【うちのお父ちゃんが‥】なぜ?鹿児島に源頼朝の墓 政子の怒りを恐れた局が鎌倉を離れて生んだ子が初代島津という説も [水星虫★]
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なぜ?鹿児島に源頼朝の墓
*ソース元にニュース画像あり*
http://www3.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20220214/5050017864.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を
鎌倉幕府誕生や、権力の座をめぐるパワーゲームを描く、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
中でも存在感を示しているのが、大泉洋さんが演じている源頼朝です。
その鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の“墓”が鹿児島にあります。なぜ鎌倉から遠く離れた鹿児島に
“墓”があるのか、そして頼朝が鹿児島の歴史にどう影響を与えてきたのか、取材しました。
(鹿児島局記者 猪俣康太郎)
【鹿児島に頼朝の“墓”】
薩摩藩主、島津家別邸、仙巌園の隣にある鶴嶺神社。2月13日、月遅れの命日にあわせて
源頼朝の“墓”の前で慰霊祭が行われました。
参加者8人の中には島津家32代当主、島津修久さんの姿もありました。
しかし、なぜ頼朝の“墓”が鹿児島にあるのでしょうか。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)「島津家の初代忠久が頼朝の落胤(子ども)であるという話しがあります。
そういった縁もありましてこちらの方に鎮座して祭っていることになります」。
【頼朝は政子以外にも・・・】
頼朝の妻といえば尼将軍として有名な北条政子が知られています。ただ、頼朝の乳母(めのと)の娘、
丹後局が寵愛を受け、子どもを身ごもったという伝説が残されているのです。
実は鹿児島には頼朝と丹後局のつながりを示す場所があります。それが鹿児島市内にある花尾神社です。
「さつま日光」とも呼ばれる美しい社殿で知られていますが、祭られているのは…。
(花尾神社 貴島直子権禰宜)
「源頼朝公と丹後局をお祭りしておりまして皆さまに多くお参りいただいております」
境内には丹後局の墓も残されていました。
伝説では子どもを身ごもった丹後局は頼朝の妻の政子の怒りを恐れ、鎌倉を抜け出し男の子を出産。
その子どもが島津家初代の島津忠久だと伝わっています。
実際、忠久は頼朝から薩摩・大隅・日向の守護に任命されるなど厚遇を受けています。
島津家には頼朝から賜ったという八景釜も伝わっています。
【歴史を動かした落胤伝説】
こうした伝説から島津家は江戸時代、長い間に荒れ果てていた鎌倉にある頼朝の墓を修復。
20年ほど前に鎌倉市に移管されるまで、200年以上にわたって管理を続けてきました。
鹿児島にあるのは、それを記念して鎌倉の市民から贈られた墓のレプリカです。
頼朝の落胤だということは歴史学的に確認されているわけではありませんが、
そう名乗ってきたことが日本の歴史を大きく動かしたともいいます。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)
「薩摩の島津家が地元の人たちだけではなく藩の外からも頼朝の末裔であると認識されていたわけなんですね。
だからこそ明治維新の中核になれたのかもしれません。頼朝の落胤(子ども)として
責務を果たしていた時代ももちろんあります。墓を管理していたこともそのひとつです。
伝説が偽りだとしても捨てるものではなく伝説を見直すことも大事なのかもしれませんね」
頼朝と鹿児島との意外なつながり。それに思いをはせながら大河ドラマを見るのもおもしろいのかもしれません。
(仙巌園学芸員 岩川拓夫さん)
「鎌倉を中心とした大河ドラマかと思いますけど、鹿児島もそう遠く離れているとは思わずに
つながりがあるんだと思いながらドラマを楽しむことができるのではないかと思います」
【取材後記】
学芸員の岩川さんによると、平家が勢力を誇っていた南九州を治めるため、
頼朝は関係の深い島津忠久を現地の守護に任命したということです。
鹿児島の歴史といえば、どうしても戦国時代や明治維新に目が向きがちですが、
より視野を広げていかないといけない。そう思った取材でした。
02/14 20:47 すでに事実って事になっているのか・・・
カゴンマ星人は仕事が早いな 征夷大将軍になるための後付け設定じゃね
家康もそんな感じだったよね 薩摩島津は秦の始皇帝の末裔と称する人たちのさらに末裔
とっくにわかっていることなのに何を言ってるんだよ こういうの言ったもん勝ちだな
言いさえすれば「説」として定着する
定着したら定説でこっちのもん 薩摩島津は8公2民と呼ばれたほどに酷いことをしていたから
それを正当化する文言として天皇家の血を引く源氏と利用したんだよ >>1
源氏の子孫だってことにしたかったのでは
沖縄の尚氏だっけ?あれも源氏の子孫名乗ってたんだろ? 島津が重きをなしたのは鎌倉期に中央から下って来た故(の名門)だからだって認識なんだが・・・
んで自称源氏 あのね本当に天皇の血統につながる家は力を削がれてるんだよ
天皇に力を持たれると困るからね。
ちなみにうちは幕末の時にはわずか160石ね >>19
ずいぶん新しいやんかw 維新の後で急いで作ったんやな >>18
そうね中国からの渡来人の血統
それじゃあ民衆が納得しない
だから天皇の名を借りたということ
それでも虐民には違いないから民衆の蜂起を抑え込むために
豊臣秀吉の時代に「刀狩り」をしたのさ 島津家には我が主家の祖が伏見城の戦いで世話になったわなw 頼朝の乳母って草笛光子が演ってるだろう
佐藤二朗の嫁を取り上げるのかな だから九州の人って東北の人を敵対視してるんやなぁ
ずっと九州が東北イジメしてるのが理解出来たわ >>26
戊辰戦争を未だに引きずってイジメの被害者面してるから東北の九州嫌いは駄目なんだよ
関東からも関西からも引かれるだけで誰も可哀想なんて思わないよ? >>27
はぁ?
俺は栃木県の武家の末裔だが薩長を許したわけじゃねぇぞ?
ソレが明治時代の加波山事件だわなw 義姉父(兄の嫁の父)が「自分は源氏の系譜」なことが自慢らしく、初顔合わせの時から酒を飲むとそう言いながら絡んでくる
義姉一家も困ってるらしく相手しなくて良いと合図してるが、ご機嫌取りに話しに乗りつつ、根拠を聞いてみた
「源氏の系譜でしか使えない戒名を代々付けてもらってる」
だそうです
それで義姉父が満足してんならそれでいいかと話しに乗っかるけど、なんか悲しい、自慢するなら娘や自分の作った野菜の自慢してほしいな 慰霊祭ってまだ成仏しとらへんのけ?しつこいやつやなあ 最近まで鎌倉の頼朝の墓を島津家が管理してたってのは初めて知った 政子って,結局自分の子や孫も見殺しにして,
頼朝の血筋を途絶えさせたよね 豊臣秀頼も鹿児島に落ち延びた伝説があるよな
地の果てのイメージなのかな >>35
大屋政子は没落した金持ちの娘が父親ほど年の差がある男に身請けされる
APAホテルの社長は進学校に通ってたが家庭の事情で大学に行けず、
高卒で信用金庫に就職して同じく高卒就職の旦那と知り合う 楊貴妃の墓やキリストの墓よりはまだ自然だな
山梨なんて信玄の墓が10か所くらいあるし 鎌倉の頼朝の墓が荒れ果てていたというが、徳川宗家は面倒見なかったのか
系図上は徳川も新田の末裔だかで源氏だろ 鹿児島も屈折してる
よく見たら千葉や石川と同じ半島県だし >>41
当時は神格としての分祠の意味もあったんでないの >>27
会津も関ヶ原から260年、幕末に至ってもまだ関ヶ原の恨みとかやっていた薩摩長州に言われたくはないだろう
大体薩長を恨みたいのは真面目に戦った西軍諸将で、上杉なんか毛利や島津に文句の一つも言いたいところだ >>43
頼朝自体が源義重をあまりよく扱ってないだろう 島津家は分家が本家を乗っ取ってるし人気がある義弘を当主だった事に偽装してるしやりたい放題 >>43
記事にある島津初代忠久の墓も荒れ果ててるな >>49
島津が薩摩入りしたのは鎌倉に任命されてから結構後だし
それまでは惟宗名乗ってたし
かなり歴史をコリエイトしてる 頼朝の下半身がゆるすぎるからこういう説が生まれてしまうのである
頼朝は反省するべき >>30
ちょうど良かった俺のミニトマトの自慢を聞いてくれ
真夏のサビダニとの死闘とか >>4
いや、この話、結構有名だよ
北条政子が物凄く嫉妬深くて、頼朝の妾が身籠ると、殺そうとしたって言われてる
その時の子が島津家の先祖とする話だから 頼朝公ご幼少のみぎりのしゃれこうべもあるくらいだし墓のひとつやふたつくらい今更 >>46
江戸時代も幕府から過酷な仕打ちを受けてたぢゃないか
忘れるわけねーだろww >>43
誰もそんな話信じてない
松平家は奥三河で林業やってた普通の日本人だぞ 政子とお江与って側室や子どもに関して面白い結果を残しているよね >>58
幕府「ふざけんな!琉球使って密貿易、奄美諸島でさとうきび栽培で暴利貪ってる連中なんだから公儀の手伝い普請位問題ないんじゃ!」
薩摩「おまえらこそふざけんな!うちの藩は米が作れる場所が少ないんじゃ!実高が表高より少なくてお前言ってたこと含めてもかつかつなんじゃ!」 もともと藤原の殿上人たちに地面にかしずいてたのが源氏や平氏
なんだかね
成り上がって天狗に乗ったのが源平の歴史と言える 惟宗氏は大陸系
それを乗っ取った分家は百済系
日本人要素ゼロなんですけど? >>62
武家の世界じゃ、藤原姓は二流
源氏でも清和源氏以外は二流 >>27
ワイは大震災の時の知事同士のやり取り見て可哀想と思ったけどなぁ
普通あんな状態の人にあんな態度出来んで
まさにいじめっ子のそれやったやん? よく源平藤橘なんて言われ方するが
藤>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>源>>平>>>>橘
家の格からしてこうじゃないかね 将軍になるには源氏の血筋が必要だから
家系を買ったり、話を捏造したりもいたんだろ 鎌倉の頼朝の墓
25年くらい前に行った
手書きで「たまにはお線香くらいあげたらどうですか」と墓に紙がぶら下がってたのが忘れられない >>71
その四家の内で源平藤は各地に色々と○○州○○家とかあるけど楠家はあまり聞かないよね 小学校のPTA役員やってた時、「うちは家系図が有って○天皇の末裔」って人がいて、別の人も「うちも!△天皇の末裔」って言い出したっけ テキトーすぎる。
島津は関白家近衛家の荘園、
庄内領の地頭だった縁で朝廷と近く、
その縁で明治維新を主導した
と言うのが定説だろうが。 島津家は近衛家と歴史も古い。前久の子信尹が薩摩へ島流しされた時も庇護したのも薩摩島津。篤姫も近衛家に養女に行ってから嫁いだ気がする。 >>69
他の藤原は知らんが将門様を討った藤原秀郷流は代表される武家の一流だろうが
奥州三代もそうだしな
坂東な関東の諸大名は藤原北家の流れが多いよ
東北の伊達家もそうか 島津の戦は日本の戦い方ではなく中国のそれ
日向・都於郡と豊後・府内、2つの国府を住民もろとも完全に破壊してるからね
府内での犠牲者は約7万人。東にある鶴崎城に逃れようとする無抵抗の住民を執拗に襲撃してる
都於郡に至っては城主が逃亡して城下町は降伏したのに囲んで皆殺しにして完全破壊したので被害規模は不明 >>66
東北は飢饉の被害が一番多く、
薩摩以上にカツカツだったから薩摩と東北、
どっちが庶民に苛烈か何とも言えないよね
ただ、東北は保守的な藩が多いから
薩長だけでなく幕府内で薩長と組んで
幕藩体制を清算を図った連中にも
良い感じは持って無いだろう
逆に薩長側にも徳川だけ倒して幕藩体制は
存続させたい派もいたし >>75
橘家は祭祀の方に行ったと思う
そんで政治は藤原で武力は源平か
藤原も武家に派生した家は多いけど >>83
東北では幕末の頃に飢饉続きで人肉食ってたって話はマジなんだろうか? >>1
これがなんか変に伝わったのでは?
>鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝より、
元暦2年(1185年)忠久はわずか6才[5]で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、
薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。
文治5年(1189年)には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10才で従軍している。
忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、
建仁3年(1203年)頼朝亡き後起こった比企能員の変に連座し一時、守護職を失うことになるが、
後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。
日本書紀では海彦の子孫なんで隼人族は有力な武家 >政子の怒りを恐れた局が鎌倉を離れて生んだ子が初代島津という説も・・・
ありえんよ。歴史の研究や解釈は学問の自由だが、荒唐無稽の作り話は許されんよ。 >>71
でもないかな
藤原は関白が最高位だが奥州藤原みたいに滅びたのもあるし、
五摂家は藤原の末裔なのだが
近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順[注釈 1])
有名なとこでは秀吉がなれてしまう
源氏は清和源氏、宇多源氏、村上源氏などがあるが
征夷大将軍は河内源氏からしか出てない
清和源氏はその一派
藤原が圧倒的としながら名跡継げてないからな >>83
当時は寒冷地向けのコメじゃなかったからね
陸奥が一番の石高で、次に加賀、
そのあとは上野と武蔵になる
富山新潟は米所ではない 将門様が好きなんだがそれは
京に首を晒されてその首が毎晩呪いの言葉をしゃべったとか
宙を飛んで坂東の地を目指したとかの伝説をよく聞くけど
そういう超人オカルト的なの信じてないが
時の政府や為政者に呪いの言葉をかけても
堂々と戦った藤原秀郷には一言も恨み言を言った形跡がない
これが武人なんだなーと感嘆したわ 日本史にいくつかある残念ポイントの1つだな
平家滅亡 源氏から関白摂政という人臣の最高位に登った者って過去に居たかな?
征夷大将軍にせよ所詮は殿下人の番犬扱いだよ 清和源氏や桓武平氏じゃ藤原鎌足まで遡る藤原の皇室への貢献歴史が違いすぎ
いわゆるポット出だろ >>94
逆に言うと清和天皇、桓武天皇の代まではバリバリの皇室だったんたぞw あんま藤原をナメんな
藤原というか中臣の始祖は天孫降臨時に一緒に降りたメンバーの一人な
知っての通りで天児屋根のみこと
中臣鎌足が一命をとして中大兄皇子を皇位につける革命行動は
後からポット出した桓武平氏や清和源氏ごときと一緒にされるゆわれがないわ
キューバ の英雄チェ・ゲバラほどその国のその後を決死で決めた英雄だぞ 日本の歴史が始まったったのは中臣鎌足の決死の行動から
この国の父祖と言っていい
源氏とか平氏とかポット出の殿上にも上がれん風情が何を言い出すんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています