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【歴史】日本史最大のミステリー「邪馬台国論争」のユニークな新説 「邪馬台(やまたい)」ではなく「邪馬壹(やまとぅ=大和)」 ★6 [樽悶★]
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0001樽悶 ★
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2022/07/20(水) 17:00:52.82ID:JkDZ1+RD9
 「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。

■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う

 だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。

 『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。

 邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。

 「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。

 使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。

 実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。

 本書では、ここでユニークな仮説を立てている。

わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)

 つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。

 本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。

 では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。

 本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。

 本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。

 ◇

 邪馬台国はどこにあったのか。

 おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。

 この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部)

2022.07.16 15:00
https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html

★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1658212626/
0002ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:01:33.71ID:egl+Yg+V0
金印(笑)
0006ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:02:37.71ID:yi3CsrWB0
何故伸びる?
0007ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:02:45.88ID:0iaEuyGk0
奈良みたいな内陸のクソ田舎に邪馬台国なんてあったのかね
常識から言っておかしいと思わなきゃ
0008ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:03:17.57ID:2I6dft5J0
やまたいこく

から

やまと

がネーミングされたと思ってたが今さらなのか
0010ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:06:04.49ID:mEwIRx1C0
>>3
というか繋がってると思いこんでるのがおかしい

大和朝廷も中国の記録も両者に繋がりがあるなんて言ってない
大和朝廷の始祖は神武天皇で卑弥呼も台与も関係ない
中国も両者の系譜を別と考えてる

歴史的、考古学的には奈良にあった邪馬台国が大和朝廷に取って代わられた形になる
0011ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:07:32.04ID:K9o6d+jK0
納豆(なっとぅ)
0013ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:11:24.89ID:zEO9k3lp0
九州だよ
0014ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:11:38.20ID:DdZer0FA0
壹馬壹
0015ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:11:56.48ID:TwBeMgad0
春日が↓↓↓
0016ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:13:13.25ID:H4BhCH1G0
古代日本は興味ある
色々解明されて欲しい
0020ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:14:48.93ID:zEO9k3lp0
邪馬台国が中国と交流があって、金印を貰ったことがあるから
畿内大和が邪馬台国の後継を僭称した

僭称することによって日本列島での正当な国家であることを中国に納得させやすい
0021ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:14:51.88ID:tN4n5oTp0
じゃっぷ
台国でいいよこんな国
0023板野に居たの
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2022/07/20(水) 17:15:17.97ID:F97NSls+0
ライターが無知なだけで、新説でも、なんでもないんだが。
0025ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:15:52.27ID:maRmdHW20
少なくとも時代は一致する古墳とか物証ある畿内説と、
福岡にあった、大分にあった、宮崎にあったと適当な九州説が議論されるのが不思議だわ
0026ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:15:55.12ID:SRoUuI4A0
もう九州で良いよ
毎度基地外が発狂するから
0027ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:17:33.98ID:zEO9k3lp0
短里とか放射説はキチガイ理論
そんなの利用しなくても九州説は成立するのにね
0028ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:18:11.90ID:pu26PJEJ0
東征した神武のひい爺さん
【筑紫城・倭奴國】の何代目かの国王(漢委奴国王)の大綿津見神(豊玉彦)を始祖とするのは安曇氏

神武東征後の大和王権の航海を担った
【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とするのは宗像氏

ここからも

東征前に奈良にあったのが
出雲を併合した邪馬台国・親魏倭王

ということがわかる
0030ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:20:11.24ID:mEwIRx1C0
>>20
上でも書いたけど後継なんて言ってない

むしろ積極的に無視してる
神功皇后の所も要は「王じゃない」と言ってる
中国も繋がってるなんて考えてない
別政権扱い

なぜか「大和朝廷が邪馬台国の後継を名乗ってる」とか変な事言う人が多いよな
0031ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:21:27.74ID:GDBkN+BC0
>>12
ダメだ、カルト宗教の教祖が、
自分は邪馬台国の一族の子孫とか言い出すからな。
0032ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:25:51.94ID:zEO9k3lp0
>>30
邪馬台国と大和王権が別物だと認識できてるならそれでいいよ
0033板野に居たの
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2022/07/20(水) 17:25:56.55ID:F97NSls+0
邪馬台国九州説は、江戸時代、新井白石や本居宣長らが提唱した設定で、大陸に屈辱的な朝貢を行って金印を下賜された国は、
今の朝廷とは無関係な、九州の地方政権である、と言うことで、始まった。

倭の五王も朝貢してるけど、朝鮮半島の権益を認めさせてるので、それはオッケーなんだとか。
0035ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:28:59.29ID:GDBkN+BC0
>>3
邪馬台国の卑弥呼(ヤマトのヒミコ)は
倭姫命(ヤマトのヒメミコ)で、
一族から神功皇后を輩出し、
大和朝廷とも関連が深い。
0036ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:29:05.24ID:KG8eI64N0
狛江だよ
0038ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:29:34.12ID:zEO9k3lp0
>>33
普通に読めば九州だからなぁ
結果的に正解しただけだろう
0039ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:30:20.90ID:zEO9k3lp0
ヒメミコヒメミコ言う奴がウザすぎるwww

そんなの誰でも一度は思いつくんだよ
0041ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:30:41.69ID:hrtTSiN70
ジャマダイだろどう考えても
0043ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:32:31.08ID:pu26PJEJ0
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は、三貴子とはいうものの

父は伊邪那岐神だけれども、母は???で

神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)により追い出され

天照大神は奈良に、月読命は死亡、須佐之男命は出雲に、伊邪那岐神も淡路に転封させられる

この

天之御中主神から始まる九州筑紫城
中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國から追い出された

伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が作った
母が誰かがわからない一族が、邪馬台国・親魏倭王
0047ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:34:34.57ID:5ASXbzvk0
邪馬壺だったのか
0048ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:35:07.01ID:cNnkzOfF0
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C

九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。
大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある。

井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している[19][20][21]。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。

神籠石
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3
また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。

古代の日本の中心はやっぱり九州だね
0049ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:35:25.00ID:cNnkzOfF0
旧唐書
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8

「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。

小国の日本が倭国を併合したという説があるね
当時の天皇は神の子孫だと主張するカルト国家だったから、前の国の業績も自分のものに取り込んでいるかもしれない
0051ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:36:00.15ID:o+y78Pzb0
やまとぅーーーーーっ!!!
0052ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:38:01.25ID:7smKlVcP0
東征は九州の権力争いに負けて近畿まで逃げた
そのあとヤマトタケルが九州を征伐して
「ヤマト」の名前と銅鏡を奪って行った
0053ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:38:25.87ID:osDz+qLJ0
いまだに見つからないなら全部作り話だったんじゃないの?だから敢えて方角がおかしいんだよ
0055ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:40:03.57ID:pu26PJEJ0
伊邪那美神の死後に産まれた
天照大神、月読命、須佐之男命は、三貴子とはいうものの
父は伊邪那岐神だけれども、母は???で

神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた
【正統な後継者】大綿津見神(豊玉彦)により追い出され
天照大神は奈良に、月読命は死亡、須佐之男命は出雲に、伊邪那岐神も淡路に転封させられる

この

漢委奴国王の【正統な後継者】大綿津見神(豊玉彦)により
天之御中主神から始まる九州筑紫城、中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國から追い出された

伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が作った
母が誰かがわからない一族が邪馬台国連合

その女王が「親魏倭王」なんかになっちまったもんだから、そりゃあ
天之御中主神から始まる九州筑紫城、中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國は、

討伐するために東征するわな
0059ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:41:30.21ID:GDBkN+BC0
>>43
イザナギ、イザナミは奴国の王と女王と考えられる。
遺跡で言えば須玖岡本遺跡だ。
というのは、出雲の荒神谷遺跡の主が、
スサノウだと考えられるため、
コレが前二世紀のため、
前二世紀の奴国=高天原の王は、
須玖岡本遺跡の主だからである。
で、天照大神は、同時期の巫女の墓、
三雲井原遺跡の主と考えられる。
で月読命は恐らく玉垂宮の主で、
月齢によって、有明海の干潮を管理し、
玉垂宮の港を管理した。
0062ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:45:11.16ID:885C138U0
>>1
> 魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます
問題が解けるんじゃなくてお前の都合が良くなるだけ
嘘だと仮定した場合に自分の説の弱点が解消されるから嘘に間違いない、って頭が悪すぎる
0066ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:46:56.48ID:sWJ87LYq0
万葉集(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ
古事記(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ
日本書紀(中古音) 夜摩苔 jĭa muɑ dʱɑ̆i
隋書倭国伝(中古音) 邪靡堆 jĭa mie̯ tuɑ̆i
魏志倭人伝(上古音) 邪馬壹 jĭa ma dʱɑ̆i
0068ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:47:11.39ID:GDBkN+BC0
また、卑弥呼の死亡時期と同時期に
築造されたと考えられている、
祇園山古墳と伊都国平原遺跡は、
殉死がそれぞれ確認され、
また、平原遺跡からは、
魏から贈られた方格規矩四神鏡が、
多数見つかっており、
邪馬台国と伊都国の関係の深さを物語っている。
0070ニューノーマルの名無しさん
垢版 |
2022/07/20(水) 17:47:54.38ID:QpoglLhf0
クォムロ・ォケイと同レベル
0071通りすがりの一言主
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2022/07/20(水) 17:48:09.08ID:C8B7focS0
道に迷ってるうちに方角も距離もおかしくなっちゃいましたテヘペロ
0075ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:52:56.53ID:GDBkN+BC0
魏より派遣された張政は、
実に19年も滞在し、
狗奴国との戦いで一定の役割を果たしたと考えられ、
地理を間違える様な事は想定できない。
0076ニューノーマルの名無しさん
垢版 |
2022/07/20(水) 17:52:57.31ID:cWPyTTrz0
当時の情勢

・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年)

・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀)
 言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
 朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕


(346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。
『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。
歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。
またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。

(369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。
4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、
史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕

(413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、
東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。
南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。

(7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。国号を「日本」と改める。
0078ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:53:13.51ID:/ClXDlA90
>>66
これが正解だと思う
どっから持ってきたのこれ?
0079ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:54:11.14ID:cWPyTTrz0
神功皇后の三韓征伐(4世紀後半)について

・中国側の視点
 宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、
 南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。

・朝鮮側の視点
 朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
 また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

・高句麗側の視点
 広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。

・日本側の視点
 日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。
 391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
 いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。
 高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
 402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。
0082ニューノーマルの名無しさん
垢版 |
2022/07/20(水) 17:55:28.20ID:cWPyTTrz0
卑弥呼の時代(3世紀中頃)

狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。

・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。

・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。

・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。
0084ニューノーマルの名無しさん
垢版 |
2022/07/20(水) 17:56:35.12ID:cWPyTTrz0
韓国の欲知島新石器時代個体はmt-M7aで、これは結局縄文人女性が普通に九州から半島に渡っていた傍証になる

https://www.kyushu-u.ac.jp/f/46087/21_11_26_02.pdf

>韓国の欲知島Yokchido遺跡出土の女性人骨のDNAが95%縄文という結果が得られた。
>年代は新石器時代中期、紀元前3500―2000年と推定される。
>九州と韓国の間、黒曜石や貝製品などの交易が縄文時代にあったことは考古学的な調査で既にわかっていたが、DNA分析で証明できたことは重要である。

>また、従来の考古学者はこの縄文時代の日韓交易は男性を中心とした漁猟集団が行ったと考える研究者が多いが、
>欲知島遺跡の縄文系人骨は女性 であったことから、男性と女性の両方がこの交流に参加したと考えられる。

半島に住む縄文人と大陸北部から南下して来た華北との混血が初期の渡来系弥生人
弥生初期の福岡新町遺跡では、大陸式の支石墓(ドルメン)に完全な縄文人(在来系弥生人)が埋葬されていたことから
ぽつぽつと渡来する少数の渡来系弥生人を圧倒的数で勝る在来系弥生人が受け入れながら共生する様子が伺える。
0085ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:57:40.34ID:cWPyTTrz0
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif


また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg


有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう

鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの


免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する
0087ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:58:16.54ID:JXCQ+b3b0
>>37
都合が悪いから、江戸時代の皇国思想家が
邪馬台国は大和ではない、九州の蛮族だとか言い始めた
本居宣長なんかは九州の熊襲がヤマトを偽り勝手にシナに朝貢しやがったに違いないとか言ってた

それ江戸時代より前の公家とかの解釈では、邪馬台国=ヤマトだろって感じだった
0088ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:58:34.78ID:GDBkN+BC0
>>80
奈良盆地は大物主の國造以前の未開の地で、
荒神谷遺跡の銅剣とも無関係。
0089ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 17:58:55.48ID:cWPyTTrz0
考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白
https://i.imgur.com/l9G4Wk2.jpg

伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれた
特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった
0090通りすがりの一言主
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2022/07/20(水) 17:59:46.79ID:C8B7focS0
豚骨ラーメンの屋台この屋台ってどう読むんすかね?
0092ニューノーマルの名無しさん
垢版 |
2022/07/20(水) 17:59:54.77ID:cWPyTTrz0
纏向を発掘した当事者である関川氏も畿内は違うと仰っている

考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku335.htm
> 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生)
> ・出土品と大陸系遺物の存在
> これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。
> 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。

> (2)纒向遺跡の実態
> ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】
> 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の
> 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。
> 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。
> 大陸系の土器が出てこない。
> 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。
> 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F
> 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、
> 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。
> 概略
> 1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。
> 石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、
> 古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。
0093ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 18:00:45.19ID:pu26PJEJ0
大和王権の航海を安曇氏の変わりに担った宗像氏は
【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とする

ここからも

東征前に奈良にあったのが
出雲を併合した邪馬台国・親魏倭王

ということがわかる
0094ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 18:03:05.17ID:pu26PJEJ0
>>89
大和王権の航海を安曇氏の変わりに担った宗像氏は
【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とする

考古学的に見ても文献的に見ても
大和王権の海人族の最大勢力・出雲王安が伊都王家なのは明白
0097ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 18:06:15.00ID:IKn+bx/d0
𐰖𐰆𐰍𐰲𐰃:𐰾𐰃𐰍𐱃𐰲𐰃:𐰇𐰭𐰼𐰃:𐰰𐰇𐰤:
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チーナなんか出てこないんだよなw
0098ニューノーマルの名無しさん
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2022/07/20(水) 18:06:52.90ID:GDBkN+BC0
>>93
全く意味不明。
東征以前に奈良にあったのは、
ニギハヤヒとナガスネビコの
鳥見族の国だぞ。
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