2022.06.02

科学の成果が、歴史を裏付けた
藤田 達生歴史学者

「通説」を「科学」の視点からくつがえして大反響を呼んだ『日本史サイエンス』は、このほど第二弾が刊行され、たちまち重版が決まるなど話題となっている。著者の播田安弘氏が試みる「数字」で歴史を読む手法は、専門家もその意義を認めるところで、
なかでも織豊期研究の第一人者・藤田達生氏(三重大学教授)は、同書(第一作)で展開された「中国大返し」についての大胆な仮説におおいに共感し、ここに掲げる論考を執筆した。旧暦では本能寺の変から440年目にあたるきょう、改めて公開する。

藤田氏自身、最新著『戦国日本の軍事革命』では信長・秀吉らの天下統一を火器と兵站システムに注目して読み解く新視点を展開しており、いま、戦国時代研究は新しいフェーズに入った!
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95480






実際の行程を推定してみる

本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。



(写真)
6月5日~13日、高松から山崎まで8日間で走破した「中国大返し」の行程図(筆者の推定)


『日本史サイエンス』第2章「秀吉の大返しはなぜ成功したか」において著者の播田安弘氏はこの行軍を、読者が理解しやすいよう、約30kmをコンスタントに8日間歩いたという想定のもとで難易度を科学的に考察している。

ただし実際の中国大返しは表に示したように、備中高松から秀吉の本城だった姫路城(兵庫県姫路市)までの前半と、姫路城から山崎までの後半では、異なる性格をもっていたと考えられる。


(写真)
中国大返しでの日ごとの移動距離と宿営地


前半は、毛利軍の追尾を警戒して2~3日間で92kmを走破するという猛烈に速い進軍だったのに対し、後半は、明智光秀側の動きもにらみながら慎重に行軍している。たとえば、光秀と親しい土佐の長宗我部元親の摂津上陸を阻むため、別動隊が淡路を攻撃したのは効果的だった。

筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。





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