【歴史】ヤマト建国は縄文への揺り戻し運動だった? 弥生社会の九州勢力に勝てた理由 [樽悶★]
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
ヤマト王権は西の勢力が打ち立てた――長い間、日本の史学界ではそう考えられてきた。しかし、纒向遺跡の発掘調査と研究によって、その常識は打ち破られつつある。ヤマト建国の背景には、東の文化(縄文)が色濃くあることがわかってきたのである。
※省略
ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。
※省略
「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。それどころか、ヤマト建国前後の人の流れは、かつての常識を嘲笑うかのように、東から西なのだ。
ヤマトや近畿地方の人びとが、大挙して北部九州に押し寄せている。これは考古学が示す客観的な事実だ。ここに大きな謎が横たわる。
弥生時代後期の北部九州は、鉄器の保有量で、他の地域を圧倒していた。この時代の鉄は朝鮮半島南部(のちの伽耶の地域)が主な産地だった。倭人だけでなく、周辺の人びとが鉄を求めて群れ集まっていたことは、中国の歴史書に記録されている。
そして、ヤマトの発展を恐れた北部九州は、鉄を東に回さない策に出たようだ。出雲や吉備と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖した気配がある。そのため、近畿地方は鉄の過疎地帯となった。
近畿地方は困窮したが救世主が現れる。日本海側の但馬や丹波(これをタニハと呼んでおく)が鉄を含めた先進の文物を、独自のルートを使い、近畿地方、近江、東海に流し始めたのだ。一帯は次第に富を蓄え、その後ヤマトに集結した。
これが、纒向遺跡誕生の筋書きであり、あわてた吉備と出雲は北部九州との盟約を反故にして、あわてて纒向にやってきたのだ。北部九州の土器がヤマトにやってこなかったのは、むしろ当然のことだった。そしてヤマト連合は、大挙して北部九州に押しかけたわけである。
■縄文への「揺り戻し運動」
史学者の多くは、邪馬台国論争にばかり気をとられているから、近江と東海の動きを見誤っていたのだ。ヤマト建国のヒントは、目の前にぶら下がっていたのに、「邪馬台国の敵・狗奴国は近江や東海」という、誤った見識が邪魔をしていたのだ。
そして、ここがもっとも大切なところなのだが、ヤマトの纒向に集まってきた地域が、「ほぼ銅鐸文化圏」だったのである。彼らは、銅鐸の中に、縄文的な意匠を描いていた。ここを無視することはできなくなってくる。
※省略
ヤマト建国とは「縄文的な社会への揺り戻し運動」だったのではないかと思えてくる。主導したのは、もちろん、銅鐸文化圏の人びとである。「ありえない」と、反発を受けそうだが、考古学者はすでにそう考えているのではないかと思える節がある。
縄文時代を通じて、西日本は東日本に比べて人口が少なかったが、寒冷化した縄文後期は、西日本の人口が増えている。一部は、東日本から人の流入があったようだ。人口密集地帯だった関東から、北陸・東海、関西、中国、四国、九州へと人の流れがあったことはすでに触れている。
やがて弥生時代になると、西側から水田稲作の文化が流れ込み、弥生化が始まる。また、弥生前期を代表する遠賀川式土器が盛行していったのだ。
