参院選折り返しの7月初めの休日。東京都多摩市、カップルや家族連れが行き交う京王多摩センター駅前で、真っ黒に日焼けした候補者の男性が大きく手を振っていた。
この地に全く縁はなく、足を止める通行人はいない。男性は構わずマイクを握り、語り出す。
「国に対する思いと私に対する期待を込めて、私の名前を書いてください。どうか、よろしくお願いします」

 名は、河村建一氏(46)という。

全国比例に立候補した自民党公認候補。自民大勝の陰で、涙をのむ結末を見た。
全国比例は、業界団体の組織内候補や、タレント、スポーツ選手など知名度のある候補が圧倒的に優位とされるが、この男性はいずれにも当てはまらない。
選挙後、自民のベテラン国会議員は唇をかみしめた。「国会議員としての資質、識見、人脈も、どれも十分すぎるほどある。
人柄だって申し分ない。それなのに、あまりに非情すぎる。二階俊博先生が幹事長だったら、こんなことにはなっていなかった。これじゃ、まるで“流浪の民”じゃないか-」

(中略)

 建夫氏から、「世襲はないぞ」と言われ続けてきた。だが、建一氏は心のどこかで「父はいつか、自分に道を開いてくれるだろう」との期待を抱いていた。
それに見合う人間になろうと、地道に努力も積んできたつもりだった。
淡い思いは昨年、建夫氏と林芳正氏(現外相。宏池会所属)が、衆院山口3区の自民党公認を巡り衝突した「長州戦争」で雲散霧消した。

 7月、参院議員だった林氏は将来の総理総裁のイスを目指すため、10年越しに念願していた衆院くら替えを決断。
地元・山口県下関市を中心とする衆院山口4区は安倍晋三元首相とバッティングすることから、くら替え先に建夫氏の選挙区、3区を選んだ。
「二階派の重鎮かつ元官房長官」VS「宏池会の総裁候補の一人かつ閣僚経験者」-。大物同士の公認争いは、いやが上にも世間の耳目を引いた。

 当初、分があったのは建夫氏。「公認は現職優先」の党原則に加え、安倍、菅義偉両政権にまたがって幹事長に君臨する二階氏という絶対的な後ろ盾があった。
だが、9月に菅首相が突如退陣を表明し、直後の自民党総裁選で宏池会トップの岸田文雄氏が後継者の切符を射止めると文字通り、風向きは一変した。
二階氏が去った党本部が出したファイナルアンサーは、林氏=公認、建夫氏=政界引退と引き換えに息子の建一氏を比例代表で処遇。
権力構造の変化が、冷徹に裏打ちされたものとなった。

 主戦論を唱える建夫氏サイドからは当然、反発の声が上がった。建夫氏自身も、政治家としての出処進退は有権者の投票判断に委ねたい、との思いがあったという。
「楽天家の父があそこまで苦悩する姿を見るのは、人生で初めてだった」と建一氏。それでも、父は最後は、小選挙区で自民系の候補同士が争うのはよくないとして、党裁定を受け入れた。

 建一氏は比例中国ブロックで公認されたが、もう一波乱が待っていた。自民党山口県連が、建一氏を「県連と何ら関わりのない候補」などとする文書を党本部に送りつけたのだ。
そのような煮え立った状況では、票を積み上げることなどおぼつかないのは自明の理。建一氏は衆院選公示直前のタイミングで、立候補する比例ブロックを、無縁の北関東ブロックに変更されてしまう。

 21年10月31日に投開票された第49回衆院選は、北関東ブロックの次点に沈んだ。

 失意の底にあった建一氏だが、党から参院選の全国比例区に出ないかと打診され、応じることにした。「全国区なら、故郷の山口で選挙活動に取り組める」との思いもあったからだ。しかし-。

 衆院選のしこりは深く、12月に自民山口県連会長である岸信夫防衛相に県連入りを直談判したものの、認められず。
さらに県連は参院選比例代表で、現職の別の候補者を重点候補として決定。建一氏はやむなく、党東京都連に身を寄せる形となった。
建夫氏に近い山口県の地元議員は「林氏を支援する県議たちが、河村家を排除しようとしている。地元には河村親子に共感する声もあるが、反撃の流れをつくりだせないでいる」と明かす。

(全文はソースにて)
https://news.yahoo.co.jp/articles/ea0236c7b3e8ea1eb2436b4e46af54cdd6c83b49?page=2