【考古学】青いガラス玉が弥生時代に「草原の道」を1万キロメートル! 約2千年前の交易が明らかに 邪馬台国と同時代に栄えた伊都国 [ごまカンパチ★]
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https://news.yahoo.co.jp/articles/937f824e6b429f78a6b4a6cac8fc92c1d0480270
最新の科学技術を使った研究から、弥生時代にユーラシア大陸を横断する交易の様子が浮かび上がってきた。
小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアエラ」12月号では、どんなことがわかったのかを解説した。
* * *
伊都国は、弥生時代後期(3世紀ごろ)に現在の九州北部にあったクニの一つ。
女王卑弥呼が治めたとされる邪馬台国とほぼ同じ時代に栄えていた。朝鮮半島に近いという地理的な条件を生かして、大陸との交易が盛んだった。
その伊都国の様子を伝えてくれる遺跡の一つが、1965年に発見された平原遺跡だ。
この遺跡には約1800年前の女王の墓があり、銅鏡やアクセサリー類がたくさん見つかっている。
その中には、886点に及ぶ紺色の「重層連珠」と呼ばれるガラス玉もある。
当時の日本にはガラスを作る技術がまだなかったから、海外のどこかから持ち込まれたものだ。
25年ほど前に行われた分析で、そのガラスの種類はソーダガラスということまではわかっていた。
人類最初のガラスは、6千年以上前に古代メソポタミアで作られたとされている。
ガラスの原料は、珪砂と呼ばれる砂。石英という鉱物の粒からできている。この珪砂を1700度以上に熱すると、溶けてガラスになる。
しかし、これほどの高温にするのは容易ではないので、珪砂が溶ける温度を下げる融剤というものを加えてガラスを作る。
古代に用いられていた融剤には、カリウム、鉛、ソーダの三つがあり、用いられた融剤によって、それぞれカリガラス、鉛ガラス、ソーダガラスと呼ばれる。
このうち、ソーダガラスは地域によって、融剤に使うソーダの原料が大きく二つに分かれる。
古代の西アジアでは、植物の灰を原料にした。一方、ローマ帝国が支配していた東地中海沿岸では、エジプトの塩湖から取れるナトロンという塩類を使っていた。
●ガラスに含まれる成分から製法や産地の推定ができる
奈良文化財研究所の田村朋美主任研究員らの研究グループは、10年ほど前から日本や世界各地で発見される古代のガラスを研究してきた。
その中で、平原遺跡から出土した重層連珠とよく似たガラス玉を、モンゴルとカザフスタンの遺跡からも発見した。
そこで、これら2カ所から出たガラス玉と、平原の重層連珠の成分を、最新の蛍光X線分析装置を使って比較してみた。
この装置を使うと、ガラスの中にどんな成分がどのぐらい含まれているかが詳しくわかるのだ。その結果から、ガラスの製法や産地の推定が可能になる。
ソーダガラスの場合だと、マグネシウムとカリウムが多く含まれていれば融剤に植物の灰を使ったガラス、逆にこれらが少なければナトロンを使ったガラスとわかるのだ。
3カ所から出たガラス玉は、どれもマグネシウムとカリウムが少ないことから、ナトロンを使ったソーダガラスであることがわかった。
このほかに含まれる成分の種類や量の割合も、3カ所でよく似ていた。
●ローマ帝国から「草原の道」を通って日本へ
これらのことから、平原遺跡の重層連珠がどこで作られ、どこを通って伊都国にやってきたのか、田村さんは次のように考察した。
「3カ所から出たガラス玉は、いずれもナトロンを使ったガラスで、ローマ帝国領土内の東地中海沿岸で作られたと推測できました。
カザフスタンやモンゴルからも出土していることから、東地中海で作られたガラス玉は、伊都国だけでなく、古代のカザフスタンやモンゴルの人たちにも好まれたことがわかります。
おそらくこのガラス玉は、『シルクロード』の『草原の道』を通り、カザフスタン、モンゴル、朝鮮半島を経由して伊都国まで運ばれてきたのでしょう」
※続きはソースで そもそも九州って古代中国で九つの州=全国って意味だし
九州北東に国東半島(くにさき)があり
九州の方言では「わ」がお前で標準語で「わ」が私なんだよね
本来考察する余地も無い 邪馬台国(吉野ヶ里)の北に三ツ瀬峠がある、この峠は伊都国と邪馬台国を
繋ぐ重要な峠で頂上部は5kmほどの平地があり村もあるので邪馬台国で死んだ
卑弥呼はこの道を通って生まれ故郷の伊都国に戻った、
卑弥呼の墓は伊都国の平原王墓となっている。 邪馬台国(吉野ヶ里)の北に三瀬峠(みつせとうげ)がある、この峠は伊都国と
邪馬台国を繋ぐ重要な峠で頂上部は5kmほどの平地があり村もあるので
邪馬台国で死んだ卑弥呼はこの道を通って生まれ故郷の伊都国に戻った、
卑弥呼の墓は伊都国の平原王墓となっている。 >>107
考古学的に邪馬台国は畿内にあった証拠ばかりで
九州説を主張する学者はもう誰も居ない状態なのに
果たしてこれで勝ったと言えるのかな >>33
時代的に売れるような産物が無いから人身売買でしょうね 佐賀とか何の取り柄もないから吉野ヶ里を邪馬台国にしちゃいたいのかなー 倭人伝には倭国の海士は全身に入れ墨をして海に潜り、魚や貝を穫っている
との記載があるので魏使が九州を訪れたのは真夏であったのは間違いない 🇭🇺ハンガリー人とウイグル人は
血の繋がりがある?! 石器時代の石器が発見されていることから、石器時代にもハンブルグに人間が住んでいたことがわかっている。紀元前4世紀の巨石を使った墓なども現存している。ローマ人は、このあたりの場所をTrevaと呼んでいた。ローマの金貨が出土していることから貿易も行われていたようである。ローマ側の記録では琥珀の輸送に使われていたとされる。 朝鮮経由じゃなくて杭州あたり経由じゃないの?
漢の時代は朝鮮なんてとんでもなく辺境だぞ。
シルクロードは長安で終わったあと、北京に向かう北経路と杭州に向かう南経路があったが、日本との交易では海路で有利な杭州経由しかありえないよ。 5000年じゃないのバレちゃう
邪魔だわなwウイグル人 一般人が漠然と九州と思うのは仕方がないが、こういう掲示板でしつこく九州説を熱弁してるのは
学問を否定してる狂信的なカルト信者なんだよな
現実の世界では「会話が成り立たない人」として周りから敬遠されてるやつだと思う >>161
ネット九州説の正体は統一協会員とかだよ >>149
そうやってウソしか言えないのが畿内信者なんだよな
実際には九州からしか大陸との通交の証拠は出てこない
畿内信者は国産鏡を魏鏡と言い張るような嘘つきばかり
畿内説というのはこういう都合の悪い事実に全てほっかむりしてるだけの虚構です
337 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/01(土) 13:31:50.48 ID:xWuatOBT0
>>236
ただの国産コピーですがw
型取りすることでいくらでもコピーが作れるんだよ
今どきの歴史:三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 邪馬台国がどこか知らんが弥生時代当時は九州の方が近畿より栄えていて強いだろう 朝鮮半島で負けた弱い氏族が日本列島に逃げ込んで更に弱い原住民を平定して出来たのがヤマト王権
体力も知能でも劣るジャップ原住民は半島出身の王族を崇め従うしか無い 長年纒向遺跡の発掘に従事した学者は畿内説を真っ向から否定している
考古学から見た邪馬台国大和説―畿内ではありえぬ邪馬台国 関川 尚功【著】
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784870356801
本書の著者は、長年、纒向遺跡をはじめ、多くの大和地域の発掘・調査に携わってきた。
そんな著者が出した結論は、「邪馬台国の存在を大和地域に認めることは出来ない」 邪馬台国がどうこう以前にあのあたりは大陸の玄関口だったんだから色々出てきて当たり前
ちょい西にある唐津に至っては地名がそのまんまだし >>166
当時、現代朝鮮人の祖はユーラシア大陸のどこかを流浪してた蛮族の1つでしかなかったので何も関係ない。 >>163
三角縁神獣鏡は中国産の銅で作られてると分析結果が出てるし
魏の都のあった洛陽でも見つかってるよ >>125
朝鮮半島では日本よりも新しい水田跡しか見つかっていない不思議w ガラスを作る技術ってそれほどまでにハイレベルだっけ?
そこらの土を高音で燃やしてドロドロに溶かして急冷すればいいのでは? >>167
この本を読んで思ったけどなんで箸墓古墳の年代が3世紀半ばまで遡るようになってしまったんだろうなあ?
その年代が常識のように語られてる現状がヤバいね >>1
いちいち朝鮮絡めてくるけど、そもそも朝鮮半島でガラス玉は出土してんの? ね?
邪馬台国の東は海でその先には倭人のクニがいくつもあると
書いてあるのが記憶から消えちゃう?
おかしなこと言ってる人たちってよく分からない
精神病かもしれない
世の中の役には立たない人たちだから早く死ねばいいのにね 交易って……注文したのが中央アジアから来たわけでもあるまいし。 4ニューノーマルの名無しさん2021/12/06(月) 18:21:10.22ID:RNR/fkU10
ローマ帝国と
邪馬台国
邪馬台国ずいぶん遅れてる〜
羅馬帝国
邪馬台国
なぜこう併記しない?>>4よ Amikor 2017-ben visszament Kinaba,
a rendőrseg letartoztatta
彼が2017年に中国に戻ったとき、
彼は警察に逮捕されました >>79
分子人類学の学説が最新の人類学の定説とほぼ一致しているのは、これで決定かね。現在の朝鮮人は形質的には明らかに日本人とは違うことの説明はこれでできる。日本人のような顔をした人も少しだけいるのは縄文人の生き残りが半島にいることの証左かな。日本にいる在日と言われる朝鮮系の人は、特に関西に多いが、半島人とも東日本人とも違う顔をしているのは済州島出身の人のようだね。分子人類学的には済州島の原住民はどこからきたのかということだが。 関西人と朝鮮人の違いはまったく無い、弥生時代中期には朝鮮北部から大勢の
古朝鮮人が渡海して奈良や滋賀に住み着いている >この遺跡には約1800年前の女王の墓があり
なんだ、ここが邪馬台国やん。伊都国を魏では邪馬台国と呼んでいたんだよ。
はい確定。 Arra kenyszeritettek, hogy ismeretlen
kinai szavakat ismeteljek meg.
They were forced to be unknown
repeat chinese words.
Ha elfelejtettem őket,
elektromos sokkolot nyomtak a fejemhez.
If I forgot them,
an electric shocker was pressed to my head. >>185
>分子人類学の学説が最新の人類学の定説とほぼ一致しているのは、これで決定かね。
はあ?
>>79みたいなド素人の作り話を学説とは呼ばない
そんな学説はない
何でも日本起源しようとするのは韓国ウリジナルの日本バージョン
こういうやつらは日本人の恥 >>188
邪馬台国というのは北部九州にあった集落の総称だろうね Kisertenek a vallatasok, a veresek,
es azok a dolgok, amiket a nőkkel tettek.
尋問、殴打、
そして彼らが女性にしたこと。 畿内からの出土物がショボすぎで考古学の現場からも、いまや畿内説無理だろって声が出てるんだよ。
九州の方がまだ可能性があるが、それも現実ありえない。
簡単な話。奈良と大阪は淡水湖で水没していて寒村しか存在できないことが分かっている。
九州吉野ケ里周辺も同じ水没状態。河内湖が先に水が引いて、一気に古墳がつくられるように
なり、さらにその後に時代に奈良の淡水湖の水が引いて、人が住めるようになった。
どう頑張っても4,5世紀の古墳を頑張って頑張って捏造して、無理やり卑弥呼の時代にしてる
こと自体歴史学会、考古学会でも失笑なんだよ。王国の存在を示すような遺物が皆無なの。
わかる?皆無。 >>1
古代における(といっても大陸側では歴史時代だが)日本列島と大陸間の交易ルートについては、日本産の翡翠を追跡することでほぼ判明しているように思えるが。 邪馬台国の超重要拠点たる伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時代に作られた
平原遺跡が方墳である事で、
邪馬台国は前方後円墳の築造を象徴とする勢力
なる畿内説は完全崩壊した。 また、外交上の超重要拠点として、
大陸の贈答品を検査管理した伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた平原遺跡から出土する
数多くの舶載鏡の中に、
三角縁神獣鏡が一枚も無い事を持って、
卑弥呼の死亡時期に、
三角縁神獣鏡は大陸から送られた鏡でない事も確定した。
畿内から多数出土する三角縁神獣鏡が
卑弥呼に贈られた鏡なる畿内説は
ここでもまた完全崩壊したのである。 また、平原遺跡から出土する甕棺墓の時代編年と
時期を同じくする甕棺墓が、
筑後の祇園山古墳から出土する。
平原遺跡からは16体の殉死が認められ、
祇園山古墳からは66体の殉死が想定でき、
合計82体の殉死が、卑弥呼の死亡時期と同時期に作られた古墳から確認できる事になり、
祇園山古墳が卑弥呼の墓である事が確定した。 邪馬台国は北部九州地域全体で卑弥呼の王都が伊都国なんだ 紀元前のガラスが京都から出てるのに、3世紀のガラスが福岡から出てきても何ら不思議ではない 邪馬台国をヤマタイコクと読んで推測してる奴はもれなくアホ 邪馬台国はズバリ、高良山周辺から、
玉垂宮神社までの範囲を王都とする国である。
この範囲に、邪馬台国の王都に相応しい遺跡が
埋まっているのは間違いないだろう。
玉垂宮は、当時の邪馬台国の長官、
生目氏が駐留する場所だったと考えられる。 卑弥呼のいた頃の魏の年号入りの銅鏡がよく見つかるから
邪馬台国は畿内にあった大和国のことと考えられてる
隋書には魏志にある邪馬台は大和のことであると書かれている 卑弥呼に贈られた鏡は、
邪馬台国の外交上の超重要拠点で、
大陸の贈答品を管理したと、
魏志倭人伝に明記してある伊都國の、
卑弥呼の死亡時期と同時期に築造された、
平原遺跡より多数出土する舶載鏡の、
内行花文鏡 2面と方格規矩鏡 32面で間違いないだろう。
コレラが日本で凡そ百枚見つかる事で、
魏志倭人伝に書かれた、
魏から送られた百枚の銅鏡である事が
確定したと言い切れる。 >>199
極東に、🇭🇺ハンガリー語で解釈できる単語がやたらとある 大量にビー玉運べるならビー玉職人も運べるよね
人が無理でも技術伝えられるよね >当時の日本にはガラスを作る技術がまだなかったから、海外のどこかから持ち込まれたものだ。
>25年ほど前に行われた分析で、そのガラスの種類はソーダガラスということまではわかっていた。
いや、だから卑弥呼の居た邪馬台国にはちゃんとラムネ温泉あるからね
当時から湯上がりに飲むラムネ用のビー玉は作られていたと偽史倭人伝に 旧南北アメリカと縄文文化は、同じ文化圏なんだよな。
中東の影響まで受けているし、
思った以上に古代は、今より進んでいた面も多かったのだと思う。
周辺住民に配慮せず高層建築により暗闇を創造する企業
日蝕の積水ハウス 邪馬台国は北部九州地域全体のこと
伊都国は現在の糸島市南東部
隋書には魏志には北部九州の倭(ヤマト)が邪馬台のことであると書かれている 女王の都とするところは邪馬台国であって、
伊都國(怡土、糸島)ではない。
末盧国(松浦)でもない。
奴国(那珂川周辺)でもなく、
不彌国(宇美)でもなく
投馬国(都間、妻)でもない。
そして狗奴国と南で接する地域であり、
これらの地域を塗りつぶして出来た
空白地が邪馬台国であり、
山門八女〜宇佐大分までの広い範囲である事が分かる。 >>216
九州北部に倭(やまと)なんてところはないよ
倭があったのは畿内 >>218
畿内だって無いでしょ?
神武東征した後名付けた >>205
なんであからさまなウソ書くんだ?
隋書に大和なんて出てこないだろ ローマから直接じゃないのは当然としても玉突きではるか遠くから運ばれてきたと思うとロマンがあるな >>222
邪摩堆と出てくる
そして遣隋使で隋と国交のあったのは大和 神武の東征によると、
日向高千穂から北九州の岡田宮まで、
34日かかった事がわかっている。
日向高千穂は実際には生目氏の本拠地宮崎市生目であり、
生目から岡田宮まで凡そ300キロである。
一方、投馬国は彌彌、彌彌那利を長官副長官とする国で、
耳川美々津周辺の豪族であると考えられるので、
岡田宮付近の不彌国から、美々津まで250キロであり、
300キロ÷34日×250キロ=22日で、
不彌国から南に水行20日は美々津になる。 邪馬台国は近畿説を信じてたけど
この前宗像行って、考えを改めた
邪馬台国は九州だよ 不彌国から投馬国の美々津まで、
宇佐や大分など、弥生後期に
開けていた土地があるのに、
魏志倭人伝には国としての記述がない。
そして邪馬台国の卑弥呼の後の女王は、
豊(豊前豊後)の姫が擁立されたと言う。
そして、邪馬台国から東に海を超えて
千里の所に倭種の国があると言う。
つまり、邪馬台国の東は瀬戸内海に面していた事が分かる。
これらの魏志倭人伝の記述から、
邪馬台国が宇佐や大分を含む範囲であった事が分かる。 邪馬台国は伊都国や奴国、不弥国とは別の国で小さな村の集合体の事を指している
鳥栖・小郡から吉野ヶ里にかけて三十数カ所の小規模な環濠集落が出土しており
その中で最大の集落が吉野ヶ里なので吉野ヶ里だけが邪馬台国と言う事では無い
卑弥呼は吉野ヶ里の宮殿で暮らしていたと言う事だな。
朝倉の平塚川添遺跡は投馬国にあたる。 シルクロードを介して日本まで伝わったか
米軍のフィラデルフィア実験の余波でガラス玉がワープしてきたか
どっちかだろうな ガラス作成の技術がない時点で日本の弥生時代がまともな鉄器を持たない事の一つの証明になるな
弥生時代の鉄器は稚拙な石器の代替品でしかなかった
ガラスが作れる技術が有れば鉄器も同様に作れるからな
外来のごく希少な物しかない事から製鉄の技術がない事も分かる >>205
畿内説では未だにガチで年記鏡が有力な証拠として採用されているんだよな すごく細い糸を懸命にかき集めて畿内説を紡いでるイメージ
無いものをあるように見せかける屁理屈を捻り出すのも知的作業として楽しいのかも知れんね >>233
当たり前
有力な証拠なんだから、引っ込める理由がない
もし認めたくないなら合理的な根拠を示せばいい
不合理な根拠もどきは無意味
ただのイチャモン
例えば、景初四年がーとか
そういうイチャモンに反論されるといつもダンマリ >>224
学がねえな
堆は『たい』としか読まないから『やまと』なわけない
それと日本の正史である日本書紀によればヤマトが使者を送ったのは(大)唐であって隋じゃない >>236
それは日本の中学でやる程度の歴史を勉んだ事があるなら
非常に違和感を覚える考えで通常は思いつかないレベル
九州説は全体的に
どうにも日本史の認識が一般的なものとはズレている ううむ、こういうのを読むと、キリストが日本に来ていたというのもまんざら嘘ではないのかと笑 まあ聖徳太子は日本版キリストと言えるかも知れないけれど 邪馬台国が九州にあったという話とキリストの墓が青森県にあるという話は基本的に同レベルってことね 死んだ恋人の亡骸えを剥製にして、最後に青いガラス玉を眼窩に入れて完成させ
ウェディングドレスを着せて、買い取った教会で結婚式を挙げる話を思い出した >>236
これのどこがおかしいかあえて言うなら
日本では中学校くらいの歴史で大和の奈良の都の聖徳太子が
小野妹子を遣隋使として隋に派遣したと習うわけよ
それを使者を送ったのは大唐だから遣隋使はなかったと言うのは
学校で歴史を習わなかったレベル
ちなみに大唐とは王朝名だけじゃなくて中国の美称でもある 九州説の歴史認識は遣隋使もわからない程度
日本の学校で歴史を学んだ事があるかも怪しいね >>236
ヤマタイ→ヤマツォイ→ヤマトイ→ヤマトィ→ヤマト、ばんざい 弥生時代にはシルクロードと繋がってた伊都国
その頃
ど田舎僻地に孤立していた機内… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています