【福岡】「倭の中にあった邪馬台国も当然、九州だった」 邪馬台国「筑紫平野連合説」三部作完結…小郡の専門家、10年かけまとめる ★4 [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
三部作を手に研究への意欲を見せる片岡さん
https://www.yomiuri.co.jp/media/2022/02/20220201-OYTNI50031-1.jpg
邪馬台国は、福岡、佐賀両県にまたがる筑紫平野の複数のクニで形成していた――。そんな「筑紫平野連合説」を唱えて、注目を集めている小郡市埋蔵文化財調査センターの片岡宏二所長(65)が、自説をまとめた著書の三部作を完結させた。片岡さんは三部作を通じて、「近代国家の先入観にとらわれず、多くの人に邪馬台国を考えてもらいたい」と話している。
中国の歴史書「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王卑弥呼は「共立」されたと表現されている。片岡さんは、この記述に基づき、「卑弥呼は、近畿地方の強大な勢力の女王ではなく、筑紫平野の複数のクニが共に擁立した」という筑紫平野連合説を提唱。最近の邪馬台国九州説の代表的論客となっている。
三部作は「邪馬台国論争の新視点」と題したシリーズで、2011年に副題「遺跡が示す九州説」、19年に同「倭人伝が語る九州説」と続編を刊行。昨年、新刊として副題「東アジアからみた九州説」を刊行し、三部作を完結させた。
新刊(194ページ)では、邪馬台国と「ヤマト王権」は、別勢力だったとする江戸時代からの説を紹介。
中国の史書に書かれた「倭」は「日本人が決めた領域ではなく、中国が認識した場所で、その範囲は当初は玄界灘周辺にとどまった」と指摘。後に熊本県の菊池平野、熊本平野まで入ったものの、近畿地方までは含まれず、「倭の中にあった邪馬台国も当然、九州だった」と考察した。
「南北朝時代にさえ、明国は、九州を制圧した南朝の懐良親王を『日本国王』と呼んだ」とし、「中国から見れば、九州の勢力を『倭の統一政権』と判断することがあり得た」と説明している。
片岡さんは、邪馬台国を特集した昨年12月のテレビ番組で、久留米市出身の歌手藤井フミヤさんを案内。朝倉市の平塚川添遺跡や卑弥呼の墓の可能性があるという久留米市内の祇園山古墳を巡るなど、九州説の紹介に力を入れている。
片岡さんは「小さなクニが協調して女王を立てた国のあり方を、現代や将来の国のあり方を考える参考にしてほしい」と期待を込める。
2022/02/02 05:00
https://www.yomiuri.co.jp/local/fukuoka/news/20220201-OYTNT50099/
★1:2022/02/03(木) 23:04:25.32
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1643989399/ 前スレでの議論の結果
邪馬台国は熱海にあったということが決定しましたwwww
1000 名前:ニューノーマルの名無しさん[] 投稿日:2022/02/05(土) 16:31:58.17 ID:D5/+9lpE0
>>1
俺の中の邪馬台国は熱海だな >>989
>邪馬台国がてこずった狗奴国は薩摩以外に考えづらい
資源のない薩摩に強大国「狗奴国」など興る訳ないだろうがよ。
「狗奴国」は「丹」の「阿波」。 @阿波 大君、倭王阿度部磯良は海人安曇族。中世的な価値観はない。何県に住むわけでなく、海沿いの岐(クナト)の地形の場所拠点とし、あっちこっち移動していた。重要な拠点は、天とか名付けている。天の一つ柱とか。 >>7
「邪馬臺国」も「阿波」。 「阿波」の北方。
「狗奴国」も「阿波」。 「阿波」の南方。 @阿波 いやいや近畿から桃の種がででまんがな
卑弥呼の時代に中国と交流してまっせ >>10
古代🇯🇵日本人のファインプレーだよなw
これで、💩クソかフンか分かる なんで、あんな最初から最後まで
💩ウンチの話した🇯🇵歴史書なのw 先に書いておこう
丹山があるから畿内説だというのは正しくない
魏志倭人伝に記述されている丹の件は、
倭人の国の様子なのだから
丹が邪馬台国で産出している必要は無い
これを指摘しても読めないふりをして話を逸らし
次に七万戸ガーと言い始める
しかしこれも、
魏志倭人伝にて「有」と「可」で使い分けがなされているので
「可」七万戸の部分は必ずしも七万戸無くてもよいということが分かる
そしてこれを指摘しても
今度はIDを変えて別の話を始め
「神仙思想では〜」と言い始める
なので、コイツの事をマンコキチガイと呼ぶ事にします 科学的根拠以前に、ヤマト政権の遺跡である可能性がずっと高いのに、なぜか気づかない振りする畿内説 ★★[神武東征](〜300年)
筑前(1年) → 安芸(7年) → 吉備(8年) → 畿内
↑
豊前
↑
日向 漢字文化国家じゃないのは
間違いなくわかる。
と、言うことは高麗時代に書かれたもの? 畿内説の人が行っている行為は
畿内に畿内大和の痕跡がある事を証明しているだけで
畿内に邪馬台国が存在した事を証明することにはなっていません ヤマトと邪馬台国は並立していたというのが、最近の流行りだね
邪馬台国は割と詳しくその出自とかがかかれてるんだが、箸墓を中心とするヤマトが、どこからどういうルートでいつ奈良へ来たかがまだわからない。
箸墓というデカいお墓がとつぜん大和にできたと言われてるけど、あれだけの大きなお墓をつくるにはその前提として相当な勢力を想定すべき
高句麗とか沿海州とかから日本海を渡ってきたのかどうか
日本は昔中国の東北地方を領土にしていたが、当時の考古学的調査なんかないのかな
731部隊の非人道的実験で忙しかったのかな 九州なんて文明の無いど田舎だろ
これだけで邪馬台国はない >>23
現代の価値観とは違う
家康が整備するまで東京はど田舎だった 前スレで
>水行1月陸行1月の行程に納得出来ない
というレスに対して
>納得できないのは、トンデモだから。 @阿波
というレスをつけた@阿波
水行1月陸行1月の行程がトンデモだと阿波が邪馬台国という説は成り立たない
後先考えてもの云う癖を身につけようね@阿波のおっさん 大学の卒論で邪馬台国は四国にあったっテーマで落とされたことは忘れない 皇帝の下の位が王
なぜ邪馬台国は魏に上納金を払い、魏の皇帝に倭の王に任命されなければ成らなかったのか?
それはつまり倭を統一してなく倭国内に敵対する国々があったと考えるのが妥当
狗奴、隼人、熊襲など九州内で覇を争ってまのが邪馬
畜生の名を冠する名前で敵対部族を呼ぶのは九州地方に見られる風習なのだから まあ中国に近い地域が先進的だったから日本海側の方が進んでたろうな
奈良は田舎もよいところ。
逆にいうと神武は何故都会から田舎へ引っ越そうとしたのか
何らかの理由があるはず 筑紫平野なら奴国から近い
中国から朝鮮を経て遠路を遥々来たのにだ
部屋に誘われパンツまで脱がせたのに、そこから何もしないってある? シロウト丸出し
懐良親王に使節を派遣したのは
九州を統一して太宰府を拠点とした懐良に倭寇の禁圧を求めたから >>34
そのままでは邪馬台国や狗奴国に対抗できないから、他地域で力を蓄えてから、満を持して攻め落とそうとした >>17
倭人の国の様子なのだから
鉄も絹も同じだな。
決め手にはならないな。
ピンポイントでの邪馬台国の様子の記載は?。 阿波説など支持しているのは徳島県民でも殆どおらんのに
朝から晩までへばりついて阿呆説を披露するとはご苦労な事だな >>5
賛成
女王国は三重から熱海までの間にあったと考えるのが妥当
卑弥呼の屋敷の風よけ→毎日海風が吹く場所
陸行1カ月→上陸してからかなり歩いている。卑弥呼の屋敷近くには良港がない
中国へ絹織物の貢ぎ物をした→中部地方でないとそういう産業がない >>39
>鉄も絹も同じだな。
>決め手にはならないな。
そうだよ
だから、
丹ガー
鏃ガーと言い合ってる時点で、どちらも間違いなんだよ
>ピンポイントでの邪馬台国の様子の記載は?。
そういうの記述されてないだろ そもそも、
邪馬台は、どう読んでも、ヤマトだろうにwwwwwwwwwwwwwwww >>37
時代ズレてね?
魏国魏(220〜265)
懐良親王(1329〜1383)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。
官位は一品・式部卿。征西将軍宮と呼ばれる。
外交上は明の日本国王として良懐を名乗った。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。 >>13
>いやいや近畿から桃の種がででまんがな
日本最古の桃は現時点では長崎で見つかっているものだろ。しかも縄文時代
桃だけで証拠になるかよ。アホか >>1の人の本読んだら、水野祐って人が神功皇后の年代は卑弥呼に合うように細工したって主張してるんだな
まあそう思う人がいるのも当然だわな 前スレでも書いたけど納得できれば九州説でも何処でも変わる
俺は今のところ大阪説を主張してて墓も鏡も金印も
全部大阪城の下に埋まってる予想してるけど大阪説に拘りは無い もしそうだったら卑弥呼は柄が悪いだろうなw
土地的にw >>17
>丹が邪馬台国で産出している必要は無い
「丹」は、「邪馬臺国」では産しない。
「丹」は、倭の「狗奴国」で産する。 @阿波 当時の様子見だと
遼東半島を根城にした公孫氏が朝鮮半島の支配権を握り、朝鮮および倭国は
その支配下におかれている。
その公孫氏が司馬氏によって滅ぼされ魏の直接統治が始まった。
結果として今まで公孫氏についていた国々は後ろ盾を失って衰退していく。
衰退したのは朝鮮半島の西側の国々と北九州の国々。
ここまでは間違いない。 >>19
ましてや当時山越えて移動するにも一苦労する時代に一県跨いで戦闘するのがどれだけ大変か
それにも拘らず、九州から奈良に東征したというアホがいまだに居るという。 わははははは @阿波 >>26
>水行1月陸行1月の行程がトンデモだと阿波が邪馬台国という説は成り立たない
成り立つ。 @阿波 >>45
長崎県のは時代が合わないだろ
同じ時代が大切なんだから 当時、十三湊と言う大陸との貿易港が秋田にあったのだが・・・ いい加減、畿内説以外をフィクション以外で唱える奴には何か罰則が必要だと思う
そんな妄想説ぶち上げたいならなろうのラノベにでも書いてろ、と >>46
その主張はその人だけじゃないだろうな
その本を読んでないけど俺も知ってる事だし >>28
そりゃ、落とされるわな。 四国の「阿波」でなければ。 わははははは @阿波 >>49
上納金(貢ぎ物)は地産する必要が無い
理解してる? >>56
縄文時代に既に日本には桃があったということ
だからそんなものが出てきたからと言って証拠にならんと言っている >>59
魏志倭人伝を普通に読めば九州以外あり得ない
畿内説のより所は同時代の遺跡しかないが、同時代にヤマト政権も存在してるんだから当たり前だ
そして、魏志倭人伝の邪馬台国と、記紀によるヤマト政権は、何もかもが違いすぎる >>59
むしろ畿内説の根拠って名前がヤマトに似てるだけしかないじゃん
畿内説を主張するくらいなら魏志倭人伝なんか忘れた方がいんじゃねーの 京大と九大の間の圧倒的な力の差
これにより畿内説が幅を利かせているだけなんだろ >>53
山越えて移動するのと
一県跨いで移動するのと
いったいどれだけの差があるのだろう?
山に県境があるだて同じ意味では? >>44
ソース読みなよ
「南北朝時代にさえ、明国は、九州を制圧した南朝の懐良親王を『日本国王』と呼んだ」とし、
「中国から見れば、九州の勢力を『倭の統一政権』と判断することがあり得た」と説明している。 >>69
どちらも、スカタンだけどな。 わははははは @阿波 >>68
そいつ昨日九州にも大和や山門があるの知ってから顔真っ赤にしてID変えて7万戸がー連呼してるぞwwwwww 纏向遺跡からは邪馬台国があったことを伺わせるものは何1つでていない
どころか邪馬台国は奈良では無いと証明するようなものばかり
北部九州の遺跡とは大違い、しかも北部九州と畿内との間には何の交流も無かった
事が判明してしまっている 大量の桃が出てきた遺跡は2つ
奈良の纒向遺跡(2600個)、岡山の上東遺跡(9000個)だけ
共にト骨も見つかってるし
上東遺跡では入れ墨をした男を書いた土器も見つかってる >>52
紛争地域ではない
邪馬台国の一部
水路、道路インフラ整備
祭祀関連の公共工事だな。 邪馬台国なんか魏志倭人伝にしか書いてないのにその魏志倭人伝を否定するのがキチガイ畿内説信者ジジイだからなw >>17
>丹が邪馬台国で産出している必要は無い
「丹」は、「邪馬臺国」では産しない。
「丹」は、倭の「狗奴国」で産する。 @阿波 >>65
普通に読めば東シナ海だろw
そこから妄想で捻じ曲げてるだけ >>72
親王なんだから皇帝(天皇)の下の位の王と呼ぶのは中国の感覚としては変わらないんだよね
中国からすれば王ってのは州知事や県知事と同じ感覚なのだから 先ず既に107年の時点で、
倭の覇権は奴国から倭面土国(ヤマト)
に切り替わっているという事実を、
冷静に受け止めた方がいい。 >>81
「山処(やまと)の地」
「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、
現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。 @阿波 >>76
中国の出土品出たのか?w
桃のタネなんかもはやネタだろキチガイw
お前は内心畿内説を馬鹿にしてんだろw >>80
九州上陸時点で8割到達という数字に明記された事実 >>80
普通に読んだら直線距離で測るはずがないと分かるだろ
直線距離で測って海になったとかwww
頭悪すぎだろwww
こんな頭の悪い事を根拠にして、
九州ではない、方向が違うんだ
だから畿内説だ
と持っていこうとする畿内説は
超絶馬鹿という事が分かる >>34
大陸から逃げてきたから、と考えるのが最も合理的
つまり、神武は犯罪者またはその係累 >>84
キチガイw
中国の考古学者は一応に倭国は九州を指して邪馬台国は九州にあったと結論つけてるのにwwwwww
魏志倭人伝のどこに本州の様子が書かれてるんだ?w
1000回読み直してこいキチガイ >>82
ううん
知事だと代官扱いなので次の知事を指名する権限がないし領土領民も私物ではなく預かりものになる >>80
普通に読めば巨大に書かれた東夷世界の中の九州だが
三韓が方四千里と書かれてるのをみて狗邪韓国は海の中と主張するみたいな話だな 刺青の証拠となる出土品は
実は九州も奈良も少ない
奈良九州は北方系中国人の系統で、南方系中国人の系統は瀬戸内と愛知にいたことがわかる
http://kamnavi.jp/uga/ugakibi2.jpg >>84
近畿一帯に広げても、鉄器を造っていた遺跡がほとんど無いのではお話にならない。 @阿波 >>34
全部、神話の話になるけど
神武東征は何故?
一応、古老のお告げということになってるね「東の地に豊かな土地がある」
神武の前に九州から奈良に入った人物がいるそれは邇芸速日命
これも大船団を組み一族を引き連れ奈良に入ってるが平和裏に奈良入りしてる
争ったという記述はない >>17
>丹が邪馬台国で産出している必要は無い
「丹」は、「邪馬臺国」では産しない。
「丹」は、倭の「狗奴国」で産する。 @阿波 >>88
女王国であって邪馬台国ではないな。
次有奴國,此女王境界所盡。其南有狗奴國
女王国である奴国のことだな。 結局、107年の時点で、
奴国との戦いを征した国は、
北部九州にしかない。 >>81
「山処(やまと)の地」
「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、
現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。 @阿波 大量の桃が出てきたから近畿に邪馬台国があった!!!
もうね叩かれ過ぎてネジが飛んだのかw
畿内説信者はwww >>25
発展した江戸とは逆に九州はど田舎になるんか、笑えるなw >>98
つまり、南にあるけど狗奴国よりは北なんだよ
答えが書いてあるじゃないか >>84
近畿一帯に広げても、鉄器を造っていた遺跡がほとんど無いのではお話にならない。 @阿波 >>98
キチガイw
12000里かかるとこを九州まで10500里なのにそっからどうやって関西まで行けるんだ?
お前引きこもりだから九州と関西の距離知らないんだろwww >>103
それが歴史だからな
ちなみに、江戸を中央集権国家の首都にしたのは長州と薩摩な その後、146年〜189年の霊帝の時代に、
倭国大乱があった。
コレは時代的に見て狭穂彦王の乱になるだろう。 >>17
>丹が邪馬台国で産出している必要は無い
「丹」は、「邪馬臺国」では産しない。
「丹」は、倭の「狗奴国」で産する。 @阿波 >>107
だから邪馬台国はヤマト国で倭国の事だと言っとるだろ >>103
句読点おじさん今日も馬鹿にされにこのスレ居座ってるの? >>81
「山処(やまと)の地」
「倭大国魂神社」が建立されている阿波国美馬郡は、貞観ニ年(八六〇)までは、
現在の三好郡と、美馬郡(木屋平村を除く)を合わせた七郷からなり、
徳島県の中西部に位置し、山地が九〇lを超える山処(やまと)の地。 @阿波 >>84
近畿一帯に広げても、鉄器を造っていた遺跡がほとんど無いのではお話にならない。 @阿波 邪馬台国だったなら九州が何故ド田舎になったのか検証が必要じゃねえか
一体何が起きたん? 四国の徳島って結論が出てたような?
金環日食を観測出来たのは徳島ってことだったけど? そうなると、107年に朝貢した倭面土国王師升は、
狭穂彦王の父、彦坐王かその爺さんと言う事になる。 邪馬台も後世の当て字だからヤマト関係ないと思うわw >>115
そもそも邪馬台国は弱小国だぞ
九州のド田舎に弱小国があったわけだ >>111
倭国=九州
邪馬台国は九州内で99%確定
何も忖度しようがない海外の歴史学者が邪馬台国は九州だと認識してるのがなによりもの証拠 >>112
句読点がどうのこうのって絡んでくるのはキチガイの居るスレあるあるだな >>116
日食?神話の話ならヤマト政権のことであって、邪馬台国とは関係ない こらっ!@阿波
水行10日陸行1月を「トンデモ説」と大矛盾をやらかしたおまえが
あれこれいうな >>95
兵庫県に鉄器造りの伝統がある
遺跡ではなく現役のまま今まで来ている >>115
明治維新で政治の中心が本格的に東京へ移ったから >>115
そんなこと言ったら奈良なんて日本のチベットと呼ばれるクソ田舎だろうが。
オマエ、奈良行ったことあるんか?? >>121
お前が何も根拠のないレスしてるからキチガイ扱いされてるだけだろ句読点おじいちゃんw
少しは九州説の人間を黙らせるだけの証拠持ってこいよ >>119
弱小国ならど田舎九州でもどうでもいいかな >>126
奈良というか飛鳥が物凄い辺境なんじゃね >>116
大陸からスゲー離れてる太古の昔から日本で一番糞田舎の四国なんかに邪馬台国があるわけねーだろw
もう一回義務教育受けてこいよおっさん >>127
お前がキチガイだ
少々の言葉を拡大解釈して事実の何が分かるんだよ
何を言っても物的証拠がない限り妄想にすぎない
句読点つけるだけで誰かに決めつけ来る妄想キチガイにはもったいないか >>123
水行10日陸行1月
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>34
そうかなあ、古代って今よりずっと農産物の生産高が重要な社会だから
江戸時代まで米の石高で藩の力が決まってたぐらいだし
暖かい太平洋側が優位だったはずだよ
これは古代から中世にかけて中華もそうなんだよ、南は農業が盛んで豊かだが北は貧しい
でも交易都市が日本海側にあった、そこが今と違う、黒船が来てから日本は太平洋側の完全優位になった 邪馬台国の嫡男の狭穂彦王の乱を征した
生目=伊支馬が、邪馬台国の長官として台頭し、
彦坐王の娘たちを手籠にして、
出来た娘が倭の姫命=邪馬台国の卑弥呼である。
ハイ終了〜 >>131
大和 → 山門
お前さ昨日馬鹿にされたのになんでその大和だけこだわるの?
馬鹿なの?無知なの?キチガイなの? >>132
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波 >>115
卑弥呼が死んだ途端に仲間割れを起こす程度の国
男王がたっても誰も従わない程度の国
トヨ?が朝貢してもすぐに消息不明になって東夷30国が朝貢し始める程度の国
↑
トヨがなんぼ晋に朝貢頑張っても
倭人が一斉に「俺が倭王だ」と勝手バラバラに朝貢し始めてたら
晋だってトヨを倭王に認められないわな >>123
今さら言い繕っても見苦しいだけ
素直にアレは間違った発言と訂正したほうがええんとちゃうか >>92
秦の始皇帝の下にも燕王や韓王や楚王とか居たわけ
天皇の下にいる九州探題を王と呼んでも差し支えない
天皇が村の長を任命する訳じゃないからね >>105
でなんで関西が出るのかな?
不彌國又は奴国で行程距離万二千余里
関西に行き経路(会稽東治の東と同じ直線距離 万二千余里)
南至投馬國,水行二十日,南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月 >>133
物的証拠あるぞ
【女王国の邪馬台国の東には海が広がっている】
はい!キチガイ爺さんお前の負けwww Scramble Matter? 02/05 17:22 女王が死んで内乱が起きるなんて、当たり前に男子承継するヤマト政権ではあり得ない >>141
キチガイwwwwww
お前無職だろw
絶対仕事できないもんお前www >>135
>そうかなあ、古代って今よりずっと農産物の生産高が重要な社会だから
>江戸時代まで米の石高で藩の力が決まってたぐらいだし
>暖かい太平洋側が優位だったはずだよ
稲は夏は高温多湿、かつ水が冷たい方がよく育つから
日本海側の方が稲作には適しているんだよ
秋田、山形、新潟は米どころで有名だろ? 高天ヶ原から「東の方に」天磐舟に乗ってニギハヤヒが降臨したとの情報を得て神武は東征した
高天ヶ原は大和だと言ってる人って頭おかしいよね
大和愛はそこまで人をキチガイにさせるのか >>94
奈良の纏向遺跡から愛知と吉備の土器が多数出土
倭国大乱は海人の内陸進出が要因かも >>144
関西なんて、魏志倭人伝には出てこない
北よりの東なんて、一度も向かっていないし、出雲や吉備を通過した様子もないんだから >>152
戦勝国は、当たり前のように強奪する時代だよ そう
通過した国や周辺国に吉備も出雲も出てこない
畿内まで行ってるならどちらかは名前出るだろうに >>133
中国の出土品は九州が圧倒的で畿内説信者の拠り所の纒向遺跡からは1つも出土品が出てないのが何よりの証拠じゃん >>123
水行10日陸行1月
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>132
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波 また、魏志倭人伝には、
邪馬台国の副長官として、
彌馬升御馬獲支が居る。
コレは御間城一派の事で、
崇神や吉備津彦辺りを指すのであろうが、
コレラが記紀上では子供である
生目垂仁の下の役職であると言う事で、
崇神と垂仁は直系の親子関係では
無かったと考えることが出来る。 桃は2500年前に中国で栽培されはじめたもので、長崎の縄文時代前期とかありえないよ。
そして、在来種の桃は今のより小さくて酸っぱくてあまり食べられてなかった。
桜のような観賞用の花木として栽培されていた。
今の甘い桃が入ってくるのは明治になって欧米から入ってきた。 >>155
陳寿が九州だと勘違いしてるんだし出る訳ねえじゃん >>123
水行10日陸行1月
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>132
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波 >>163
勘違いしてないだろ
なんで勘違いしてると決めつけるんだ? >>151
神武天皇のモデルは九州出身なのは歴史的にみても間違いないからね 佐賀平野の景色を見た時に
あーこれは邪馬台国があったに違いないと思った
風景が完全に弥生時代のそれ
理屈じゃない
日本人ならあの空気感でわかる >>163
陳寿は九州だとも畿内だとも比定していないだろ
自分で日本に行ったわけじゃないんだから
実際に日本に派遣された魏の役人の残した手記を元に
まとめただけなのが陳寿
自分で行ったことがない国の旅の行程を書いているだけなのが陳寿だろ >>168
佐賀平野は海でしたよ。吉野ヶ里遺跡は海沿いにあった。
糸島半島も当時は島 >>166
前スレでも言ったけど水行1月陸行1月は合わないのよ
だから陳寿は国家の邪馬台国を集落と勘違いしてる ・3世紀に北部九州に邪馬台国があって大陸から近いこともあって魏とも頻繁に交流
・邪馬台国のライバル狗奴国(後の熊襲)が熊本南部にあった
・邪馬台国と同時期に近畿の纒向遺跡に大国があり3世紀から次々に西日本の国々を征伐し266年頃には中国の晋にも朝貢出来るくらい影響力をあたえる >>171
水行10日陸行1月
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 又は 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>171
それまでは里という距離で書いていたのに
突然日数表記になったのは、九州に上陸してから
毎日行く先々で接待されて泊まることになったので
距離の割に日数がかかっていたことが伺われる >>169
資料の選択をしてるでしょ
最初の倭は東南の大海の中にあるは日本列島を指してて別の資料だな >>165
日本で一番の糞田舎の百姓が戯言言っていてワロタ >>171
前スレでも前々スレでも教えてあげたけど
合うんだよ >>171
はっきり邪馬台「国」と書いてるし、女王の都とも明記してる
お前が何か勘違いしてる >>164
水行10日陸行1月はトンデモとついさっき笑い飛ばしたくせに
年取ると10分前の発言も忘れるのかよ
それじゃ千年以上の前の話はおまいさんには難しいわ >>176
お前頭いいな
やっぱり九州説の人間は論理的
畿内説は桃が沢山あった()とか名前が似てるとか中卒レベルの頭の悪さがにじみ出てるもんなw まあ大陸との地理的な距離、出土品の多さを考えて九州にあったと考えれば無理がない
ただしこれを言うと、近畿絶対に凝り固まった連中が逆上して暴言を吐き始めるんだが…
血の汚いクマソのくせに、とかデタラメ言う奴らは糾弾集会で吊るし上げや!とか
いろいろな利権が背後に潜んでるんだろう さて、御間城氏であるが、
記紀を見ると吉備播磨の豪族である事が分かる。
コレがニギハヤヒの子孫の娘と婚姻して、
大和に進出して行った事が分かる。
纒向遺跡は、まさに吉備に特徴的な
特殊器台埴輪や、桃太郎伝説を持つ
吉備津彦に関連する、桃の種、犬の骨、等が出土し、
まさにココが御間城崇神の王都であったことが分かるのだ。
そしてソレは崇神が日本各地に派遣した、
四道将軍の範囲と一致する
外来土器の出土状況にも現れている。 >>183
確定してませんよ
鹿並の脳みそしかないお前が一人で畿内説信じてるけどwwwwww >>181
邪馬台国と書いてるのは行程のところの1回だけだな 最初に「近畿は候補対象範囲外」を設定するのが九州派 >>183
確定してない
共立して女王連合なんだから
畿内の一国が強いみたいなワケないって
昨年の邪馬台国の正月番組で疑問が出てたぞ >>188
勉強してこいよ爺さんw
もう昨日から馬鹿にされまくって意固地になってるだけだろ
お前もう還暦超えてるじゃないか?
その頭の硬さとアホな文章みたら? >>188
小国同士の国家連合である女王国のまとめ役が
邪馬台国の卑弥呼だからだよ 九州だって言ってるやつが基地外っぽくてヤバいなw
文章から分かるやべーやつ >>193
共立と言ってるんであって支配なんて書いてないのにみんなそれ無視するね >>190
博多から筑紫にかけてその時代大きな川があるのにそんな今の地図で場所特定しても意味がないぞ
まあ九州なのはほぼ確定してるけど 倭国大乱の範囲を九州限定にするのが九州派
倭国大乱の範囲を九州、瀬戸内、出雲、丹後、近畿とするのが近畿派 >>197
魏志倭人伝で畿内説と判断出来るお前のキチガイ脳みそどうなってるの?
馬鹿なの?無職なの?還暦過ぎてるの? 邪馬台国は九州
近畿とは別王朝
邪馬台国は中国に朝貢している
日本=近畿王朝はしていない >>198
そう共立
一貫して世襲のヤマト政権とはまるで違う >>199
それはそれで構わないんだよ
九州内で治まることが分かれいい
それが目的だから >>201
だから九州で確定
何回同じこと書いてるの還暦爺さんはw 邪馬台国近畿説=中国
邪馬台国九州説=日本
邪馬台国は中国に朝貢した
なので邪馬台国を皇室の先祖とすると中国に朝貢したことになる
中国の狙いはそれ >>194
何度も書くが俺は大坂説に拘りは無い
納得出来れば九州でも何処でもかわる 人は記憶型と思考型に大別できる
今現在でも国を表す読みとして使われてる「わ」「にほん」「やまと」
なんで複数あるねん
こんな感じかな
「やまと」の者たちが、
「ひのもと」を建国し、
「わ」全域を支配した 。 >>203
これよ
俺は近畿の国が中国に朝貢始めたのは266年辺りにだと思ってる はっきり言って、倭国大乱を九州限定にするのは無理がある >>145
>>邪馬台国の東には海が広がっている
の記載はない。
女王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種 >>150
新潟や東北が米の産地になったのは昭和に入ってからだよ、
農耕機械も化学肥料も農薬もない、寒いところで育つ品種改良種もない
最初は九州南部から始まったはずだ そして、この御間城氏は、
崇神朝の時初めて朝鮮半島の
任那の使者と接触したと言う。
しかし、後漢書東夷伝に明らかな様に、
倭面土国王は107年の時点で漢に使者を派遣するレベルで、
朝鮮半島南部の狗邪韓国も配下に治めていたので、
この様な朝鮮半島との関係性からも、
御間城崇神の王都の纒向が、
邪馬台国とは何の関連がない事も分かるのだ。 >>207
日本は聖徳太子がいた飛鳥時代まで中国の属国扱いされてたのに何を言ってるんだネトウヨwwwwwwwww
頼むから歴史の勉強してくれwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>208
こだわりがないもクソも、全ては大阪城の下にあるという妄想の下、一切の論理的思考を拒否してるじゃないか >>213
>農耕機械も化学肥料も農薬もない、寒いところで育つ品種改良種もない
何言ってんだよ
東北はともかくとして、新潟の夏なんて全然寒くないよ >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>217
だって決定的な証拠なんて何処にも無いじゃん >>199
卑弥呼がいるところはね。
邪馬台国は近畿一帯。 >>220
また総行程が1万2千里とはっきり書いてあるのに忘れた振りしてる 畿内説キチガイ信者のID単発は草
論破されまくってかなり効いてるな
桃が沢山見つかったから邪馬台国は畿内説はまじで爆笑したわ 仮に九州に邪馬台国があったとして
その後短期間に畿内の豪族が逆転勝利で日本支配することになりストーリーに無理がある >>211
陳寿は女王国の東に海を渡るとまた倭種の国があるといい
女王国の国々以外のことは絶遠でわからんと書いてるんだから
倭国大乱はどうみても卑弥呼を共立した女王国=九州の話にしかならない >>197
お前はまるで小学生くらいの幼稚な頭脳しかないように見えるけれどなw 反日勢力の狙い
邪馬台国=近畿=皇室の先祖ということにして、皇室が中国に朝貢したということにしたがってる
日本人なら、邪馬台国=九州=現在の皇室とは別王朝一択 >>228
ではなぜ、東大寺古墳から中国からの倭国大乱鎮圧おめでとうございます鉄剣出てきたの? 九州説って、福岡の人しか言ってないよね
ノイジーマイノリティの代表例 1世紀に邪馬台国があったなら九州だろうけど2,3世紀となるともう畿内の時代だろ >>222
邪馬台国こそが女王の都と書いてる
そもそも、一大率が九州あるのに遠く離れたとこに国の中枢があるわけない
卑弥呼への連絡に2か月もかかってたら、一大率が警戒する意味がない >>227
ソレは貴方の妄想でしかない。
生目氏や御間城氏や丹波氏と血縁関係のある大和武尊が、
山門八女の丹波氏と吉備播磨の御間城氏の後押しを得て、
日本を再統一したのだから。 九州説の駄目なところ
書物を見て地面を眺めてるだけじゃ何も進展せん
とにかく掘れ いいから掘れ >>222
女王国と邪馬台国と別々に分けて考えるのは無理があるぞw
中華帝国の魏に認められてたのは卑弥呼の国だけなんだからw
他の国が認められた記述があるのは卑弥呼の死後266年のトヨとどっかの男王が朝貢したと記述があるからその頃には纒向遺跡の王がかなり勢力を広げてたのは分かるけど >>94
だって、新羅と日本は近い関係じゃないとおかしい。日本書紀から >>233
実際、ヤマト政権が覇権をとったから邪馬台国は滅んだのだろう 新羅がコンスタンティヌスなら🇬🇷ギリシャのような蛸壺とかで🐙タコ食べる民族じゃないと、あっ >>237
だから卑弥呼は倭王なんだよ
ただし倭ってのは中国語な >>236
畿内説のダメなところ
卑弥呼と同時代の遺跡だから邪馬台国の遺跡だと、なんか出るたびに飛びつくところ
それホントに邪馬台国の遺跡なのか?ヤマト政権じゃないのかと考えろ >>236
畿内説のダメなところ
出てきたものすべて邪馬台国に結びつける理論の飛躍 畿内説派は、纏向から大陸のモノが出ないけど、
どうせ一般人はそんな事は知らないんだから、
纏向が邪馬台国って言っとけ〜
っていう勢いだけの説だからな。 方角は間違える事あるのかな
陸が見えてるなら水行だと間違ってないんじゃね というか、
朝鮮南部、九州合わせて
30余の連合国家だろ
北は、楽浪郡と接してたはずだが
対抗勢力が、80余の連合国家
邪馬壹国にこだわりすぎ >>223
近畿説だけどないかもね。
邪馬台国に卑弥呼がいるとか
邪馬台国は中心国で、豪華絢爛で
さぞかし立派なもんがあって
発展しいるとか勝手なイメージがある限り
無理だろうな。 唐といっしょに近くにギリシャもいたんだろwどこの国の事だよwwww >>232
中国の古代学者は殆ど九州説だぞ
逆に畿内説は利権がらみのアホ学者しかいないのがきついところw
https://youtu.be/qzVermbgkdI 倭国大乱はどう考えても西日本全域
その時点で九州論は破綻してる 卑弥呼がいる時代に奈良の大型建物の中で祭祀用に大量に桃を使いまじないやお供えをしていた
これは確定なんだから >>252
畿内にあったのは、
邪馬壹国の対抗勢力じゃね >>251
邪馬台国の子孫の神武天皇が近畿の国滅ぼしてそこに朝廷作ってるから奈良に鉄剣があるの当たり前じゃんw
馬鹿なの?奈良土人は >>247
不弥国より後は、伝聞なんだよ
だから国の様子も書いてない
壱与にも会ってないから容姿や服装にふれていない >>248
倭の五王だって西に66国平定したって言ってるからな
九州北部で30国はスケール的におかしくない 1.纏向のホケノ山古墳から槨が出てしまった。
吉備阿波から続く槨埋葬圏の範囲になってしまった。
完全にトドメを刺されちゃったよね。
コレが考古学を知っているツウの見解である。 >>255
そうだよ
纒向遺跡の発見からそこに近畿最大の都市があってそっから西日本の国々を征伐していったのよ >>258
倭の五王って天皇が含まれてる
もっと後の時代だろ >>253
どう考えてもの根拠は何名だよ?
倭国といえば九州というのが中国人の常識なんだが?
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg 邪馬台国なんてあろうが無かろうが、今日の歴史になんの変わりも影響も無い
邪馬台国の卑弥呼なんてのも伝説上の生物なんだよ!
藤原京〜平城京〜難波宮〜恭仁宮〜平城京〜長岡京〜
と邪馬台国があったと言い伝えられてる以降の歴史の流れはほとんど掴めとるのに、邪馬台国だけがまだどこかも特定出来んてなんやねん?!
自称研究家のおっさんの宿題の答え合わせには付き合っとられん! まあ少なくとも畿内説はありない。
魏志倭人伝の距離の記述と全く整合性がとれない。
書物の内容とは一致しないけど、それっぽい遺物が出たから畿内にあったとか適当すぎだろ 2.箸墓の築造間もない堀の堆積物から使い古された4世紀の馬具が出た。
あー終わり。畿内説ハイ終了〜 >>228
倭国の都の記載なし
女王国の都の規制もなし
鬼道から察すると
鬼道の中心地だな。
だから、共立されて九州にいる。
交易の出入り口、外交地、紛争地域 >>263
一人でも判れば良いんだけど誰だかわかんない
大阪のでっかい墓と時代は合致するけど >>266
だからw
倭国というのは古代中国人の名付けた争いだぞ
そして古代中国人の認識では倭国=九州限定ってことだぞ
物分かりが悪い奴だな
つまり倭国大乱=九州での争いって言ってんだよw
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg 畿内説にも駄目な処は一杯ある
掘る行動力は認めなあかん
何か出てくりゃ今は科学でも解決できるし
時間が答えを出してくれる
畿内説がオッチョコチョイなのは関西人気質なんだか大目に
見てちょうだい 多分、このスレの人は高地性集落とかも知らないんだろうなぁと思う。 >>258
道程から言って
鹿児島、宮崎でもおかしくはない
基本的に、河川がある海岸線が
邑の第一候補になるんで いい加減な中国の書物なんか見てるからどうでもいい論争になる
辺境の民のことなんか適当に扱ってた事を差し引くべきだね >>271
じゃなぜ東大寺古墳から倭国大乱おめ!の鉄剣出てきたの? 産地偽造九州土人が必死だねぇ〜
邪馬台国まで偽造しなくて良いんだぞ(笑) >>277
なんのことかわからないので
ソースつきで説明お願い >>279
東大寺古墳の鉄剣知らないならもういいです。 魏志倭人伝で実在したのは伊都国まで。
奴国、不弥国は伝聞を書いただけ。
投馬国、邪馬台国、さらにその先は、全くの作り話。 >>271
それ陳寿が勘違いしただけ
ずっと以前に徐福が日本に来てるけど九州と他を別の国として分けてたと思う? 3.卑弥呼の死亡時期と同時期に築造された
邪馬台国の超重要拠点の伊都国の
平原遺跡の墓が方墳。
邪馬台国は前方後円墳を権威の象徴とする
巨大統一国家なる畿内説は完全崩壊しました〜 >>280
じゃあ、オレもお前の言っていることはもういいやw >>219
明治に入って最初の国勢調査で新潟が一番人口多いとか
江戸の頃に新潟が何万国かも知らない人だからほっとけばいいんだよ もう邪馬台国の中心は吉野ヶ里遺跡あたりだったってことでいいじゃん >>262
邪馬壹国にこだわるから
みえないんだよな >>282
陳寿の勘違いじゃなくて
この地図は明時代に描かれたもの
つまり古代中国からずっと倭とは九州というのが
中国人共通の常識だったと言っているんだよ
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg >>274
九州南部に邪馬台国説も捨てきれないのは神武東征の話しなんだよな
神武東征の出発点が日向から宇佐そして筑紫に征伐してるからな 4.その平原遺跡から出土する舶載鏡の数々の中に、
日本から500枚も見つかる三角縁神獣鏡は1枚も無い。
ハイ、卑弥呼の時代に、
三角縁神獣鏡が流通していなかった事が確定〜 >>293
当時山越えて移動するにも一苦労する時代に一県跨いで戦闘するのがどれだけ大変か
それにも拘らず、九州から奈良に東征したというアホがいまだに居るという。 わははははは @阿波 東大寺の古墳から後漢の鉄剣が出てるし畿内で確定じゃないか >>219
それは中世以降の話
古代米は暖かい地域でしか採れなかった >>282
旧唐書
「日本(大和政権)は倭国の別種なり」の言葉の意味は
この地図を見るとイメージで理解できるだろ?
古代から中国人にとっては倭国とは倭人が住んでいる九州の国々を指していただけ
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg
だから畿内の倭人たちが台頭してきて、外交の場にでてきたことで
倭国とは別種という記述が出てきたってこと >>237
女王国と邪馬台国と別?
邪馬台国は女王国の一部
親魏倭王なんだがな
>>中華帝国の魏に認められてたのは卑弥呼の国だけなんだからw
邪馬台国に与えられたもんではないよ。
。 >>295
そんなもん知ってるよ
神武東征の話は歴代の王が何代かかけての偉業だからな >>40
あいつは邪馬台国が話題になるといつも出てくるよ しつこいんだ >>297
鉄器さえ作っていない畿内が確定するわけもなし。 @阿波 >>234
その遠くに各地方から土器がたくさん集まっとんねん
土器運ぶのは簡単じゃないのじゃ
鏡もたくさん見つかってる 前933
> お前は「焚書なんかなかった」と主張してるんよな?
焚書されたかどうかなんてわからんさ
「原書が現存していない」=焚書
が、理屈として成立しないと言ってる
原書が残ってるなら、中国の歴史書だってもっと楽だったろうさ
それこそ陳寿が参考にした文献が残ってたらもっと楽だったろ?
余計に混乱した可能性もあるけど。。。 >>295
九州から四国の山超えて阿波に東遷するのもたいがい大変やろ
ところで朝ごはん何食べたか覚えてる? >>305
戦勝国は、当たり前のように略奪してた時代だ >>302
阿波説って主張している人たちもネタでやっているだけだろ?
あの時代に直線距離で1万2000里を計測して
阿波を指している、なんてあり得ないだろ?
そんな測量技術持っていたら
明の時代でさえこんな幼稚な落書きみたいな地図のわけがないw
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg
そんなこと承知で畿内説論と九州説論の間に割って入って
目立ちたいだけだろw >>181
当時の国の定義を勘違いしてないか?
日本の江戸時代だって筑後国や薩摩国と呼んでたのに >>308
当時山越えて移動するにも一苦労する時代に一県跨いで戦闘するのがどれだけ大変か
それにも拘らず、九州から阿波に東遷したというアホがいまだに居るという。 わははははは @阿波 >>303
後漢の王朝との交易があった揺るがない証拠だろ
乱を平定するほどの力があるのに鉄がないとか無いわ >>293
神武の東征を、
実際の日本の古代史に入れ込む事は不可能。
と言うのは、ニギハヤヒの天孫降臨が、
大阪湾型銅戈の分布を示し、
凡そBC2世紀〜AC2世紀の事で、
御間城氏の大和進出が3世紀の事だから、
神武が東征して吉備に下ってまた大和に進出という10代の歴史を、
この僅かの期間に入れ込む事は不可能である。 >>299
大陸から一番近いとこが栄えるのが当たり前だからね
【博多】なんかは広くて人口が多い大都市の意味だし
近畿にあった纒向は中国に知られたのは卑弥呼の死後の266年以降だし 別に、邪馬壹国とか
漢の楽浪郡と接触があったから、
中国に知られていただけで、
他にも国邑はあったし、
特別扱いする必要もないのに
なんで?頑張ってんだ?
意味わからんわさ >>299
じゃあ倭国を併合したとか倭の文字を嫌って日本に変えたとかの意味は? >>311
伊都「国」や奴「国」と同じ意味で、邪馬台「国」だろ >>281
奴国、不弥国は伊都国の近所だから行ってるだろ
投馬国は朝鮮半島南部地域
邪馬台国は北部九州地域全体のことだ
その先は、魏使とは別の中国人探検者からの伝聞。 邪馬台国=高天原
卑弥呼=天照大御神
天孫降臨・東征=九州から畿内移動
多分これ合ってるだろ >>276
実際には日本に来た事も見た事も無いのに
黄金の国ジパングと、さも行って実際に見たように
東方見聞録に書いてる >>310
>明の時代でさえこんな幼稚な落書きみたいな地図のわけがないw
「混一疆理歴代国都之図」 には、行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波 >>306
高天原はニギハヤヒが出自した場所でもあり、
銅剣銅鉾を祭祀の道具として使用する発祥の地は
博多湾周辺であるので、
高天原は博多湾で間違いない事になる。 >>45
桃は中国のものだよ
それが当時に、なんで日本にあるの?w >>312
>九州から阿波に東遷
おまえが過去にいうとるんじゃけどな
ほんとあんたは都合よく物忘れするなw >>319
邪馬台国は韓の馬韓や弁韓、辰韓と同じ様なものだ。 >>325
博多湾と言うより山口県の辺りじゃないの? 鉄剣だとか高地性集落だとか
畿内説は妄想でなんでもかんでも邪馬台国に結びつけすぎで草
出てきたもの全部邪馬台国やないか
せめて中国の史料に鉄剣送りましたと書かれてるのを見つけてからにしろよ >>324
「神武天皇行軍ルート」
気延の庄(出陣地)→15q神山→15q木屋平→13q穴吹→5q岩津→27q板野→13q鳴門(東征地)
計88q 各地点間距離≒直線距離 @阿波。 >>318
わからないか?
大和王権が力をつけて
九州の倭国も併合して日本をほぼ統一国家として
外交団を送ってくるようになったが
それまで中国の王朝に朝貢してきた倭国とは別種という意味だろ
今までの倭国とは九州の国々(奴国とか邪馬台国)が朝貢してきたけれど
現在外交団を送ってきた倭の国は日本と名乗っている九州とは別種の倭人がつくった国と言う意味だろ >>322
不弥国までは、距離も方角も地勢(山が険しいなど)も正確 卑弥呼がいる時代に奈良の大型建物の中で祭祀用に大量に桃を使いまじないやお供えをしていた
これは確定なんだから >>299
できるね。
日本(邪馬台国)
倭国(西暦57金印〜107年)
もとは小国、倭国を併合 >>318
倭を超える存在として大倭と名乗ったんだ。 >>319
そうその通り
江戸時代で言う藩名みたいなもの
藩の大小は問わず >>328
ヤマト政権が統一の過程で破壊したんだろ >>333
どの説明も中国人は信用してないの意味は? >>306
なわけねーじゃん
国譲りの話は知らんのか?w >>314
銅戈と饒速日の関連の根拠は?
後、前スレで書いたけど、神武東征における河内湾の地形の描写が紀元前の河内湾の地形描写
これを8世紀の人間が調べることも捏造することも無理がある >>321
天孫降臨とは、結局、銅剣銅鉾の伝播で特徴付けられ、
ソレは海人族、安曇族の進出を意味する事になる。 >>341
国譲りはもっと小さな範囲の話
山口から島根へ働きかけるレベル >>340
倭という国号が雅じゃないから日本と名乗ったとか
もともとは小国だった倭国を吞みこんで大きくなったのが日本とか
言うことが様々だから、どっちが本当だろうか?
もしかして嘘をついているのか?という意味だろ 九州が地政学的に強いんだけと畿内には古墳群が有るからなー
九州には畿内に匹敵する古墳は無い >>334
魏志倭人伝の記述に従うなら不弥国は室見川下流域や樋井川流域だな。 >>343
長野県安積野において、大阪湾型銅戈が発掘された。
コレがニギハヤヒの一派の安曇族の安積野への進出の伝承と一致する。
また大阪湾自体、ニギハヤヒが河内を拠点として、
大和に進出して行った伝承と一致する。 >>337
また馬鹿の子かw
大倭を名乗ったのは
好字二字化例がでるずっと後年のことだ
それまでは畿内のヤマトは倭と名乗っただけ
外交の場では日本という国号を名乗った
だからお前がずっと勘違いしている
魏志倭人伝に出てくる大倭と畿内は全然関係ないの
何回言えば理解できるの?この物分かりの悪い馬鹿はw >>345
何言ってんだお前?w
出雲族は天孫族から皆殺しされてるのにw 卑弥呼の次の男王が誰かやね
卑弥呼の孫代になるかな
卑弥呼がアマテラスなら孫はニギハヤヒか
でも内乱が起きたんだよな
3世紀後半纏向遺跡から突然吉備の土器が消えるのはなぜなのか?
吉備は内乱をきっかけにヤマト政権から手を引いた?
その後吉備津彦の温羅退治に繋がるのかもね
卑弥呼の次の男王は温羅の王? 取り敢えず、邪馬壹国から
離れた考察も必要
はっきり言って、古墳群の数から言って
宮崎があやしいとは睨んでる >>348
でも畿内の古墳群は年代を実際より200年くらい古く比定してるからな。 畿内に邪馬台国があったとして、九州に着いた魏の使者が野を超え山を超え畿内まで行って
さらにまた九州に帰ってきて魏に報告に戻るなんてことがあの当時現実にあったと思うの??
それとも九州の港から船で直接畿内の港に行ったとでも??w
もし当時そんな地上OR海上ルートが確立さてるならもっともっとたくさんの遺物が各地から出るし
なんなら既に畿内邪馬台国()は日本統一してるわなw 邪馬台国は宮崎あたりのような気がするな。
近畿の支配勢力と覇を競う
南九州勢力があったらしいから
そのルーツが邪馬台国かもな。 >>354
宮崎は邪馬壹国と対立していた狗奴国だろうな。 >>336
倭国とは九州というのが中国人の認識
倭国大乱で共立した女王卑弥呼の邪馬台国も倭国の国の一つ
つまり九州ってことを言っている
何で突然畿内が出てくるんだw
ということを言っている
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg >>355
んあこたあないだろ
大阪のでっかい古墳は5世紀辺りで良いんじゃないの >>348
お前は昨日からいる単発IDの同一人物の畿内説マヌケ信者だと思うけど邪馬台国は当時魏の配下に置かれてただけで日本全土を支配してた国じゃないんだぞw
近畿にも奈良の桜井の纒向遺跡に大国があったって何回も言ってるだろ! 当時邪馬台国ほどの規模の国が九州や畿内にたくさんあったんじゃねーの
邪馬台国は数多ある国のうちの一つ
距離的に九州 >>343
神武東征における河内湾の地形の描写は5世紀頃のものだよ
紀元前の河内湾の地形描写とは合わない。 畿内が古代の歴史の中心になったのはなぜなの
九州から移動したのか? >>354
日向は天孫降臨の地
邪馬台国や狗奴国という列強と接してたから、国力を強化するため東征して従えた >>363
沢山はないけど九州にも中国地方にも関西にも大国があったのは間違いない
そこを否定してるのが畿内説マヌケ信者だけw 卑弥呼の時代に河内湾なんか無いわ
縄文時代だろうが >>365
拡大するに従って東進していったんじゃね? >>368
3世紀の奈良には未だ大国なんて無いよ
当時は関西全体が未開の地。 また、天皇家の日向への天孫降臨に際して、
その道のりを案内し、伊勢に進出して行った
猿田彦という部族がいた。
安曇族の日本進出以前に、
このような日本各地への
広いネットワークを有していた猿田彦とは何者なのか?
ソレは貝の道として知られる、
沖縄出身の部族たちのネットワークである。 >>356
そういうおかしな矛盾に気付かないから未だに畿内説マヌケ信者は存在してるんだよw 畿内説は南の狗奴国と、東の女王国東渡海千余里復有国皆倭種が難点よな
どうにも比定できない >>316
博多は たぶん字もちがったんだろうね
潟だと思うよ?
新潟など 「カタ」が付く場所は平たく広い地域のことを指す
移住地域の候補になる >>373
唐子鍵があるだろうがよ
嘘書くとつまんないから >>365
5世紀の神武東征後に急速に発展して唐との戦いで敗れ疲弊した本国の九州を併合したんだ。 九州説は具体的な遺跡候補をあげられないのと、投馬国の位置付けがネック >>373
纒向遺跡は3世紀のものでそこは近畿最大の集落エリアと言われてるよ
俺はこの纒向に住んでた結構暴れまわって勢力を拡大して後の前方後円墳なんかあちこちに作ったと思ってる >>382
5世紀は倭の五王の時代
すでにヤマト政権の覇権は確定的 >>385
纏向遺跡からは紅花の花粉が出土している
紅花は中東から3世紀に中国西方に伝来し5世紀頃に日本に伝わった
つまり纒向遺跡は5世紀頃のもの。 >>387
倭の五王は九州の王が中国へ朝貢したんだよ。 で、邪馬台国が九州or畿内どっちかで決着着くとして、だから何なの
何か貰えるの? 沖縄の貝飾りを北海道南部まで
流通させるネットワークが、
既に弥生時代に構築されており、
その担い手は、南方より渡来した
C1a1系の部族である事は間違いないだろう。
そしてそのC1a1系のDNAが、
青谷上寺地遺跡の遺骨より、
2体も検出され、
実際に貝の道に沿ってC1a1系の部族が
進出していた事が確かめられたのである。 >>353
日の巫女さんが死んだ後は
必ず内乱が起きるんだよ >>371
>>382
そんな考古学的痕跡は何もなく、3世紀から4世紀にかけて奈良を中心に日本は統合されていくんだけどね >>392
九州だと、天皇勢が活気づくな
あいつらは中国から九州にわたってきたからな
逆に、畿内だと、国つ神扱いになるから、天皇の正当性を棄損する。 >>395
と現代の学者が比定しているけれど
納得できるような証拠ある? >>398
5世紀にはヤマト政権が統一してる
まさかこれ否定するのか? >>373
ttps://youtu.be/TjKshwDMcLw
卑弥呼の時代から少し前の畿内 >>397
天孫降臨が高千穂って認めてる以上、ルーツは九州ってことで良くね? とりあえず短里と九州王朝と投馬国朝鮮半島は面白くないからNGがおすすめ そしてこのC1a1系の部族で、
歴史上最も有名な人物は、
あの木下藤吉郎豊臣秀吉なのである。
豊臣秀吉のあだ名は猿だ。
C1a1系の部族は風貌が猿なのだ。
ここでもまた、猿田彦がC1a1系の部族である事が
強く類推されるのである。 炭素年代のintcal20見直しで古墳の年代どうなったんだろうな
よくコピペされてる人じゃなくて他の考古学者の論文ないの? 九州にあって、阿蘇山噴火で終わった縄文文明の後に、再び栄えた文明の謎か。
ある日突然日光を奪われる、高層建築で暗闇を創造する企業
【権力】日蝕の積水ハウス【日蝕】 畿内は悪くない土地なんだけどさあ
中国まで遠いんだよな
瀬戸内海を抜けて大分・福岡に行くか出雲まで陸路を行って日本海に出るか
大和(奈良)からだと更にめんどくさい
畿内じゃなくて瀬戸内海周辺の連合国と想定すると面白くなるんだけど >>390
へー
だとしたら邪馬台国畿内説はいよいよ無理ゲーになったねw >>383
>九州説は具体的な遺跡候補をあげられないのと、
コレは畿内説とて同じ事。
纏向は100パー邪馬台国ではない事が確定しているのだからな。 300歩=1里
1歩=2歩幅分
歩幅を使って距離の単位を作ろうと思い立ったときに最初からこんなややこしいものにしようと思わんだろう
まずは1歩幅 x 100で作るんじゃないか
それがちょうど短里くらいになる
度量衡黎明期にはむしろ短里がないとおかしい
倭人伝に採用されてるかは分からんけど >>393
潟だよ
大きな広い潟は海水や、水に浸かる場所
貝もある場所
貝づたいに移動したわけだよ
当時の飯や金だろ? 妄想がひどいな
卑弥呼は四国で阿波踊りを踊って占いをしてたんだぞ 布留フル
刀が流れてきて白い布で受け止めたという謂れ
朝鮮語でフルは流れるの意らしい
吉備の当時の遺跡、温羅の山城とかはどうなんだろうか? >>309
つか、前漢からも後漢からも
日本へ帰化してるだろ? >>399
いつ統一したという記述があったっけ?
古事記にあるヤマトタケルの遠征記が
日本統一したという記述になるんかな? >>388
三重県と奈良県にかけて多数 住んでた可能性ある
三重県で大量の生活してた痕跡が発見されてる
相当数が出土したから間違いない 大陸での生活は地獄で
みんな逃げてるだろw
🇭🇺ハンガリーだとか、🇱🇹リトアニアだとかヨーロッパ方面にも
支那が特に地獄だった?なんで?
宦官のせいかなw草 >>412
無い。
畿内に、邪馬台国を想定するポイントを
設定する事は不可能。
槨埋葬はどうする?
棺埋葬文化圏は何処にある?
卑弥呼の時代の大陸との交流の証拠はどうする?
絹の生産地は畿内の何処にある?
百余人の殉死の証拠は何処だ?
畿内はほぼ何も何処にもクリアする場所はない。 関西人研究者は畿内説
九州人研究者は九州説
逆の研究者いる? >>424
当時の大坂にそんな勢力があって、大陸との貿易ルートを確保してたなら、奈良に都おくまでもなく、とっくに日本を統一してるよ >>423
関西人研究者で九州説
帝塚山大学考古学研究所 (1)帯方郡より狗邪韓国 七千余里
・「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。」 (帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(朝鮮半島南部)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国にいたる。ここまでおよそ七千余里である。 >>431
邪馬台国は連合体だけど、ヤマト政権(奈良)は中央集権国家だぞ もうねえ、魏から贈られた百枚の銅鏡だって、
方格規矩四神鏡だって分かってんの。
青龍三年鏡が出た事で、
卑弥呼の時代に魏で作成した銅鏡は
方格規矩四神鏡ダッ!って
言い切って良いわけ。
で、青龍三年鏡が、丹波氏が
畿内進出の拠点とした丹後から出た事で、
ヤッパリ丹後を畿内進出の重要拠点にしたんだなと
分かる訳。
だから、元伊勢籠神社も丹後宮津にある訳です。 >>435
だから違うってか?
それ根拠になってないから
卑弥呼の時代はどうだったかって話しだから >>434
帯方郡より狗邪韓国 七千余里
この7000里に水行20日掛かるんだ。 >>244
纏向遺跡が見つかった時も「これが邪馬台国と主張するからには何か根拠があるんだな」と思ったら
「これだけ立派な遺跡なら邪馬台国に違いない」だからな
馬鹿か、と思ったよ >>423
畿内説唱えてるの利権絡みの関西の学者だけ
九州説は日本どころか海外にも多数存在してるよ 邪馬台国のスレ立つといつも細々と盛り上がんなw
まあ家とか建てるとかで土地掘り起こす度に何かでてくるんだよね@小郡 >>442
中国の学者も九州説だからな
畿内説は四面楚歌 >>439
卑弥呼の時代に、ヤマト政権と張り合う国が大坂にあったのに、ヤマト政権の遺跡には戦闘の跡がない
つまり、ノーダメージ >>350
饒速日が阿曇氏と関係していた根拠はなに?
>>364
前スレに詳しく書いたけど、草香邑のあった東大阪市日下町が海だったのは、紀元前の河内湾の地形 >>449
なら王でもいいな
世襲じゃない王がいるのか? >>424
古代の坂城地は
八十島といわれた ほぼ水城
城とか、上町台地から、堀江あたりの間まで埋め立てや排水措置したから やっと現在の形になってるだけ >>451
居たかもな
卑弥呼と天皇が繋がってるかなんてわかるわけねえじゃん
それなら先に倭の五王を特定しろ >>253
どっかのスレでも書いたけど
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共に立て王と為す」
倭国大乱の元となったのはこの一文
西日本全体を巻き込んだ争乱であることを示す文は見当たらない >>452
大阪城の辺りは縄文時代から人が住んでるんだけど
しかも全国と交易の痕跡もある >>454
>西日本全体を巻き込んだ争乱であることを示す文は見当たらない
鉄器王国「阿波」での争乱だ。 鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 邪馬台国ごとき九州にやるよ
今の日本の礎が大和なのは変わらんし
こっちは腐るほど遺跡や古墳あるし
@奈良県民 >>450
長野県の安曇族はニギハヤヒの子孫であることを伝承している。 そもそも日本の天皇は後から出来た新参者
日本人はもっと古くから居る 畿内説や阿呆説は不弥国から南行を東行に書き換えんと成り立たんから
問題外、宇佐説や日向説も同じ。何日も東を南と間違える訳が無い
日数は製本する際に1日を1月と書き間違えることは多いに考えられる
しかも原本は行書か草書だったから間違いは大いにあり得る 東大寺の鉄刀て調べてみたけど何がどう邪馬台国と関係あんの
古墳の製造時期も100年ほど後だし接点が分からん >>365
渡来人蘇我氏が天皇の外威として権力の基盤を築き、積極的に朝鮮から先進文化を取り入れて飛鳥を開発したから
ヤマトは新しい国号日本を名乗り、畿内は国際国家としての道を歩んでいく
この流れは藤原に変わっても同じ >>454
>西日本全体を巻き込んだ争乱であることを示す文は見当たらない
鉄器王国「阿波」での争乱だ。 鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 >>453
そもそも、任那って表記してるけど
どこの事?
任那って後世に便宜的に作られた単語だって🇯🇵日本書紀に書いてあったような…
歴史書改竄? >>464
>そもそも、任那って表記してるけど
>どこの事?
元は、「阿波」の美馬。 @阿波 >>461
東大寺は ゾロアスター教も入ってる
つまり、火の神様
鉄は火が必要なので理解できるでしょ >>383
熊本県北部のトンカラリン遺跡があるところ
ここは大陸からの影響を強く受けていて不思議なトンネルがある
おそらく呪術的な信仰と関係がある
途中の水行は有明海
敵対するクニが筑紫平野にあったために避けて有明海を船で渡った
しかし同じ筑紫平野のクニと敵対する周辺諸国と邪馬台国は同盟を結んでおり大陸からのルートは出来ていた
水行が10日もするのは船の準備も含めてと筑紫平野にあったクニの様子を窺って船を出したため(海の荒れ方次第かも知れない)
その後の陸行1月は1日の間違い
当時は有明海は埋め立てられておらず1日程度歩けば有明海からここに行ける
当然、滅んだクニの王族の墓に埋葬されていた豪華な埋葬品等は後の権力者や墓荒らしに持ち去られている
しかし邪馬台国が滅んだ際にも錆びていて、あまり価値が無いと思われた刀剣は後の権力者や墓荒らしに持ち去られる事もなく後に出土した
これが日本で最初の漢字が記された刀剣で今は国宝になっている
トンカラリン遺跡のすぐ近くにある江田船山古墳から出土している
いずれにしても古代人は知識はないが馬鹿ではない
可能な限り合理的に行くのは今も昔も同じ
近畿に行くなら九州に上陸して徒歩で近畿に行くのは考えにくい
当時は街道は整備されておらず、貢ぎ物を持って危険な道中は歩かない
だから近畿に行くなら大陸から乗ってきた船で、九州に立ち寄った後で、そのまま日本海を沿岸伝いに北上して目的地の近くで上陸する
徒歩で最短距離で行くから、船で合理的に行けない場所&上陸してから途中立ち寄った地点を結んだ、ほぼ直線上に邪馬台国はあると思って間違いない 任那なんて國はない!
↓↓
一本云、廿一年、任那滅焉。
總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嗟國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國、合十國。 >>464
レスする相手間違ってないか?
まあ良いけど任那は名前はともかく魏志にも倭も領土だと書いてある >>455
そう海で繋がってるからね
そのモンチッチが詳しかったから
そこに大阪城を築城したわけだ >>466
お前が何を言ってるのかさっぱり分からない 朝から夜中まで殆どネットにしがみつき邪馬台国は阿呆だと喚いている
阿呆島県人は阿呆島の恥さらし お前がいくら喚いても誰もお前の
ショーも無い主張を受け入れてくれる者はいない、道化師もいいところ >>469
トンカラリンは真面目に調査してほしいね
全部調べることができたら面白い物出てきそう >>460
唐津から東南なのに北東にするとか
博多湾から南至れないのに
宮崎は投馬国と同類だな。 >>474
鉄器王国「阿波」での争乱だ。 鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 加羅国からのくに
安羅国あらのくに
斯二岐国しにきのくに
多羅国たらのくに
率麻国そつまのくに
古嵯国こさのくに
子他国したのくに
散半下国さんはんげのくに
乞滄国こっさんのくに
稔礼国にむれのくに
読み方一つとってもツッコミどころ満載だがw
促音化してるのか?とか、下を『した』と読んだり『アル』と読んだり表記が揺らいでないか?とか 記紀を作った天武天皇の故地が九州南部の霧島というだけで東征とかないから
ヤマト平定に九州南部は関係してない
考古学的には東海、山陰、吉備阿波など東瀬戸内海勢力が初期のヤマト政権の母体
吉備はいち早く3世紀後半に撤退しているね
山陰辺りも複雑な勢力関係だし四道将軍のエピソードを見ると卑弥呼亡き後内紛を繰り返したようだな 四国における弥生時代鉄鏃出土数(鉄鏃とは鉄製の矢じりの事)
香川*36 愛媛*25 高知*53
四国からは徳島だけが鉄鏃の出土が無い、これで鉄の王国とは
お笑いだな。@阿波は道化師よりもお笑い芸人になった方が良い
顔もそれなりに不細工だろうし 鉄器があるとなんで内乱になるんや?
阿波は高度に統治された日本一の文明の地やろ?
そんな地域にアホが多いとも思えんし >>455
大阪城の下に豊臣大坂城
その下の大坂御坊
さらに下に。。。
難波宮跡にも近いし
もっと下調べたら色んなものでてきそう >>482
>四国からは徳島だけが鉄鏃の出土が無い
アホは去れ! @阿波 >>476
トンカラリン遺跡は松本清張が邪馬台国はここって主張した
その後、近畿説を唱える学者が優勢になって松本清張説は下火になった
しかし使節団が九州に上陸してから近畿まで歩いて行くとは、どうしても俺には納得がいかない >>464
魏志韓伝にも書かれてるから
朝鮮半島の南は倭人の領土だったみたいね >>483
>鉄器があるとなんで内乱になるんや?
そりゃ、古今東西 、最新最強の武器を手にしたら、戦争したくなるもんだ。 @阿波 >>454
同時に
九州のみの争乱であることも見当たらない >>487
その元が、倭国(阿波)の美馬だ。 @阿波 >>486
じゃあ九州から瀬戸内を海路で行けばいい 『三国志』
魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝
烏丸,鮮卑,夫餘,高句麗,東沃沮,挹婁,濊,韓,倭人
『後漢書』
巻八十五 東夷列伝第七十五
夫餘国,挹婁,高句驪,東沃沮,北沃沮,濊,三韓,倭
『宋書』
「列伝第五十七 夷蛮」南蛮諸国
高句驪国,百済国,倭国
『南斉書』東夷伝
「列伝第三十九 蛮東南夷」
高麗国(高句麗),加羅国,倭国
『魏書』東夷伝
列伝第八十八
高句麗,百済国,勿吉国,失韋国,豆莫婁国,地豆于国,庫莫奚国,契丹国,烏洛侯国
(倭国がない!) >>491
なんで九州に上陸して歩いて九州を縦断して別の船で瀬戸内海を行くんだよ
そのまま乗ってきた船で瀬戸内海に行けばいいじゃん 伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたらしい
夜の食国を治めたのは月夜見と日本書紀にあるのも何か関係しているのかもな
夜というのも重要なキーワードかもなぁ >>492
なんせ先進文化の「阿波」だからな。 大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群 など争乱の舞台だ。 @阿波 魏使が伊都国に用事があるのなら末廬国で下船せず伊都国まで船で行き
そこで用事を済ませばまた同じ船に乗船して大阪を目指すはず、
それもせず奴国、不弥国と歩き回ったと言う事は邪馬台国が
北部九州にあったからにほかならない >>494
瀬戸内海は岩だらけで船で行くのは難しい >>497
北部九州なら水行が説明がつかない
水行として有明海を渡ると思って間違いない 残念ながら邪馬台国は奈良にあった
日本に残る記録の全てが奈良を示している
普通に考えてどっちが信頼できるか?
実際に現地調査が行われた形跡のない魏のきろくより現地の日本の伝承の方が信用できる
細部において矛盾が少ない >>498
今だって大型船が行き来してんじゃん
それより日本海を北上して兵庫くらいに上陸した方が合理的 >>497
だから奴国も不弥国も行ってないのよ
邪馬台国への行程は(帯方郡)?→投馬国→邪馬台国だけ
入国管理局の伊都国には寄ったかもしれない >>495
伊勢遺跡は不思議な遺跡で
ここが邪馬台国でも良いと思うぐらい
格好いい
桃の種が出ていないなど鬼道を暗示させるようなものはないが
伊勢神宮と同じ造りというのは
興味深い >>67
4世紀半ごろの入れ墨埴輪、奈良にも出土
6世紀まではないという
通説が崩れる。
東海、筑後平野、熊本、宮崎にも出土
何故かト骨も含め、糸島市や博多湾岸からはでていないと思う。 水行の部分は原本を清書した時に間違えて他の所を挿入したと考えられる >>505
なんで4世紀なんだ?
邪馬台国は3世紀の初めなのにw >>499
近畿説もそう思う。
佐賀、筑後平野に卑弥呼がいる。 さっきまで阿波の争乱、他国は関係ないというてたのが
「吉野川流域の集落国家群と戦争」とかいいだすか
自分の云ったことを3分で忘れるなよ
おじいちゃん夕飯はさっき食べたでしょ もう忘れたのw >>507
途中乗り換えるのはアリだな
だけど九州に上陸して佐賀県ー福岡県ー大分県を徒歩で行くのは納得いかない
疲れるじゃん
大陸から来た大型船で豊後水道の周辺のある地点に行って、そこから小さな船に乗り換えて瀬戸内海を渡るのは合理的だと思うが、そんな記述はない >>508
4世紀以前に
入墨があったとさされる。
物証がないからだな。
最古級を掲載。 瀬戸内海を通ろうが日本海を通ろうがそんな事はどうでも良い事
要は九州から本州に行ったかどうかだけ 日本海経由か瀬戸内海経由か@阿呆の考えを聞きたいw >>511
アホは引っ込んでろ。 邪魔だ。 @阿波 >>497
伊都国には中国船が入港出来る様な港が無かったから
末盧国の呼子付近に上陸したんだよ
目的地が伊都国だったから末盧国で下船したんだ。 >>507
3世紀の瀬戸内海は今よりもっと水位が上昇してたでしょ >>512
伊都国に直接来たでしょう
じゃあ何故伊都国から歩いたんだって話しだけどこれは説明出来ない
ただ水行より早く着く陸行1月の場所は無いから敢えて歩いたとしか言いようが無い >>509
4世紀半に作られた埴輪がなんなの?
邪馬台国は3世紀半頃の話はなのにw >>515
末盧国で下船してるんだから伊都国が最終目的地
九州から本州には行ってないね。 >>503
魏の使いがたどり着いたのが邪馬台国だったと言うだけで、他にデカイ集落が有ってもおかしくないからな。 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国だ。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」 >>486
古代にも引っ越しや、派遣会社はあったのだよw >鉄器があるとなんで内乱になるんや?
そりゃ、古今東西 、最新最強の武器を手にしたら、戦争したくなるもんだ。 @阿波 船の座礁は夜中の出来事、魏使の船は昼間だけしか動いていないので
座礁する訳が無い >>515
近畿じゃないんだよ
何も知識が無くても途中までは船とかで楽をする
徒歩で行くのは最短距離
当時はクニが統一されておらず周辺に敵対諸国がある中で貢ぎ物を持って歩くのは自殺行為
山賊も多くいただろうにな >>522
水行はいいとして陸行1月が1日の間違いなんだよ どの説が正しいかは、アメ横の由来を証明した者に与えるって事で。 >>522
7000里が水行20日(帯方郡から狗奴国=帯方郡から投馬国)
4400里に水行10日(狗奴国から末盧国)
600里に陸行1日(末盧国から伊都国、奴国) >>522
追記
邪馬台国が来た船で近くまで合理的に行けない場所にあったからだよ >>528
そのレスは10分前にしたでしょ
もう忘れたのおじいちゃん
おむつはさっき変えたでしょw >>531
3世紀の日本に陸行1月も出来道路は整備されてないから
陸行1月は1日の間違いだよな。 >>535
>鉄器があるとなんで内乱になるんや?
そりゃ、古今東西 、最新最強の武器を手にしたら、戦争したくなるもんだ。 @阿波 >>519
お前のような知ったかバカがいるだろうと思っていた
伊都国には上陸出来る港は無いが志摩国(糸島の島の部分)には岐志港が
ありここは姫島フェリーの港になっている >>530
敢えて理由を考えると瀬戸内海は座礁の危険があるし
海域を熟知した地元の海賊も居るだろうし難しい
それと伊都国の場所が小倉辺りかも知れない
そうなると陸行1月の中に水行1日は書かないでしょ >>500
反対だろ
3世紀の日本の記録は無い
日本の500年後に書かれた資料とか信用できない
張政等は実際に日本に来ており魏志倭人伝はその直後に書かれている。 >>539
座礁の心配があっても船を乗り換えれば良いだけ
古代人は馬鹿じゃない
貢ぎ物を持って徒歩で行くのは可能な限り最小限
当然邪馬台国側からの大陸への貢ぎ物もあるんだぜ? 桃のタネって( ´,_ゝ`)プッ
桃が日本に入って来たのは縄文時代なのにw >>464
これで問題になるのが広開土王碑
任那じゃないでしょう? >>541
小さいと安全て訳でも無いからな
貴重な物を積んでるし銅鏡は重いし >>539
魏志倭人伝には倭国は道が整備されていず
獣道みたいな道路事情だったと書かれているから
九州から周防に再上陸して、陸路を畿内に歩いていったら
1月どころか1年はかかる道のりだろう
古代はもちろんのこと近世でも長旅の主要な移動手段は船だぞ どんなに混乱した時代であっても、漢王朝を経てきた中国が遠いローマ帝国ならともかく目の前の島国の位置をわざわざ誇張したり距離の単位変えて曖昧に取れる記述するわけないし、そんなことすれば注釈でツッコミ入れまくられるレベル
あくまで魏志にある他地域を紹介している条の距離単位に従って倭人伝でも距離が算出されるべきだし、その結果日本に比定できないんならそれは日本じゃないどこかを説明してる文章だと判断すべき
こういうのって基本的に当時の人間を下に見て行われてる議論だし、魏志倭人伝が今の日本を示していないという前提で研究している事例が全然表に出てこないのが本当に寂しい話 >>538
岐志港は堤防とかが作られたから港として機能してる
3世紀だと船を長期間係留するには不安があるな。 >>541
ブラタモリの「能島編」見てないのか? 弥生時代に、よそ者の瀬戸内海「通し航行」は絶対無理。 @阿波 >>547
人の移動はあっただろうしそこまで酷いとは思わんけどな
ただ末盧国は王も長官も次官も居ないのに何しに行くんだ? 呉への後ろ備えとして牽制するために陳寿が魏の命で女王国とその先を
いかにも警戒すべき国として大きく見せるために盛ったんだな
実測した地域以外はそもそも架空なんだから最初から信用できるわけがない 何故か古事記にはその桃を投げた話まであるから。桃には邪鬼を祓うと言われる。 >>546
よくよく考えたら当時の大型船といっても今から見たら中小の部類に入るのでは?
木造だから鉄製と違って水に浮くからそんなに座礁の心配はしなくても良いはず >>547
道路も整備されて無いのに1月も陸行は不自然だよな
船で直近の港まで行って、港から目的地まで行くのが普通だよな。は >>526
南宋から沢山日本へ逃げてきても
中国語みたいに閉音節沢山になることは無かったんだね。 だからさ、魏志倭人伝ってのが
フィクションで小説なわけよ
それを歴史の正史にしてる時点で違い
んで今の学者がやってることは
漫画の考察と同じ事やってるんだよ >>556
桃太郎の伝説も
もともとは川を流れてきた桃を食べた
爺さんと婆さんが若返って、セックスしまくった結果
産まれたのが桃太郎という話だったのが
明治時代以前の本当の伝説だったそうだから
古代中国から桃は若返りの薬、みたいな認識があったんだよな >>508
佐賀平野、筑後平野の
ト骨出土の遺跡は卑弥呼の時代と
重なる >>553
見てない
何故無理なの?
もし瀬戸内海が座礁するなら、おそらく通行時に邪馬台国側からの水先案内人が乗り込んだはず >>554
中国の大型船を長期間停泊させる港が末盧国に在ったから
呼子付近に停泊させたんだ。 >>565
「瀬戸内海を通し航行できるようになったのは、五世紀 雄略天皇の時期」
瀬戸内海は、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所。
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと、瀬戸内海は通し航行できなかった。
瀬戸内海沿岸諸国を制圧・統制する体制が整い、そういった潮待ち設備が整ったのは、五世紀頃の雄略朝を待たなければならなかった。
長野正孝著 『古代史の謎は「海路」で解ける』 参照
よって、まだ瀬戸内海一帯海域の制海権を握っていなかった卑弥呼時代には、瀬戸内海を安全・安心に航行出来なかった。 @阿波 >>566
俺は伊都国に直接行ったと思ってるから
なんで毎回あの行程で行かなきゃならんのよ >>548
安徳台は安徳天皇の住まいがあった場所でしょ。 >>563
だから瀬戸内海は通っていないんだよ
途中乗り換えても行っていない
そんなに座礁するなら何かしらの記述があるはず >>568
伊都国には天然の良港が無かったからでしょ
3世紀だと港も整備されてない。 瀬戸内海航行の難しさを考えたら
余計に畿内説は空虚な妄想に思えるな >>203
近畿の国が最初に日本って名乗ったんだし素直に近畿は今の日本に連なる国で邪馬台国は滅ぼされた国って認めれば良くない?と思っている<畿内説 >>549
三韓が方四千里と書かれてる時点で空しい抗弁 >>570
だから瀬戸内海には行ってない
伊都国から歩いた 魏はもっともらしく取り繕うために陳寿を派遣し
習慣習俗の調査と倭国渡航の実績のために来日したに過ぎないんだよ
実際に北九州から一歩も進んでない >>571
伊都国の場所を特定出来ない
おそらく博多近辺だと思うけどわからん 東大寺山古墳(奈良・天理市)から出土した鉄刀は倭国大乱の収束を祝う文字が書いてあるらしい
wikiより
「中平」銘刀
刀身の棟の部分に24文字を金象嵌で表した長さ110センチメートルの鉄刀1口が出土した。鉄刀 の刀身の銘文は「吉祥句」を用い、
「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」
と記されていた。内容は「中平□年五月丙午の日、銘文を入れた刀を造った。よく鍛えられた刀で あるから、天上では神の御意に叶い、
下界では禍を避けることができる」という意味である。
中平とは後漢の霊帝の年号で、184~189年を指し、「倭国乱」(『魏志』倭人伝)「倭国大乱」(宋 書)が終結した時期、2世紀の末である。 中平銘紀年刀は「倭国乱」終結後、後漢王朝から下賜されたものであると考えられている。この 鉄刀がいつどこで入手され、本古墳に副葬 されたのかは分からない。しかし、この地の人たちが中国の後漢と通交があったのではなかろう かと考えることができる。
鉄刀に着けられていた環頭は鳥文飾りであり、刀身は内反りしていて、日本の前期古墳に特有 の直刀とは違い、中平の年号が示すように 中国(後漢)製である。中国製の刀身に日本で改造し、日本式の環頭を付したものと推定されて いる。 >>577
帯方郡から水行20日で投馬国(任那)
投馬国から水行10日で九州(伊都国)
九州から陸行1月で大阪 >>540
そもそも中国は北方の騎馬民族を嫌っていた
襲撃されてたから
だから邪馬台国なんて呼ばせたのも理由なのかもしれない >>579
後漢から下賜されたとかどっから出てきたんだろう >>572
そうでもないよ
吉備の上東遺跡には波止場が建設されているので
瀬戸内の海上交通はこの時代かなりやってたんだろうと思うけど 大和商工の、芦田と、人事部の石田は一心同体。芦田が医誠会を操っているから >>544
これ、なんだろなあ、みたいな
そんな國はないw
大師諱審希俗姓新金氏其先任那王族草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖興武大王鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室▨▨終平二敵永安兎郡之人克奉三朝遐撫辰韓之俗
— 金泰植 ; 李益柱 共編、(譯註)韓國古代 金石文 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、
鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>549
せっかくID変えても句読点とスペース空けでいつもの畿内説キチガイ信者の爺さんなのがわかるのがこいつの凄いとこなんだよなw
中国人の古代学者ですら古文の数字はあてにならないと理解してるのにこの石頭の爺さんは何回も同じこと書いてるしw >>586
学会では、
田中俊明や熊谷公男は「金官」の名は『日本書紀』継体天皇23年4月条にこの国を構成する4つの邑の1つとして登場することから、「金官」の国名を首邑のあった邑名に由来すると説き、本来は「任那」と称される邑に首邑があったが、400年の高句麗の侵攻によって本来の首邑「任那」を失って金官に首邑を移したために国名も「金官」と変更されたが、日本側では引き続き旧称の「任那」が用いられたとする説を唱えている。 俺も当時瀬戸内海を交易で使ってなかったとは思わない
ただ何積んでるかに依るな
極端な話し人だけなら座礁しても泳げば良いんだし >>575
伊都國からどうやって奈良まで歩いて行けるの?
お前本当に日本人か?w 久留米は「軽」じゃないかな。
根拠はないけど、音が近いのは久留米くらいしか見当たらない。
「刈」の付く地名も「軽」の候補ではあるが。 >>594
陸行1月だから
大阪辺りが丁度良いんじゃないか >>574
そもそも「韓」が朝鮮半島南部を指してるってのは確証取れてるの?
同資料で他に「方◯◯里」って言ってる場合はどういう数量を示してるの?
船で朝鮮や日本方面に向かったのは国の使者だけじゃなく沿岸の漁民や
交易してる人間も山ほどいただろう
そんな状況で朝鮮や日本を示す情報がそんな適当な記述になるわけない
それこそ多くの知識人が校正やってる時に誰かが指摘できるような事柄
もっと遥か遠い、空想の国を記述してるって考える方がまだ自然 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、
鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>594
おそらくID:2ENemNEd0は弥生時代には
すでに関門橋がかかっていたという前提なんだな
弥生時代に関門橋がかかってないと破綻するのが
畿内説w >>596
九州と本州の間に海があるのにどうやって歩くんだキチガイ?w
お前日本人か? >>600
逆に中国では黄河や長江渡るときに水行扱いしてんの? 10年もかけて証拠の無いお花畑妄想文を書き上げたのか
もう文系に税金使わなくて良いんじゃね?金の無駄やろ >>599
陸行1月の中の関門海峡を渡る水行3時間は書かないでしょ >>599
そっか
畿内説のアホはその時代から関門海峡があると思ってるキチガイなんだな
やっぱり畿内説信者は生粋のキチガイなんだなwww 478年の倭王武の上表文
「任那・加羅・秦韓・慕韓」
じゃ、これは?二回加羅出てくるの?
おかしいだろw まあ、とっくに九州確定の証拠は有るんだろうな。ただ、論争込みで謎めかしたほうが仕事として成り立つし、真相解明されると大した話しじゃないから、グダグダやり続けるわけだ。 >>587
阿波国が邪馬台国と交易をしていた跡だな
朱と鉄を邪馬台国に贈り、祭祀用の銅剣でももらってるだろう >>90
呉越戦争で負けて逃げてきても犯罪者なのか?
意味不明やな 門司から畿内まで陸路1ヵ月で到着するのは不可能だよ
今のようなアスファルトの道路じゃないんだぞ
倭国は道が整備されておらず獣道だと魏志倭人伝に書かれているだろ?
忍者なら可能だろうが、役人やら荷物をたくさん運んでいるキャラバンなら絶対にむりw 俺は平安時代に一般的になった任那表記を使って改竄した証拠だとw
考えるが! >>610
キチガイよ
まずお前福岡の糸島がどこにあるのか分かってるのか?w
話しはそれからだな
はよググれジジイ >>612
祭祀用の銅剣も、「阿波」だ。 わははははは @阿波 >>614
引きこもり無職だから糸島から大阪まで歩いて一ヶ月で行けると思ってるだよそいつw
もう情けないよ畿内説信者は。。。 関門海峡って対岸が目の前だよ、古代人でも小舟で渡れる
古代の住民は九州と本州の全体図なんて分かってないから、全く同じ地域として考えてたはずだ >>616
糸島なあ
あそこ墓だけで大した遺跡が出てこないのよな
まだ埋まってるかも知れんけど >>619
渡れるって言っても特別な理由が無い限り集団で渡らんくない? 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。 @阿波 大陸(古代中国)の脅威を感じたある倭人種の一派(A)が、要塞状の地形を求めて別の場所から遠く奈良へ都を作るために行軍した
近畿一帯には銅鐸を信仰する倭人種(B)が元々いたが、両者代表同士の決闘、
その後の話し合いで諏訪地方(長野県)へ移住させられている(国譲り神話)
倭人種Aは何故そこまで古代中国を恐れ奈良に引っこんだのか?どこから来たのか?
そして北部九州と同じ地名を奈良にも作った意図は? >>624
要らん。 貧乏国からは貰えん。 わははははは @阿波 >>625
そんなにかかるの?
じゃあ大阪じゃ無いかもな 何で九州の畑から金印が見つかったの?
本州に邪馬台国があったんなら、そこから何らかの理由で持ち出された金印が遠く離れた場所に埋められたってことになる
反乱でも起きたの?追われたの?逃げたの?死ぬ前に土に埋めて隠したの? >>578
伊都国の場所は現在の糸島市南東部だよ
末盧国(呼子付近)へ上陸
東松浦半島を南下して唐津市街地から東へ500里(1里80mとして40km)だからな 志賀島の金印は後漢に朝貢した奴国王で卑弥呼の金印は見つかっていない 大仏つくるとき、そういうのとかしちゃったって記録あるよね。 https://dotup.org/uploda/dotup.org2715061.jpg
裴世清は筑紫から難波津まで500kmほどに約2ヶ月かかってる
ちなみに紀貫之は土佐から和泉の灘まで250kmほどに39日かかってる >>629
北九州は交易都市だったからでしょ
例えばタイの南部からは漢字が書かれた小判とか出てくるんだよ、でもそこに大きな都市が
あったわけではない。旅の中継都市だったからいろいろ埋まってたりする
出てくる理由は、船が台風に逢ったり、盗賊に襲われて急いで隠したり、商人の蔵が忘れられたり、いろいろだろうね >>552
それでは糸島半島の東側の今津湾で良いだろう、呼子よりも遙かにマシだぞww >>635
わかったわかった
となると岡山辺りか・・・まさか阿波・・・ >>629
奴国が福岡にあったから金印が見つかっただけ >>638
素直に南に陸路行けばいいじゃないか?w
東に500Kmで2ヵ月なら
南に250Kmで1ヵ月だろ
今測ってみたら北九州から直線距離で
鹿児島市まで255Kmだった
ということは道なりで250Km南行して
邪馬台国は九州内のどこかにあったということになる
当時の獣道なら九州内でも陸行すれば1ヵ月かかるんだよ >>640
確かに宮崎でも良いか
でも陳寿の勘違い説が根底から崩れる恐れがあるからもうちょい考えるわ 特急黒潮で鹿児島から紀伊半島まで10日やね
1日に150km進む 筑紫の君、磐井とかいたっけ
三韓征伐とかで補給基地だったらしいが
興味あるから読んでみるか 何時までこんな下らん論争するんだよ
魏志倭人伝の記述から言って
邪馬台国はフィリピンかインドネシアで
結論が出ている
当時の日本列島にはまだ文明なんか無くて
縄文人とか弥生人とかが猿と変わらん
暮らしをしていたんだ 邪馬台国=琉球唱える人もいるくらいだから。考え方や妄想は人それぞれ。非難すべきでは無い。天皇家と邪馬台国を結んで考える人もいるし。全く別の存在と考えるかでも的は変わる。まさに歴史は浪漫。古代中国の人が「蓬莱山」と呼んだ山が具体的どの山なのか知りたい。 >>644
磐井は大和政権への抵抗者みたいに言われてるけど
岩戸山古墳は畿内発祥の前方後円墳だし大和政権の統治機能に組み込まれてたんだろうな
たんなる内輪揉めな気がする 倭の女王卑弥呼なのに
邪馬台国の女王卑弥呼だと思ってるヤツ多いよな
邪馬台国あった場所と、
卑弥呼がいた倭の中央は別の場所だっての 中国人が日本の事を書いてるんだし勘違いは納得出来るけど
書き間違いは中国人も日本人も関係ないしあり得るとは言え抵抗はあるな >>638
吉備も弥生時代は大きな勢力持ってたなそういや 穂積臣押山は〈継体六年〉に哆唎国守として登場した。 このときは、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を百済に与えることに一役を買っている。 アルタイ在住のしょくんは三密を避け、不要不急の外出を控え、オウチーノで穂積陳重せんせいの法窓夜話・続法窓夜話を読むことをお薦めするよ。すでに多くの読者に支持されている古典的名著だ。 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。 @阿波 >>317
日本が当時から実在した確たる証拠が欲しいんじゃね? >西日本全体を巻き込んだ争乱であることを示す文は見当たらない
鉄器王国「阿波」での争乱だ。 鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 船で長崎に着いて東の福岡(伊都、奴)に向かって歩いて
不弥(場所不明)ってところでまで行って船に乗って20日かけて投馬(場所不明)を経由してさらに船で10日かけてたどり着いた所から1ヶ月歩けばそこは邪馬台国
ばんざーい >>39
>倭人の国の様子なのだから
>決め手にはならないな。
魏の使いは倭の地方なんて見ていない(対馬壱岐は通過したから例外)。
つまり書かれているのは都の様子。
そもそも畿内までの道のりも描かれていないし、畿内に鉄や絹がないからといって、見苦しい言い訳だ。 >>43
>邪馬台は、どう読んでも、ヤマトだろうにwwwwwwwwwwwwwwww
筑後ヤマトで決まりか? >>56
桃は魏志倭人伝に書いてないから根拠にならない。
鉄とか絹とか柑橘類に楠だっけ? いい加減、畿内説をフィクション以外で唱える奴には何か罰則が必要だと思う
そんな妄想説ぶち上げたいならなろうのラノベにでも書いてろ、と >>648
磐井は新羅に買収されて寝返ったから討たれた
筑紫君磐井の名前の示す通り、磐井は「君」の姓をヤマト王権から貰ってる >>662
「丹」が抜けてるぞ。 わざとか? わははははは @阿波 邪馬台国畿内説を信じるアホは
オオモノヌシの存在を知らないんだよ
きっと三輪山はラピュタだと思ってるんだ >>100
>結局、107年の時点で、
>奴国との戦いを征した国は、
>北部九州にしかない。
三種の神器が出る王墓が糸島平野側に移動しているから、伊都国に王権が移動したことは明らか。 >>667
文章だけで割り出すのは無理だろうね
親魏倭王の金印か部下の貰った銀印が出てくれば、大体収束するのにね >>666
邪馬台国九州説を信じてる専門家なんてもっといないんじゃないの 国産最古の梵鐘は福岡市の糟屋と太宰府市の観世音寺の鐘が兄弟鐘にあたるらしい >>647
阿蘇山なんじゃないのかな?
徐福伝説は佐賀県だが、何故か太平洋側にもあるね
阿蘇山まで来て、太平洋回りで東まで向かったのかな?
>>579
東大寺山古墳は4世紀なのに、何故か2世紀の後漢からの鉄剣があった
しかもボロボロ
何故鉄剣なのか?後漢の誰から下賜されたのか?
三角縁神獣鏡といい、どうにもヤマト王権は中国の偽物を作って
何かを隠す偽装があったように感じる
この鉄剣も日本で作った偽物じゃないのかな >>629
元は糸島半島の神社に祭られていたけど盗まれてなぜか江戸時代に志賀島で見つかった
この辺りの経緯は察するしかないけどね
個人的には当時の研究者が手に入れて志賀島で見つかった事にしたんじゃないかと思う
普通に考えると糸島半島で金印が発見されて近くの神社に奉納されたと考えるのが普通 >>673
>この鉄剣も日本で作った偽物じゃないのかな
鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 >>673
前にニュースか何かで日本でコピーを作って配ったんじゃないか?と言う説を見た気がする >>678
鉄器を作っていない地域は関係ないから。 @阿波 製鉄は赤井手遺跡と博多遺跡群、壱岐のカラカミ遺跡が最も古いらしい >>673徐福伝説なら日本中にありますね。大陸から日本に来る時、何を目印に来たのかしら?山だよね? >>669
九州限定もできないわけだな。
近畿に鉄はあるのだがな
見苦しい言い訳だ。 九州にあったのは伊都国や奴国だね
伊都国には一大卒があって邪馬台国の監視を受けていたと魏志倭人伝にある
邪馬台国は畿内の大和国のこと 「筑紫けんです。英語で自己紹介するとマイネームイズ けんちくしです。」 >>681
時代は違うけどカッコ良く言うと「日の出る国」とかじゃない? >>681
楊貴妃もイエスキリストも日本に来た伝説があるな >>683
魏志倭人伝に書かれてる内容の信憑性も微妙だからね
金印がどこで出てくるか?
