万枚がストックしてあって日本に下賜されたのか
価値は大小・新古どれが高かったのか
日本に来てから数世紀経ったのか数世紀経ったものが下賜されたのか
数世紀持っていて錆びたり曇ったりしなかったのか 関裕二を全部論破してるようなまとめサイトはどこかにあります? >>802
4世紀後半には衰退がはじまってる阿波を無理クソ都だと主張するのは恥ずかしいだけだぞ。 >>853
下手な心配スンナ。 白村江で惨敗するまで、ばりばりの倭国(阿波)王権だ。 でなけりゃ、半島まで大遠征など出来んじゃろが。 @阿波 >>854
だから、5世紀には阿波は既に抜け殻みたいなもので、
残ってるのはお留守番部隊だけ。
ヤマト王権の歴史に阿波の影響は限定的なもの。
@阿波君が妄想するような阿波王朝は存在しない。 >>856
>だから、5世紀には阿波は既に抜け殻みたいなもので、
下手な心配スンナ。 白村江で惨敗するまで、ばりばりの倭国(阿波)王権だ。 でなけりゃ、半島まで大遠征など出来んじゃろが。 @阿波 山人は山陰山陽地方つまり中国地方がなわばり
ヤマトは倭であり山人
山の入口が山門
白いうさぎちゃんは因幡でワニに捕まり、どっかの王子を擁立してふっかつする
大王を補佐した禹だから宇佐
宇佐は大分
九州の真ん中
和邇の縄張りは奈良〜滋賀県
和邇は漢人系の帰化人
因幡は鳥取
中国地方の山陰
うさぎは一羽二羽と数える
神社に鳥居があるのは神の補佐が宇≒兎だから
鳥取はウサギちゃんがワニに捕まったから鳥取
鳥取で古代人の骨がたくさん出るのは古代に戦場になったから
焼けてたやつもたぶん火葬ではなく焼き討ちか生贄の遺骨
吉備は岡山
中国地方の山陽
吉備=黍
きびのだんごをもらった桃太郎がイヌと酉と申を連れて鬼が島に金銀財宝をもつ島の鬼退治に
桃太郎は百越か百済出身の王子
大王が戦後に都合よく「みんな俺様の下でなかよくしろよ」と手下に言い聞かせるため
縁起担ぎで
大和
の字に変えた
実際は犬猿の仲は悪い関係の象徴
ちなみにwiki
>羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。 てゆうか夏王朝のときから海をはさんだ周辺の島から朝貢してたやついるんじゃね
紀元前にせんねんぐらいから。
そいつが中国で穀物の種をゲットして稲作を…
イナバは稲葉 中華も媚中派も落ち目になったもんだねえ
弥生人、特に古代朝鮮系が歴史操作の役に立たなくなったのが大きいわな
弥生と古墳は別物と思われてた昔なら騎馬民族を中華にすり替える事も出来たか
(なんであの時点でやっとかなかったかな)
渡来人=古墳人=中華なんて研究操作まで堕ちるんだから 朝鮮半島も北方の国の支配者層はみんな中国からの帰化人で
半島の見た目いい女は全部中央の王朝に貢物として送りつけて
妊娠して戻されたら国内で混血を産ますことで
半島の民族浄化政策を代行していた
昔からろくでもないやつばかりに支配されてた半島人
日本も童謡にある桃太郎のきびだんごクレクレは大陸からきたどっかの王子がキビ政策により、
イヌサルトリの各家の女に種ばらまいたのを暗示している
ような気がする 魏のやつが朝鮮半島を騎馬で通過して列島のどっかにドカドカやってきただけじゃね?
岐阜が滋賀県の隣なのもちょっと気になる 縄文人 クメールorシュメール
弥生人 百越
古墳人 倭→? >>863
海から先は人間だけで船乗って来て客人扱いしてくれた舅の軍借りた >>834
どっからどう見ても
タッ!カルビみたいな事にはなってないんだけどね なんでこんな🇭🇺ハンガリー語みたいになったんだろう?
日本語 馬韓辰韓では、馬は喰ってた。
日本は乗り方、利用価値、運び方を知らなかった。
これが理解できて、馬を船で運んだのが、
漢四郡撤退の313年以降の半島進出〜高句麗戦である。
これは、古墳時代の到来と同義であって、
纏向古墳から馬具が出るのは正しい。隠すかよw
ちなみに、卑弥呼の墓は247年に
帳政の上陸地から伊都の間で見たのであるから
246年以降に死んで、その場で247年までに作られた塚である。
馬具は無いし、纏向でもない。 >>1
>ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。
文字も無いのにそんな既存文化への反発運動なんて起きるかいな
与太にしても酷いね 大陸からも出土していて幾何学文様に類似性があり
古代中国の船も描かれている銅鐸が縄文意匠というのは斬新な説だな
おそらく鹿など動物の絵を縄文意匠としてるんだろうが弥生人は動物性蛋白を忌諱して狩猟をしなかったんだろうな >>868
どこがどうハンガリー語と日本語と似てるん? 伊勢遺跡から大和王権には連続性があるんだが祭祀が変化してるのよな
飢饉や大乱で今までの祭祀じゃダメってことになったのか何なのか >>657
三韓征伐ではこの辺をポイントにしておこう。
神功皇后 摂政69年没 + 7年(三韓征伐−立后) +立后年齢≒13〜16 ≒ 89〜92歳
AD 369年 七支刀 (もっとも妥当な年代とする) 神功 52年
AD 371年 百済近肖古王 平壌陥落高句麗王戦死 神功 54年
AD 391年 高句麗 広開土王即位 応神 3年 (神功没 3年)
AD 399年 高句麗 新羅支援 応神 11年
*応神14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。
神功記を主体にすれば三韓征伐は AD317年 ※ギリギリ台与生存期になる w
七支刀年を主体に考えれば、AD349〜(≒20年間)〜AD369年の間
*年代・計算でこめけーのはおいといてね w 唐じゃなくて
タブガチ国って呼ばれてた?
🇹🇷トルコ語? >>872
https://translate.google.co.jp/?sl=tr&tl=ja&text=Bir%20tarlaya%20kemeken%20ekmi%C5%9Fler%2C%20iki%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi%20dadanm%C4%B1%C5%9F%3B%20Biri%20erkek%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi%2C%20%C3%B6teki%20di%C5%9Fi%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi.%20K%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20erkek%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCn%C3%BC%2C%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20di%C5%9Fi%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCne%2C%20K%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20di%C5%9Fi%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCn%C3%BC%2C%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20erkek%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCne%20yamam%C4%B1%C5%9Flar.&op=translate
きてる🤣 >>874
神功皇后の三韓征伐は200年
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする
広開土王碑は日本陸軍が発見したもので当時は仁徳天皇の時の朝鮮出兵がそれにあたると考えられていた
陵墓選定は江戸時代に行われていたもので
陵墓における放射性炭素年代測定による年代測定もかなりデタラメなものでそれが正しいとは言えない
また墓の改修工事は江戸時代にも行われている
箸墓古墳においても魏志倭人伝に記述された奴婢100人の形跡がなく卑弥呼の墓とは言えない >>1
>>877
ちなみに晋(西晋)の 泰始四年は268年
神功皇后の三韓征伐は200年
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする
日本書紀神功皇后摂政52年は252年なので
日本書紀の年代には16年ほどの誤差があると考えられる D1a2a周りにどこ探してもいないぞ?
D1a1とD1a2a別グループだから。近いけど。
キルギスだとか、チベット、ハンガリー、ウイグル等と
暴力で混血はしてないだろう。
アンダマン諸島はD1a2b。bだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています