presidentonli e4/11(月) 18:16

江戸幕府3代将軍・徳川家光は、幼少のころから病弱で、周囲からは愚鈍と見られていた。だが、初代将軍・家康は家光に家督を継がせた。歴史研究家の河合敦さんは「当時はまだ、長子相続は確立していなかった。このため家康はあえて家光を将軍に指名することで、家督争いを避け、徳川幕府を安定させる狙いがあった」という――。

■「心身に難あり」と思われていた幼少期の家光
 徳川家光は、慶長9年(1604)に2代将軍・徳川秀忠の次男として生まれた。
 家康は孫の誕生を大いに喜び、自分の幼名である竹千代の名を与えた。やがて家光は、三代将軍に就いて将軍の権威を高め、幕藩体制を整備して徳川政権を盤石にするという大きな功績を残した。
 家光が誕生する3年前、秀忠には長丸という長男が生まれたが夭折(ようせつ)し、家光誕生時にはこの世にいなかった。しかも家光の母は、秀忠の正室・お江だから、彼が将軍に就くのは当然だと思うだろう。しかし、もともと家光は、将軍になる予定の人物ではなかったのである。
 当時はまだ、長子相続は確立していなかったのだ。確かに長男が家督を継ぐケースが多かったが、「才覚ある者が跡継ぎにならねば家の存亡にかかわる」という戦国の遺風がまだ残っていた。ゆえに、「心身に難あり」と判断された者は嫡子から排除された。
 幼少年期の家光は、ほとんど言葉というものを発せず、家臣に声をかけてやることもなく、何を考えているかわからない子供だった。端から見ても愚鈍に見えたのだろう。
 しかも、生来の病弱だった。たとえば、3歳のときに医師も匙を投げるほどの大病をしている。このときは家康が調合した薬で奇跡的に回復するが、26歳のときには疱瘡(ほうそう)(天然痘)を煩い、乳母の春日局が病気の回復を願って「一生薬絶ちをする」と誓うほどの重篤な病状に陥っている。その後も眼病、頭痛、瘧(おこり)などたびたび体調を崩した。

■実母の寵愛を受けていたのは弟の国松だった
 また、これは巷説だが、少年時代から家光の性愛の対象は男性だけだったといわれ、好んで化粧し、その姿を鏡に映してうっとりしていたという。これでは後嗣の誕生は期待できない。こうしたことから、跡継ぎには不適格だと思えたのかもしれない。
 だから秀忠は、家光の2歳年下の同母弟の国松(のちの忠長)を後継者にしようとした。家光にくらべて愛くるしく、賢く思えたからだ。なにより、母のお江が溺愛していた。
 家光が乳母(春日局)に養育されたのに対し、国松はお江自身が育てたので、情が移ったのだろう。秀忠という人は大変な恐妻家で、お江にはまったく頭が上がらない。そのため、国松の将軍継承を望む彼女の要望を受け入れたのかもしれない。

■秀忠夫妻は国松を跡継ぎにしようとしたが…
 繰り返しになるが、同母兄を差し置いて次男が家督を相続することはタブーではなかった。そもそも秀忠自身、家康の三男であった。
 長兄の信康はすでに死去しており、次兄の秀康は、秀吉の養子だったので後嗣にはなれなかった。そういった意味では、秀忠夫妻は、国松を跡継ぎとすることに抵抗感はなかったはず。
 しかし、国松の家督相続は、祖父の家康によってはっきりと拒否された。
 きっかけは、両親に敬遠され、家臣に軽んじられた12歳の家光が、世をはかなんで自殺をくわだてたことにあった。これを知って驚いた春日局が、思いあまって駿府の家康のもとへ赴き、家光を将軍にしてくれるよう直訴したとされる。

■家康が家光を3代将軍にしたワケ
 そこで家康は、わざわざ江戸へ出向き、秀忠に対して「家光が16歳になったら、彼を連れて上洛し、三代将軍にするつもりだ」と述べた。また、秀忠夫妻に「おまえたち二人が家光を嫌い、国松に家督を継がせようとするなら、私は駿府に家光を招いて我が子となし、3代将軍とする」と伝えたともいう。
 それからまもなく家康は死去するが、こうした家康の強い意志によって、家光は将軍になることができたのである。

※続きはリンク先で
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徳川家光像(写真=CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
https://i.imgur.com/BELlE75.jpg