これでしか収まらんと思うよ >>689
楊貴妃は墓があるから・・・掘り起こすの? 古の昔にどのような勢力が日本に来、影響を与えたとしても、最終勝者はヤマトの王
つまり、皇室なのです
邪(よこしま)な気をおこしなさんな >>690
出ても決まらんだろうな。
魏志倭人伝どうりでないとね
殉教者100人あって未発掘がベスト。
まあ当時のまま残っているかは
わからん >>684
近畿説だけど ないよ
支配などまだ先の話 伝承墓なら日本中にあるよ。鹿児島には秀頼と幸村の墓と伝承されてる墓があるし だいたい王墓から三種の神器が出てきたらいかんでしょ
代々正統な王権の証として継承される物が
古代は継承の度に新たに造り変えてたのかな(ありえる) >>699
三種の神器は今でこそ皇位の象徴だけど昔からそうだとは限らない
例えば八咫の鏡なんて古墳からも出てる大型内行花文鏡がそうだという説がある 「記紀」の記述通り、筑紫の日向峠近くの遺跡だから同じようなものが出てきてもおかしくないでしょ
本物は東征の時に神武様が持っていかれました >>674
あんなあ、志賀島には安曇族の氏神が祀られた、
志賀海神社があるの。
奴国を構成していた安曇族の
氏神が祀られている志賀海神社のある
志賀島から奴国王の金印が出るのは必然である。
よく覚えておきなさい。 九州から瀬戸内海沿岸に連なり近畿に跨がる国って事はないの? >>706
ある 阿波だ というキチガイが出てくるぞw 九州なら往復するのに時間かからなさ過ぎるよねー
ひと月ぐらいか? >>689
キリストが来てるはずはないけど、ヘブライ人は確実に来てるわな 「邪馬台国はどこにあったのか?」
世界三大どうでもいいの一つ 邪馬台国は伊都国っしょ
糸島周辺こそ邪馬台国の場所 >>713
もうすぐ世の中平和になるから、これぐらいしか悩みがなくなると思うよ 現在は邪馬台国畿内説に落ち着いてしまって
邪馬台国所在地論争よりも卑弥呼と天皇の関係の論争のほうが熱い >>717
今や畿内説は
こんな言ったもん勝ちのどこかの国の勝利宣言みたいな馬鹿しか残っていない
惨憺たる有様仁成り果てたなw >>690
いや、魏志倭人伝読めば、金印が何処から出るか分からないと分るw
魏志を注意深く読めば、漢の時代は、配下の奴国を使い朝貢してた九州邪馬台が列島の覇権国だったと判るが、漢末の倭国大乱で謎の勢力「大倭(ダイワ)」に敗れ、覇権放棄の証に女王が即位。大倭が博多港とその周辺を支配し、今度は邪馬台の名で魏に朝貢している。この大倭とは奈良のことだわな?
問題は、大倭は港入口の伊都国に代官「一大率」をおいて、魏の遣いをそこで完全ブロック!奴国や女王国から完全に遮断している。
そんな状況なので、金印が九州から出ても奈良から出てもおかしくない。
ま、伊都国で見つかる可能性が高いかな。地政学から自明の邪馬台後期の中心地・大宰府か、同じく自明の邪馬台の古都・日田という可能性も。 >>695
>>696
魏志倭人伝にそう書いてあるよ
魏志倭人伝九州は伊都国や奴国と書いてあるのを無視しないと成り立たない九州説 >>722
伊都国や奴国はもちろん九州だけれど
否定されているのは、お前がいっている
畿内ヤマト政権が一大卒を置いて伊都国を監視しているってところだろ
馬鹿かな?こいつw >>723
一大卒が置かれて邪馬台国に監視されていたと書かれてる九州説が何か言ってるよ >>725
へえ
それじゃあ魏志倭人伝には何と書かれているのかな 歴史に残るんですよ、陳寿が書いた、曹叡の卑弥呼への言葉わ。親魏を与えられる理由わ? >>140
卑弥呼の予言能力は本物だったってことだろ
血の繋がらない養女が後を継いだがまるで能力なく信用を落とし邪馬台国は一気に崩壊する >>726
だから邪馬台国が一大卒を置いていた
そう書かれているが
邪馬台国が畿内にあったとは書かれていないだろ
馬鹿かな?お前はw もう東遷説でいいだろ
九州派と畿内派の両方の顔を立てて >>718
実際にそうなんだから仕方がない
畿内説内の論争は学者さんたちが喧々諤々やっても
九州説は俺たちの心の中にあるんだからいいじゃないか >>727
マヌケw
邪馬台国が一大卒を置いていたが
その邪馬台国が畿内にあったとは書いてないと
言っているんだろ
理解力のない低知能だな、お前は >>714
そもそも当時ならなるべく船で行ってどうしても船で行けない場所だけ歩くもんだろうし
最寄りの海岸線から1ヶ月も歩くような場所は北海道でもなければ存在しないのでは >>734
邪馬台国が九州にあったとも書いてないだろ
むしろ九州は伊都国や奴国で邪馬台国に一大卒が置かれて監視されていたと書かれてる
これは九州に邪馬台国がなかった証拠 地理的にも考古学的にも日本は呉とつながり深いのになぜ魏なんだというのは引っかかるな
近攻遠交、敵の敵は味方理論で呉とつるんだ倭国のどこかに対抗するためか >>736
何言ってんだよ馬鹿w
邪馬台国が九州の南部にあれば
北部の伊都国を監視するための出先機関をつくるのは当たり前だろ
畿内から軽装の人間でも陸路で2ヵ月以上かかる畿内が
九州に出先機関を置いて監視するという前提のほうが非現実的だろ
そんなもの全然機能しないからw
現代のような通信設備や自動車があって何かあれば即応体制で軍を派遣できるならまだしも
軽装の人間でも2ヵ月以上かかる道のりを報告の使者がやってくる日数と
軍勢を送る日数を考えたら全然機能しないとなぜ理解できない?
この低知能はw
豊臣政権でさえそんな機関じゃ統治不可能だからこそ
地方、地方に政権に忠実な大名を置いて統治をしていたんだぞ
古代に監視機関を置いてもそんな遠く離れた地を統治するなんて不可能wwww 三国志には記載ないけど
狗奴国の鉄の入手先が呉
供給できなくなったのか?
呉の年号入り鏡もある。 >>738
魏志倭人伝には邪馬台国は九州から水行30日陸行1月と書いてるけれど
つまりそれだけ九州から離れた所にあるんだよ 博多湾周辺は今も昔も外交と交易の拠点であり、都になったことは一度も無い
ヤマト王権の都が大阪や奈良に完成するまでの監視役にしかすぎない
畿内に都を定めた後は、畿内ヤマトに反抗する勢力を征伐 この作業にはかなり時間を要した(いわゆる失われた世紀) >>722
魏志倭人伝のどこに邪馬台国は畿内にあったと書いてあんの? >>738
現実をみないとな。
肝心の大陸からの交易の流れが、北部九州から南ではなく東側の瀬戸内海、畿内方面へ向いてるからな。
間違いなく邪馬台国は畿内にある、鏡が証明している。
それが邪馬台国が九州の南側にない証拠だよ。 >>740
九州北部からだろw
上のほうで九州北部から東に移動した
隋の裴世清が大阪までの500キロメートルを二カ月かかったという書き込みがあるので
九州北部から鹿児島市まで直線距離でさえ255キロがあるんだから
北部から九州の中部南部までは余裕で1ヵ月かかっても全然不思議じゃないという結論が出ている >>739
呉書孫権伝って邪馬台国では無い倭の国を連想させられる記述があるよね
山梨県で呉の年号が入った銅鏡が出るのも独自の倭の国とのルートを持っていたのかもしれない
呉の位置からは黒潮に乗って一気に東海、関東はては東北まで行けそうだからなあ >>742
隋書倭国伝には、魏志倭人伝にある邪馬台国とはヤマトの事と記述してるよ。 方角ねぇ
魏の使節にわざわざ我が国の中枢部への道のりを教えるはずないでしょうw
その行為は地形を知らない外国に、地図を渡すようなものだよ >>746
旧唐書では
日本は倭国の別種なり
日本はもともとは小さな国だったが倭国を併合したとも
どうも日本人のいうことは信用できないとも書いているなw
つまり当の大和朝廷が送った使節の日本人がヤマト王朝はもともとは小さい国だったけれど
倭国併合して多きなったんですよと言っていたことが伺える
邪馬台国とは倭国連合の盟主的な国が
倭国とは別種とか、倭国を併合して大きくなったとか評されるか?
まず畿内のヤマト政権は2世紀から3世紀にあった魏志倭人伝の中にでてくる
邪馬台国とは別の国だ あと丹山の存在もな。
丹なんて当時は中国でも今の金以上に超貴重品なんだから、正確な位置を教える訳にはいかない。 国体の基盤が完成し 「倭なんてカッコ悪い名前すてようぜ」
その後日本に改める
以上 >>749
そりゃ奈良時代以降だと色んな人種が畿内にも来たからに他ならないからだよ。
平城京にはハシヒトも居た事が明記されてるしな、秦氏が沢山連れてきている。
邪馬台国とは畿内ヤマト地方の事で全く問題がない。 邪馬台国はヤマト政権の中枢の奈良
狗奴国は奈良を含めた畿内にあった芦原中津国の生き残りで大和川の南の河内和泉
邪馬台国と狗奴国は裏表
裏が表に表が裏に
倭国大乱から600年紆余曲折を経て倭国大乱前のありようヤマト政権の前のありようを不十分な形だが取り戻し平安が訪れたということやね ハシヒトとはパールシーから来た名前だからな。そりゃ倭人とは別種に見られる。
聖徳太子の母親が間人(ハシヒト)皇后で、まあハーフかクォーターの可能性は高いだろう。
厩戸皇子の生誕逸話を見ても、景教の影響下にあるからな。
法隆寺のある斑鳩、山背は秦氏の基盤で、つまり矢田丘陵地が日の本として見られてる訳だろう。 >>756
中国人の常識では
倭国とは九州地方のこと
ps://i.imgur.com/GoAgu0c.jpg 自民が創価と連立するワケ
自民党政府が公共事業を発注→創価学会系企業で中抜き→一般人が安価で労働
そして中抜きの一部が政治家へ戻り、選挙資金へ🤤
これが続くと、税金は上がり給料は減り続ける
そして自身は脱税🤗
オリンピック、事務手数料中抜きパソナも天理の談合太陽光も不正融資太陽光もアベノマスクも全て創価学会🤗🤗🤗🤗🤗🤗
https://i.imgur.com/CKSbaK2.jpg
https://i.imgur.com/LXhCYoD.jpg
https://i.imgur.com/2HGlNGd.jpg
https://i.imgur.com/PxDscc7.png
https://i.imgur.com/PTvFjP4.jpg つまり聖徳太子は日出処天子なんて自ら名乗っているのは、正に日の本を意味している。
だから倭国を小さな日本が併合したなんて書かれいるんだろう。 >>747
ちゃうちゃう
閔妃の生まれ変わりとでも言ってやれやw >>757
今の中国人なんて当時の人種とも違うだろう。
そもそも歴史教育をまともに発表出来る環境ではない、まして他国だぞw >>759
そんな事より日本の立場では朝貢なんて認める訳にいかないのよ >>754
邪馬台国がヤマト政権なら、なんで古事記・日本書紀に卑弥呼やら朝貢の話が出てこない? 四国邪馬台国は対岸の畿内と対峙
淡路島から攻め込まれないように岡山吉備と同盟し
畿内勢力の背後を突くために和歌山へ熊野大迂回し吉野を越えて攻め入った >>760
君とは話のレベルが違いすぎるからねw
漢民族の煬帝に、古い匈奴系の煽り文言をぶつけたのが聖徳太子。
まあこれは匈奴系のブレーンがいたからだが。
まあ小国日の本というのは倭人とは違う連中がいる、と認識しただけの話。 >>766
たしかにw
君は鍵のかかった病室に閉じ込められているべき人だと感じて仕方がないよw 金印は国内の勢力誇示のためではなく半島進出のためのものだと思うがな
三世紀から五世紀にかけて倭国の記述がなく残ってるのは五世紀以降の鉄剣と倭国が高句麗と戦った好太王碑のみ
当時の半島には交易拠点と鉄利権を確保する必要があったから
とすると邪馬台国は奈良を向いていたのではなく百済白羅への足掛かりのために任那建設に出向いたのかも
その覇道のためには金がいる
海人は日本各地に拠点を敷いて産物を供出した
その集合体が邪馬台国だとしたら
巻向が突然作られ発展した理由になるのかもな >>766
煬帝も漢民族じゃねーだろ。
匈奴とまではいかんがそっち系の人だったはず。 国産み神話が淡路島から始まって次が四国じゃん
邪馬台国の発祥は淡路島だよ
で四国征服して本拠地とし、
後背の山陰山陽九州を固めてから、
本州畿内に攻め込んだ >>767
まだまだ序ノ口で、もっと素人の君が驚くような話してやってもいいぞw >>744
九州は北部以外にはロクな遺跡がないね
つまり九州北部が7万戸と書かれる邪馬台国じゃないなら九州にはないとまで言える >>769
まあ意味が判るように文を贈ったんだよ。
倭とは別の小国という日本は矢田丘陵辺りに基盤がある秦氏の事だね。 >>764
日出処天子至書日没処天子無恙云々
当時の日本の基本姿勢がこれなのよ
朝貢なんて認められる訳が無い >>771
だからさあw
なんで日本は最初から統一国家が支配していたと思い込んでいるんだよw
国海神話はヤマト政権につながる神話であって
邪馬台国は別の神話があったはず、でも大和政権に滅ぼされたから
その神話は残っていない
出雲に畿内大和政権とは別の王権があったが
こっちは国譲り神話として大和政権の神話にもちょっと残った
最初のほう、弥生時代には日本を統一する国家がなくて
たくさんの国が並立していた
それはごく自然な考えだろ?
なんで最初からどこか一つの王権が日本全域を支配下に治めていたという前提で物事を考えるんだよ >>773
九州でも日向にだけは
畿内と同時期から前方後円墳がある
そして大和政権の始祖となる神武天皇の伝説では日向から東征したことになっている
ろくな遺跡がないというのは
お前がろくに何も知らないだけなのでは? 中国だって最初の夏王朝は小さい都市国家だったらしいし日本もそうだろうな >>757
驚くことにこの地図は明のころなんだよね
これより千年前以上も前の魏の使いが、正確に日本の位置や方角を測定できてた可能性は低い 九州北部(特に福岡)は漢に朝貢していたという飛んでもない売国”奴”だ
畿内ヤマトに征伐されるのは当然のことなのだよ >>775
でも実質朝貢じゃん。
遣隋使・遣唐使・日宋貿易・日明貿易。
すべて朝貢貿易なのに、すべて時の政権が歴史書に書いてる。
卑弥呼の「朝貢貿易」を古事記・日本書紀に書かない理由がない。
聖徳太子みたいに「魏と対等貿易したぜ」て書けばいいだけだぜ。 >>771
淡路が面白いのは神話の時代より阿波への道が淡路島の由来というところだよな
てことはどこから見て阿波への道が淡路島ということになるのか?
その場所が本来の拠点と考えるべきだろう >>777
九州と畿内を比べたら古墳の数や規模が全然違うよ
それに畿内には弥生時代から古墳時代前期の国内最大規模の集落遺跡
唐古鍵遺跡があるね 点と点の距離や方角がわかっても地図を描くのは難しい 倭国大乱の真相は芦原中津中津国平定の件の櫛八玉が料理をする話に矮小化されている
明治より前までは庶民にまで広く知られていたことだけど
簡単に言えば道祖神祭の話のプロットやね
長野の道祖神祭のストーリーは、
結びの神である醜い八衢彦と八衢姫が結ばれて男の子が生まれた。新しい宮を建てる。宮を守る人々が竹でしばかれて宮に火を入れ燃やす。
同じプロットの話が日本書紀の芦原中津国平定の件で出てくる。スズキは竹でしばかれてカミムスビの新宮が燃やされる話。
道祖神はヤマト政権の前の芦原中津国の支配者カミムスビかもしれない。
また延喜式の道饗祭には皇御孫之命の名は高天原で事を始めた八衢彦八衢姫クナトと書かれている。
出雲の伝承によればサルタヒコは出雲の姫神の幸神とクナトの神の子だという。
道に関する神さまとしては、黄泉に逃れたイザナミの別名道敷大神がいる。イザナミは火が原因で亡くなった神さま。
キーワードの道だが、道の枕詞は玉鉾の。
道に対する火という構図だが、延喜式の鎮火祭にはイザナミが下津国で生んだ水神・匏・川菜・埴山姫で火を鎮めなさいと書かれている。 >>783
畿内に当時日本列島の中で最大級の国があったとして
それが邪馬台国であるという証拠はなくない?
邪馬台国なんて卑弥呼か死んだらすぐ動乱が起きて数十年で音沙汰なくなった国じゃん 中華に対抗するには我が国の犠牲を最小限に
いつの時代もそれが博多湾の役割でしょう >>783
鍵唐古遺跡だけでなく、田原本辺りから橿原、桜井方面は弥生時代遺跡が連なっている状態だからね。
中世の集落遺跡の下に、弥生時代の遺跡がある所も。
また奈良盆地で一番低地にある縄文遺跡も、実は田原本町より標高の低い河合町辺りに存在する。 しゅ>>777日向だけじゃない。唐人大塚古墳群がある。 太陽祭祀が3世紀に突然巻向に起こった理由として、各地域の首長が集まり交易や情報交換するための会合システムを出雲のオオクニヌシから委譲させるために設置した、という見方はできるだろう
近江伊勢遺跡や出雲の神有月の伝承からも推察されるように畿内周辺では日本列島各地の代表が集まる拠点があった
これを利用すれば連合国家にとって都合が良く情報集積できるし、何よりも海人族の交易利権とも直接的な繋がりが持てる
銅鏡や古墳はその連合にとっての威信材として活用されたのだろう 近畿には弥生時代の遺跡はある
でも他にもあるような生活痕のある遺跡より伊勢遺跡と纏向遺跡は気にはなる
直接繋がってるのか未発見の遺跡がまだあるのか 寝る
コレクションのコンパクトを拝んでから(^.^) 魏志倭人伝に記載されたまず邪馬台国は
ヤマト国への当て字であり、やまたいではなくやまとと読むのが正しい
つぎに、ヤマトコクがあったのは九州でありもともとの首都は宮崎である。
そののち、日本全土を掌握するのに適した奈良にお引越ししたのである。
日本国とは、関東以北にアッ別の倭人の国であり。
後に大和国に吸収合併されるまで、唐に使節を出していた。
中国では、どちらが倭国なのかという論争があったが、合併されることでひとつの倭国となった。
そして小さな日本国の国名を名乗ることになった。
以上が、この国の本物の歴史である。 >>785
魏の時代はもちろんだが、中世になるまで中華は大地が球面とは思ってないからね、
平面のつもりで実際は球面を進んでるわけで、角度を変えると歪みが出る。
陸の移動なら、はみ出ることはないので困らないが、海を隔てて日本ぐらい遠くになると
位置がかなりズレてくるはずなんだよ 国津神に心服し芦原中津国に留まったアメノホヒ
アメノホヒの末裔土師氏の拠点は畿内
菅原道真のこの後裔やね
桓武天皇の母方祖母はもず腹の土師氏土師真妹
国津神の国芦原中津国のありように戻ったんじゃないのかな
本当の国譲りは母神であるカミムスビから父神であるクナトへ皇室へということかもね
京都の守り神祇園、大阪の守り神天神さん
射干玉ぬばたまはヒオウギの黒い種で黒の枕詞
京都の祇園祭や大阪の天神祭では、ヒオウギは床の間や軒先に飾る花として愛好されている
天神さんや祇園さんは東北の伝承に出てくる黒神のことかもねえ
東北の伝承
龍の黒神と鹿使いの赤神のアマテルを巡る争い
アマテルを手に入れた赤神は岩隠れをし、黒神は北に追いやられた >>795
正確な方角がわからなくても、
瀬戸内海なり中国地方を移動したことはわかる。
しかも九州北部よりながい距離を移動するのだから。
しかも奈良のどっかまで行くわけだろ。
その間の地名とかが魏志に載らないてのはおかしいわ。 阿部磐井は新羅と関係か。
倭国は玄界灘、壱岐、対馬、朝鮮半島、出雲、能登、高志の広域ネットワーク?
継体と利権の争いの希ガス。 最近の母系遺伝子の研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別されるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
大都市は混血
京都大阪が1番近いのは東北グループ
地理的に近い北関東や東京は東北グループから大きく離れている
母系で見ると畿内と東北は近縁なんだな 九州で出土した漢奴委国王の金印と卑弥呼の親魏倭王の金印は当時中華の権力推移によって半島方面への交易がままならなくなったことで交易権を更新させたという見方ができる
ということに思い至るとき邪馬台国は漢の時代の師升から引き継がれた王権である可能性は高い
畿内中心だとこの発想には至らないだろうしそもそも必要性が薄くなるよな >>96
最初から天皇として奈良を目指したなんていう内容は、
神武の子孫が奈良で大王になってから作り上げた後付け物語だろ。
やっていることだけを見れば
神武はその兄を首領とする倭寇の様な存在。
略奪行為や傭兵稼業で各地を荒しながら流れ流れて、
首領である兄を失っても後を継いで戦い続け、
最後は奈良に入ってせいぜい一部の領地の長になった。
そんな存在はごまんといたんだろ。
神武の子孫がその後繁栄したから取り上げられているだけだよ。 九州説は何となくの印象で語ってばかり
印象操作で人を騙そうとしているのが見え見え >>801
遠くて名前しか分からない国も記載されてるしその国の中に邪馬台国以上の国があった可能性は否定できない >>804
九州の奴国や伊都国は2万戸や1千戸と書いてあるから邪馬台国じゃないね >>804
仮に詳細がわからない国の中に邪馬台国以上の国があってもそれは邪馬台国ではないだろ 倭タケルは、能褒野で死んだのか、大野市の三重で死んだのか、だれか調べてくれ。 >>807
だから畿内にデカい国があったからってそれが邪馬台国とも言えないだろ >>803
>>805
そういう中身のない見せかけのレスが一番要らん 邪馬台国九州説の弱点は日本を支配するにはしょぼ過ぎる
一勢力という位置づけになってしまう 神功皇后が4世紀に攻めた三韓征伐とは半島国家への攻撃ではなく九州倭国によって拠点化された倭人の半島拠点への征伐ということなのではなかろうか
仲哀天皇が攻めた九州拠点にはすでに実体は無く、主力は半島の任那や百済に移っていたとすると仲哀亡き後の神功皇后が半島に攻め上るのに充分な理由となる
神話の神憑りの話に宝は半島にあるとされていたのはそのことを示唆しているのかもね
高句麗などの外国人国家からすると単なる倭人の同士討ちに見えただろう
だから侵略の痕跡は中華の文献に残らなかった、という見方ができる >>812
だから当時は日本全土を支配なんてしてなかったんやろ >>811
九州は遺跡から見て伊都国や奴国が最大の国だから邪馬台国はないね 奈良、佐賀、大分、福岡、大阪、茨城、岩手など土蜘蛛がいたのだから仲良くしろよwww
九州から奈良なんかすぐ行き来できる。 修二会をしないなら東大寺は解散したらいいとまで言って、コロナ禍であろうが東大寺が修二会を行う理由
そこに真実がありそうだな
奈良一の一等地、若草山にある鶯塚古墳かつては牛塚とも呼ばれていた
牛は天神さまの使い
若草山、若狭の水、若
アイヌ語でワッカは清らかな水の意
正月に初めて神棚にお供えする水を若水と呼ぶのも同じやね >>816
日本の始まりという事で取り合いをしてる訳だから
邪馬台国の価値が少し違ってくる 邪馬台国の前、倭国大乱の前に約80年男王が倭国を治めていたからね
邪馬台国や卑弥呼が始まりというわけではない 新羅の沈輪を仲哀と阿部が退けたというが、実際は肥後に新羅勢力が住み着いてたわけだろ?白日分って言うから、九州北部から半島にかけて倭人の広域連合があったのだろう?仲哀が消されて、
阿部と神功が三韓成敗したと。 対馬の位置を見ればどう見ても倭や日本が半島にちょっかい出してたんだろ
仲間扱いされる百済も任那から日本を追い出す時は新羅と仲良いしな 対馬は對馬国、壱岐は一大国との表記があるのであの程度の島でも国扱い
末廬国は唐津市だがそれでも国の扱いなので三十余国から成っている
邪馬台連合国家は総て北部九州内に収まる、逆に畿内までの国の数だと
数百もの国々となってしまう。邪馬台国連合国家は長崎、佐賀、福岡、大分の
連合国家と言う事になる。倭国は九州島全部の事だろう。四国や山口県は
倭種の国と表現されている 壱岐で国扱いなら、難波国とか大和西大寺国とか記述されないとおかしくないか?
近畿にあったのならそう書かれるはず。 >>812
漢の時代は百余国が朝貢していたが
卑弥呼の女王国連合は30国だ
ちなみに倭王武は西に66国、東に55国を平らげたと主張した 司馬懿「呉の牽制に使う為、邪馬台国は東よりも南側にノビテルほうが都合が良い」 沖縄が堕ちそうなんで九州の分断工作に移行します!!!!!!!ってこと? >>780
で、倭国大乱で軍門に下した邪馬台の名で、
奈良の大倭(ダイワ)が魏に朝貢してるw
(魏志倭人伝) >>797
弥生時代」 紀元後3世紀中頃まで
日本に漢字が伝来したのは4世紀後半~5世紀
まぁ義務教育程度の理解ですよ >>833
わかりました
亀のように守ってばかりでまるでオナゴのような司馬仲達殿w 邪馬台国は韓半島だぞ
それを認めてしまったら天皇も韓国人になってしまうが 日本の歴史が消失した甘樫が丘の目鼻の先に、消された川原寺があってだな。奈良盆地が池の底だったころ、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果前者が勝ち、水を吸い取られた結果、干上がってしまい、湖のカメはみんな死んでしまった。当麻=葛城の土蜘蛛=阿部か賀茂=阿度部=春日神=射盾=紀の主、川原の鯰=姫氏が争って倭人が大量死したとある。 秘湯温泉郷邪馬台って事で別府温泉にあるのかと思ってたよ。
中国のお役人さんが温泉に浸かっていい気持ちだったと報告出来なかったんでしょ? >>840
邪馬台国と畿内ヤマト王権に何も関連性を裏付ける証拠がないから良いんやで? まあ金印を贈った意味を九州説の人は過小評価しすぎ
銅印とか銀印はあるが金印は以下の七例だけ
九州のどこかわからないような小国に贈るわけがない
紀元前200年の白登山の戦いで包囲を脱した前漢劉邦から匈奴冒頓単于に匈奴単于璽が供された。
57年、委奴国王、後漢の都・洛陽で初代皇帝・光武帝から金印「漢委奴国王印」を授かる
133年、鮮卑撃破の功で南匈奴骨都侯夫沈に金印紫綬及び縑綵を賜う。
229年、魏の曹氏、「大月氏国」(クシャーナ朝)に金印、「親魏大月氏王」贈る。
239年、倭女王卑弥呼、魏に朝貢、金印紫綬の「親魏倭王」印、銅鏡百枚等を賜わる
1383年、明が鍍金銀印(「琉球国王之印」)を琉球国王に贈る(『明実録』)。
1400年、朝鮮王朝が高麗に代わって半島を統治したことを認めて金印を贈る 邪馬台国より神武の東征のほうが興味深いよな
なぜ住み慣れた土地を離れたのか
さんざん苦労して奈良盆地を手に入れたけど
そこから神格化への道とか 金印は歴史史料としての価値は高いが、今現在の日本人としての権威を象徴するものでは無い
こういうスタンス >>812
魏誌と後漢書から解るが、邪馬臺は漢代の倭(≒列島)の覇権国。
(※配下の奴国を使って朝貢、倭で唯一、王(漢倭奴国王)に任じられている。)
邪馬臺は覇権国なのであって、倭を統一し支配した訳ではない。
しかし2世紀末頃の倭国大乱で、大倭(ダイワ)こと奈良が邪馬臺を覇権放棄させ(男王禁止)、邪馬台の博多港を直轄統治している。
つまり、奈良が事実上倭を統一した模様。それ故「大倭(ダイワ)」と名乗ったか。
奈良が邪馬臺を滅ぼしその権威ある名を継ぎ、名実共に倭を統一するのは、華北崩壊で国際秩序が消失した4世紀のこと。 当時の情勢
・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年)
・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀)
言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕
(346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。
『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。
歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。
またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
(369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。
4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、
史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕
(413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、
東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。
南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。
(7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。国号を「日本」と改める。 >>847
ちがうちがうw
東遷前が神代になってる。つまり、滅ぼしたという事。
滅ぼしてその権威だけ継いだという事。
で、後世、この権威継承を正統なものに見せる為、東遷神話を作った訳。 三韓征伐(4世紀後半)について
・中国側の視点
宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、
南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。
・朝鮮側の視点
朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
・高句麗側の視点
広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。
・日本側の視点
日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。
391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。
高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。 中華が勝手に名前をつけたケド、そんな権威付けを気にしないで国造りを行ったのが後の日本と名乗る国であーる >>849
後漢書読んだらわかると思うけど、倭奴国は倭国の最南端にあると書いてるけどね >>799
>>新潟福井香川
このグループは知ってる。ヒントは塩。製塩のルーツの一グループである丹後、越前、越中、越後の人間が津居山湾から円山川を下ると姫路の千川に出る。その西に赤穂。坂出を中心とした香川の塩は赤穂の人間が作り出したものだ。
赤穂藩家老大石内蔵助の御内儀は城之崎にも近い豊岡の人間。これだけでも瀬戸内と日本海側の密接な関わりが分かる。
俺は香川の人間だが丹後の地名が苗字になってる。同姓は兵庫県内に多数。姫路に多い。で、多分に漏れず、ご先祖様は江戸時代に坂出の塩田開発で赤穂から渡ってきた塩の商人だ >>1
>「南北朝時代にさえ、明国は、九州を制圧した南朝の懐良親王を
>『日本国王』と呼んだ」とし、「中国から見れば、九州の勢力を
>『倭の統一政権』と判断することがあり得た」と説明している。
まっこと、頓珍漢な見解ですなw
日本の古代やってる学者達は、みんなこの程度の連中w
畿内説は論外だが、九州説の学者達も畿内説の連中と同程度w >>856
九州北部が倭の南端。
邪馬台の覇権が及ぶ地域(邪馬台がマウント取れる地域)が倭。
その意味において、九州南部は倭じゃねンだわw 前スレ??967さんへ
>>>929鹿児島三陵(吾平山陵、高屋山陵、可愛山陵)についての見解をお聞きしたいものです。
>自分は邪馬台国の前身は知覧付近で北そして北東→国東→そしてまた水田地帯へと移動して邪馬台国となれたと考えてます。妄想ですが。
神代三陵は鹿児島の大部族であった大隅直や曾君らの祖先の墓でしょう
神武天皇と直接の関係はないと考えます
理由としては神武天皇が海洋民族の性質を強く持っていたことが挙げられます
日向神話での南方海洋民族の説話の継承や
阿多が沖縄から福岡への交易ルートの途上にあることが遺物により判っていることが挙げられます
基本的に>>802さんのいうことに近いですね
というのは歴代天皇の皇后や后の人数をみれば一目瞭然です
あと薩摩や大隅は大和朝廷がつけた名前であり
サ+ツマ(狭間+隅っこ)やスミ(その名の通り隅っこ)と名のつくところは
時代や名付けた主体で変わっていったと考えます >>859
九州北部が倭の南端なら、大半は朝鮮半島になるね >>799
>>母系で見ると畿内と東北は近縁なんだな
蝦夷を虜囚として連行した中世の歴史があるからね。 >>860
自己レス
海洋民族には大久米命の目尻の刺青も入れればよかったかな 卑弥呼の時代(3世紀中頃)
狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。
・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。
・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。
・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。 九州は古代も今も僻地だよ
3世紀は東国の方がはるかに発展していた
妄想に対する妄想返しだけどね >>837
奄美の刺青とかまさに邪馬台国の名残っぽいよな 決定的な証拠が無いのでもう言ったもん勝ちみたいな状態になってるな >>875
あれは間違いない、独自の日本語をはなすチョンでしかない
ほとんど100% >>1
九州説は厳しい
移動距離的にありえないだろう
大倭の木簡も本州にあるしな 韓国の欲知島新石器時代個体はmt-M7aで、これは結局縄文人女性が普通に九州から半島に渡っていた傍証になる
ttps://www.kyushu-u.ac.jp/f/46087/21_11_26_02.pdf
>韓国の欲知島Yokchido遺跡出土の女性人骨のDNAが95%縄文という結果が得られた。
>年代は新石器時代中期、紀元前3500―2000年と推定される。
>九州と韓国の間、黒曜石や貝製品などの交易が縄文時代にあったことは考古学的な調査で既にわかっていたが、DNA分析で証明できたことは重要である。
>また、従来の考古学者はこの縄文時代の日韓交易は男性を中心とした漁猟集団が行ったと考える研究者が多いが、
>欲知島遺跡の縄文系人骨は女性 であったことから、男性と女性の両方がこの交流に参加したと考えられる
半島に住む縄文人と大陸北部から南下して来た華北との混血が初期の渡来系弥生人
弥生初期の福岡新町遺跡では、大陸式の支石墓に完全な縄文人(在来系弥生人)が埋葬されていたことから
ぽつぽつと渡来する少数の渡来系弥生人を圧倒的数で勝る在来系弥生人が受け入れながら共生する様子が伺える 現代日本人の特徴は大まかに古墳時代まで遡れる、これは昭和の人類学者の言った通りで近年のゲノム解析でも裏付けられている
4世紀の関東に大和式古墳が造られ始める、5世紀の宮城県大崎市辺りまで関東古墳人の大規模な流入が確認出来る
9世紀に蝦夷と隼人が日本に帰化する、列島の北端と南端に古い形質DNAが残る 卑しい 倭しい 邪(よこしま)
日本人が日本の歴史にいつまで蔑称使う気だよ このコロナばかりのスレでの中で
こういうスレあるとほっこりするよな >>882
そこに拘ってもしゃーないやん
名字に鬼とか猿とか尻とか付いてても何とも思わんのと同じ >>875
面白いことに都が移る度に渡来の波が東へと進んだ結果が現代中韓との遺伝距離にも表れている
現代日本人のゲノムワイドなSNP分析に基づいて、 現代日本人における縄文人の祖先の割合は、本土と琉球の人々でそれぞれ約18%または28%、アイヌの人々でより高いと推定されました。
Midland(岩手県花巻市、東京都、愛知県北名古屋市、兵庫県尼崎市)n=840
Fukuoka(福岡県)n=198
Ehime(愛媛県)n=158
Shimane1(島根県大田市)n=77
Shimane2(島根県出雲市)n=82
Ryukyu(沖縄県)n=184
PCAプロット
https://i.imgur.com/HlqyGCG.png
中国南部----北京----韓国----------愛媛----本--福岡----出雲---------沖縄
ADMIXTURE解析
https://i.imgur.com/voa7cFW.png
日本人集団の微細な遺伝的構造と進化
竹内文彦(京都大学)、勝谷友宏(大阪大学)、木村亮介(琉球大学)、並河徹(島根大学)、磯村実(島根大学)、大久保孝義(東北大学)、田原康玄(京都大学)、山本健(九州大学)、横田充弘(名古屋大学)、加藤規弘(国立国際医療研究センター) 東アジア集団のPCAプロット
https://i.imgur.com/tBBUTrT.png
遺伝系統ネットワーク
https://i.imgur.com/2DELLg5.png
琉球------薩摩--出雲--北九州、東北--関東--北海道--東海-----近畿-------韓国------北京
興味深いことに、f4(GBR、x;出雲、近畿)が示唆するように、出雲の個体群は本州の他の個体群よりも沖縄と九州に対して高い遺伝的親和性を持っています。
この不一致は、距離によって通常予想される分離とは異なるいくつかの遺伝子流動イベントの存在を示唆しています。 上顔高 (長岡朋人・解剖学)
縄文人66.5-------北九州69.3---関東70.7
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人
九州---関東---------近畿
両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。 埴原は、現代日本人の頭蓋形態の地域差を分析し、近畿地方人の特異性を指摘した。
現代の近畿地方人は、比較的短頭で、頭蓋全体は大きいが脳頭蓋最大長はきわめて小さい。そして、その特徴によって近畿地方人は他地域の集団とかけ離れた位置をとる(埴原)。
また、生体計測学的研究の結果からみると、近畿地方人の頭形は、同心円状の地域分布の中心となることがわかっている(小濱)。
近畿地方人が最も短頭で、関東地方人、北九州地方人がこれに続くという地域関係は、現代のみならず、近世でも成立していた(長岡,2005)。
※近畿地方の現代人は、(欠田,1959)の現代人のデータを利用した。
頭蓋長幅示数
縄文人------北九州76.6---関東78.5-----近畿80.7 邪馬台国の権威を背乗りしたのが纏向勢力
蘇我氏などの百済人は天皇の外戚として権力基盤を築き、渡来文化を積極的に取り入れて飛鳥を開発した
7世紀からは亡国の百済、新羅、高句麗移民が日本中に溢れていた
その後も国際国家を主導し続けたのは畿内の渡来人 >>893
その説自体は個人的に支持するけど飽くまで説の一つに過ぎないのでそうやって断定口調で話すのは良くない
頭が悪く見える 前漢に倭人が楽浪郡に貢物を持っていってる。
卑弥呼の前から、倭人は朝鮮半島に一部集住していたことは事実。
それは九州弁を喋る人々である。
ところが、7世紀に裴世清らの中国人が奈良県に行ったら、関西弁を喋る人ばかり。
そこで、「あれ?倭人と言葉が少し違うぞ?」と思った。
そこで、旧唐書では「倭国伝」と「日本伝」に分けて、日本伝の書き出し→「日本国は倭国の別種である」と書いた。 渡来人の祖先は百済や新羅に合流した楽浪郡帯方郡の遺民だよ
日本も唐も魏との外交で漢化がスタートするわけ 邪馬台国って
名前が既にディスられてるので
こんなんどこでもいいですよ。 >>801
名古屋あたりだろうな
畿内の地形では多くの住戸は建たない
京都が開発されたのはずっーと後のことだし
兵庫はあの通り海に山が迫ってるし
大阪の平坦地は当時まだできていなかったと言われるし >>903
大河「四国三郎吉野川」流域集落国家群しかない。 @阿波 名古屋熱田の断夫山古墳はかなり怪しいと思ってます
いまだ明確に誰が眠ってるのか分からないはずです
まあ前方後円墳も同じようなものですが >>905
まあ、いずれにせよ「倭人(阿波勢力)」には違いが無い。 @阿波 >>882
全部カタカナでいいよな
ヤマト国にヒミコ >>614
同感だわ
当時道も無いしトレッキングシューズも無いうえに荷物あぅたら無理
仮に九州から陸路なら1か月で山口から広島抜けれるか微妙
道のある所は山賊みたいなのがいて通行料金とったりしてた
うちの近所にそれで繁栄した一族がいた 九州説はみんなおらが村で
九州のどこにあったかさえ意見がまとまってないのに
とりあえず地域だけは九州に間違いないとか
九州人の都合のいい解釈だわな。 旧唐書
倭國者、古倭奴國也
建武中元二年(57年)、倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
日本國者
邪馬壹国
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也 >>749
まあ奴国以来中国との交流を引き継いできた九州邪馬台国が卑弥呼没後250年以後畿内ヤマト王権に滅ぼされる過程で中国の史書に倭国が現れない150年、空白の4世紀が生じ、ヤマト王権が中国に使者を出したら、中国側からどうも前とは違うぞと思われたんだろうな
そしてヤマト王権はいろいろ捏造しようとしたと
至極納得行く話だわ まあ大和王権の誕生と場所はだいたい解ってるから
邪馬台国は場所が不明でも旧邪馬台国の関係者がある程度関係して出来たのが大和王権だよね
畿内説はもともと畿内に邪馬台国があって滅んだ後にその近所に大和王権が出来たのが畿内派
九州説はもとは九州に邪馬台国があって滅んだあとに畿内に大和王権が出来たのが九州派
邪馬台国が崩壊して当時の人々が新天地を求めるのはロマンがあるね >>911
瀬戸内海に生口島ってある
あそこは生口の養殖場
献上された後
煮たり焼くいたり漬けしたり
お好みに賞味されたという
このことから思うに邪馬台国は
瀬戸内地区も含まれていたに違いない 簡単な事よ日本武尊が九州滅ぼした時期で近畿説か九州説か分かるじゃねえか
で?日本武尊伝説っていつよ? >>921
「日本武尊」の陵墓
「四国初の並列粘土槨」
「石井の山ノ神古墳 墳丘と同時造成」 徳島新聞朝刊 平成30年3月1日
石井町教委は28日、古墳時代前期とみられる前方後円墳「山ノ神古墳」(同町石井)の後円部の墳頂で、
木棺を粘土で包んだ埋葬施設「粘土槨」が2基並んだ状態で見つかったと発表した。
粘土槨が墳丘と同時並行で築かれたことも判明し、いずれも四国で初めての出土例。
専門家は「全国的にも珍しい事例で、古墳研究の基礎資料になる」としている。
粘土槨は、墳頂部の地表面から約50〜70cm下で発見された。
箱形木棺(幅約1.15m)と割竹形木棺(約1.2m)とみられ、約1.1mの間隔を空けて置かれていた。
全国の豪族は長辺を南北に向ける配置が多いが、県内の他の古墳に見られる特徴と同じく、東西に向ける形で埋められていた。
先に墳丘を完成させ、後で土を掘って木棺を埋め戻す方法が一般的だが、
山ノ神古墳では盛土の堆積状況から、墳丘と粘土槨が同時に造られたことが分かった。
同様の事例は国史跡の和泉黄金塚古墳(大阪府)など近畿地方にみられるが、四国では見つかっていなかった。
古墳調査に詳しい兵庫県立考古博物館の石野博信名誉館長は「墓を造り、葬送儀礼をしてから墳丘を仕上げる過程が分かる珍しい事例。
徳島の古代文化の独自性や、近畿政権との関係を考える材料にもなる」としている。
山ノ神古墳は2014年に発掘調査を開始。全長57mで、前方後円墳としては県内3番目の規模であることが分かっている。
17年には、前方後円墳に隣接する円墳周辺で、県内2例目となる筒型銅器が出土している。
この「山ノ神古墳」は、東隣に鎮座する「白鳥神社」と合わせて、「日本武尊」の陵墓とみられている。 @阿波 魏志倭人伝より前に書かれた『広志』の記載
↓
【到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載】
意味→伊都国に至る。また南に行くと邪馬嘉国があり、これより北の国はその戸数や距離を記載することができる
これは魏志と違い連続で、伊都國又南至邪馬嘉國と書いてるから覆すことは極めて難しい。
よって、邪馬台国は100%九州しか有り得ない。 ウイグル人と🇭🇺ハンガリー人は血の繋がりあるんでしょ?!
何処から来た?ウイグル人 >>911
それ訳が間違いな
建武中元二年(57年)、倭国の南界を極めるや、光武賜うに印綬を以てす
と読むのが正しい 後漢書の倭国之極南界也光武賜以印綬
は「倭国の南界を極めるや、光武印綬を以って賜う」と読む。
極南界なりでは意味を成さない。極南界って何それ?
「也」は「なり」ではなくこの場合は「や」で、文語の語気詞であり語気の停頓を表わす。
礼記
大道之行也,天下為公。
大道の行わるるや、天下を公と為す。
(大道が行われると、天下を公のものとし私物化しない。)
この「也」と同じ。
>>903
今の名古屋あたりは古代なら大半が海の底ですよ? >>925
太宰府天満宮にあるという翰苑もこういう書き方をしているらしいな
間違いなく当時の中国人は九州にあった国を描写してああいう書き方をしているな >>902
邪は弥の写し間違いなんじゃないか、という俺の説 まだ、諦めないのか、方向は左だろうが右だろうが、陳寿は卑弥呼は鬼道と中国人に向け歴史書に断言しておるのだよ。ロードマップは適当とも断っとる、中国人から見りゃあ辺境なんだから、たいして問題なし。前方後円墳は、天地水、鬼道の象徴。その思想は、大仙まで続く、卑弥呼は上善若水、水のように生きた巫女。これは記紀にも危機だわね、大きな声では言えませんけど 古代ウイグル(🇭🇺ハンガリー)と国境隣り合ってた? 普通に考えればアヴァールは「ヨーロッパから」アジアへ来たんじゃないの? >>932
朝鮮半島に狗邪韓国という国があると魏志に書かれてる
狗とか邪という漢字は中国がつかう蔑称で、周辺の国家・民族を差別して下に扱ってる為に使う >>586
任那王??
おかしいだろw普通は>>480の国名で記録するだろ。 倭って別に蔑称でもなんでもないよな
にんべんが入ってるだけだいぶマシ >>919
大和王権の誕生は701年の大宝元年からだね
元号を建元し、評に代わって郡を置いている
なんと九州の邪馬台国(倭国)は701年まで存続していたんだ。 >>929
漢文苦手だった?
文末に登場し、也の前が極南界で体言なので「極南界なり」と読んで正しい
念の為ウィキソースで確認したけど
倭國之極南界也。光武賜以印綬。
文中の也ではなかったよ >>216 その歴史観だと白村江の戦いはどういう位置付けなの?日本の独立戦争か? >>925
つかこの表記だと邪馬台じゃなくて邪馬一じゃね?
どっかで表記が壹から臺に変わったの? 魏志倭人伝には「邪馬台国の東に海があってその向こうに別の倭種の国がある」と書いてある
この時点で九州か四国
出土物の比較だとこう。薩長が東遷したんだからヤマトも東遷したんだろう
https://i.imgur.com/PDd9w3p.jpeg >>938
倭は人が女に委ねると書く。女に頼る弱っちい民族とか背が低いチビとかいう意味だそうだ。 >>939
>なんと九州の邪馬台国(倭国)は701年まで存続していたんだ。
その痕跡なし。
痕跡があるのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>944
>この時点で九州か四国
九州には女王国がない。 示せない。 @阿波 薹は邸を表す、卑弥呼の道観なんだよ、一でもいいんだよ老子道徳経では物の始まりで一は大事なんだよ、 >>911
なるほど
後発の邪馬壹国は当然、別種地になるな。
漢委奴国王が倭国
親魏倭王が倭国 俀國 日本 >>930
熱田神宮も住吉大社ももとは厳島神社みたいに海に面した神社だったようだな
熱田神宮も交易と関わりあるんだろうか >>941
兎に角1世紀頃は志賀島のある福岡付近が倭国の南の端だったんだ
当時の倭は朝鮮半島南部から北部九州地域に架けての地域。 倭(九州島)の中にあった邪馬台国(吉野ヶ里)も当然、九州だった 俺の嫌いな言葉に郷に入っては郷に従えがあるがこれは卑弥呼が民を惑わした言葉の1つだな、都合で使い分けしやすいから、陳寿も嫌いだろ >>911
邪馬壹国 邪馬臺国 邪摩堆 大和州と変わっていく
別種になるな。 >>939
>なんと九州の邪馬台国(倭国)は701年まで存続していたんだ。
その痕跡なし。
痕跡があるのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>944
>この時点で九州か四国
九州には女王国がない。 示せない。
示せるのは、「阿波」だけ。 @阿波 >>949
魏は倭の逆。女が鬼に委ねると書いて強い男の支配者がいる、強国というような印象の字。 >>964
>太宰府は倭国の首都だった
太宰府は、8世紀から。 @阿波 >>963
魏は春秋時代に山西省運城市芮城県の北にあった魏が名前の大元 >>957
矮小の文字も倭とよく似てるね。
色んな意味があってその全てがいい意味ではないのが倭
従順という意味も含まれてる。権威に従順=こびへつらうなさけない 国号なんて拝借は当たり前だって魏で証明されてるわけだから
ましてや邪馬台国とヤマトが似てる〜って
だからなんだって話だな >>947
>>962
魏志倭人伝には「倭国は女が多い」と書いてある
今も福岡市は女が多い
男は東へ向かう。高知東生も東へ急ぐで東急(のぼる)だったけど訴えられたので東生に改名しただろう
東には男が増え、西は女が残される
だから九州の『風土記』には女土蜘蛛の国がたくさん出てくるし、吉野ヶ里遺跡からも絹を着た女性の遺体がたくさん出る >>964
「観音寺・敷地遺跡」から出土した7世紀中頃の論語木簡は、唯一日本最古であり、
日本全国、どこにもこんな特異な遺跡は存在しない。
よって、ここが8世紀奈良大和へ避難疎開遷都する前の、倭国(阿波)王権の王都の一部である。 @阿波 廣韻注釋見た方が
「魏」
魏闕。又州名,夏觀扈之國,春秋時晉地,秦爲東郡,隋爲武陽郡,武コ初平竇建コ改置魏州。亦姓,本自周武王母弟受封於畢,至畢萬仕晉封魏城,後因氏焉。出鉅鹿、任城二望。<f>魚貴切</f>。二。 「観音寺・敷地遺跡」
特徴・評価
今回、重要文化財に指定される徳島県観音寺・敷地遺跡出土品(922点)は、平成9年度から平成20年度の環状道路建設に伴う発掘調査で、
徳島市国府町観音寺・敷地で主に流路跡(りゅうろあと)2条から出土した阿波国府に関する出土品です。
飛鳥時代から平安時代の資料が大半で、「観音寺(かんのんじ)・敷地(しきじ)木簡」として知られる多数の木簡や墨書土器、役人の身分を表す腰帯具、
文書行政に必要な銅印、硯など政務を表すものや、斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具(さいしぐ)具や農工具(のうこうぐ)
・紡織具(ぼうしょくぐ)・建築部材などの木製品、漆関連製品、武具(ぶぐ),瓦(かわら),楽器(がっき)など祭祀や生産・生活を表すものがあります。
また各時期の指標となる土器などを含めて,古代地方官庁の多様性を示すものが多数出土しています。
7世紀中頃の「論語(ろんご)」木簡は棒状の四面体のうちの一面に『論語』学而篇(がくじへん)第一(だいいち)の一節を記し,
我が国への論語の流入状況を示すものとしても貴重です。
また7世紀後半の「五十戸税(ごじゅうこぜい)」木簡や「板野国守」木簡は国府の成立段階の様相を示すほか、
8世紀の「勘籍(かんじゃく)」木簡は戸籍を検査し身分を確認する阿波国司と中央官庁との行政手続きを示しています。
また、木製祭祀具については、斎串や立体的な人形・刀形・舟形などは継続的に使用されますが、
7世紀末以降に扁平で板状の人形や刀形などが加わるなど、在地的な祭祀と律令的な祭祀が重層的に行われている様子がわかりました。
これらのことから、木簡をはじめとして指定品は古代地方官衙に関する諸要素が網羅されており、
政務や律令制度の実態、官人層の生活等を復元する上で重要です。
さらに出土品は7世紀から10世紀と連綿と認められることから,
律令制の浸透、経営の実態など、古代律令制化の歴史環境を具体的に解明する上で重要な歴史資料であり,
阿波国府成立過程や終焉を知る上でも,その学術的価値は高いものです。 @阿波
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/news/5024022/ 『魏志倭人伝』『魏略』『広志』の3つに登場する伊都国は、現代中国語発音でも「イートー」とほぼそのまま。邪馬台国が仮にヤマトであるなら、邪(シェイ)を「ヤ」と読むと仮定しても、
【邪馬都】と書くべきである。ところが、邪馬壱、邪馬臺、邪馬嘉、邪靡堆と、全く「都」が出てこないのである。 >>966
文字の由来じゃなくて文字の意味の話
たとえばヤマトは東京湾の江の戸で江戸と一緒。山の戸という意味でヤマト。
それを中国人は邪馬台と蔑称で名付けて山の字を使わないようにしてる 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのもクソ遅かったはずで、
邪馬台国を伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は九州であると結論づけている。 >>974
「平城宮木簡には「筑紫大宰」、平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており」]
よって、太宰府は、8世紀から。 @阿波 >>970
太宰府から出土した木簡には国・評・里が使われており
大和朝廷の成立した701年以前から太宰府で政治が行われていたことを示している。 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、
「南至投馬国」部分の竹簡を加えてしまったのだろう。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。 >>979
「観音寺・敷地遺跡」は、そんじょそこらの国衙遺跡ではない。 @阿波
阿波国観音寺遺跡出土木簡には、「評」の表記、サト「五十戸」の表記、「里」の表記、「郷」の表記、「其郷其里」の表記が見られる。
国府設置郡の評段階からの歴史的変遷(7世紀から9世紀まで)をたどれる、他に類例のない資料群なのである。
木簡から見た阿波国の古代 2021年2月28日(日) レキシルとくしま
―観音寺遺跡出土木簡を読む― 奈良大学 渡辺 晃宏 〖魏〗 ギ
高く大きい。「巍」に同じ。
「魏魏・魏然」
か・く【欠・缺・闕】
あるべきものを持たない。 欠如する。 ヤマタイ国でいんじゃないの?
畿内説が朝鮮人みたいに似てる〜で起源主張してるだけだな 8世紀奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習書をしていた。
阿波国国府町の「観音寺・敷地遺跡」から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など
官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証なのである。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>1の三部作図書館で借りてきて読んでるけど、纒向型前方後円墳の出現をヤマト王権の影響とは捉えてないんだな
今夜は銅矛などによる祭祀はまだ続いているからと
おれは支配されつつあったと思うけどね >>954
後漢書韓伝や前漢書地理志を読んでも、朝鮮半島を倭人が支配してるなんて書いてないけどね 河内も司馬懿の影響で使えんよ、そもそも邪馬台をヤマトにしたがる理由がわからん、卑弥呼が名付けたのであれば山東も大いにあり得る、そんな重要なことか?宗教集団が築いた所だから、無理に大和に繋げようとしても危機を生むだけだとおもうが、中国人巫女が道観を置いた場所よ >>500 日本の記録だけだと邪馬台国は無かったし卑弥呼は居なかったという結論になるな >>954
>当時の倭は朝鮮半島南部から北部九州地域に架けての地域。
朝鮮半島南部も、「倭人(阿波勢力)」の進出地。 @阿波 >>986
漢書地理志 「樂浪海中有 倭人」
倭人は両岸を支配する海峡国家だった
後漢書韓伝?韓伝に倭人のことは書かないよ。 そう記紀体制としては結局無かったものにするしかないんだが、隋書には、倭人は巫女を一番信用するとあり、藤氏家伝では三國志を引用して、入鹿を痛烈に批判していて卑弥呼のことも読んどるのよ、否定しきれないのよ、大きな声では言えませんけど >>954
>当時の倭は朝鮮半島南部から北部九州地域に架けての地域。
朝鮮半島南部も、「倭人(阿波勢力)」の進出地。 @阿波 実際、魏志倭人伝を記録した人も倭人が道で偉い人とすれ違うだけで
土下座してる姿を記録してるからやっぱ従順で情けない民族だという実感はしてたろうね 邪馬嘉国(広志)
山鹿国だね
久留米(三潴 ミ・ヅマ)を投馬国にすれば放射読みも必要ない
菊池川流域は免田式土器が少ない
甕棺墓、銅鉾など博多湾岸と同じ文化圏
吉野ヶ里に匹敵すると言われる方保田東原遺跡
肥後国の人口は九州最大
なぜ候補地の筆頭に挙がらないか分からないくらい
臺を無理にトと読むより壹とならんで嘉の誤記とした方がよほど自然だ 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
伊都國はどの資料でも伊都國である。
ところが、ヤマタイコクだけはみんなバラバラ。
ヤマタイコク、ヤマトコクもなかったのであり、とりあえず九州にあった邪馬台国から、後に首都が奈良県に移った為に混乱が起こったのだろう。 隋書でタイ国伝なんだから
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