ところが、紀元前4〜3世紀からあとの瀬戸内や近畿では、文様を排した遠賀川系の土器に代わって、土器に櫛などの道具を用いて文様を刻む風習が戻ってきたのだ。これが、弥生時代中期後半の紀元前1世紀ごろまで続く。縄文中期の全盛期の土器に似ているのだ。
弥生前期の終わりごろから、分銅形土製品(フィギュア)が瀬戸内海を中心に登場する。これは、縄文時代晩期末に西日本で作られた土偶が起源だ。やはりこれも、縄文回帰現象といえる。
※省略
纒向は「東側から来た人間がヤマトを支配するにはもっとも都合のよい場所」であり、いまだはっきりと固まっていない新政権のもとで、いざというときは東側の山や高台に陣を構えることも可能だったし、東に逃れ、あるいは東からの援軍を呼び込める場所だったのである。(関裕二 歴史作家)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20211009-00010000-voice-pol オシホミミ
伊勢→多賀、野洲川(近江)→日高見(東北)多賀
クシタマホノアカリ(テルヒコ)(櫛玉火明(照彦)) (アスカヲキミ)
日高見(東北)→葦原国(ナカ国) (大和、近畿辺り)
(多賀→イカルガ→アスカ)
5組の物部25、伴人総勢864人
イカルガ ウテナから四方を望む
アスカ川をクルワに掘ってミソギをする
アマノコヤネ ヤマト川を掘ってトブヒノ丘にミカサ山をつくる
ハセ川を掘ってアスカ川のフチを田と成す
ニニギ (ハラ(富士)ヲキミ)
日高見(東北)多賀 生まれ
伊勢 天照がいる
関東(筑波、新治、二荒)
ハラアサマ宮(富士) タマウテナ コノハナサクヤ姫
ミヅホ宮(近江)→九州
大津シノ宮(近江)→ソヲ 高千穂
ニギハヤヒ(クニテル)(国照)
天照−オシホミミ−ニニギ−ホノアカリ(ムメヒト)(火明(梅仁))−ニギハヤヒ(クニテル)
ハラ(富士)→アスカ どうも治水と倹約の夏より、戦争の捕虜を生贄に捧げていた呪術商人・殷のがヤバそうな政治してるな
こっちのが原始的に見えるけど後の王朝なんだな 殷の生贄…
火の神に捧げられるやつだとヤバイ
敵の捕虜生贄にするから周辺諸国から超恨まれて叛乱でほろびたようだ
中国で最初に甲骨文字使った王朝だからよけいにインド人の亜種にしか見えない 殷の時代の戦いには大量の巫女(媚)を連れていって呪術を使わせたそうな
日本もドラマ聖徳太子で巫女がたくさん同行してたな >>756
弥生時代最大級クラスの水田跡がごろごろあるのが近畿地方やで
なんで嘘をつくのか ところで、この現象は韓国語の外国語表記
と関連があると考えられる。たとえば、日本
語の発音を韓国語で表記する場合、「ヤ、ユ、
ヨ」を含むものはそれぞれ「야、유、요」と表
記する。たとえば、「キャ-갸(캬)、キュ-규
(큐)、キョ-교(쿄)」、「シャ-샤、シュ-슈、
ショ-쇼」などとなる(()内は語頭以外の場
合)。たとえば、「東京(トウキョウ)-도쿄」、
「九州(キュウシュウ)-큐슈」となる。一方、
日本語の「チャ、チュ、チョ」と「ジャ、
ジュ、ジョ」を韓国語で表記すると、それぞ
れ「자(차)、주(추)、조(초)」「자、주、조」
のように単母音で書くので、たとえば、「新宿
(シンジュク)」は韓国語で「신주쿠」と書く。 >>826
畿内説は無理やり邪馬台国の時代に年代を合わせる必要はないんやで?
古墳時代の水田という事を認めれば、弥生時代のはずの遺跡から馬の鐙が出たこととか色々辻褄が合うだろうに ギリシャ語は促音化しない
たとえば、τέσσερα は「テセラ」であり、「テッセラ」とは読まれない。κόμμαは「コマ」であり、「コンマ」とは読まれない。 弥生前期で最大規模らしい中西遺跡と同時期の吉野ヶ里遺跡の比較
奈良・中西遺跡 4.3ha、全体で10ha以上と推測
佐賀・吉野ヶ里遺跡 環濠内部40ha、集落全域117ha
現代でいうと、東京23区と地方都市くらいの差がありますなあ アマは天であり海であり海人であり海女であり尼であり女
きっとアマミ諸島は海人のなわばり あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをばよろこびに思ひ すこし後れたる方あらむをもあながちに求め加へじ うしろやすくのどけき所だに強くは うはべの情けはおのづからもてつけつべきわざをや
現代語訳
(頭中将)そのほかの生まれや育ち気立てのよさが備わっているならもっけの幸いと思い、すこし至らないところがあろうと無理な要求を加えたりしない。信頼がおけておっとりしたところさえ目立ってあれば、表面的なやさしさなどは自然と身につけてしまえるものですからね。
促音化していないが。 関裕二って神功皇后が土蜘蛛の女酋長(卑弥呼)をコロしたと言ってた人だよねw 東日本が歴史の主役になると同時に
日本語が促音化してる 浪
「浪」の古代中国語音は浪[lang]である。日本語や朝鮮語などアルタイ系言語では語頭に[l-]がくることはないという原則があるから、語頭の[l-] は[n-] で代替される。朝鮮語では今でも盧泰愚(ノ・テウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)のように中国語のlはnに転移する。現代朝鮮語では「浪」 は浪(nang) である。👈わかる
日本語では波(なみ)という漢字があてられているが、日本語の「なみ」の語源は中国語の「浪」である。浪(なみ)と発音するのは、朝鮮語読みの影響があるものと思われる。👈わからないw >>826
>弥生時代最大級クラスの水田跡がごろごろあるのが近畿地方やで
その水田跡、すべて大洪水に見舞われた無様な痕跡。
「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で「大柿遺跡」の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。
徳島大学大学院 准教授(当時) 中村 豊氏 @阿波 >>千葉県柏市生まれ。仏教美術に関心をもち、奈良に通ううち、独学で日本古代史を研究
あかんやつや コンスタンティノスは当時次のように述べました。
「神 から降る雨の雫はすべての人の上に同じく当たるのではないのか。太陽はすべての人間を同じく照らし ているのではないのか。また、すべての人間は同じく、空気を吸っているのではないのか。」
また、聖コンスタンティノスは、キリスト教説教の報酬として、金銭や物品は受けず、
奴隷達の解放だけを求めたそうです。← 縄文の精神をあくまで踏まえながら、戦うとなったら真っ向から戦い抜く
まさに大和魂の確立でもあるな 誰が書いたのかを最初に確認してみたら歴史作家か
こりゃ本文を読む価値無いな 古墳人(!?)のアヤ氏に関して言えば
アヤ・アルチ・ムサ・アスカ・スグリ、、、+アスカの丘の上の大女神の神殿とくりゃ
普通に特定言語を思い出す人がたくさんいたはずだし、いるはずだ
彼らキリスト教徒だし、旧約聖書のイザヤの言葉も知っていたはずだ
自分たちのご先祖の一部が、元縄文人の帰国運動に絡んで東の島に既に渡っている事も 最近、大和朝廷ってやっぱり朝鮮系なのかな、とか思うようになってきた。 ヤマト政権の始まりは殷の風習を継ぐ卑弥呼を担いだことじゃないの
殉葬や生贄など残酷な風習が民から恐れられたのかもな
倭国大乱後のヤマト政権以降の歴史は殷の影響に抗う民の歴史でもあるかもね
殷に傾いたり民に傾いたりの繰り返し ヤマト政権成立以前の倭国大乱以前の近畿地方や縄文時代には殉葬の風習はないからねえ 鏡って中国の王城に歴代王朝数世紀分の数千枚数万枚がストックしてあって日本に下賜されたのか
価値は大小・新古どれが高かったのか
日本に来てから数世紀経ったのか数世紀経ったものが下賜されたのか
数世紀持っていて錆びたり曇ったりしなかったのか 関裕二を全部論破してるようなまとめサイトはどこかにあります? >>802
4世紀後半には衰退がはじまってる阿波を無理クソ都だと主張するのは恥ずかしいだけだぞ。 >>853
下手な心配スンナ。 白村江で惨敗するまで、ばりばりの倭国(阿波)王権だ。 でなけりゃ、半島まで大遠征など出来んじゃろが。 @阿波 >>854
だから、5世紀には阿波は既に抜け殻みたいなもので、
残ってるのはお留守番部隊だけ。
ヤマト王権の歴史に阿波の影響は限定的なもの。
@阿波君が妄想するような阿波王朝は存在しない。 >>856
>だから、5世紀には阿波は既に抜け殻みたいなもので、
下手な心配スンナ。 白村江で惨敗するまで、ばりばりの倭国(阿波)王権だ。 でなけりゃ、半島まで大遠征など出来んじゃろが。 @阿波 山人は山陰山陽地方つまり中国地方がなわばり
ヤマトは倭であり山人
山の入口が山門
白いうさぎちゃんは因幡でワニに捕まり、どっかの王子を擁立してふっかつする
大王を補佐した禹だから宇佐
宇佐は大分
九州の真ん中
和邇の縄張りは奈良〜滋賀県
和邇は漢人系の帰化人
因幡は鳥取
中国地方の山陰
うさぎは一羽二羽と数える
神社に鳥居があるのは神の補佐が宇≒兎だから
鳥取はウサギちゃんがワニに捕まったから鳥取
鳥取で古代人の骨がたくさん出るのは古代に戦場になったから
焼けてたやつもたぶん火葬ではなく焼き討ちか生贄の遺骨
吉備は岡山
中国地方の山陽
吉備=黍
きびのだんごをもらった桃太郎がイヌと酉と申を連れて鬼が島に金銀財宝をもつ島の鬼退治に
桃太郎は百越か百済出身の王子
大王が戦後に都合よく「みんな俺様の下でなかよくしろよ」と手下に言い聞かせるため
縁起担ぎで
大和
の字に変えた
実際は犬猿の仲は悪い関係の象徴
ちなみにwiki
>羈縻政策(きびせいさく)とは、中国の王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対する統御政策の呼称。古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。 てゆうか夏王朝のときから海をはさんだ周辺の島から朝貢してたやついるんじゃね
紀元前にせんねんぐらいから。
そいつが中国で穀物の種をゲットして稲作を…
イナバは稲葉 中華も媚中派も落ち目になったもんだねえ
弥生人、特に古代朝鮮系が歴史操作の役に立たなくなったのが大きいわな
弥生と古墳は別物と思われてた昔なら騎馬民族を中華にすり替える事も出来たか
(なんであの時点でやっとかなかったかな)
渡来人=古墳人=中華なんて研究操作まで堕ちるんだから 朝鮮半島も北方の国の支配者層はみんな中国からの帰化人で
半島の見た目いい女は全部中央の王朝に貢物として送りつけて
妊娠して戻されたら国内で混血を産ますことで
半島の民族浄化政策を代行していた
昔からろくでもないやつばかりに支配されてた半島人
日本も童謡にある桃太郎のきびだんごクレクレは大陸からきたどっかの王子がキビ政策により、
イヌサルトリの各家の女に種ばらまいたのを暗示している
ような気がする 魏のやつが朝鮮半島を騎馬で通過して列島のどっかにドカドカやってきただけじゃね?
岐阜が滋賀県の隣なのもちょっと気になる 縄文人 クメールorシュメール
弥生人 百越
古墳人 倭→? >>863
海から先は人間だけで船乗って来て客人扱いしてくれた舅の軍借りた >>834
どっからどう見ても
タッ!カルビみたいな事にはなってないんだけどね なんでこんな🇭🇺ハンガリー語みたいになったんだろう?
日本語 馬韓辰韓では、馬は喰ってた。
日本は乗り方、利用価値、運び方を知らなかった。
これが理解できて、馬を船で運んだのが、
漢四郡撤退の313年以降の半島進出〜高句麗戦である。
これは、古墳時代の到来と同義であって、
纏向古墳から馬具が出るのは正しい。隠すかよw
ちなみに、卑弥呼の墓は247年に
帳政の上陸地から伊都の間で見たのであるから
246年以降に死んで、その場で247年までに作られた塚である。
馬具は無いし、纏向でもない。 >>1
>ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纒向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。3世紀初頭、それまで何もなかった場所に巨大人工都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した(造営の許可をヤマト政権が出したのだろう)。
文字も無いのにそんな既存文化への反発運動なんて起きるかいな
与太にしても酷いね 大陸からも出土していて幾何学文様に類似性があり
古代中国の船も描かれている銅鐸が縄文意匠というのは斬新な説だな
おそらく鹿など動物の絵を縄文意匠としてるんだろうが弥生人は動物性蛋白を忌諱して狩猟をしなかったんだろうな >>868
どこがどうハンガリー語と日本語と似てるん? 伊勢遺跡から大和王権には連続性があるんだが祭祀が変化してるのよな
飢饉や大乱で今までの祭祀じゃダメってことになったのか何なのか >>657
三韓征伐ではこの辺をポイントにしておこう。
神功皇后 摂政69年没 + 7年(三韓征伐−立后) +立后年齢≒13〜16 ≒ 89〜92歳
AD 369年 七支刀 (もっとも妥当な年代とする) 神功 52年
AD 371年 百済近肖古王 平壌陥落高句麗王戦死 神功 54年
AD 391年 高句麗 広開土王即位 応神 3年 (神功没 3年)
AD 399年 高句麗 新羅支援 応神 11年
*応神14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。
神功記を主体にすれば三韓征伐は AD317年 ※ギリギリ台与生存期になる w
七支刀年を主体に考えれば、AD349〜(≒20年間)〜AD369年の間
*年代・計算でこめけーのはおいといてね w 唐じゃなくて
タブガチ国って呼ばれてた?
🇹🇷トルコ語? >>872
https://translate.google.co.jp/?sl=tr&tl=ja&text=Bir%20tarlaya%20kemeken%20ekmi%C5%9Fler%2C%20iki%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi%20dadanm%C4%B1%C5%9F%3B%20Biri%20erkek%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi%2C%20%C3%B6teki%20di%C5%9Fi%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20kel%20k%C3%B6r%20kirpi.%20K%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20erkek%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCn%C3%BC%2C%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20di%C5%9Fi%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCne%2C%20K%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20di%C5%9Fi%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCn%C3%BC%2C%20k%C3%BCrk%C3%BC%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20erkek%20kel%20k%C3%B6r%20kirpinin%20y%C4%B1rt%C4%B1k%20k%C3%BCrk%C3%BCne%20yamam%C4%B1%C5%9Flar.&op=translate
きてる🤣 >>874
神功皇后の三韓征伐は200年
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする
広開土王碑は日本陸軍が発見したもので当時は仁徳天皇の時の朝鮮出兵がそれにあたると考えられていた
陵墓選定は江戸時代に行われていたもので
陵墓における放射性炭素年代測定による年代測定もかなりデタラメなものでそれが正しいとは言えない
また墓の改修工事は江戸時代にも行われている
箸墓古墳においても魏志倭人伝に記述された奴婢100人の形跡がなく卑弥呼の墓とは言えない >>1
>>877
ちなみに晋(西晋)の 泰始四年は268年
神功皇后の三韓征伐は200年
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
百済の第8代の古尓王(在位:234年 - 286年)の時に作られたものとする
日本書紀神功皇后摂政52年は252年なので
日本書紀の年代には16年ほどの誤差があると考えられる D1a2a周りにどこ探してもいないぞ?
D1a1とD1a2a別グループだから。近いけど。
キルギスだとか、チベット、ハンガリー、ウイグル等と
暴力で混血はしてないだろう。
アンダマン諸島はD1a2b。bだよ。 大陸で途中で別れて、一方は日本へ
一方はチベット、ウイグルへ?
アヴァール=柔然=ハンガリー? ということは
東日本の蝦夷にハンガリー語そっくりなグループいたとか? 巨大銅鐸文化の伊勢遺跡と纏向遺跡は全く連続性がない
祭祀の形態も違う 東北、北海道経由の大陸人往来はいつからか
黒松内町のブナ到達が元寇頃なのは人為か偶然か 日本の馬はモンゴルからの輸入だし元寇で襲来してくる距離なんだし列島は中国からの避難民が多いんだから混ざってるやつぐらい多少はいるだろう 元寇のちょっと前に北海道のアイヌの縄張りにツングースかなんかの敵対するやつが援軍として招き入れた元の襲来があったぽいよ
それが列島にも我々の軍門に下れとおしかけてくるキッカケになったらしぃ
あ、こんなとこにも島国があったのか
みたいな
なんかどっかの時代のなんかの構図に似ている 疑問:古代🇯🇵🌾日本人はどこでドイツ語習ったんだろう… https://youtu.be/-qTiHlMebtw
イントネーションで気付かない
日本語みたいな喋り方すると、似てて驚く。 >>652
奈良京都で今も祀られている神の一部は
元々九州の豪族(神功皇后に滅ぼされた一族)だった訳だから
そう考えるのが妥当だろうね
まつろわぬ民のうちの強いものを祀って味方にする
祟り封じでもある
熊野大神とか >>652
>>893
このスレで誰かが言ってた「卑弥呼or台与=神功皇后」というのもあり得る
「倭国大乱=三韓征伐」であれば、半島から日本列島に伸びてきた触手のような渡来人の居住地を征服して回ったんだろうか?とか
逆に女王はただの神輿で、在来の住民と力と悪知恵のある渡来人が双方納得するように在来人から権力の無いシンボルとしてだけの女王を祭ったのが大和政権の始まりだったりしてね >>887
アイヌモンゴル戦争だろ
アムール樺太でやったやつ >>1
今時九州説とかまともな研究者はいないが、トンデモ本御用達の作家じゃないか >>897
九州国立博物館が開館してから16年経つがおかげで九州説の研究者も増えてるぞ
それまでは東京京都奈良だけにしか国立博物館が無かったから、職を失わないためにも盲目的に畿内説支持者のフリしてた人も多いだろ >>254
熊襲と隼人では時代が違うし
記録に皇族の近習となった隼人が登場するのは4世紀頃からだけど720年まで隼人は反乱しまくりだったよ まあなんにせよ内乱に負けて九州から命からがら逃げ出した弱小部族が
正当性主張して奈良の僻地でヤマト名乗った事実は動かんよ
邪馬台国だったところは菊池勢に占領されて消滅したけどね >>897
というか、真面目に邪馬台国を研究してる人がそもそも少ない
まともな史料が魏志倭人伝しかないのだから研究のしようがないんだよ >>901
>というか、真面目に邪馬台国を研究してる人がそもそも少ない
それは、「阿波」のように「邪馬臺国」の痕跡が無いから。
>まともな史料が魏志倭人伝しかないのだから研究のしようがないんだよ
それは、「阿波」のように「邪馬臺国」の痕跡が無いから。 @阿波 >>902
宇佐神宮こそが邪馬台国
道鏡事件を解決できたのは宇佐神宮の神託のみ >>902
その痕跡が邪馬台国のものであるか検証する手段がない
魏志倭人伝以外でまともに邪馬台国を扱った文献が存在しないので検証のしようがない 長文になるが、Dappiの問題点はこれだ
>808 :ニューノーマルの名無しさん[]:2021/10/13(水) 22:02:53.12 ID:59Q6MRuv0
>【Dappiアカウントの本当の問題点】
>国会で開かれる本会議や委員会を複数リアルタイムで監視してターゲットにした野党議員の失言をすぐさま録画 編集 投稿して攻撃する
>しかも編集された映像はネットに流れる低ビットレートの物ではなく各省庁のケーブルテレビ網でしかアクセスできない高画質な映像
>これは一人の野党議員を貶めるためにも複数の人員と機材を用いたチームで動いていないと到底出来ない
>セットトップボックスを10台ぐらい積み上げて誰が何を喋っているのか常時監視してやっと出来るかどうかとういう投稿内容
>それだけの機材と場所が用意出来るとなると議員会館の地下会議室もしくは砂防会館が使われているのかもしれない
>というのも近辺でこのようなローカル映像へのアクセス権限を一民間企業が用意できる施設でクリアするのは極めて難しいから
>他にも安倍首相(当時)のモリカケ関連での発言から夕方報じられた内容の反証擁護投稿を主要全紙(しかも紙媒体で)かき集めて翌朝には画像アップしている
>これは産経の縮刷版が一般的な図書館にはないので国会図書館を利用しなければならないが閉館時間を過ぎているので普通は出来ない
>しかし議員関係者や省庁の職員など限られた人間であれば国会図書館”分館”を夜間も利用でき上記の資料を集めることが出来る
>こういった特殊な権力を行使でもしないと入手困難な情報を用いた投稿が珍しくなかったのがDAPPIというアカウントなのだ
>.
>860 :ニューノーマルの名無しさん[]:2021/10/13(水) 22:07:19.30 ID:vVA2sEQC0
>>808
>過去スレ漁ってみると、そうらしいねぇ・・・
>だからこそ、政府に絡んだ位置にいる人かとか最初言われていたんだよね
>内調かどうかってことも、過去に実際疑ってるみたいだな。
>それこそ、内調なら機密費で動ける連中だからなwww
>
>200 :ニューノーマルの名無しさん[]:2021/10/14(木) 08:51:13.33 ID:Ham37n/K0
>ネット工作を通じて
>
>・内閣支持率の上昇を図ろうとした
>・自民党(+高名党)支持率の上昇を図ろうとした
>・野党(主に立憲民主党)の支持率の下降を図ろうとした
>・野党間で進む選挙共闘の破壊を図ろうとした=与党が勝つ為の選挙対策
>
>これは完全に世論操縦(操作)で、民主主義そのものを否定する暴挙だよ
>自民党と高名党は、とうとう、超えてはならない一線を越えてしまったね.
レス808からわかる事は、訓練されたプロを最低でも数十人単位で雇用し、ネットに張り付かせて
野党や野党議員の攻撃材料を探し、動画を速攻で作成し、ネット上にアップしていた事になる
またそのような事を、税金で行い、大規模に、極めて組織的に行っていた
更に野党議員を陥れる為、エゲツナイ、名誉毀損に相当する度を越した中傷行為を執拗に行い
拡散させる犯罪行為まで働いて、野党と野党議員の支持者を減らすネガキャンを働いていた
こういう活動である以上、事実上、政府による野党弾圧、野党議員弾圧であると結論付けてよい
これはロシアや中国とやってる事が一緒
完全にファシズムの一種
特にロシア型の、表向きは民主主義を偽装しつつ、メディアを政府が統制し、世論もネットで工作し
国民が政権党と政府を支持するように誘導し、野党を支持しない傾向が出るように世論操縦する事で
政権を維持できるように世論操作している事になる
最早、日本は民主主義国とは呼べない >>887
チョンは5ちゃん禁止
ちくったのはツングース。
> 1264年の遠征 編集
アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、
モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシデ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[11]。
翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。
ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる[5][12]。
亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている[13]。
この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[14]。
これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、北九州への侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。 >>903
さて問題
宇佐は有史以降に遷宮してるが、元はどこ?
邪馬台国詳しいならわかるんだろ? 邪馬台国に付いての解説はトンカラリンさんのユーチューブ
邪馬台国のゆっくり解説 1九州説VS畿内説
邪馬台国のゆっくり解説 2 邪馬台国編
邪馬台国のゆっくり解説 3 伊都国編
邪馬台国のゆっくり解説 4 行程編
が秀逸だな。 邪馬台国語は日本語と違うんじゃね?
オ列甲類の複数存在問題 縄文気質に、先制的自衛権積極行使を加えたのが大和魂 「久須尼自利。」此新羅語、未詳也。
どうしても、クッスヌム(Koszonom! )に見える 日本における親高麗派の豪族がイヌで、
半島本国はふんぞり返って「高麗」を自称してるけど
中国人には
高句麗
と狗をはさんだ蔑称つけられてるのも気になる
高麗もイヌなんだな 神社で狛犬ってゆーけどあれもともとは犬じゃなくてキツネなんだよな
駒には馬の意味もある >>918
全然違う
まず高句麗は自称は高麗だった
だから日本書紀にはコマと出てくる
この高句麗の後継を名乗ったのが高麗。
コウライと読む
> なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、隋唐代の史書でも高麗と表記する。
冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の梁の冊封が最初であり、高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある[2]。
だが改名したとする決め手もなく、単に省略形が定着しただけである可能性もある[2]。
矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている[4]。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。