上毛新聞 3/28(月) 10:32

戦国武将の石田三成は関ケ原の合戦で敗れた後、沼田に落ち延び、僧となった―。正行院(群馬県沼田市宇楚井町、木村年尓住職)に残るこんな伝承を知ってもらおうと、北群馬甲冑(かっちゅう)工房(吉岡町北下)代表の吉沢洋紀さん(40)がSNSなどを通じて独自の調査結果を発表し、三成のイラスト入り記念印を作成するなど情報発信に取り組んでいる。

 通説では三成は関ケ原の合戦で徳川家康に敗れ、現在の京都市内で斬首された。一方、1959年出版の旧薄根村(現沼田市)の村誌によると、三成は敗戦後、飛騨高山を経て現在の長野県に入り、妻同士が姉妹関係ともされる真田昌幸との縁で昌幸の父、幸隆が再建した正行院に落ち着き、寺の第22世住職になったとされる。

 吉沢さんは群馬県ゆかりの戦国武将をモチーフに「御城印」を製作する活動を通じて伝承を知り、昨年9月、木村住職の協力を得て、正行院で三成のものと伝わる位牌と墓を調査。位牌の裏には三成を指すとされる「石田治部少輔公」の文字があり、22世の墓と伝わる墓石にも小さく「石田」と刻まれていることを確認した。

 伝承を県内外に広く発信しようと、調査結果をインターネット上で紹介し、「群馬御城印プロジェクト」名義でツイッター上に投稿している。三成のイラストをあしらった同寺の訪寺記念印を作り、御城印などを扱う「松之屋」(同市西倉内町)で販売している。

 吉沢さんは「400年以上前の出来事で伝承の真偽は正確には分からないが、真実だとしたら歴史が塗り替わるようなすごいこと。わくわくする」と話す。

 利根沼田地域の歴史に詳しい郷土史家の金井竹徳さんは、みなかみ町に石田姓が多い地区があることを指摘した上で、「石田家は真田家と親戚であり、三成本人は来ないにしても、側室や子どもなど、一族の流れをくんだ人が頼って来たことは考えられる」としている。

https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/f5ee3cf184989042463a481a7cd20524bf3f15ec&preview=auto
「石田治部少輔公」との表記がある位牌と並ぶ吉沢さん
https://i.imgur.com/WwJY4r7.jpg